(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

表情の幅---かっちょいい音楽とは


Kio estas belforma muziko ?

Miaopinie:
Koncerne muzikojn post la romantika skolo ŝanceli ritmon aŭ laŭtecon eble povas esti belforme. Sed koncerne barokajn muzikojn tia ŝancelado estas ofte ĝena, dum nur kiel dividi frazojn sen ŝancelado de ritmo kaj laŭteco povas fari belformecon.

注意 後藤文彦の頁へ戻る
al la paĝo de GOTOU Humihiko

 指揮者にせよ、室内楽、器楽演奏者にせよ、機械のように表情を排する奏者からわざとらしいほどに表情過多の奏者まで、「表情の幅」は実に広く渡っているものです。

 若い頃は(と言っても私の場合は中学高校時代はぐらいの意)、より表情を付ける演奏者の方が、その分だけ動かせる自由度の数が多いのだから優れた演奏者なのだと思ったりもしていたものですが、バロックなどを聴くようになってからは、演奏者が表情を作り出す自由度の多さも、鑑賞者が表情を読み取る自由度の多さも、その「表情の幅」には依らないばかりか、ひょっとすると「表情の幅」の狭い音楽にいそしんでいる人の方が寧ろ多くの自由度を持っているのかも知れないという気がしてきました。

 つまり人間に扱える自由度の数の総和というのには限度のようなものがあって、強弱やテンポ(伊 演奏速度)の変動の最小単位は、その演奏で設定している変動の最大幅に応じて、「表情の幅」の狭い演奏では細かく、「表情の幅」の広い演奏では粗くきざまれているのではないかということです。

 例えばチェンバロなどはその発音機構上、強弱は出せないし、ピアノのようにはテンポを揺らさないのが普通です。ところが、演奏者によって不思議なほどにまるで違った表情を有しているのです。 つまり旋律や音符の区切り方というかその僅かに残された「音符をどこで切るか」の自由度だけで、こんなにも表情が付けられるという事実は、専ら強弱やテンポの変動ばかりが表情付けの基本だと思っていた私には大きな発見でした。

 それは、ビブラートを一切かけない直線的な歌い方によるルネサンス聖歌の方が、ベルカント唱法(でいいのですか?)によるオペラなどよりも、よっぽど私には心地良い響きだということを発見したのにも匹敵するかも知れません。

ところで?

 私は、ケンプの(あるいはポリーニの)ベートーベンなどとの比較において、バックハウスというのは何故にあんなにも無機質無表情に弾くのかと不思議に思っていたのですが、恐らくそれは、バックハウスの自由度が私の検知対象を外した項目においてふんだんに消費されているというだけのことなのでしょう。

 それでいて私は、バッハなどにおいてはバックハウス以上に無表情であることを要求したりするのだから人間というのも贅沢なものです。

 また、「表情の幅」というのは、作曲年代の新しい分野ほど広く設定される傾向がありますが、演奏家にはそれぞれ思い入れの深い分野というものがあり、その分野用に修得した「表情の幅」を、他の分野にも準じて用いるという傾向は多かれ少なかれあるのだと思います。

 私自身は鑑賞者として古典派以前の分野に思い入れがあるので、ショパン弾きの弾いたベートーベンやバッハは表情過多で気持ち悪いのですが、逆にベートーベン弾きの(ケンプとかの)弾いたショパンなどは、ショパンの苦手な私には寧ろ聞き易かったりします。

 ショパン弾きとは言っても、ポリーニは無機的な(ショパンの割には) 弾き方をするから、私には(ルビンシュタインだのアルヘリッチよりも) 聞き心地が良いし、その一見無機的な「表情の幅」もベートーベン辺りを 弾く時は分野相応になっているような気がします。

 その手の意味では、バックハウスのショパンなどにも興味がありますが、どうやら手許の古いレコード目録によると「別れの曲」と「黒鍵」ぐらいしか出ていないようですね。

 更に興味があるのは、古典派以前か近代以後の両極端しか弾かないグールドに「幻のショパン演奏」の録音があるらしく、なんでも異常に硬い演奏なのだそうですが、私は未だに聴いたことがありません(曾て輸入版CDで出ていたらしいのですが)。

 フランソワのベートーベンというのも、まるでドビュッシーでも弾いている調子ですが...

ところで? 話しが繋がらなくてすみませんが

 ガーディナーの運命は聴いておりませんが、この人の場合は単に速いとか軽快というよりは、オリジナル楽器を用いた小編成の楽団でベートーベン当時の演奏形態を再現しようとしているのではなかったかと思います(最近、古楽器小編成演奏による惑星を録音したのはガーディナーでしたっけ? だとすると必ずしも作曲当時の演奏形態の再現ということ以上に古楽器演奏への独自の哲学があるのかも知れません)。

 ベートーベンを大編成の楽団で重厚に刺激的に演奏するようになったのは、恐らくフルトベングラーやワルターの当たりからなのだと思いますが、最近の繊細で軽快なベートーベン演奏(ガーディナー、ブリュッヘン、T.トーマス)が個人の音楽感性次第では果たして「重厚」とか「刺激的」といった概念と必ずしも対極を成す訳でもないのではないかという気がしてまいりました。   

 というのは、例えばバロックの好きな私にとっては、強弱もテンポも広く動かし(ピアノだったらペダルを多用して、管・弦・声楽だったらビブラートを多用して)演奏された表情過多のバッハには、軽薄さや軟弱さ更には気持ち悪さを感じる一方、強弱もテンポも殆ど動かさずに(ピアノだったらペダルを抑えてノンレガートぎみに、管・弦・声楽だったらビブラートを抑えて)旋律や音符の区切り方のみによって表情が付いている無機的なバッハには、対位的な重厚さや旋律的な刺激を感じるのです。

 つまり何が言いたいのかというと、まるっきり違った音楽分野を好んで聴いている人たちの間でも、「かっちょよさ」「刺激性」「ロマンチックさ」といった言葉で抽象される程度の次元では、それなりに同じものを求めているのかも知れないということです。

 つまり自分には不味くてとても喰えないものを好んで喰う人たちは、別にそれを不味いと思って食べている訳ではなくおいしいと思って食べている訳で、味覚感性は違っていても、「おいしさ」を求めるという次元では同値であるという具合にです。

 こんなことを言い出すと、利害関係の対立するどんな個人同志も、快感追求・不快感逃避の次元では目的が共通しており、価値観の違いがその達成を妨げているとかといったことまで話が及びそうなのでこの辺でやめておきましょう。

 (というか「かっちょよさ」とか「刺激性」といった私にとっての音楽評価の構成概念を、私とは価値観の違う人にも伝達し得る共通言語に翻訳することが可能かどうかを模作することに、ちょっとばかり関心があるもので)





khmhtg