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 後藤文彦です。

以下は HTML 形式で書いていますが、それで具合が悪い場合は知らせて下さい。

 西村さんの発言の多くは、関心させられながら共感しつつ読んでおりますが、言語 に対する西村さんの発言には時々、共感しかねる部分がありました。意見を書こうと すると長くなりそうなので、ずっと保留しておりましたが、「安室ちゃんには恨みは ないが」を読んで、どうも引っ掛かったので書いてみることにしました。非常に長く なってしまいましたので、お暇なときにでも(そんな暇がもしあればですが)、読ん で戴ければ幸いです。尚、関連する私や他の人の頁にもあちこちにリンクを張ってあ りますが、これはあくまで「参考」ということであって、リンク先まで読むことを要 求するものではありません。


共通語に採用されないからエスペラントは無意味か
今世界に白人主体の国家ではないが、英語を公用語にしている国は10カ国以上にな るでしょう。多くの国は英語を話す白人の植民地支配を受けました。しかしそれだけ ではなく、多くの国が多民族国家で、一部の幸運な例外をのぞいて、共通語を持って いないと言う、厳しい現実があります(ついでながら、これらの新興国で一国も共通 語にエスペラントが採用されなかった理由をどう考えておられるのか、エスペランチ ストの本多氏に伺ってみたいものだと思います。これは余談)。
 世界でますます英語が実質上の橋渡し語として多用されるようになってきている近 代/現代において、言語的少数者である多民族国家が公用語として英語を採用するの は、少しでも言語的優位に立とうする戦略だろうと思います。そして、このように言 語的少数者たちが、言語的優位に立とうとして英語を取り入れることによって、英語 話者がますます有利になり、非英語話者がますます不利になるという悪循環があると 思います。

 さて、多くの多民族国家が英語を公用語に採用しているのは、単に英語が広く普及 しているからであって、英語が学習容易であるからでもなければ、中立であるからで もないでしょう(英語が広く普及した理由にしても、植民地支配の支配言語としてで あって、英語の学習容易性や中立性のせいではないでしょう)。

 一方、多民族国家がエスペラントを公用語*に採用しないのは、単にエスペラント が広く普及していないからであって、エスペラントが学習困難であるからでもなけれ ば、非中立であるからでもないでしょう(エスペラントの使用者が世界110数ヶ国に いるという意味では、「広く」は普及しているけれでも非常に密度が低いというのが 正確かも知れません)。
* エスペラントは母語話者がいないということによって、橋渡し語としての中立性を 保障する言語なので、仮に多民族国家がエスペラントを公用語に採用したとしても、 それをそのまま母語化するようなことが起きてしまうと、もはやエスペラントの中立 性は失われてしまいます(これに対しては、最初が中立でさえあれば、将来的に世界 でエスペラントへの母語化/融合が起きても構わないとする考えもありますが、私は それには反対です。この問題についての私の考えは、「エスペラントへの疑問」 に書いています)。  一方で、英語を母語としない多民族国家においては、国家内の特定の民族の言語を 公用語とするよりは英語を公用語にした方が平等だという考えがあります。その国家 内だけしか見ないのであれば、確かに英語は中立語として機能し得るかも知れません が、世界規模で見た場合には、世界に英語母語話者がいる以上、英語は中立語にはな り得ません。そして、英語を公用語とする国家が増えることは、ますます英語国家を 有利にし、ますます非英語国家を不利にするでしょう。

 また、発音や文法が似通った言語(方言)を話している多言語国家が、それらの言 語(方言)に共通する発音や文法とは全く異なった発音や文法を有する英語を公用語 にすると、その国民は英語の習得のために膨大な時間と労力を割かなければならない ことになります。そして、英語を十分に習得できない者が損をしたり差別されたりす る状況も生まれることでしょう。

 その意味では、発音や文法が似通った言語(方言)を話している多言語国家におい ては、それらの言語(方言)の最大公約数として共通語が作られるのが理想なのだと は思います。しかし実際問題として、そうした国家が旧宗主国語や英語を公用語に採 用しない場合には、その国家内の力の強い民族の言語(方言)を下地にして共通語が できてしまうことが多いのでしょう(日本国内の例として、どのような言語が共通語 に適しているかということについての私の考えは「現行の国内橋渡し語のこ とを敢えて「標準語」とか「東京日本語」と書く理由」に書いた。尤もアイヌ語 や手話のことは念頭に置いていないが)。
 本多氏は自著の中で、中立性を根拠にエスペラントを国際共通語として適している と宣伝しています(しかも、エスペラントがヨーロッパ語寄りであるという点に触れ た上で、英語よりは遙かに「まし」であるという扱いであったと思います)。この態 度に関する限り、私は特に本多氏の考えが間違っているとは思いません。

 多くの多言語国家がエスペラントではなく英語を公用語に採用したからといって、 エスペラントの中立性が否定される訳でもなければ、英語が中立だということにもな らないということについては前述した通りです。

 エスペラントが国家間の橋渡し語として使われていない現在、複数の国家が同時に エスペラントを橋渡し語として使う取り決めをするというような特殊な状況*でも起 きない限り、国家がエスペラントに実用性を認めることはないでしょう。
* 尤も、そのような特殊な状況が生じる可能性が全くの幻想という訳でもないと思い ます。例えば、EU では、21000 職人中 6000 人だかが通訳で、EU 予算の 34% が翻 訳や通訳の費用に使われていることが問題になっているそうです。かといって、18% の英国人だけに有利な英語を公用語にすることには強い反対があり、議員 626 人中 120 人がエスペラントに好意的なそうであります(まあ、過半数にも達してはいませ んが)。
 今日、国家間の橋渡し語としては実用性のないエスペラントでも、個人どうしの国 際交流の目的には十二分に実用性を発揮しています。それに価値を認めるかどうかは 別として、文通、電子メール、無線、海外家庭滞在、国際的な大会などなどを通じ て、世界各地のエスペランチストたちが、言わば言葉の壁のない「草の根交流」を楽 しんでいます(そういう意味で、エスペラントは「国際語」ではなく「民際語」だと 言うエスペランチストもいます)。確かにエスペラントの場合、国家が関与する以前 に、世界各地の個人どうしが既に実用しているということに価値があるのだと私は感 じています (エスペラントの旅行記の類は何冊か 出版されているが、電網上で読めるものとしては例えば、 「けいちゃんのエスペラント旅行記」)。

 本多氏は、恐らくエスペラントを会話や読み書きができるほどに習得しているとは 思えないので、実際に外国人との交流にエスペラントを用いた際の実用性を体験して いる訳ではないでしょう。だから、本多氏はエスペラントの「民際語」としての実用 性の方に関しては、特に著作の中でも触れていないのだと思います (それでも本多氏は、「エスペラントの普及に関わる人」という意味での「広義の」 「エスペランチスト」の範疇には入るのかも知れません)。

 さて、それはともかく、仮にエスペラントに「民際語」としての実用性すらなかっ たとしても、「中立な橋渡し語が必要だ」という動機に基づくエスペラント普及の運 動が無意味だとは私は思いません。今日までの社会で、現実に言葉による不平等/差 別が存在する以上、その不平等/差別の存在を周知させ、その不平等/差別を是正す る方法を提示し続けることには十分な意義があると私は思います。



安室氏の歌に苦言を呈すのは 「下手な英語を使いやがって」ではないのか
アフリカにはアフリカ英語があり(国によってすこしや違いがあるでしょうが、アフ リカ諸国で話される英語には特有の癖のようなものがあります)、アメリカにもオー ストラリアにも、特有の英語があり、当然「ティーム」の発音にも違いがあります。 日本が公用語に英語を採用する可能性はまずないでしょうが、もしそうなれば日本英 語があって良いのです。

日本に住んで立派な共通語である日本語がありながら、英語を使いたがる連中は植民 地主義に毒された家畜だと憤る心の底に、「下手な英語を使いやがって」というさげ すみの心がないのか。「俺は正しい英語を知っている」という倒錯した植民地主義が 本多氏に潜んでいるのではないか。本多氏に確認したいところです。

 そう言われると、確かにそうなのかも知れませんが、実は私は次のような好意的な 解釈で読んでいました(今となっては特に本多氏の肩を持つつもりはありません が)。「チームのチをティに読み替えたところで、音韻やアクセント、発声法の違い などまで考慮したら、所詮、英語(これは確かに女王様英語だけを想定しているのか も知れませんが)の原語の発音には程遠いのである。チをティに変えたところで、ど うせ原語の発音からは程遠いのに、どうしてわざわざ変える必要があろうか」と。そ れはともかく、私自身もかつては「下手な英語を使いやがって」というさげすみの心 に毒されていた時期があり(例えば「英語崇拝からの脱却」の頁に、私が過去に晒し た 恥ずかしい記事を置いてある)、今ではその反動で、「下手な英語」をさげすむ ような態度に、逆に過敏に反応するようになりました。そこで、ちょっと西村さんの 「一言」で引っ掛かったところがあります。  
それが先日不思議に夜遅くま で(といっても8時30分だが)起きていて、安室奈美恵の新曲を聴いた、というの か見たと言い換えた方がいいかした。

あー、あー、又同じ間違いをしているよ。

産休に入る前よく流れた CAN YOU CEREBRATEは、聞いているこちらが赤面しそう なひどい曲だったが、今度の新曲も同じだ。

新曲 I HAVE NEVER SEENと前作  CAN YOU CEREBRATEは、全く同じ間違い、つまり目的語がないという間違いをしてい る。

「何もそんな重箱の隅をつつくようなことをいわなくてもいいじゃないか」 という人がいるかもしれない。でもそれは違う。

普通こちらが聞いていても CAN YOU CEREBRATEで文章がとまると、ひどく気分が悪くなる。

日本人が CAN YOU CEREBRATE と聞いたら、「お祝いできますか?」と意味をとり、違和感がないかも しれない。でも英語の構造からいうとそうはならない。

「お祝いできますか?」 何を?何を?

あえて日本語に直すと「をお祝いできますか」となる。

I HAVE NEVER SEEN も同じように「を」から始まる言葉になるのだ。

このように、日本 語と英語という、異なった言葉の構造を無視して「翻訳」を試みる、そしてあえて英 語を母国語とする人に見てもらわない、和製英語病の根は深い。

 どうして日本人が英語を間違うことを恥ずかしいと思う必要があるのでしょう。何 が目的であれ(英語の響きで歌をかっこよくしようという程度の取るに足らない目的 であればなおのこと)、英語を母語としない日本人が英語を間違って使うのは、起き るべくして起きるごく当然のことだと思います。しかも、西村さんも言う「アフリカ にはアフリカ英語があり」別に女王様英語だけが英語ではないという考え方を進めて いけば、他動詞に目的語を伴わない英語だって、立派な英語の方言の一つとして存在 しているかも知れません。

 それに、英語を国際的な橋渡し語として利用することを「必要悪」として妥協する 場合、仮に他動詞が目的語を取らなくても構わない英語の方が、ヨーロッパ語を母語 としない人には非常に扱いやすい*といった事情があるとすれば、英語の使用を強制 される側が「目的語を伴わない他動詞」を確信犯的に使ってみせるくらいの抵抗をし たっていいと思ってしまいます。
* 因みにエスペラントでは他動詞の目的語となる名詞の語尾に「-n」をつけることで 目的格を表す(つまり、日本語の「を」に相当)ので、語順がかなり自由である。つ まり、「を」が動詞の内部に含まれている訳ではなく(そのためかどうかは知らない が)、他動詞は必ずしも目的語を取らなくても構わない。

CAN YOU CEREBRATE
cerebrate という英単語は「頭を使う」という自動詞らしいので、これは celebrate の間違いであろう。尤も、これは、それを歌った歌手の発音が悪かったせいであるか も知れないが、「お祝いできる」の意味として取っている以上、西村さんも意味の上 では celebrate を想定しているのだろう。ところが、研究社のリーダーズ英和辞典 によると、celebrate には「祝典を催す」という自動詞もあるようなので、これは 「あなたは祝典を催すことができますか」の意味になり特に問題はないのではないか と思われる。因みにエスペラントには「(祝典を)催す」という意味の celebri と いう動詞があるが、これは「他動詞」である。「festo-n(祝典-を)」を目的語とし てエス訳を書けば、
C^u vi povas celebri feston ?
となるが、目的語のない
C^u vi povas celebri ?
も許容される表現である。但しこのときの celebri が自動詞扱いされているという 訳ではない。
>このように、日本語と英語という、異なった言葉の構造を無視して「翻訳」を試み る、
>そしてあえて英語を母国語とする人に見てもらわない、和製英語病の根は深い。

 英語を国際的な橋渡し語として利用することを「必要悪」として妥協する場合、 「あえて英語を母国語とする人に見てもらわない」でも情報伝達が可能な言語である かどうかが、橋渡し語としての重要な要件になるでしょう。これは、次に書くことと も関連しますが、英語母語話者にしか判断できないような民族語に特有の用例集 (「この場合は、こうは言わずにこう言うのが普通」といった用例の集積)に従った 英語しか使ってはいけないのだとしたら、そんな英語が使いこなせる域に達するに は、膨大な時間と労力を費やしてなお難しいし、その域に達しない人は常に英語母語 話者に英語を見てもらわなければ英語を使えないことになってしまいます。そんな言 語が橋渡し語として適格だとはとても私には思えません。

 学術論文などを書く際に、英語を橋渡し語として使っている以上、「あえて英語を 母国語とする人に見てもらわない」主義の学者もいるし、私もその態度に賛成です。 学者たちが、その本業の研究に支障のない範囲内で学習した英語力で書いた英語で は、英語母語話者に見てもらわないと情報の伝達に使えないのだとしたら、ますます 英語は橋渡し語に不向きな言語だということになるでしょう。

昔の職場の隣が若戸大橋という自動車道だった。

この橋に、よせばいいのに英 語の看板が立っていた。

SILENTLY !と書いてあったので、私は思わずこけそうに なった。

「静かに」という英語は何だ、SILENTLYだ。 どこかの偉いさんがそう自信満々に書いたのだろうが、それこそ赤っ恥 であった。

SILENTLYは助動詞である。これには命令の意味も、動作の意味も含ま れていない。さらに、もしこれが DRIVE SILENTLYのつもりだとしても、それでも奇 妙なことはかわらない。

SILENTとは音がしないことという意味である。自動車が 音を全然立てないで走行することは不可能なのだ。

このような場合、普通では  KEEP QUIETとかく。英語を母国語にしている人ならばそう間違いなく書く、と思う、 とやや腰砕けになってしまうが、おそらくそうだろう。

>「静かに」という英語は何だ、SILENTLYだ。

これは別に間違いだとは私は思いません。silently という英単語は「静寂に」 「黙って」などを意味する副詞だと思います。日本人に安易に思いつくであろう 「Silently !(静かに!)」「Be silently !(静かにあれ!)」「Be silent !(静 かであれ!)」などなどの表現は、別に文法的にも論理的にもおかしいとは私は思い ません。英語母語話者が仮にそれらの表現を使わないのだとして、それは単に英語民 族の言語習慣の問題ではないでしょうか。単に「静かに!」と言いたいだけなのに、 「Silently !」「Be silently !」「Be silent !」などは「間違い」で、「Keep quiet !」と言わなければならないというようなことを、ありとあらゆる表現に対し て覚えなければならないことが正に英語の難しさの一つでしょう。因みにエスペラン トでは、文法的な間違いをしない限り、上の例に対応するどんな表現をしても構わな いし、更には今まで地球上のどの民族も思いつかなかったような表現を発案しても構 いません(文法にかなってさえいれば、あとは通じればいいのです)。それに「Keep quiet !」にしたって、「運転者が黙ってさえいれば、車の方はいくら音を立てても 構わない」のように誤解される余地はある訳です(そもそも、発言者の意図が完璧に 誤解なく伝わる表現などというものはないでしょう)。
10年ぐらい前に、仕事で出かけた先で泊まったホテルのパンフレットなどをチェック して、その英語表記の間違いを収集したことがあった(なんて暗い趣味だろう 【笑】)。

ほとんど7〜8割に大きな間違いがあった。

なぜこんな間違いが起 こるのだろうか。

まずこうした英語表記が、本気で外国人のためにつくられたも のなのかが、怪しいということがある。

 これは、主に綴りとか文法の間違いのことを指しているのかも知れませんが、それ にしても、この「外国人」というのが、何語を母語とする人たちを想定しているのか によって、事情は変わってくると思います。英語民族の言語習慣を反映した「正し い」慣用語を駆使した英語は、しばしば非ヨーロッパ圏の「外国人」にはかえって分 かりにくかったりします。まあ、「Keep quiet !」が非ヨーロッパ人にとって 「Silently !」よりも分かりにくいかどうかは知りませんが、少なくとも、 「Silently !」と書いてあるのを見て「静かに!」の意味だと分からなかったり、あ るいはとんでもない誤解をしてしまう人なんているのでしょうか。仮に、英語が 「Keep quiet !」を「Silently !」にした程度で大きな誤解を生んでしまう危険性を 有する言語だとすれば、そんな言語は国際橋渡し語にはとてもでないが不適格だと思 います*。

* 現に何年か前にアメリカだかで、仮装した日本人の高校生だかが他人の家に訪問した 際、「動くな!」を意味する民族特有の寛容表現で「Freeze !(凍れ!)」と言われ たが、「Please.(どうぞ)」と聞き間違えて入ろうとして撃たれて死んだという事 件があった。これなどは、英語という民族語を橋渡し語とする際に起こり得る危険の 具体例の一つではないかと私は思う。

横文字で書いていたら、何となく「舶来」で高級そうに見えるという目くらまし 効果ねらい。これなら正確さを気にしなくてもいい。

私の住む町に約30年前に あったレストランには、丁寧に”RESUTORAN"と書かれた看板があった。これなどはそ の典型だろう。

 横文字で高級そうに見せたいという点に関してはその通りかと思いますが、 RESUTORAN という表記が果たしてその「典型」かどうかは疑問です。「RESUTORAN」 はちゃんとしたローマ字表音表記の「日本語」です。「レストラン」を外来語として 定着した日本語と考えるならば、ラテン文字を読める外国人のために「レストラン」 をローマ字で表記してあげたのだと考えることもできます。日本国内で英語なり仏語 なりの RESTAURANT を原語に忠実な発音で発音されても、そのような日本語でない単 語は日本人には極めて通じにくいでしょうが、「RESUTORAN」を読んでもらえば十分 に日本語の「レストラン」の意味で通じるでしょう。



訓令式ローマ字表記は不合理な表記か
まず「本多氏が『ティーム』を罵った理由については、日本語での会話に英語風の発 音を持ち出す『家畜』をブッ叩きたかったからでしょう。カタカナ語として『チー ム』が日本語の単語になっている現状で、なぜ英語風の『ティーム』なのか、と」と 言う部分はその通りだと思います。ただし彼の場合「家畜語」に対して反感を持つ基 準が、きわめてご都合主義的であり、たとえば「ノー・ゴルフ・国際フォーラム」の ほうは素どおりすることも指摘したとおりです。

さらに、いわゆる「カタカナ 語」と「家畜語」の間の境界線も、本多氏の基準が揺れていることからもしれるよう に、必ずしも明瞭ではあり得ません。たとえばNHKはかなり以前から「レポート」 を「リポート」というようになっています。私たちが子供の頃は「globe」は「グ ローブ」でしたが、いまではより家畜度の高い「グラブ」になっています。

 東京山手方言の音韻の範囲内で発音しやすい日本語として既に定着している英語か らの外来語(チーム、シート等)を、英語の発音に近い新たな外来語(ティーム、 スィート等)に置き換えていこうとするNHKの態度は、私も滑稽だと思っていま す。NHKが倣おうとしている英語の発音自体が、ラテン系の言語から大量に輸入し た外来語を英語の音韻に馴染むように大幅に「訛らせた」ものに過ぎないのだから *、日本人は日本語の音韻に馴染むように「チーム」であれ「シート」であれ独自に 「訛らせた」発音を日本語の単語にしてしまえばいいと私は思います(私もかつて は、原音に忠実なのが良いと思っていた時期がありますが、田中克彦等を読んで考え が変わりました。私の「英語崇拝からの脱却—— フィ、ヴェ、ティ等の表記を避ける理由」に関連事項)。

* 英語が多くのラテン/ギリシャ系外来語を大量に輸入した言語に過ぎないことは西 村さんも指摘していますが、原語では素直なローマ字読みである単語を英語ではこと ごとく「英語読み」にしてしまいます(「エネルギー」を「エナジー」とか)。その 結果、ラテン系の高級語を保有するヨーロッパ語の中でも、英語はラテン系の高級語 の読み書きの習得が最も困難な言語ではないかと思います。
しかも日本語という言語に及ぼす英語の影響は「チーム」と「ティーム」のようなわ かりやすい例にとどまりません。私たちは日本語の音は、「ん」をのぞき、必ず子音 +母音で構成されると信じてきました。しかし必ずしもそうではなくなっています。 たとえば「スチーム・アイロン」のスチームは訓令式のローマ字ではsuti^muですが 実際の発音はsti^mになっています。母音が落ちているのです。また「キング・コン グ」の「コング」は鼻音の「ng」として発音している人が多くなっています。
 母音を伴わない「ス、シ、グ、ギ、フ、ヒ等々」や鼻濁音の「ガ」行(「カ゜」 行)は、東北では既に大和言葉の発音に普通に使われています(多かれ少なかれ関東 でもそうでしょう)。これらは別に英語の影響という訳ではなくて、「スチーム」や 「キング」を近似して取り込む際の方言の音韻が元々そうなっていたということでは ないでしょうか。例えば有名な例では「タイガー」の「ガ」の発音は東北(や関東 ?)と関西では昔から明らかに違っていたと思います。

 訓令式ローマ字を考案した人たちは、別に母音を伴わない子音のことを知らなかっ た訳ではなくて、単に合理的な日本語ローマ字表記を考案しようとしただけだと思い ます。だから、訓令式ローマ字は、別に多くの外来語の発音を忠実に再現することを 想定していた訳ではなくて、大和言葉を合理的にローマ字で表記できることを第一に 考えていたのではないでしょうか。

 母音の有無、濁音と鼻濁音の区別、更にはアクセントの位置まで表記できるような 徹底した表音表記を考案することも可能でしょうが、それで日本語を表記することは 「適度にいい加減な表音表記」である訓令式ローマ字で表記するよりも圧倒的に難し くなってしまうでしょう**。

 例えば、「うつくしい」とか「さくひん」を可能な限り表音表記しようとしたらど うなるでしょうか。まず、地方によって「つ、く、し、ひ」等を母音を伴って発音す るか伴わないで発音するかはまるで違うし、自分がどのように発音しているかを自覚 できる人も少ないでしょう。しかも、母音を伴わない「し」や「ひ」とは言っても、 「sh」や「h」とは違う訳で、微かな「i」の母音成分を含む訳です(音声学的には厳 密でない表現かも知れませんが)。そうすると、母音を伴わない「し、ひ」を「sh, h」と「shi, hi」の両者から区別するために新たな表記(例えば「sh!, h!」とか) が必要となる訳です。

 このように、自分がどのように発音しているかを自覚できないような部分にまで表 音表記を徹底されると、表音表記の方がかえって難しくなってしまうのです。山浦玄 嗣氏も自分の母語である「ケセン語」( 書籍「ケセン語入門」の紹介) の表記として、アクセントまでも区別するかなり徹底した表音表記のローマ字表記を 考案していますが、そのせいでむしろ習得が困難になっているのではないかと私は感 じます(そういう理由もあって、私は方言表記には表音性を犠牲にした漢字仮名交じ り文の方が適していると今のところ考えています)。

 それから、日本語表記がローマ字化されることはないと思いますが、仮に訓令式と かではなく徹底した表音表記のローマ字で日本語を表記されることになると、いわゆ る「標準語」話者といわゆる「方言」話者との不平等はますます拡大されると思いま す。

 例えば、現行の仮名表記では「うつくしい」や「さくひん」のような「ややいい加 減な表音表記」の中に収まっている各地の異なる発音は、徹底した表音表記ではすべ て異なった表記で表記されることになるでしょう。そうなると、「標準語」の表音表 記を用いることを強制される「方言」話者にとっては、それは「表音表記」ではな く、英語のような綴りを暗記する作業と同じことになってしまうのです。例えば、 「sakuhin」のように発音している関西の人(たぶん?)にとっては、「sakuhin」の ような訓令式ローマ字なら簡単に書けるでしょうが、東京山手方言の発音を表音で表 記した「sakh!n」のようなローマ字の書き方を覚えるのは至難の業でしょう***。

 日本人が日本語を喋る時、特に動詞の活用などを判断する時は、「し」を「さ行」 の第二音、「ち」を「た行」の第二音として捉えているのだから、「し」を「さ行」 の第二音「si」、「ち」を「た行」の第二音「ti」を表記する訓令式ローマ字は、 「さ行」「た行」の五段活用の動詞が不規則動詞になってしまうヘボン式ローマ字と かよりは、日本語の表記としては十分に合理的だと思います****。

**, ***, **** 因みに私は日本語のローマ字化には反対で、訓令式ローマ字にも不満 はあります。日本語の文字表記に対する私の考えは、 「漢字廃止論への疑問」に詳述しています。


GOTOU Humihiko (Niponio, Miyagi-ken, Sendai-si)
Mi scipovas riisman Esperanton kaj la Is^inomagian.
TTT-pag^o: (http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/)






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