アメリカ旅行記
(00/8/20-8/27 ロサンゼルス、サンフランシスコ)
デズニーランドの花火
目次
はじめに
訪米の本来?の目的
国際会議
例によって、「英語は難しい」という愚痴
デズニーランド
エスペランチスト
韓国料理
エスペラント アソシエーション
サンフランシスコ
雑感
続く?
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko
はじめに
00/7/20 から 7/27 まで、アメリカのロサンゼルスとサンフランシスコ
に行ってきた。
主要な目的は計算工学関係の国際会議に
出席することだが、
せっかくこんな遙か異国の地まで訪れる
ついでなので現地を視察(観光?)したり、
現地のエスペランチストと会ったりもしてきた。
今回の旅行にあたっては、学生さんを一人連れていった。
二年前に初めての海外旅行を経験した
旅慣れていない
私は、この学生さん(自分の発表はないので気楽)に
秘書役を頼もうと思っていたのだが、この学生さんも、それほど旅慣れている訳
でもなく、現地語(つまり英語とかロサンゼルスではスペイン語も)
を私以上に使いこなせる訳でもなく、
実際のところ、秘書役としては殆ど頼りにはならなかったが、
それでも、仲間がいることで
気の弱い私も幾分 気がラクにはなったので、まあ、いいだろう。
国際会議
「国際」会議とはいっても、
使用言語は英語のみで、通訳とかは一切なしである。
私が発表する予定の分科会の部屋では、
発表者に対して割と質問が出ていて、それなりに討議らしくなっていて、
発表者が(知識的にであれ、英語運用能力の問題であれ)返答に窮していると
座長が助け船を出してくれたり、
あるいは質問がなかなか出なかったりしたときも座長が手始めに
質問をして間を繋いでいるうちに他の人が質問をしたりと、
割と、会議の体裁をなしていたので、
私があまりその体裁を乱すようなことをするのもマズいかなあという気に
少しなってきた。
因みに私は、
文法的な間違いをあまり含まない書き言葉の朗読を聞かされるよりも、
かなりの文法的な間違いを含んでいても
話し言葉の方が「耳で」聞くぶんには
分かりやすいと考えているので(少なくとも日本語やエスペラントの講演や発表の場合は)、
発表原稿はわざと用意していかなかった(単に怠惰なだけでもあるが)。
まあ、こちらから一方的に英語を喋るぶんには、
自分の分かる表現だけを使えばいいからどうにかはなるけれど
(何回か発表練習をしておけば、それなりには流暢にはなってくるし)、
問題なのは、むしろ質問された時にその英語を聞き取れるかどうかということの方だ。
因みに私は、
アメリカ人とかが日常で話している英語は殆ど聞き取れないので、
質問されても相手が何を言っているのか分からない状況に陥るのはほぼ
確実なのである。
まあ、その時は、
「もっとゆっくり簡単な単語だけで言って下さい」
とでも言おうと思っていた。
ついでに、些細なことだが、私は
敬称の性区別をしたくない人間なので、
名前を呼ばれたときの
「サンキュー ミスター チェアマン」(男の議長さん、どうも)
という挨拶をどう避けるかということを思案していた。
「チェアマン」(議長。直訳は「椅子男」)に関しては、
昨今「チェアパーソン」(「椅子人間」)という性的に中立な
表現が使われるようになってきたからそれを使うにしても、
英語というのは依然ヘンな言葉で、
性的に中立な「……さん」を表す敬称がなく、ミスター(男に対する敬称)、
ミセス(既婚の女に対する敬称)、ミス(未婚の女に対する敬称)、
ミズ(女の未婚既婚を区別しないために最近 使われ始めた敬称)を
避ける方法が私には見当たらずに困っていた。
すると、多くの(主にアジア系の英語のあまり上手ではない)
発表者が堂々と
「サンキュー チェアマン」と
敬称ぬきで挨拶しているのを聞いた。
なるほど、その手があった。
仮に、敬称をつけない表現が英語として不自然であったとしても、
私は
国際交流の道具として英語を使わされる際には、
道具としての英語の不便さや英文化の不自然さの全てに服従する義理はない
という主義なので、「サンキュー チェアパーソン」でいくことにした。
さて、私の発表は、
予定通り、かなり文法的な間違いを含む話し言葉調の砕けた英語で
発表を済ませた。
で、質問の時間となった。
最初の質問者の英語は、
ロマンス語系(イタリア語系?)みたいな訛りはあるものの、
「なんか、こういう感じの図がありましたよねえ」
と言っているようだったので、
たぶん私が示したヘンな図のことだと思って
その図と思しき OHP を出したら、
その OHP の図のヘンな部分を指しながら
「この部分はどういうことが起きているのですか」
みたいなことを訊いてきたので、
取り敢えず説明することができた。
それに関連する質問を座長(日本人)がしてきたが、
この人の英語は実に明瞭で聞き取りやすいので、
それにも返答することはできた。
二人目の質問者の英語は、きつい中国語訛りでかつ早口で、
ところどころの専門用語が微かに判別できるものの、
文章としてはまるで理解できなかった。
私が、その専門用語から質問内容を推測して、
「**の場合は、どうなるかという質問ですか」
みたいに聞き返すたびに、
また早口で大量に聞き取れない文章を返答されて途方にくれていると、
座長も質問者に何度か訊き返して、
「**の場合についても、計算していますかという質問ですね」
みたいな感じで、
私が理解できる表現に質問内容を汲み取って言い直してくれたので、
それにはどうにか答えた
(尤も、その言い直された質問が、本当に質問者の訊きたかったことか
どうかは不明だが)。
三人目の質問者の英語は、
たぶん非ロマンス語系(例えばドイツ語とか)の訛りで、
単語どうしが互いにねっぱって
(リエゾンして)いて、
ベラベラと続けざまに話してくるので、
なかなか聞き取れなかった。
比較問題としては、先程の中国語訛りの英語よりは十倍ぐらい聞き取りやすかった
けれども、
2%聞き取れても、20%聞き取れても、所詮
質問内容を推測して補完するに必要な情報量には程遠いので、
これまた途方にくれていると、座長が
「すると、あなたは彼(私のこと)の手法では、
答えが求まらないという立場ですね」
みたいに質問者に確認していたので、
何について質問されているのかが微かに分かってきたところで、
一番前の席に座っていた日本人の知人が、
その質問(というか反論)の内容を日本語で説明してくれた。
簡単に言うと私の手法ではどんな計算をしても
正解は出ないと言っているということだ。
なるほど、質問内容はおおかた分かったものの私は、
質問者が反論らしきものをまくしたてるごとに、
「リアリー?(本当ですか?)」
と言うぐらいの反応しかできないでいる間に、
私の持ち時間は終わった。やれやれ。
さて、自分の発表が終わって気楽になった私は、
色々と他の分科会の部屋の発表も見に(聞きに)いってみたのだが、
会議の体裁をなしているとは言い難いような分科会もあった。
例えば、
英語のあまり得意でなさそうな非ヨーロッパ系の発表者が、
少なくとも私には極めて聞き取りの困難な英語で必死に発表し、
ひとしきり発表が終わると、
座長が「質問はありますか」と一言 言ってしばらく部屋を見回し、
質問がないとそのまま「ありがとうございました」と言って
次の発表に移るというのが続いているような部屋とか。
勿論、そうした発表の内容が、その部屋にいた誰にとっても
質問をするほどの関心を惹かなかったという可能性もあるし、
座長が、質問の出ない発表に自らが質問を切り出すことで
他の質問を喚起したりする必要はないと考えている可能性もあるとは思う。
ただ私の印象(邪推?)としては、
単に聴衆(や座長)が発表者の(「訛った」)英語をちゃんと聞き取れていないとか、
仮に聞き取れていたとしても、
質問してみようと思い立つだけの十分な英語力が自分にないとか、
仮に質問するだけの十分な英語力はあったとしても、
どうせ発表者がそれにちゃんと答えられるだけの英語力はなくて
ちぐはぐな応答が続くのが目に見えていると見積もって質問を
敬遠したりとか、そういうふうな「言葉の問題」が極めて大きいのではないかと
感じた。
つまり、この国際会議の使用言語である英語が、互いに言葉の違う
会議出席者たちの意志の疎通の道具として(言わば「国際語」として)
機能しているとはちょっと言えないのが実状ではないかと私は感じた。
そして、このように英語の運用能力の不足のせいで、
議論への参加の機会を実質的に失っている参加者たちは、
明らかに大きな不利・不平等を
被っているなあと改めて実感した
(それに、英語の苦手な者は、
発表原稿づくりや発表練習のためにも、
母語による発表の何倍もの時間と労力を割かなければならないし、
不自由な外国語だけで用を足さなければならないという
心理的な重圧にも堪えなければならない)。
あと、今回の国際会議で様々な国の人の様々な訛りの(私には)聞き取り困難な
英語を聞いていて、
「英語というのは非常に訛りに弱い言葉ではないか」
と思った。
勿論、これは私の聞き取り能力不足や、
私が英語の様々な訛りに慣れ親しんでいないことも大きな原因ではあろうが、
かなり母語訛りを引き摺っていても十分に通じるエスペラントなんかと比べてしまうと、英語は
(通じる範囲で)許容できる訛りの幅があまりにも狭過ぎると感じる。
これについては思い当たる理由はたくさんある。
まず英語は、区別しなければならない母音の数が多い。
単母音に限定し、
長音を除き、rの混じった母音とかも除いても約八個の母音がある。
世界の言語では、確か
「アイウエオ」の五音を母音にしている言語が最も多いから、
五個の母音ぐらいまでならおおかたの言語を母語とする者にとっても
発音し分け聞き分けることはできるだろうが
(因みにエスペラントも「アイウエオ」の五母音である)、
それ以上に母音が増えてくると、
その母音を発音し分ける十分な能力を持たない外国人は、
自分の母語の中に見当たる近い音の母音で代用することになる。
例えば、「アイウエオ」の五音を母音とする言語を母語とする人が、
英語の母音をこの五母音のどこかに近似して五母音だけで英語を
発音すれば、それだけでも英語はだいぶ聞き取りにくくなってしまう。
他にも、ここに書いたように、
英語は子音で終わる単語が多いので、
単語どうしが実にねっぱりやすく
(リエゾンしやすく)、
リエゾンする言語を母語とする人たちが
自分たちの流儀でリエゾンして発音してしまうと、
違う流儀の人たちには単語の区切れが分からなくなってしまう。
それに英語は単語ごとにアクセントの位置が違って
(例えばエスペラントだとどの単語も後ろから二番目の音節に
アクセントがある)いて、
アクセントの位置も単語の識別に大きな役割を果たしているけれども、
英語を母語としない人は、
全ての単語のアクセントを正しくは覚えきれないから、
アクセントの位置をちょっと違えて発音したりすると、ただ
それだけのことで英語母語話者にはまるで通じなくなったりする
(「
ブラ
ジル」とゆっくり何回 繰り返しても通じなくて、
試しに「
ブラジ
ル」と言ってみたら途端に通じるなんて、
あまりにも柔軟性がなさすぎる)。
この6年後にまた別の国際会議に参加したときの雑感を
ここに少し書いた。
デズニーランド*
ビッグサンダーマウンテン
* 「ディズニーランド」という表記を避けた理由は
ここ。
国際会議の会場となっているホテルの目と鼻の先
(徒歩で十分ぐらい)のところにデズニーランドがあったので、
暇を見て学生さんと話のタネに行ってみた。
私は日本のデズニーランドにも行ったことがなく、それ以前に
遊園地自体にあまり行ったことがなく、
加速度を感じる乗物や人混みもあまり得意ではないので、
なかなか「後学のため」?にもなるかも知れない。
入った感じは、まあ、遊園地で、夕方
なのに人がいっぱいいた。
車椅子の人が(街や通りで見かけるよりも)
いっぱいいるのが私の気にとまった。
尤も、これだけの人混みともなれば、全人数に対する車椅子の人の
分布密度自体は通常であっても、
単に車椅子が目に付くから多いと思えるだけかも知れないが。
車椅子の人は、
乗物に乗る順番とかも優先的に先にしてもらったりしているようだった。
日本のデズニーランドにも車椅子の人は
いっぱいいるのだろうか。
我々が乗った乗り物は、たぶん、
ビッグサンダーマウンテン、
カリブの海賊、
スターツアーズ、
スペースマウンテン、
ホーンテッドマンション、
あとゴーカートみたいなやつ。
スペースマウンテンの
加速度はちょっと尋常ではなかった
(私は声も出せずにひたすら歯を喰いしばって堪えていたが、
悲鳴をあげられる人というのは、
よほどの余裕があるのだろう。
しかも「キャー」みたいな金切り声の類いは、
意識的にそう発音しなければ無意識に出てしまうものではないし)。
デズニーランドの花火
暗くなってきたら、花火が上がりだした。
まあ、石巻の川開きの花火とかと比べてしまうと、
遊園地の敷地内で上げる花火は質/量ともに、
ちゃっちくてご愛嬌程度でしかないのだが、
入場客たちはは何故か歓声や奇声を上げたり拍手したりして
盛り上がっていた。
エスペランチスト
韓国料理
韓国料理
せっかくアメリカまできたのだから、
予め電便で連絡を取っておいた現地のエスペランチスト数人と会った。
以下、会った順に記す。
まずは、8/22(火)の夜。
ロサンゼルスのホテルで、
近所に住んでいるKさんと待ち合わせした。
Kさんは二、三十年前に韓国からアメリカに渡ってきて、
時計屋をやっているそうである。
私が、
「アメリカさ来たばりの頃は、英語でうんと苦労したんでねすか」
と訊くと、
「んだがら、あの頃は、さっぱり英語 喋れねくて、相手が何 言ってんのが
さっぱり分がんねくて、うんと苦労しした。
実は、今でも 英語はまだまだ完璧には使えでねんだよ。
まあ、そんでも日常の生活するぶんには支障ねぐなったげっと、
英語で難しい議論したりすんのは、今でも苦しいべな」
ということだった。
私は、Kさんの車で韓国人街へ連れていってもらい、
韓国料理をご馳走になった。
韓国の酒
アメリカに来てからは、
ハンバーガーとかその手のファーストフードばかり食べていた私には、
この韓国料理が実に繊細で美味しく感じられた。
Kさんは例によって
「あんだ、結婚してねえのすか」
と訊いてきた。私が例によって、
「してえっつう意志はあっけっと、それだげでは結婚でぎねえがらねえ。
難しい問題でがすと」
と答えると、
「あんだみでえな人が結婚でぎねえなんて信じらいねえなや」
と言ってきて、そこから結婚観の話になった。
私が、
「夫婦ともにそごそご働いで、それぞれの余った時間に夫婦ともに家事育児するっつうのが理想だないや」
と言うと、Kさんは、
「んだ、んだ、おいが正にそうしてる」
と言うのだ。なんでも、Kさん(性別は男)のつれあい(性別は女)は夜
働いているので、
Kさんが子供に夕食を作ってやっているそうだ。
ついでながら、Kさんは韓国にいたときに今のつれあいと知り合い、
アメリカに来てから結婚したそうだ。
そのつれあいは、少ししかエスペラントを喋れないそうだけども、
一番上の子供は、
かなりエスペラントを喋れるそうで、
今はバークレー大学だかでエスペラントの倶楽部だか(の指導)をやっている
そうである。
色々と話していると、店の奥の方からスペイン語が聞こえてきた。
するとKさんは、こんな話をした。
「今も、あそっからスペイン語 聞こえできたげっとも、
まあ、あんだもこごさ来てがら、たぶんあちこちでスペイン語 耳にしてんで
ねえがど思うげっと、
ロサンゼルスでは、今、スペイン語 喋る人だぢがどんどん増えでんでがす。
たぶん住民の半分はスペイン語 話すんでがすと。
んだがら、このごどは、今 アメリカの一づの問題なんでがす。
政府は、教育どが公共機関の利用どが、
ぜんぶ英語で済ませっぺど企んでんだげっとも、
なんぼ政府が英語バ強制したどごで、
現にスペイン語喋る人はどんどん増えでっぺし、この流れは止まんねえべな」
なるほど。
ロサンゼルスでは確かに私もあちこちでスペイン語(と思われる言語)
を聞いた。
さて私は、気になるロサンゼルスでのエスペラント活動状況について訊いた。
Kさんによると、
最近はまるで低迷状態にあるようだ。
かつては、Kさんも講習の指導をしていたり、
例会に参加したりもしていたようだが、
会員も少なく、また会員のエスペラント運用能力も高くはなく、
「英語で喋る人だぢの例会さ出でもおもしぐねえがら、
顔コ出すのやめだのっしゃ」
ということのようだった。
「そんでも、
毎週木曜日に例会やってるようだがら、あさって試しに顔コ出してみすか。
おいは行げねげっと、
場所 教ぇっから、いがったら一人で行ってみらいん。
まあ、あんまり期待しねでけらいん」
と言われて、Kさんに例会場所である
「エスペラント アソーシエーション」
と英語で書かれた看板を掲げた事務所前に車で連れていってもらったら、
そこは、私が泊まっているホテルの通り沿いのところだった。
私は、
「んで、木曜日の夜に試しに、覗ぎさ来てみっから」
と言ってKさんにホテルまで車で送ってもらい、その日は別れた。
エスペラント アソシエーション
エスペラント アソシエーション
8/24 (木)の昼に、Kさんからホテルに留守電が入っていて、
「木曜の例会は今はやっていないが、
近所に住んでいるTさんが、是非あなたに
会いたいと言っているから、電話をかけてみてくれ」
ということだったので、Tさんに電話をかけて、
夜 ホテルで待ち合わせた。
Tさんは、見たところやや老齢(たぶん七十過ぎとか)で、
つい数ヶ月前につれあいを亡くして一人暮らしをしているそうだ。
Tさんは、車で私を「エスペラント アソシエーション」
に連れていった。
中に入ってみると、普通の事務所で、
たぶん、Tさんが自分の仕事で使っていた事務所を
エスペラントの例会の目的でも使わせていたということのようだ。
事務所には、Tさんの若い頃の写真とかが飾られていた。
ここの事務所は今はエスペラントの例会には使っていなくて、
エスペラントの例会は、Tさんの自宅でやっているそうだ。
次にTさんは、近くのキリスト教会の敷地内の広場(公園)に車を停め、
そこを少し散策した。
Tさんは、
「あんだは、仏教徒すか」
と訊いてきたので、
「仏教徒の家庭に生まれだがら形式上はたぶん仏教徒だべげっと、
別に信仰してるっつ訳ではねえな」
と答えると、Tさんは、
「おいも同じだ。
おいもキリスト教徒の家庭に生まれだがら形式的にはキリスト教徒だげっと、
別に信仰してる訳ではね。
んでも、おいの妻は違った。
彼女は敬虔なキリスト教徒だった」
と答えた。
なるほど、国民の90%もが(キリスト教の)神を信じると言われているらしい
アメリカにもちゃんと形式上の信者だっているのだ。
次にTさんは自宅の一室へと私を案内した。
そこはエスペラントの講習会に使っているそうで、
毎週七人前後の講習生が訪れているそうだ。
エスペラントのアルファベットと発音が書かれた紙が貼ってあったりした。
Tさんにホテルまで送ってもらうために外に出たら、
ちょうどTさんの子供(割と若者)とその友達というのが
車で遊びにきたところだった。
Tさんの家にも色々と訪問者が来るようなので、私も少し安心?した。
サンフランシスコ
8/25(金)に私と学生さんはサンフランシスコのホテルに移動した。
サンフランシスコ湾岸(の El Cerrito)には、
北アメリカ エスペラント連盟
というのがあって、
今まで日本に住んでいた知人のアメリカ人エスペランチストのJさんが、
つい数ヶ月前からそこで職員として働いているので、
私と学生さんを
サンフランシスコ案内してくれるように前もって電便で頼んでおいた。
25日の夕方に北アメリカ エスペラント連盟に電話したが、
ずっと話し中だったので、
Jさんの自宅に電話して、
帰ったらホテルに電話してくれるように留守電に入れておいた。
そしたら夜にJさんから部屋に電話が来て、
翌朝、誰か(未定)に車を運転させてホテル前まで迎えにくるとのことだった。
私はJさんと、どこどこを見に行こうかなどの話をしていたが、
私がエスペラントを喋る(少なくとも英語よりはずっと流暢に)のを
初めて聞い(てしまっ)た学生さんはちょっと驚いていたようだった。
金門橋(朝)
翌朝、
Jさんが
Dさんの
車で迎えに来た。
私はDさんとは初めてなので、
日本のエスペランチストのゴトウだと自己紹介して、
学生さんを「おらほの学生さんだげっとエスペラントは喋らいねんでがす」
と紹介した。するとDさんは、「そいづは残念だごだ」と言っていた。
Jさんは、
「なじょしす? まずはミュール森林公園さでも行ぎすか」
と訊いてきた。私が
「どごでもいいげっとも、
まずは金門橋(or-porda ponto つまりゴールデンゲートブリッジ)ば
見さ行ぐのが第一の目的だがらなや」
と言うと、Dさんは
「あそごはいっつも朝は霧かがってっからなあ。
まあ、金門橋はどうせ通り道だがら今から通っけっとも、
朝のうぢは霧で何にも見えねべど。
まあ、ミュール森林公園 見でお昼 食べでがら、まだ
戻ってきてみっぺし。
お昼頃になったら霧が晴れでくっぺがら、運がいげれば、
橋が見えっかも知ゃねな。」
とか言っていた。Dさんは非常にお喋りで、のべつJさんに
(あるいは独り言のように)色々と喋り続けていて、
私は適宜、学生さんに訳してやっていた
(つもりだが、
エスペラントの分からない学生さんは結構 退屈したかも知れない)。
ミュール公園
そうこうしているうちに金門橋に差し掛かったが、
案の定、霧で主塔も何も見えない状態だった。で、またお昼頃に引き返して
きて見ようということになって、ミュールウッズという自然林公園に行くことに
なった。
ミュールウッズに着くと、
Dさんがそこの特別(名誉)会員だかなんだかということで、
入場料を只にしてもらった。
Jさんの説明によると、カリフォルニアの辺りは、
入植者たちによる開拓がなされる前は、
こういう自然林だったのだが、
さんざん木が伐採され(一部は家具などに利用され)、
今ではこごぐらいしか自然林が残っていないということだった。
日本の森林ではなかなか見られないような直径1〜3メートルぐらいの
巨木(たしかセコイヤ科)が、林立していて見応えがあった。
金門橋(昼)
その後、岬?の先に行ったりして時間を潰し、
金門橋に戻るには、もう少し時間が経ってからの方が
霧が少しでも晴れてくるかも知れないので、
その前に中華料理屋で昼飯を食べた。
で、金門橋まで戻ってきて、橋のよく見える(筈の)高台に登ってみたが、
相変わらず霧で見えない状態だった。
まあ、機会があったら、
またいつの日か気候条件のいいときに見にくるとしよう。
午前中いっぱい車の運転をしてくれたDさんは、午後からは用事がある
ということで、我々(Jさん、私、学生さん)は
金門公園(ゴールデンゲートパーク)まで送ってもらって、そこでDさんと
別れた。
金門公園では、待ち合わせしていた
Cさん
と落ち合った。
私は例によって、
「日本がらのエスペランチストのゴトウでがす。
こっちの人は、うぢの学生さんだげっと、
エスペラントは喋れねんでがす」
と挨拶すると、Cさんは、
「こごはエスペラント国だがら、
おいはエスペラントしか喋んねがらね。
彼(学生さんのこと)がエスペラント分がんねごって、
あんだが通訳してけらいんよ。おらエスペラント国では英語は
喋んねえし、日本語も喋らいねがら」
と言ってきた。
もしかすると、Cさんは布教熱心な敬虔なエスペラント運動家
なのではないかと、ちょっと心配になった。
Cさんはまた饒舌に、公園内を案内して回った
(例えば、
スタートレックだかの映画で使われた熱帯林の一角とか、
日本庭園とか色々)。
金門公園
Cさんが、
「あんだの学生さんは、エスペラントさ興味 持ったみでだったが?」
と訊いてきたので、私は、
「っつうが、あの学生さんは、おいがこいなぐエスペラント喋ってんのバ、
今回 初めで聴いだがら、
それなりにはびっくりしてっかも知ゃねな」
と言っておいた。Jさんは、
「んだ、んだ。まずは、そうやってびっくりしてもらうごどが
重要なんだ」
と言っていた。
と言っても、Cさんは別に学生さんに
「布教」しようとしたりはしないようなので、ひとまずは安心?した
(尤も、後で学生さんに「どう? 英語は簡単だと思う?
難しいでしょ。それでも、まだ英語を勉強しようと思うの?」
とかと英語で話し掛けていたようだが……)。
その後、我々は市内を走る様々な交通機関
(チンチン電車みたいな、メトロとかいうやつとか)を
乗り継いで、フィッシャーマンズワーフという観光用漁船埠頭みたいな
ところに行った。
埠頭のすぐ脇には、
アシカ(だかトドだかアザラシだか)が大量に集まっていて、
オウ、オウと鳴いていた。
海の方には島が見えていて、
Cさんに、あれは何だと聞いたら、
なんとあれがアルカトラス島なんだそうだ。
私がCさんに、あそこには今は人が住んでいるのかとか、
観光に行けるのかとかと聞いている傍らで、
Jさん(日本に長く住んでいて、
日本語もたぶん少しできる)が学生さんと日本語で
何か話していたようだ。
そしたら、それを耳ざとく聴いていたCさんが、
「あんだ、アメリカ鰐して*んのすか?」
とJさんに詰問して笑った。
*
「
アメリカ鰐する
」というのは、エスペラントの俗語で、エスペラントの会合などエスペラントで
喋るべき場で、自分の母語以外の民族語
(または、相手の母語)
で喋ることなどを言う。
その後、その辺の土産屋などを見たりして、夕食を食べに
魚料理屋に入った。
確か私は魚とエビだかのフライみたいなのを頼んだ。
魚は、骨を抜いて(すりつぶして?)からフライされていた。
ここの食事は、今回のアメリカ訪問で食べたものの中では、
韓国料理の次に美味かった。
食事の後、
また様々な交通機関を乗り継いで市内に戻ってCさんと別れた。
Jさんはホテルまで我々を送ってくれて、そこで
別れた。
雑感
たったの一週間、ロサンゼルスとサンフランシスコのごく一部を
垣間見ただけの印象を(偏見をもとに)一般化したりするつもりは全くないが、
「おねえちゃんさんのアメリカ考察」
や
「
ふざけるな、アメリカ人!」
(やアメリカではないが中島義道著『ウィーン愛憎』(中公新書))に、
なるほどと思い当たったことも多々あった
(まあ、たまたま、そうだったということもあるだろうが)。
例えば、
会議室の冷房が効きすぎて寒かったとか、
コンビニとかには異常なほどに甘だるい菓子パンか味のしない調理パンしかないとか、
食堂で出される食事の量が食べきれないほどに多いとか、
こちらの英語が苦手だと分かっても現地人はゆっくりと喋ろうとしないとか、
冷房や冷蔵庫の音がうるさいとか、
病的なほどに肥満した人がたくさん目に付くとか、
フロントの人に間違ったバス停を教えられて確認しにいったら謝らずに
必死に責任回避しようとしたとか、などなど。
勿論、公共空間での禁煙が徹底されているとか、
公衆便所の男子便所にもオムツ交換台があったとか良い意味で感心させられた
こともある。
で、今回のアメリカ訪問で特に私の印象に残ったのは、
スーパーやコンビニの店員やホテルの清掃員やバスの運転手など、
恐らく賃金が低いであろう雑益労働に従事しているのが、
ことごとくスペイン語系や黒人系やアジア系の人ばかりで、
白人系の人がそういう仕事をしているのをなかなか見かけなかった
ということだ。
例えば日本の場合、
レジ打ちや雑益労働や肉体労働とはいっても、
ごく普通の庶民(おばさん、おじさん、若者、学生など色んな人)が、
本業やパートやアルバイトとしてやっているものだが、
ロサンゼルスやサンフランシスコの私が見た範囲では、
そういう労働に従事している人の白人比率は非常に低いと感じた。
こういう如実な「人種別役割分業」の存在みたいなものを目にすると、
本多勝一
だったかが(マルコムXだかの言葉の受け売りで)、
「白人社会の繁栄は黒人労働者からの搾取で成り立っている」
と訴えていた状況を象徴する光景を未だに垣間見ることができるのかと
ある種の感慨を覚えた。
また、誰だかが言った冗談
「世界で唯一成功した社会主義国家はどこか? それは日本だ」
(出典の分かる人は教えて*)
が言わんとしていたことは、実はこういうことだったのだろうかと改めて思った。
* 検索して調べてみたら、
ゴルバチョフが訪米して地方演説した際、
聴衆から社会主義経済はもうダメだということを認めろと言われたのに対して、
「確かに欠陥はあるし、ソビエトを変えていかなければならない。いまはそのペレストロイカの最中だ。ただ、社会主義国家としてうまくいっている国が世界に一つある。それは日本だ」と答えたそうだ。
http://www.katokoichi.org/database/tj-9900-asi.htmlによると。
* 八木さんから、
「世界で最も成功した社会主義国は日本である」というのは、わたしが子供のころ(社会主義が何であるかがうっすらとわかるようになった頃)にはすでに元共産党員のウチのオヤジがいっていたことなので、ゴルバチョフが話したというのがそうだとしても出典はもっと古いと思います。たぶん、社会主義の盟主たるソ連が社会主義としては理想的ではない方向に進んでいるとわかった頃の日本の共産党員のウチウチの冗談あたりが出所ではないでしょうか。オヤジにいわせると「鉄道も銀行も国営みたいなモンや」と当時はいっておりました。
という掲示を戴きました。
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