(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

エスペラントへの疑問


Duboj pri Esperanto

エスペラント版
(Esperantlingva versio)


注意
目次

エスペラントは言語統一の運動か

多様な民族が一つに融合することは理想だろうか

生まれながらのエスペランチストはエスペラントの中立性を脅かさないか

エスペラントは男女区別の言語である

エスペラントはヨーロッパ語寄りの言葉である

続く


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al la paĝo de GOTOU Humihiko


エスペラントは言語統一の運動か

 私もエスペラントを始める前から エスペラントの存在自体は知っていましたが、 やってみようという気には到底なりませんでした。 というのは、大学に入って間もない頃、便所で エスペラントのビラを見かけたのですが、それには 「世界を一つの言葉で」といった宣伝文句が書いてあったので、 「ああ、こいづは全世界の人が民族語ば捨てで エスペラントだげば喋るようなればいいっつ思想だな」 と誤解してしまっていたからです。 しかし実際のエスペラントの運動は、民族語の存続を保障した上での 中立な「橋渡し語」としてエスペラントを位置付けているということが 分かったから、学習してみる気になった訳です。 1996年にチェコのプラハで開かれた第81回 世界エスペラント大会で採択された 「プラハ宣言」でも「私たちの運動は言語の多様性を目指すものである」 と主張しています (この宣言文は後藤斉さんの頁で参照できます)

。 しかし、エスペラントを作ったザメンホフ自身は、 遠い将来に全人類の言葉がエスペラントに融合することを理想視して いた節はあるし、現在のエスペランチストの中にも、 遠い未来に全人類の母語がエスペラントに融合することを理想視している ような人は、どうやらいるようです。 目次へ戻る

多様な民族が一つに融合することは理想だろうか

 例えば大島義夫氏著の『新エスペラント講座」第3巻(要文社)の中にホマラニスモ(人類人主義) について次のようなザメンホフの記述があります、

「ホマラーノたちは、中立的な言語と中立的な宗教的諸原則と慣習にもとづいた不断の相互的な通じあいによって、人びとがいつかは一つの中立的人間的な民族に溶けこむことを望んでいるが、このことはすこしずつ、気づかれないうちに、なんの中断もなくおこなわれるであろう」 「わたしは人間であり、わたしにとっては、純粋に人間的な理想だけが存在する—民族的なあらゆる理想と目的をば、わたしは集団的利己主義と人間憎悪としか見なさない。 それらは早晩、消えさるべきものであり、消えさることをできるかぎり促さなければならない」 「* ホマラニスモをesp.主義と混同してはならない! どちらの思想もたがいによく似ているが、全然、同じものではない。 すぐれたesp-istoでありうるが、ホマラニスモの反対者でありうる」

と。 確かに、前述の定義がホマラニスモならば、私もこれに反対です。 この主張を私なりに単純に解釈するなら、「多様な民族が、独自の言語や宗教を徐々に手放していき、将来的に、全ての民族が一つの『中立的な』言語を母語とし、一つの『中立的な』宗教を信仰するようになれば、言語差別や宗教的対立は消失する」とでも言っているかのように受け取れるからです。 これでは「将来、人種間の混血が進んで、人種が一種類に融合、吸収されれば人種差別は解決する」とか「将来、医学の進歩により障害児が生まれなくなれば、障害児の不幸は解決する」とか言っているのと五十歩百歩のような気がします。

 「異なる民族が異なる言語や宗教に愛着を覚えてそれを保存していくこと」自体は民族対立の十分条件ではないし、「異なる人種が存在すること」自体は人種差別の十分条件ではないし、「いわゆる障害者であること」自体は障害者がしあわせになりにくいことの十分条件ではないと私は思います。 要は、「多様性を許容しないこと」にこそ問題の本質があるのだと私は考えています。

 民族至上主義に陥ることなく、異なる民族の異なる文化の多様性を尊重する「文化相対主義」の立場を取る限り、自民族の文化を大切に守っていこうとすること自体は、民族対立を生まないし、民族の多様性が失われないように、各民族が各民族の文化を守っていこうとすることは、「多様性を許容しなければ人間は平和には共存できない」ということを人類に啓発し続けるためにも、極めて重要なことであると私は思います。 それなのに、「将来、民族の言語や宗教が一つに融合すること」を理想視 する思想は、正に民族対立を生んできた「多様性の否定」を理想視してい るという意味で、私は矛盾を感じます。
(ここでいう相対主義とは価値の相対主義であって、 科学と非科学との相対主義とかは含みません。 関連することを「科学と宗教の間に相対主義 は馴染むか」の頁 に書いた)

 津田幸男編『英語支配への異論』(第三書館)などでエスペラントの中立性を唱えているエスペランチストの水野義明氏にしても、 日本エスペラント学会の機関紙「La Revuo Orienta」1996年7月号の記事で、「世界語(lingvo univeersala)とは将来の全人類のための唯一の言語」であり、「国際語(lingvo internacia)とは国際的交流の目的で使われる補助的言語手段」であると定義した上で、「世界語は『幻想』かも知れないが、国際語は実現の可能性が十分にある」と述べており、「幻想」とは言いつつも、どうも将来的には全人類の言語が一つに統合されることを理想視しているかのように見受けられます。

 以上から察するに、エスペランチストの中には、将来的には全人類の言語が一つに統合されることを理想視しつつ、その統合のための言語に民族語を採用したのでは不平等だから、エスペラントのような中立人造語を採用すればよいという考えの人々が少なからずいると考えられます。

 私は前述した通り、将来的に言語が一つに統合されることは言語差別の本質的解決だとは思わないし、むしろ「言語の多様性を否定している」という意味で選民思想の一種だと考えています。 例えば、将来の全人類の母語が軽率にもエスペラントに統合されてしまったとして、ある地域の人々がエスペラントの「方言」を喋り始めたとき、その人々の方言が「せっかく達成された言語の統合」を乱すものとして差別されるのであれば、「言語差別」はまるで本質的には解決されていないことになります。 つまり、風土の異なる様々な地域に住む人々が、それぞれに独自の文化を形成し、独自の言語を発達させること自体は尊重されるべきことであり、そうした文化や言語の多様性が、特定の強大な民族集団の合理主義、至上主義、帝国主義に脅かされないように、中立な「橋渡し言語」を設けることが必要なのだという目的でのみ、エスペラントは「言語差別」解決の一手段になり得ると私は考えています。

 ということは、現在のようにエスペラントがそれほど普及していないうちは、つまり誰にとってもエスペラントのみを母語としての生活が成立し得ないうちは、 私のように「将来的にも母語の多様性を尊重し、エスペラントを永久に橋渡し言語に位置付ける」エスペランチストの目的と、「将来的には全人類の母語がエスペラントに統合されることを理想視する」エスペランチストの目的は、当面は「中立語」としてのエスペラントの普及ということで一致しているかも知れません。 しかし、エスペラントがある程度、普及してきて、一部の地域の人々がエスペラントだけを母語として生活し得るようになったら、両者の目的は明確に対立します。 エスペラントのみを母語とするような人々が現れたら、その時点で「誰にとっても母語ではない」という意味でのエスペラントの中立性は消失します。 そういう日が訪れたなら、私のような考えのエスペランチストはもはや「中立語」ではなくなったエスペラントを捨てて、新たに別の中立人造語を模索しなければならなくなるでしょう。 しかし、そういう意味でのエスペラントの中立性を脅かす行為は、小規模ながら、現在も行われています。 目次へ戻る

生まれながらのエスペランチストはエスペラントの中立性を脅かさないか

 エスペランチストの中には、自分の子供に幼児期からエスペラントを教えて、エスペラントを母語と同じ感覚で喋れるような生まれながらのエスペランチストを育ててしまう人が少なからずいるようです。 民族語の異なるエスペランチストどうしの国際結婚などの場合は、夫婦間の共通語がエスペラントのみであれば、これもある程度、仕方のないことなのかも知れません。 こうした実例を、恋愛や子育てにも耐え得るエスペラントの実用性の一面を示すものとして、むしろ好意的に宣伝するエスペランチストもいますが、 私には、将来に何処かで、エスペラントのみを母語とする民族集団が出現する危険性が連想されるので、甚だ疑問であります。

 例えば、私は宮城県石巻市に生まれ、 石巻弁 を母語として育ち、現在は宮城県仙台市に住んでおりますが、現在、仙台市に住む大部分の若い人は、仙台に生まれ育ったにもかかわらず、仙台弁を母語とはせずに、「標準語」(これが東京方言に偏向しているという問題には触れないでおく)を母語としているように見受けられます。 そして方言話者の数は着実に激減し続けていると感じます。 恐らくこれは、程度の差こそあれ、全国的な傾向ではないかと思います。 つまり、人の流れが多くなったり、テレビなどの放送媒体が普及してくると、人間には、「公用語」をそのまま母語にしてしまうという性質があると私は捉えています。 エスペラントも十分に普及したとすれば、同じような現象は起こり得ると私は思います。 例えば、多言語国家などが公用語としてエスペラントのみを採用したら、その国の人々がエスペラントを母語にしてしまうといったことは私には十分に想像できます。 私はエスペラントの中立性は「誰にとっても外国語」であることによって保障されていると理解しているので、エスペラントを母語とする集団が現れたら、その時点でエスペラントの中立性は喪失すると考えています。

 そうなると、平等な言語使用のために取るべき方策として、私に安直に思い浮かぶのは、「エスペラントを母語とする集団が現れないように、ある一定の制約の下で使う」というやり方です。 例えば、「民族語の異なる者どうしの子育てといった特殊な場合を除き、エスペラントの教育は十歳以前に行なってはいけない」とか。 しかし、言語の使用方法に制約を設けるのも不自然だとすれば、「エスペラントの使用方法には一切の制約を設けずに自由に使ってもらい、その結果、それを母語とする人々が現れてエスペラントの中立性がなくなったなら、新たに別の中立人造語を作り、いずれそれも中立性を失ったらまた別のを新たに作り、と常に、現状の中立人造語が中立性を失うごとに、新たに別の中立人造語を作り更新し続ける」というやり方もあるかも知れません。

 そのようなことを考えていくと、「母語である民族語と橋渡し語である中立人造語の二本立ての使用を原則とすることにより言語差別を解決する」という方法論も、現実の人々の交流の中では様々な要素が絡み、なかなか実現が難しいのかも知れません。 しかし、よしんば「その手法での言語差別の解決にも多少の難があった」という結果が出るにせよ、英語支配の現状を追認する「難」に比べたら遥かにましだろうし、より適切な方法論の模索へと繋がる可能性もあるのだから、いずれにしても、「エスペラントを国際公用語として普及させる」という壮大な実験は、大いに試すべき価値があると私は考えています。 目次へ戻る

エスペラントは男女区別の言語である

 近年、男女同権主義者らに指摘されているヨーロッパ語における男女区別の弊害を、エスペラントはほとんどそのまま取り込んでしまっています。 例えば、三人称単数に言及するときは、必ず男女を区別しなければならないし、人を表す多くの単語は語幹だけでは「中性または男性」を意味し、女性語尾をつけると「女性のみ」を意味します(つまり男が標準で女が特別な場合という 男女非対称な構造になっている)。 敬称は男女で区別しなければならず、しかも女性についてのみ、未婚、既婚を区別するのが慣例のようです。

 このような言語における男女区別の習慣は、明治以後の日本語でも、恐らく西洋文学の翻訳に伴う造語(「彼女」「女流……」「……婦人」「……嬢」など)によって、かなり吸収してきてしまったようです。しかも、標準語における一人称など日本語の方がヨーロッパ語よりも男女を区別して使う語については、そのまま区別し続けているから、今日の日本語もかなり男女区別の言語であり、国内の男女同権運動の中でも、それらを改善していこうという動きは出てきているようです。

 例えば雅語においては、「彼女」などという言葉はなかったし、 「彼」は女を指すこともできました。 「つま」は配偶者の意味で男に対しても使えたし、「おとうと」も年下の兄弟の意味で女に対しても使えたようです。 今日でも、少くとも英語を教わる前の子供は三人称に言及する際は男女を区別せずに「あの人」と言ったり名前を繰り返したりしていると思います。 その意味では、英語教育の強制が日本語を英語化してきた面はあると思うし、 英語教育が小学校から導入されたりしたら、 小さい子供が「彼女は」といった三人称を使いだすかも知れません。

 このような言語における男女区別をなくしていこうという動きは、特に英語圏の男女同権運動の中では進んでいるようで、女性に対する敬称を既婚者と未婚者で区別するのをやめようとか、職業者として「……する人」を表す「……man」の「man」は「男(または人間)」の意味だから、中性の「人」を意味する「person」に代えていこうといった向きもあるようです。 更に「she(彼女は)」「he(彼は)」に代る中性の三人称単数代名詞として、「E、heesh、ho、na、per、po、person、co」なども一部で考案されているようです。  それでは、エスペラント界では、こうした言語の男女区別の構造をなくしていこうという運動はないのでしょうか。

「li」「s^i」を使わない 「riismo」

 エスペラントでも、「li」「s^i」を使わない「 riismo」という運動があります。 簡単に説明すると—従来の三人称単数代名詞「li(彼)」と「s^i(彼女)」は使わないことにし、新たに設けた中性の代名詞「ri」を使う。 男性化接尾辞「-ic^-」を新たに設け、従来の女性化接尾辞「-in-」と対称に使う。 但し、これらの接尾辞は、性別を区別することが必要な場合に限って用いる。 一般にこれらの接尾語を伴わない語幹は、性別を示さない。 伝統により「男性」しか表さない二十個の語幹も中性の意味を持つべきである。 しかし、「liisto」(「li」「s^i」を使う人)と話す時など、混乱の恐れがある場合には、語頭に中性化接頭辞「ge-」を付けてもよい。 例えば、「dentisto(歯医者)」は「dentistic^o」または「dentistino」のことであり、「(ge)patro(親)」は「patric^o」または「patrino」のことである。 性別が重要でない場合には、女性に対する敬称として、従来は男性に対してのみ使われていた「sinjoro」を使って全く差し支えない—というような提案です。 英語などの民族語の場合は、言語における男女区別の構造を排除するためには多数の造語や意味の変更が必要となり、色々と大変なようですが、文法的に例外がなく規則的に作られているエスペラントの場合は、前述のように、ほんの二、三の造語と意味の変更のみで、ほぼ完全に男女区別の構造を排除することができます。 もちろん、言語における男女区別の構造を排除しても、話者の意識が変わらなければ男女差別の解決にはなりません。 しかし、言語における男女区別の構造が、男女差別を再生産するという機能を持っているのも事実であり、多くの民族語はこの問題を抱えています。 その意味では、エスペラントにおいて、そうした男女区別の構造を排除するための実に簡単な方法が既に提案されており、十分に実用可能であるということは、男女区別の問題を抱える民族語にとっても、大いに参考となり得るでしょう。 目次へ戻る

エスペラントはヨーロッパ語にとても近いので、とても中立とは言えない

 文法に関しては、全ての民族語の文法の良い面を取り入れた文法 などというものは想像しにくいし、仮にできたとしても、 かなり混沌とした覚えにくいものになりそうなので、 国際人工語の文法がある特定の民族語の文法と似てしまうのは 仕方のないことだとは思います。 因みにエスペラントは、動詞の活用とかは、不規則のない語尾の取り替え で表されるので、単語の形自体が変わってしまう(屈折する)ヨーロッパ語 よりも、日本語のような膠着語に近い面もあります。 この辺の話は、津田幸男編『英語支配への異論』(第三書館) の水野義明氏の文章やニ木紘三『国際共通語の夢』(筑摩書房) で詳細に考察しています。 だから文法に関しては、現行のエスペラントでも十分に簡単だし、 多少、ヨーロッパ寄りだとしても、まあ、いいだろうと私は思っています。

但し、語彙の大部分がヨーロッパ語(特にロマンス語)から そのまま語幹を選んでいるということに関しては、 私も不満を感じています。 尤も、エスペラントはヨーロッパ人(特にロマンス語圏の人) でも、 それなりに「勉強しなければ」使えるようにならない言葉ではあります。 しかし、単語の覚え易さは、自分たちの母語からの推測がつく分だけ、 ヨーロッパ(特にロマンス語圏)の人には、非常に有利だと思います。 勿論、既に全世界にそれなりに普及していて、 様々な分野(学問、芸術、恋愛、等々)で実用に成功している 国際人工語がエスペラントしかないことを考えれば (インテルリングワを使っている人たちもいるようですが、 あれはエスペラント以上にヨーロッパ語よりで習得も困難では?) 、 新たな人工語を考案するよりも、エスペラントを利用する方が 現実的だとは思います。 更に、国際人工語が世界の橋渡し語として機能するためには、 言語的強国であるヨーロッパに、まずその言葉が普及する必要が あると思います。 エスペラントをやっている人というのは、 必ずしも思想的な動機だけでやっているとは限らず、 趣味として (文通や海外旅行やエスペラントの大会での外国人との交流 が楽しくて) やっている面もあります。 そうするとヨーロッパ人の場合、 思想的な動機でエスペラントをやろうとする人は、 別にエスペラントがヨーロッパ語に近くなくてもやろうとするでしょうが、 趣味でやろうとする場合は、 エスペラントが、ある程度ヨーロッパ語に近い方が やってみようとする人が増えるかも知れません。 そういうことを考えると、 エスペラントが十分に普及するまでは、 現行のヨーロッパ語よりの語彙でも、まあ、いいか、という 気も少しはします。 但し、エスペラントが今の英語程度に十分に普及した暁には、 語彙がヨーロッパ寄りであるという問題は、また議論されなければ ならないと思います。 私は、単語の子音字の何組かを入れ替えたら、ヨーロッパ語からの推測 がつかなくなっていいのではないか、などと考えています。 そういう話をエスペラントの合宿の折に、若い仲間と 冗談混じりに飲みながら話していたら、ある人が 「rとl、bとvを取り替えればよい」と提案しました。 この案は私には痛く気に入りました。 「rとl、bとv」が入れ代わっても、ヨーロッパ語の素養のない 日本人には痛くも痒くもありませんが、 ヨーロッパ人は混乱する訳です。

現行のエスペラントの語彙でも、 新しい専門語などを導入する際に、対応するヨーロッパ語の語幹を そのまま持ち込むよりは、なるべく基本語彙からの造語で 作ろうとする向きはあります( 「使いたくないエスペラント単語集」の頁に関連記事)。

また、現行のエスペラント文法の枠組の範囲でも、 よりアジア人的な、非ヨーロッパ的な表現方法ができる余地も あると思います( 「エスペラントをより中立に」の頁)。 ……取り敢えず、今はここまで。





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