「男女に統計差があるなら役割分担すべきか」 など、私の割と大っぴらに公開してる頁からこの頁にたくさんリンクを 張ってしまったので、というか、もっと気楽にここにリンクを張れるように?、 ここは(やや生々しい露悪的な?文章とかを多少は取り除いた)抜粋を 置くことにします。 どうしても原典?版を参照したいという方は、 こちらへどうぞ。
2019/12/14追記:1998年頃から2000年頃にかけて、 当時一人暮らしをしていた私が、 ここで恋愛における性別役割について述べたことは、 当時の私の経験や主観に基づく考察でしかなかったが、 2015年の 内閣府「少子化社会に関する国際意識調査」では、 「日本の女性は自分からアプローチをしない」ということが、 データで示されていたようだ (この辺参照)。 すももさんのブログでは、 こうした恋愛を含めた性役割に関する男女の意識の違いなどに 関する様々なデータを紹介して考察しているが、 2019年現在でも、恋愛や労働における性役割はまだまだ温存されている ばかりか、日本の若い女性については、 むしろその意識が強化されているようでもある。 うーん。
恋愛における性役割をネタにした短編: 「散文変奏」 「心の差は二〇センチ」
勇気という言葉の偽善
「男はつらい」のは「男が悪い」で片付けられてしまうのか?
(1998/11/4)
女は悪くないのか??? ——「男はつらいよ」最終作への不満
男はみんな「押し倒す」のか????(1999/2/2)
殆どの男は実は強姦魔や痴漢なのか????
コミュニケーションスキルという言葉の偽善(1999/3/25)
頻発する性犯罪やセクハラ発言に思う(1999/12/3)
罰さえなければ強姦できてしまうような連中が相手では、とても、とても勝ち目はない。
人間の男はチンパンジーのオス程度なのか(00/4/26,
6/7 ,
01/6/27追記)
——NHK教育テレビ「揺れる男と女の絆」を見て思う
「恋愛不要論」「対幻想論」の偽善(0000/4/8,26,5/18,0000/5/30追記, 00/10/31,
00/12/11)
パンがなければケーキを食べればいいのに。おいしいものはいっぱいあるよ。
かぎりねぐいちばんめにいいでごどさちけえにばんめに
いいでごど(1999/12/3微更新)
私は、こと恋の告白とかの際にしばしば言及される「勇気」という 言葉にはピンと来ない。私は恐らく平均的な「男」に比べると恋愛対象の獲得のため に女に対して積極的に動くということはなかなかできない (それでも平均的な「女」に比べたら何十倍も動いてきたとは思うが。 しっかし「女」は動かない人ばっかりのように私には見える......) 。 それは「勇気がないからだ」とか「プライドが高いからだ」とか 「自分が傷つくのが怖いからだ」とか説明してくる人 (たいていは恋愛対象の獲得に苦労していない人の言だから私には まるで説得性がないのだが)が多いし、そういう思想がテレビドラマや 歌謡曲でも恋愛における葛藤の説明付けとして自明の如くまかり通っている。
それでは、例えば、手当たり次第に女を軟派したり口説いたりを気軽に 平気で日常茶飯事としてやってのけている男たちは、 「勇気」があるからそんなことができるのだとでもいうのか (まあ、「そんなことで傷ついたりしない」とか「プライド などというものはない」というのは確かにあるかも知れないが)。
私が高校時代に物理部に所属していたとき、夏に合宿をして 屋上で天体観測をしたことがあった。 そのとき、ある友人が屋上の端(柵はない)に立って作業していたので、 我々がそれを見て不安がっていたら、そいつは面白がって、 わざと片足で立ってみせたり危ない格好をしてみせた。 それはそれは我々には非常に怖かった。 ところで、この友人は「勇気」があったからそんな危ない真似ができたの だろうか。いや、そうではないだろう。ただ単に高い所を怖いと感じる 感覚や高い所で不安定な格好をすることが如何に危険であるかという認識 が悉く欠落していたというだけだろう。 高い所を怖いと感じ、危いと認識している私にとっては、 屋上の端で片足立ちするには確かに相当な「勇気」が必要だが、 高い所を特に怖いと感じずに、危ないとも認識していない人にとっては、 屋上の端で片足立ちすることには特に「勇気」など必要ないだろう。 多くの場合、それが種明かしなのだと私は思っている。
私が誰かを好きになったとして、その人を何かに誘おうと決心したとして、 そのためにその人に電話を掛けようと決心したとして、そのためにその人から 電話番号を聞こうと決心したとして、そのいちいちをするのに私には 絶大な「勇気」が必要である (それと比べたら駅前の雑踏で奇声を発して踊りまくる方がよっぽど 楽だとすら思う)。 私がそんな葛藤にもがいている間にも、その「誰か」さんは どうやら多くの「場慣れした」男たちから気軽にたくさんの「お誘い」を受けて いたりするものだから、私などにはとてもとても勝ち目がない。
以前、ある女の人(別に好きな人という訳ではない)が「男の人はいいなあ、 だって告白できるでしょ」と言っていたのを聞いたことがある。 私は絶句した。世の中には、「男なら好きになった女に告白できる」という命題を 信じ、 更にはその系「よって告白してこない男は私を好きではないということだ」 に納得してしまうような女はまだまだ多いのだろうか。なるほど。 そう言えば、私がまだ学生だった頃、私にしては積極的に動いていたとき、 「あと半年早く言ってくれればよかったのに」という言葉を聞いたことがあった。 もし好きだったのならどうしてそっちから「も」動かないのだろう。 どうして好きな人に対して動こうとしないのだろう。そして、 好きな人が動いてきてくれないからといって、 他の動いてきた人の中から選ぶことしかしないのだろう。 どうして動くのはいつも男の側ばかりなのだろう。
女がもっと動くようになって、男がもっと動かなくても済むようになれば、 あるいは「自由恋愛」方式でもそれなりに恋愛不平等は是正されるのかも知れない。 しかし、そんな世の中になるまで私は指をくわえて老化しつつ 待っている訳にもいかない。 なかなか深刻な問題だ。
「男はつらい」のは「男が悪い」で片付けられてしまうのか? 女は悪くないのか??? ——「男はつらいよ」最終作への不満
「男はつらいよ」は私も好きな映画である ( この方も好きなようである)。 勿論、庶民を描いた他の多くの古典的な 映画やドラマや小説と同じように、この作品でも性別役割分業を正当化したり 美化しているようなところは多々ある。 そういう性別役割が常識である世界で、 つまり男が女を先導し強引にでも口説くことが義務視されている世界で、 恋愛対象の女に対する閾(敷居)が高く恋愛成就させることのできない ような「朴訥な」男 の「つらさ」をこそ描いた希有の映画として、私は深い共感を覚えていた。 しかも、毎作品の最終場面で決して「めでたし、めでたし」にはならない ところがいい。 寅さんが高い敷居を乗り越えられずに葛藤している間に、 相手役の女は、自分の思いを寅さんに伝えることすらせずに、たいていは 他の動いてきた若くてかっこいい男の方にやすやすと靡いてしまったり したところで映画が終わるのは、 私などにはなかなか「現実的で」?共感できるところである。 如何に「社交的で」「明るくて」「話が上手で」 「人を笑わせる」人であっても、恋愛対象に対する「敷居」が高ければ、 そう気軽に 自分の思いを告げたりはできないものなのだということを描いて いてくれていることにも個人的には?感謝していた。
しかし、「男はつらいよ」の最終作( 「寅次郎 紅の花」) では、 そのような寅さんの態度が、相手役の女であるリリー(浅丘ルリ子)や妹役の サクラ(倍賞智恵子)が吐く 恋愛ドラマの常套句 (「かっこつけないで」とか「勇気をだしな」とか) で非難され、遂に寅さんはリリーを家まで送っていくというように いつもよりは積極的に動くのである。 尤もこれは、寅さん役の渥美清の病気が進行し最後の作品となることを意識して、 最後の作品くらいは少しは寅さんの恋愛を成就させてやりたいという 監督の考えなのかも知れない。 それはいいが、恋愛の成就のさせ方が私には気に入らない。
あれでは、リリーやサクラの言う通り、今まで敷居を乗り越えられずに 「動けなかった」寅さんが一方的に悪いことになってしまい、 今回は「かっこつけずに」「勇気を出して」敷居を乗り越えたから、 僅かながらも恋愛が成就したのだという、 恋愛ドラマの常套解釈がそのまま まかり通ってしまう。それでは、寅さんは浮かばれない。長年 寅さんに共感してきた「朴訥な」男たちの苦悩は報いられない。
もし、この映画を見て、何の疑問も抱かずに納得してしまう人が世の大半 なのだとすると、正にそのような価値観が世の中を支配していることこそが、 「男はつらいよ」になってしまう元凶ではないのか、あの最終作を見て 何の疑問も抱かないような人は、そもそも「男はつらいよ」という表題の 意味を知り得ないのではないかと思いたくなる (尤も、この表題をつけた人本人は、私が考えているようなことは特に 考えていないのかも知れないが)。
それでは、私が何に疑問を抱いたのか、以下に列挙する。 まず、寅さんの甥のミツオ(吉岡秀隆)の許に昔の恋人?のイズミ(後藤久美子) が訪ねてくる。イズミはミツオを茶店に呼び出し、 「私は(見合いした相手と) 結婚しようと思っている」と伝える。ミツオは動揺して何も言えなくなり、 「それは良かったじゃない」のような、こういう場合の常識的な返答を返す。 するとイズミは「結婚する前にミツオ君に言っておきたかった」 のようなことを言う。 つまり、どうやらイズミは、ミツオと見合いの相手とを天秤にかけようとして いる訳である。勿論、天秤にかけること自体は私は非難しない。 しかし、その後の行動からイズミは、見合いの相手のことは何とも 思っていなくて、ミツオの方を好きであることが判明するのだ。 じゃあ、どうしてイズミは、自分の結婚話などを持ち出す前に、 ミツオにまず「好きだ」と告げないのだろうか。 自分の結婚話を持ち出すことでミツオの方から愛の告白をさせようとする というのはあまりに虫が良すぎるのではないか。 それでミツオが愛の告白をしないからといって、 すんなりとミツオを諦めて見合い相手と結婚することに決めてしまえる 投げやりさにも腹が立つ。 ミツオの思いを確認することが目的だったのなら、 どうしてそれをはっきりと確認することもせずに他の相手と結婚して しまえるのか。
しかも、過去の恋人に「(別の人と)結婚しようと思っている」と言うことは、 過去の恋人からの「蒸し返し」を事前に拒絶する態度と解釈することもできるし、 その方がむしろ自然な解釈だろう。 だって、例えばイズミがミツオのことは既にふっ切れていて、見合い相手を本当に 好きになって結婚しようと決断していた場合、ミツオになんと言うだろうか? その時こそ、「結婚しようと思っている」と言うのではないだろうか。 勿論、今回の場合のように「結婚しようと思っている」と言いながら、 実はミツオが「蒸し返して」くれることを望んでいるような可能性もないとは 言えない。しかし、 「オッカムの剃刀」を使うなら、常識的な人は (よっぽどお目出度い人でもない限り、 ミツオのような木訥な男ならなおのこと)、 イズミが「蒸し返し」を望んでいるなどという不自然な解釈には結びつかない だろう。
「そんな男は鈍感だ」とでもイズミは言うのだろうか? それではイズミは、 自分が嫌悪を催すような嫌いな男に「結婚しようと思っている」と言ったら、 そういう男に限ってお目出度い人で「そんな奴と結婚するのはやめろ、 私と結婚した方がしあわせになる」とか言ってつきまとってきた場合でも、 その男の「敏感さ」即ち「お目出度さ」をありがたがるのだろうか。 自分の好きでない相手の「お目出度さ」は迷惑でも 自分の好きな相手にだけ「お目出度さ」を要求するのでは虫が良すぎる。 実際、今日までの世間では「全ての男はお目出度い」という誤った命題が 多くの女に信じ込まれているようである。 そして、その系「だから、仄めかしても向こうから動いてこないような男は、 私には気がないのだ」を無邪気に信じて、 いとも簡単に諦めて他の男に靡いてしまっているのではないかと邪推する。 女の大部分が「全ての男はお目出度い」という誤った命題を信じている世界では、 「お目出度い男」たちばかりが恋愛成就に成功し、 寅さんやミツオはいつまでも女から諦められ続ける。
さて、イズミの結婚式の当日、ミツオは花嫁であるイズミの乗る車を、 正面から車でぶつけて押し下げる。 一般に、ミツオのような木訥な男が、このような非常識な大胆さを発揮することは 私には想像しにくいのだが、それでも 「愛の告白よりは銀行強盗の方が楽だ」の論法でいけば、 ミツオにとっては「愛の告白よりは結婚式の妨害の方が楽だ」ったのかも知れない。 それはともかく、 その地元の人々が「花嫁の乗る車がバックすると縁起が悪い」などという 馬鹿らしい俗信を信じていたことも幸いして、結婚式は中断になる。 すると、イズミはなんともあっさりと結婚をやめて、見合い相手の許を去って しまうのである。なんと非常識な人であろうか。 もし、見合い相手のことを本当に好きだったのなら、邪魔が入ろうと結婚する 筈である。つまり、イズミは その程度にしか見合い相手のことを思っていなかったのである。 それでいながら結婚の約束をし、邪魔が入ったからといって別れてしまうとは、 あまりにも見合い相手に対して失礼である。 そんな非常識な失礼をしておきながら、イズミは見合い相手に謝りにさえ いかないのである。
ダスチン ホフマン主演の映画「卒業」を筆頭に、結婚式に男が乱入して花嫁を奪い去るのを美化して 描いている映画やドラマが多数ある。 私からするとトンデモない話だ。 恋愛に不自由もしていない美しくてかっちょいい主人公どもの自分勝手な恋愛を 美化するための「小道具」としてしか描かれない道化役の花婿の悲劇は、 「めでたし、めでたし」の結末を汚す臭いものとして蓋をされる。 冗談ではない。 (まあ、たいていは、その花婿がどういう人間かという描写すらない場合が 多いが、勝手に想像して) 孤独を引きずりながら真面目に生きてきて、やっとのことで獲得した 恋愛対象との結婚式の当日に、その対象をすら、これ以上ない侮辱とともに 奪い取られてしまう男の悲しみ、怒り、悔しさ、惨めさ、絶望の方が 遙かに深刻で現実的な主題だと私は感じる(尤も映画は虚構だからどんな非現実、 非常識を描いても いい訳で、人間を殺してその肝臓を食べる美食家たちが、人間の肝臓の より究極の調理方法を追求する姿を「美化」し、その小道具となる殺される 人間の悲劇には一切 触れない映画があってもいいというのと同じ意味においては、 「結婚式で花嫁を奪い去る」映画があってもいいとは思う。念のため)。
話は戻るが、寅さんは「ミツオも馬鹿なことをしたものだ。 男は、好きな相手が結婚したらおめでとうと祝ってやるべきだ」というような 「常識的な」ことをリリーに言う。 するとリリーは「そんなのはつまらない」と寅さんを非難しミツオの行動を 支持する発言をするのである。それではリリーは、自分が本当に愛している相手との 結婚式の当日に、自分をつけ回していた気味の悪い変態男が乱入してくることも、 あるいは結婚式の当日に、乱入してきた女に花婿を奪い去られることも 「つまらない人生を楽しくすること」だと思うのだろうか。
さて、イズミはまたミツオの許に訪れ、「どうしてあんなことをしたのか」と 問い詰める。私からすると、そんなことは「言わずもがな」である。 イズミの「結婚しようと思っている」という紛らわしい逆効果の「仄めかし」に 比べれば、あまりにも自明な「仄めかし」だと思う (尤も、ミツオがイズミを急に嫌いになって憎たらしくなったから 厭がらせをしたという解釈もできなくはないが、 あれだけの厭がらせをしなければならないほどにイズミを嫌う理由が見当たらないし、 「イズミを好きだから」の方が遙かに自然で無理のない解釈である)。 そんなことも分からないイズミの方が私にはよっぽど「鈍感」に思える。 この期に及んで、イズミは自分からは「好きだ」とは言わない。 とうとうイズミはミツオに「愛している」と言わせる。 それでも尚、イズミは「自分も愛している」とは言わないのである。 そればかりか、「なに? もう一度 言って?」などと迫る始末である。 相手の気持ちだけを先に窺って自分の気持ちは相手に伝えないというのは 公正さを欠く。あまりに虫がいい。相思相愛の確認の取れていない相手に 愛の告白をするという作業が、木訥な男にとってどれだけの精神的負荷となる のかをまるで想像できないのだろう。 「全ての男はお目出度い」の系「男の人はいいよね。だって、告白できるから」 を無邪気に信じているのかも知れない。
話も終盤に差し掛かり、リリーが団子屋を出ていくとき、寅さんは 「あ、そう」と特に追いかけようとするそぶりも見せない。 その寅さんの態度をサクラは今までになく強く非難し、寅さんをけしかける。 この「リリーが出ていった」という状況はイズミの「結婚しようと思っている」 に比べれば、確かにリリーが追いかけられることを期待しているのか否かの 判断がつきにくい状況ではある。 また、リリーが追いかけてこられることを期待していなかったとしても、 追いかけていったことがそれほど非常識で失礼になるような状況でもない (結婚すると言っている相手に対してやめろと言うのに比べれば)。 だから、寅さんがリリーを追いかけていくことには一定の勝算と、それをしても それほどは失礼にならない条件が揃っているから、是非とも追いかけていくべきだ というサクラの非難は、その意味では尤もではある。
果たして、サクラにけしかけられた寅さんがリリーを追いかけていくと、何と リリーは追いかけられることを期待していたのである。 そこで私は引っ掛かってしまう。 この状況において、追いかけていこうとしない寅さんにも非があったとしよう。 それはそれで認める。それでは、寅さんが追いかけてきて一緒に暮らすことを 望んでいるリリーの方は、どうして「私についてきて一緒に暮らしてくれ」と 言わないのだろうか。どうして、そのことは非難の対象にならないのだろうか。 木訥な寅さんと気の強いリリーとを比べれば、その告白をする「敷居」は リリーの方がよっぽど低いかも知れないのに、 リリーは飽くまで、寅さんの方から、男の方から告白されることを待っている。 寅さんのような敷居を越えられない男の木訥さを「つまらない」と非難して おきながら、 自分自身はミツオのように大胆な行動を取ることもなく、 自分の方からは(寅さんの敷居よりはよっぽど低いだろう) 敷居を越えもしないで、ただ、その木訥な男が辛うじて高い敷居を越えてくることを 待っているのだ。私は、 こういうリリーのような女の身勝手をこそ非難の対象として映画の中で 取り上げてほしかった。
この映画ではイズミやリリーのような女の「虫の良さ」や身勝手さが正当化され、 寅さんやミツオの木訥さや「鈍感さ」が非難されてしまった。 「待っている女」は悪くなくて「動けない男」が一方的に悪いことにされてしまった。 がっかりである。 長い長い間、恋愛対象の獲得に失敗し続けてきた寅さんの「つらさ」が、 こんなふうに非難されて終わりなんて、私には納得がいかない。
男はみんな「押し倒す」のか????(1999/2/2)
殆どの男は実は強姦魔や痴漢なのか????
男女が二人きりになったときに、男が「自分の欲求を満たすために」 突然 女を「押し倒す」という場面が、 テレビでも小説でも漫画でも実に頻繁に現れる。 これは私には、 「自分の欲求を満たすために」「人を殺す」というのと同じくらいに 不自然で異常な行為だと思われるのだが、なるほど、 テレビでも小説でも漫画でも、確かに 登場人物が「自分の欲求を満たすために」「人を殺す」という場面「も」 実に頻繁に現れるから、ははあ、「虚構の世界だから」 不自然で異常なことがしょっちゅう起こっていても別に構わないのかと (若い頃は)納得して特に気にも留めないでいた。
一方で、1990年代初め頃からセクハラという現象が取り沙汰され始めたとき、 それが「虚構」の世界の話ではないだけに、私は何とも「意外」な感じがした。 例えば、 目の前の女の同僚のお尻を見て、それを触りたいという 「自分の欲求を満たすために」ほんとに触るという不自然で異常な行為をする 男が、そんなにも高い密度で存在するということが私には驚きであり 信じ難いことであった。 その辺から私の「再考察」が始まった。 確かに思い当たる「意外な」話は他にもあった。 例えば、とある統計によると、八割だか九割もの女が男の痴漢による被害を 受けた経験があるとか。 そうした話は私には非常に「意外」なのであるが、世間ではそうした現象を むしろ「当然視」する理由付けを提示するのが常であった。 曰く、「男と女の性欲は違い、男は性的に興奮すると、その衝動を抑えられない」 とかその手の言説が、思春期の中高生を対象にした雑誌 (『高一時代』とか『高一コース』とか)にも確か載っていたと思うし、 私も当時、そういう「通説」を読んでそれを素直に信じていた記憶がある。
勿論、私にも性的な欲求や衝動はあるし、そうした「通説」を信じるなら、 男である私の性的な欲求や衝動は、平均的な女の性的な欲求や衝動よりも強い ということになるのかも知れない。しかしである。 仮に私が、自分の好きな女の人とたまたま二人きりになって、たまたま半径 50cm 以内の至近距離まで 接近したとして、その人の言葉とか表情とか仕草とか、あるいは露出しそうな 胸元とか太股とかから、仮にどんなに性的な刺激を受けたからといって、 それだけの理由で「合意もなく」「突然に」その人を「押し倒す」などという ことを私はしないし、できない。
それは、例えば、無性に 天下一品ラーメンが 喰いたくなった私が、 天下一品ラーメン 屋に入っていって、 先客が食べている天一ラーメンをたまたま半径 50 cm 以内の至近距離で見せつけられて、 その白濁した濃厚スープのドロドロした滴りと、そこから立ちのぼる 悩殺的なほどにこってりとしたそそる匂いと、 先客が麺を啜り込むズルズルッ、ジュブジュブッ、ビュチュビュチュッ という音とにどんなに食欲的な刺激を受けたからといって、 「注文して待つ」という最低限の「手続き」すら待てずに、 どうにも我慢できなくて、その先客が食べている天一ラーメンの器の中に 思わず顔を埋めて箸を持つのすらじれったくて両手で麺を口に運びながら、 犬喰いするなどということをしないし、できないというのと同じことである。
というか、これが「罰ゲーム」だったとして、
1)好きな人と二人きりになってその人を「押し倒す」か、
2)ラーメン屋に入っていって先客の食べているラーメンを犬喰いするか
のどちらかをやらなければならないとしたら、私には2)の方が 遙かにやりやすい(罰ゲームを敢行した直後にネタばらしがあるにしても)。 「勇気という言葉の偽善」 のところにも書いたように、 駅前の雑踏で奇声を発して踊りまくるよりも、 好きになった人を何かに誘うべく電話を掛けることの方に多大の「勇気」を必要とする (つまり、高い「敷居」を乗り越えなければならない)私にとっては、 ましてや、好きな人を「押し倒す」などという「おそろしい」ことをするには、 更に高くそびえ立つ敷居を乗り越えなければならないし、 それだって「合意」という最低限の「手続き」が済んでいることが大前提である。
私は、多かれ少なかれ人には誰でも、自己の欲求充足への衝動 を抑止するに足る 高い「敷居」があり、たまたま、そうした「敷居」が低かったり「なかったり」 した人が、自己の欲求充足をそのまま行動に移してしまい、 窃盗や殺人や強姦などの犯罪を犯すのだと考えていた。
それはそれでそれほど間違った考察でもないと今でも私は思っているが、 こと恋愛や性的な衝動と拮抗する「敷居」に関しては、 そんなものを殆ど持ち合わせていないか全くないに等しいような男が、 私の想像よりも(というか、私の想像を絶して)非常に高い密度で分布している のではないかということに薄々 気付かざるを得なくなってきたのである。 それは私には認めたくない極めて「意外な真相」であった。 だって私の場合、 こと恋愛や性的な衝動と拮抗する「敷居」は、 銀行強盗や殺人の衝動と拮抗する「敷居」に劣らないほどに最も高い部類に 属するものだから、 恋愛や性の衝動ををのまま実行に移せるような人というのは、せいぜい 強盗や殺人を実行に移せるような犯罪者と同じ程度の密度でしか存在していないか のように見積もっていたのだ。
しかし、そうではなかったのだ。 強盗や殺人の衝動を余裕で抑止し得る健全な「敷居」を宿している「善良な」 市民であっても、 恋愛や性の衝動を抑止するに足る十分な「敷居」を宿していない男が、 どうも少なからぬ割合で分布しているようなのだ。 いや、むしろそういう男の方が多いのかも知れない。 だから、男女が二人きりになったときに、男が突然 女を「押し倒す」という ことが現に現実の世界で非常に高い頻度で「日常的に」起きていて、 テレビや小説や漫画の中では、単にそれを「日常的な」光景として 頻繁に描いているだけではないのか。
だとするとこれは恐ろしい話である。 合意のない相手を「押し倒し」て「行為」に及べばそれは強姦だし、 「行為」に及ばなくても痴漢行為、猥褻行為である( それに、異性間の性交の場合、 完璧な避妊方法というものがなく、 妊娠中絶手術がまだまだ危険を伴うものである現状では、 仮に「行為」そのものに対する「合意」が成立していたとしても、 妊娠してしまった場合の対処の方法に対する合意がなく「行為」 に及ぶことも十分に犯罪的であると思う)。 世の中には、そんなにも多くの強姦魔や痴漢の男が溢れかえっているのだろうか。
ということはだ、男女の二人連れや夫婦のうちの女の多くは、 多かれ少なかれ、強姦魔や痴漢の男とつきあい、連れ添っているということに なるのではないか。 女はそれを承知なのだろうか。
そこで私は思い当たる。 「勇気という言葉の偽善」 に書いた、多くの女が共有する思い込み
「男なら好きになった女に告白できる」やその系
「よって告白してこない男は私を好きではないということだ」
は、正にそのような強姦魔や痴漢紛いの男たちによって作り出されている ものではないのか。
つまり、恋愛や性の衝動を抑止する「敷居」を持ち合わせていない 男たちは、出会った女を気に入れば何の迷いも躊躇いもなく余裕で 電話番号を聞きだし、 電話を掛け、逢い引きに誘い出し、付き合いだして間もない逢い引きで (あるいは初回の逢い引きから)、 突然 手を繋いだり、腕を組んだり、腰に手を回したりし、 雰囲気が良くなったところで、突然 口づけをしたり抱き締めたりし、 部屋で二人きりになったところで突然「押し倒し」たりしながら、 宜しくやっているのだろうから、
「男は欲求があればそれを実行に移す」
「男がなかなか実行しないとすれば、私に魅力がないからだ」
のようなトンデモない通説が広く信じ込まれてしまうのではないか。
「敷居」が高く「正攻法」でしか攻められない木訥な男たちにとって、 これはあまりに過酷な不利条件である。 合意もなくいきなり体に触れたり「押し倒したり」しない木訥な男たちの 「合法性」を、仮に女の方からが歓迎しないのでは身も世もない。
そう言えば、テレビや小説や漫画で男が突然 女を「押し倒して」、 そこで我に返って「行為」に及ばなかったりした時に、 どういう訳か女が男に対して「意気地なし!」ということがある。 つまり、たまたま女も男と「行為」に及ぶことを期待していたが、 男がそれを思い留まったことをなじるのだ。
この男が我に返って「行為」を思い留まったことを 「意気地なし」と解釈するのは大きな間違いだと私は思う。 「勇気という言葉の偽善」 にも書いたように、 躊躇いなく「行為」に及んでしまえるような男たちには、 別に「勇気」や「意気地」がある訳ではなくて、 単に衝動を抑止する「敷居」がないのである。 本能が実行に直結されているので「勇気」も「意気地」も特に 必要ないのである。 そんな動物的な強姦魔のような男をこそ好きな女というのは、 げてもの趣味ではないかと私は思いたくもなる。 しかも、そういう女とはいえども、自分の好きでない男から 合意もなく「押し倒されて」強姦されることは望まないのだから、 その辺は虫がいいとしか言いようがない (このような女の虫の良さについては、 「男はつらい」のは「男が悪い」で片付けられてしまうのか? に書いた。いや、尤も、「押し倒した」直後に思いとどまった男を女が「意気地なし!」となじるのは、映画や小説や漫画の制作者である男の演出であって、 実際に「押し倒された」女の多くは、たとえ好きな男に「押し倒された」としても 嫌悪感しか感じないのだと信じたい)。
さて、以上 述べてきたように、 恋愛や性の衝動をそのまま実行に移せるような男たちの存在が、 恋愛や性の衝動を抑止する「敷居」を宿した木訥な男たちの 恋愛成就を困難にしている構造の一端 が見えてきたような気がする (勿論、それだけが原因ではないだろうが)。
しかしそのような私の考察とはまるで別の考察をしている人たちもいる。 宮台真司氏や上野千鶴子氏によると、 「もてない男」や「性的弱者」というのは「コミュニケーションスキル」 (英 意志疎通のための技術?)というのが欠けているからだそうで、 女にもてたければ「コミュニケーションスキル」を磨けと主張している ようである。
確かに、意志や気持を疎通させるための話術や社交性に欠けるためにもてない男も いることだろう。それはそれで一つの側面だとは思うが 「もてない」原因をそれだけで説明づけようとするのは、 強引というか想像力に欠けると思う。
例えば、 女は悪くないのか??? ——「男はつらいよ」最終作への不満 にも書いた寅さんのように、 いくら「社交的で」「明るくて」「話が上手で」 「人を笑わせる」男であっても、恋愛衝動に拮抗する「敷居」が高ければ、 そう気軽に 自分の思いを告げたりはできないものだし、 女の方でもそれを「この人は私に気がないのだ」と判断してしまうのでは、 ますます恋愛は成就しない。 つまり整理すると(異性愛者の場合)、
1)「男は欲求があればそれを実行*する」「よって実行してこない男は私に気がないのだ」という通念が女たちの間に広く浸透している。
* ここで言う「実行」というのは、別に性的な行為に限る 訳ではなくて、「電話を掛ける」とか「食事に誘う」とかも含む。2)その通念を信じている女たちは自分から男に対して動く必要性を感じていない。
3)その通念を信じている女たちは、その通念通りに動いてきた男のなかから気に入った相手を恋愛対象に選択する。
4)その結果、その通念通りに動けない男はその通念を信じている女たちの対象外となり恋愛にあぶれる。また、いつまで待っていてもどの男も通念通りには動いてきてくれないような女も恋愛にあぶれる。
とまあ、これはこれで強引な考察かも知れないが、私はそういう側面「も」 あると見積もって(痛感して?)いる。 果たして、宮台真司氏や上野千鶴子氏は恋愛対象の獲得には苦労していない ようだが、 宮台氏(恐らく異性愛の男)は 「その通念」通りに動いていたり、 上野氏(恐らく異性愛の女)は「その通念」通りに動いてきた 男の中から気に入った相手を選択したりしてはいないのだろうか? 仮にそんなことをしながら、 つまり前記の4)の悲劇を再生産するような真似をしながら、 「持てない男はもっとコミュニケーションスキルを磨け」などと吐かして いるのだとしたら、私には何の説得性も感じない。
私はむしろ次のようになるのが「自然」なのではないかという気がしている。
1)「男であれ女であれ相手の合意なく欲求を実行に移す行為*は多かれ少なかれ、 その程度に応じて犯罪または『李下に冠を正す』行為であり、 普通の人はそういうことをしない」という通念が広く浸透している。
* 食事に誘ったり電話を掛ける程度の行為自体は、別に犯罪ではないけども、 相手が拒否したり迷惑がっているのにしつこく一方的につきまとうと 「ストーカー行為」になるので、一定の節度が必要ということにしておこう。2)そのため、女であれ男であれ、目当ての相手を性的に挑発したからといって、 相手が「欲求」を「実行に移して」くることはまずない。
3)よって、恋愛対象の獲得のためには男であれ女であれ、 相手に積極的に動いて「言葉で」「告白する」必要があり、 互いが何らかの「行為」に及ぶ場合には常に「合意」が必要とされる。
そんなふうになれば、欲求と実行が直結しているような男たちや、 自己の性的な魅力を振り撒くことで寄ってきた男たちの中から気に入った相手 を選択できるような女たちばかりが 恋愛の楽しみを占有する不平等は多かれ少なかれ是正されるような気がする。 その意味で、私はセクハラという通念が今後 社会により広く浸透していく ことに期待を寄せてはいる。 尤も、そのような社会通念の変化の 影響が、多かれ少なかれ私のような「敷居」の高い朴訥な人間の 恋愛成就に対して有利に働くようになるまでには、 恐らく何十年何百年とかかるだろうが……
2019/10/5追記: 女性が恋愛に対して自分から動こうとはしないという 日本に特有の傾向は、 2019年現在でも特に改善されていないようだ。 このページの「日本の女性は自分からアプローチをしない」という項目には、 アンケート調査によるデータも示されている。 現在の私自身は結婚して子供も生まれて、今後 恋愛活動をすることは なさそうだが、こうした現状は、なんとももどかしいと感じる。
コミュニケーションスキルという言葉の偽善前章(男はみんな「押し倒す」のか?)で、 宮台真司氏や上野千鶴子氏による 「もてない男はコミュニケーションスキルを磨け」 という主張に異議を唱えたが、 どうも最近では、 この「コミュニケーション技術が欠けている」という論が、 もてないことの「常套的理由付け」として浸透/定着しつつあるようである。 「もてない男」がもてない理由を、 「もてない男」のコミュニケーション技術の未熟さだけのせいにされたのでは かなわない。 勿論、コミュニケーション技術なるものが全く不要だとは言わないが、 男側にばかり過大なコミュニケーション技術を駆使することが要求され、 女側にはそれと同等のことが要求されないで済むという、 性別役割に根ざした構造的問題に 目を向けずに「コミュニケーション技術」云々を吐かされても私は説得性を 感じない。
それに「コミュニケーション技術」という言葉自体も私には偽善的に響く。 例えば、「セクハラすること」は、この「コミュニケーション技術」の語義には 含まれないと理解したいが、 女に対してセクハラ紛いのことをするという「技術」によって恋愛対象を 獲得してきた/している多くの男たちは、 果たして「コミュニケーション技術がある」と言えるのだろうか。
もしかすると私の考えすぎかも知れないが、 「コミュニケーション技術」論を展開する(女性学/男性学)論者は、 自分自身がセクハラ紛いの行為によって恋愛対象を獲得していたり (特に異性愛の男の場合)、 相手のセクハラ紛いの行為を自分自身の恋愛対象の獲得に利用していたり (特に異性愛の女の場合) することに対する免罪符として「コミュニケーション技術」 という言葉を使ってはいないだろうか (「自分たちがやっているのはコミュニケーションスキルにのっとった 駆け引きであってセクハラではない」というような。 考えすぎだろうか)。
というか、そもそもこの「コミュニケーション技術」というのが、
1) 意志の疎通がうまいか下手かに関係なく、 恋愛対象を獲得する上で有利に機能するコミュニケーション方法
のことなのか、
2) 相手に不快感を与えないような言葉や方法で 相手の意向(望んでいること/望んでいないこと)を悟り、 自分の意向(望んでいること/望んでいないこと)を相手に悟らせる技術
のことなのかによって話はまるで変わってくる。 1)であれば、セクハラ紛いの行為も「コミュニケーション技術」になりかねないし、 2)であれば、 いくら「コミュニケーション技術」に長けていても、 木訥で「敷居」が高いために恋愛対象を獲得できない人はいくらでもいるだろう。
つまり、いずれにしても「コミュニケーション技術を磨け」という論は、 別に「もてない問題」の解決策にはなっていないのではないかと私には思えるのだ。 さて、以下では上記 2) の「相手に不快感を与えないように 相手の意向を悟り自分の意向を悟らせる技術」の意味で 「コミュニケーション技術」という言葉を使うことにして、 象徴的な例を挙げながら、 「コミュニケーション技術」について考察してみる。
例えば、飲み会などで誰か(例えば若い女性とか)が 電車の時間に遅れるからと帰ろうとしている場面で、 その当初の意向通りに帰れなかった場合にその人がどれだけの不利益を被るかという ことなど端から頓着せずに、 単にその人ともっと一緒に居たいという個人的欲求を満たすために、 その人を引き留めようとする行為 (「えっ、もう帰るの」 「大丈夫だって」 「最終で帰ればいいじゃない」 「車で送ってやるから」 「タクシー代 出してやるから」 などなどなど) は、相手の意向を完全に無視した一方通行の意志伝達であり、 こんな行為は「コミュニケーション技術」だとは私は思わない。
一方で、引き留められそうな人が帰りたがっていることを察して こっそり帰してやる(「あとでみんなに言っとくから」)とか、 引き留められている人が帰らなければならない理由を でっちあげて帰りやすくしてやる (「ああ、そう言えば、あした、朝一で東京に出張だもんね」)とかは、 相手の意向を悟った上で 「私はあなたがあなたの意向通りに行動できるように協力する」 という意志伝達であり、 これは一つの「コミュニケーション技術」だと私は思う。
ところが、私や私の周囲の人間という偏った標本から得られる偏った 統計に基づく限り、 帰りたがっている人が帰れるように協力する「コミュニケーション技術に長けた」 男たちよりも、 帰りたがっている人をひたすら引き留めようとする 「コミュニケーション技術に欠ける」男たちの方が、 圧倒的に恋愛対象の獲得に成功しているように私には観察される (自説を裏付ける標本例ばかりが印象に残りやすいためかも知れないが)。
もう一つの象徴的な例を示す。学生時代、 私と私の友人が、とある集団の とある合宿の宿泊会場を予約しようと していたときのことである。 私たちの、どちらが予約の電話をしようかということになった。 私は当時まだ電話慣れしておらず?電話で知らない人と話すというのが苦手なので、 渋っていた。 すると、その友人は何の躊躇いもなく進んで電話をかけ始めた。 ところが、その応対が実にぎこちなく要領を得ないのである。
「あのー、合宿をするんですが……」
「あっ、八月二十三日と二十四日です」
「いえ、一泊です……二十三日の夜です」
「えっ? 部屋はいっぱいあった方がいいんですが」
「ああ、十五人ぐらいです」
「いえ、大部屋でも二部屋ないと……」
みたいな感じで、伝えるべき情報、訊くべき情報がまるで整理されて おらず、場当たり的に応答しているのである。 これなら、いくら電話慣れしていないとはいえ、 私が電話した方がよっぽどましである (電話をしているときに心臓がドキドキはするかも知れないが)。 「宿の予約を取りたい」 「八月二十三日の夜から二十四日の朝まで一泊したい」 「十五人程度が宿泊するが、 男女で部屋を分けたいので、 大部屋であっても二部屋にしてほしい」 などの情報を私はよほど的確に伝達することができるだろう。
つまりこの場合、その友人よりも私の方がある種の 「コミュニケーション技術」があると言えるだろう。 ただ私は、「電話が苦手だ」という「心理的敷居」のせいで、 実際に電話してそのせっかくの「コミュニケーション技術」を 実践する機会を設けることがなかなかできないということなのだ。
余談になるが、 その友人(男)には当時 恋人(女)がいた。 それもその友人は、その恋人を「獲得」するまで、 複数の女性に自分から積極的に動き続けて、 その恋人でうまくいったという次第である。 そこで私は考え込んでしまう。 この友人は、それほど話はうまくない。 「相手に不快感を与えないように 相手の意向を悟り自分の意向を悟らせる技術」 にしても、私の方がだいぶ「うまい」だろうとすら思う。 しかし、この友人は、 たとえ「コミュニケーション技術」が下手であっても、 「心理的敷居」が殆どないために、 次から次へと気に入った女性を気軽に「口説く」ことができる。 一方で私のような人間は、たとえ「口説く技術」を持っていたとしても、 「心理的敷居」を乗り越えられずに、その技術を実践することができないでいる。 「勇気という言葉の偽善」 にも書いたように、それが「種明かし」なのではないかと私は思う。この、 自分は「どうやれば恋愛対象を獲得できるか」という技術的なことは よく知っているが、「心理的敷居」が その通りに自分を行動させることを拒んでいるのだという痛切なもどかしさ を表しているかのように私には読めるアミエルの一節を 引用する(例によって私の曲解だとしても、私はこの言葉に 実に共感する)。
私は自由でない。全く私には自分の意志を實行する力がない。 今年の覺書を今讀み返して見た。何もかもである、豫見してある。 自分では中々立派なことを言つてゐる、 非常に有望な前途を見逃さずにゐる。 だのに今日は又元のところへ落ち込んでゐる、忘れてしまつてゐる。 理知ではなく性格が私には缺けてゐるのだ。私が話しかければ、 自分の内なる審判者は極めて明らかに見て頗る正しいことを云ふ。 私は自分を見ぬくが自分を服從させることができない。 現にこの瞬間に於ても、私は自分の過ちとその原因を發見する興味を 感じ乍ら、その過ちに對抗するだけの力を得ることができずにゐるのだと 思つてゐる。私は自由ではない。誰が私より自由な筈があらう。外的な 強制はない、自分の時間はすつかり使へる、自分でどんな目的を 立てようと勝手だ。——だのに何週間も何箇月もずつと私は自分を逃げてゐる。 その日その日の氣まぐれに負けて、自分の視線を追つてゐる。目次へ戻る『アミエルの日記』河野與一 譯(岩波文庫)絶版。 1847/12/16(アミエル27歳)の日記より引用
頻発する性犯罪やセクハラ発言に思う(1999/12/3)
某大学の某学部の男子学生が女性の友人を集団で強姦(つまり輪姦)する
という事件
が起きた。
私には「輪姦」というのは、一対一の強姦よりも更に分かりにくい。
一対一の強姦は、
「相手が厭がっていても平気で性交できる」という点が第一に不思議だが、
輪姦は、
「周りでけしかけたり はやしたりしている
同性の友人たちと性的体験を共有できる」
という点で更に不思議である
(加害者が異性愛者であるなら)*。
しかも、その有様をビデオに撮っていて翌日 学校で級友に
自慢していたという噂もあるから、それが本当だとすると、
まるで南京虐殺とかの際の旧日本軍の強姦自慢とかを連想させられる
(南京虐殺の場合は、女でさえあれば、
赤ちゃんや老人までが強姦されて殺されたというから、
更に訳が分からないのであるが)。
* 私が大学生の頃、男どうしで誰かのアパートに集まって エロビデオを見るということをしている連中もいたが、 私には同じ理由で理解しにくいことだった。 中には、そんなふうに男どうしでエロビデオを見ながら自慰をできる奴まで いたようだが、 それでいながら同/両性愛者でないとすれば、 そういう人の 性的興奮というのは、よっぽど心理的要素から隔絶されている ということなのかも知れない。 そう言えば井上ひさしの『青葉繁れる』を原作とした映画で、 男三人が、 部屋でベートーベンの第九を掛けて、 おのおのちり紙を手にし、 突如 自慰を始めるという場面 (私の曲解でなければ)を高校生の頃に見た私は、 なかなかギョっとした覚えがある。話は戻るが、 この事件は、加害者集団の大学が有名大学だったことや、所属学部が医学部 だったこともあって、マスコミでも大いに取り沙汰され、 「輪姦や乱交に至る合コンのことが『やりコン』と呼ばれていた」といった 風聞も演出を効果的にしていた。 確かに、 マスコミの演出通り、今回の事件は氷山の一角で、 似たような輪姦は、一部の学生たちによって常習的に行われていたのかも知れないし、 それは別に、その大学の医学部に限った話ではなく、 他の様々な大人の社会集団の中でも、 ある頻度では行われているのかも知れない。 しかし、それだったら、 実は水面下では、 それなりに親しい間がらでの 一対一の「やりコン」の方が、今回の事件のような 輪姦よりもよっぽど高い頻度で 執り行われているのではないかと私は改めて思うのだ—— そして、 酔った勢いとかその場のノリとかで、男から一対一で「やりコン」された 女たちが、 それが合意のない明らかな強姦であるにも拘わらず泣き寝入りしたり、 場合によっては、 「男とはそういうものだ」という誤った通念で納得して、 そのままそういう変態男と一緒になってしまったりしている例も それなりにあるのではないかと。
学生時代、学会などでホテルの二人部屋(いわゆるツイン)に 男二人で泊まることも多々あったが、 そういう折りに、 同室になった奴が、エロビデオを見ようと提案することがあった (しかし、サービスの悪いホテルでも、 エロビデオのサービス?だけはあったりするのは何故だろう?)。 個室で、 男どうしで、二人っきりで、 「一緒にエロビデオを見ることを強いられる」 つまり「性的興奮を共有することを強要される」 なんて、私にはおぞましい限りである。 というか、これは立派なセクハラである。 私が、そんなことはやめてくれと言うと、 敵は私が風呂に入っている間に見ておった。 あー、怖い、怖い。
仮に「抑止力」としての死刑が顕著な効果を有しているのだとして、「死刑にして殺さなければならない人数」の方が、「死刑を廃止した場合には凶悪犯に殺されているだろう犠牲者の人数」よりも圧倒的に少なくて済むのだとすれば(そうとも思いませんが)、 死刑は必要悪かも知れないとは思いますというのと同じ意味において、 強姦犯罪者には、恋愛や性交を一生 禁止してほしいと考えてしまう (つまり、 「時計仕掛けのオレンジ」のような技術が開発されていない現代においては、 終身刑が妥当だろうが……)。
玩具のない子が初めてこの詩を読んだ時、(例によって私の曲解だとしても、 この際 気にしないことにして)、 世の中にはやっぱり私と似たようなことを考える人がいるのだと思い、 深い共感を覚えた。というのも、 私は、この詩を初めて読む数年前に、 こういう詩とこういう詩を 書いていたのだ (金子みすずの詩を知る前なので、金子みすずに触発されて書いた訳ではない)。 自分の詩の解説をしてみせることほど興醒めなことはないが、 言わんとしたことを簡単に言うと、 「愛情が満たされていなければ、 いくらおもちゃやお菓子をいっぱい与えられたからといって、 それで満足することはできない」 つまり、もう少し拡張して具体的に言うと、 「愛情が満たされていないという孤独が常に胸中にわだかまっている限り、 趣味や娯楽の領域でどんなに充実した活動ができたからといって決して 満たされはしない」ということである。 で、そこからの帰結として、 趣味や娯楽を心おきなく手放しで楽しめるようになるためには、 まず、愛情が満たされていることがその「必要条件」であると 納得(痛感)した訳である。
さみしけりや、
玩具をやつたらなほるでせう。
母さんのない子が
かなしけりや、
母さんをあげたら嬉しいでせう。
母さんはやさしく
髪を撫で、
玩具は箱から
こぼれてて、
それで私の
さみしいは、
何を貰うたらなほるでせう。
(金子みすず全集・III「さみしい王女」(JULA出版局)p.245)
ちなみに、金子みすずの作品の著作権は消滅している。 みすず作品の利用の際は許可を得るように求めている JULA出版局を窓口とする「金子みすゞ著作保存会」の意向に 従うつもりはない。 参考: (1)金子みすゞの詩の著作権の問題について, 金 子 み す ゞ 詩集
この前、本屋に立ち寄ったとき、レジのところに「集英社文庫 この夏の100冊」み たいな冊子が置いてあり、無料だったのでもらってきたのですが、帰宅後それを何気 なく見ていたら、林真理子の書いた小説で、「東京デザート物語」なるものが紹介さ れていました。その紹介文がものすごい。たしかこんな内容でした。——と。 確かに。 「恋愛はデザート」などと揚言してみせる 輩から、せめて十年〜二十年間ぐらい実際に恋愛を剥奪したら、 実はその予想外の苦痛に悶絶し、 我々(その友人某と私とか?)なんかよりも、よっぽどみっともなく 飢え苦しみ、のたうち回る人も出てくるかも知れないし、 それでも平気でいる人もいるのかも知れない。 尤も、私は二十代前半頃までの若い頃は、 全ての人間は「恋愛=必要条件」な人なんだと思っていて、 特に「少女漫画」とか を読むと、ああ、女の人というのは、ことごとく「恋愛=必要条件」な人で、 それを素直に追求 しているんだなあ、と安心していたんだけど、その安心感は、私が実際に 好きになった女性に動こうとする度に揺らいでいった (「今は友達と遊んでいるだけで楽しいし」発言とか)。 また、私と同じような(というか私以上に女性に縁がなく、 徹底して「出会い」から隔絶されているような生活をしている) 男性の友だちとかに、ついうっかり共感が得られるのではと孤独の苦しみを 漏らしてしまうと、何故かこの連中はまるで無理解で、逆にこっちを馬鹿に してくる余裕すらあったりすると、 なかなか衝撃的であった(何故この連中は平気でいられるんだ?って)。
「恋愛ってデザートみたい。なくても生きていけるけど、ないとちょっと淋しい」 いやあ、大したもんです。
(中略)
世界的に見ると、アフリカの難民のように、飢餓に苦しんでいる人たちがいるかと 思えば、日本人のように飽食が当然の人たちもいます。もし道端にパンが落ちていた として、アフリカの難民の人たちは、先を争って拾い食べるでしょうが、ごく普通の 日本人だったら、無視したりゴミ箱に捨てることこそあれ、まさか拾って食べること はないでしょう。
では、食料というものの持つ重要性に、アフリカの難民と日本人とで根本的に違い があるかといえば、そんなことはないでしょう。日本人だって、食料がなくては生き ていけません。ただ、食料があふれているから、その重要性に気が付かなかったり、 殊更それを騒ぎ立てたりする必要を感じないだけなのではないでしょうか。
** その意味では、 実際に自らが 長い長い孤独な青年時代を堪え忍んでいる小谷野敦氏とかが 「恋愛不要論」を説く分には、 聞いてみようという気にもなるが(最近、「友愛結婚」したそうだが)、 「男で不自由したことはない」などと言っている 上野千鶴子氏とか(確かそんなことを言っていたような気がするが、 出典の分かる人がいたら教えてほしい)が 「対幻想論」とかを説いても、私は今ひとつ説得性を感じない (尤も、「恋愛対象を特定一人に限定する必要はない」というのを ちゃんと実行してきたということかも知れないが)。
*** 追記(0000/5/30追記): きりきりさんの頁で 紹介されている例のように、 「毎日真っ暗な中でひとりぼっちでさびしい」と訴える一人暮らしの老人に「一人でいることはさびしくはない」という詩を読んできかせる「善意」は、私からすると、 「パンがないならケーキを食べればいいじゃない」を遙かに越える (無知に基づく)残酷性にも思える。 「さびしい」というのは、別に「一人でいることはさびしい」という世間の常識に 合わせて「さびしがっている」のではない。世間の常識がどうだろうと、 「さびしい」から「さびしい」のである。 恋愛にしても同じである。 仮に自分たちが「恋愛ってお洒落だ」とか「恋人がいないとみっともない」 という感覚でしか恋愛を捉えていないからといって、 切実に恋愛の不在に苦しむ者に「恋愛はしなくてもいいんだよ」などと 「善意」の慰めの声をかけることは同じ意味で残酷な無神経に思える。 大体、たかが世間の常識からはずれて「みっともない」程度のことで、 そんなに苦しめる訳がないではないか。 恋愛の不在が「苦しい」のは現に「苦しい」からである。
私は、両親が死んでから、ずっと一人で暮らしてきた。 だから、あなたたちと生活を共にした この数日間は とても嬉しかった。本当は、あなたたちにもっとここに 居て一緒に暮らして欲しかった……つまり、見かけは実にたくましく生きているかのような この ごっつい漁師は、日々 孤独の苦しみと格闘し続けているのだ。 恐らく死ぬまでそれが続くのだろう。そういう人たちが世界じゅうに いっぱいいるのかと思うと、なんともやりきれない思いになる。 と同時に、自分もそういう生涯を送るのではないかと想像することは、 あるいは、今まで引き摺り続けてきた孤独を癒すこともなく、明日にでも交通事故で死んでしまうかも知れないと想像することは、私にはとてつもない恐怖である。
(というような意味のことを)
* 追記(0000/4/26加筆): みのうらさんの「 さっさと彼女に話しかけ、電話番号を聞き、実際に電話し、デートに誘い、たとえ彼氏がいたとしてもアタックしてものにする手順を踏む時に発生するストレスを越えても、彼女を欲しいと彼が思わなかったってことでもあるわけでさ。その程度にしか好きじゃなかったとも言えますよ。」という論は、例えば、 「話し掛けるのにドキドキもせず、 気軽に電話し、 気楽にデートに誘い、 恋人がいるかどうかなんて気にもならず、 友達感覚で相手に接近して、 スポーツ感覚でナンパして口説いて習慣的に恋愛対象を獲得している 人というのは、 相手に接近するのに何のストレスも感じない程度にしか (つまり、友達を相手にしてるのと同じ程度にしか)好きじゃない (くせに恋愛権を搾取している) とも言えますよ」 とか 「あんたは、金が欲しい、金が欲しいって言うけど、その割には、 必死に脇目もふらずにこつこつと働き続けて質素倹約して貯金し続けて 大金持ちになるとかする訳でもないし、 あるいは、いっそのこと銀行強盗とかの犯罪を犯してまで 大金を手に入れようとする訳でもないし、実はその程度にしか金が欲しくないんだ とも言えますよ」という論と同程度には「反証不可能」な論にしか聞こえないんだ けど(私には)。 まあ、それはともかく、 電話番号を聞き出すことすらままならない私が、 「さっさと彼女に話しかけ、電話番号を聞き、実際に電話し、デートに誘い」 とかを死ぬ思いでやろうともがいている一方で、 電話は勿論セクハラさえも何のストレスも感じることなく余裕でこなし、着実に恋愛対象を獲得しているような男たちの恋愛感情が 私よりも格別に強いとは私にはまるで思えない(むしろ恋愛感情なんてなくて、 性欲だけだったりするんじゃないだろうか)。 それに、現に交際している男女(女女、男男)の多くは、 その恋愛対象を獲得するために死ぬほどのストレスを感じながらも必死の思いで それを乗り越えて恋愛成就した人たちばかりという訳ではないだろう。 だから、そういう特に恋愛が死ぬほど必要でもなかった癖に、 割とラクに恋愛を獲得できている世の中の男女(女女、男男)の多くに、 私の方こそ—— 「彼女がいないとみっともないから」「ただでしたいから」「だれかにボクを認めて欲しいから」とかの理由で彼女作成する方が失礼なんすよ——と叫びたいくらい なんだけど(とりわけ、自分からは 何の苦労もせずとも言い寄ってきた男の一人を恋人にしたに過ぎない女とかには……)。
00/10/31 覚え書き:
(「男ばかりが動いて、女は待っている」傾向があるという私の観察が そう外れていないとして以下 考察すると) 先天的に女は恋愛欲が希薄で男は恋愛欲が旺盛だから男ばかりが積極的に 動こうとするのか、あるいは上記の「アフリカ難民の譬え」のように 女は頻繁に男に動かれているから「そんなものは欲しくなれば、どうせ いつでも手に入る」と殊更に恋愛に危機感を覚えないで済んでいる一方、 男の方は、自分から動かない限りは女の方からは動いてきてくれないことを 経験的に悟って焦って積極的に動くようになるのか、その辺のことは、どちらが原因で どちらが結果か、または相乗作用があるのか、よくは分からない。 仮に、「アフリカ難民の譬え」の因果を当てはめて想像実験するなら、 もし 男が今のようには女に対して積極的に動かなくなれば、 女も焦ってとにかく恋愛したいと思うようになり、 今よりは積極的に動くようになってくるかも知れない。 そういう意味では、 「恋愛の不在が苦しくて苦しくてたまらないって訳でないなら、 何もそんなに苦しい思いをしてまで恋愛しようと格闘しなくても いいんですよ」と諭すような「恋愛不要論」を 世間に煽ることは、 長い目でみると、もしかすると恋愛における性別役割を 緩和することに貢献し得るかも知れない( もしかして、小谷野氏とかは、そんなとこまで見越していたりするのだろうか)。
覚え書き(00/12/11)愛する者同士が赤児のように話し合えるわけが、エリーにはわかってきた。 自分のなかの幼児的な部分をなにはばかることなく露出できるような関係は、 ほかに存在しないのだ。一歳の自分、五歳の自分、十二歳の自分、二十歳の自分が、 それぞれに、愛する者のなかにも相応する部分を見出すことができれば、 自分のなかにあるそれらすべての潜在的な幼児性を本当の意味で充足させることが できる。長きにわたった、それら潜在意識下の分身の孤独は、愛によって 癒されるのだ。たぶん、愛の深さは、二人の関係のなかで、各自の潜在意識下の 分身がどれくらい解放されるかによって計られるのではあるまいか。恐らく、若い頃からかなり充実した恋愛を 経験していたのではないかと思われる セーガンのような人が、 それとは対照的に若い頃の孤独との格闘の日々の中で 恋愛に過大な機能性を見積もる ようになった私が心から共感できるような恋愛観を (小説の中とはいえ) 書いているというのは、実に感動的で心強いことである。
カール セーガン(池央耿、高見浩訳)『コンタクト』(新潮文庫、 上巻、p251)
覚え書き
少女漫画の恋愛至上主義から判断して女には
恋愛感情があると見積もっていたが、実は少女漫画作家の方が例外で、
大部分の女は恋愛感情が希薄だったり持ち合わせていなかったりする
のではないか?
大草原の小さな家のローラには恋愛感情があったのか。
ローラはアルマンゾと結婚する必要があったのか。
アルマンゾに求愛されて、「私は家族と一緒にいることで今は毎日がしあわせだし、
結婚して家族と別れて暮らすことになったら寂しいし」
みたいなことを考えている場面が確かあったと思うけど、
どの巻のどの章だったろう?
心よ 知れ
私の未来は
現在の永続なのだ
お前が現在
私に期待できるものしか
未来にも無いということを。
それ以上を
私にかくれて
お前は望んでいる!『ユキの日記』笠原 嘉 編(みすず書房) 、1952/3/2(ユキ15歳)の日記より引用
「おめえも今だがら春の祭典だのそいなのばりいーいって聞いでっけっとも、そのうぢ段々年取ってくっとベートーベンだの古典派の音楽の方がいいど思うようになって、爺さんどがになったらバッハどがしか聴がねぐなんだど」
中学の時、友達からそんなことを言われたことがある。いくら世の西洋古典愛好家にその傾向があるにせよ、まさか自分だけはそうなる訳はない——と当時の私は高を括っていたものだ。ところが、正にその通りの変化が私に訪れた。それもそんな年も取らないうちに。
二十一ぐらいまでショスタコービチだのバルトークだのばかり聴いていた筈の私は、二十二ぐらいからベートーベンが一番いいと思うようになり二十六ぐらいからバッハが一番いいと思うようになった。更に最近では疲れているとバッハですらうるさく思えることがあり、ルネサンス期以前の聖歌を聴く始末なのだ。そう、私の感性は変わった。ここ数年のうちに見掛け上、急速に老化しているのだ。これは何も音楽的嗜好に限った話ではない。例えば読書傾向にしたって、二十二ぐらいまでは安部公房だのコルターサルといった脳味噌を掻き乱されるような難解な観念的幻想文学を読み漁っていたものだが、最近では東君平といった微笑ましい童話的な読み物くらいしか読む気力がなくなっているし、或は二十ぐらいまであれほど海外に家庭滞在したいだの、あわよくば留学したいだのと思っていた癖に、今や金と時間を費やしてまで特に外国へ行きたいとも思わなくなってしまった。あの頃の私の意識裡に常駐していた筈の数々の情熱とか好奇心は、悉く萎えてしまったような気がする。
それも私にしてみれば別に不思議なことではなく、蓋然の変容でしかない。既に分析済みのその原因を機構を、論理的文章に抽象してみせることだってできる。けど、富弘さんの詩にもあるように「二番目に言いたいことしか人には言えない」。私にだって
臆病な自尊心
もあれば
尊大な羞恥心
もある。不特定多数の人の前に、自分の弱さをさらけ出せる訳はない。
だから私には二番目に言いたいこと共を難しく捏ねくり回しながら、せいぜいその端々に一番目に言いたいことを仄めかしていくのが関の山だ。勿論、今までの人生においてそんな私の精一杯の言葉が「機能」した例しなんて一度もねんだげっと……
むがしむがし
サンタさんの日に
おもちゃこ買ってもらったおいは
ふと考えだ
そう言えば
大人はおもちゃ欲しいど思わねんだいが
おかあさん、
おかあさんはサンタさんの日に
おもちゃ買って欲しいど思わねのすか?
大人なっとな
おもちゃ欲しいなんて
思わねぐなんだ
そう言えば
おやづ喰うどぎ
おとうさんだげはお菓子 喰(か)ねがら
おとうさん、
おとうさん お菓子 食べでど思わねの?
って訊いだら
大人なっとな、お菓子 食べでなんて
思わねぐなんだ
っつってだっけ
ほいなごど思い出してるおいも
もう、だいぶ前がら
お菓子 喰いでなんて
思わねぐなってっけっと
んだがらっつって
飲みでど思って酒こ飲んでる訳でねえし
一日三食の飯が
うめくても
うめぐねくても
ほんたらごどはさっぱり重要なごどでねくて
おもちゃこの山だの
お菓子の山が
おいの目の前さ堆ぐ積もってだ頃
ほいな山でハ 到底 埋め尽ぐせねえおいば
おいさも気付がいねで
ずうっと
生まれだどきから
すっぽりど
埋め尽ぐしてだ大切な山っこが
実は
毎日 少っつず崩れでで
おいが大人になった途端
自分が大人だっつごどさ気付いだ瞬間
言わばねぐなってしまったのっしゃ
そしたらば
おもちゃこも
お菓子も
なんの価値もねぐなってしまったんだ
実に空虚だ
なんにもねんだ
んだ
なんにもねんだ
ベートーベンが自殺を思い留まった理由の一つに芸術的義務感というものがある。つまり、他の者には為し得ない多くの優れた音楽を産み出し得る才能を持ってしまった以上、それを世に排出せずに死ぬ訳にはいかないと考えたのだ。苟も私は私自身にその手の責任を感じている訳では当然ない。縦んば私が万が一にも類い希なる文才の持ち主だったとしても、私は何等の責任も感じないだろう。某映画監督(たぶん羽田澄子氏) が数年前の公開討論会やらでオリバーストーン氏等を前に投げ掛けた一言は、正に私の価値観を象徴しているような気がする—— 戦争があって素晴らしい戦争映画が出来るのがいいのではなく、戦争がなくて素晴らしい戦争映画も出来ないのが一番いい——と。この場合、適切な譬えとは言えないかも知れないけれど——私が内面的に苦しみながらそれを言葉に抽象すべく必死になって綴り続けるのがいいのではなく、私は苦しみもせず取り立てて何の内面的産物も排出しないのが一番いいんだ——私にとっては。んだ。こんなふうに虚無感に浸りながら毎晩バロック音楽を背景音楽に酒をかっ喰って日記帳に筆を走らせるといった純文学の主人公を演じてみたところで、私は少しも楽しい訳ではないし、日々成長する空虚をそんなことで合理化できている訳ですらない。尤も、昔はそれができるような錯覚を抱いていた時期もある。だから高校の時などはニヒリスト(虚無主義者)になりたいとも思っていた。ストイック (禁欲的)であることを心地良いと感じられるように徐々に脳内プログラムを書き換えることができれば、きっと楽になれるだろうし、周りからも畏怖されるようになるだろうと考えていたのだ。というか、自分にはどうすることもできぬ自分の置かれている現状自体を心地良いと思えるようにすべく自分自身の感性の方を適応させてしまえばどうにか楽になれるのではないかと、私はずっと無意識の足掻きを続けてきたような気がする。心頭滅却すれば火もまた涼し——そんなのは嘘だ。どんなに心頭滅却したところで熱い物は熱い——というのが今の私の結論だ。更に言うなら、たとえ火の中で死なずに何年も生き続けられたところで、火の熱さに慣れるなんてことは決してあり得ない。 苦痛の持続は斯く浪費した過去の悔しさを伴って現在の苦痛を助長していくだけのことだ。
十歳までは
しあわせだった
——どすっぺ
十一歳がら
不幸の成長が始まった
小学五年の組み換えが
引き金になったのっさ
おいは時々考えだ
本屋で立ち読みしてで
授業中に漫画描いでで
お墓で忍者ごっこしてで
——こいなごどしてで
楽しべが
いってえ何すれば
楽しべ
結局
分がんねがった
中学生なって
剣道部さ入(へ)った
ほいづが失敗だった
今日の放課後、部活ある
やんだなあ
あしたの朝、朝稽古ある
やんだなあ
今週の日曜日、練習試合ある
やんだなあ
失敗だった
緊張感は三年間
一度も おいんどご解放してけねがった
高校生なって
受験勉強がやってきた
剣道部どは一味違う
焦躁感が三年間
一度も おいんどご解放してけねがった
大学生なって
いろんな蟠りがら
やっと解放さいだ おいは
いろんなごどやってみだ
飲み方だの
カラオゲだの
んだげっと
十歳までの「楽しさ」
かぐれんぼだの
遠足だの
ど比べでしまうど
実は
はっぱり
楽しぐねんだ
いってえ何すれば
楽しんだべ
惚げるまでもね
そいなごどは
ずっと前がら分がってだ筈だ
中学の頃には既に気付いでだ
おいの目的は
おいがしあわせになっこどだ
人間の欲求項目は階層構造ば形成する
取り敢えずその最下層の約何個がは
一通り満ださいでっこどが
他の上層の欲求さ意味 与える
しあわせの必要条件なんだ
一づでも欠げだらば
何したって
十分性は満ださいね
そいづが種明がしだ
惚げるまでもね
愛情の不在が
確かに
何したって楽しめる訳ねっちゃ
んだがらごそ
その約一個の必要条件 獲得できるまでは
楽しむべどすっこどに意味なんてね
十分性 満だし得ね楽しみの全でば
おいは躊躇わねで放棄する
こんでいんだ
おいは
未だに諦め切んねえ約一個の
必要条件っつ奴ば
辛抱強ぐ
感化して
少っつず
おいさ靡がせる
っつう
実に幽かな
幽かな可能性さ
全でば賭げっこどに決めだんだ
んだがら
こえがらも当分
ずっとおいは苦しいげっと
んでも
こんでいんだ
——だどや!
どうしようもねえ馬鹿だな
約一個の必要条件す?
そいなものは
実は最初からねがったんでがす
寂しい時間が長すぎだでば孤独の持続に対する恐怖は、畢竟は意識はい ずれ消滅するという強迫観念に帰着するのかも 知れない。ある敬虔な回教徒の知人曰く——本 当の世界は死んだ後で天に行ってからの世界で、 この世は仮の宿に過ぎない。だからここでの生 活は大して重要ではないから、別にどうでも( 自分自身はしあわせになれなくても)いいのだ そうだ。確かに、しあわせを現世から来世まで 時間積分した値が全ての個人にほぼ一定になる ような来世が保障されているのだとしたら、私は 安心して寧ろ自虐の道をわざわざ選ぶかも 知れない。というかこの現世ですら、私は何 かにつけてその手の「きっといつかは報いられ る」的な見積もりを無意識のうちにやってきて しまったような気がする。やっぱり非対称構造 に気づくのが遅すぎだいが。
長え長え寂しい日々に
おいはいい加減疲れ果ででしまったげっと
寂しさは一向に終わってけね
せめで切れ目 あればいがったのがも知ゃね
持続する寂しさは おいの内界ば蝕んでいぐ
現に曾ての情熱も執着も今ではどうでもいぐなった
言わば適応すっぺどして感覚が麻痺していぐんだっちゃ
寂しさだげは麻痺しねのにな
悉く悪循環だっちゃ
寂しがった過去の時間が
長え長え寂しい日々が
もう終わってしまった過去が
果でしねぐ悔しいど
まだまだ続ぐんだど
こいな日々が
疲れ切った おいに
寂しい時間が
長すぎっと
落ぢ着ぐべ
思えば高校の時だいが
おいは
喜びと楽しさ以外の感情は
一切 表出すんのやめだんだでば
如何なる精神の動揺も
情緒的思考も
一通り論理的思考さ還元して
合理化してきたんだでば
そいづは確かにかっちょいいがも知ゃねげっと
当然の如ぐ「しわよせ」がきたんだっちゃ
おいの精神容量さも限界はある
こいな完璧すぎる適応機制 持ってだんでハ
精神さ掛がる負荷が大っきすぎる
そろそろやばいんでねすかいや?
すべでの適応機制ば「切」にして
やっと表出してくる
ひねぐれでしまった おいの精神ば
やさしぐ包んでける
そいな「対象」が
待ってでけだりしねよ
向ごうも人間なんだがら
khmhtg