ここは,日々のお小言のページです


1998.4.28:週刊金曜日 第206号 風速計 「将棋のコマ」 を批判する
1998.4.28:週刊金曜日第202号投書−「郵便番号にみる天皇制」について− を批判する
1998.10.29:本多勝一・リクルート接待疑惑について
1998.10.30:本多氏は本当に山に詳しいのか?
1999.3.13:「世界動物保護協会」はどうしようもない
1999.4.24:上坂冬子は腹に据えかねる
1999.4.25:サントリーは「大したものだ」
1999.5.7:電網空間での実名にどこまで意義があるか
1999.5.11:風力発電はバラ色の電源か

1998.4.28:週刊金曜日 第206号 風速計 「将棋のコマ」 を批判する

 本多氏は相変わらず,「堤義明」と「コクド」がお嫌いなようで(私も嫌いですが)。まあ,本多氏の批判が当たっている部分も多いとは思うんですが,本多氏はなぜか,「コクド」だけが嫌いなんですね。オリンピックとは直接関係ありませんが,例えばプロ野球に対する悪影響を論じる場合など,「西武」と「読売」のどちらの影響が大きいでしょうか。前者が後者を圧倒している,ということはない筈です(関与の期間を考えただけで明白)が,本多氏はなぜか読売は批判しないのですね。

 脱線ついでに,吉永小百合氏がライオンズのファンで,ライオンズが「西武」の経営であることから,吉永氏を批判する(これは,本多氏が実際にやっている)など,「為にする」議論の典型ではないでしょうか。

 それにしても,「『冬季オリンピック』とかいう商品宣伝競技」,なんていう表現は,不必要な修辞の塊としか思えない。

堤義明やサマランチの「将棋のコマ」になる屈辱を拒否しているのだ。先々週号(1月30日)の長野五輪特集のコラムで、俺は「……選手らはそれに利用される将棋のコマであろう」と書いたが、まさに「将棋のコマ」にならなかった選手たちもいるのである。

 そんなことを言ったら,全く「将棋のコマ」でない人間など,この世に何人いるのだろうか?

「ドレイの運動選手」と表現したが、運動選手には幼時から「それ一筋」に青春の時間をうちこんだため、晴れて一流になったときはそれ以外に能力がなく、とりわけスポーツを商売にするコクドなんかに人生を売りわたして「丸ごと将棋のコマ」になる例が、皆さんもご承知の具体的選手のようによくみられる。ああいう哀れな末路はやめよう。

 私にしてみれば,かくいう本多氏も,「哀れな末路」を辿っているように思えてなりませんが。若い時から体制批判「それ一筋」に打ち込んで,晴れて名声を獲得したはいいが,科学的な思考法(*1)を学ばなかったため,現在では「はるかなる東洋医学へ」などのオカルト本を著して嬉々とするなど,悪徳オカルト業界の「将棋のコマ」となっている。これは十分に哀れな末路であると,私には思えますね。

(*1)西洋医学に代表される「還元主義的」な科学など,もはや時代遅れだ,という本多氏の反論が聞こえるようです。

 テレビで観戦する皆さんも、出てくる選手らをみんな堤義明の「将棋のコマ」が滑ったり飛んだりしているとする視点から見ると、また別の面白さがあるかもしれない。

 実に嫌らしい表現である。仮に選手が「将棋のコマ」であったとしても,「堤義明のために」と思って競技をしている訳ではあるまい。こんな不必要な表現をする必然性があるのか。

 将棋のコマといえば、似たような現象が他の世界にも多いなあ。侵略擁護の尖兵として戦前回帰をめざす機関車・文藝春秋あたりのドレイになっている物書きとか。あるいは土建資本のドレイたる建設省や自民党主流による首のすげかえ閣僚とか。‥

 随分と無理のある話の持っていき方だと思いますね。苦しい前振りというか,目茶苦茶水増しした文章です。こんなの誌面の無駄遣いでしかないのでは?

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1998.4.28:週刊金曜日第202号投書−「郵便番号にみる天皇制」について− を批判する

 前半は,良いと思う。事実を調査し,それを列挙する形式である。

 「戊辰戦争で反旗を翻したり、「二心殿」藩は千代田区から最も離れた番号であり、北海道・秋田・青森・岩手など「いと恐ろしげなる蝦夷の住むてふ」土地だといわんばかり」という辺りも「白河以北」に住む「いと恐ろしげなる蝦夷」の一人として,賛同の意を表したい(*1)。

 そこまではよいが,最後の一文はいただけない。確かに郵便番号の割り当てには,ある意図を感じるが,だからといって,どのようにしたら「郵便番号制も天皇制をこっそり支え」ることになるのか,全く理解できない。「郵便番号は,制定者の差別意識を如実に表わしている」と言うことは十分に可能だろうが,そこから天皇制云々の話に持っていくのは,少々無理が有るだろう。そもそも郵便番号の割り当てを行なった連中にはある意図があったとして,現代の人間のどれだけが郵便番号と序列とを関連付けて意識しているだろうか?そんな人は極少数であろう。そのようにほとんど意識されていない番号が天皇制を支えている,などと主張するのは牽強付会であると判断せざるを得ない。

(*1)「戊辰戦争で反旗を翻した」藩が千代田区から最も離れた番号だとすると,もっとも激烈に抵抗した会津藩つまり福島県はどうなっているのだろう?福島県福島市の郵便番号は960,福島県会津若松市は965である。ちなみに沖縄県那覇市が900,新潟県新潟市が951,宮城県仙台市が980であるから,福島県は新潟県と宮城県に挟まれた形になっている。

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1998.10.29:本多勝一・リクルート接待疑惑について

 本多・疋田という,かつての朝日新聞の看板記者がリクルート社所有の安比高原スキー場で接待を受けていた,という報道があり,本多・疋田の両者が,著者である岩瀬氏というフリージャーナリストを,口を極めて罵倒したため,逆に名誉毀損で訴えられる,という状況になっている(通常なら,訴えるのは本多・疋田側である筈なのだが,彼らは口を極めて罵倒するだけで,法的手段には訴えようとしないようだ。実に不思議なことではある)。
 これについては,本多氏が連載を持っていた(現在では,あまりの罵詈雑言の連続に,さすがに打ち切られた)「噂の真相」では編集部 対 本多の論争(というより,本多氏の方は一方的に罵詈雑言を並べたてていたというべきか)があり,本多の牙城である「週刊金曜日」でも本多氏側の一方的な言い分が掲載されていました(この他に,疋田氏は批判本を出版したらしい)。
 前記の反論で本多氏は自分の正当性を完璧に論証したつもりらしい(現にそう言い切っている)が,冗談ではない,逆に自らの言動の不一致を天下に知らしめただけに過ぎないと私は思うのである。
 本多氏は,安比高原にスキー旅行に行ったこと自体は認めている。これについても,本多は代金を支払ったと言っているが,その額があまりに少ないのではないか,あるいは領収書が残っていない(と本多が主張している)のだから,実は完全に顎足つきだったのではないか,という疑念は晴れないのだが,まあ,一万歩譲ってそれはよいとしよう。だが,それでよいのか?
 本多氏は自ら語るところによれば「山スキー」の愛好家であり,週刊金曜日などでは岩手山で山スキーを楽しんだことを何週にも渡って掲載したこともある(そもそも,本多がどの程度山スキーを知っているのかについてもおおいに疑問な点があるのだが,それは別途書くこととする)。そこでは山スキーのみを極度に賛美し,スキー場は自然破壊である,ゲレンデスキーはもう止めようなどと繰り返し書かれている。そういう主張をする人物が,こともあろうに安比高原(夏に見た事がある人にはよくわかることだが,あそこは山全体が開発しつくされており,スキー場の自然破壊といえば最右翼に位置するのは明白)で,しかもリクルート社の「招き」に応じて「ゲレンデスキー」を楽しむなど,自らのこれまでの筆に恥じるところはないのだろうか。彼が少しでも言動一致という言葉を知っているなら,まさかそんな「恥知らず」なことは到底出来まいと思うのだが,如何だろうか。

 蛇足だが,私はゲレンデスキーの愛好家であり(山スキーも多少やる),安比高原も何度も利用している(実際,良いスキー場ですよ)。ゲレンデスキーも安比高原にも含むところなどない。単に,本多氏のような立場を表明してきた人の言動不一致を非難しているだけである。


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1998.10.30:本多氏は本当に山に詳しいのか?

 「本多氏は本当に山に詳しいのか?」こんなことを書くと,「何を言っているのか,本多氏(様?)は京大探検部の出身なのだから,当然のごとく山のプロである。事実,山登りに関する本も出しているではないか」という反論が返ってきそうである。だが少し待ってほしい。所謂一流大学の理学部やら工学部を出ていても,それどころか博士号や教授やら助教授の肩書きを持っていながら,トンデモないことを書き散らしている輩は山ほど居る。経歴や「本を出している」だけで無批判に信用は出来ないのである。
 さて,それでは本多氏は山に詳しいのであろうか(*)。
 本多氏は,以前('97年だと思う)週刊金曜日誌上で岩手山に山スキーに行ったことを書いていたが,「山スキーほど楽しいものがあるだろうか」と能天気なことを口にし,同行者に「山スキーほど苦しいものがあるだろうか」とたしなめられている(事実,その後”モナカ雪”で酷い目に遭うのである)。更に本多氏は呆れたことに”モナカ雪”を知らないのである(”モナカ雪”というのが正式な名称なのかどうかは知らないが,表面は堅いが,その下はスカスカという雪の状態で,ターンするにも止まるにも難渋する雪である)。私は年に2,3度,春に日帰りで山スキーを楽しむ程度だが,モナカ雪には何度か遭遇し,やはり苦しめられた経験がある。上手く滑ることが出来るかどうかは別として,本多氏の歳にして初めて”モナカ雪”に出会い,それを得々と書くこと自体,彼の山スキーの経験など知れたものだ,と思うのである。
 勿論,山スキーに疎くとも,だからといって山に疎いのだ,と一概には言えない。だが,つい先日の週刊金曜日では,岩手県の早池峰山の登山客が熊避けの鈴やラジオを持っていることに憤り,「早池峰山で熊の心配などいらない」だの「ヒグマならともかくツキノワグマは心配いらない」だの「鈴やラジオの音で自然と触れ合うことが出来ない」などと書いている。本当だろうか?ツキノワグマは東北地方に広く分布しており,早池峰山にいないわけがない。事実,インターネットでウェブページを検索してみたが,地元で作成している早池峰山の案内には「(登山道を外れたところにある)滝を見に行く人は,くれぐれも熊に注意」とはっきり書かれていた(**)。そしてツキノワグマはヒグマほど体も大きくなく,おとなしいと言われているが,それでも熊に襲われて死傷した人は北海道にしか居ないわけではない。そもそも,鈴やラジオを持っていくのは,林業に携わる人達にとっては常識である。熊と人間が突然出会うのは両者にとって不幸なことであり,そのような出会いを事前に避けるための知恵なのだ。このような「常識」を知らない本多氏は,やはり山に疎いというしかないのではないか。
 あるいは,本多氏はさすがにその程度のことは知っているが,自分の主張(早池峰山を登山競技の会場にするのはやめよ,ということ)に都合のよいように事実を曲げて書いたのかもしれない。だが,それは最早「嘘も方便」という次元ではない。単なる「嘘つき」である(***)。


(*)実は私は山に詳しいわけではない。この手の問題は,本来ならその道の専門家が検討するのが良いのだと思うが,まあ,素人でもこの程度の批判は出来るのである。

(**)「登山道を外れなければ大丈夫」などという反論は意味がない。熊が居る以上,絶対熊に出会わない場所などないし,登山客の全てが登山道しか歩かないわけでもないからである。

(***)そもそも,「探検部」出身の人が登山競技に批判的なことを書くこと自体がおかしいと思うのだが。

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1999.3.13:「世界動物保護協会」はどうしようもない

 ロイター共同によると,世界動物保護協会(本部:ロンドン)は,アジア諸国で犬たちが組織的な虐殺を受けているとの報告書を発表したそうである。それによると,
  1. 台湾,韓国,日本,タイ,中国などではペットショップで狭い場所に閉じ込められている
  2. 飼育されて食肉用として売られ,電気ショックで殺されている
と非難され,特に韓国では,
  1. しばしば生きたままつるされて皮をはがれ,トーチでこんがり焼かれる
  2. コリーやポインター,シェパードなど「由緒正しい犬」も食肉用として売られている
とまで非難されているそうである。
 まあ,1 は本当だろう(ただし,批判者の国での実態はどうなのか?という疑問はあるが)。ただし,2 については,犬の肉を売っているなど,少なくとも現在の日本では聞いたことがない(「闇マーケット」があるのか?)ので,控えめにいっても正確な情報とはとても言いがたい。
 さらに 3 に至っては,もはや言葉もない。一体何処からこんなガセネタを集めてくるのだろう?「動物保護」を訴える連中によく見られる,感情に訴えようとするだけのデマであろう。

 ここまでは「情報の正確性」を問題にしてきたが,百歩譲って,報告書の内容が正確であったとしても,そのような非難に果たして正当性があるかどうか,非常に疑問である。なにせ欧米人は,自分たちは牛などを大量に食う(しかも「血の滴るレア」を好む連中も多い)くせに,異なる文化を持つ我々が,犬や鯨を食用にすることに過剰に非難するのは,どうみても公平だとは思われない(「動物保護協会」の連中が全員菜食主義者とも思われない。仮にそうであっても,文化相対主義の立場からすれば,明らかに不当な非難だと思われる)。私自身は犬を食べたことはないが,別に犬を好物とする人達がいても,それを非難する気にはなれない。食人とは違うのだ。勿論,自分の愛犬を食べられるのは堪えられないが,それは全く別次元の問題である。牛や豚をペットにしている人や,愛情を感じる人は少なくあるまい。それと同じことである。何故牛や豚は食べてよく,犬や鯨は駄目なのか。もしかすると宗教上の問題か。「牛や豚は神様が食用として与えてくれたものだから食べてよいのだ」という宗教があると聞いたことがあるが,それは本当なのだろうか。だとすれば(更に)論外である。自分たちの信仰上の問題を他人に押しつけることは,許容されるべきものではない。歴史上,それによって幾多の悲劇が生まれたことか。

 4 に至っては論外である。「由緒正しい」犬を食うのは懲役10年で,雑種を食ったら禁固3ヶ月だとでも言うつもりか。コリーが雑種より「価値がある」理由は何か。ペット屋での値段が高い,なんてのは論外である。そんなのは(一部の)人間が勝手に押しつけた基準でしかない。シェパードであろうと雑種であろうと,犬は犬。何の違いもない。こんなバカな報告書を書く連中は,きっと人種差別主義者であろう。ゲルマン民族至上主義を唱えた狂人集団や白人至上主義者どもと,本質的に何の違いもあるまい。私は動物を大切にしようという気持ちにおいて人後に落ちるつもりはないが,こんな「世界動物保護協会」などというくだらない団体は,動物保護に対して,有害無益,百害あって一利なしである


この件に関して,西村有史さんからお便りをいただきましたので紹介させていただきます。

こんにちは。西村有史です。
WWFのことがでていましたが、もともとあの組織は、死の商人とスウェーデンの王室の癒着から産まれたもので、むかしは、各国の軍需産業が巨大スポンサーになっていました。(このことは「Arm Bazarl」という本に詳しく載っています、野生動物の最大の敵は、戦争であり、軍需産業がばらまいた武器です。WWFがこうした問題を捉えてキャンペーンをしたという話を聞きません。
 西村さん,貴重な情報ありがとうございました。
 ただし,私が書いたのは,「世界動物保護協会」という団体で,これの WSPA(World Society for the Protection of Animals) ではないかと思うのですが(喰犬について色々書きたてていたようですし)。
 これに対して,WWF (World Wide Fund For Nature)は通常,「世界自然保護基金」という団体の略称であるようです。西村さんに確認したところでは,両者は同一の団体だということですが… [1999.4.11]

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1999.4.24:上坂冬子は腹に据えかねる

 4月20日(火)の電気新聞の「時評」は上坂冬子の「腹に据えかねる話」という題の文章であった。大蔵省から「たばこ事業等審議会」の委員の前で話をして欲しいという依頼を受けた,というのが枕で,本論は,「私は最近の嫌煙権とやらいう権利を腹に据えかねているのだ」というものであった(*1)。  ほほう,この人一体何を言い出すのかな,と半分期待をこめて読み進んだが,期待はずれに終った。結局,「嗜好品につきものの,好き嫌いは当然まつわりついてくる」「なのに,それを嫌う人の権利がなぜこれほど保護されるのであろうか」というだけのものである。ああ,阿呆らしい。そんな程度の議論がこれまでになされてこなかったとでも思っているのだろうか,この人は。今時,喫煙者でも恥ずかしくてそんな議論をする人は少ない。
 上坂氏は何か勘違いしているらしいが,「嗜好品」だからそこ,それを制限できるのである。仮に,ある人がここでタバコを吸わないと命が危うい,という場合なら,誰も「ここは禁煙ですから吸わないでください」とは言えない。ところがタバコは嗜好品である。つまり基本的には酒やジュースと同じものだ。生存に対して絶対必要なものではないからこその「嗜好品」である。であれば,公共の利益が優先されるのは当然の話だ。誰も喫煙者にタバコを吸うな,とは言っていないのである。タバコの煙や臭いが嫌いな人の前では吸ってくれるな,というだけのことである。だからこそ会社などではわざわざ金を掛けて喫煙室を設けたりしているではないか。しかも,これはタバコの有害性,特に副流煙の有害性を考慮しないでの話である(*2)。
 「たばこを吸わない私(*3)にとって,禁煙も喫煙も基本的にはどうでもいい話である」のに上坂氏が愛煙家の側に立つのは「愛煙家に気合を入れたい」「男たちのエセ紳士ぶりが私にはガマンならないのだ。なぜ,吸う権利を堂々と主張して禁煙派と対等にたたかわないのだろう」という理由からだそうである。ここでわかるのは,上坂氏はタバコの臭いや煙が嫌いではない(あるいは気にならない)ということだ。それと邪推するなら,愛煙家のエライさんにごまをすっているのではないのか,ということだ。年齢が高いと喫煙率も高いから,愛煙家のエライさんも,かなりの数になるだろう。

 上坂氏は,「世論は声の大きい方になびき,男たちは泣く子と地頭と世論には勝てぬと言わんばかりに,じっと我慢してやりすごす,その分別が私にはむかつく」そうだ。「声の大きいほうになび」かせようと,あちこちで駄文をまきちらしているのは,上坂氏,あなたの方ではないのか。ここで挙げた例から明らかなように,上坂氏はほとんど何も考えていないのと一緒である。そんな感性だからこそ従軍慰安婦問題などで,あんなふざけた意見が言えるのだと納得する。こっちこそあなたはいい加減「腹に据えかねる」のだ。

 発表媒体が「電気新聞」なだけに,最後には「問題は嫌煙権の横暴のみではない。原子力に関しても,理不尽な世論には無分別といわれるほどの覇気で立ち向かうべきではないか」とまとめている。確かに覇気は必要だろうが,あなたのは路上で目隠ししてマシンガンを乱射しているようなものである。何に限らず,よく考えることが大事なのですよ,上坂氏。電気新聞も,「有名」だし原子力にほとんど無条件で賛成の立場だから上坂氏を起用したのだろうが,こんなコト書かれたのでは,逆効果なのではないだろうか?

(*1)ほとんど八つ当たりのような,こんな文章もあります。

現に,いまこうして原稿を打っているワープロにも,すでに嫌煙権という文字は入力されており,日常用語として昇格している。上坂という名前など,名前の一覧表のどこにも入力されていないというのに。
「嫌煙権」という文字がワープロに「入力」されているのに「上坂」という名前がどこにも「入力」されていないことにまで腹を立てることはないんじゃあないのかな。なお,ここで「入力」というのは「登録」くらいに読み替えたほうがいいと思われます。mata ,私の使っている日本語変換ソフトでは「上坂」はすぐに出ます。そろそろ新しいワープロを買ったほうがいいんじゃないですか,印税で。

(*2)私は喫煙者がフィルターを付けて非喫煙者の前でタバコを吸うことに怒りを感じる。吸うなら,ビニール袋でも被って吸え,フィルターなど付けて吸うな,吸うなら直接煙を全部吸え,と言いたい。こっちに流れてくるのはナマの煙なのだ。まったくふざけている。

(*3)とはいえ,上坂氏は「テレビドラマの場面で,高名な女優さんが実に上品に煙を漂わせていたのをみて」一念発起してタバコに挑戦したことがあるそうだ。だが,鏡に映った自分の姿が「むかし映画で見た裏町の老婆が一本のタバコにしがみつくようにして吸っていた図」に似ていたことから断念したのだそうだ。

[1999.4.26一部修正]

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1999.4.25:サントリーは「大したものだ」

 サントリーが広告上手な会社であるということに異論のある人は少ないのではないか。新聞広告によると,そのサントリーが「麦100%はうまいのか?」という「国民投票」をするという。ああ,またうまいことやっているな,というのが私の感想である。
 この「国民投票」は,「麦100%はうまいのか?」という問いに対する答えを([Yes]か[No]か)ハガキで投票するもので,賞品は同社のモルツ1ケースである。

 まず,「麦100%はうまいのか?」という問い自体が問題である。仮に一般論として「麦100%」がうまいとしても,サントリーのモルツまでうまいとは限らない。私自身の味覚では,はっきりいってモルツはまずい。まず,国産ビールの中で最悪である(と,私の舌は言っている)。が,これをもって「麦100%」がうまいか,という問いに[No]とは答えられない。答えられるのは「モルツがまずい」ということだけである(*)。まるでモルツが「麦100%」の代表選手かのような設問には大いに疑問を感じる。ちなみに,私の考えは「うまくなるなら,麦100%にこだわる必要はない。副原料で味がよくなるなら,入れればいい」である(勿論,副原料は安全なものであることが前提だ)。

 次に,これに参加する人の母集団は非常に偏っていることは明らかである。つまりわざわざ切手代を払ってまで賞品のモルツ1ケースが欲しいという人が「麦100%はまずい」というだろうか?モルツが飲みたいからこそ切手代を払い,ハガキを書くのである。答えは最初から明らかなのだ。
 なにもそこまで目くじら立てることはないだろう,という意見もあろう。が,この投票結果は「統計」としてモルツの販促に使われるのだ。明らかに誤った統計にもかかわらず。だまされてはいけない。

 これは能見親子の血液型性格分析のアンケート調査で「血液型と性格には関連がある」とした人が多い,というのと同じ構造である。なぜなら,わざわざ能見親子の本を買ってアンケートのハガキまで書く人は,そのほとんどが血液型と性格は関連があると最初から考えているであろうから。

(*)嗜好は個人的なものであるが,私の周囲でモルツを「うまい」という人をほとんどしらない。独身寮に居た時,よく10人以上で酒盛りをやったものだが,他のビールとモルツが出されると,最後に残るのは決まってモルツだった。しかも大量に。ちなみに何故モルツが出されたか,といえば「タンブラーが欲しいから」買ったためである。

[1999.4.26一部修正]

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1999.5.11:風力発電はバラ色の電源か

 5月12日の「ニュースステーション」で今話題の風力発電の特集があった。確かに風力発電は運転に化石燃料を必要としない新エネルギーである。だが,まるでエネルギー問題が風力で全て解決できるかのような,無責任な報道は問題が多い。
 まず「この風車1基で一般家庭400戸の電気が賄えます」という表現。たしかに風車が最大出力で稼働すれば400戸の電気が賄える計算になるのだろう。だが,風力発電が年中やすまず最大出力を発生しつづけることが(余程特殊な立地条件でなければ)不可能であることは,ちょっと考えれば誰にだって明らかである。今更,風の弱いときには電気を使わない生活が可能だろうか?
 また,「○○国では風力を△基建設し…」と,相変わらず外国の状況を引き合いに出すのが得意であるが,風力のような電源では,その国の立地条件に大きく左右される。合衆国でも風力発電のメッカは,年中強風の吹くカリフォルニアである。そこのところを無視して闇雲に「外国ではこれだけやっているのに日本では…」という言い方は問題がある(勿論,そこのところをちゃんと押さえての批判は大いに結構なのだが)。
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