今世界に白人主体の国家ではないが、英語を公用語にしている国は10カ国以上にな るでしょう。多くの国は英語を話す白人の植民地支配を受けました。しかしそれだけ ではなく、多くの国が多民族国家で、一部の幸運な例外をのぞいて、共通語を持って いないと言う、厳しい現実があります(ついでながら、これらの新興国で一国も共通 語にエスペラントが採用されなかった理由をどう考えておられるのか、エスペランチ ストの本多氏に伺ってみたいものだと思います。これは余談)。世界でますます英語が実質上の橋渡し語として多用されるようになってきている近 代/現代において、言語的少数者である多民族国家が公用語として英語を採用するの は、少しでも言語的優位に立とうする戦略だろうと思います。そして、このように言 語的少数者たちが、言語的優位に立とうとして英語を取り入れることによって、英語 話者がますます有利になり、非英語話者がますます不利になるという悪循環があると 思います。
* エスペラントは母語話者がいないということによって、橋渡し語としての中立性を 保障する言語なので、仮に多民族国家がエスペラントを公用語に採用したとしても、 それをそのまま母語化するようなことが起きてしまうと、もはやエスペラントの中立 性は失われてしまいます(これに対しては、最初が中立でさえあれば、将来的に世界 でエスペラントへの母語化/融合が起きても構わないとする考えもありますが、私は それには反対です。この問題についての私の考えは、「エスペラントへの疑問」 に書いています)。 一方で、英語を母語としない多民族国家においては、国家内の特定の民族の言語を 公用語とするよりは英語を公用語にした方が平等だという考えがあります。その国家 内だけしか見ないのであれば、確かに英語は中立語として機能し得るかも知れません が、世界規模で見た場合には、世界に英語母語話者がいる以上、英語は中立語にはな り得ません。そして、英語を公用語とする国家が増えることは、ますます英語国家を 有利にし、ますます非英語国家を不利にするでしょう。本多氏は自著の中で、中立性を根拠にエスペラントを国際共通語として適している と宣伝しています(しかも、エスペラントがヨーロッパ語寄りであるという点に触れ た上で、英語よりは遙かに「まし」であるという扱いであったと思います)。この態 度に関する限り、私は特に本多氏の考えが間違っているとは思いません。
また、発音や文法が似通った言語(方言)を話している多言語国家が、それらの言 語(方言)に共通する発音や文法とは全く異なった発音や文法を有する英語を公用語 にすると、その国民は英語の習得のために膨大な時間と労力を割かなければならない ことになります。そして、英語を十分に習得できない者が損をしたり差別されたりす る状況も生まれることでしょう。
その意味では、発音や文法が似通った言語(方言)を話している多言語国家におい ては、それらの言語(方言)の最大公約数として共通語が作られるのが理想なのだと は思います。しかし実際問題として、そうした国家が旧宗主国語や英語を公用語に採 用しない場合には、その国家内の力の強い民族の言語(方言)を下地にして共通語が できてしまうことが多いのでしょう(日本国内の例として、どのような言語が共通語 に適しているかということについての私の考えは「現行の国内橋渡し語のこ とを敢えて「標準語」とか「東京日本語」と書く理由」に書いた。尤もアイヌ語 や手話のことは念頭に置いていないが)。
* 尤も、そのような特殊な状況が生じる可能性が全くの幻想という訳でもないと思い ます。例えば、EU では、21000 職人中 6000 人だかが通訳で、EU 予算の 34% が翻 訳や通訳の費用に使われていることが問題になっているそうです。かといって、18% の英国人だけに有利な英語を公用語にすることには強い反対があり、議員 626 人中 120 人がエスペラントに好意的なそうであります(まあ、過半数にも達してはいませ んが)。今日、国家間の橋渡し語としては実用性のないエスペラントでも、個人どうしの国 際交流の目的には十二分に実用性を発揮しています。それに価値を認めるかどうかは 別として、文通、電子メール、無線、海外家庭滞在、国際的な大会などなどを通じ て、世界各地のエスペランチストたちが、言わば言葉の壁のない「草の根交流」を楽 しんでいます(そういう意味で、エスペラントは「国際語」ではなく「民際語」だと 言うエスペランチストもいます)。確かにエスペラントの場合、国家が関与する以前 に、世界各地の個人どうしが既に実用しているということに価値があるのだと私は感 じています (エスペラントの旅行記の類は何冊か 出版されているが、電網上で読めるものとしては例えば、 「けいちゃんのエスペラント旅行記」)。
アフリカにはアフリカ英語があり(国によってすこしや違いがあるでしょうが、アフ リカ諸国で話される英語には特有の癖のようなものがあります)、アメリカにもオー ストラリアにも、特有の英語があり、当然「ティーム」の発音にも違いがあります。 日本が公用語に英語を採用する可能性はまずないでしょうが、もしそうなれば日本英 語があって良いのです。そう言われると、確かにそうなのかも知れませんが、実は私は次のような好意的な 解釈で読んでいました(今となっては特に本多氏の肩を持つつもりはありません が)。「チームのチをティに読み替えたところで、音韻やアクセント、発声法の違い などまで考慮したら、所詮、英語(これは確かに女王様英語だけを想定しているのか も知れませんが)の原語の発音には程遠いのである。チをティに変えたところで、ど うせ原語の発音からは程遠いのに、どうしてわざわざ変える必要があろうか」と。そ れはともかく、私自身もかつては「下手な英語を使いやがって」というさげすみの心 に毒されていた時期があり(例えば「英語崇拝からの脱却」の頁に、私が過去に晒し た 恥ずかしい記事を置いてある)、今ではその反動で、「下手な英語」をさげすむ ような態度に、逆に過敏に反応するようになりました。そこで、ちょっと西村さんの 「一言」で引っ掛かったところがあります。日本に住んで立派な共通語である日本語がありながら、英語を使いたがる連中は植民 地主義に毒された家畜だと憤る心の底に、「下手な英語を使いやがって」というさげ すみの心がないのか。「俺は正しい英語を知っている」という倒錯した植民地主義が 本多氏に潜んでいるのではないか。本多氏に確認したいところです。
それが先日不思議に夜遅くま で(といっても8時30分だが)起きていて、安室奈美恵の新曲を聴いた、というの か見たと言い換えた方がいいかした。どうして日本人が英語を間違うことを恥ずかしいと思う必要があるのでしょう。何 が目的であれ(英語の響きで歌をかっこよくしようという程度の取るに足らない目的 であればなおのこと)、英語を母語としない日本人が英語を間違って使うのは、起き るべくして起きるごく当然のことだと思います。しかも、西村さんも言う「アフリカ にはアフリカ英語があり」別に女王様英語だけが英語ではないという考え方を進めて いけば、他動詞に目的語を伴わない英語だって、立派な英語の方言の一つとして存在 しているかも知れません。あー、あー、又同じ間違いをしているよ。
産休に入る前よく流れた CAN YOU CEREBRATEは、聞いているこちらが赤面しそう なひどい曲だったが、今度の新曲も同じだ。
新曲 I HAVE NEVER SEENと前作 CAN YOU CEREBRATEは、全く同じ間違い、つまり目的語がないという間違いをしてい る。
「何もそんな重箱の隅をつつくようなことをいわなくてもいいじゃないか」 という人がいるかもしれない。でもそれは違う。
普通こちらが聞いていても CAN YOU CEREBRATEで文章がとまると、ひどく気分が悪くなる。
日本人が CAN YOU CEREBRATE と聞いたら、「お祝いできますか?」と意味をとり、違和感がないかも しれない。でも英語の構造からいうとそうはならない。
「お祝いできますか?」 何を?何を?
あえて日本語に直すと「をお祝いできますか」となる。
I HAVE NEVER SEEN も同じように「を」から始まる言葉になるのだ。
このように、日本 語と英語という、異なった言葉の構造を無視して「翻訳」を試みる、そしてあえて英 語を母国語とする人に見てもらわない、和製英語病の根は深い。
* 因みにエスペラントでは他動詞の目的語となる名詞の語尾に「-n」をつけることで 目的格を表す(つまり、日本語の「を」に相当)ので、語順がかなり自由である。つ まり、「を」が動詞の内部に含まれている訳ではなく(そのためかどうかは知らない が)、他動詞は必ずしも目的語を取らなくても構わない。>このように、日本語と英語という、異なった言葉の構造を無視して「翻訳」を試み る、
CAN YOU CEREBRATE
cerebrate という英単語は「頭を使う」という自動詞らしいので、これは celebrate の間違いであろう。尤も、これは、それを歌った歌手の発音が悪かったせいであるか も知れないが、「お祝いできる」の意味として取っている以上、西村さんも意味の上 では celebrate を想定しているのだろう。ところが、研究社のリーダーズ英和辞典 によると、celebrate には「祝典を催す」という自動詞もあるようなので、これは 「あなたは祝典を催すことができますか」の意味になり特に問題はないのではないか と思われる。因みにエスペラントには「(祝典を)催す」という意味の celebri と いう動詞があるが、これは「他動詞」である。「festo-n(祝典-を)」を目的語とし てエス訳を書けば、
C^u vi povas celebri feston ?
となるが、目的語のない
C^u vi povas celebri ?
も許容される表現である。但しこのときの celebri が自動詞扱いされているという 訳ではない。
>「静かに」という英語は何だ、SILENTLYだ。昔の職場の隣が若戸大橋という自動車道だった。
この橋に、よせばいいのに英 語の看板が立っていた。
SILENTLY !と書いてあったので、私は思わずこけそうに なった。
「静かに」という英語は何だ、SILENTLYだ。 どこかの偉いさんがそう自信満々に書いたのだろうが、それこそ赤っ恥 であった。
SILENTLYは助動詞である。これには命令の意味も、動作の意味も含ま れていない。さらに、もしこれが DRIVE SILENTLYのつもりだとしても、それでも奇 妙なことはかわらない。
SILENTとは音がしないことという意味である。自動車が 音を全然立てないで走行することは不可能なのだ。
このような場合、普通では KEEP QUIETとかく。英語を母国語にしている人ならばそう間違いなく書く、と思う、 とやや腰砕けになってしまうが、おそらくそうだろう。
10年ぐらい前に、仕事で出かけた先で泊まったホテルのパンフレットなどをチェック して、その英語表記の間違いを収集したことがあった(なんて暗い趣味だろう 【笑】)。これは、主に綴りとか文法の間違いのことを指しているのかも知れませんが、それ にしても、この「外国人」というのが、何語を母語とする人たちを想定しているのか によって、事情は変わってくると思います。英語民族の言語習慣を反映した「正し い」慣用語を駆使した英語は、しばしば非ヨーロッパ圏の「外国人」にはかえって分 かりにくかったりします。まあ、「Keep quiet !」が非ヨーロッパ人にとって 「Silently !」よりも分かりにくいかどうかは知りませんが、少なくとも、 「Silently !」と書いてあるのを見て「静かに!」の意味だと分からなかったり、あ るいはとんでもない誤解をしてしまう人なんているのでしょうか。仮に、英語が 「Keep quiet !」を「Silently !」にした程度で大きな誤解を生んでしまう危険性を 有する言語だとすれば、そんな言語は国際橋渡し語にはとてもでないが不適格だと思 います*。ほとんど7〜8割に大きな間違いがあった。
なぜこんな間違いが起 こるのだろうか。
まずこうした英語表記が、本気で外国人のためにつくられたも のなのかが、怪しいということがある。
横文字で高級そうに見せたいという点に関してはその通りかと思いますが、 RESUTORAN という表記が果たしてその「典型」かどうかは疑問です。「RESUTORAN」 はちゃんとしたローマ字表音表記の「日本語」です。「レストラン」を外来語として 定着した日本語と考えるならば、ラテン文字を読める外国人のために「レストラン」 をローマ字で表記してあげたのだと考えることもできます。日本国内で英語なり仏語 なりの RESTAURANT を原語に忠実な発音で発音されても、そのような日本語でない単 語は日本人には極めて通じにくいでしょうが、「RESUTORAN」を読んでもらえば十分 に日本語の「レストラン」の意味で通じるでしょう。横文字で書いていたら、何となく「舶来」で高級そうに見えるという目くらまし 効果ねらい。これなら正確さを気にしなくてもいい。
私の住む町に約30年前に あったレストランには、丁寧に”RESUTORAN"と書かれた看板があった。これなどはそ の典型だろう。
まず「本多氏が『ティーム』を罵った理由については、日本語での会話に英語風の発 音を持ち出す『家畜』をブッ叩きたかったからでしょう。カタカナ語として『チー ム』が日本語の単語になっている現状で、なぜ英語風の『ティーム』なのか、と」と 言う部分はその通りだと思います。ただし彼の場合「家畜語」に対して反感を持つ基 準が、きわめてご都合主義的であり、たとえば「ノー・ゴルフ・国際フォーラム」の ほうは素どおりすることも指摘したとおりです。東京山手方言の音韻の範囲内で発音しやすい日本語として既に定着している英語か らの外来語(チーム、シート等)を、英語の発音に近い新たな外来語(ティーム、 スィート等)に置き換えていこうとするNHKの態度は、私も滑稽だと思っていま す。NHKが倣おうとしている英語の発音自体が、ラテン系の言語から大量に輸入し た外来語を英語の音韻に馴染むように大幅に「訛らせた」ものに過ぎないのだから *、日本人は日本語の音韻に馴染むように「チーム」であれ「シート」であれ独自に 「訛らせた」発音を日本語の単語にしてしまえばいいと私は思います(私もかつて は、原音に忠実なのが良いと思っていた時期がありますが、田中克彦等を読んで考え が変わりました。私の「英語崇拝からの脱却—— フィ、ヴェ、ティ等の表記を避ける理由」に関連事項)。さらに、いわゆる「カタカナ 語」と「家畜語」の間の境界線も、本多氏の基準が揺れていることからもしれるよう に、必ずしも明瞭ではあり得ません。たとえばNHKはかなり以前から「レポート」 を「リポート」というようになっています。私たちが子供の頃は「globe」は「グ ローブ」でしたが、いまではより家畜度の高い「グラブ」になっています。
しかも日本語という言語に及ぼす英語の影響は「チーム」と「ティーム」のようなわ かりやすい例にとどまりません。私たちは日本語の音は、「ん」をのぞき、必ず子音 +母音で構成されると信じてきました。しかし必ずしもそうではなくなっています。 たとえば「スチーム・アイロン」のスチームは訓令式のローマ字ではsuti^muですが 実際の発音はsti^mになっています。母音が落ちているのです。また「キング・コン グ」の「コング」は鼻音の「ng」として発音している人が多くなっています。母音を伴わない「ス、シ、グ、ギ、フ、ヒ等々」や鼻濁音の「ガ」行(「カ゜」 行)は、東北では既に大和言葉の発音に普通に使われています(多かれ少なかれ関東 でもそうでしょう)。これらは別に英語の影響という訳ではなくて、「スチーム」や 「キング」を近似して取り込む際の方言の音韻が元々そうなっていたということでは ないでしょうか。例えば有名な例では「タイガー」の「ガ」の発音は東北(や関東 ?)と関西では昔から明らかに違っていたと思います。