原博氏は、2002年2月13日にお亡くなりになったそうです。 ここに氏への追悼の意を表すとともに、今後もできる範囲で、 氏の作品や精神について少しでも啓蒙していきたいと思います。
目次
楽譜とCDの発見(1999/11/24微更新)
曽根麻矢子氏に楽譜 渡す(1999/5/24追記)
原博氏に手紙 出す(1999/5/24追記)
せっかくバッハが遺してくれた形式で曲を作っては駄目なのか?
(1999/11/7, 01/3/21追記)
電網上での原博批判について
原博 後援会が発足するかも?(1999/11/7,24)
原博「B-A-C-H の名に基づくフーガ」(00/7/5)
覚え書き(01/3/21,
01/7/5,01/7/23,
01/7/31
)
音楽における「規則性」や「乱雑さ」と「良さ」(つまり人の好み)との統計的相関。
ジャズの規則性、モード奏法、コード進行等々
佐村河内守について
クレープス
吉松隆による武満徹/追悼小論
一九九五年十一月二十一日
原博(1933-)という作曲家をご存じでしょうか。つい数箇月前、友人が全音から出ている「原博:ピアノのための24の前奏曲とフーガ」の楽譜を買ったことで、この作曲家と作品を知ったのですが、この曲は完全に機能調性に従ってバロック対位法的な様式で書かれており、バッハの平均律「第三巻」を連想させます。
私は、早速この曲を含む原博の作品でCDで出ているものは全て、注文し購入しました。中には機能調性に従わない「現代音楽」的な作品もありますが、モーツァルトを連想させる弦楽セレナードなど古典的様式で書かれた作品の方が原博の真価のように私には思え、やはり中でも上述の「24の前奏曲とフーガ」はバッハにも匹敵する絶品ではないかと私には思えます*。
* CD:原博『24の前奏曲とフーガ』(ピアノ:北川暁子)というか私はバッハの対位的な鍵盤曲が非常に好きであり、「バッハの鍵盤曲」のような独特の構造的緻密性を有する音楽が他にもあるならば、もっともっと聴いてみたいと、バッハ前後の時代の鍵盤曲を色々と発掘すべく聴いてみてはいるのですが(フローベルガー、A・スカルラッティ、ブクステフーデ、ベーム、L・クープラン、F・クープラン、D・スカルラッティ、ヘンデル、ラモー等々)、私にはバッハとは全く似ていないとしか思えないのです。
アートユニオン(ART-3022〜3)楽譜:原博『ピアノのための24の前奏曲とフーガ』(全音楽譜出版社)
ISBN4-11-168280-4原博はこの他にも幾つかのピアノ曲を作曲しており、アートユニオン社からCDが、 全音ピアノピースから楽譜が出ているが、それらは必ずしも機能調性に従った曲 ばかりではない。機能調性に従った曲で私が気に入った曲に、
CD:原博:『ピアノ協奏曲と4つのピアノ作品集』
アートユニオン(ART-3034)に入っている 「オフランド」がある。ファンタジー=フーガ=ファンタジーの構成で特に フーガが気に入った。また同CDに入っている「展開小シャコンヌ」は、 左手で常に四小節の主題を繰り返し続け、それに対して右手は西洋音楽の「発展」 の歴史を再現しながら変奏していく。まず、「和声」が発生し、「対位法」などの 機能調性的な音楽技法が発展しつつ、「半音階」「全音階」などを経つつ 機能調性や拍子が失われていき最後は滅茶苦茶になるという、 実に皮肉のこもった曲である。「オフランド」「展開小シャコンヌ」共に 全音ピアノピースから楽譜が出ている(前者は482番で難易度E、後者は421でD)。
なんと、「 classic NEWS —オンラインCDショップ—」の頁で 原博のCDが視聴できます(注文もできる)。 是非、聴いてみて下さい(Real Player とかいう音楽再生装置が 必要ですが)。24の前奏曲全てのさわりの部分を視聴できるのですが、 残念なことに、原博の真価であるフーガは視聴できません。 前奏曲であれば、私の好みの曲は、 8番、 6番、 21番とかですかね。
尚、電網上で原博について書いているところとしては、例えば 作曲家 原 博 非公式HP や 「Fugues —— 種々のFugaの世界」 のここ やここ とか。
1999/11/28 追記: 原博試聴室を作りました。 フーガも少しずつ MIDI 化して置いていく予定です。 作品の MIDI 化公開については原さんご本人の許可も得ています。
例えば、古典派におけるハイドンやモーツァルトやベートーベンの音楽は、少くとも形式的には、あるいは十秒ぐらいその断章を聴く分には、お互いを連想させることもあるくらいに、それなりに似ている箇所も多いのではないかと私は思うのですが、バッハの音楽(特に鍵盤曲や器楽曲)は、バロック時代の音楽の中でも極めて異質なもので、その独特の構造的緻密性を有する対位的音楽形式は、バロック時代は疎か古典派以後現代に至るまでまるでバッハ以外には見当たらないような気がします。
ところが、こうしたバッハの音楽の生前の評価は、既に時代遅れの古い形式に固執した陳腐な音楽と捉えられており(バッハの息子すらバッハを時代遅れと批判していたとか)、当時はテレマンやヘンデルの方がバッハを遥かに凌ぐ人気と評価を得ていたそうであります。
テレマンやヘンデルではなく正にバッハこそが好きである私にとっては、当時のバッハ批判者の言葉を信じるなら、バロック時代には既に時代遅れの古い形式とされた形式こそが好きなのだから、バッハよりも少し時代を遡れば、私の好む「バッハ」的な音楽をもっと発掘できるかも知れないと思って、前述したようにフローベルガーやらブクステフーデやらを期待して聴いてみたのですが、果たしてそれが音楽理論の形式論上ではどんなに共通点を有するかは知りませんが、私が聴いた限りではバッハ以前には「バッハ」的な音楽をまるで見出だせないないのです。
前置きが長くなりましたが、そんな私にとって原博の「24の前奏曲とフーガ」は、初めて聴くバッハ以外の作曲家によるバッハ的な作品であり、本当に目から鱗が落ちるような思いでした。
原博は、バッハとモーツァルトを自己の音楽の手本としており、彼等が確立した古典的音楽形式こそが、音楽史上もっとも優れた形式であると信じており、その後、現代に至るまで発展してきた音楽史上において、それに優る目を見張るような形式は自分には一切見出だせないというようなことを言っております(CDの解説から記憶を頼りに書いているので、ちょっと違っているかも知れません)。
また原の言葉によれば、機能調性は人間が発明したものではなく、ニュートンの法則と同じような「発見」なのだというようなことも、24の前奏曲とフーガの楽譜の解説に書いてあり、前衛芸術に常々疑問を抱いている私にとっては、実に痛快な言葉でありました。
私は、世の中にバッハやモーツァルトの作品を至極のものと捉えている人々が大勢いるにも拘らず、現代の作曲家が、わざわざ対位法や和声論を勉強していながら、まるでバッハやモーツァルトのような音楽を作曲しないばかりか、それとは逆行した、無調性の前衛的な、一部の人しかいいと思わない抽象絵画のような音楽ばかりを作曲するのが、とても不思議でした(ゴルトベルクの頁 「高橋悠治」に関連事項)。
私なりに考えつく理由はせいぜい
「バッハやモーツァルトに代表されるような過去の偉大な作曲家は本当の天才であり、そういう人にしか作れない曲を作ったので、現代の作曲家がいくらこの人たちを真似しても、到底それには及ばないと諦めている」
か、あるいは
「現代作曲家が、バッハやモーツァルトのような古典的名曲よりも、自分たちが作曲しているような、無調性で拍子もない前衛的な音楽の方を本当に『いい』と思っている」
かのどちらかぐらいでした。
一方、原博のCDの解説によると、どうも近現代作曲界では、機能調性で作曲すると馬鹿にされる風潮があるそうなのです。原博も芸大在学当時から自分の信念に基づき機能調性で曲を書いていたようですが、周囲からは白い目で見られ、非常に肩身の狭い思いをしていたそうです。
もし、たかがそのような作曲界の風潮のせいで、バッハやモーツァルトのような曲をそれなりに作曲できる能力を修得した現代作曲家の殆どが、揃いも揃って、「現代音楽」的な音楽ばかりを作曲しているのだとしたら、私には実にもったいなく思えてしまいます。
バッハの主要な器楽曲を殆ど聴いてしまった私には、バッハには似ていない他のバロック音楽にバッハの代償を見出だすよりも、現代作曲家がバッハを見本として/真似して作った音楽に、バッハの代償を見出だすことの方が、近道で合目的的だと思えてしまうのです。
だから、その能力のある現代作曲家の方々には、原博を見習って、もっと古典的形式でも作曲してほしいと切に願う次第であります。
その意味では、映画音楽界とか、ポップス界とか、ロック界とかの方が、少くとも機能調性には従った曲が基本的だ(よくは分かりませんが、たぶんそうではありませんか)という意味では、寧ろ健全なような(聴衆の音楽的欲求に素直な)気もします。
それにしても、原博の24の前奏曲とフーガ(1981年頃の作曲だったでしょうか)を、もしグールドが演奏していたらどんなにか素晴らしい演奏だったに違いないと思うと無念です。
私が購入したCD(原博 24の前奏曲とフーガ AU-ART3022-3)では、北川暁子というピアノ奏者が演奏しておりますが、ノンレガートぎみで、輪郭線のはっきりした(フーガの主題などもかなりはっきり出す)弾き方で、十分に気に入ってはいます(意図的にか録音が悪いせいか残響が少ないので、パラパラした弾き方が寧ろ引き立っています)。
高橋悠治 あたりが録音してくれることを私は密かに期待しております。
たぶん、一九九五年十二月十日のことだったと思います( この頁を参考にすると)。 宮城県仙台市の中本誠司個人美術館 で曽根麻矢子(この人については、例えば この頁。 案の定、生年が記されていないが)のチェンバロ演奏会がありました。 曽根氏は宮城県に親戚がおり、 中本誠司個人美術館には時々? 演奏に来ていました( 次回は1999/3/21(日)16:00〜「曽根麻矢子チェンバロの夕べ」を予定 しているらしい )。 この中本誠司個人美術館には、曽根氏の他にもバロックバイオリンの 若松夏美 やビオラダガンバの 中野哲也 などの著名なバロック演奏家による演奏会が時々 開かれており、 演奏会の後は、演奏家を交えて「茶話会」という名の飲み会?が開かれます。 チェンバロ制作者の木村雅雄さんもいつもこの演奏会に調律者として来て、 「茶話会」にも参加します。 酔いが回ってくると?、誰でも自由にチェンバロを弾いていいような状態になります*。
* 私も何回か弾かせてもらいました。その時は(どの時か?) 木村さんによると確か六分の一コンマミーントーンで調律していたそうです (「古典調律」)。 たぶん十二月五日よりは前の演奏会の後の「茶話会」だったと思うが、 私がゴルトベルクのアリアと第一変奏をへたくそに弾いていたら (もう主要な人々は酔いが回って騒いでいて誰も聴いていないと思っていたのだが)、 「ちょっとぉ」と曽根麻矢子さんに肩をつつかれて退散させられました。 曽根さんもそれなりに酔っていたように見えましたが、 その場でF.クープランの「神秘的な門」を弾いてみせてくれました。 この時は私は確か友人のHさんと来ていて、酒の飲めないHさんが曽根さんに ビールを注がれそうになって断りきれずに困っていたので、 私が「ああ、この人 酒 駄目なんですよ」とか言ったら、曽根さんは 「特別だぞ」とか言って許してくれました。まあ、そういう感じの「茶話会」 ?です。という訳で?その十二月五日だかの演奏会の時には、私は 確信犯的に原博の『ピアノのための24の前奏曲とフーガ』(全音)の楽譜を 鞄の中に忍ばせていって、演奏会後の「茶話会」で 曽根さんに紹介するべく機を窺っておりました。 何人かが曽根さんとチェンバロの前で一緒に写真を撮ってもらったりして いたので、そのうち曽根さんが解放されたところで声をかけようと 思っていたら、曽根さんは時間がないのでそろそろ帰らなければならないと のことでした。 私は慌てて、それならちょっと差し上げたいものがあるというようなことを言って、 『24の前奏曲とフーガ』の楽譜を渡しながら「原博って知ってますか」 と訊いたところ、知らないとのことでした。 私が 「バッハみたいな曲なんです。チェンバロで弾いても合うと思いますよ」 とか適当なことを言うと、曽根さんは楽譜を見ながら、 「ほんとにバッハみたい」とか言っていました。 曽根さんは急いでいるようだったので、「それあげます」と言ったら 曽根さんは礼を言って受け取ってくれました。
以来 私は、曽根さんが原博の『24の前奏曲とフーガ』を (その中の数曲でも)チェンバロ演奏でCDに録音してくれることを 密かに夢想しているのであります (今までのところ、そういう気配は全くないようですが)*。
* 1999/3/21 の曽根麻矢子氏のチェンバロ演奏会に行ってきました。 曲目はフランスものが中心で、 デイビッド レイ(David Ley)製作のチェンバロを運んできて 弾きました。デイビッド レイ製作のチェンバロは、 曽根氏が指導を受けた スコット ロスも愛用していたのでは ないかと思いますが (但し、曽根氏が今回 弾いたのはロスが弾いていたものではないが)、 そのせいもあるのか? 生前のロスの演奏を彷彿とさせるような 軽やかで流れるような演奏だったと思います。 アンコールはドメニコ スカラッティのファンダンゴとゴルトベルクの 第20変奏でしたが、これもなかなか軽やかな演奏でした。 曽根氏の五枚目のCDとなる「ゴルトベルク変奏曲」が 1999/5/26 に発売予定のようですが、 なかなか楽しみになりました。
さて、演奏会後の打ち上げで、私は曽根さんに何気なく、
「あのー、私 前に原博の楽譜 差し上げた者なんですけど…… あれ、弾いてみました?」
みたいな訊き方をしたら、
「あー、そうそう、あれね。時々 弾いてた。いい曲だよね」
みたいに答えてくれました (もしかすると、社交辞令でそう答えただけかも知れないが)。 一応、私も
「ええ、私も個人的にはすごくいい曲だと思うんですけど」
と念を押して?おきました。
曽根麻矢子氏に原博の楽譜を渡した数日後 (つまり 1995年12月中旬か?)だと思いますが、私は思い立って 原氏に手紙を出してみました。内容は、 「楽譜とCDの発見」 に書いたことと同じようなことで、曽根氏に楽譜を渡したことにも触れておきました。 何日かしたら原博さん御本人から葉書が届きました (私は長崎大学宛に出したが、今は東京に住んでいるようで、 そちらの住所に転送されたようだ)。 私信ではありますが、少々 抜粋します。
思いがけず親愛に満ちたお便りをいただき、とても嬉しく思って います。長く孤独と仕事が共にあった者には、渇きをうるおす清流 です。ここ数年来 私は、二十代三十代の若い人達が、他の世代には 見られない本質的な目を、私に向け始めてくれているのを実感します。 あなたのお便りの内容はその中の一つの典型です。私は少しずつ自分の 主張を世に明らかにして行きたいと考えています。それには力の集束が 必要です。そのような動きの支柱となって下されば幸いです。あなたの して下さったことはすでにその一つです。なんとも有り難いお言葉です。私は「原博自筆」のこの葉書を バッハの肖像画とともに額に入れ、電子ピアノの前に飾っています。 その後も原博さんは、著作『無視された聴衆——現代音楽の命運——』 (ケンロードミュージック)を私なんぞに贈呈して下さいました*。
* 1999/5/24 原博さんから手紙が届きました。 なんでも、とある音楽会の休憩時間にロビーに置いてあった インターネットに接続されたコンピューターで「原博情報」を 検索していてこの頁が引っ掛かったということのようです。 原さんは、私がこのような頁を公開していることに感謝して下さったらしく、 なんとこの拙い頁を印刷したものをアート・ユニオンや全音にもファックス で送って下さったそうです。 私ごときには身に余る光栄です。続く。
原さんは 1998/3 に長崎大学を退官されてから、 60 Bagatelles pour Piano (ピアノのための60のバガテル)を作曲し、 その他にも 1989 年以来 作曲した弦楽四重奏、弦楽三重奏、ピアノ四重奏、 無伴奏バイオリン、ビオラ、チェロソナタなど十曲近くが未演のままで、 それらの中では、Bagatelles の演奏CD化が一番早いかも 知れないとのことです(1999秋か2000春とのこと)。 なんと、出版/CD化したら早速に私にお送り下さるそうで、 本当に私なんぞには勿体ない有り難いお話です。 「プレリュード・フーガとはまた違いますが、別な意味で興味を持っていただける と思います。(完全な機能調性です)」とありますので実に楽しみです。 今から心待ちにしております。
フーガに関しては、バッハの作品を見れば必要にして充分という観がありますが、やはりそれぞれの時代でそれぞれの工夫のもとに作られていたりしますので、その中からいくつか。
モーツァルトについては、初期の習作的フーガを除くと、単独のフーガに見るべきものはないようです。
晩年の作品(ジュピター交響曲や「魔笛」)でフガート処理を導入してはおりますが……。
ベートーヴェンはそれに較べると、晩年に至っていくつかの秀逸な作品を書いてますね。
(中略)
原博の「24の前奏曲とフーガ」に私が疑問を呈したのは、現代においてこうしたものの書かれる意味がよく理解できないためなんですよね(^_^;;
習作、あるいは教科書としてならわからないことはないんですが……
掲示板「 BASSO CONTINUO's Message Board」 (http://www.nasuinfo.or.jp/FreeSpace/motoshi/Oldlog/log0005.htm) において、 コンビニ作曲家MIC さんが DAIさんに向けた 発言(99/7/14)から引用
原博のフーガ。さわりの部分だけ聞きました・・・整った内容ですね。ただ、それゆえ「習作」の域を出てないな、というのが私の印象です。(全部を耳にしたわけではないので何とも言えません・・・DAIさんの気分を逆なでするかもしれないのを敢えて承知で言っております。非礼陳謝m(_ _)m)
(中略)
難しいものですね。「フーガ」って、曲を盛り上げる手段としては結構有効なんですが、フーガそのものはバッハによってとても高いレベルまで完成されてしまって、これに新しい血を吹きこむ、すなわち「フーガそのものを革新する」のはとても難しい気がします。ベートーヴェンの弦楽四重奏大フーガなんてのはそうした「フーガに新たな血を吹きこむ」試みの一つで、あの曲自体は成功したと思うんですが、後継者がひとりもいなかったのがアンラッキーだった・・・。
掲示板「 BASSO CONTINUO's Message Board」 (http://www.nasuinfo.or.jp/FreeSpace/motoshi/Oldlog/log0006.htm) において、 炎のコンティヌオ さんが DAIさんに向けた 発言(99/8/23)より引用
まず、コンビニ作曲家MICさんは
原博の「24の前奏曲とフーガ」に私が疑問を呈したのは、現代においてこうしたものの書かれる意味がよく理解できないためなんですよね(^_^;;
と書いておられますが、
それでは、原博の作品が「習作」となるような「本番の」作品、あるいは、
原博の作品を「教科書」として作られるような「実践の」作品として、
コンビニ作曲家MICさんは、どのような曲を思い描いているのでしょうか?
様々な時代のフーガに対する
コンビニ作曲家MICさんの考察から察するに、
少なくともバッハのフーガとは違う、時代なりの工夫(つまり、現代なら
現代ならではの工夫)をしたフーガとでも言うべきものを思い描いているようでも
あります。一方で、
炎のコンティヌオさんは、
習作、あるいは教科書としてならわからないことはないんですが……
フーガそのものはバッハによってとても高いレベルまで完成されてしまって、これに新しい血を吹きこむ、すなわち「フーガそのものを革新する」のはとても難しい気がします。ベートーヴェンの弦楽四重奏大フーガなんてのはそうした「フーガに新たな血を吹きこむ」試みの一つで、あの曲自体は成功したと思うんですが、後継者がひとりもいなかったのがアンラッキーだった・・・。と書いており、やはり、バッハの時代の「フーガに新たな血を吹き込む」 と言えるような曲でなければ( バッハの築き上げた技法に忠実に倣って創作したような曲では)、 傑出した作品にはなり得ないと考えているようでもあります。
また、すでに J. S. バッハが成し遂げてしまったことを今何故行うのかという 疑問が投げ掛けられるとすれば、これも「創造」という言葉のとらえ方に関係 することだが、私は創造とは山の初登頂競争と異なることなのだと答える 他はない。やや近い例をとれば、交響曲は最初に誰かが創始したが、 ベートーヴェンもそれを書いた。J. S. バッハが「平均律」を書き、 次に誰かがそれを書く番になるだけのことだと思う。生きとし生けるものの 面白さは、同一条件の中でも個体によって表現が異なることである。芸術 において次にくる非常に重要なことは、それが美にまで高まっているかどうか のみである。実に然り、その通りです。 私は、 「機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲」 が好きなのです。 その形式を最初に構築したのが、たまたまバッハなのはいいとして、 バッハの作品数には限りがあります。 私は、もっともっと多くの色々な「 機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲 」を 聴きたいのです。 原博の『ピアノのための24の前奏曲とフーガ』は、 「機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲」 という条件での バッハとは異なる表現であり、 そんな私の音楽的欲求を叶えてくれる実に貴重な作品群でした。 私がバッハの鍵盤曲を好きなのは、 それが 「機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲」 だからであって、 別にバッハという個人が好きだからではありません。 だから、同じバッハの曲でも、カンタータとかは私は特に好きではありません (声楽曲だったら、私はむしろ ルネサンス期の聖歌とかの方が好きです)し、 バッロク協奏曲や管弦楽曲であれば、バッハよりもビバルディの方が好きです。 逆に、バッハ以外の人でも、 「機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲」 を作っていれば、ぜひ聴いてみたいと思っています。 だから、 バッハの子供たちやリストやマックス レーガーやブゾーニなどなどの B-A-C-H の主題に基づくフーガや モーツァルトの二台のピアノのためのフーガや メンデルスゾーンの六つの前奏曲とフーガのフーガとかも、 それなりに私の音楽的欲求を満たすものではありますが、 原博の「24の前奏曲とフーガ」ほど満足させてくれるものではありません。 ベートーベンのピアノソナタ29、31、32番とかに現れるフーガは、 それはそれで好きですが、 「機能調性で対位的構造を強調した鍵盤曲」 としては、フーガに徹したバッハや原博のフーガの方が好きです。 これは私が、 ノンレガートでパラパラと弾かれることによって映える曲が好きだ からでもあります。 だから、バッハの対位的な鍵盤曲ではあっても、 オルガンのための音域の広い前奏曲とフーガをピアノ編曲したやつを ペダルをふんだんに踏んで、思いっ切り強弱の変化をつけた 「ピアノ曲的な」演奏は苦手です。
原博『ピアノのための24の前奏曲とフーガ』(全音出版社)
原博「B-A-C-H の名に基づくフーガ」(0000/7/5)
原博さんから新作の
「Fugue sur le nom de B-A-C-H」(バッハの名に基づくフーガ)の
自筆譜のコピーと、それの midi ファイルを再生したテープとを
送って戴きました。
素人の私は、
「『高頻度の転調』か『無調』かの境界を戯れている」
ような面白い曲だとの印象を抱きましたが(外しているかも)、
この曲を手直しした楽譜が、
00/7/10 に
アートユニオンから
創刊される『
カンパネラ(Campanella)』
という雑誌に載るそうなので、興味のある方は是非そちらをご覧ください。
追記(22/1/7): ピアニストの大井浩明さんから、 「バッハの名に基づくフーガ」の楽譜を探しているとのメールをいただきました。 原博さんからお送りいただいた自筆譜のコピーをスキャンして 大井さんにお送りしたのですが、カンパネラ創刊誌の方が見当たりません。 原博さんは(当時いただいたハガキによると)、 自筆譜から2音を変更したいと考えていたようなので、 カンパネラに載った最終稿?では、自筆譜から2音が変更されている 可能性があります。 カンパネラの 出版元だった アートユニオンは、 現在は連絡がつかないらしく、 後継の会社がせきれい社なのか、 今ひとつはっきりはしません。 大井さんが カンパネラのバックナンバーを入手できるといいのですが。
西洋音楽の機能調性を擁護することは、西洋音楽とはまるで異なる音律や調性を有する民族音楽の多様性を否定することにならないか? (民族音楽はその民族の聴衆の好みによって淘汰されてきたものである。 一方、西洋音楽における十二音技法や無調性は、西洋音楽愛好家の 好みによって淘汰されてきたものと言えるのだろうか。 勿論、価値観の問題であるから、 十二音技法や無調性をこそ好きな人々がいて全く構わないが、 「需要と供給」の関係は本当に成立しているのだろうか? 歌謡曲やロックや演歌やポップスに十二音音楽が未だに試みられずに、 未だに機能調性が主流なのは何故か。 それが大衆の好みなのではないのか。このような態度は純粋芸術 の否定に繋がるだろうか)。
著名な作曲家たちのそれぞれの作曲の手法や癖をうまく抽出して プログラムを組めば、即興で「バッハっぽい」曲や 「モーツァルトっぽい」曲をコンピューターで自動作曲させることも 可能になるのではないか(確かモーツァルト自身、サイコロを使って選んだ 楽奏を並べていくというような遊びをやっていたのではなかったか)。 ある方法で、バッハの音楽との相関を定量的に数値化することもできる ようになったとして、「このバッハ作曲ソフトのバッハらしさ指数は0.8である」とか 「作曲家**さんはバッハらしさ指数0.85以上の曲を作曲できるから、 現段階では人間の方がバッハっぽい曲を作れる」とか、あるいは、 「バッハ自身の任意の曲でバッハらしさ指数を判定しても0.8以上になる ことは稀であり、バッハらしいさの定量化自体にまだまだ無理がある」とか ....
01/3/21追記(ここから):
単純な幾何学図形の「秩序」や「複雑さ」を定量的な数値で与えた
バーコフの古典的な研究
(Birkhoff. G. D.: Aesthetic Measure.
Harvard University Press, 1933)では、
この「秩序」を「複雑さ」で割った値が「美しさ」を表すとしている。
増山英太郎氏は
「バーコフの美の公式をめぐる実験的研究 I, II, III」
(数理科学, 1989/1, 6, 11)の中で、
バーコフの与えた 90 個の図形に対する「秩序」、「複雑さ」、「美しさ」を
被験者に評定させ、「秩序」、「複雑さ」、「秩序」/「複雑さ」、
「秩序」×「複雑さ」などを説明変量とし、「美しさ」を目的変量として
重回帰分析を行った。その結果、バーコフの式のように説明変量が「秩序」/「複雑さ」の一つだけとした場合は、重回帰式の決定係数が 0.1 以下となったが、
説明変量を三つから四つに増やすと決定係数が 0.5 以上ぐらいに高くなることを
示した。
まあ、バーコフや増山氏の研究内容については、ここでは置くとして、
原博氏が音楽に対して抱いている「美しさ」は、
バーコフが意図していた形の美しさの定義(増山氏に反証されたにせよ)に近いような
気もする。
例えば、原氏は、
「機能調性を満たしてフーガを書くことは難しいが、
無調のフーガを書くことはそれに比べて非常に簡単だ」
みたいなことを何処かで書いていたと思うが、
言わば「機能調性のフーガは、満たすべき多くの厳格な制約(秩序)のもとで、
構造的に複雑に緻密に重ね合わせられているが、
無調のフーガ(更には無調でリズムもない現代音楽の多く)は、
形式に囚われずに(調性やリズムが)自由に(複雑に)はなっているけれども、
かといって機能調性の体系に匹敵するような厳格な秩序がある訳でもない」
というようなことを言いたいのではないだろうか
(展開小シャコンヌの皮肉もそういうことだろう)。
上に書いた「バッハ作曲ソフトのバッハらしさ指数」ではないけれど、
例えば、様々な作曲家(
バッハみたいな構造的に緻密なバリバリの機能調性フーガから、
クセナキスみたいに独自の数学的?な公式を使っているものの、耳で聞くとまるで無秩序に聞こえるものまで)
が作曲した曲ではないかと(聴衆に)思い込ませるほどに、
それらの作曲家らしい曲
(この判断を定量的に行うことが極めて難しいのは置くとして)
を自動作曲するソフトを(作曲家ごとに)作ったとして、
この各作曲家の自動作曲ソフト
のソースプログラムの長さ(コンパイルした後の容量の方がいいかな。
つまり「秩序」のつもり)と、大衆のその作曲家に対する評価とに相関があるか
どうかとかを調べたら面白くないだろうか。
まあ、個人によっては、無秩序な音楽ほど心地よいという人も居るかも知れないし
なあ(確かに、白色雑音も、そう不快というほどでもないし)。
追記(01/7/5):
最近、こうした話題(音楽における規則性と「良さ」との相関とか)について、
まりんきょさんの掲示板に、
色々と書き込んでいたのだが、
まりんきょさんがいつまで古い掲示を保存しておいてくれるか分からないので、
一応、私の書き込み部分だけでも覚え書きとしてここに引用しておく
(掲示板の使用上の注意などで、書込の著作権?の帰属先についての言及が特になければ、
書込した本人が自分の書込を転載したっていいですよね?)。
尚、
私が他人の発言を引用している部分に関しては
(特にそうした部分引用が発言者の恥さらしになるような
箇所はまるで見当たらないので)、取り敢えず、そのまま引用させてもらうこととし、
今後、その引用箇所を書いた本人からの削除要請があれば、それに応じるものとしておく。
カプースチンの24の前奏曲とフーガを買ってきて、 風呂上がりにビールを飲みながら聴いていたら、 私のつれあい(クラシックは聴かないが、塩谷哲とかの ジャズピアノっぽいのは好きらしい)が、 「なんだが嫌いな音楽だなー」と言うので、 「ジャズピアノだよ」と言ってみたら、 「ジャズでねえな。訳の分がんねえ現代音楽だな」 と言われました(で、更には近所迷惑だとまで。笑)。
私としては、前に紹介したこことかにある 明るい和音でノリのいいリズムのフュージョン?っぽい曲とかに比べると 今一つジャズっぽくもフュージョンっぽくもないなあという感じですが、 ショスタコービチの24の前奏曲とフーガ(私が持ってるのは確かキース ジャレット)と比べるとノリがよくて刺激的なぶん面白いかなあと (今のところは)思っています。
やっぱり私の場合、 「西洋的調性感がやや崩れかかった感じで対位的にノリのいい曲」 という意味では、バッハの 平均律一巻の十番のフーガや平均律二巻の四番のフーガみたいな 曲や、ストラビンスキーのピアノソナタ(平均律一巻の十番の フーガの主題に似てるやつ)やピアノと管弦楽のための協奏曲の ピアノ版(すごくノリがいい)なんかの方がずっとかっこいいと感じて しまいます。
ジャズでノリのいい曲という意味では、もっとちゃんとしたジャズ (私が聴くのは、せいぜいクラシックとの接点のあるジャック ルーシエ とかジョン ルイスとかぐらいだけど)の方が私には心地よくて刺激的 なような気がします。
取り敢えず、現時点での感想まで。
ショスタコの交響曲の調性や旋律は独特だけども、割と分かりやすく馴染みやすい (それなりに調性があって、後で思い出したり鼻歌で歌いやすい。チーチーンブイブイとか) と私は感じていてそれなりに好きなのですが、一方、ショスタコの室内楽や器楽曲の調性や 旋律は、それに比べるとかなり分かりにくくて、特に24の前奏曲とフーガは、ちゃんと フーガとかになっているんだとしても、ぼーっと聴いているぶんには、なんか、即興で 調性を無視してデタラメに弾いているような感じがしてしまう。 ショスタコの24前フはここで聴けますね。
誰かも言っていたかと思いますが、私も、ジャズにはジャズの「機能」調性というか規則が あって、あくまでその制約を満たした範囲で、自由にやっているんだと思います。で、その 規則性/機能性を感じ取れる音楽に対して「ジャズっぽい」と感じるんだと思います。
ショスタコの24にせよカプースチンの24にせよ、本人たちは、自分なりの 規則の中で作曲しているのかも知れませんが、私の音楽感性には、あまり、 西洋古典音楽(ドビュッシーやストラビンスキーぐらいまでの。新ウイーン楽派 は除く)やジャズ(あまり聴きませんが)から感じ取られるぐらいに分かりやすい 規則性が今一つ感じ取れなくて、そこが、親しめないような気がします。
#私がバッハの平均律1巻10番のフーガに似ていると言ったストラビンスキーの
#ソナタはソナタ2番の1楽章です(たぶん)。
もう少し。高校か中学の時、題名のない音楽会で十二音音楽の特集をやったとき、 私は、その番組を見終わるや否や早速ピアノで、十二音音楽の真似をしてみました (十二音を割と均等に使ったデタラメの旋律に、協和音にならないようにデタラメの 伴奏を入れて)。そしたら、姉にはウケておりました。ショスタコやカプースチンの 真似は私にはできませんが(デタラメでいいとしても指が動かないので)、ピアノで 難曲が弾ける水準の人なら、できてしまいそうな気が私にはしてしまいます。
私は、自分の技術水準で辛うじて弾けるバッハのインベンションぐらいの曲でいいから、 「いかにもバッハのインベンションみたいな曲だなあ」と思われるような曲を即興演奏 できる(つまり真似できる)ようになるのが究極の夢ですが、とても無理そうです。
私見では、音が多くて複雑な曲でも簡単に真似できるような曲ほど大した規則性はなく、 音が少ない簡素な曲でもなかなか真似できないような曲ほど精緻な規則性があるという ことではないかと考えていて、私が「いい」と感じるバッハとか原博は、まさにその 後者(でクセナキスとかは前者)なんではないかと思います。
普通の音楽のパワースペクトルを(log-logでかな?)プロットすると、 大体みんな 1/f の分布になるんではなかったでしたっけ。というか、 風の音とか、その手の日常のありふれた音も大体 1/f になるんでは? 自然の景色とか都市景観とかのスカイライン波形のパワースペクトルの 分布も大体 1/f になったんではなかったかと思います。つまり、 1/f は、身の回りの音や景色の波形としては、別段 珍しくない、 ごくありふれた周波数の分布の仕方ということではないかという 気がします(私の事実誤認でなければ)。それをことさらに、「1/fゆらぎは 自然のゆらぎだから人間にとって心地いいんだ」みたいに演出するのは、 ちょっと、こじつけかなあという気がします。
十年以上前の毎日新聞の記事に、バッハやモーツァルトなどの古典音楽は 1/f になっているが バルトークとか近代の音楽は 1/f になっていないみたいな記事が載っていたけど、 使用楽器やリズムに大差のない音楽で、せいぜい調性が違う程度で 1/f になったり ならなかったりというのも、ちょっと嘘くさい。モーツァルトのピアノソナタと バルトークのピアノソナタで比較したら、どんなもんか。
都市景観のスカイラインの論文は今、手元にないんだけど、確か亀井さんとかいう人の だったか、パワースペクトルと周波数を log-log でプロットして、1/f ゆらぎが どうのこうのとか書いてあったような気がするんだけど、そこに図示されていた、 どのスカイラインのプロットを見ても、みんな似たような 1/f になってるなあと 思って、まあ、考えてみれば、細かい凸凹ほど小さくなっていくのが当たり前かと 納得したのです。音にしたって、ある音に含まれる高い倍音成分ほど小さくなって いくのが当たり前だろうし(たぶん)。
#旋律の動きとか和音の組み合わせと 1/f とは実は殆ど関係ないんでは?
ところで、アメリカだかどこかの大学の教授か何かで、コンピューターの自動作曲で バッハみたいな曲を作る研究をしている人がいたけど、何という人でしたっけ。前に ウェブで紹介されているインベンションとかいう自動作曲された曲を一曲だけ聴いた 限りでは、大してバッハっぽくなかったような。
都市景観のスカイラインの論文は、亀井英治、月尾嘉男『スカイラインのゆらぎとその 快適感に関する研究」(日本建築学会計画系論文報告集第432号1992/2)でした。まあ、 都市景観であれ音であれ、1/f は(奇抜でないありふれた普通の景色や音の条件という意味で) 快適さの必要条件の一つにはなるかも知れませんが、 十分条件とするには不十分すぎるというのが私の印象です。
自動作曲の人はDavid Cope という人で、ここで 何曲か聴けるようです。私の環境では、インベンションが一曲とジョプリンのが一曲しか 再生できませんでしたが。
その詰将棋の傑作度を数値で評価の本の書名を覚えていましたら、 教えてもらえませんか(検索を助ける情報でも)。
まりんきょさん、本の情報 有り難うございます。
>・手順 ・変化 ・駒の捨て方 ・初手 ・解後感 ・切れ味
こうした評価項目から、
>V = Q / C (V: 価値 Q: 品質 C: 詰め手数)
の Q を計算するということでしょうか。だとすると、 こうした評価項目は、評価者(パソコンに評価を計算させるために入力する人) の主観に依らずに、(誰でも評価項目の定義に従えば)一意に点数化される ようになっているのでしょうか。
村山隆治『詰将棋教室』(金園社)は絶版でしょうか。 村山隆治『詰将棋手筋教室 基本テクニックオールガイド 』(毎日コミュニケーションズ )というのはあるようですが。
ところで、ここに村山氏の手筋の定量化の方法が書かれていますね。
>とどのように関係付けるかというのは、統計的な処理を持ち込まないと難しいようです。
そうすると、詰将棋に対する「切れ味」とか「意外性」をアンケートで5段階評価ぐらいで 点数を付けてもらって、そういう人の主観的評価と、Q/C の客観的指標との間に統計的に有意な 相関があるかどうかを調べてみたりとかはやってるんでしょうかね(やっていたら面白いのですが)。
増山英太郎「バーコフの美の公式をめぐる実験的研究 I, II, III」(数理科学, 1989/1, 6, 11)が幾何学図形に 対して、そういうことをやった限りでは、Q/C(秩序/複雑さ)だけを説明変量にした場合には 大した相関は出なかったようですが(但し、増山氏の場合は、「秩序」や「複雑さ」もアンケート で心理評定した主観的な数値を使っていたような気がしますが)。
ある旋法の音階(西洋音楽的な長調・短調の音階に限らないので 一般的に「旋法」と言うけど)を使いながら、和声進行を決めないで 自由に即興するジャズの奏法のこと?を「モード奏法」というらしい (既に勘違いしてるかも)。
確かに、ジャズのトリオとかで、(西洋音楽の旋律進行/和声進行に 馴染んでいる私の耳には)旋律性が特に感じられないけど、かといって、 十二音音楽みたいに調性感もない訳ではなくて、特定の音階を使うことに よる独特の「調性」はある演奏がよくあるけど、ああいうののことを言う のかも知れない(これも違ってるかも)。
そういう意味では、カプースチンの24の前奏曲とフーガとかは、 ある時期の西洋音楽で特に選択的に使われていた二つの旋法 (長調の音階は確かイオニア旋法で、短調の音階はエオリア旋法 とかいうものに相当するのではなかったっけ)の音階を使いながら、 機能和声には特に従わないで自由に旋律や和音を構成しているという意味では、 ジャズのモード手法に近いのかも知れない(上記の「モード手法」の解釈が 勘違いしてなければ)。
西洋音楽は、機能和声も調性も解体して十二音音楽にまで行き着いたけど、 モード手法辺りのジャズは、機能和声的な和声進行や旋律進行を解体しつつも、 調性(特定の音階を選択的に使うこと)は保持したということだろうか????
つまり、大衆の好みは、適度な秩序が保持された辺りに落ち着くという ことだろうか……
#ちょっと、色々とズレた発言だったかも。
./geo/geodiary.html#d010718
>それまで「1小節ずつ、あるいは2拍ずつ」コードが変わる曲が主として
>演奏の対象であったのと異なり、「4小節あるいは8小節、さらには1曲
>全体」が1種類の旋法から構成される形式となる
実は「モード奏法」を検索して、そういう解説を見て分からなくなったのだけど、 「1小節ぐらいずつコードが変わる音楽」とは言ったって(転調がなければ) 1種類の旋法(例えばハ長調とか)の中で和音が変わっているだけであって、 「1種類の旋法から構成される音楽」には違わないんじゃないのかと 思ってしまったりする訳です(近親調とかへの転調も旋法が変わったと 判断するのかなあ)。
で、前の掲示のように、「特定の旋法の中で和声進行を決める」のが 西洋古典音楽(やバップ以前のジャズも?)で、「特定の旋法は 使うけど和声進行を決めない」のがモード奏法なのかなあと想像した 訳です(という訳で、ますます分からなくなりました)。
例えばここのアドリブ例だと、 コードは、F7,Bb7,F7,Cm7,F7...みたいに変わっていくけど、旋律を構成している音階は、 ヘ,ト,変イ,変ロ,ハ,ニ,変ホ,ヘのヘ調のドリア旋法に載っている(たぶん)。 でも、後述するように、これは和音が調性を連想させるから、単一の旋法の音階を使っていても モード奏法とは言わないのだろう。
山下洋輔の「ジャズの掟」のビデオの3巻(モード奏法)を買ってきてみたんだけど、 「コードが変わる曲では、コードに応じてスケールを変えながらアドリブしなければ ならなかったけど」みたいなことを言っていたけど、(コードの変わる曲のアドリブの 巻は買ってないから分からないけど)、コードの変わるジャズの場合、 例えば、上の「ヘ調のドリア旋法(ブルーノートスケール?)」の場合で言うと、 Bb7,F7,Cm7...とコードが変わるごとに、変ロ長調の音階、へ長調の音階、ハ短調の音階... みたいにコード名を主和音とする音階に転調しながらアドリブするってことなんだろうか (仮にそうだとすると、それは和声進行というよりは、転調だと思うんだけど……)。
それに対して、モード奏法は、転調せずに一つの音階だけでアドリブができるって言って たけど、冒頭のアドリブの例みたいに、コードが変わったって、転調しないで同じ音階を 使う音楽は十分に普通だと思うのだけど(普通の西洋古典音楽の場合)。
一方、モード奏法では、和音は自由だけど、コードを連想させるような 3度ずつ重ねたような和音は避けて、2度でぶつけたり、4度以上開いたりするような 和音を使うと「モードっぽい」みたいなことを言っておりました。
「コード進行」と言った場合には、
1.「一つの調の音階の中で(カデンツを基本とする)和声進行すること」
も意味するし、
2.「違う調の音階で構成される和音へと転調すること」
も意味する(と私は捉えている)ので混乱していたのだけど、 恐らくバップ等のジャズの場合は、転調がすごく多いので 「モード奏法なら転調せずに自由にアドリブできる」という面ばかりを 強調して、「単一のモード(音階)内でも和声進行(コード進行)はあり得る」 という私の疑問に答えてくれる解説があまり見当たらなかったのではないかと思います。
例えば、バッハとかでも、ハ長調の曲のハ長調の主題がト長調に転調したりすることは よくある訳で、バッハの曲では、転調するごとに旋律はその転調した調の音階に乗るように シャープやフラットやナチュラルの臨時記号が頻出する訳ですが、想像するに、バップ等の ジャズのアドリブもそういう感じで、転調するごとにその調に乗るように音階を変えて アドリブしなければならなかったということではないでしょうか
一方、西洋古典音楽の場合、転調しないで単一の音階しか使わなくても、 終止形(カデンツ、ケーデンス)を形成する和声の進行(C-G7-C, C-F-G7-C, C-F-C 等。私はこういうのを「コード進行」と呼ぶと思っていたが)がある訳で、 この C-F-G7-C の F や G7 のところでバップではヘ長調の音階やト長調の音階で アドリブするということなのかと疑問に思っていたのだけど、ここ を見る限り、ハ長調の中の F7 であれば、ロ音(11th)は変ロ音にはならずに、 ロ音のまま(つまりハ長調の音階上にのる)のようだ。
ということは、バップではあっても(アベーラブルノートというのに基づいて アドリブするんだとすると)、転調を伴わない和声進行の範囲(C-F-G7-Cとか)では、 ハ長調の音階だけを使うということになるのだろうか(但しコード名の根音に対する 四度音階が三度音階と短二度でぶつかったりするときは、アボイドノートと称して 避けたりはするようだが)。
ここによると、 カデンツなんてものはバップ的なものの極地で、(モード奏法の創始者?の)マイルスは カデンツを吹かないということなので、モード奏法の説明としては、 「単一の音階を使うこと」では不十分で、 「数小節ごとに(あるいは一曲を通して)指定された単一の音階を使い、 且つカデンツに基づく和声進行を使わない」ということなのではないかと 今のところ私は捉えています。
http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/hara.html#d010718
12/1/26:Paul Westさんという人が、バロック形式の器楽曲や協奏曲を 作曲している件について、 パラパラピアノに追記。
佐村河内守について
(14/2/9にブログ人に書いたもの)
話題の佐村河内守であるが、NHKだかのテレビ番組でやっていた時に、私も
すごく胡散臭いと思って見ていた。
だって、10代だかで交響曲を10曲だか作曲したけども、気に入らないのでその楽譜はすべて捨ててしまったとか、
いかにも証拠を反証不可能化してごまかそうとするトンデモにはありがちの手口だし、
お金がないので、色の違うペンで何回も重ね書きしていたという作曲ノートの小さい手帳みたいなものは、
どう考えたって、演出としか思えなかった。
だって、楽譜を縦、横、斜めと角度を変えて重ね書きするなんて、現実に実用的な旋律メモだと思えますかって。
いくらお金がないからって、
新聞紙とか紙なんていくらだって手に入るし、新聞紙に色ペンで楽譜を書いた方が、
あの重ね書きよりよっぽど見やすい。
それはともかく、私は、佐村河内守はとてもうさんくさいとは思っていたけど、
無調性ではなく調性のある音楽を作曲するのだという作曲方針自体は好感を抱いていた。
ただ、テレビとかでやっていた(HIROSHIMAかな?)の音楽を部分的に聞く限り、
私が求めるちゃんとした調性音楽
(例えば原博の弦楽セレナードとか新作落語ならぬ新作ベートーベンと言えるような)というほどはっきりとした古典的調性音楽を志向しているわけではないようなので、
特に触手は動かずにいた
(今思えば、その程度の感想でもその当時の時点で書いておけばよかったかも。まさかこんなオチがあるとは)。
それはともかく、
佐村河内 守が典型的な詐欺師であろうが、
作曲者の新垣 隆も脅されていたとかでなく、確信的に詐欺の共犯を行ったのだろうと、
私は音楽作品自体は、絶対音楽として鑑賞できる人間である
(反戦丼)。
というわけで、YouTubeで
佐村河内 守の交響曲第1番『HIROSHIMA』3楽章
とかを改めて聞いてみると、そう悪い曲ではない。
メシアンだのストラビンスキーだのショスタコービチだの大澤 壽人?だのを連想させるような楽想が連なっている。
そういう調性感がやや崩れた辺りの近現代の管弦楽曲が好きな人は、
新垣 隆の一連の曲も好きなんじゃないだろうか。
私は、クラシックの中では調性感の崩れ始めた近現代ものはあまり好きなジャンルではないけど
(まあ、ショスタコービチは好きだけど)、新垣 隆も聞いてみたくなった。
なんか、CDとかが販売停止みたいだけど。
バッハの愛弟子の
ヨハン ルードビヒ クレープス(Johann Ludwig Krebs)
の鍵盤曲の動画・音声ファイル
(
YouTube,
クレープス:チェンバロ組曲集 Op. 4, PRESTO CLASSICAL)や
楽譜(IMSLP)
が、ネット上で確認できるようになってきた
(オルガン曲が有名なようだけど、
チェンバロ曲もそれなりにあるようだ)。
私はかつて、
「
私はバッハの対位的な鍵盤曲が非常に好きであり、「バッハの鍵盤曲」のような独特の構造的緻密性を有する音楽が他にもあるならば、もっともっと聴いてみたいと、バッハ前後の時代の鍵盤曲を色々と発掘すべく聴いてみてはいるのですが(フローベルガー、A・スカルラッティ、ブクステフーデ、ベーム、L・クープラン、F・クープラン、D・スカルラッティ、ヘンデル、ラモー等々)、私にはバッハとは全く似ていないとしか思えないのです。
」
と書いていたが、
確かに、
フローベルガー、A・スカルラッティ、ブクステフーデ、ベーム、L・クープラン、F・クープラン、D・スカルラッティ、ヘンデル、ラモー等々では、
バッハとは似ていないよなあ。
バッハの愛弟子のクレープスならもう少しは期待できそうな感じだ
(YouTubeでオルガン曲とかを聞いている限りでは。
ほんとはチェンバロ曲をパラパラピアノで聞きたいのだが)。
ウィキペディアによると、
「バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンや次男カール・フィリップ・エマヌエルと同世代だが、彼らと違って伝統的なポリフォニー構成を好んだ。」
というところも好感(期待)が持てる。
少しずつ開拓していきたいと思う。
15/2/16追記:
という訳で、
Clavier-Übung, Part 1を
弾いたり、
YouTubeを検索したりしているのだが、
どうも、今ひとついい曲がなかなか見つけられないでいる。
一方で、最近 開拓を始めて大当たりだった
クレメンティ
のフーガの方が、
かなり期待が持てそうだ(と思ったが、そうでもなかった)。
YouTubeで見つけたクレープスのイ短調のフーガは
なかなか、いい感じだが、
作品番号とかわかる人は教えて。
IMSLPに
置いてある楽譜も(特にフーガを優先的に)少しずつ弾きながら開拓してみたいと思う。
吉松隆さんが、 武満徹/追悼小論を書いているのを見つけた。 言葉を選んで追悼文として書かれているが、 無調性の現代音楽や絵の具をぶちまけたような抽象絵画をまるで いいとは思わない私からすると、 「王様は裸だ」と率直に指摘している痛快な批判として読めてしまう。 ノヴェンバー・ステップスは、和と西洋の融合とかよく言われるけど、 私からすると、正直、まるで融合しているとは思えない。 尺八と琵琶の演奏に関しては、確かに美しい和の音楽だと思えるが、 そこに伴奏のように入ってくる無調性の現代西洋音楽は、 正直、なんと美しくない音楽なんだろうと思ってしまう (私の音楽感性では)。 ちなみに、私は無調性の音楽は常に美しくなり得ないと思っているわけではない。 ほどよい無調性やほどよい不協和音が、有調で和声的な音楽と きれいに融合しているような曲も多々あると思っている。 例えば、ショスタコービチとかは、ほどよい無調性や不協和音が 有調で和声的な音楽ととても自然に融合し、 実に効果的に美しさを高めているような曲が結構あると私は感じる。 例えば、 弦楽四重奏第8番の1楽章とか 交響曲第14番とか。 こういうのは、和と西洋の融合ではないけど、 和声的な音楽と無調性の音楽という異質なものを、 巧妙に融合させた成功例ではないかと私は思う。 ノヴェンバー・ステップスに関しては、あくまで私の音楽感性では、 尺八や琵琶の邦楽の部分と無調性の西洋音楽の部分とが、 まったく異質の音楽のまま演奏されているようにしか聞こえない。 それはともかく、 武満徹の曲としては、 「死んだ男の残したものは」は名曲だと思う。これは谷川俊太郎の詩に旋律が、 見事に融合していると思う。
khmhtg