(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

英語崇拝からの脱却


——方言と標準語、民族語と国際語——
(kiel mi ĉesis adori la Englandan lingvon)

. Ĉi tie mi skribas la historion: de tiam, kiam mi ĝuis lernaĉi la anglan ĝis tiam, kiam mi decidis lerni Esperanton. Iam mi eventuale skribos la resumon.


「授業を英語で」問題
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko
注意

目次
はじめに(1998/2/9微更新, 1999/12/17)
「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書への異論 (2000/1/26臨時

石巻弁
関西弁との出会い
ネーテブ=イングリッシュ
ESS(1998/10/2微更新)
デスカッション、デベート(1998/2/22微更新)
言語問題を考え始めるきっかけ
現時点での私の立場(1999/4/10, 1999/4/21 追記
フィ、ヴェ、ディ等の表記を避ける理由(98/2/22微更新、 00/11/14追記

英語は論理的か(1998/2/9更新)

はじめに
なんでもかんでも「はっきり言い切る」のがいいのか?(1999/12/17)
——「日本語はアイマイで英語は論理的だ」という誤解が生じやすい例 ——木下是雄著『理科系の作文技術』 (中公新書)。
「小領域から大領域へ」順の不合理
要点が先にきて状況説明が後にくる方が不合理な場合も多い(1998/10/2追加)
高級語の造語の不合理
日本で日本人に何故、英語で物を訪ねるのか(2000/3/6追記0000/6/12追追記
日本で外国人に何故、英語で答えようとするのか。さんまのスーパーからくりテレビ 、噂の東京マガジン!の差別性。
「方言を喋れる人が羨ましい」という自己矛盾 (1998/6/6更新)
我々からすれば「標準語」こそが訛りの強い方言だ
エスペラントをやっても意味がないか (1999/4/10, 1999/4/22, 1999/5/15)
やっぱり英語は必要か?  他所の電網上でのエスペラント批判への応答

続く
言語差別、英語帝国主義関係の頁(0000/7/4追加)
「授業を英語で」問題
福地俊夫さんの 「エスペラント・ことばなどに関する文章」、 「言語権に関する理論的考察
世界社会言語学会会報「不老町だより」
津田幸男さんの「 英語支配フォーラム」の 英語支配に関する10の質問
はじめに

 かつては英語(特に英会話とか)が好きだった私が、 道具として英語を使い続けることに疑問を抱き始め、 エスペラントをやってみようと思い立つまでの経緯を、少しずつ書いて いきたいなどと考えております。

 英語を国際公用語と見なすことの問題は大きく分けると二つないし 三つあると思います。

 一つは、 植民地主義に基づく侵略、統治、同化の支配言語として 蔓延したに過ぎない一民族語である英語を現状追認的に国際公用語 であるが如く使い続けることは、植民地支配の歴史的犯罪に免罪符を 与えることになるということです*。
* 例えば一九九八年一月三十日の琉球新報の夕刊に載った 喜納昌吉氏(音楽家)の記事の次の箇所など参考になろうか。

 世界の先住民の歴史を知ると、国家を基盤に置く文明圏の愛や真実が いかに欺瞞の上に成り立っているのかが見えてくる。コロンブスが新大陸 に足を踏み入れて以来、三百九十八年間に約二千五百万人いた先住民が 十五万人まで減ったという。ヒトラーによるユダヤ人のジェノサイドでさえ 六百万人である。この事実に対する文明の思想の無頓着さは、何を糧にして 生き長らえてきたのだろう。
 二つ目は、仮に百歩譲って英語蔓延の「汚れた過去」に目を瞑るとしても、 現在、現実に英語母語話者と英語非母語話者との間には、厳然とした不平等が 存在するということです。 人種とか性別とか母語とか、人が生まれながらに持っている固有の属性 のせいで、不利や不平等を被るのであれば、これは れっきとした差別です*。
* 例えば福地俊夫さんの頁の朝日新聞「日本語の『英語病』は杞憂(ソートン不破直子)」(1997年1月16日)に対する反論
 三つ目は(二つ目に包含されることですが)、 仮に千歩譲って英語蔓延の「汚れた過去」や 母語話者と非母語話者との間の「不平等」には目を瞑ることにして、 英語を国際的な橋渡し語として利用することにしたとしても、 英語を実用できる水準まで習得することは極めて困難で、その学習のためには 膨大な時間と労力とお金を要し、それでなお、実用できる水準まで 達するのは限られた人だけだということです*。
* 英語が他の民族語と比べて取り立てて学習容易な訳でも、 合理的な訳でも、 論理的な訳でもなく、極めて習得困難な民族語の一つに過ぎないことに ついては後述する。
 英語の民族語故の難しさや不合理について ここここに書いた。
 英語と比べた場合に、国際橋渡し語として考案された エスペラントが、どれくらい学習や実用が容易であるかについての、 私自身の感想を中国旅行記に書いた。

 こうした「英語支配」の諸問題については、 様々な著書 (津田幸男編『英語支配への異論』第三書館、 大石俊一『「英語」イデオロギーを問う』開文社出版など)が、 より的確に批判しておりますので、 ここでは、私個人の言語に対する考え方の変化について主に書きた いと考えております。


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「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書への異論 (2000/1/26臨時

 「21世紀日本の構想」懇談会からのお知らせを見ると、 「最終報告書に関するご意見・お問い合わせは下記までお寄せください」 とあったので、 第6章 世界に生きる日本(第1分科会報告書) の「IV. 21世紀の世界に生きるための国内基盤—— 3.国際的言語能力(グローバル・リテラシー)のために」 を読んだ意見を以下のように書いて送ってみました。

「21世紀日本の構想」懇談会最終報告書
  第6章 世界に生きる日本(第1分科会報告書)
   IV. 21世紀の世界に生きるための国内基盤
    3.国際的言語能力(グローバル・リテラシー)のために 
についての意見をお送りします。
尚、以下と同じ文章をウェブページ
http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/eigo.html
に置き、そこから、
http://www.kantei.go.jp/jp/21century/houkokusyo/6s.html
のページへリンクを張りました。





「3.国際的言語能力(グローバル・リテラシー)のために 」を読んで


> 情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすることは容易でない。
>インターネットと英語を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。
>双方についてマス・レベルで幼少期より馴染むべきであろう。 

 「情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすること」を困難に
している構造的な原因を分析もせずに既成事実として追認しておいて、

>インターネットと英語を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。
>双方についてマス・レベルで幼少期より馴染むべきであろう。 

のような、目先の問題の解決を自明と考える判断にはがっかりさせられました。

まず、「情報技術革命、グローバリズムを乗り越えて波乗りすること」を困難に
している一つの原因として、日本語や他の多くの民族語を母語とする者に
とっては習得の難しい英語が、世界の便宜上の橋渡し語として広く利用される
ようになっているという状況自体が挙げられると思います。

 この状況では、英語を母語とする人たちと、英語を母語とはしない人たちとの
間に、必然的に不平等が生じます。

 まず、英語を母語とはしない人たちが「情報技術革命、グローバリズムを
乗り越えて波乗り」しようとするためには、膨大な時間と労力とお金を費やして、
英語を学習しなければならず、それで尚、英語が使いこなせるようになるという
保証は全くありません。

 一方で英語を母語とする人たちは、そのような努力なしで「情報技術革命、
グローバリズムを乗り越えて波乗り」することができるので、外国語学習に割く
必要のない時間と労力とお金を、他の有意義なことに振り向けることができる
ようになります。

 同じ能力を持つ人間であっても、「性別が男ではない」とか「人種が白人では
ない」とか「母語が英語ではない」という——その人の努力によっては変えられない
生まれながらの属性によって不平等を被るのであれば、これは典型的な「差別」の
構造であり、それを解決する方法を模索する必要があると私は考えます。

 だから、

>インターネットと英語を共通言語として日本国内に普及する以外にないであろう。
>双方についてマス・レベルで幼少期より馴染むべきであろう。 

というのは、「黒人の DNA を操作して全員 白人にしてしまえば、
人種差別はなくなる」という次元の論法と五十歩百歩であり、全く
本質的な解決にはなっていないと思います。尤も、

>日本語を大切にし、よい日本語を身につけることによって、
>文化と教養、感性と思考力を育むべきは言うまでもない。

と書いているところから、「日本語を廃止して日本人の母語を英語だけに
すればよい」と主張している訳ではないのは分かりますが、幼少期から
英語に馴染むことは、日本語の存続に大きな危機を及ぼすことになると
私は考えています。

 例えば日本国内において、いわゆる「標準語」が共通言語として徹底され
たこと(具体的には放送メディアの使用言語として「標準語」が徹底された
ことや、各種公共機関や商業、サービス業の接客における使用言語として
「標準語」が徹底されたことなど)によって、地方の方言が日に日に失われていく
現状から類推すれば、「国内共通語である標準語だけを喋れればいいじゃないか」
と考える世代が増えているこの実状と全く同様に「世界共通語である英語だけを
喋れればいいじゃないか」と考える世代が生まれてくることは私には容易に
想像できます。


> 誤解を避けるために強調しておきたい。日本語はすばらしい言語である。
>日本語を大切にし、よい日本語を身につけることによって、文化と教養、
>感性と思考力を育むべきは言うまでもない。

 ここで想定している「日本語」というのが、日本各地の方言や手話も含む
のか、更にはヤマト語に限らずアイヌ語も含むのかをまず確認しておきたいと
思います。

 仮に「事実上の国内共通語」である「標準語」が「よい日本語」で、それ
以外の日本語は日本語の「亜種」であると考えているのだとすると、それと
全く同じ論法で、「事実上の世界共通語である英語は『よい地球語』で、それ
以外の地球語(例えば日本語)は、地球語の亜種でありすばらしい言語ではない」
ということも言えてしまい自己矛盾してしまうので、ここで言う「日本語」という
のは、各地の方言や手話やアイヌ語なども含むものと考えておきます。


>だが、そのことをもって外国語を排斥するのは、誤ったゼロ・サム的な論法である。
>日本語を大事にするから外国語を学ばない、あるいは日本文化が大切だから
>外国文化を斥ける、というのは根本的な誤りである。日本語と日本文化を大切に
>したいなら、むしろ日本人が外国語と他文化をも積極的に吸収し、それとの接触の
>なかで日本文化を豊かにし、同時に日本文化を国際言語にのせて輝かせるべきで
>あろう。 

 確かにその通りですが、この目的を果たすには尚のこと、子供が日本語や
日本文化を習得して自分のアイデンティティーを確立する年齢(せめて10歳
ぐらい)に達してから、様々な外国の言葉や文化を学んだ方がいいのでは
ないでしょうか。

 日本語や日本文化の中に自分のアイデンティティーを確立していない
幼少期のうちに英語という特定の外国語に馴染ませることは、日本語や
日本文化の崩壊を招く恐れがあると私は危惧しています。

 一例を挙げると、日本語は言及している対象物の「性」や「数」や「それが
世界に一つしかないものかどうか」をいちいち区別しなくてもいい言語であり、
それは日本文化の発想を反映したものだと捉えることもできます。

 私の主観では、前記した日本語の特徴を、例えば「性別による役割を個性
以前の前提としていない」「単数か複数かの判定の困難な少数や分数や集合体
の量や抽象名詞を特別扱いする必要がない」「海とか空のように世界に一つ
しかないのかいっぱいあるのかが個人や民族の価値観に依存するものを
判定するために特定の価値基準を覚える必要がない」と捉えることもでき、
そういう意味で、これは日本語の「すばらしい」文化だと思う面はいっぱい
あります。

 ところが、現行の中学からの英語教育程度ですら、幼少期には「彼」とか
「彼女」などの代名詞を使わずに、呼び名を繰り返したり、「あの人」とか
「この人」と言っていた筈の子供が、「he(彼は)」とか「she(彼女は)」という
英語の和訳のために使われている便宜上の日本語を吸収し、更には英語文化圏の用法
(つまり言及している対象の「性」をいちいち区別する性差別的風習)をも吸収して
しまったりすることが現に起きているのです。

 幼少期からの英語教育を導入すれば、この手の「日本語の英語化」
「日本文化の英語文化化」は、更に加速度的に進行していくことと
想像します。


> すでに国際化の進行とともに、英語が国際的汎用語化してきたが、
>インターネット・グローバリゼーションはその流れを加速した。
>英語が事実上世界の共通言語である以上、日本国内でもそれに慣れる他はない。

 このように本質的問題の解決を模索せずに目先の問題だけを解決すればいいと
現状追認してしまうというやり方は、現状で存在する不平等や差別をますます
既成事実化し再生産することになると思います。

「他はない」と言いますが、「他」を模索している国際組織や国家組織もあります。

 例えば EU は、すべての公的な発言や文書を11の言語に訳さなければならず、
そのことに予算の約半分も使っているにもかかわらず、英語を共通語にして
しまえばいいという意見には反対が強く、14%の議員はエスペラント(*)を
国際補助語とすることにも好意的です。

(*) エスペラントは、中立な国際補助語として1887年にポーランドの
ザメンホフによって提案された言語で、文法が合理的に整理されてあり、
非常に習得の容易な言語です。また、特定の民族の言葉ではないので、
何語を母語とする人でも「外国語」として習得しなければならないという
意味で公平です。現在でも、数は少ないながらもエスペラントの使用者
(エスペランチスト)は世界各地にいて、中立公平な国際交流を草の根的に
実践しています。

 国連もこうした言語問題のことを真剣に考えていて、国際補助語についての
議論を準備していました(1997年当時)。

 中国外務省は、1996年8月、「ある国が国際的に尊敬されているなら、その
言語も尊敬されるべきである」との主張に基づいて、記者会見で英語を使う
ことをやめる決定をしました。

 また、NGOの66団体、 41のペンセンター、41人の言語法制専門家、合計90ヶ国
からの220人が国際ペンクラブ翻訳・言語権委員会などの呼びかけに応えて1996年
6月にバルセロナで催された集いで採択された「世界言語権宣言」では、
「私的、公的に自己の言語を使う権利」や
「自己の文化を維持し発展させる権利」
などを「どんな状況でも行使できる不可分の個人的権利と考える」と宣言しており、
この宣言文は、ユネスコ代表部に提出されました。その後も委員会を設けて、
国連総会での採択に向けての活動が行われているとのことです。


 このような、誰でも「自分の言葉を使う権利」言わば「言語権」を守られる
べきであり、その方法を模索していこうという動きと比べて、

>第二公用語にはしないまでも第二の実用語の地位を与えて、日常的に併用すべき
>である。国会や政府機関の刊行物や発表は、日本語とともに英語でも行うのを当然
>のたしなみとすべきである。

のような発想は、「英語を母語とする人の言語権だけは尊重してあげないといけない」
という考え方であり、こうした考えを現状追認していくことは、前述したように、
ますます、英語を母語とする人たちと英語を母語としない人たちの間の不平等や
差別を既成事実化し再生産していくことになります。


>インターネットによってそれを世界に流し、英語によるやりとりを行う。
>そうしたニーズに対処できる社会とは、双方向の留学生が増大し、外国人留学生の
>日本永住や帰化が制度的に容易となり、優れた外国人を多く日本に迎え、国内多様性
>が形成された社会であろう。日本が国際活動の流れから外れてしまうジャパン・
>パッシングを嘆く事態を避けるには、日本社会を国際化し多様化しつつ、少子・
>高齢化の中でも創造的で活気に満ちたものとすることである。それが21世紀の日本の
>長期的な国益ではないだろうか。 

 そういう目的のためならば、むしろ中国語や朝鮮語を義務教育や高等教育で
第二外国語として学習できるようにし、日本人には習得困難な英語学習にわずらわ
されずに(日本人には英語よりは)習得しやすい中国語や朝鮮語の学習に専念して、
それをちゃんと実用できる水準に達する若者たちを育成し、アジア近隣諸国との交流
を深めることの方がより重要ではないかと私は思います。



石巻弁

 まず、私と言語との関係について語る前に、私の母語について話しておくべきでしょう。 私は一九六六年九月に宮城県石巻市に生まれ、大学に入るまで、石巻弁を母語として育ちました。 だから今でも、私にとって一番、親しみがあり、喋りやすく、 聞き心地がよく、美しい言語は石巻弁であります ( 石巻弁の辞書の頁 )。

 高校時代までで、私が「標準語」と呼ばれる石巻弁以外の「日本語」に触れるのは、テレビと学校教育においてでしたが、特には、その違いを意識しないで子供時代を過ごしました(学校の先生の言葉は、石巻弁と標準語の中間のどこかに位置していました)。

 高校三年の頃から、私は英語や標準語に興味を抱くようになりました。 これは、欧米文化や東京への憧れというよりは(それが全くなかったとも言えませんが)、二つの言語を使い分けることへの憧れであったと思います。 今日の「英語=国際語」社会への異論を唱えた大石俊一氏は自分の英語との出会いに関して次のようなことを述べています、「第一、私の英語への興味は、英語としての英語への関心ではなく、外国語というものの発見の喜びであった」(『「英語」イデオロキーを問う』 註一)と。 私の英語や標準語への感情もこれに近かったと思います。 つまり、子供が最初に晒される外国語が英語(や標準語)である今の日本では、外国語という存在に興味を抱くような子供は、自動的に、英語(や標準語)に興味を抱き、英語(や標準語)が好きになるようにできているのです。 例外に漏れず、私は高校三年の頃に、英語が好きになり、また、標準語が好きになりました(但し、この「好き」という感情は、母語である石巻弁に対する愛着を越えない範囲内での話であります)。 その頃から私は、英語の発音や標準語のアクセントを辞書で確認しながら意識して覚えるようになりました。
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関西弁との出会い

 一九八五年春、私は宮城県仙台市にある東北大学の工学部土木系に、どうにかこうにか入学しました。 石巻から電車で通えない距離ではありませんでしたが、私は仙台のアパートで一人暮らしをすることになりました。

 さて、「東北」大学とはいっても、東北出身者が大部分を占めているという訳ではなく、全国から学生が集まってきています。 つまり、この大学での友人との出会いが、私にとっては実質上、初めての標準語の実践の機会となった訳です。 私は、恰も、英語国にホームステー(英語 外国の一般家庭に滞在すること)した日本人が、現地の人を相手に、自分の英語を試して喜んでいるかのような嬉しさを感じていました。 そして、「私の喋り方から私の出身が分かるか」との問いに、相手が「分から ない」とか「東京の人?」とか答えてくれると、恰も、英語国の人に「あなた の英語はきれいですねえ」とか「あなたの発音はクイーンズイングリッシュ( 英語 女王様英語=標準英語)ですねえ」とか言われているかのような嬉しさを感じていたものです。

 このように、私などが他地方出身者と話をする際に、何の疑いも抱かずに手放しで標準語を使って喜んでいたのとはまるで対照的に、標準語を話そうという努力すら見せずに、堂々と方言で話し掛けてくる関西人に出会って、私は動揺しました。 まず、私は不愉快に感じました。 こちらが、せっかく「相手のために」、覚えたての標準語を駆使して話してやっているのに、相手は、何の臆面もなく方言で話してきやがる——と、こう思ったものです。 更に関西人はこんなことを言うのです——東北の人も東北弁を使えばいい(という意味の関西弁)——私は関西人の「無知」に腹が立ち、とても不平等を感じました。 もし東北人が東北弁を話したら、関西人には、私が関西人の関西弁を理解できるほどには、理解できないのです。 これは、実は同じ東北人どうしでも言えることで、少し離れた地方の方言は、お互いに理解しにくくなるのです。 当時の私は、関西人を一方的に悪者にする、次のような結論に達しました。 ——東北人は他地方出身者との意志の疎通のために、標準語を用いる方法を採用した(この標準語が中立語ではないことが正に問題であることは後述)。 一方、関西人は、他地方出身者との意志の疎通とは言え、飽くまで方言を通す方法を採用した。 よって、関西人はテレビなどの放送媒体を通じて、関西弁を全国に認知させ、それは、漫才といった関西弁による文化にも、強く支えられることとなった。 その結果、関西弁は、関西以外の地方の人も聞いて理解できるようになってしまった。 そのため、関西人は全国のどこへいっても関西弁だけで意志の疎通を図れるが、その他の地方出身者(ここに標準語圏が含まれないことが正に問題であることについては後述)は、母語である方言の他に、標準語の喋り方を覚えなければならないという不平等が成立することとなった——

 更にこの私の持論を支持する一つの根拠として、私は小学生の頃、テレビの中の、関西弁で話される漫才が、まるで聞き取れなかったという記憶があり、やはり我々は、放送媒体を通して「不本意ながらも」関西弁を覚えさせられているのだという、殆ど憎悪のような感情すら抱くようになっておりました(実は標準語こそが、放送媒体を通して「覚えさせられて」いるのですが)。

 今になって自己分析するなら、このような私の感情は、堂々と自分の方言を話す関西人に対する「悔しさ」だったのだと思います。 方言への愛着を抱きつつも標準語に憧れて標準語を練習し、出身地を悟られぬほどにそれを駆使できるようになった(なろうとしている)自分の姿勢を否定しなくて済むように、標準語を使おうとはしない関西人の不当性の方を示そうと躍起になっていたのだと思います。
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ネーテブ=イングリッシュ (「ネイティヴ」等の表記を遣わない理由については 後述

 大学に入学し、ようやく「受験英語」から解放された私は、早速「使える英語」を勉強したいと思うようになりました。 そこでまず、イギリス人の講師による英会話の自由聴講(正規の単位とは別枠の講義)を受講しました。 講師のM先生は、英語だけを使って授業を進めましたが、当然、私を初め受講者(十数名)の大部分は、M先生が何を言っているのか殆ど理解できませんでした。 しかし、授業の内容は、生徒の一人一人が与えられた主題について発表するとか、傍観を許さない形式だったので、我々は必死になってM先生の仰っていることを「推測」し、また自分たちの拙い英語で「確認」せざるを得ませんでした。 私にとっては、これがネーテブ(英語 英語圏原住民)と英語で会話した初めての経験ということになります。 その意味では、私はこの授業を一年間、大いに楽しんだのではありますが、高々、週に一回、ネーテブの英語を聞き、二言三言、言葉を交わすだけでは、聞き取り能力も会話能力も特に目立っては上達しませんでした。 そこで私は、大学二年になったとき、今まで入るのを躊躇っていたESS(英語 English Speaking Society——英語を話す会)という部活に入ることに決心しました。
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ESS

 ESSの存在自体は大学一年の時から知ってはいたのですが、どうも「英語による議論を行うところ」という印象が強く、「英会話をやりたい」という私の目的を適えてくれるところではないような気がして、足を運ぶのを躊躇っていたのです。 しかし一年間、自分なりに英会話の学習をしてみた結果、然したる上達がなかったこと、だからと言って英会話学校に通うような金銭的余裕もないことなどを考え合わせると、ESSの「英語による議論」で鍛えられるのも一つの手であると思えてきました。 私は早速ESSの部室を訪れました。 見学に来ていた新入生(一年生)が何やら、テレビかラジオの英会話番組の教科書のようなものを読まされており、私もそれに交じりました。 私の番になって私が読むと、先輩(といっても私と同学年の二年生)が私の英語の発音を誉めました。

 というのも先に触れたように、当時の私は「きれいな標準語」や「きれいな英語」に憧れており、英語に関しては腹式発声法による英語特有の抑揚や母音を伴わない「l」の発音(「people(英語 人々)」を「ピーポー」と発音するような)が、それらしく(日本人の耳には英語っぽく聞こえる程度には)できていたのでしょう。 私が少し優越感に浸っていると、次に会話の練習が始まりました。 これはヌンプラ(ヌーン・プラクティス=昼の練習)と呼ばれているもので、昼休みに部室の前の広場で、英語だけで会話をすることなのです。 いざ英語で話そうとすると、私は他の新入生と同じく、ろくなことはまるで話 せなくなりました(Where is, is, are you, do you come from ? 「あ、あ 、あなたが、あなたの、し、し、出身は」といった感じ)。 一方、先輩方は、必ずしもきれいではない発音で、必ずしも文法に適ってはいない崩れた英語で、実に流暢に話しておりました。

 そこで私は悟りました、——英語を流暢に話すことと「きれいな」発音で話すこととは全く別であること ——昼休みに四方山話を話すのに必要とされる程度の語彙は、大学入試を通過した程度の英語語彙で十二分 であること——四方山話程度の意志の疎通には、実は文法すら重要ではないこと—— そして英会話に最も重要なことは、 表現したい概念が、日本語を介さずに、直接に英語と結び付くようにすること——等を。 つまり当時の私にとって不足していたのは、発音や語彙や文法の学習ではなく、 自分の言いたいことが、自分の持っている英語語彙と咄嗟に結び付くような訓練 だったのです。 その日以来、私はこの「ヌンプラ」で英語のお喋りに「慣れる」訓練を開始しました。 こうして毎日三十分程度の英語による「雑談」を二箇月程度続けているうちに、どうにか私も先輩たちと同じ程度には「必ずしも文法に適っていない崩れた英語」を、それなりに流暢に話せるようになってきました。

 これは私には大きな発見でした。 つまり、英会話の自由聴講とか英会話学校とかで、たかだか週に一回二時間程度、どんなに素晴らしい英会話の授業を受けたところで英会話能力は上達しないが、毎日、三十分でも二十分でも英語で雑談すれば、たとえそれが日本人どうしであっても、「発話」ということに関しては、英会話能力は飛躍的に上達するものだったのです ( これは後に始めたエスペラントの会話訓練に大いに役立った)。

 但し、「聞き取り」というのは、私にとっては英語学習の中で最も難しく、例えば私は、大学一年時から毎日、二、三十分、ネーテブの英語のテープを聞いて、何を言っているのかを書き取るという訓練を、 三年程続けましたが、 結局、最後までネーテブどうしのお喋りや、英米の映画の中の英語が聞き取れる域には達し得ませんでした。 尤も、ネーテブと一対一で話す分には、だいぶ聞き取れるようにはなりましたが。 よく新聞などの英会話教材の広告で、その教材の使用者が「この教材のテープを一箇月聞いたら、英語の映画が字幕なしで楽しめるようになった」などと吐かしているのをよく見かけますが、あれは真っ赤な嘘だと私は確信します。 いずれにせよ、後に始めたエスペラントなどと比較してしまうと、英語という民族語は、文法や綴りの不規則性も然ることながら、極めて聞き取りの困難な言語であることは間違いないと思います( 英語の習得と比べてエスペラントの習得が如何に 容易であるかについては、私の実体験に基づく結論を「中国旅行記」 の最後に書いた)。

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デスカッション、デベート (「ディ」等の表記を遣わない理由については 後述

デベートの問題点については、 「 ディベートは命題検証のための建設的な議論の方法になり得るか? (04/10/5準備開始)」 の方に少しずつまとめていきたい。

 それはさておき、ESS内では、私のように会話能力を身に付けることが目的の部員はごく少数であって、活動の中心は、専らデスカッション(英語 討議)やらデベート(英語 討論)やらといった、英語による「論理的」議論にあるのでした。 私も部員である以上は、それを避けて通ることはできなかったのですが、この議論の手法や目的には、どうにも納得のいかない面を多く感じました。 特にデベートについては、議論の方法としては、私の最も嫌いなやり方です。 非常に簡単に説明すると、デベートとは、ある一つの命題(例えば「紅茶は珈琲よりおいしい」とか「日本政府は自衛隊を廃止すべきである」といった)について、肯定側と否定側に別れて議論をし、どちらの弁が論理的説得性が高いかを、審判がある基準に基づいて判断し、勝者を判定するといったものです。 デベートは肯定側と否定側の二組の班に別れて対戦するのに対し、デスカッションは、肯定側か否定側かのどちらかの立場の数人が、班を作らずに個人として議論し合い、その中で最も説得性のある議論を展開した人を議長が判断し、優秀賞を与えるといったものです。 私からすると、まず議論に勝敗があること自体がおかしいと思うし、肯定側か否定側かのどちらかの立場でしか議論に臨めないのもおかしいという気がします。 私自身が議論をする場合は、まず自分自身の認識をより深く掘り下げるために、相手の「論理的」指摘を利用したいと思うし、それで自分の考えの方が間違っていたと「論理的に」納得できれば、当然、自分の考え方は改められていく訳です。 しかしデベートでは、「自分が間違っていた」と認めた時点で「負け」になってしまうので、心の底では「どうやら自分の方が間違っているようだ」と思っても、決してそれを認めずに、飽くまで自分の主張を防衛し、相手の主張の不備を追求しなければならないのです。 つまり、このような「議論」のやり方は、せいぜい遊戯にはなり得ても、相互理解のための有効な手段とは到底言えないだろうと私は思う訳です 。 だから、私はこのデベート式の議論のやり方を理想視する風潮には疑問を抱き続けていて、「日本人は議論が下手だ」とか「日本人は自己主張ができない」とか「日本語は論理的でない」といった意見を聞く度に、反発を感じておりました。 最近、私のこの長年のわだかまりを晴らす痛快な本を見つけました。 中島義道著の『ウィーン愛憎』という本です(「週刊金曜日に疑問」の頁 「日本人はヘンか」 )。 これを読むと、如何にヨーロッパ人が「高慢で」「自分の非を認めず」「相手を言い負かすことだけを考え」「ヨーロッパ人優越主義であるか」が、よく分かります。 実はこの本を読んで私は、あのデベートというのは、「高慢な弁舌で相手を 言い負かし、飽くまでも自己主張を通してみせようとする」ヨーロッパ人の 醜い部分をわざわざ忠実に真似しようとする倒錯的な遊戯ではないかと思い 当たったのです(*)。

*) これと似た視点でアメリカを見たiwahataさんの 「ふざけるな、アメリカ人!」の頁、
おねえちゃんさんの 「アメリカっていう国は!」の頁も参考に。

*) 因みに、このように欧米人をひとまとめにしてレッテル貼りをすることは、 野蛮な行為であるとの指摘を電便で受けた。 その指摘は、実に尤もであると私も思う。 欧米人といっても民族によって、その気質は様々であるし、 民族差よりも個人差の方が大きい。 つまり、日本には欧米人をひとまとめにして 1)「論理的で、文化的で、世界の手本である」といったレッテルを貼っている 欧米崇拝者が多数いるようだが、見方を変えれば、 欧米人をひとまとめにして 2)「自分の非を認めず、高慢で、自分たちが世界の中心だと思っている」 といった1)とはまるで逆のレッテルを貼ることだってできるのだから、 この手の欧米崇拝者の1)のようなレッテルにはまるで説得性がないことを 示すのが、私のここでの意図である。 但し、仮に「説得性があったとしても」レッテルを貼ること自体にも問題は ある(「言語の性区別」の頁

*) このような「立場を決めて勝敗を決して終わり」という討論の方式は、 アメリカ辺りから導入されたものであって、ヨーロッパ式ではないとの 指摘も受けている。

(以下を読み続ける際は、その辺に留意して戴きたい。)

 「日本人は自己主張ができない」とか「日本語は論理的でない」という言葉の蔭には「ヨーロッパ人と比べて」とか「ヨーロッパ語と比べて」という意味が潜んでいるように思いますが、 ヨーロッパ人の自己主張というのは、必ずしも相互理解を指向しているとばかりは言い難いし、 日本語やヨーロッパ語の言語としての論理性に優劣があるとは思えません (これについては後述)。 仮に新聞記事の書き方などにおいて欧米の方が日本よりも論理的に書く 傾向があったとしても、 それは別に言語自体が論理的だということとは少くとも別のことです。 また、ヨーロッパ人が日本人と比べて、歯に衣を着せずに、直接的に相手の意見を攻撃するという 傾向があったとしても、それは議論の組み立てが論理的だということとは また違うと思います(それにヨーロッパ人だろうが日本人だろうが、 個人差の方が大きい)。 勿論、「ことなかれ主義」の日本人の議論の仕方にも難はありますが、「相手を言い負かすことばかりを指向する」デベート式の議論の仕方にも劣らず難があります。 私は、議論というのは、互いに不足する知識を十分に補充し合い、啓蒙し合った上で、価値観の違いに折り合いをつけるための手段だと捉えています。 価値観自体は変わらなくても、十分に啓蒙されれば、立場が変わるということは幾らでもあり得るし、そもそもそれを期待して議論をするのだと思います。 双方が自分たちの立場を死守することだけが目的の議論では、私には不毛としか思えません。

 ところが、ESSにおけるデベートやデスカッションでは、正に自分たちの立場を死守することは当然の前提であり、更に議論の目的に首を傾げなければならないことに、肯定側につくか否定側につくかが、本人の意志とは無関係に決められることもあるのです。 つまりESSの連中というのは、知的遊戯のためには、あるいは勝負のためには、何の躊躇いもなく自分の立場を替えることができ、そのどちらの立場に立っても、自分の立場の正当性を「論理的に」相手に説得することができるのです。 ということはESSでは、事実であるかどうかが分からない、あるいは明らかに嘘であると分かっているような、ある主張(例えば「原発は安全である」とか「南京虐殺はなかった」とか)の「正当性」を、「論理的に」論証できる能力をも養っていると見ることもできます。 こうした能力は、例えばジャーナリズムの批判を巧みに交わし、政府や企業の論理を民衆に納得させたりするのには、大いに利用価値があるかも知れません。 私が所属していた頃と現在ではESSの状況もだいぶ変わってきているのかも知れませんが、最近は高校で、日本語によるデベートの大会などもあるようですから、ますますヨーロッパ式議論を崇拝する傾向が高まっているのかも知れません。

 因みに私がESSにいた時は、確か「日本政府はGNP比一%を越える防衛予算を組むべきである」といった命題に対してデスカッションをしていました。 私は当時から軍備自体に反対の人間でしたから、当然、「反対」以外の立場を取るつもりなどなく、多くの部員も最初は「反対」の立場でした(デスカッションの方は、本人の意志で自分の「立場」を決められるくらいの柔軟性はあった)。 ところで、デスカッションでは、自分の主張の正当性を示すような資料のことを「エビデンス」(英語 証拠)と言い、十分なエビデンスを伴った発言は説得性が高いと見られる一方で、エビデンスを伴わない思考実験的な論理の展開などは説得性が低いと見られる風潮がありました。 統計資料や科学的試算や実験結果などをエビデンスとして用いることは、確かに意味のあることだと私も思いますが、デスカッションでは、「権威のある人の発言」が、実はかなり有効なエビデンスとなるのです。 だから、同じ主張をしたとしても、その主張と同じことを言っている「権威のある人の発言」を示したか否かで、説得性が大きく変わってしまうのです。 ということは、これは主張の論理性を評価しているのではなく、如何に権威ある御用学者と共通する主張をしているかということが評価されているに過ぎないのではないかと思ってしまいます。 ともかく、世の中には反動的な御用学者が多いということなのかどうか知りませんが、当時は、GNP一%枠突破を正当化するエビデンスの方が優勢だったように思います。 ところで、こうしたデスカッションの題材は、毎年ごとに与えられ、一年間は、その同じ題材で大会なぞをやる訳ですが、その年の前半の大会では、GNP一%枠突破に反対の立場でデスカッションに臨んでいた人たちの比較的多くが、後半の大会では、GNP一%枠突破に賛成の立場に変わったのです。 その人たちの言い分は、本当は軍備拡大には反対なんだけれども、軍備反対では議論に勝てないから、ということのようでした。 これは私にはとても不愉快なことでした。 「紅茶より珈琲の方がうまい」とか「猫より犬の方が可愛い」という程度の微笑ましい題材であれば、遊戯と割り切って、「本当は紅茶の方が好きだけど」とか「本当は猫の方が可愛いと思うけど」と思いつつ、自分の本心とは違う否定側にも、肯定側にも気楽に立場を替えられるかも知れません。 しかし、「防衛費一%枠突破」といった深刻な問題が、たかが知的遊戯のために、自分の立場を替えて平気でいられるような題材だとは、私には到底思えないのです。 尤も、自分とは反対の立場を模擬的に演ずることによって、相手の論理にも一理ある部分や、自分の論理の手薄な部分に目を向けることができるという意味では、有効な場合もあるかも知れません。 しかし、その場合は、相手の立場も演じてみた後で、互いの意見の不一致が何に起因しているのか(一方の無知であるのか、両者の価値観の違いであるのか、など)を考察した上での、より深い結論(「やはり自分の考えが正しかった」とか「どうやら相手の方が正しいようだ」とか)に止揚させることをしないのなら(ただ勝敗を付けられて終りだけなら)、議論をする意味がないように思います(*a)。

*a 「科学的命題」に関する論争については、 安斎育郎著『科学と非科学の間』(かもがわ出版)に述べられている 以下のような態度に私も共感します。

 なお、Kさんには、懐疑派と超常現象陣営の先端的論争を「戦い」ととらえている 面があるようです。戦いには「勝ち、負け」がありますが、実は、現在論争している 陣営のどちらの正当性が証明されても、それは真理に一歩近づいたという点において 「科学の勝利」なのであって、決して「科学の敗北」ではないのです。後に詳しく 述べるように、科学は「事実との照合によって客観的に正しいかどうかの判定がつく 命題群を貫く関係的法則性についての体系的な合理的認識」のことですから、新しい 事実の発見によって、それまでの知識の体系が再構築を余儀なくされる可能性は常に 存在します。ジャパン・スケプティクスに参加している懐疑派たちは「真理」の側に 味方するのであって、自分の仮説の勝敗と心中することを至上の価値としているわけ ではないでしょう。私たちは、結果として自分たちが掲げていた仮説の不当性が証明 されたら、謙虚に新たな事実を受け入れ、体系的知識の再構築に乗り出すことに少しも やぶさかではありません。 
遊戯のために自分の思想的立場を変えられる人間というのは、どうも金をもらえばいくらでも嘘をつける偽善者を連想させます。

 安部公房の『イソップの裁判』(註三)という短編の中で、 これを象徴するような話が出てきます。 植民地の支配者が、死と引き換えに富と名誉と地位とを与えるという条件で奴隷の指導者を味方につけようとするものの、その奴隷の指導者がその「取引」に応じないために、失望して次の言葉を吐きます、

なるほど、異端は暗がりに住むことを好むものだ。 異端が異端でなくなったら、もう何の値打もなくなるのだからな。 われわれは富に飾られた生命を誇りに思うが、あなたは苦痛に飾られた死が誇りだと言う。 私の思い違いだったようだ。 金をそえて品物を売ってもらうような取引には馴れていなかったのです

と。 これに答えて、その奴隷の指導者は次のように言うのです、

私もまた思想を品物にする取引には馴れていない

と。 この言葉は、私の気に入っている言葉の一つなのですが、偉そうなことを吐かしている私も、死と引き換えにされたら、思想を品物にしてしまうかも知れません。 しかし少くとも、たかが日常生活において「変な人」だと思われる程度のことにすら屈して、自分の思想を品物にしてしまうようなことはしたくないと思っています。

 さて話が逸れましたが、私が述べてきたESSの体質は、ひょっとすると、当時の地方的な特殊な例だったのかも知れないし、現在のESSの体質はまた違うものなのかも知れません。 但し、最近、高校で行われている日本語によるデベート大会などをテレビで見たりする限りでは、デベート式の議論を模範的議論の在り方と捉える風潮が、ますます拡大しているような気がします。

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言語問題を考え始めるきっかけ——大学の電子掲示板上での議論

 さて、前にも書きましたが、大学時代の私は、外国人と話す時は英語を、国内の他地方出身者と話す時は標準日本語を話すのが、当然であり、礼節であるとすら考えておりました。 更には、より「美しい」「正しい」発音で話すことが、相手に対する思いやりだとすら考えておりました。 だから、外国人に対して英語で話そうとしないフランス人や、他地方出身者に対して標準日本語で話そうとしない関西人の姿勢は、完全に間違っていると、当時は確信しておりました。 そんな私の、この確信が揺らぎ始める一つのきっかけは、大学の電子掲示板(研究室から利用できる学内のパソコン通信のようなもの)における、方言についての議論でした。 数箇月に渡る議論を全て転載する訳にはいかないのと、当時の議論の参加者たちの連絡先を調べて掲示の転載許可を取るのがめんどうなので、ここでは、私の書いた掲示だけをそのまま、転載し、それに対する他の人の反論などは、私が要約して説明することにします。 とうのは、この一連の議論の中で、当時の私は「標準語支持者」の典型的な考え方を展開しているので、それのどこがおかしいか、また、現在に至るまでにどのように私の考えが変わったのかを、現在の私の視点で解説するのを主な目的としたいからです。 愚かだった過去の自分の誤解に満ちた言葉をそのまま人前に晒すことは、なかなか恥ずかしいことではありますが、敢えてそれをするのは、さんざん遠回りをして得た結論だけを示すよりは、正にその誤解を解いていく過程をこそ示した方が、場合によっては(特に同じ誤解を抱いている人にとっては)啓発的で分かりやすいかも知れないと思うからです。 とにかく、以下にその掲示を並べてみます。

(この辺から後はかなり未整理です)

 一九九三年十二月頃、東北大学の電子掲示板(BBMS)において、「東北人は何故、方言を遣わないのか」「東北に来てせっかく東北の文化を垣間見ようと思っているのに、東北出身者はわざわざ標準語を使う」といったことが議論されていました。 東北出身の私には、それらの掲示が不愉快にも思えたので、まず次のような掲示を書きました。

 

<Re:一連の方言関係の話(一九九三年十二月六日)

 本当はこんなものを書いている場合ではないのですが、東北人を代表するような意見がさして出てこなかったようなので、遅れ馳せながら、ちょっとだけ暇を割いて書かせて戴きます。

 私自身は親の代から石巻の人間であり、石巻弁にはとりわけ深い愛着を持っています。 しかし、同郷の人以外に対してこの言葉を喋ろうとは思わないし、そんな発想自体がありません。

 私は、大学入学当初、関西出身の人の中には関西出身でない人と話すときにも堂々と関西弁で話す人の割合が極めて大きいことに驚かされました。 石巻出身の私が相手の為に使い慣れていない標準語を苦労しながら使ってあげているというのに、かたや何の躊躇いもなく堂々と方言で話し掛けてこられたのでは割に合いません。 尤も、田舎のおじいさんやおばあさんで標準語を喋れないとか、字面だけは標準語を喋ろうとしているのだけれどイントネーションなどにどうしても脱け切らない訛りが出てしまうというのなら、まだ好感が持てます。 しかし前述した人たちは意味が違います。 彼等は自分たちと違う言葉を喋る人に対しても、何の疑問もなく自分たちの言葉で話し掛けるのです。 私は最初、これは関西の方々の民族主義的精神(悪く言うなら「関西」という国への国粋主義的または中華思想的精神)の現れだと思っていました。 つまり自分たちは優れた民族だから回りの地方の人間は自分たちの言葉を理解できるべきだし、優れた民族である自分たちがわざわざ他の地域の人間の為に標準語なるもの(それも違う地方の言葉によって構成されているもの)を覚える必要もなければ喋る必要もない---とそういう考えもしくは意識を持った人が関西には大勢いる---ということなのだと思っていました。 私にそう思わせる理由はいくつかあって、例えば関西出身の友人の中には、関西には昔、奈良とか京都とかに都があって歴史的に栄えたところなのだから関西弁を第二標準語ぐらいにしたっていいのではないかといった意味のことを言う人が何人かいたからです。 こういうことを聞かされると、東北のような歴史的にあまり栄えなかった地方の文化や言葉は廃れようが消滅しようがどうでもよくて、自分たちの文化や言葉がより広く日本全土に浸透することを望んでいるように思えてきます。 それでは、彼等の望み通り関西弁が第二標準語と認定されたとして、それは関西以外の人に如何なる益をもたらすでしょうか。 関西の人間に対する地方の人間の反感を助長するだけのような気がします。 東北地方には標準語(仮令それが東京の言葉によってつくられているとしても)を嫌いな人は殆どいませんが、関西弁を嫌いな人はそれなりにいると思います。 ですから、関西弁が第二標準語などにされた暁には、今「東京弁」を忌み嫌っている関西人のように、「関西弁」を忌み嫌う東北人やその他の地方の人間がたくさん現れるような気がします。 そして彼等は、関西人の前だろうが誰の前だろうが自分たちの方言しか喋らなくなるやも知れません。 ひょっとすると関西の方々は、そんな、アナーキーな状態を理想と考えているのでしょうか。

 私は最近、関西の人間の多くが標準語を喋らない/喋れない理由が、必ずしも中華思想的意識にのみよるものではないという気がしてきました。 というのは、関西出身の友人で何の気なしに、東北の人も東北弁で喋ればいいのにという意味のことを言い出す人が何人かいたからです。 つまり彼等は、方言はそれが話されている地方以外の人には「通じない」または「聞き取りにくい」ということ自体をまるで分かっていないようなのです。 確かに関西弁の場合には、テレビやあるいは大学などでも堂々とそれを喋る人が多い為に、関西出身でない人も不本意ながら関西弁を聞き取れるようになってしまうという構造があります。 現に私などは小学生の頃まで、漫才などて話される関西弁が聞き取れませんでしたから、関西弁はこうした地方の人間の学習効果にずうずうしくも浴していることになります。 流石に今では私もテレビで流れる程度の関西弁は聞き取れるようになりましたが、決して聞き取り易い訳でも、ましてや聞き心地が良いものでもありません。 そういった方言の聞き取りにくさを理解しているからこそ(尤も、一部の東北弁では標準語との相関が著しく低いということもありますが)、自分と違う地方の人間に対しては標準語で話そうと努めるのが我々の常識であり、また相手に対するエチケットなのです。 こういう感覚を持った地方出身者に対して臆面もなくこのエチケットを破ってこられたのでは、いささか不愉快な思いをすることもあります。 しかし、それが中華思想という訳ではなくて、単にこうした実情を知らないだけなのだとしたら、そうした個人に腹を立ててもしょうがない気もします。 例えば私などは、大学に入るまで標準語をまるで使っていなかった訳でもなく、小学校高学年ぐらいまでには、授業中の発言とか、店員と話をする時とか、公共性や事務性の高い状況では標準語に準じた言葉を喋るようになっていました。 つまり大人の会話を聞きながら標準語と方言の機能性と使い分け方を覚えてきたのでしょう。 一方、関西出身のある友人などは、高校のとき初めて東京に出たら、回りの人がみんなテレビドラマの言葉で喋っているので驚いたそうで、彼はそれまで関西弁が全国で話されていると思っていたらしいのです。 ここまで極端ではないにしても、こうした「感覚の違い」は多かれ少なかれあるのでしょう。 P.S.

 時に、標準語なるものはいつ頃どのように形成され、どのように全国に浸透していったのでしょう。 例えば、時代劇で話されているような言葉が当時の標準語で、どの時代にもそれなりの標準語が存在したということでしょうか。 書き言葉にすら方言が存在した時代というのがあるのでしょうか。 あるいは文字を書ける階級というのは、その時代の標準語を操れたということなのでしょうか。 P.P.S.

 言葉というのは、それが発生した地点から放射状に波及していくものです。 アクセント分布図を見ると、関西弁が最も新しい言葉である一方、東北弁がかなり古い言葉であることが分かります。 ということは、関西で都が栄えていた頃に話されていた言葉というのは、ひょっとして現在の東北弁に近かったのかも知れません..... 1993年12月頃掲示>

 さて、いま読み返すと、色々と問題のある発言をしていることがよく分かります。 一見、論理的には一理ありそうなことも言っておりますが、その論理には落ちがあることを後に悟りました。 その辺のことは、後でまとめて説明しますが、ここでは、これに続く私の掲示を並べてみます。 この掲示を出した直後、これに賛同して感謝までする東北人(確か秋田だったか)がいる一方で、「戦後の沖縄でなされた標準語政策の思想に似ていてぞっとする」という意見がありました。 これには私も面喰いました。 当時としては、より中立的であると信じていた自分の考えを、言わば差別的、帝国主義的であると指摘された訳ですから。 私は、方言差別や標準語同化政策への問題性について改めて気付かされたものの、異なる言語圏の人どうしの意志の疎通には、どの言語を使うべきなのか分からなくなってきました。 そこで、私は私なりに現状を分析した上で次のような掲示を書きました。

<ちょっとだけ(一九九三年十二月十七日)

 私も標準語政策のことには考えが及びませんでしたが、そう言えばこの手の政策は東北においても過去になされてきたのでしたね。 ところが、その政策の所為か(御蔭か?)今現在の我々の世代では標準語を話すことが他の地方の出身者へのエチケットであるという感覚が常識化してしまっている訳です。 となるとこの状況は、ある理想的ではない制度を、不本意ながらも妥協して受け入れた者と、それを頑なに拒否し続ける者との擦れ違いということでしょうか。

 あまり適当な譬えは思い付かないのですが、例えば消費税制に反対ではあるけれども法律で決まってしまったから仕方なく払うことにしている人が、消費税に飽くまで反対してそんなものは絶対に払わないという主義の人に対して(仮にそういう状況が可能だったとして)、「自分が不本意ながらも消費税を払って損をしているのに、それを払いもぜずに我々の払った消費税の恩恵に浴されたのじゃ割に合わない」という関係に近くないですかね。

 もし今現在でも標準語を喋れないことによるいじめや差別が深刻な問題だとすれば、確かに標準語制度に反対する立場にも一理あると思います。 一方、標準語制度を受け入れてしまってそれを常識と思っている人々と、それを飽くまで否定し続ける人々との間に必然的に生じてしまう構造的不平等を、どう解決するかが問題となるでしょう。
 「我々が標準語を受け入れたのだからおまえらもそうしろ」
 「我々は方言に固執するつもりだからおまえらもそうしろ」
ではいつまでたっても話は擦れ違うだけでしょう。 月並みながら相互理解が大切だということでしょうか。 きちんと議論したい問題ではありますが、D論がありますので、またそのうち... 1993年12月掲示>

<歴史的文化的背景と非対称性(一九九三年十二月二十三日)

 他地方の人と話をする際に標準語を使おうとする人たちと、通じる限り方言を使おうとする人たちとの間の構造上の非対称性(せっかくこっちが標準語を喋ってやっているのに向こうは臆面もなく方言を使ってくる/せっかくこの地方の文化を垣間見ようと思っているのにわざわざ標準語で喋ってくる)が生じる理由が、果たして歴史的背景により自明なことなのかどうか私にはよく分かりません。

 私が他地方出身者に対して標準語を使おうとするようになった原因の中で、過去になされたであろう標準語政策というものがどういうかたちでどの程度反映されているのかすら見当がつかないのです。

 私の地元では過去にそういうことがなされたという話を聞いたことがありませんし(たまたま私の耳に入らなかっただけのことなのかも知れませんが)、爺さん婆さんたちは標準語を全く話せない方が普通ですから、仮にそういった言語統制のようなことが過去になされていたのだとしても、現在の英語教育による教育効果ほども成果はなかったのではないかという気もするのです。

 一方、学校の先生が授業をするときに使う/あるいは生徒に使わせる言葉が訛った標準語であるという辺りに、そうした過去の政策の名残が現れているのだという指摘もありましょう。 仮にそうだとして、その訛った標準語を我々が他地方出身者に対して使うようになるのかというと(そういう人もいない訳ではありませんが)そうではなくて、我々の多くはもっときれいな標準語を話せるように努力するのです。

 通じればよいということであれば訛った標準語でいい訳なのですが、我々はより標準語に近い言葉を覚えようとします。

 コンプレックスも勿論あるでしょう。 東北訛りはからかいのねたにされやすいですから。

 しかし、相手に対する配慮というのもあるのです(少くとも私の場合はこれが割と大きいような気がします)。

 というのは自分自身、関西なまりの標準語とかはアクセントが悉く逆で聞き取りにくいから、東北なまりの標準語も濁点がかって聞き取りにくいだろう等と思うのです。

 あるいは、そうした訛った標準語では目上の人と話す時にふざけていると思われるのではないかという不安もあるでしょう。

 それから私の場合はコンプレックスとは関係なく言語としての標準語をきれいだと思っているということもあります。

 それは自分の方言がきたないと思っているという訳では決してなく、自分の方言も美しいと思うし、それが自分にとって一番好きな言語ではありますが、自分の方言とは全く別のベクトルに美しさを持つ言語を操ってみたいという魅力を標準語に感じているのです。

 例えば私は日本語を美しいと思う一方で英語が美しいと思いますし、だからこそ英語をきれいに発音できるようになりたいと思っています(私の英語力は高が知れていますが)。

 通じればいいのであれば、程度にはよりますが日本語訛りの英語でじゅうぶんです。 しかし日本語訛りの英語は、日本語の美しさからも英語の美しさからも程遠い極めてきたない且つ聞き取りにくいものに私には思えます。

 この「程度にはよる」というのが実は問題で、それほど聞き取りにくくなければ、これは単に個人的美的感性の問題で片付けることができるでしょう。

 では聞き取りにくい「標準」日本語や「標準」英語だったらどうでしょう。

 尤も日本語の場合は訛った標準語でもそれほど聞き取りにくい訳ではありませんが、英語の場合は訛っていると本当に聞き取りにくいものです。

 アジア出身の留学生の中には歴史的背景や文化的背景のために意志の疎通ができる程度の英語が話せるようになってしまっている方が大勢いらっしゃいます。

 その中には学術的な議論の場で極めて聞き取りにくい母国語訛りの英語を話す方もおります。

 さて「彼等は母国語ではない英語によってコミュニケーションをとろうとしているだけで評価されるべきであり、我々は彼等の訛った英語を聞き取れるように努力すべきである」のか、「歴史的文化的背景がどうあれ英語をコミュニケーションの手段に選択したなら最低限聞き取れる程度の英語を喋れるように努力するべきである」のか「そもそも英語を標準語として使おうとするのが間違いであり、 どの言葉を使う人にも平等な不便が生じるように人工語をつくるべきである」のか......等々、様々な立場があるでしょう。

 私自身、自分が取るべき立場をはっきりできるほどこの手の問題を自分なりに考え切れてはおりません。

 方言の問題にしても現状の非対称性をどう解決していくべきなのか(「どの地方の人も他地方出身者には標準語を使うように努力すべきである」のか「どの地方の人も通じる限りは方言訛りの標準語を話すべきである」のか)、あるいは非対称性が生じるのは不可避であり今のままにしておくのがいいのか、極めて難しい問題だと思います。

  そう言えば、私には非対称に対するコンプレックスのようなものがあって、女性の水着が胸まで隠すのに、男性の水着は胸を露出するというのではなんか男の方が損をしているのではないかとか、男性の清掃員が女子トイレに入ることは憚られるのに、女性の清掃員はこちらが用を足している最中にもどうどうと男子トイレに入ってくるのはセクハラではないのかとか......しかし、こうした問題は大部分の人が歴史的背景文化的背景により受け入れてしまっているものです。

 夫婦別姓とかセクハラとか取り沙汰されていないところにいくらでも、非対称構造は転がっているような気がします。

 というか、それに気付いていないということは多いと思います。

 例えば、研究室界隈の女性秘書さんたちは比較的若い先生方に対して「ためぐち」をききます。 しかし我々男子学生は間違っても先生方に「ためぐち」などきけません。

 そこでふと、この言葉の丁寧さの視点から見て、今まで自分の回りで交わされてきた年齢の異なる友達、先輩、後輩間の会話が、極めて男女非対称であるということに気付いたのです(尤も女性のサンプル数は少いんですが)。

 私自身の統計ですから説得性はないかも知れませんが、男の多くはかなり親しい仲になっても同性の目上に対しては敬語を使い続け、異性の目上に対しても特に恋愛感情が介在しない限りはこれに準ずる一方、女の多くはちょっとぐらい親しくなると特に恋愛感情が介在しなくとも異性の目上に対しては「ためぐち」をきくようになり、同性の目上に対してはこれに準ずるのではないでしょうか。

 この非対称性は完全に無意識のうちに受け入れてしまっていたような気がします。 現に女性秘書が若い先生に対して「ためぐち」をきくのを端で聞いていて少しも「失礼な人だ」とは感じなかった訳ですから。

 この非対称が生じる理由は、歴史的背景や文化的背景がどう機能したのかあれこれ想像実験してみても私にはかなり謎です。

 話はそれましたが、標準語・方言にまつわる非対称の成立原因も、極めて多くの要因が連成していて、単純には片付けられるようなことではないのではないかというのが取り敢えずの趣旨です。 1993年12月掲示>

 まず私は、ヨーロッパによる植民地支配について「歴史的背景」などと簡単な言葉で済ませておりますが、当時の私は、その非人道的犯罪性について、深く認識していなかったのであります。 つまり、正にヨーロッパ人の多くがそう考えているように、「未開な国に文明をもたらしたのだから、いいこともしたのだ」にも近い傲慢な考えすら抱いていたかも知れません。 というのも、「植民地」という言葉からは、虐殺や強姦を伴う侵略の光景や、その後の分割・統治・言語や宗教の文化的同化政策の過程を無知ゆえに連想し切れずにいたのです。 例えば、アメリカ大陸には、もともと大勢の先住民が平和に暮らしていたのをイギリス人に侵略されて、ほぼ絶滅させられてしまったのだといったことを、私はまるで正確には理解していなかったのです。 私には相対的視点がことごとく欠けておりました。

 例えば、日本に侵略され統治されたアジアの国々の年寄りが、今でも日本語を話せることを私は遺憾に思うし、そういう方々と話をする機会があったとしたら、日本語でではなく、通訳を通して話すか、エスペラントのような中立語で話したいと考えます。 そのように考える日本人は少なくないでしょう。 ところが、多くの英語国人は、自国が侵略した国の人々に未だに英語を喋らせて、それを当然だと思っているのではないでしょうか。

 さて、先の掲示の中で私は、<「そもそも英語を標準語として使おうとするのが間違いであり、どの言葉を使う人にも平等な不便が生じるように人工語をつくるべきである」のか......等々、様々な立場があるでしょう。 私自身、自分が取るべき立場をはっきりできるほどこの手の問題を自分なりに考え切れてはおりません。 >と書いているように、中立な人工語の可能性にも思い至ってはいたようです。 しかし、それがすぐにエスペラントには結びつきませんでした。 エスペラントの存在自体は大学に入って間もない頃に便所のびらで見て知ってはいたのですが、そのびらには「世界をひとつの言葉で」といった宣伝文句が書かれていたので、これは、世界の多くの民族語を抹殺して、言葉を一つに統一してしまおうという、とんでもない言語帝国主義の運動だと誤解して理解していたからです。 そういう意味では、エスペラントの広報活動のやり方自体が誤解を生んでいる面はあると思います。 その後、本多勝一氏の著作『殺される側の論理』『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか』などを読み、エスペラントがどうやら特定の民族の有利にならないようにつくられた中立な人造語だということを知り、これをやってみようと思うようになる訳です。 そう思い至るのは一九九六年の二月頃ですが、次に示すその少し前の掲示で、私は、公用語化した一つの民族語を、その他の民族が独自に訛らせて(関西標準語のように)使うのがいいのかも知れないと考えるようになっています。 つまり、「方言訛りの標準語」を許容する立場になっています。 相関性の高い日本国内の方言間の「標準語」については、それで十分でしょうが、まるで相関のない言葉を使う民族間の「国際公用語」については、そうもいきません。 その場合は、やはり一つの民族語を標準語として使わざるを得ないのだろうかという葛藤の中にいた時期です。

<方言について(一九九五年七月七日)

 確か愛知の方では、「行くでしょ?」を「行くだらー」、「行こう」を「行こまい」(逆だったろうか)というのではなかったでしょうか。

 つまり東北弁でいうところの「行ぐっちゃ?」が「行くだらー」、「行ぐべ」が「行こまい」という対応になっていたと思います(上のが逆ならこれも逆)。

 さて、私は「っちゃ」と似たような意味や用法で使われるものには、関心がありますが、愛知の「だらー」には、 1.「付加疑問」 の他に、 2.「ありきたりの結果を知った際の白け」 を表して、「なんだ……じゃないか」というようなときにも「なんだ……だらー」というような使い方はあるのでしょうか。 それから、接続は用言の終止形ですか。 動詞のみですか。

 北海道の「っしょ」は確か、上記の二つの用法があったかと思います。 その意味では横浜の方の「じゃん」もこの二つを含んでいるかと思います(但し、「じゃん」の方が、意味、用法ともに広い思いますが)。

 ところで、「じゃん」はネイティヴに限らず、流行り言葉のように広く遣われている/いたと思いますが、それなりに本来の意味・用法が守られているような気がします。

 例えば「行こう」の意味で「行くじゃん」などと言ってしまったりする人はまずいないのではないでしょうか。

 ところが「っちゃ」に関しては、他地方からこの辺に来てそれを面白がって遣ってみる人たちは悉く意味や用法を無視してしまいます。

 つまり「行ぐべ」というべきところで「行くっちゃ、行くっちゃ」などとやられてしまうのです。

 さて、「じゃん」に関しては、それなりに正しい用法が覚えてもらえるというのは、それが正しい用法で話されているのを耳にする機会が、「っちゃ」などに比べて圧倒的に多いからということなのかも知れません。

 現に私自身、傍で他地方出身者が東北弁を誤った用法で面白がって遣っているのに堪え難いイズさを覚えつつも、その他地方出身者に話す際には方言を遣わないのがエチケットだと思っている訳ですから、ひっきょうするに東北弁は覚えられる機会を自ら放棄しているのです。

 そうした態度に対しては、いつかの方言の議論の際に色々と非難がなされましたが、今のところ私には、方言の聞き取りにくさや横柄さを避けたいという気持ちの方が支配的だというだけで、その態度の是非はやはりまだ分かりません。

 聞き取りにくさに関しては、他地方出身者の前で話される機会が多くなり、今の私が関西弁を聞き取れるのと同じぐらいの理解度で聞き取られるようになれば解決することかも知れないし、横柄さに関しては、他地方出身者に対しては標準語を遣うことがエチケットだという通念がなくなれば解決することかも知れません。

 後は程度問題なのかも知れません。 自分の言語とどの程度まで相関の低い言語をどれくらいの数まで我々は覚えることができるかとか、相関が低い言語をどの程度まで標準語化されれば覚えられるかとか。

 世の中に存在するすべての言語(外国語)を万人が覚えて誰もが母国語で話せるようにするというのが理想だとは思いませんが、ある特定の国の言語が標準語として遣われるようになり、それが各国の母国語の影響を受けて「通じる範囲で訛った」各国語訛りの標準語が多数存在するというのは、それはそれで自然な結果だとは思います。

 後は、標準語を覚えて母国語と標準語を遣い分けるよりも、母国語訛りの標準語を覚えて母国語との区別をそれほど意識しないことの方が利点が多くなる程度に、母国語と標準語との相関が高いかとか、母国語訛りに悪い印象が付着していないかとかということによって、いずれの立場を取るかが別れるのではないでしょうか。

 例えば、関西弁は標準語との相関が高く地域差も小さく特に悪印象も持たれていないので、テレビで耳にするような「関西標準語」のようなものが成立し得たのに対し、東北弁は標準語との相関が低く地域差も大きく田舎くさいという印象を持たれているから「東北標準語」のようなものは成立しないのではないかと最近は考えています(しかし、子供の頃、関西弁の漫才が私にはまるで聞き取れなかったことや、アクセントに関しては東北の方が標準語に近い地方が多いことを考えると、果たして関西弁と標準語との相関が高いかどうかは自信ありません)。 ……1995年7月掲示>

 この半年後くらいから、私は本多勝一氏の著作などを読み耽るようになり、 おおかた現在と同じような立場に立ちます (確かに私は本多氏の著作に多大な影響を受けましたが、 最近の本多氏の司馬遼太郎批判、肉食や牛乳の有害説、東洋医学礼賛など に象徴される擬似科学的な主張には賛同しかねます)。

(擬似科学については、大豆生田利章さんの「擬似科学に関する文献リスト」の 頁へ)。

 つまり、「国際公用語は、特定の民族の有利にならないように中立な人造語を採用すべきである」「現在、実用化に成功しているほぼ唯一の人造語はエスペラントである。 これにはヨーロッパ語よりだとか男女区別の言語だといった難もあるが、英語を国際語にすることに比べれば遥かに中立である」「国内各地方の方言は、全て各々の地方の母語として尊重されるべきである」「国内の母語(方言)がかなり異なる人どうしが意志の疎通をするための公用語はあってよい。 しかし、国内の公用語にエスペラントなどの国際公用語だけを採用するのは問題がある。 移民の多い土地や他民族国家では、公用語をそのまま母語にしてしまう危険性があるからだ。 エスペラントを母語とする民族が現れた時点で、エスペラントの中立性は消失する。 」「国内の公用語は、方言の最大公約数でよく、アクセントや語法にある程度の幅があってよい。 」「アイヌ語、大和ことば、琉球語のように、国内に方言ではない複数の言語が存在する場合、それぞれの言語圏でそれぞれの言語が公用語として使われるべきであり、特定の言語圏の公用語が他の言語圏に強制されるべきではない。 異なる言語圏の人どうしの意志の疎通には、同じ国内であってもエスペラントを使っていいと思う。 但し、異なる言語圏の人どうしの交流が盛んになった結果、エスペラントをそのまま母語にしてしまう子孫ができてしまう危険性に常に留意していなければならない。 」「あるいは、中立人造語と雖も、時間とともに、ある人々が母語としてしまうのは避けられないことだとすれば、中立人造語というのは、それが中立性を失い始めるごとに新しいものを作るということを繰り返し続けなければならないのかも知れない」「中立人造語を、母語にはしないような制約を設けて(学校教育などで十歳までは中立語を教えないとか、たとえ国際結婚しても、子供を中立語だけで育ててはいけないとか)使うか、あるいは、何の制約も設けずに自由に使って、それが中立性を失い始めた時点で新たな中立語を作るか、そのどちらがいいのかは現在は判断しかねる」「自分の子供に幼児期からエスペラントを教えるエスペランチストがいるが(民族語の違うエスペランチストどうしの夫婦の場合はある程度仕方がないのかも知れない)、中立語の使い方として私にはどうも疑問である。 だからといって、中立語でしか意志の疎通のできない二人が結婚して子供を設けてはいけないという訳にもいかないから、難しい問題である。 子供を中立語『だけ』で育てなければ、あるいはいいのかも知れない。 例えば、東北地方でも、子供を東京語『だけ』で育てる親が増え、東京語『だけ』を母語とする子供が増えていることを考えると、私には楽観視できない問題である。 東京語は中立語ではないが、同じことは中立語にも十分に起こり得ると私は危惧する」

 ところで、言語に対してこのような相対的な立場に立つようになってから、私の言語に対する美的好みもだいぶ変わってきました。 例えば、曾てはあんなに不快に聞こえていた関西弁が、別に不快ではなくなったし、曾ては「美しく」聞こえていた東京弁が、日本語の他の方言に比べて別段美しくもないし、むしろ「汚い」とすら思えるようになってきました。 例えば、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を賢治ゆかりの方が岩手の言葉で朗読しているのをテレビで聴いたとき、改めて東北の言葉の美しさを再認識するとともに、賢治の生誕百周年番組でしばしば聞かされる東京弁による「雨ニモマケズ」が、如何に「訛って」いて「汚い言葉」かとも感じました。 また、曾ては最も美しい響きを持つ外国語だと思って必死に発音の練習をしていた英語の響きも、他の外国語と比べて別段美しいとも感じなくなってきたし、テレビの宣伝や新幹線の車内放送や街中のあちらこちらで、聴きたくもないのに聴かされたりすると、実に耳障りだと感じるようになりました。 勿論、美しさなどというものは個人の美的価値観の問題でしかありませんから、東京弁や英語が普遍的真理として「汚い」などと言うつもりはありません。 東京の人が東京の人の価値観で東北弁を「ずーずー弁」と称し「汚い」 と評したり、ヨーロッパ人がヨーロッパ人の価値観でアジア人の言語 (とくに中国語)の発音を「滑稽」に思い「チャンチュンチョン」と形容 したり(註 中島義道『ウィーン愛憎』七十二頁)するのと同じように、私は私の価値観で東北弁を美しいと思い、東京弁や英語を汚いと思うようになったというだけの話であります*。

* 1999/4/10, 1999/4/21 追記

 「黒人を見ると吐き気がする」とか「男どうしが腕を組んでいるのを見ると吐き気がする」といったことを心の中で感じている分には、 確かにそれは「個人的嗜好」ではあるだろう (尤も、その「個人的嗜好」は多分に差別感情に根差している場合が多いだろうが)。 そして、その「個人的嗜好」を公の場で表明することは、 長年に渡ってそのような一方的な不条理な侮蔑をのべつ浴びせられ続けた者に とっては、十二分過ぎるほどに差別発言として機能し得るだろう。

 一方で、「白人を見ると吐き気がする」とか「男女で腕を組んでいるのを 見ると吐き気がする」といった「個人的嗜好」を誰かが公の場で表明したところで、 白人も異性愛者も痛くも痒くもないばかりか、そんなことを言う奴は自分たちを 僻んでいるのだとすら考えるかも知れない。 形式的には全く「対等」な「個人的嗜好」の表明であっても、それくらいに 侮蔑語としての機能性が対象によって変わり得るのである。

 私が「おいの美的感性では東京弁だの英語は汚らすねえ言葉だなや」と言ったところで、東京弁話者にとっても英語崇拝者にとっても別に痛くも痒くもないのだろうが、 私の方は 「ずーずー弁を聴くと吐き気がする」などと言われると、 実に不愉快でやり場のない怒りを覚えてしまう。 例えば、 はね奴さん

「吉里吉里人」に挑戦してみたことがあった。しかし今度は、ズーズー弁を読み進むうちに吐き気がしてきて、とことん相性が悪いんだな、と、思い知ったのであった。

「うさぎや日乗98年10月」
(http://www.osk.3web.ne.jp/~haneko/nitijo9810.html)
より引用)

程度の表現でも私は十分に痛手を受ける。 そして、「ズーズー弁」に吐き気を催すなどと公言してみせるような 人が性差別を批判していたりすると、 私は何とも複雑な気分になるのである* (まあ、他方では、言語差別を批判しながら、 言語の性区別にはまるで無頓着な エスペランチストなんかもざらにいるのだが……) 。
* 更に はね奴さんの自己紹介の頁を見ると 「双子座のAB型で、自称四重人格」などと書いてあったりする。 「A型は几帳面な性格で、AB型は二重人格だ」などといったレッテル貼りは、 言うまでもなく 「女は感情的で、男は論理的だ」のようなレッテル貼りと全く同様に、 最も基本的な差別の構造を提供する。 現に、人事異動の際に血液型によって職業適性を判断されたり、 幼稚園で園児の血液型別に「相応しい」保育指導をするなどという立派な差別 も行われているのである因みに血液型と性格の相関は科学的には既に否定されている。 重要なのは、 仮に科学的に相関が認められたとしても、 それを根拠にレッテル貼りや役割分業を正当化することはできない ということなのだ。 )。

 尤も、私自身も若い頃は血液型占いを信じていた時期があるし、 現在でもあらゆるレッテル貼りから自由だと言い切る自信はない。 それにしても、 差別を論じようとする人なら、 血液型占いのようなあまりにも典型的なレッテル貼りの差別性くらいには 気付いてほしいものだ

 ところが、この私も曾ては英語を美しいと思っていて、英語の発音に関して教養のない日本人が英語の発音をあまりに無視したカタカナ表記を用いたりすることに腹を立てていた時期があります。 その頃の掲示を読んでみましょう。

<本筋とは逸れる話。 (一九九二年九月二日)

 「レディース」というのを見て、ふと普段から感じていたことを思い出したのですが、日本人というのは何故か英語の原音から遠い方の発音を「英語らしい発音」と勘違いしてそちらの方を日本語として定着させてしまう嫌いが非常に強いような気がします。

 まずは二重母音[ei]を含む英語をいくつかカタカナで表記すると、レイディーズ、ゲイム、ホームステイ、デイリーライフ、エンターテイナー等々、既に日本語化している言葉がたくさんありますが、町やTVや活字などで見かけるこれらの表記は、レディース、ゲーム、ホームスティー、ディリーライフ、エンターティナーのようになっています。 というか、アナウンサーからして既にそういう発音をするようになってしまっています。

 しかも日常会話の中でも、そういった原音から遠い方の発音を使わなければ意味が通じないことが多々あるのです。

 例えばスーパーで「カラーフィルムありますか」と訊いたら訊き返され、「カラーフイルム」と言い直したら通じたことがあるし、雫石スキー場で「次はレイディーズに行ぐべ」と言っても通じなかったりするのです。

 「フイルム」で思い出しましたが、日本人は[ei]のような二重母音を単母音もしくは長母音化する一方、本来単母音で発音すべく小さいァィゥェォを添えられた表記「ファ」とか「フィ」に関しては2音節で発音する人が多いのです。

 例えば、「ファン」を「フアン」と言う人が最近増えてきました(アカシヤサンマ<字は知らない>なんかがそうです)。 今すぐには思い付きませんが、その手のは人名とかにたくさんありそうです。

 モーツァルトと書いたってどうせ「モーツアルト」とか「モーツワルト」とか発音している訳だし、ウィーンと書いたってどうせ「ウイーン」と発音している訳だし、(まあ、これらは何語を原音とした表記なのか分かりませんが)畢竟するに日本人は表記を無視して自分流に発音することに何等の抵抗も感じないのでしょう。

 そういう意味では、原語の単なるローマ字読みの方が原音から遠ざかっていてもある程度の法則性の下に作られた表記である分、ましなような気もします。

 原音から遠いので有名なのは「オーブン」、これは「アヴン」の方が近いでしょう。

 タケダテツヤが出ていたちょっと前のCMで「ブジネスマン」と画面に出てくるのがあったような気がしますが、いくらローマ字読みとは言え、あれはひどいですね。

 私は「ビジネス」という表記すら実は気に入らないのです。 「ビズネス」の方が近くないですか。 「トゥギャザー」も「トゥゲザー」にしてほしいものです。

 ウォークマンだのスターウォーズと言っておきながら、ウォーニングのことをワーニングと言う人が大量におりますが、原音に準じるのかローマ字読みに撤するのかの統一がとられていないのは気に入りません。

 とは言いましても私自身、極力原音に準じた表記および発音をする主義なのですが、先にも書きました通り、これをすると意味が通じないことが多々ありますので、既に日本語として定着してしまったものは不本意でも受け入れるしか仕様がないのかも知れません。

 ゼミ中に飛び交う英語にも気に入らないものはたくさんあります。 パラメーターはパラミターかパラメターかパレメターと言いたいし、アベレージはアヴァリッジかエヴァリッジかエヴェリジと言いたいしマトリックスにしたってメイトリクスかメトリクスかせめてマトリクスと言いたいものです。

 マトリックスで思い出しましたが、日本人は促音便を入れると英語っぽくなると勘違いしているところもありますね。

 ストップとかブックとかホットとかの表記はそれなりに妥当だとは思いますが、我々の耳にそう聞こえたとしてもそれらの英単語の中で実際に小さい「っ」が発音されているとも思えないのです。

 というのは英語圏の人は小さい「っ」の発音が苦手であり、例えば「ちょっと待って下さい」と言わせると「チョトーマテークーダサーイ」になってしまう(キングクリムゾンにもそんな歌があったっけ)というよな例から推測されることでもあるのですが、私が思うに、日本語の「っ」はそこで音節が一泊休符になるということで、英語の中の「っ」に聞こえる部分は直前にアクセントがあって直後にnやm以外の子音だけがくる場合の音ということではないでしょうか。

 つまりmatrixの発音の一つからマトリクスという表記を作った場合、アクセントがマにあるということが分かっている人はマトリクスと読み書きするでしょうが、勝手にアクセントをリのところに持ってくるとマトリックスにした方が日本語の発音上読み易くなりマトリックスの方が定着してしまうというようなことが起こるのではないでしょうか。

 アクセントもなるべく原音の位置を保持してほしいものですが、日本語の標準アクセントはことごとく原語とは異なるところに設定していますね。

 確かに「モダンな」をモにアクセントを置くと変な感じがしますから、日本語的に自然なアクセントが設定されていくのでしょうが、ミシンはシにアクセントを置きたいところですね。

 もともと「ミシン」や「メリケン粉」は聞こえた通りに表記した例であり、実際ネイティヴに対して「マシーン」とか「アメリカン」と言うよりは、「ミシン」とか「メリケン」と言った方がむしろ通じるのです(但しアクセントは各々シとメ)。

 だからこういう表記こそむしろ保存してほしいものだと私は思うのです。

 本当はまだまだ書きたいことはたくさんあります。 ソシアルでなくてソウシャルだとかデリケートは日本語になっているがデリケットの方がいいとか(まあ、チョコレートをチョコレットと書くのは評価しましょう)...、私は別に英語が堪能な訳では決してありませんが、英語をそれなりに操れる(私はその域に達してはおりませんが)人々があまりに発音に対して無頓着であることが、日本語の中の英語の発音をいい加減にしているのではないかと思いたくなるのです。

 コミュニケイションの手段と割り切ってしまえば通じさえすれば発音などどうでもいいということになるのかも知れませんが、聞き取る側だって苦労するのです。

 日本人に限らず、発音のいい加減な英語でも流暢に喋れる域に達するともはや発音を改善する努力を完全に放棄するというかその必要性を認めていない人々は多いし、そういう公用語用の英語が英語の方言として定着してしまっている国も多いのではないでしょうか。

 方言として定着しているのではそれはもはや一つの文化でもありますから、今更発音を直すことを強要したりしては方言禁止政策になってしまい、寧ろしてはいけないことでしょう。

 私は個人的に英語の響きが「かっちょいい」と感じ(特にイギリス英語の方)、聴いた感じから受ける外国語の響きの中では最も好きな言語であるので、それが「かっちょわるく」発音されるとちょっといやな感じがするという程度のことなのかも知れません。

 とは言えそういったことは所詮価値観の問題ですから、私が愛着を感じる東北の言葉を「なんと汚い」言葉だと感じる人がいたところで私が方言を捨てる必要性がないように、私の気に入らない表記や発音を用いる人がいたり、なまった英語が公用語化している国があったところで、既に形成されている文化であればそういうものとして認めるべきなのでしょう。

 さて、コミュニケイションで思い出しましたが、コミニュケーションとかシュミレーションとかって言うのは思わず言ってしまいそうになりますね。

 サメイション(Σ)のことをサンメンションという人も結構いませんか。

 斯く言う私もホーイトストンブリッジのことをホーイストンブリッジと言っていましたが...

 この手のはまだまだ出てきそうですが、もういい加減やめましょう... ……1992年掲示>

<アフター(一九九三年十月一日)

 日本語の中で通常使われている外来語の表記の殆どを私は気に入らないというようなことを大分前にここで話したたことがありますが、長音の表記についても結構抵抗を感じるものが多々あります。

 例えば、ファーストフードとかゴッドファーザーと言っておきながらアフターファイヴというのは何故でしょう。 アーフタファイヴと言うべきではないでしょうか。 それともアフターだけは米語ということなのでしょうか。

 日本人はmotorのことをモーターと言いますが、その発音では寧ろmortarに近くなってしまいます。 一方、日本人はmortarのことをモルタルと言いまが、この発音では寧ろmortalに近くなってしまいます。

 二重母音[ou]をオウと表記して何か問題があるのでしょうか。 r-colored vowelであっても長母音arやorをアルとかオルとかオアと表記するのはやめて、単にアーとかオーと表記して何か問題があるのでしょうか。 その方がずっと英語の発音に近いと私は思うのですが。

 例えば、ノーモアヒロシマはノウモーヒロシマ、フォアローゼズはフォーロウゼズという具合に新たな表記を導入したら、発音上その他そんなに致命的な弊害が生じるものでしょうか。

 日本語として完全に定着してしまったオーブンとかイメージの表記に対して、アヴンとかイミジorイメジと言った表記で対抗しても到底賛同者が得られないだろうことには納得もできますが、前々から言っておりますようにレディスとかレディースというのにだけは堪え難いものがあります。 あれはladies[leidiz]つまりレイディズとかレイディーズにしかならないと思うのですが。

 その手のものでは、アップルとかアルバムと言いながら、光のページェントと言うのは一体どうしたことでしょうか。 パジェントと言うのなら分からないこともないのですが。

 一方、原音に近づけようとしてかえって不自然に感じる表記というものもあります。

 例えば大江健三郎は(少くとも昔の作品では)コムパートメントとかコムピューターといった表記を用いていたと思いますが、これは寧ろ原音からも遠ざかってしまっているような気がします。

 例えば日本人はば行とかぱ行の直前の「ん」を発音する時は口を閉じているのではなかったでしたっけ。

 「しんばし」の「ん」はmの音に近いのではないでしょうか。 だから「コンピューター」と書いてもこの「ン」は殆どmの音で発音されているのではないでしょうか。

 下手に「ム」と書いたのでは母音を伴う[mu]という音節になってしまうので、かえって思わしくないと思うのです。

 そう言えば、韓国人の金さんを「キムさん」と書いたり言ったりしますが、そうすると日本人の「ム」は母音を伴う強い音節になってしまうので、漢字をそのまま読んで「きんさん」と言った方が寧ろ原音に近いかも知れないという話を聞いたことがあります。

 まあ、確かに表記などというものは、意志の疎通が可能な範囲であるならば(意志の疎通など目的としないのならば何の制約もなく)、個人の自由である訳で、、、畢竟はいつもと同じ結論ではあります。 ……1993年10月掲示>

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フィ、ヴェ、ディ等の表記を避ける理由

 今、読み返すと何とも恥ずかしい限りのことを書いていたものだと思います。 当時の私は、外来語は原音に忠実に表記するのが良いと短絡していたのです。 それも読めば分かる通り別に大した理論武装があった訳でもなく、単に日本人による外国語(といっても主に英語)のでたらめな発音に生理的嫌悪感を抱いていたという程度の感情的理由からに過ぎません。 私は英語のような「きれいな響き」を持つ言葉を、発音に無頓着な日本人が勝手に「かっこわるい」発音に置き換えるのが堪え難かったのでしょう。

 一般的に、ある言語が、その言語の音韻体系にない発音を持つ外来語を取り込む場合、その音韻体系の枠内で近似して取り込むのが普通であり、自然です(インキ、背広等)。 逆に、ある言語を母語とする者が、その母語を話している時に、その母語の音韻体系にはない発音をするのは、極めて困難であり、また聴いていても非常に不自然であります。 例えば、日本語の中で、西洋の人や地名の固有名詞 が出てくる度に、そこだけはアクセントや発声法を含めて忠実な原語の発音になることを想像してみれば分かるでしょうか。

 そもそも、外来語とは、外国語から入ってきた言葉で、どうしても母語に訳せないものに対して、そのまま外国語の音を近似した呼び方を付けているだけのことだから、別にその言葉の輸入先の外国人に理解される必要などない筈です。 「牛乳」は西洋から入ってきたものですが、これは日本国内では「牛乳」でいい訳であり、「牛乳」では「外国人」に通じないからと、これを「ミルク」と言った方がいいなどというのは、日本人は「外国人」のために日本語を捨てて英語を喋ればいいというのと、同じくらい倒錯したことだと思います。

 また、東北日本語の音韻体系では「美しい」は「うづぐしい」(但し、「づ」「ぐ」「し」は強い母音を伴わない)となりますが、これを「うつくしい」と発音しろと言われたら、非常な努力を強いられる訳です。 同様に、日本語の音韻体系にない音を様々に表記の工夫をして(「ヴェ」「ティ」「フィ」など)無理に導入したところで、日本語の中では読みにくいし、表記通りには読んでいないことが多いでしょう(「フイルム」「ビデオ」)。 逆にこれらの表記こそが英語らしいと勘違いして、「レディス」「ホームスティー」など、英語の原音からも遠ざかり、かつ日本語の音韻にも馴染まない表記や発音が流行するのは、ましてや滑稽なことだと思います。

追記:

 津軽弁では「ひとつ」のことを「ふぃとつ」と発音するから、「フィ」 の表記は許される筈だとの指摘を電便にて受けた。 確かに、東京方言の音韻を外来語表記の基準にする必要はないと思う。 例えば、東北弁には「シェ」や「ヱ(ウェ)」の音が存在するから、 これらの音を含む外来語に関しては、その表記の意図通りに発音する人が 多いかも知れない(因みに、探偵ナイトスクープというテレビ番組で、 関西のおばちゃんたちに「ディスニーランド」と言ってもらったら、 殆どの人が「デズニー」または「ヂズニー」と発音していた。 尤も、そういう例ばかりを紹介したのかも知れないが)。 しかし、実状は、多様な日本語方言の豊富な音韻に敬意を表して 外来語表記を考えている訳ではなくて、 日本語(方言も含めて)の音韻への馴染み易さなんかには無頓着に、 単に前述のような「原音主義」あるいは「英語標準主義」に従っているだけであろう。 最近、NHKが、既に日本語として定着している外来語の 「チーム」を「ティーム」などと読み替えているが、こんなのは 、やはり愚の骨頂であると思う。 それなら「背広」のことも「スィヴィル」または「スィヴォー」とでも 発音した方がいいとでも言うのか。 また、英語以外から取り込まれ、日本語の音韻にもよく馴染む音で 外来語化されて、既に日本語の中に十分に定着している 「コーヒー」「ビール」「エネルギー」などを、わざわざ 「カフェ」「ビア」「エナジー」などと読み替えるのも下らない と思う。

追追記
 ヴァヴィヴヴェヴォの表記については、日本語の発音の中でこれらを バビブベボと区別している人はまずいないだろうし、私自身まるで 区別していないし、下手に区別しようとすると、 「ベートーベン」か 「ベートーヴェン」か「ヴェートーベン」か 「ヴェートーヴェン」か で迷ったり、 たかがそんなカタカナ表記の確認のためだけに辞典を調べ なければならなくなったりして (更には英語音は原音ではないから実は 「ベートホーフェン」ではないのか と迷ったりして) 普段 喋っている言葉をそのまま文章に書けない という異常な事態が生じてしまう。 普段 喋っている通り「ベートーベン」は「ベートーベン」という 日本語でいいのだ。 一方、ティ/ディの表記については、ある外来語に に関しては、チ/ヂ(ジ)やテ/デの表記と発音を採用しつつも (……チスト、デジタル、ジレンマなど)、 割と新しい外来語に関してはティ/ディの表記を採用し、ちゃんと その通り発音もする人が 多数派になりつつある(ミルクティー、キャンディー、ディスコなど)。 つまり、ヴァヴィヴヴェヴォに関してはその発音が現代日本語の話し言葉には 定着していないからそんな表記は無視しておくとしても、 ティ/ディに関してはその発音が現代日本語の話し言葉にも定着しつつあり、 なによりも私自身が「ビバルディ」とか「サティー」と発音している。 勿論、電網上では、 私が普段 普通の人相手には「メール」とか「ウェブページ」とか「リンク」と 言っている言葉を、 私みたいな人たちが電網上で 「電便」とか「電網頁」とか「頁連結」としつこく書き続けていると (勿論、私が元祖という訳ではなくて、たぶん同時発生的に その手の言葉は着想されて使われ始めていくのだろうけど)、 段々と一部ではそういう言葉遣いも普及し始めていくようだから、 ビバルデ/ビバルヂとかサテー/サチーとか書いていれば、 そういう表記も「一部では」普及していってくれるのかも知れない。 今のところ、ティ/ディに関して、どういう態度/戦略を取るか私としても はっきりとは決めかねている。 自分が(石巻)日本語の話し言葉の中で、ティ/ディと発音してしまっている ものに関しては、その表記を(その鍵語で検索される際などの) 「便宜上」採用することが多くなるかも知れない。 まあ、いずれにせよ、自分が発音している通りに書くを 一つの基準にしていきたいとは思う (それを徹底すると、 チャイゴフスチーだのスドラビンスチーだのになってしまうかも 知れないが。まあ、それはそれで石巻語としては「正しい表記」だろう。 笑)。

(18/3/20)

セントクリストファー・ネーヴィスの「ヴィ」が「ビ」に、 カーボヴェルデの「ヴェ」が「ベ」に変更されるそうだ (“世界の国名から「ヴ」が消える” 変更法案が衆院で可決)。 いいことだと思う。 日本語を話している時に、こうした国名や人名、外来語に現れる ヴァ行を、バ行と区別して発音している人は、 ほとんどいないのではないだろうか。 ほとんどの日本人が発音していない表記を日本語の中で規範的に 使おうとすることは、よくない通例だと私は考えている。 例えば、自分がしゃべるときは「ベートーベン」としか発音して いないのに、これを書こうとするときに 「ベートーヴェン」なのか「ヴェートーヴェン」なのか 「ヴェートーベン」なのか迷わなければならなかったり、 「ベートーベン」という発音の他に、 表記としての「ベートーヴェン」という文字列も覚えなければならない なんてのは、日本語の運用コストを無用に高めることだとしか私は思わない。 外来語のカタカナを英語のように、 発音がわかっても、綴りを覚えないと書けない仕様にされたら、 カタカナは表音表記ですらなくなってしまう。 仮に、 ヴァ行のvの発音をカタカナで表現したい場合であっても、 福澤諭吉の発案らしい 「ヴ」という表記は、そもそもわかりにくいと思う。 ファ行のfの音は、ファ フィ フゥ フェ フォで表記することにしているのだから、 日本語の濁点の規則通りに表記するなら、 vの音はブァ ブィ ブゥ ブェ ブォの方がわかりやすいし、 こう表記されていれば、ファ フィ フゥ フェ フォを発音できる人なら、 それの濁音だと類推して発音できる可能性だってあるのではないだろうか。 まあ、いずれ2019年現在、 ヴァ行音は日本語の中ではバ行音と区別しない人が多数派なのだから、 バビブベボで表記してバビブベボで発音するのが妥当だと思う。 ちなみに、スペイン語でも 「 v は古くは /v/ と発音したが、b と同じ /b/ に変化し、その後、借用語において原語の v のつづりを b に置き換える傾向がある」 んだとか。合理的な変化だと思う。 ちなみに、中南米では、 私が小学校時代に「言葉の教室」でひっかかった「リャリュリョ」は、 「ヤユヨ」や「ジャジュジョ」になるので、 「カスティーリャ」は「カスティーヤ」か「カスティージャ」なんだとか。

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英語は論理的か

はじめに

 よく「英語は論理的な言葉だから科学論文等を書くのに適している」 などと吐かす人を私の近辺にも見かけます。 そう言えば中学や高校の頃にも「日本語は情緒的だが、英語は論理的だ」 とか更には「日本人は情緒的だが、欧米人は論理的だ」 などという論を時折 聞かされたことがあるような気もするし(ひょっとすると、 教科書の中でさえ)、私自身その説を半ば真に受けていた時もあります。

 デベートに象徴される欧米人の議論の仕方が別に論理的なことにはならない という話は 前述しましたが 、恐らく一つには、日本人のデベート奨励 に見出だされるのと共通する欧米崇拝 が、ヨーロッパ語や英語を論理的だと思わせている部分もあるでしょう。

 それからもう一つには、「英語は論理的な言語だ」と納得するような人は、 実は英語のことも日本語のこともよく分かっていないということなのかも 知れません。

 例えば、学校の英語教育の強制において、我々が英語を読んだり書いたり させられる時は、母語ではない英語の文法的構造を論理的に分析することを 意識させられるので(英語の読み書きが自由にできる域に達するまでは、 多かれ少なかれこうした意識はなくならないでしょう)、 英語の文法構造が論理的であることを「特に」意識させられるのでしょう。

 一方、日本語の読み書きの場合は、 日常 使っている母語方言との相関が非常に高いので 、せいぜい国語の時間に文法構造を論理的に分析させられたときぐらいしか 、その文法構造が論理的であることを意識する機会はなく、 普段の読み書きは、文法構造の論理性などまるで意識しないで スラスラと読み書きできて しまうということなのでしょう。

 そのことを示す例と言えるかどうか分かりませんが、 英語を母語とする人の英語の科学論文は、 文学的な表現がやたらと多く、 文法構造が論理的に分析できないような文章もあったりして、 英語を母語としない私には、 かえって読みにくかったりするのに対して、 英語を母語としない人の英語の科学論文は、 簡潔な文章で、文法構造も論理的に明快であり、 大抵は読みやすいと私は思います。

 そういう科学論文を読み比べると、英語母語者こそが「情緒的」で 英語非母語者の方が「論理的」なのではないかという気さえします (但し、これは一文一文に着目したときの話であって、 全体的な論理の流れのことではありません) 。

 恐らく種明かしは、英語非母語者は(母語と同じように自由に読み書きできる域に でも達しない限りは)、英語を書く時に常に論理的に文法構造を意識して いるということと、文章の平易さや簡潔さを曇らせる 文学的な修飾を凝らせないといったことでしょう。

本多勝一著『実戦・日本語の作文技術』(朝日文庫)の次の箇所を 引用しておきましょう。

 やはりかなりの知識人さえ「日本語は論理的でない」とか「日本語はアイマイだ」などといった妄言を、あたかも疑うべからざる事実の如く口にする。 これはそういう当人自身が非論理的なのであって、日本語自体はたいへん論理的なのだ。 言葉の使い手が非論理的なのを、言葉自体に責任転嫁している。 およそ非論理的な言語などというものは、世界のどの民族にも存在しないことを、最近の言語学は立証した。 言語とは、それ自体が論理体系なのであって、「非論理的言語」などは形容矛盾にほかならぬ。
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なんでもかんでも「はっきり言い切る」のがいいのか?(1999/12/17)

04/1/7: ここの文章を書き直したものを “ 「正しい」ってどういうこと? ” の “ 3.なんでもかんでも「断定的に」言い切ればいいのか ”に置いた。

——「日本語はアイマイで英語は論理的だ」という 誤解が生じそうな例——木下是雄著『理科系の作文技術』 (中公新書)。

 勿論、この本もいいことは言っている。「事実と意見を区別しろ」というのは 正にその通りであると思う。しかし、なんでもかんでも「はっきり言い切る」 のがいいのだとは私は思わない。 例えば、著者の「憶測」で書いたことは「憶測」で書いたことが読者に 分かるように書くべきなのであって、 「憶測」をも「……である」のように「はっきり言い切る」ことは 逆に問題である。 同著でも「はっきりと言い切る姿勢」に続く章で述べているように、 重要なのは、むしろ 「(客観的)事実」と「(主観的)意見」とが 明確に区別できるように書くことだと思う。 日本語の文献における「……と考えられる」は、誰の主観に基づく判断 なのかがアイマイだから、「私は……と考える」と書いた方が責任の所在が はっきりしていいという点に関しては私も同意する。 しかし、この点について、さも英語の文献の方が優れているかのような 評価については同意できない。例えば、英語の文献では 「x^2 の x に 3 を代入すると 9 が得られる」のような、 客観的に割と自明な操作についてさえ、「we(わたしたちは)」のような「主体」 を主語として、 「わたしたちは、x^2 の x に 3 を代入して 9 を得た」 のような書き方も好まれる (勿論、受動態も使われるが)。しかし、 この「we(わたしたちは)」は、著者の数人なのか、全員なのか、あるいは著者以外の関係者も含むのか、世間一般の人も含むのか、まるで「明確ではなく」 「アイマイである」。 勿論、善意で解釈すれば、 「主観の異なる世界中のどんな人が x^2 の x に 3 を代入しても 9 になる」 ということ「であろう」。 しかし、それでもまだ表現は正確ではなくて、例えば、 「計算のできない人が x^2 の x に 3 を代入して 6 とかと間違った 答えを得る可能性もある」というような意地悪な文句をつけることもできる。 「主観の異なる世界中のどんな人でも、計算のできる人なら」 というような断りを加えたとしても、「計算のできる人」の定義はアイマイである。 つまり、どんな言語においてであれ、 「完璧な表現」などというものはないのである。 多かれ少なかれ読者の「善意の解釈」に頼らざるを得ないのである。

 数式の操作や定式化などの記述において、 数式を操作する「主体」を示さずに数式を主語とする受動態が好まれる日本語の 文体においては、数式や定式化の導出が 著者の主観(近似するために、式の中のいくつかの項を 著者の主観で選択的に無視するとか) に依存するものであっても、さも客観的に自明な導出過程であるかのような 印象を与えてしまうという「欠点」があるかも 知れないが、 他方、数式を操作する「主体」を主語とする能動態が好まれる英語の文体においては、 前述したように、 客観的に自明な導出が、さも著者の主観に依存するかのような 印象を与えてしまうという「欠点」があると見ることもできる。 もし、 日本語の論文で意見の記述には「……と考えられる」ではなく「私は……と考える」を使うべきだと主張するのならば、同じように英語の論文でも、意見の主体には「I(私は)」を使い、客観的に自明な操作を表すための形式上の主語には「one(人一般)」を使って区別すべきだとも主張するのでなければ筋が通らないと私は思う。 このように、どんな言語にもそれぞれに長短があるのであり、 特定の言語(例えば英語)があらゆる面で絶対的に優れているなどということは ない。

続く……

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 さて、以下に英語(あるいはヨーロッパ語)の方が非論理的 (あるいは不合理)だと私が感じる例をいくつか挙げていきましょう (勿論、だからといって、日本語の方が合理的だというのではなく、 どの言語にも長所と短所があるという意味です。念のため)。

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「小領域から大領域へ」順の不合理

 私のある知人は「英語というのは、要点や着目している事柄が 先頭に来るから合理的なのだ」と言っていましたが、 私からするとその「要点や着目している事柄が先頭に来る」ことこそが不合理な 場合も多いと思うのです。

 英語やヨーロッパ語というのは、前置詞や関係詞によって修飾する言葉なので、 一般に、修飾する言葉が着目している言葉の後ろ後ろにと付いていきます。

 恐らくそのためではないかと思いますが、 場所や時間や所属などを表す時にヨーロッパ語では、日本語などとは逆に 小さい領域から大きい領域へという順に並べます (「エスペラントをより中立に」の頁 「年月日や住所の順番について」 に関連事項)。

 ヨーロッパ人の名前が個人名を頭に持ってくるのも恐らく、そのせいだろうと 私は考えており(違うのだろうか)、「ヨーロッパ人は個人を尊重するから」 などと言うのは後から取って付けた理由(欧米崇拝の日本人の好みそうな) に過ぎないだろうと思っています (因みに私は夫婦別姓に賛成ですが、日本人が氏名を逆に並べるのには 反感を覚えます) 。

 まあ、名前の場合は、その民族で頻繁に使う方(つまり日本語人は姓を、 英語人や主なヨーロッパ語人は個人名を)を先頭に持ってきた方が 便利でしょうが、 住所や日付や所属となってくると、小領域から大領域に並べられると、 しばしば検索の上で非常に不便であり、それはヨーロッパ言語圏でも同じだろうと 私は思います (私の知人がフランスだかの郵便配達員に、小領域から大領域に並べられた 住所を、どのように読むのかと訊いたところ、 「当然、後ろから前へと読む」と言われたそうです。 ヨーロッパ人というのは何と不合理な住所表記をしているのでしょう。 尤もハンガリーとかは日本と同じ順番だったと思いますが。 わざわざヨーロッパ人の真似をして日本の住所を逆さに書いている 日本人は殆ど倒錯しているとしか私には思えません) 。

 例えば 「私の生まれは宮城県の石巻市の泉町です」と言われた場合、 日本人であれば「宮城県」くらいは誰でも知っているから、「宮城県」まで 聞いた時点で取り敢えず県の所在地は特定できる——次に「石巻市」を 聞いた時には、「石巻市」の場所があやふやだった人でも、少なくとも 宮城県であることは既に分かっているので、 岩手県の花巻や釜石と混同することもない—— そして「泉町」という何処にでもありそうな地名を聞いて、 「まあ、石巻まで分かれば十分だ」などと判断を下して必要な情報を 記憶に留める訳です。

 一方これが、英語で 「I was born in Izumi-tyou in Isinomaki-si in Miyagi-ken.」 (私は 生まれた 泉町に 石巻の 宮城県の)のように言われた場合、 いきなり「泉町」と言われても何処のことだか分からない—— もしかすると日本でないかも知れないし地名であるという保証すらない—— 次に「石巻市」と言われて、何か聞いたことのあるような地名だとは思うが、 さて岩手県だったろうかと迷う——そこにようやく「宮城県」と言われて 「何だ岩手県ではなかったのか」などと思っているうちに「泉町」は おろか「石巻市」すら記憶に残らず、最初に岩手県を連想してしまった ために花巻や釜石といった地名の方が印象に残ってしまうかも知れません。

 また、「私は一九六六年九月二十七日に生まれた」というのを、 英語で「I was born on September 27, 1966」 (私は生まれた 長月の二十七日 一九六六年)と言うに至っては 「月→日→年」と 「小領域から大領域へ」にすらなっておらず更に不合理だと私には 思えます(尤も、最近では欧米でも1966-09-27式の日付表示が 取り入れられてきたようですが)。

 恐らく、言語の文法的性質としては小領域から大領域の順だけれども、 大領域から小領域の順に並べた方が便利な場合などに、 このような入り乱れた順番になってしまうのではないかと推測します。

 その典型ではないかと私が日頃 不合理に感じているものは 電網頁の住所です。 例えば電便住所に関しては 、「日本の東北大学の土木の橋一(電算機名)の後藤」の電便住所は

goto@hashi1.civil.tohoku.ac.jp と表され、

つまり(後藤、橋一、civil=土木、tohoku.ac=東北大、jp=日本)となっており、 一応「小領域から大領域へ」の順番は満たされているのですが、 電網頁の場合、「日本の東北大の土木の後藤の領域にあるeigo.html という情報」の在りかは

www.civil.tohoku.ac.jp/~goto/eigo.html と表され、

つまり(土木、東北大、日本、後藤、eigo.html)という具合に、 「土木から日本」までは小領域から大領域で 「後藤」から後ろは大領域から小領域に並べるという 極めて不合理な並べ順になっていると私には思われます。

 もしこれが、例えば

ttt.np.touhoku.dai.doboku/~gotou/eigo.html

(tttはエスペラントのtut-tera teksaj^o「全地球に渡る織物」の略。 npはnipponの略)
とでもなっていたら、どんなに合理的で国際的なことかと思って しまいます。

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要点が先にきて状況説明が後にくる方が不合理な場合も多い

 例えば食事をしている時に「昨日の夕食では何を食べたか」 と訊くとき、英語では「何を食べたか」がまず最初に来るので、 そこまで聞いた時点で多くの英語非母語者とかは、「今、何を食べたか」を答えて しまったりするものです。 しかも、英語非母語者はゆっくり繰り返し言ってもらわなければ聞き取れない ことが多いので、 食事の席で 「何を食べましたか」を何回もゆっくりと繰り返されたりすると、ますます 「今、何を食べたのか」を聞かれているのだと確信してしまい混乱するのです。 まあ、「昨日の夕食で何を食べたか」くらいであれば、会話では多少の 文法違反をやって、「昨日の夕食では」を最初に言ってしまうという手も なくはないですが(多くのヨーロッパ語では、疑問詞の前に副詞句の状況説明を 置くのは文法違反だろうが)。

これが、「昨日の夕食では」程度の短い副詞句ではなく、長い節とかになると、 ましてや厄介になります。

「もし洗ったばかりの車で出かけようとしてる時に雨が降り出したら、 どうしますか」

のような文でも、英語や多くのヨーロッパ語では、 「あなたはどうしますか」 「もし雨が降り出したら」「あなたが洗ったばかりの車で出かけようとしている時に」 の語順になり、結局、話者が一番 訊きたいこと(洗ったばかりの車が雨で 汚れても出かけるかどうか)は、最後まで聞かなければわからないのです。 これが日本語の場合だと、「もし洗ったばかりの車で出かけようとしてる時に雨が」 までを聞いただけでも何を言いたいかを聞き手が察して答えてしまうこともある訳です。 つまり、要点を最初に言ってしまうとされるヨーロッパ語にしても、 重要な状況説明が後ろに行ってしまうがために、 最後まで聞かなければ何を言いたいのかが分からない場合は 多々あるということです。

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高級語の造語の不合理

 これは、恐らくドイツ語を除く主なヨーロッパ語にも当てはまることだと 思いますが、英語の高級語や専門語は、例えば 基本語からの造語を徹底している中国語や日本語の漢字熟語とは、 まるで対照的なまでに、 基本語からの造語をせずに、ラテン語やギリシア語の高級語を そのまま借用して取り込んでしまっています。

 例えば英語で equilibrium (平衡)という高級語があります。 この単語の前半部分 equi は実は「等しい」という意味のラテン語で、 英語の基本語の equal に相当します。また、後半部分の librium は 「天秤」という意味のラテン語で(違うかも?)、英語の基本語の balance に相当します。 もしこの語が、equalbalance とでも書かれていたなら、 equal と balance を知っている人が初めて見ても、 ある程度の意味を推測できるかも知れないし、 equilibrium という単語を一つの高級語として覚えるよりも、 遙かに容易に覚えられることでしょう。 というか、元々のラテン語においては、 基本語どうしの組み合わせとして成り立っていた簡単な単語でも、 英語では、意味を翻訳せずに、その綴りのまま 一つの外来語として取り込んでいるために、 英語は不必要に難しくなっているのです。

 よく、日本語は漢字があるから難しいなどと吐かす英語国人がおりますが、 私からすると、 発音とまるで対応していない英単語の綴りだって十分に難しいと思うし (日本語ワープロの漢字変換のように、ローマ字で発音を打つと正しい 綴りに変換してくれる英語ワープロというのができれば、この点に関しては 、ワープロさえあれば書けるという現状の漢字と同じ条件に並ぶかも知れませんが)、 何よりも、高級語に関しては、基本語からの造語を徹底している漢字熟語の方が 、英語よりも圧倒的に合理的で覚えやすいと私は思います。

 この問題に関しては、エスペラントにおける高級語の造語法に関連して

「使いたくないエスペラント単語」の頁「漢字廃止論への疑問」の頁 で論じたことが、英語の造語法についても当てはまると思うので、 ここでは割愛します。 エスペラントと比べた場合に、 「造語ができない」ということが、如何に英語の発話を困難にするか という私の「実感」については、 「中国旅行記」に書きました。 また、英語の民族語故の難しさや不合理について ここここにも書きもました。



「英語は論理的か」まだまだ続く……

どの店で食べたラーメンが一番おいしかったですか?」を英訳せよ。
誰と結婚していれば、しあわせだったと思いますか?」を英訳せよ。
どの辺まで行った時に、雨が降ってきましたか?」を英訳せよ。
(……と私は思う」とあなたは言った」とこの本には書かれていた…)


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日本で日本人に何故、英語で物を訪ねるのか
日本で外国人に何故、英語で答えようとするのか

 幾つかのテレビ番組(ウイッキーさんだかが出てくる朝の番組とか、 さんまのスーパーからくりテレビとか)で、 外国人の取材者が日本の街頭で日本人の通行人に対して英語で質問し、 質問された日本人が どうにか英語で答えようと困惑しながら奇天烈な英語を繰り出す 様を見て面白がるというのがあります。

 この番組がやっていることは、例えば、 日本人の取材者が韓国の街頭で韓国人の通行人(例えば、日本による統治時代に 日本語を強制された世代のお年寄りとか)に対して日本語で質問し、 質問された韓国人が どうにか日本語で答えようと困惑しながら奇天烈な日本語を繰り出す様を見て面白がるというのと、何か違うでしょうか。

 あるいは、日本による統治時代の韓国で、日本人が韓国人に日本語で話し掛け、 韓国人がおどおどしながら、下手くそな日本語で答える様を見て面白がるというのと、 何か違うのでしょうか。

 「言語的強国からの訪問者が、現地人に、現地語ではなく自分たちの国 の言語で 話し掛け、現地人が必死にその言語的強国の言語で答えようと戸惑うの見て面白がる」 という状況は、韓国の例を引き合いに出すまでもなく明らかに差別的な行為です。

 但し、この二つの例で一つ大きく違うと思われる点があります。 韓国で日本人に日本語で答えることを強要された韓国人が戸惑う様を、 見せられた他の韓国人は、恐らく屈辱と憤りを感じるのではないかと思われますが、 先の番組に出演しているような日本人の場合は、 日本で英語国人に英語で答えることを強要された日本人が戸惑う様を見せられ ながら、それに屈辱と憤りを感じるどころか、その英語国人と一緒になって 面白がっているのです。

 恐らく、大部分の平均的日本人は、日本国内で外国人に 英語で話し掛けられたら英語で話すのが当然だと考えているようで、 その外国人に道を教える程度の英語も話せないことを恥ずかしいことと 考えているようです。

 一体、何が日本人にこのような屈折した偏見を植え付けたのでしょう。 このような偏見を再生産しているものと思われる典型的な例を一つ挙げましょう。 AMERICAN CLUB(アメリカン クラブ)という英会話学校のチラシには、 何と次のようなことが平気で書かれているのです。

あなたの国際人度チェック!

1 外国人に道を尋ねられたらあなたはどうしますか?
□会話を楽しみながら、近ければ目的地まで案内する
□片言のやりとりで、とりあえず分かるところまで教える
□外国人が何を言っているのか、ほとんど分からないので、まわりに 助けを求める
□めんどうなので、にこやかに無視してしまう
 このチラシでは、外国人が英語を話すことしか想定しておらず、 また、外国人に英語で答えることしか想定しておりません。 これのどこが「国際人」なのでしょうか。 世界には、英語以外の言葉を母語とする「外国人」が大勢いるし、 日本にいる「外国人」は、英語母語者よりも、 朝鮮半島人や中国人の方が多いのです。

2000/3/6 追記: 英語を母語とはしない外国人に対しては、 その外国人が日本でも母語で道を訊いたりできるようにしてあげよう という配慮はまるでしない癖に、 英語を母語とする外国人に対しては(現実にはそんな人に街角で話し掛けられたりする 機会は極めて少ないにもかかわらず)、 その人の母語である英語で道を教えられないようでは「恥ずかしい」と思って しまうということは、極めて典型的な差別の構造の反映であると 私は捉えます。

 これとそっくりな構造の「性差別版」として、 日曜の昼頃のテレビ番組(たぶん「噂の!東京マガジン」の 「平成の常識」)で、公園を歩いている「若い女の人」 だけに料理をさせて、料理をし慣れていない人が 奇天烈なこと(米を洗剤で洗うとか)をしでかすのを見て笑いものにする というやつがあります。 例えば、「 肉じゃが を作ってください」と言われたら、 作り方の分からない人は、別に「作り方が分かりません」と答えて 作らなければいい訳です。 それは、街で外国人がこちらの話せない言語で話し掛けてきたからといって、 その言語で答えてやる必要がないというのと同じことです。 ところが、 全く料理のできない女の人すらが、 「女料理ができなければならない」という「暗黙の了解」に 応えるべく、できない料理に挑戦して案の定 失敗して自ら笑いものになり、 更にはそれを「恥ずかしいことだ」と思ったりしている訳です。 これは、 「英語世界の共通語である」という「暗黙の了解」に 応えるべく、話せない英語で答えようとして案の定、奇天烈な英語を発して 自ら笑いものになり、更にはそれを「恥ずかしいことだ」と思ったりしている のと同じ様な対応関係にあると思います。

 この番組を見て楽しめてしまう人には、もしかするとこの例でも分からない かも知れないので、もう少し極端な例を挙げます(念のため)。 例えば、 白人が街頭で黒人に「荷物をそこまで運んでくれ」 と頼んだとします。 勿論、人から「荷物を運んでくれ」と頼まれたからといって、 別にそれに応じる必要はありません。 ところが、その黒人は 「黒人は奴隷なので白人の命令には従わなければならず、 肉体労働ができなければならない」という「暗黙の了解」 に応えるべく、 体力がないにもかかわらず、その重い荷物をヨタヨタしながら必死に運ぼうと あくせくして笑いもになり、 更には自分に体力がないことを「恥ずかしいことだ」と思ったり しているなんてことがあったとしたら、さすがにオカシイと思いませんか。

 私には、 「英語は世界共通語なので、英語で話し掛けてくる人には英語で 応えてやらなければならず、英語を母語としない人でも英語を習得しなければならない」 という主張と、 「黒人は奴隷なので白人の命令には従わなければならず、 肉体労働ができなければならない」という主張との間に特に本質的な差を 見出だせません。

 それにしても、日本語をまるで話せない英語話者の外国人すらが、 日本の街頭で自分の母語の英語で道を訊いたりできるというのに、 口話日本語を話せない日本人が、日本の街頭で自分の母語である手話日本語*で 道を訊いたりしても、片言でも手話日本語で応えようとする人にはなかなか 出会えないというのは、なんとも皮肉な話だと思います。 と言っても、私も道を訊かれてそれに応えられるほどの手話日本語は 話せないので、「日本人の癖に恥ずかしいことだ」と思います。 だって、一方で手話日本語話者たちの多くは口話日本語という「外国語」 (それも、自分の発音した音を自分の耳で確認する ことはできなくて、相手の発した単語を相手の唇の微妙な動きから読み取ら なければならないという極めて学習困難な外国語)を習得しているのですから。
* ここで「手話日本語」と書いたのは、日本人が話している言葉のうち、 口話「標準」日本語のみを 「日本語」と呼ぶことへの反発であるが、一般には、日本の ろう者が 話している手話は「日本手話」と呼ばれている。 他方、口話日本語の語順をそのままに、ただ単語を逐語訳的に 「日本手話」の単語に置き換えたような手話(ろう者には通じにくいが、 NHK の手話通訳や中途失調者などが使っている)のことを「手指日本語」とか 「シムコム」とか言うようだが、私が「手話日本語」と書いたのは、これの ことではなく、あくまで ろう者が自分の言葉としている「日本手話」の ことである。

日本の ろう学校で授業が手話ではなく口話でなされているという 問題や、つい最近まで(今も?)、ろう学校で手話を教育されていなかった (それどころか手話の使用を禁止されていた)という大問題などについては、 機会があれば、言語差別という観点から書くかも知れない。
その他、関連することをここここにも書いた。

0000/6/12 追追記:
前述の「さんまのスーパーからくりテレビ」で、日本で日本人に 英語で質問して英語で答えさせる役をやっている セイン カミュ氏が、 夜のテレビ番組で、確かこんなようなことを言っていた:
 ハワイやオーストラリアで、(現地のお土産屋の店員とか?が) 日本人観光客に日本語で話してくるじゃない。 だから、日本人も日本語で話してるけど、 おまえら、なめられてんだよ!って言いたいよ。 とても、恥ずかしいし悔しいよ……
??? これは最初、なかなか理解に苦しんだ。だって、 「どうせ、この外国からの訪問者は無学で現地語を話せないだろうから、 しょうがないから、語学の素養のある自分たちが特別に相手の母語で話してあげよう」 という意味で「なめられている」ということであれば、 日本で日本人から英語で答えてもらっている セイン カミュ氏自身こそが 「日本人になめられてんだよ!」ってことにもなるからだ (尤もセイン カミュ氏は日本語が堪能だが。 だからこそ尚のこと厭らしいのだが)。
 邪推するに、これは 「英語圏で英語を話せずに日本語を使おうとする日本人」は 「恥ずかしい」けど、 「日本語圏で日本語を話せずに英語を使おうとする英語人」は 「恥ずかしくない」という 典型的な差別の二重基準に過ぎないのだろう。 例によって、これを性差別版で譬えるなら—— 男の人が街頭で、女の人に 「私のために手料理を作って下さい」と頼み、 それに応じて手料理を作ろうとするものの うまく作れない女の人を笑いものに する一方で、 恋人やつれあいの男に手料理を作ってもらっている女に対しては、 「おまえら、なめられてんだよ! 恥ずかしいし悔しいよ」と言っている ——というのと同じだろう。 念のため、人種差別版でも譬えるなら—— 白人が街頭で黒人に、 「この荷物を運べ」と命令し、重い荷物を運ぼうとヨタヨタする黒人を笑いものに する一方で、 親切な白人に荷物を運んでもらっている黒人には 「おまえら、なめられてんだよ! 恥ずかしいし悔しいよ」と言っている—— というのと同じだろう。


この項、続く

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「方言を喋れる人が羨ましい」という自己矛盾
我々からすれば「標準語」こそが訛りの強い方言だ

 私が方言についての話をしていたり、あるいは実際に石巻語で 喋ってみせたりしていると、よく「お国訛りのある人が羨ましい」 とか「方言の喋れるひとが羨ましい」 というようなことを言ってくる人がいますが、その度に私は、 非常に違和感を覚えます(「なにすや、んだごって、あんだの今 喋ってる 「標準語」っつわいる主に都市部だの東京地方だので喋らいでる話し言葉 だって、おら方ば基準にしたらば、すんげえ訛った方言の一づに過ぎねん でがすとや」と)。

 例えば、英語を母語とするアメリカ人が日本人に対して 「母国語のある人が羨ましい」と言っているのと同じような自己矛盾を私は感じます。

 たとえ、どんなに実質上の橋渡し語として広い地域に蔓延しようが、 学問的文法的に整理され権威づけられようが、 活字媒体や放送媒体の使用言語として採用されようが、 歴史的には人工語的に形成された起源があろうが、 その言語(のみ)を母語とする人々が世の中に存在する以上は、 英語であれ、「標準」日本語であれ、民族語の一つに過ぎないし、 更にはその民族語の中の変種(方言)の一つに過ぎません (その点、橋渡しの目的のみに使われる限り、人工語エスペラントとかは 民族語ではありません)。

 自分の母語によって公共の施設を利用することができ、教育を受けることができ、 活字を読んだり放送を聞いたりでき、余所の地方の人とも話ができ、 また、自分の母語が他の方言に同化されて消滅するという不安も抱かなくていい 等々の多くの言語的有利を享受している人が、 「方言を喋れる人が羨ましい」というのは、無邪気な発言とはいえ、ちょっと 傲慢ではないでしょうか(*)。

* 尤も、いい方に解釈するなら、 「標準」日本語を母語として育った人が、特定の民族語/方言を そのまま共通語化することに反感を抱きつつも、自らが 言語的有利を享受していることを恥ずかしく思った上で、 そのような恥を伴わずに母語への深い愛着から言語不平等を論じることのできる 非「標準」語母語者を羨ましく思う という意味ならば、私も理解を示します。

 そういう意味では、私も「標準語」との相関のより低い方言、 あるいは「標準語」にまだ毒されていない方言ほど羨ましいと思います (東北語話者である私は「東北語」的傾向の一つの極に位置する 津軽弁に憧れますが、これはヨーロッパ人が ラテン語に憧れる心理に近いのかも知れません)。 私の世代の石巻語でも既に「標準語」の影響を受けて、音韻などが かなり東京訛りなってしまっています。 「き」が「ち」のように聞こえ、「に」が「ぬ」のように聞こえる、 訛りのない本来の石巻語/東北語の発音を私は後世に正確に伝えることは できないでしょう。その点、少し田舎の方にいって、 まだ東京訛りに毒されていない、より美しい宮城語/東北語の発音を聞いたり すると、とても「羨ましく」思います。

 前に(九六年か九七年頃)NHKのテレビ番組でアイヌの特集をやって いたことがあって、パリ万博だか(違ったかも知れない)に世界の先住民 を「展示」した際に、アイヌも何人か連れていかれて「展示」された時の 話をしていましたが、その時に「展示」されたアイヌの一人が言った 言葉が非常に私の心を打ちました。正確には覚えていませんが、大体  次のような内容だったと思います:
 あなたがたには私たちの着ているものや 食べ物が奇妙なものに見え、 私たちの喋っている言葉が奇妙に聞こえるかも知れない。しかし、 どうか理解してほしい。私たちにも、あなたがたが着ているものや 食べ物は奇妙なものに見えるし、あなたがたの喋っている言葉は 奇妙に聞こえるのだということを。
 このような相対的な視点に気づいている人が 英語母語者や「標準」日本語母語者の中に、一体 どれくらいいるのでしょうか。 英語は、非英語母語者にとっては、奇妙に聞こえる外国語の一つに過ぎないし、 「標準語」と呼ばれる東京訛りの日本語は、非「標準語」話者にとっては、 「訛って」聞こえる日本語方言の一つに過ぎないのです。 「奇妙かどうか」「訛っているかどうか」ということは、本来、自分の母語から 違うと感じる程度を示す相対的な指標であって、基準を何処に設けるかによって、 どんな言語でも「奇妙に」なり得るし「訛り」得るのです。 それなのに、東北出身者がわざわざ「標準語」話者の基準を無抵抗に採用して 「私は訛ってるから」などと自嘲するのを聞くと悲しくなります。 「標準語」と呼ばれる東京訛りの日本語を含め、あらゆる方言は他方言話者に とっては訛っているのです。 私が石巻語で喋っているのを聞いたことのなかった人が、 たまたま私が東北の友人とかに出会って、石巻語で喋りだすのを 聞いて「後藤さん、どうして急に訛るんですか」などと言ってきたこと がありますが、 間違わないでほしい。私は、普段、自分の母語を東京訛りに訛らせて 無理に「標準語」もどきを喋っていたのであって、石巻語は私にとって 最も訛っていない自然な言葉なのです (最近の私は他地方出身者に話す時も、アクセントや音韻まで東京訛りに 訛らせるのはやめるように心掛け始めた。通じる分にはそれで十分だし)。

 という訳で、東京訛りをさんざん練習して、その発音のしづらさを痛感 させられてきた 私にとって、「標準語」と呼ばれる東京話し言葉こそが、 極めて訛りの強い方言なのです。

21/7/1追記: 関連する話題は、 大学生を対象とした 飲み話 にも書いている。

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エスペラントをやっても意味がないか

 電網上の掲示板や日記などでも、時折 エスペラントに対する批判や 英語の是認/追認について書かれているのを目にします。 そういう時は、できる範囲で意見なり反論なりを言うようにしていますが、 そのいくつかを以下に置いていきます。

E線上の茶屋 うさぎや」の「 言語と文化を考える」 でなされていた、 「目的があって外国語を学習するのは言語差別ではない」 「文化がない言語では相手の文化を理解することは出来ない」 などに対する 私の意見

西村有史さんの頁の 「今日の一言」 で、 安室奈美恵 の歌は英語が間違っているので赤面しそうだ*というような話が出たので、 それに反論する形で私が 電便を出した。 それに対する西村さんの反応

* 追記(1999/4/22):西村さんはホテル(恐らく日本の?)のパンフレットの 英語表記の間違いを収集したところ、その7〜8割に大きな間違いがあったそうだが、 ここここを 見ると、日本に限らず世界中の(英語国も含む)ホテルの標識や新聞でも、 じゅうぶんに英語を間違っていることが分かる。 と同時に「正しい英語」を書くことが如何に困難なことであるかが分かる。 繰り返し書いたことだが、英語という言語が、 もし たかだかこの程度の間違いでまるで意味が通じなくなったり、 大きな誤解を与えてしまう危険性の高い言語であるならば、 そんな言語は、国際橋渡し語にはまるで不向きである。
1999/5/15 追加: エスペラントの学習を始めたらしい 笛の館の主さん の 掲示板 「笛の館倶楽部掲示板」 で、英語の響きに関して「やっぱり歯切れのよい英語の勝ちでしょう!」 のような書込があったので、 それに反対する意見を書き込んだ。

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今後の執筆のための覚え書き

ビルを下さいと言ったらビールを持ってきたと怒る英語の先生
せっかく日本語で話し掛けている留学生に英語で答える先生
日本語の達者な自分に対して必死に英語で話しかけてくる日本人に は、自分が日本語を話せることを隠して英語で応対してあげることが、 その日本人の「夢」を壊さないと考えている在日アメリカ人宣教師
目的があって英語を学ぶことは言語差別ではないと言えるか
オペラを学ぶためにイタリア語を学ぶことと科学の研究のために英語を学ぶ こととは果たして同じだろうか






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