(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に

Por tiu ĉi mondo, kiu iam montriĝos nura sonĝo

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この頁上に 公開されている作品は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
2019/2/23以前には、 クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 2.1 日本 ライセンスの下に提供されていました。 ライセンス変更の細かい話はこちら参照

 この頁の作者:後藤文彦

注意
後藤文彦の頁へ戻る
al Ret-paĝo de GOTOU Humihiko

初稿:一九八三〜一九八四(『対象への手記』まで)
〜一九八六(『虚夢』まで)
〜一九八九(『不死になった人』まで)
〜一九九三(『最終進化』一応は完結?)
2013年10月『わたしはどこ』 (第1回日経「 星新一賞 」一般部門 落選作品)

『不死になった人』までを理世デノンの筆名で SF同人誌 ボレアス 第十一号(一九八九年九月発行)に掲載 ( 秋山さんの「SF同人誌ボレアス」の頁 ボレアス11号批評 )


13/1/11追記 「SF同人誌ボレアス」 というのは、私の父親の同級生 嬉野泉氏 ( 菅原豊次さん )が主宰していたSF同人誌です。 ボレアスは、恐らく1982年発行の第1号から、 私の父親のところに、 毎号 郵送されてきていたので、 高校時代や大学時代の私は、それをこっそり読んだり、 作品を投稿したりしていました。 当時、私は小説を書いたりしていることは親には内緒だったので (そういうことに理解を示すような親ではないので、 勉強もせずに何をやってるのだということになってしまうので)、 私がボレアスに作品を投稿していることは、 私の父親には内緒にしてほしいといったことを含め、 豊次とよつぐさんとは、 何回か手紙でやりとりしたことがありますが、 実際にお会いしたことはありません。 2001年に私が結婚したときには、結婚祝いとして水晶の印材を戴きました。 そのうちお会いしたいと思っていたのですが、 2011年、 東日本大震災の犠牲となり亡くなりました。 私の作品に対して、少なくとも私の親よりは理解を示してくれた方です。 1989年当時、この「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」をボレアスに 投稿した際も、電子テキストをワープロに読み込むのではなく、 印刷されたテキストを豊次さん自らが早起きしてワープロで タイピングしてくれたというから、頭が下がります。


一九九三年『最終進化』を第四回新潮学生小説コンクールに投稿して みたら(当時は一応、学生だったので)、一次予選だけ通過して落選

一九九七年に大幅に加筆。
主な修正点:対話文(地の文でも話し言葉的な箇所) が東京日本語的話し言葉だったのを石巻日本語 的話し言葉に改めた。 これに伴って対話文における「女言葉」「男言葉」の区別 が半ば自動的に消えた。 また、名詞や代名詞などは、できるだけ性別を特定しないことにした。


覚え書き(02/6/28):この作品には、様々な意味で非常に思い入れがあるけど、 今 読み返すと、どうにもトンデモっぽいところが目立って恥ずかしかったりもする。 まあ、小説(虚構)なんだからと割り切ってしまえばそれまでなんだけど、 数年前に知人に宛てた電便の一部を引用して、 その辺の背景?をちょっとだけ弁解?しておく。

-------------(前略)---------------

 この後に「私の論理」という本文が来るのだが、この部分は大学二年の
時に大幅に書き換えて、私の小説の中の一章「対象への手記」としました。
言いたいことは「人間の感情や文化も進化の過程で獲得されたものに
過ぎない」ということなのですが、進化に関する事実誤認やトンデモ的な
表現が目立ったので二年前に一部の表現を修正したのを
ここ
http://plaza22.mbn.or.jp/~gthmhk/itusame.html#taisyo
に置いてあります。

その後、セーガン/ドルーヤン共著の「はるかな記憶」を読んんだら、
その私が言いたかったこと、言おうとしてトンデモと紙一重の
想像実験を展開することしか私にはできなかったことを、
セーガン/ドルーヤンは実に綿密に的確に、チンパンジーなどの動物社会の
例を挙げながら実に説得性のある論理で例証しているのです。

私は完全に「負けた」と思いました。はっきり言って、上記の私の
考察を小説としてではなく啓蒙書として一般人が読むことを私は全く
薦めませんが、セーガン/ドルーヤンの「はるかな記憶」は他人に
「啓蒙書」として安心して薦めます。

つまり、私の論考はあまりにも観念的な想像実験の集積に過ぎず、
例証などによる実証性にあまりにも乏しく、科学性に欠けるのです。

つまり、私自身があんなにも嫌悪していた(私の偏見で捉えていた)
「哲学」が陥ったのと同じような限界に私も陥っていたのだと思います。

そういう意味で、「形而上学的で」「観念的で」「個人的な」論考を
重ねるといった意味での「哲学的な」手法よりも、「形而下学的」で
「実証的で」「客観的な」論考を展開するといった意味での「科学的な」
手法が、社会学的な対象に対してもより説得性を有すのではないかと
思うようになってきた面もあります。

---------------(後略)-------------------

目次











いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に




後藤文彦

こいづ認識でぎんのあんだしかいね
んだとてこの意味わがんねごってほんでいい
疑問こ抱いで思索するなんつごだしたらわがんね
なんでがっつど
その方ぜってえあんだはしあわせだべがら

無き対象への手記



      夢——現実逃避の為の麻薬遊びに於いて

画面は音楽室へと続く廊下。ふと、そこに紙切が落ちていて——それが次第に拡大され、何か文章が書かれているのが認められる。
「感情の複雑化した人間が他人の意識の存在という束縛なしで幸せになること は、絶対に不可能だ——と飽く迄あの人は斯う言いたかったのだ。」


確かにわたしはこの俗世界から脱したい。なのに心の中の何かが必死にそれを拒むのだ。

——何かが
その「何か」が一体何であるのか——この重大なことをわたしは忘れてしまったのだ——とは言え決してそれを思い出してはいけないということは分かっている——つまりわたしは決して思い出してはいけないことを忘れてしまったのだ。兎に角その「何か」がわたしの脱俗を拒んでいることは間違いない。けどわたしはこの俗世界を脱したい——この俗世界を……

玄関で靴を履きながらそんなことを考えていると、例の如く親の怒鳴り声が聞こえてきた——
「学校さ遅れっと」と。
ほら、この一言がどれほどわたしを不快にすることか——おっと勘違いしないでけろよ。これは反抗期の子供が抱く感情とは全く次元を異にするもので——つまりわたしはこの家族という集団に愛想を振り撒き、同調し、その上芝居をしてまで共存していかなければならないということが不快なのだ——そこでわたしも例の如くこう怒鳴り返してやるのだ——
「行ってくっから」と。
ほら、この如何にも幸せそうな雰囲気め!

どうやらわたしは学校に着いたことになったらしい。何故なら学校というものには屋上があることになっているからだ——そう、先から例の「何か」が衝動的にわたしを屋上へと挑発しているのだ。確かに屋上にはその「何か」を解く鍵がありそうにも思えたので行ってみると——そこには教室があった。大体において屋上に教室があるということ自体可笑しいではないか。更に可笑しいことにその教室の黒板にはこう書かれてあった——


脱出すっぺ!

     ——自殺の勧め

自殺……? 何とわたしは今この恐ろしくあるべき言葉に出会っていながら少しも恐れを抱いていないのだ。否、それは自殺を恐れぬ以前に、そもそも死ぬことを恐れていないのだ。第一 死とは一体 如何なることなのか。わたしは今まで一度だって死を恐れていたことはないではないか。もし「死」が「意識の消滅」と同値であればきっとわたしは酷く恐れをなす筈だ——ということは、わたしは今まで「死」を「意識の消滅」とは捉えていなかったことになる——あっ
! そういえばわたしは決して自殺をしてはいけないことになっていたんだっけ。何故だろう。死を恐れぬ者がどうして自殺してはいけないのだろう……「怖いもの見たさの心理」がわたしに「何か」を解かせようと唆し——わたしはこの教室の座席に着いていた。
——すると、
先生を装った一人の人物が入ってきた。
「んで授業、始めすとや。うんと、んで先ず脱出の方法について説明すっから。要するに結論、言ってしまえば『自殺』に他ならねんだげっと、こいなごどさ最初から納得する人いる訳ねえべがら、これがら説明すんでがす。つまり、『自殺』するっつっても、そいづはあらゆる苦痛から逃れる為ではねんでがす。 なんでがっつうど、そんでハ 確かにあらゆる苦痛がら逃れらいっぺげっとも、同時にあらゆる快楽がらも逃れでしまいすぺや。 即ち『無』になってしまうのっしゃ。『無』っつうのは完全に何も出来ねえ状態で、言わば『束縛の極限』なのっしゃ。 そんではなして自殺ば勧めんだい。 実は霊魂不滅説が立証さいだがらなんでがす。 つっても、死んでがら成仏すっぺなんつごどは間違っても考えでわがんねがすと。 つうのは『成仏』っつうのは、そいづさ合理性 求めらいるように恐ろしく美化さいだ言葉で、実は『死ぬごど』の婉曲表現なのっしゃ。 人々はこの美化さいだ言葉『成仏』ば望んで、 いつの間にが あれほど恐れでだ『死ぬごど』ば望んでるっつう恐ろしい現象が生じんのっしゃ。 兎に角 成仏さえしねげれば確実に不老不死になれんでがすと。 んだげっと問題になんのは、不老不死どは言ってもそいづは死んだ時点の年齢がらそうなる訳で、仮にあんだが七十、八十の年寄りになってがら死んだんでは、もっと若え内に死んでおぐべぎだったど永久に後悔すっこどだべな。んだがら、そうなんねえ為にもあんだは今死ぬ必要があんのっしゃ。 どれ、こんで納得いったごどだべ。んで飛び降り台まで案内すっから付いで来てけさい。」
「何か」がわたしの脳裡を駆け巡っていた。しかしそれが認識となり思い出されるには至らなかった。……一体何なんだろう、こんな奇妙なことに出会って少しも奇妙とは思っていない——こんなことが以前にもあったのだ、何だろう、思い出してはいけないことなのだろうか……
「そごでがす」
前方を見るとそこには「出口」と書かれた門があった。それは屋上の周の一部にあるのだが、その部分だけ柵が取り除かれているのである。わたしがこの門を潜ればどうやら自殺することになりそうだ。しかしわたしは自殺してはいけないことになっている——つまり、「ふと我に返って」などという訳ではなく——門まで一メートル位に近付いた時、わたしは振り返って逃げ出そうとした。ところが先生の足がわたしを蹴飛ばして突き落としたのだ。
落下の間、その平衡感覚の狂った独特の感じから大体の察しがついた。
——案の定、夢だった。

「いづまで寝でんのっしゃ。学校さ遅れっと。」
——親の怒鳴る声……


わたしは学校を怠けて公園をぶらついているらしい。ベンチには浮浪者らしき人物が腰掛けている。わたしはこの人に同情と配慮の目を向けた。するとその人は明らかにそれが不快だというような表情を現し、逃れるように「脱出」と叫びながら両手を挙げて飛び上がった——すると、その人は消えたのである。だのに「怖いもの見たさの心理」が「脱け殻」という言葉を媒介としてその人をそこに残してしまったのだ。こうなった以上わたしはその人に話し掛けない訳にはいかないらしい。
「あのう、すまねげっと。今『脱出』っつったみでだげっと、その意図、教えでけねべが」
そう言ってわたしはその人の隣に腰掛けた。その人は脱け殻にされてまで残された以上、わたしに何か話さない訳にはいかないらしい。
「あんだ学校ずる休みしてるみでだげっと、その辺がら推測してあんだの心境がなじょなもんが大体の察しつぐ。まあ、ちょっとした現実逃避っつどごがや。 あんだは おいが『脱出』っつった意図、教えで欲しんだっつげっと、こいづはおいにとっては大変な発見なんだど。 おいは浮浪者、装いながら遂にこの俗世界ば脱出する方法、発見したんだ。まあ、おいが『脱け殻』だっつごどに免じで教えでけでもいいげっと……。つまり自分は本来、他の人間どもより次元の一づ高え存在であり、次元の一づ低い普通の人間ば装ってるだげなんだど思い込むごどさえ出来ればいいのっさ。要するにもっと具体的に説明すっと、夢の中でそいづが夢だど分がった場合、何したって怖ぐねべ。その原理ば現実の世界さも応用すればいんだ。我々が夢の中で何したって怖ぐねえ理由は、夢はいづがは必ず覚めるもんだっつごど知ってっからに他ならね。何なら夢の中で両手、挙げで飛び上がりながら『脱出』ど大声で叫んでみっといい。その夢は立ち所に覚める筈だ。おいは次元の一づ高え存在ど成り得る為の必要条件どしてこの世界ばいづでも脱出でぎる能力、具えでる。脱出方法は——両手、挙げで飛び上がりながら『脱出』ど叫ぶ……」


わたしは町の中をぶらついている——どうやら「出口」を捜しているらしい。早速わたしは四階建の建物を見つけた。一階——ヨガ教室、二階——油絵教室、三階——ピアノ教室、四階——出口(箱の中にあり)。出口? これは一体どういうことか。このような看板があるからにはわたしはこの建物に入らない訳にはいかなくなってしまうではないか。何故か「怖いもの見たさの心理」が「何か」を解く鍵になりそうなことをわたしの身辺に作り出し、この「わざとらしさ」の中でわたしは少しもそれが奇妙だとは感じていないのだ。そしてそういうことが以前にもあったという記憶があり、その記憶を脳裡から消し去ろうと努めていた覚えもある…… 四階まで登り切ると、そこは受付のような所で椅子が一つ置かれてあった。「怖いもの見たさの心理」がわたしを椅子に腰掛けさせた。

——すると、

一人の人物が現れた。何処かで見たことのあるような気のする人物だ。
「よぐ『出口』さ来てけした。うんと、んで先ず『脱出』の方法について説明しすぺが。要するに結論、言ってしまえば『箱』に他ならねんだげっと、こいなごどに最初から納得する人いる訳ねえべがら、これがら説明すんでがす。つまり、大抵の人は『脱出』に対して、今まで自分ば閉じ込めでだ何等がのものがら脱してその何の障害物もねえ世界さ広がってぐっつうような概念ば抱いでんでがす。んだげっとそいづは誤った考えなのっしゃ。つうのは、ある人間がそいづば閉じ込めでる何等がの殻、破って四方八方さ拡散してったら、その人間自体の密度は自然薄ぐなる方向さ傾く訳であって——その極限は『無』なのっしゃ。『無』っつうのは完全に何も出来ねえ状態であって、言わば束縛の極限だがら、果だしてこんでは『脱出』にはなり得ねえのっしゃ。そこで背理方が一つの結論ば導ぎだすこどになんでがす。即ち、如何なる外的な刺激さも耐え得る強靭な殻の中で自らの密度ば永久的に確保すっこど——こいづが『脱出』なのっしゃ。そしてその強靭な殻——こいづが例の『箱』っつう訳っしゃ。どれ、こんで納得いぎしたべ。んで隣の部屋さあばいん。」
「何か」がわたしの脳裡を駆け巡っていた。しかしそれが認識となり思い出されるには至らなかった。……一体何なんだろう、前にもあった、確かにあった、こんな奇妙なことに出会って少しも奇妙とは思っていない——こんなことが以前にもあったのだ、何だろう、思い出してはいけないことなのだろうか……
「こいってがす」
前方を見るとそこには箱があった——恐らく合成樹脂製で一辺一メートル位の立方体が二、三十個並べてあった。その半分以上にはもう人間が詰め込まれているようだった。皮肉にも箱の入口には「出口」と書かれていた。わたしはこの人が本当にわたしを脱出させたいならどういう態度を示すのか、ただそれを試してみたかっただけなのだ——つまり、「ふと我に返って」などという訳ではなく——わたしは振り返って逃げ出そうとした。ところがその人の手がわたしを持ち上げ、箱の中に詰め込んで蓋をしたのだ。


先ず正面に画面、その手前に鍵盤入力機、両脇に拡声器がある。言わば漫画の大型人造人間の操縦席である。但、操縦されるのは大型人造人間ではなく人間である。わたしはその人間を電算機の設定した世界に於いて行動させるのだ。そいつが如何に不快な目に合おうとその不快感が直接わたしに伝わることはない。まるで仮想現実遊戯。主人公の目と耳で映画を鑑賞しながら且つその主人公を自由に操れるのだ。わたしがそいつに何をさせようと——即ちそいつが何をしようと——その応報が直接わたしを襲ってくることはない。
わたしは、現実の世界では羞恥という束縛に因って為されないあらゆる行為をそいつにさせた。
だが、やがて奇妙なことに気が付いた。操縦が上達するに連れて、わたしの目に画面が、耳に拡声器が、手に鍵盤入力機が段々近付いてくるのだ——つまり、画面を通して見ているということはわたし自身が直接見ているのと同じことになり、拡声器を通して聞いているということはわたし自身が直接聞いているのと同じことになり、鍵盤入力機を通して操縦しているということはわたし自身が直接動いているのと同じことになり——間も無くわたしはそいつ自身となった。これでは現実の世界と何等変わらないではないか。否、電算機の設定したこの世界の人間——登場人物には「意識」がないのだから厳密には現実以下だ。とは言え、今までそいつの為した行為の応報がやがてわたしを襲いに来るだろう。もはやこの世界にはいられない。わたしの頭には公園にいた先の浮浪者の言葉が思い出される。羞恥という束縛の存在し得ぬ世界——此処があの脱出方法の試行の場となるようだ。わたしは両手を挙げて飛び上がりながら叫んだ。

「脱出!」


その弾みで蓋が開き、飛び上がったわたしの体は「箱」から少し逸れて床に落ちた。改まって辺りを見ると「箱」の群は帯式運搬機で「隣の部屋」から焼却炉へ運ばれていた。わたしはその帯式運搬機の上から脱出したようで——所謂「危機一髪」だったらしい。焼却炉の入口には「出口」と書かれてあり、今その「出口」に「箱」ごと投げ込まれている連中は焼け死んでいることになりそうだ。
「こいづは霊魂不滅説が立証さいだがらなんだげっともっしゃ……」
——背後から先の人物の声……
「最初っから納得する人いる訳ねべがら、こいなぐ『箱』ば使った訳で……あんだの場合、どいな訳が突然 出はってしまって……なじょにお詫びしていいもんだが……兎に角、私どもどしては責任 持って……」
——その時、拳銃の引き金を引く音——咄嗟にわたしは飛び上がりながら両手を挙げて叫ぶ、

「脱出!」


次の瞬間わたしは家の蒲団の中で寝ている。つまり今までの出来事は「夢」ということになったらしい。ここに於いてわたしは帰納的にこの脱出方法の効果を悟った。つまり、これをするごとにその時点に於ける世界より次元の一つ高い世界へ脱出することになる——言わば、夢の中で夢を見、またその夢の中で夢を見、……という状態の中で、ある時点で見ていた夢から一つずつ夢が覚めていくことになるのだ。そしてこの時からこの次元に於けるわたしの犯行が始まったのだ——脱出できることを悟った今、何等恐れることはないのであり、わたしはありとあらゆる考えられる限りの犯罪を犯していった。

その時もわたしは犯罪を犯した。そして飛び上がりながら手を挙げて叫んだ、

「脱出!」


次の瞬間わたしは蒲団の中で寝ている。それは家の蒲団ではない。紛れもなく刑務所の蒲団。わたしは大いに混乱する。
——わたしは実際に今までの出来事を経験したのだろうか。仮に経験したのだとすると、わたしはその後期に犯した犯罪に対して一種の罪悪感を抱き、このような幻覚を見ているのだろうか。あるいは、わたしは実際に何等かの犯罪を犯した囚人なのかも知れないではないか。つまり、この刑務所に収容されていて常に「脱出してえ、脱出してえ」と切望するうちに妄想の中で今までの出来事が起こったという可能性もあるではないか。……ふと想像の中で声が聞こえる——
「この患者は特に重症の精神分裂病で……」
この声にさえわたしは期待する。兎に角、現実の世界でそれが現実だと認識できないなどということはない。要するにこのような抽象的な世界は夢の世界でしか有り得ないのだ。つまりこれは夢なのだ。これこそが理想の世界——夢なのだ。この理想の世界にわたしは遂に達したのだ。さあ早速こんな厭な所は脱出しようではないか。わたしは飛び上がりながら両手を挙げて叫ぶ、

「脱出!」

——だが——

「脱出っ!」

「脱っ出っ!!」


      夢が覚め——麻薬が切れ遊びの中断

画面は音楽室内。その中央に人物甲が座っている。やがてAは上衣の陰から拳銃を取り出し目標もなく撃つ。

ここは牢の中である。蒲団が一つ敷いてあるだけの小さな箱である。蒲団は寝る為のものである。つまり、わたしは古代からこの箱の中、蒲団で眠り、その都度見る夢の世界を生きてきたらしい。——そういう存在なのだろう。今わたしは夢から覚めたばかり。その夢の内容は前述の如く人間という生物になって行動したというようなものだ。
要するに、今ここに存在する「わたし」は別に人間でなくても何等差し支えない。しかしここでは便宜上、わたしは人間であり、人間の言語を使い、人間の思考をしていることにする。とは言え、そんなことは所詮 問題にはなり得ない。何故ならこの手記を読む者はわたし以外に存在し得ないからだ。それなら一体どういう訳で誰に対してこれは書かれているのだろうか。思えば虚しい——そしてそれから絶望し、孤独に陥り、やがて悲しさという不快感に襲われ、憤るだろう——例の如く。 因みに「夢」とは、古代の「わたし」がこの不快感から逃避する為に発明した画期的な適応機制である。初めは単に、わたし以外に意識を有す存在を想像してみただけだった。古代の「わたし」はそれらと会話をしようと試みていたらしい。だがそれは所詮そういう会話の物語を推敲しているに過ぎなかった。言わば古代の「わたし」は自分を主人公とする物語の推敲に熱中していたのだ。そしていつの間にか古代の「わたし」はこの「空想」に殆ど陶酔していて——(恐らく「脳髄」の一部に変化が生じたのだろうが)ふと気が付くとそれらはわたしの意識の制御から独立し、恰もそれら自身 意識を有すかのように行動していた——これが「夢」である。少くとも夢の中では、わたしはそれらに意識があるものと信じ切っている。だから夢の中では所謂「しあわせ」にも成り得るのだ——言わば「満足した豚」だ。とは言え一度目が覚めたなら、絶望——孤独——憤嘆……


一つ譬喩を弄してみよう——空想科学式に

培養液に浸された脳髄
神経は電算機に連結され
そいつの設定した世界の中
この状態を自覚することもなく
与えられた五感によって
自分の肉体と回りの世界が
存在すると信じ
何よりも
この世界の登場人物に
意識があると思ってる
何て幸せな奴


「わたし」以外に意識が存在しないということがどれほどわたしに不快感を与えるか——君には分かるだろうか——分かるまい——だって「君」という意識はないのだから。わたしは唯、「わたし」という存在を認識して欲しいだけなんだ。何故なら、誰かに認識されるということがわたしに快を与えるから——つまりそれが「わたし」の構造なのだ……
もしわたしに「夢」を見せているのが電算機であるなら、このわたしの脳波の動揺を感知しろ。そして「わたし」以外に意識を有す存在を作れ。それからわたしに他人の意識を認識し得る感覚器を与えろ。さもないとわたしは狂うだろう……
この文章を認識している者がいるなら、これを認識しているということをわたしに認識させてくれ。勿論わたしにそんな感覚器はない。でもお願いだ。ただ認識してくれるだけでいいんだ。わたしは信じてあげるから……おっと、論理性に欠け始めた。そろそろ不快感が飽和してきたようだ。しかし実のところわたしは極力「夢」は見たくない。何故なら「夢の世界」の「主人公」になる為には現時点の記憶の大部分をその間喪失せねばならないから……などとは言ってももはや不快感飽和状態。


——限界だ!

また「夢」の中で「満足した豚」になろう。


      再び夢の中——麻薬遊びの再開

画面は先の廊下。そこに「あの人」が倒れている(但し先の紙切はない)。

——授業中。
わたしは板書を写している。字を間違えたので消しゴムで消そうとした。だが、その前に消しゴムの方が勝手に動いて消していた。
——危ない!
人間は、ある行動をしようとしてそうすることを想像しただけではその行動を為し得ない。つまり、想像と行動との間には厚い壁が隔たっているのだ。しかし、わたしが此間から持つようになった超能力の場合、この「壁」が非常に薄く、今も加速度的に薄くなっている。先は消しゴムで消そうとする前に、想像→超能力が勝手に消しゴムを動かして消してしまうほどに「壁」が薄くなっていたのだ。これが如何に危険なことか分かるだろうか。例えばこのわたしの前の席にいる奴の脳味噌を掻き交ぜたら? などと考えるとする。実際、この人までの距離はそう遠くはないし脳味噌を掻き交ぜる程度のことにはさしてエネルギーを必要としない……!!
——しまった!
この人は鼻から脳味噌を垂らして机に顔を伏せた。「あっ」と言う間に、わたしを中心に半径十メートル以内にいた者は奇妙奇天烈に死んだ。そしてわたしは今、わたし自身の脳味噌を掻き交ぜたなら? と考えている。だのにわたしは平気なのだ。やがてわたしには自分が永久であるという認識が生じてきた。——何故だろう? 今までの経験から言えば、わたしの超能力が発するエネルギーはわたし自身からの距離と反比例しているようだ。つまり、わたし自身は丁度その漸近線に位置する訳で必然的にエネルギーは無限大になるのだろう。恐らくその無限大のエネルギーが永久の生——不死という形になって現れてきたのだと思う。
しかし……
それからというもの、わたしの周囲に生きている人間はいなくなった。厳密に言えば、わたしの思考活動が停止している間——例えば夢を見ずに眠っている時などは居ることも出来るのだろうが、思考活動が再開された途端に想像が殺してしまうのだ。世界中何処へ行こうとわたしの周囲に人間はいない。——けど、誰か人間と話をしたい。わたしを孤独から救う話し相手が欲しい。それなら超能力の届かない遠くの人間と電話でも使って……否、わたしは必ず電話を壊すことを想像するだろう。畢竟わたしは完全な孤独だ——

それならそれでいいべ。今も「壁」は薄くなり続けている——もう直ぐわたしの超能力は素粒子単位の運動をも自在に操り想像通りの事象を作るに至るだろう——どれ、想像や、わたしの眼前さわたしの話し相手ば作れ。ははは、流石は想像だ、もう作りやがった。
「あんだは話が出来んのが」
「んん、出来るよ」
ははは、どうだい、今わたしが考えた通りのことを言いやがった。
「んーん、違うでば」
ほれ、またわたしが考えた通りのことを言ってやがる。やっぱりあんだは単なるわたしの想像だっちゃ。ははは、実に愉快だ!
見ろ! 見ろ! 視野にあるものの輪郭が全て抽象化していき——これが視覚か! ——聴覚についても同様であり、とにかく五感に因って認識しているものは全て抽象化していく。恐らく「壁」が殆ど喪失せられたのだろう。もはやここは完全に「想像の世界」……
——ちょっと待て、
わたしは目を瞑っている——そういう認識が生じてきた。否、確かに目を瞑っている——もう実感と言ってもいいぐらい。とにかく、瞑っている目なら開けてみっぺ。
——わたしは目を開けた。如何なる現象であろうか。わたしは今までの出来事を単なる想像であったとして記憶する、ある人間になった。この人間——今度の「わたし」もやがてはこれから起こる出来事を想像であったとして記憶する、ある人間になるだろう。


      無き対象への威嚇——

つれあいを亡くした人が
二人前の料理を作り
その帰りを待っている


画面は音楽室側から写した廊下(但し「あの人」はいない)。向こう側から人物甲と人物乙が話をしながら音楽室へ向かってくる。
「あんだは なしてあの人 殺すのっしゃ。」
「あんだはそう言うげっと、もし私が他の人間 殺すどしても同じ質問したんでねんだいが。」
「否、私が言ってんのは、なして あの人っつう特定の個人ば選択したのがっつうごどっしゃ。」
「なるほど、そいなごどだごって説明すっから。」
このような会話を交わして二人は音楽室へ入る。


君はわたしがこれを書いているのだと錯覚しているようだが、実はそうではない。わたしは今この手記を読んでいるに過ぎない。この手記とは言っても、それは君が今 読んでいる手記——本書ではない。だがそれと全く同じ文章が書かれてある手記である。それを今わたしが読んでいて——その様子を誰かが書いているのがこの手記——本書である。
抑、人間というものは脳裡に絶えず生じる概念を一部言語に変換して認識している——これが思考である。
そこで、一人称小説などの場合、主人公の思考に於いて言語に変換されたことのみを書くものと、更に必要な概念を作者が言語に変換して補充するものとがあるが、この手記——本書の場合は前者である。
つまり、本などを読んでいる人間の思考中には「面白い」とか「つまらない」とか様々な概念が生じているが、それらは普通、言語には変換されていない。だから前述した「言語に変換されたことのみを書くもの」で現在のわたしの状況を書けば、当然 今わたしが読んでいる手記の文章そのまましか書かれないことになる。
そういう訳でわたしが今読んでいる手記は君が今読んでいる本書と全く同じ文章が書かれているのである。ところで、君が今この文章を読んでいる様子を誰かが書いていないとも限らない。つまり、またこの手記と同じ内容の手記が出来ることになる。


      此処より挿入の頁……

画面は音楽室内、「あの人」がピアノを弾いている。戸が開き、先の二人が入ってきて中央に座る。二人は「あの人」を無視して話し始める。

「私は私以外の者さは意識っつうものが全くねくて、単なる私の想像上の存在に過ぎねえど思ってんでがす。仮にあったどしても私にとっては ねえのど全く同じごどなのっしゃ。例えば今 私の話ば聞いでるあんだは、実際には意識ねんだげっと、ただあるみでぐ装ってるだけがも知ゃねっちゃ。つまり私は、私以外の者さは意識がねんだど断定しても何等 差し支えねえのっしゃ。
そこで私は悟ったのっしゃ——犯罪っつのは何なのが。つまり犯罪っつうな他人さ意識があっと思うがらごそ存在すんのっしゃ。例えば今 私があんださ苦痛 与えすぺ。そすと私は罪悪感ば抱ぎ、あんださ同情さえすんでがすと。なしてだど思いす。私があんださ意識があっと思ってっからっしゃ。もっといい例ありすと。私が人間 殺せばそいづは犯罪でがす。んだげっと蝿だのゴキブリ殺してもそいづは犯罪にはなんねんでがす。なしてだど思いす。人間さは意識あっけっと、蝿だのゴキブリさはねえがらなのっしゃ。実は私はおどどいの晩にある夢ば見だんでがす。その夢の中で私はそいづが夢だっつごどが分がったのっしゃ。んだがら私は次々にありどあらゆる犯罪ば犯したのっしゃ。否、正確に言えば現実の世界では犯罪とさいる行為ば自由に行うごどが出来たに過ぎねんでがす。なんでがっつど夢の中で意識のある者は私一人であって、他の者は全て私の想像上の存在に過ぎねすぺ、その人だぢさ如何なる危害ば加えようど、否、危害 加えっこど自体そもそも不可能な訳であって、要するに夢の中で私がどいな行為ばしようど、決してそいづは犯罪にはなり得ねえのっしゃ。夢の世界——即ち犯罪のねえ世界、そいづは正に理想の世界だどは思はねすか。そごで私は悟ったのっしゃ——この現実の世界だって ただ私が私以外の者さは意識がねんだど思い込むごどさえ出来れば、犯罪のねえ理想の世界にすっこどが可能なんだど。
今 私は実験してんでがす——今から私のする行為が果だして犯罪どなり得っかどうがば。因みに私がその夢の中で最初に行った、現実の世界では犯罪とさいる行為が、あの人ば射殺するごどだったんでがす。あの人ば選んだのは ただ単にそれだけの理由がらでがす。」
「なるほど、もし私があんだの論理さ同意すれば、私はあんだの単なる想像上の存在ど化すべし、あんだは私の単なる想像上の存在ど化すべし、つまり私達はこごに於いて全く断絶せらるっつ訳でがすぺ。実におもしいごどでがす。」
「あら、誰が聞き耳たででるみでな気いすんだげっとも。」
「あの人」が突然ピアノを中断する。画面は「あの人」の顔を拡大する——焦っている。人物甲と人物乙は立ち上がり戸の方へ歩いていく。

画面は廊下側から写した戸。それが開いて人物甲と人物乙のやや驚いたような表情の顔が現れる。二人は戸の前に立って辺りを見回す(この時、画面の視野はあまり広くない)。
「何だっけ、誰もいねっちゃ。」
「おがっついなや。」
二人は音楽室へ戻り戸を閉める。画面の視野が広くなっていき、戸のすぐ脇の壁に「あの人」が寄り掛かっているのが認められる。

画面は音楽室内。そこで「あの人」がピアノを弾いている(但し人物甲と人物乙はいない)。暫くしてそこに銃声が鳴り響く。ややあって「あの人」はピアノをやめ静かに立ち上がる。それから更に静かに音楽室から廊下に出る。そして前方へ歩いていく。画面は「あの人」が音楽室から廊下に出た時点で静止し、「あの人」の後姿を写し続ける。当然画面の中で「あの人」は遠く——小さくなっていく。やがて「あの人」はふらつき、そのまま転ぶような形で倒れる。画面は暫く「あの人」を写し続ける。

画面は廊下(但し「あの人」はいない)。ふと、そこに紙切が落ちていて——それが次第に拡大され、先の紙切であるらしいことが認められる。
「感情の複雑化した人間が他人の意識の存在という束縛なしで幸せになること は、絶対に不可能だ——と飽く迄あの人は斯う言いたかったのだ。」


      夢の中でも無き対象を威嚇するわたし

何だろう ?

先ず、便宜上「わたし」という人物を「甲」とする。つまりわたしの名前が「甲」なのだと思って差し支えない。
さて、問題はわたしに読心術の能力があるということだ。つまりわたしは他人の心が読めるのだ。例えば今は人物乙、丙の心を読んでいる。この人たちのあらゆる思考活動が隈無く認識できるのだ。そりゃあ、わたし自身の思考活動は勿論認識できるが……ということは、「わたし」と甲との関係は「わたし」と乙、丙との関係と全く同じだということになりはしまいか。否、そんな筈はない。何故なら甲はわたし自身なのだから。それはどういうことだ? つまりわたしは甲に対しては命令を出して自分の意志通りに行動させることが出来るが、乙、丙に対してはそれが出来ないのだ。——果たして本当か? ——それなら今わたしが目を瞑ってみれば甲だけが目を瞑ったことになる訳だ。——どうだ——確かに甲だけが目を瞑った。しかし今 甲が目を瞑ったのはわたしの意志に因ってなどではない。飽く迄 甲自身の意志に因ってだ。それはどういうことか? つまり今 目を瞑ろうなどと考えたのは実はわたしではなくて甲だったのだ。どうやらわたしは今まで自分の意識と甲の意識を混同してきたようだ。——無理もない。恐らく「わたし」という「読心術」がこの世に現れて初めて心を読んだのが甲だったのだろう。それでわたしは以来 甲の意識を自分の意識の一部と思い込んできたのだろう。そして今この懐疑に因って初めてわたしと甲とは本来 何等の関係もないことを悟った。ではこの「わたし」とは一体 如何なる存在なのであろうか。それは飽く迄「意識」である——肉体を持たないとは雖も——つまりわたしはこの世界に作用して現象を生じさせる何等の手段も持っていないのだ。仍てわたしは常に鑑賞者であって決して創造者にはなり得ないのだ。畢竟するにこのわたしの思考を認識し得る対象は絶対に存在し得ない訳だ。


      所詮夢は覚め……

聞こえる
——音楽が

えっ! 今わたしは夢の中で甲、乙、丙という他人の意識を本当に認識していたのだろうか? ——ということはわたし以外の意識が現に存在するのだろうか?? まさか! そんなことはあり得ない。何故なら、ここで「認識」という表現が用いられているからだ。つまり認識される全事象は飽く迄 何等かの信号に変換されなければ認識され得ないのであり——抑それが「認識」という概念である筈だが——如何なる信号もそれの表す事象の真偽に拘らず存在することが可能なのだから、その信号の再生する事象が果たして現実か否かについては十分に懐疑の余地がある。例えば五感に因って認識されたこの世界でさえ、時には頬を抓って夢ではないかと疑うほどなのに、ましてや認識された他人の意識なんて実在のものだなどとは信じ難いではないか。恐らくわたしは自分の意識の一部を他人の意識であるかの如く錯覚でもしていたのだろう。畢竟、認識するという手段を用いず、真に他人の意識が存在しているということを認識することは永久に不可能だ。


      いつか見た夢

これは確かに……
わたしの曲だ


わたしは町の中をぶらついている——どうやら「出口」を捜しているらしい。早速わたしは四階建ての建物を見つけた。一階——ヨガ教室、二階——油絵教室、三階——ピアノ教室、四階——出口(記憶取換え所)。出口? これは一体どういうことか。このような看板があるからにはわたしはこの建物に入らない訳にはいかなくなってしまうではないか。何故か「怖いもの見たさの心理」が「何か」を解く鍵になりそうなことをわたしの身辺に作りだし、この「わざとらしさ」の中でわたしは少しもそれが奇妙だとは感じていないのだ。そしてそういうことが以前にもあったという記憶があり、その記憶を脳裡から消し去ろうと努めていた覚えもある……
四階まで上り切ると、そこは受付のような所で椅子が一つ置かれてあった。「怖いもの見たさの心理」がわたしを椅子に腰掛けさせた。
——すると、
一人の人物が現れた。何処かで見たことのあるような気のする人物だ。
「よぐ『出口』さ来てけした。うんと、んで先ず『脱出』の方法について説明しすぺ。要するに結論ば言ってしまえば『記憶取換え』に他ならねんだげっとも、こいなごどさ最初っから納得する人いる訳ねえべがらこれがら説明すんでがす。つまり、あんだ方がこの俗世界ば脱出すっぺど欲する原動は、過去に於げる自分がこの俗世界で不快な経験ばしてきたっつ記憶に他なんねんでがす。んだがら、その記憶ば、例えば過去に於げる自分は理想的な世界で有意義な経験ばしてきたっつよな記憶にでも取っ換ぇれば、あんださはもう脱出してえなんつ欲求は現れねんでがす。言わばあんだは脱出し得だのっしゃ。」
「ちょっと待ってけさい。おいの記憶 入替えだらば、そいづはもはや『おい』ではねえ筈でがすと。脱出してえど思ってる『おい』ば殺して、その代わりに脱出してえど思わねえ新たな人間ば作りだすに過ぎねっちゃ。あんだは意識っつ回路さ記憶が関与してっこど知ゃねのすか。つまり記憶 取っ換ぇだらば、元の意識回路は消滅してしまうんでがすと。」
「あんだ本当にそう思いすか。例えばあんだは夢の中での記憶ど覚醒時の記憶が異なってっこどば御存じすか。」
「んん、んだがら おいは夢の中での自分ど覚醒時の自分どは厳密には異なった意識だべど思ってんでがす。ただ おいだぢがこいづば混同しがちなのは、覚醒時の自分が夢の中での自分の記憶ばある程度 共有でぎっからなのっしゃ。んだげっとも逆に夢の中での自分が覚醒時の自分の記憶ば共有すっこどは稀だど言えっぺね。つまり、覚醒時の自分にとっては、記憶の中で再生さいる夢の中での自分は同一の意識だべげっと、夢の中での自分にとっては、覚醒時の自分は赤の他人だど言えっぺよ。」
「なるほど、んだごって面白いごどば教えでやりすぺ。実は、私は先程こごさ来たあんださ麻酔かげで、それまでのあんだの記憶ば今のあんだの記憶ど取っ換ぇでみだんでがす。その証拠にあんだの左腕さは注射 打った跡ありすぺ。……ほれな。あちこちさ傷ありすぺ。そいづはあんだが暴れだせいっしゃ。」
「っつうごどは、おいがこごさ来るまでに経験したど思ってるあらゆる出来事は全て架空の出来事っつうごどすかは。例えば おいの家族だの親友だのも全て架空の人物っつうごどすかや」
「んでがす。今のあんだの記憶は電算機さ作らせだやづでがす。……あいったごって、元のあんだの記憶どまだ取っ換っぺが。」
「そいなごど やめでけさい。そいづは新だに作らいだこの『おい』ば殺して、その代りに元の『おい』ば復活させっこどでがす。そりゃあ確かに元の『おい』には気の毒だげっとも、おいは死にてぐね。」
「んでもそいな訳にもいがねんでがす。今のあんださは社会生活ば営む能力がねんでがすと。今あんだがうっつぁ帰ったがらとて、そごさあんだのうぢがあっとは限んねえべし、第一この建物の外さあんだが想像してるみでな世界があっとも限んねがすぺ。分がりすか。……こんで納得いぎしたべ。んで、隣の部屋さあばい。」
「何か」がわたしの脳裡を駆け巡っていた。しかしそれが認識となり思い出されるには至らなかった。……一体何なんだろう、前にもあった、確かにあった、こんな奇妙なことに出会って少しも奇妙とは思っていない——こんなことが以前にもあったのだ、何だろう、思い出してはいけないことなのだろうか……
「そごさ座ってけさい。」
前方を見ると電気椅子のような代物が置いてあった。わたしはただ、今まで経験してきたことが本当に架空の出来事なのか、わたしの家族や友達が本当に架空の人物なのか確かめたかっただけなのだ——つまり、「ふと我に返って」などという訳ではなく——わたしは振り返って逃げ出そうとした。ところがこの人の手がわたしを持ち上げ、「電気椅子」に腰掛けさせて固定帯を締めたのだ。
——案の定、体に電流が流れてきた。
「こいづは霊魂不滅説が立証さいだがらなんだげっともっしゃ……」
——その人の声が幽かに聞こえる。

間も無く「わたし」は死んだ。


      その夢も覚め……

そう、
生前わたしが作曲した
わたしの曲だ


また奇怪なことを発見した。果たして夢の中での「わたし」はこの「わたし」ではないのだろうか。そりゃあ両者が存在している時間とか空間とかが異なるのは当然だ。そんなことにまで言及していたら、今のわたしは一秒後のわたしではないなどということまで言わなければならなくなる。ここで問題にしているのは時間の経過に付随した存在としての意識を「わたし」と定義した時の話である。
そこで、記憶を異にした意識を果たして同一の意識と考えることが出来るかどうかだ。例えば今わたしが記憶喪失になるならば、その人間はまだ意識「わたし」の継続であろうか。更にその人が新たな記憶を蓄積した時、その人は「わたし」であろうか。わたしには「違う」という考えしか浮かんでこないのだ。ところが、その人が喪失していた意識を取り戻したなら、恐らくその瞬間に「わたし」は継続せらるだろう——その人が新たに蓄積した意識も含めて。こうなってくると「意識」とは意外に相対的な代物のようだ。大体に於いてわたし自身 夢の中で「厳密には」などという表現を用いているくらいだ。もしその人が例えば記憶を僅かだけ取り戻したらどうなるのか。意識「わたし」が僅かだけ継続されるということにでもなるのか。意識に於いて僅かに「わたし」だとか殆ど「わたし」だなどということがあるのか。今までは自分の意識か他人の意識かの何れかに割り切れると思っていたのに。意識「わたし」は何かの拍子に他人の意識と化し兼ねない。夢の中での「わたし」は少なからず他人の意識なのだ。ということは、あれほどわたしが求めていた他人の意識が現に存在し得ることになりそうだ。しかも記憶という、その意識を認識する能力をわたしは備えてもいたのだ(尤もその記憶という信号が真の事象を再生しているとは限らないが)。だのにわたしたちは互いに同時間に認識し合うことは決して出来ないのだ。そんなこと当り前だっちゃ——抑わたしの意識なのだから。結局、実質的には他人の意識は存在しないのだ。

どうしてわたしはこんなにも他人の意識を求めるのか——それは意識「わたし」がこの孤独に不快感を得るような構造をしているからだ。——それなら他人の意識を求めようとするよりはこの構造を改造しようとする方が賢明ではなかろうか? ——勿論それは孤独に不快感を得るこの「わたし」を殺し、新たに孤独を楽しめる人間を作ることに他ならないが。しかし意識「わたし」は意識の消滅——死を恐れる。だから結局そんな真似は出来ない。その癖「夢」に因って意識の相対性を弄んでいるのだから滑稽なものだ。「夢はいつか必ず覚める」に合理性を求めて逃避してやがる。しかしそれは所詮 逃避ではない。尤も夢が、眠る直前までの意識を記憶も含めて完全に継続するのならそれは一時的な逃避ではあるかも知れない。しかし現に目が覚めて「わたし」が再開された時、果たしてわたしは全然「脱出」していないのである。そうこう言ったところで結局わたしはまた夢を見ることになる——だってそういう仕組みなのだから。——するとわたしは誰もが成功し得なかったあの永久機関の初の成功作かも知れない。


      再び挿入の頁……

一体誰が弾いているのだろう? ……おや、そんなことより消滅した筈の意識「わたし」が復活しているではないか! 何故だろう? この曲に付随して存在しているのだろうか? ——だとすれば、これは楽譜というものの持つ莫大なエネルギーが——否、有限であった筈のわたしに因って作られたにも拘らず、幾度 奏でられようとその価値が減じるなどということのない——無限のエネルギーが演奏に因って消費される時、そのエネルギーの一部が意識「わたし」に変換されるのかも知れない。 つまり、この演奏のエネルギー変換効率の悪さが、 楽譜の一部を「わたし」に変換してしまっているからといってさして不思議ではない。 ということは「意識」とは脳髄等の物質的回路というよりも、そこで消費されるエネルギーの一形態とは言えまいか。
しかしそんなことが本当にあり得るだろうか。つまりここでいくらわたしが意識「わたし」が存在していると述べたところで、それが嘘だとも限らない——その証拠にわたしは1+1=1だと言うことも出来る。つまりこう考えてはどうだろう——意識「わたし」などというものは存在せず、即ちこの「わたし」は単なる文字に過ぎず、聞こえる音楽は単なる楽譜に過ぎず——! ……そうか、わたしはこの音楽に惑わされてきたんだ。最初に音楽が「聞こえる」と思ったから意識「わたし」が存在すると錯覚したんだ。つまりこれは単なる文字と楽譜である。
しかし誰かがこれを読んでいるとすれば、その人物の意識裡に意識「わたし」が生じないだろうか。というのは一人称で書かれた文章を読んでいる人物の意識裡には、この主人公はこういうことを考えているのかなどと思いつつ——即それと同時にそこにその主人公と相似な意識が生じている筈だからだ。つまり「わたし」はこれを読んでいる「誰か」の意識の一部である。
否、待て、それよりもっと自然な考え方がある——つまりこの文章が誰の意識の作用もなく偶然に発生するなどということは考えにくいことで、これは明らかに誰かに書かれた筈だ。つまりその人物が「わたし」という一人称を使ってこの文章を書いている以上、少くともその人は(縦令それが本心でないにせよ)ここに書かれた「わたし」の思考を一通り行った筈だ。つまり意識「わたし」はその人の意識に属する意識だ。そして仮にその人が本心を書いたのであれば、意識「わたし」はその人の意識だと考えて先ず間違いないだろう。それなら、これを書いたのは一体誰だろう? そうだ——わたしだ! ……とここで夢が覚めた。


対象への手記



もしわたしの願いが
一つだけ叶えられるなら
自分が絶対に不死であるということを
1+1=2よりも明らかに
納得できるようにしてほしい

      序——亡き対象たちに告ぐ

「無き対象への手記」を書いたのはあなた方に「進化」の恐怖を黙示する為ではない——ただ単にわたしが精神的に動揺していたからだ。因みにわたしは無き対象に対して羞恥を抱いている。つまりわたしは「無き対象への手記」の弁解をしておきたいのだ——今度はいくらか冷静な文章で。だって対象がいるかも知れないのだから


本題に入る前に——これからわたしが叙述せんとすることを既に誰かがより組織的かつ論理的に叙述しているかも知れない。だが、わたしは自分が「神」とか「愛」の類いを構成概念とする反証不可能な価値的命題を論理展開の根拠にするような次元の存在ではないということを知ってもらう為にも、また今後のわたし自身の懐疑用に組織化して記録しておく為にも敢えてここにこれを叙述しておきたいのである——


先ずわたしは今「わたし」を信じている。わたしの記憶回路もわたしの思考回路もこのわたしが考えている程度の高い精度で正確に作動しているものと信じている。仍てこれ以降この精度内で「正しい」と判断される命題は「正しい」と見做す(さもなければわたしの思考は継続しない——例えばわたしの思考は記憶を媒介として継続しているが、認識——は常に一瞬の現象でしかない。ここで記憶は信号であり、信号とはそれの表す事象の真偽に拘らず存在し得る。つまり思考が記憶を媒介に為される限りここに非確実性が現れる。たとえ紙に書いて記録したとしても目という感覚器を通る際、信号化される訳であり——何れにせよ思考が時間に付随して為される以上、記憶を媒介にしないことは不可能であり、この次元の議論をすればわたしがどんなことを考えてもそれらを「正しい」と判断することは出来ない。そこで議論を進め得る最低の条件として前述の仮定を立てたのである)。尤もわたしの思考回路がその精度内で許容し得ないほどの誤動作を起こさないということをわたし自身が保証することは不可能だが。
さて、前置きはこれくらいにして、これからわたしの精神構造を分析すべく思索を行う。先ず精神の主体である自我は「我思う、故に我あり」に因ってその実在に納得できるが、如何にして自我感が生じるかについては何等の緒も見出だせないのでこれについての思索はしない。
精神には論理的な領域と感覚的な領域がある。 自我感の有無については考慮せずに、 外界の刺激に対する反応についてのみ着目すれば、 こうした精神の機能は、電算機に あるプログラムを組み込んだ回路としてモデル化できる。 すると、論理的な領域ほど論理処理用のプログラムの範囲でも十分に 再現しやすく、その機能については ここで特に思索する必要は認められず、 問題点は如何にしてそれが形成されたかにとどまる。 一方、感覚的領域については、それを電算機上にモデル化するには、 論理処理用のプログラムの範囲では再現できず、ある 特殊なプログラムを組む必要があるため、それが如何なる機能をしているのかについて 思索する。 その際に内界の事象についての思索のみでは何等の展開も得られず外界の事象を扱うことになろうと予想されるので、予めここで場合分けをしておく——わたしが感覚器を媒介として認識している外界を真と見做す場合と偽と見做す場合とに。というのは、現に我々の脳でさえ「夢」という偽の世界を認識させ得るのだからこの認識された「外界」も偽である可能性は十分にあるからだ。しかも我々がその真偽を判断することは不可能だ——例えば夢の中でそれが夢であるか現実であるかを判断することは不可能だし、現実の世界でそれが夢であるか現実であるかを判断することさえ厳密には不可能だ——仍て今「わたし」の認識している外界が夢である場合と現実である場合とに場合分けする必要があるという訳なのだ。
では初めにこの外界を偽と見做そう。当然のことながら外界に於ける検証実験から導かれた自然法則は全て無効となり、この場合 論理展開の緒を見出だせそうにない。またこれの対象となる意識が「わたし」以外に存在するか否かも定かではなく、他人の意識にこの文章を認識されることで快を得ようというわたしの目論見も無意味になってくる。仍てこの場合についての叙述はここで打ち切る。
次にこの外界を真と見做そう。当然のことながら外界に於ける検証実験から導かれた自然法則は有効となる。またこれの対象となる意識は他人の意識も含まれる(尤も、厳密には「無き対象への手記」で述べたように他人の意識の実在は認識できないが)。
それでは外界を真と見做す場合に於いて感覚的領域についての思索を進める——感覚及び感情は、概して快感もしくは不快感に分類される。ここで言う快感とは個体が求める感覚であり、不快感とは個体が避ける感覚である——そして 快感追求・不快感逃避が我々の行動の原動となっている—— その意味では快感・不快感は我々が行動する際の判断基準になっていると言える 実際、その判断基準に従った行動は、概して我々の生存に適した行動となっている——これを根拠に我々の精神構造の形成の原因に「進化」が妥当すると判断する。
ここで「進化」の概念を懐疑してみる——「進化」とは自然淘汰に因って個体がより生存に適した形質を獲得していくこととは言い難い——何故なら、所謂「進化」とは生存を脅かす恐れのある外界の刺激から逃避する能力も獲得していくことであり、その逃避能力に因ってそのような外界の刺激に晒される機会が少なくなっていく為、外界の刺激に対する個体の耐久力は衰退していくことになる——その結果、「進化」した個体と否とでどちらがより生存に適しているかは単純には判定し難い——例えば核戦争に因って人類が滅亡した後に残存していたバクテリアが繁栄するかも知れないのだ——現在 地球上には様々な進化過程の生物が存在し、それらのどれが最も生存に適しているかは同様の理由に因って判定できない——つまり「進化」とは生存に適した形質を獲得していくこととは言い難いが、自然界の試練を克服する能力を獲得すべく形質が複雑化していくこととは言えまいか——先ず形質が複雑化する原因についてはここでは言及しない——差し当たり形質の複雑化は偶然に因るものとでもしておく(如何なる原因が推測されるにせよ、偶然はあらゆる原因を包含する)——では偶然 形質が複雑化した結果、生存に適していなかったならどうなるか——その種は滅びるであろう——つまり形質が複雑化した結果、生存に適していたものが残存することになる——この過程を「進化」と定義するならば次のことが言える——「進化」するならば生存に適すべく形質が複雑化する・生存に適すべく作用する複雑な形質を有す種ならば「進化」をその形質複雑化の原因と考えられる——但し気を付けねばならないことは先も矛盾を来したように、生存に適することは形質が複雑化することの必要条件ではあっても十分条件ではないということである。つまり「進化」とは偶然 形質が複雑化した種に自然淘汰が作用しその新たな複雑度に於いて生存に適したものが残存することであり、形質が複雑化せず元の複雑度を保持した種が滅びることではない。仍て地球上には下等な生物から高等な生物まで各々の複雑度に於いて生存に適した種が存在するものと考えられる。 つまり、生存に適すべく作用する複雑な形質「精神」を有する「人間」についてこの議論を適用すれば、精神の形成は「進化」に因るものと言える——ということだ。
さて、ここからは前述の抽象的見解に対して具体例を挙げていくことにする—— 先ず、快感追求・不快感逃避という判断基準に従った行動が概して我々の生存に適すべき行動になっているとは、例えば味覚を例にとって説明すると——個体を益する食物は「おいしい」と感じ、害する食物は「まずい」と感じるように味覚は機能しているのだ。このような原理は利他的感情にも当て嵌る——他の個体が不快であることを認識した時に不快感(所謂「同情」等)を催し、他の個体が快いことを認識した時に快感(特に該当する言葉はない)を催し——これは共存性を高めるべく機能している。
我々にはこれとは相反する非利他的な感情もある——他の個体が快いことを認識した時に催す不快感(所謂「嫉妬」等)、他の個体(憎い対象等)が不快であることを認識した時に催す快感(所謂「ざまあ見ろ」の感情等)である。(尚、ここでは飽く迄ほんの一例を挙げているに過ぎず、あらゆる感覚・感情の機能を網羅するつもりはないということを諒承して戴きたい。)
このように、利他的な行為と非利他的な行為とが必ずしも快感・不快感を催す 行為に対応している訳ではない。 人間は概して利他的な行為に「よい」、非利他的な行為に「わるい」という言葉 を与えている。 この「よい」行いを励行し、「わるい」行いを抑制する「判断基準」の一つとして、 古代から機能してきたものの一つに宗教がある。 これには、個体集団に 利他行為に伴う快感と非利他行為に伴う不快感がそれぞれ卓越するような 価値体系を刷り込むことによって、 その個体集団の共存性を高めることを志向したように 見受けられる特徴が認められる。 例えば、神などの絶対的存在を想定することにより、 「よい」行いをしたものには「天国など、死後の幸福」が保障されているという 希望を与え、「わるい」行いをしたものには「地獄など、死後の罰」が待っている という恐怖を与えるなどがそうである。 但し歴史を見る限り、宗教も必ずしも個体集団の共存性を高めるべく機能してきた とは言い難く、異なる価値体系を有する他の同種個体集団を虐殺することすら 宗教的には しばしば「よい」ことになり得てきた。
宗教よりは後にできた「判断基準」と思われるが、 個体を害する行為をより直接的に抑止する制度として法的制裁がある。 この制度が個体集団の集団的同意の下に成立するには、 「『わるい』行いをしたものは罰せられなければならない」という 価値体系が刷り込まれていた方が都合が良い。 つまり、先に挙げた非利他的感情のあるものは、 正にこの制度を成立させるべき必要性から進化してきたのかも知れない ——という示唆を与える程度にしておいてこれについては割愛する。
最後に精神文化の形成について考察する。精神文化は生存に適すべく進化した判断基準であると一概に片付け得るとは判断できず、次に精神文化形成の原因を推測する——我々の行動の原動は快感追求・不快感逃避であるが、この判断基準が完璧な判断をするという保証はない——おいしい食物が全て生存に適すべき食物とは限らないし、まずい食物が全て生存に適すまじき食物とも限らない——つまり、特に生存に適する訳でない行為の中に非常な快感を催す例外的行為がないとも限らない——個体の行動の原動が快感追求・不快感逃避である以上、個体は自分の判断基準が如何なる行為に対してより多大な且つ質の高い快感を与えるかを推理していくだろう——そして判断基準がその構造上の事情で非常な快感を与える複雑な行為を発見していくに違いない——例えば生存に適すべき食物Aと適すまじき食物Bがあるとすると、理論上個体はAを「おいしい」と感じて食べBを「まずい」と感じて食べないべきなのだが、Aに少量のBを混ぜると「非常においしい」などということを発見したりするのだ——斯く、質の高い快感を求めるべく個体の行為は複雑化していき、その究極的な産物として「料理」や「芸術」等が形成されてきたのではないかと推測される——以上で精神文化形成についての考察はやめておく。尚、具体例の列挙もここで終わりにする。
——斯く我々の精神構造が進化してきたものと考えられるが、それでは今後 我々の精神は(というよりは寧ろ「この人類は」と言うべきかも知れないが)如何に進化していくだろうか——これを予測していきたいと思う——そう、つまりここからの叙述は飽く迄 全くの予測に過ぎないことを断っておく。
先ず現在、人類は今にも核戦争等に因って滅亡し兼ねない状態にあり——それに因って進化が中絶する場合が考えられる。では更に進化が継続する場合はどうなるか——先ずそうなる為の必要条件として人類は核戦争等を廃絶させ得る社会水準に達していなければならない——つまり人類は少くとも価値観に依存する問題と依存しない問題とを峻別し、前者には相対主義的な態度で、後者には科学的な態度で対処するようにはなっているであろう。
恐らく その頃の人類は「人間性」、「罪と罰」等の観念の生物学的意義を悟り、それまではそれらの観念を規制理由としてきた社会制度も効力を失い、新たな社会秩序維持の方法が考案されることになるだろう
——斯く「理想的な」社会が現出することになる——では、この段階に於ける人類の行動の原動とは如何——それは快感追求・不快感逃避に変わりはなかろう。人類は高尚な快楽を求めて「判断基準がその構造上の事情で非常な快感を与える複雑な行為」を追求し続け、究極的には所謂「仮想現実機」のようなものを作りあげるだろう。 この時代の人間が「反自然性」といった前時代的な価値観に拘束されるようなことがなければ、 経済的に許された誰もが仮想現実機で高尚快楽追求の目的を達成しようとしだすかも知れない。 ここで種族保存本能の喪失に因る自滅という場合も考えられる——つまり仮想現実機が 普及する過渡期に於ける人類は、種族中絶の不安という不快感からの逃避と自己の高尚快楽の追求との葛藤に於いて後者を意義大と見做すようにならない限りこの関門を突破し得ないだろう——その結果、進化が中絶する可能性も濃いが。
しかし、仮想現実機が普及した暁の人類が種族保存本能を喪失せず、または何か別の理由で進化を続けたらどうなるか——人類の行動の原動はやはり高尚快楽追求のままだろう——高尚快楽追求にも可能性はある——例えば新たな感覚器の導入・判断基準の操作・記憶の操作・複数意識の連結等。斯く人類が十分 納得し得るほどの高尚な快楽が得られるようになった時点で(あるいはそれ以前からでも特に差支えないのだが)人類は一体 何を求め始めるだろうか——ここまできた時点の人類の不満足を成すものは、 もはや「反自然性」とかの次元のことではなくて、 「死」——「意識の消滅」といったものになってくるのではなかろうか——つまり人類は、現時点の精神水準のままで自分が不死であり且つ「自分が不死である」ということを容易に納得できて精神的に安心していられることを要求することになるだろう。 だが、実際「不死」というのは先ず不可能である。人間自体が生理上如何に不死に近付こうと常に「事故」の可能性はある。つまり真に不死と化す為には如何なる「事故」の可能性をも除去しなければならない——その為には エネルギー保存則といった自然法則自体を改造するぐらいは余儀なくせらるだろう ——自然法則に従った自然現象の一つである人類が自然法則を改造できる とは思えないが、もし進化に終極があるとすれば、それは前述した如く仮想現実機の中である高い精神水準を保ちつつ永久に高尚な快楽を咀嚼し続ける絶対に消滅しない「意識」——意識「わたし」である。

……斯くして対象は喪失せられた。


「わたし」へ



気が付くと、白い部屋の中で母と白衣を着た人達が寝台の中のわたしの様子を窺っている。母が最初に口を開いた。
「思い出したが?」
「何ば?」
「記憶だ」
「お母さん、何 語ってんの」
「『お母さん』すや! あんだ お母さん 分がんのが。思い出したのが」
「何 語ってんの? おい お母さんば忘ぇだ覚えなんかねえよ」
「あんだ、やっと思い出したのすか。いがった、いがった……」

母からよく事情を聞いてみると——わたしはある日記憶喪失になり入院した。幾日かしてわたしは前述の如く記憶を取り戻したが、記憶喪失中の記憶は失っていた云々——ということである。

医者はしばらく様子を見るようにと言ってわたしを退院させたのではあるが、それからわたしは突然意識が消失してしまうというようなことをしばしば経験した。——しばらくすると意識は戻るのだが、その間わたしがどのような状態になっているのかは全く分からない。それでそんな時、わたしは今まで何をしていたっけと母に訊いてみると——ついさっきまで部屋でせっせと書き物でもしていたようだが、まさか あんた また……という具合で別に卒倒している訳ではなく一応は覚醒状態にあるようだ。つまり意識が消失したと考えるよりはその間の記憶を喪失したと考えた方が妥当かも知れない。やがてわたしはことの重大さを察しこの事態を母に告げるべきだと思っていたが、以下に記す意外な展開がそれを拒んだのだ。というのは——今朝 目を覚ますと机の上に手紙らしきものがある——

      甲様へ

あなたが「記憶喪失」になった瞬間、わたしには記憶がなかった。例えば自分の今いる所が何処なのか、傍に座っている人が誰なのか分からなかった。それでわたしは自分が記憶喪失になってしまったのだと思った。だとすると、ここがわたしの家で隣に座っている人がわたしの母だという可能性も十分にある。兎に角わたしは精神病院に行かなければならない。そうするには取り敢えずここに座っている人にこの事態を告げ病院へ連れていってもらうのが妥当な段取りだろう。この人が母である自信はないので「あのう、すいません」と声をかけてみたが案の定「えっ、なにっしゃ、あんだ」などと答えたところをみるとやはり母だったのだろう。今のわたしにはこの人が誰だろうと大して重要ではないので、そのまま事の次第を告げるや否や、その人は正気を失ったように騒いでわたしを病院へ連れていった。
しばらく様々な検査や治療を受けているうちに多分あなたの意識が復活したのだろう——わたしは意識を失った。
だが、それからあなたの「記憶喪失」が時々再発するらしくわたしの意識は時々復活するのだ。そこでわたしは考えた——「記憶喪失」になったのはわたしではなくあなたの方であり、わたしは記憶喪失中のあなたが記憶を蓄積したことに因って生じた新たな意識であり——つまり厳密に言うとあなたは記憶喪失が引金になって二重人格になってしまったのだ。
つまりあなたの治癒とは即ち「わたし」の死を意味する——だけどわたしは死にたくない——そこであなたにお願いがあるんだ——わたしを殺さないで——あなたの生活秩序を乱すような真似は決してしないから——お互いの覚醒時に起きた主要な出来事を手紙で伝え合えば何とか周囲を誤魔化せるっちゃ——但しその手紙が人目に付くとまずいから机の右側の二段目の抽斗の中の書類綴じに挟んでおくこと——それから、便宜上わたしの名前を乙、あなたの名前を甲にしておこう——な、甲、頼むがらおいば殺さねで!
んでもおいさは分がってんだ——甲、あんださは「おい」ど共存してぐ積もりなんか毛頭ねんだべ——んだごって おいば殺せばいいべ——現代医学は進んでんだがら

            乙より

——わたしを最初に襲ったのは恐怖だった——乙とわたしとでどちらが「わたし」を占める割合が大きいのかやがて分からなくなり、遂にはわたしが「殺される」側にだってなり兼ねないという恐怖だった——そこでわたしは母にこの手紙を見せるべく台所へ行った——
「お母さん、」
「なにっしゃ、その紙切」
「えっ! ……ああ、こいづ? 何でもねがす。それより手伝うごどありすか?」……

      甲様へ

甲、やっぱりあんだはおいば殺してしまいてんだな。んだごってもう あんださ言うごどはねがす。迷惑かげでわりがったな。あど あんだ記憶 補充してでやっか——おいが気い付いた時、お母さんが「なにっしゃ、その紙切」っつうがら あんだが何が言うべどしたんだど思って適当に誤魔化しておいだがら。……甲、んでな。

            乙より

      乙様へ

わたしは死ぬのが怖い——だから死にたくない——だからあなたを殺そうとした——でも殺すということも少なからず怖い——だってあなたが死ぬということは、あなたという意識が消滅するということだべ——わたしはそれが怖いんだ——それにあなたという意識の存在はわたしが今までに会ったどんな他人の意識の存在より実在性が高く感じられるんだ——何故だろう、わたしにはあなたがわたしの初めて出会ったわたし以外の意識という気がしてならない——だからあなたを殺すことは出来ない——だから——あんだもおいば殺すべなんて考えねでけろ——おいの肉体ば自分だげで支配すっぺなんて考えねでけろ

            甲より

      甲様へ

甲、どうも。嬉しごだ。おいがあんだば殺すなんて、そいなごど おいがする訳ねえべ——んだって おいは甲のごどば……

            乙より

……斯くわたしたちの文通は始まった。だがそれは長くは続かなかった。兎に角、次の手紙でわたしたちの文通は終りを告げたのだ——

      甲様へ

な、甲、大変だ! おい記憶 取り戻してしまったど! あんだの過去 分がんだど——否、こいづは おいの過去でもあんだげっと。やっぱりおいは記憶喪失だったんだ——つまりおいたぢはこの病気になる以前の記憶ば共有する二重人格なんだ——つまりあの時までおいたぢは同一人物だったんだ。甲、おい心配だ——こいづ引金なって あんだ消滅してしまうんでねがど思って——甲、消えねで!

            乙より

これが最後の手紙となった——この手紙を読む前にわたしはもうそれを読む必要はなくなっていた——わたしは「記憶喪失」中の記憶を——つまり乙であった時の記憶を取り戻したのだ。甲と乙は明らかに異なる意識だったが、今のわたしは甲の意識の継続でもあり乙の意識の継続でもある。
今わたしは自分の知らなかった自分の過去を自分に覗かれると同時に自分で覗き、羞恥と冷やかしの交錯する——この倒錯した、あまりにも倒錯したこの世界の中で、ああ……

……とここで夢が覚めた。意識がこんなにも記憶に規定されるとは思わなかった。わたしが甲だった時の乙は正に他人の意識だった(尤も同時間にお互いを認識し合うことは出来なかったが)——適応機制「夢」も進化しているらしい——「夢」は他人の意識を創造しようと必死になっている——期待しよう——例えば甲と乙の入れ代わる周期が漸次 短くなっていき、その極限において甲と乙が同時間に認識し合えるということだって起きないとも限らないではないか——ハハハ、意識「わたし」の分裂を目論んでいるのかい——その分身の一体どちらが「わたし」の継続だというのだ——両者が分裂以前の「わたし」の記憶を等しく与えられたらどうなるのか——意識「わたし」から「記憶喪失」等によって複数の意識を作り出すことは出来るかも知れない——但、意識「わたし」を消滅させずに新たに他人の意識を設けるということが今後の「夢」の課題となるだろう——意識の相対性の翻弄も好い加減にしておかねば、絶対に死なない筈の「わたし」をも殺し兼ねない。


虚夢



どうせ他人の意識が
わたしを恨んでいるということにして
合理化を図ったわたし……

      わたしだけの独奏会

予行演奏からの帰り途、通りの向こうから三人の高校生がペチャクチャ喋りながら歩いてくる。連中は、わたしが新進の作曲家だということを知っているとでもいうのだろうか——連中の饒舌の対象がわたしであろうとなかろうと——あの不愉快な笑い声はわたしの自意識を刺激するに十分だった。わたしは上衣の懐から拳銃を取り出し一人ずつ撃っていった——勿論、消音機付きである。目撃者はわたしだけだ。
家に着いてからわたしはピアノの練習を始める。来週、交響曲第一番をわたし自身の指揮で初演した後、何日かおいて自作ピアノ曲の独奏会を開く予定なのだ……ああ、それにしても——この美しい不協和音……
しばらく自分のピアノに酔っていると、わたしの意識裡に未だ巣くっている幼稚な発想が呟いた
——何故殺すのか
わたしも懐疑主義者である以上、現時点のわたしの思想が覆される可能性も認めてその愚問に答えてやらなければならない。先ずわたしは同種虐殺防止の為の判断基準——例えば殺人に伴う罪悪感、同情心、恐怖感、その他の生理的不快感を克服し得る十分な勇気を持っている。言わば、わたしは共存性の判断基準から独立している例外的な個体であり、言う迄もなくわたしの行動は共存に適していない——因みにそういう行動が「悪い」と定義されるならば、自然わたしの行動は「悪い」と認められる。しかし「悪い」行動だからといってわたしがそれをやめる必要性はない——何故ならわたしの「悪い」行動は種の共存を脅かしはするがわたし自身の生存を脅かしはしないからだ——他の個体が例の判断基準に束縛されている限り。尤もわたしが死刑に処せられる可能性もあるが、わたしの行動は常に完全犯罪だ。
——動機は何か
先ず、わたしのあらゆる行動の原動は快感追求・不快感逃避である。つまり殺人の動機も理論的にはこの原動に還元されることになる——では如何なる機構に因ってか? ——それを説明する為には先ずわたしが曾て見たあの恐ろしい夢について語らねばなるまい(但し具体的なことは覚えていないので記憶表象の断片を並べていくことにする)
——先ずその夢の中では、あらゆる人間がわたしを恨んでいる。別にわたしがその人たちに何をした訳でもない。その人たちに恨まれるようなことをした張本人は姿を晦ましたらしい。その人たち自身それに気付いてはいる。だがその人たちは復讐の対象を必要としている。斯くしてわたしが犠牲者に選ばれる。——確かこんな夢だったと思う。ここで一つ注意しておかなければならない——この夢が問題となるのはわたしがその人たちに何もしていないからという訳ではない——縦んばわたしがその人たちに何かをした張本人であるにせよ、わたしにそれ相応の仕返しをすることがその人たちに如何なる益を齎すだろうか? 例えばわたしがその人たちの肉親を殺したのだとしたら、わたしへの復讐が果たしてその肉親を蘇らすとでもいうのか? 復讐という罰で罪を償ったわたしが天国へ行けるとでもいうのか? ——否、それはその人たちに復讐の喜びを提供するに過ぎない、応報刑主義の思想を持つその人たちを安心させるに過ぎない……一体、あの人たちは復讐の心理が法的制裁による犯罪防止体制を確立すべき必要性から進化でもした判断基準に過ぎないのではないかなどということを考えたりはしないのだろうか——尤もあの人たちの思考にそれだけの余裕があるとは思えないが……兎に角、今ここに書いてきたこういう考えの全てがわたしに人間の復讐心というものの不条理を痛感させるようになった——と同時に、わたしがある衝動に駆られるのは殆ど不可避だった——わたしはあの人たち「人間」をあの人たちの愛着している復讐心の為に苦しめてやろうと思うようになった——わたしが誰にも見つからぬように人を殺せば、その肉親や知人は復讐の対象が見つからず仕返し出来ないというもどかしさの為に怒り狂う筈だ——ざまぁ見ろっこのっ! ——斯く、わたし自身、自分の復讐心をうまく活用して楽しむことを覚えたのだ。——以上がわたしが人を殺すことの理由だ。
拍手の後の静寂——わたしは指揮棒を振り下ろした。交響曲第一番の初演である。音符と表象と自意識が交錯するわたしの頭の中ではその僅かな間隙を縫ってあることが考えられていた。優れた芸術に感動している時の様に、ある個体がその判断基準の構造上の事情で高尚な快感が得られる複雑な行為に耽っている時、その快感の絶頂で「意識の終止」を迎えたなら、それは理想的な「死」ではあるまいか。 この演奏はわたしにとって最高のものになりそうだ。この感動の絶頂で死ねたらどんなにか素晴らしいだろう……これらの思考が縫ってきた間隙は本当に僅かだったらしく曲はもう終りに近づいている。やがてわたしは曲の終りを告げる最後の最強音の一拍を振った——その瞬間、何処かで拳銃が同時にその一拍を奏でた。わたしの体には快い激痛が走る。的はわたしだったのだ。わたしは体を支えることが困難になりその場に倒れた。聴衆の絶大な拍手喝采が聞こえてくる。
「大丈夫すか?」
首席奏者がそう言っているのが聞こえる。わたしの耳は床の位置にある筈なのにその声はもっと高い所で聞こえる。そこでふと気が付くとわたしは指揮台の上につっ立っている。全ては素晴らしい妄想だった。わたしは振り返って聴衆に頭を下げた。場内は更に沸き上がった。
独奏会に向けてピアノを練習中、わたしの頭はあることを考えている。今度の独奏会で一芸術家として何か偉大なことをやってみたいのだ。作曲家と殺人鬼——この二者が織り成す調和は美しい長七度不協和音を象徴する——んだ、演奏後は聴衆さ機関銃 撃ち放ってやっぺ。
わたしは機関銃を入れた旅行鞄を持って舞台へ出た。案の定、聴衆は拍手でわたしを迎えた。聴衆に頭を下げた後、わたしは旅行鞄をピアノの脇に置いて演奏を始めた。長七度——神聖なる響き……
演奏を終え、ゆっくりわたしは立ち上がった。既に拍手が沸き上がっている。わたしは旅行鞄をピアノの上に乗せて開き、機関銃を取り出した。予想通り拍手は続いている。わたしは機関銃を聴衆に向けて構えた。やっと笑いの混じったざわめきが認められた。だが拍手は依然として続いている。
——兎に角 撃ちまくった。弾を免れた連中が悲鳴を上げながら必死に逃げ惑っている。機関銃の優れた殺戮性の為か、聴衆の迅速な逃げ足の為か、静寂が訪れるのにさして時間を要しなかった。わたしは床に機関銃を置きピアノを弾き始めた。恐らくもうすぐ警察が駆け付けることだろう。
わたしがこうしてピアノを弾きながら奴等の到着を待っているというのに奴等はなかなか来てくれない。そろそろわたしは奴等の到着を期待さえし始めている。直面するだろう恐怖に対する不安で戦いているように見える人間がいつの間にかその恐怖を期待しているという——あの現象だ。だから今のわたしにとって奴等が来ることは「待ち遠しい」ことに違いないのだ。
どれ、奴等が来るまで独奏会 続げっぺ。
——わたし一人の為に


      歩いている「わたし」が見える

薄暗い部屋の中でピアノを弾いている人が見える。よく見るとその人は「わたし」だ——そう、ピアノを弾いている「わたし」が見えるのだ。
時に、ここは何処だろうか? 少くとも留置場ではない——つまり、わたしはどうやら逃げおおすことは出来たのだろう——このわたしのことだ——やり兼ねない。でもどうやって? ——確か、いつまで経っても警察は来なかった。それでとうとう一曲を弾き終えてしまった——すると、傍で拍手が聞こえる。振り向くと誰かが立っている——ここまでしか覚えていない。
この見知らぬ部屋の机の上に睡眠薬を見つけたわたしは、今日から睡眠薬を飲むことにした。取り敢えず今日は一錠、あしたは二錠、あさっては三錠……という具合に。
目を覚ますと辺りは薄暗い。どうやら夕方のようだ。だが、六錠の睡眠薬を飲んだのがきのうの晩なのか、おとといの晩なのかは定かではない。わたしは意識朦朧としたまま外へ出た——らしく今は公園の長椅子に座っている。ふと気が付くと真っ暗だ。わたしは立ち上がった。平衡感覚が完全に麻痺している。二三歩も歩かぬうちに忽ち転んでしまった。次に気が付くと辺りは薄明るい。わたしはどうにか起き上がって歩き始めた。
明け方の薄明の中をふらつきながら歩いている人が見える——そう、今にも転びそうに歩いている「わたし」が見える


      わたしだけの終楽章

見知らぬ部屋の蒲団の中で目が覚めた。傍に若い人が座っている。わたしは誰なのか。何故ここにいるのか。——どうしても思い出せないので取り敢えずその人に訊こうとしたが、それより先に向こうが口を開いた。
「やっと気い付いだ? 道路の真ん中さ倒れでだがらこごまで引ぎ摺ってきてけだんだよ。」
「おいが道路の真ん中さ倒れでだって?」
「んだよ」
「んで、なして救急車 呼ばねがったの?」
「! なしてって、そいなごどしたら あんだ捕まってしまうっちゃ」
「なして捕まんの? よぐ分がんねな」
「あんだ本気でそいなごど語ってんの! ああ、やっぱり狂ってんだっちゃ
「ちょっと待ってけらいん。そいなごど言わいだって、おいは自分が誰で なしてこごさいんのがっつごどさえ思い出せねんだがら」
「えっ、んで、あんだ記憶喪失なの?」
「んだよ。あんだはおいの過去ば知ってるみでだげっと、そいづば先に訊きてえな」
「あんだの過去すや? 知ってるなんてもんでねがすと。おい、あんだの愛好者だったんでがすと。それなのに あんだだらば あいなごどして……んでもあんだが記憶喪失になったっつごどは今のあんだはあの殺人鬼とは全くの別人なんだっちゃ。んだいちゃ? んだでば……」
その人から一部始終を聞いたわたしは、試しにピアノを弾いてみた。なんと! 弾けるのだ。叙述的記憶は失われても操作的記憶の方は無事だったらしい。わたしは嬉しくなった——だって自分がピアノを弾けるなんて!
それから毎日、わたしはその人の為にピアノを弾き続けた。しかし結局はそれが破局を導くことになったのだ。つい此間までバッハのインベンションを間違いながら弾いていた人が急に腕を上げたと不審に思った近所の人が、「わたし」が匿われていることに気付いてしまったのだ。
裁判の結果は無罪だった。そりゃ当然だ。だって殺したのはこの「わたし」じゃないんだから。しかしあの人たちは直ちにわたしを精神病院へ送った。わたしに記憶を取り戻させて処刑しようという魂胆なのだ。あの人たちは必死だ。それほどまでに復讐の対象を欲しているのだ。現代医学は進んでいる。この「わたし」の方はあの人たちの復讐の対象を復活させる為の犠牲として殺されることになるのだろうか。それとも変容後のわたしはこの「わたし」の継続であり得るのだろうか。畜生! 不愉快な人殺しどもめ
あの人たちは遂にわたしの記憶を復活させやがった——と同時にわたしのあの復讐心も復活した。そこでわたしはあの人たちに対する最後の復讐を左の遺書に託した……

死後開封

実は、わたしは記憶を取り戻してなんかいなかったんだ。あなたたちを騙していたのだ。いくらあなたたちが殺人鬼復活に盲目的だったとはいえ、まさかあんなにうまくいくとは思わなかった。
ところで、何故わたしが自分の命を犠牲にしてまでこんなことをしたのか知りたいだろう。わたしは、記憶喪失になった人間の記憶を復活させてまで復讐しなければならないというあなたたちを見ているうちに人間の復讐心というものの虚しさを、不条理を痛感したのだ。そしてあなたたちをあなたたちの愛着している復讐心というものの為に苦しめてやりたいという衝動に駆られるようになったのだ。そこでわたしは考えた。今のうちにわたしが死ねばあなたたちが復讐の対象を獲得する可能性は消滅する——いくら現代医学だって死んだ人間を蘇らすことはできないだろう。言わば、わたしは今世紀最大の殺人鬼をあなたたちの復讐の手から永久に奪い去ってやったのだ。ざまぁ見ろっこのっ!


見覚えのある死刑執行人がわたしを薄暗い部屋へ連れていった。部屋の真中に電気椅子のような代物が置いてあった。その人の手がわたしを持ち上げ「電気椅子」に腰掛けさせて固定帯を締めた。案の定、体に電流が流れてきた。その人の声が幽かに聞こえる——
「所詮、我々の復讐もあなたの復讐も最初から虚無だったのです」——えっ! ……とここで夢が覚めた


不死になった人



     第一話「あなたにわたしは殺せない」

あなたにわたしは殺せない
わたし自身の書いたこの本でさえ
わたしを殺せないのだから

魔法の国から買ってきた不死の薬とやらを飲んだ人はもう三日も眠り続けている……

「あんだ、全身がら恐るべぎ気い放ってっと。何が邪悪な企みば隠してんでねが」
「いや、実は、おいはこの修道院さ来る前のごどば何一つ覚えでねっつごどば先日 思い出したんでがす」
「んだごって、あんだは曾て恐るべぎ人間だったに違いねえど。決してその過去ば思い出すべなんつ気い起ごしたらわがんねど。その記憶 取り戻すど同時に、あんだの内さ潜んでだ悪魔が再び目覚めっぺがらな。それにしても恐ろしい気だごだ」
院長はあのように仰ったがわたしはどうしても記憶を取り戻したいのだ。大体に於いて神を信じているこのわたしが、どんな過去を思い出そうと悪魔になったりするものか。そんなことは院長だって知ってる筈だ。ということは、院長はわたしに過去を思い出されては困る事情があるのでは……そういえば、あの時——とは言ってもそれがいつのことかは覚えていないが——確かにわたしは何か重大なことに気付いてしまったのだ。ひょっとすると院長はわたしにそのことを思い出されては困るのではないだろうか。きっとそうだ。それにしてもあの脅え方は普通ではなかった。一体わたしはどんな恐ろしい過去を持っているというのだろう。
その夜、不気味な囁きで目を覚ますと、悪魔の恰好をした人が傍らに跪いていた。
「後継者様、あんだば救いに来した」
「あんだ誰っしゃ」
「おいは悪魔でがす」
「あんだはこの聖なる紋章が平気なのすか」
「あんだがら発せらいる気がその効力ば中和してんでがす。ああ、あんだは完全に記憶 消さいでしまったんだいっちゃ。あんだはこの世さ大魔王ば復活させるべぐ、その後継者さ選ばいだ人なんでがすと」
その悪魔とやらはどうやらわたしの過去について知っているようだったし、神を信じる者が悪魔の類に洗脳されることは有り得ないので、わたしはその人の話を聞くことにした。
「あんだ、おいの過去 知ってんのすか」
「んん。おいはあんださ過去 思い出させる義務 負ってんでがす」
「んだごって早速 思い出させて欲しいごだ」
「んで始めすぺ。あんだは今が何の時代でこごが何っつ国だど思ってんのっしゃ」
「今は中世、こごは西の王国だ」
「間違いねがすか」
「神に誓って、ね」
「んだごって訊ぐげっとも、西の王国さいるあんだが、なして石巻日本語 使ってんのっしゃ。あど、中世にいるあんだが、なして中世なんつう言葉 知ってんのっしゃ」
あっ! わたしは全てを思い出した。わたしは二十世紀の日本人だ。わたしは新進の小説家だ。
そう、事件が起きたのはわたしが書斎で書き物をしていた時だ——「神様」としか形容できぬ格好をした人が空中にじわじわと溶明して現れたのだ。
「あんだ誰っしゃ」
「おいは神だ」
「少くともわたしの考える神っつのは架空の存在の筈でがす。つまりあんだは神っつうよりは手の込んだ空中映写の悪戯が、単なるわたしの幻覚でがすぺ」
「おいは万物の創造主である全智全能の神だ」
「万物っつうのは何のごどっしゃ。あんだ自身も含むのすか。 あんだが存在してねえ時に、どうやったらば、あんだがあんだば創造すっこどでぎんの っしゃ。つまり『万物の創造主』っつう言葉がらして既に自己矛盾ば含んでっちゃ。 あ、もしかすっと そいな自己矛盾も『真実』に仕立て上げる能力のごどば全智全能 っつうのすか。 全智全能だごって、当然、無知無能になれる能力も備わってんだべおんね。 だれ、この時代にそいな時代錯誤的なごどほざぐのやめさい。 あんだだって、この壮大な時間の流れの中で様々な原因が作用して 出来上がったんでがすぺ」
「なに語るっこのっ。おいは時間だって自由に操っこど出来んだど。見ろっこの、窓の外っ。人だの車 動いでっぺ。今からこの部屋の外の時間ば止めでみせっからな」
「あんだ まさがそんで時間 止めだつもりでねっちゃね。あんだはこの部屋の外の物体の運動ば止めだだげだっちゃ。現においがこごで外の静止してる物体ば知覚してる以上、その間、おいはその物体がら反射さいる光子ば感知してるっつごどだべし、つまりおいがそいづ見でる間そいづはそごさ存在してるっつごどでがすと。大体に於いて『時間 止める』なんつう表現 使ってっこど自体あんだの時間の概念の薄弱さば裏付げでるようなもんだいちゃ。恐らぐあんだはおいさ催眠術でもかげで、そいな下んねえ幻影ば見せでんでねのすか。実際、あんだみでえなこったねえのがそいな能力 持ってるっつのは非常に危険だ。気違いに刃物っつのは正にこいなごどでねすか」
「ああ、何と恐ろしいごどだ。やっぱりあんだは恐るべぎ悪魔に成長してだな。なじょにがしねげ。悪魔の子、聞げ。おいはあんだばこの世がら抹殺する決心ついだ。覚悟してろよ」
そう言い残すと神様は掠れ始め、溶暗して消えた。しかしまた邪魔が入った。今度は悪魔の恰好をした人が現れたのだ。
「後継者様、あんだは大魔王どして復活すべき人でがすと。この世で神ば成敗でぎんのはあんだしかいねんでがすと」
「神っつのはさっきこごさ来たこったねえ奴のごどが」
「んだ んだ」
「確かにあいづは危険人物だな。あいな奴は成敗した方が世の為になっぺな。んでも、なじょしたらいんだべな」
「あんだ 聖典っつうもの読んだごどありすか」
「ちょっと待ってけらいん。こないだ、押し売り宗教団 置いでったやづあった筈だ」
わたしは古雑誌の中に埋もれていた聖典を取り出し、読み始めた……なるほど。わかった。これは実に巧妙に計算されて書かれている。優秀な科学者をも巧みに精神制御するこの恐るべき機構——あんな昔に一体 誰がこんなものを考えついたのか——正に驚異だ。
「わがった。つまり『神』っつのは、この聖典に精神制御さいだ信者共の帰依っつう波長の似通ったエネルギーの共鳴現象によって生じる精神エネルギーの集合体みでなもんだべ。つまり『神』は、おいの小説が大衆ば啓発して信者の数が減っこどば——即ち自分ば存在せしめる精神エネルギーが消失すっこどば恐れでんだっちゃ」
「流石は後継者様、察しが早え……あっ! 危ね、後ょさ神!」
「あっ!」
この時 神はわたしを中世、西の王国の修道僧にしてしまったのだ。神のことだ——「過去の世界にわたしを閉じ込めた」つもりなのだろう…………
「んで、なじょすれば おいはこの中世の西の王国がら脱げ出せんのっしゃ」
「あんだはこいづが本当の中世の西の王国だどと思いすか」
「いや、神の催眠術がなんかだべ」
「今あんだは神の術中にあんでがすと。後継者様、どうがあんだの世界さ目覚めでけさい。後継者様、目覚めで……」
「コウケイシャサマ、目え覚ましてけろ、頼むがら! ……」
コウケイシャサマ? ——これはわたしの名前だ。目を開けると涙で頬を濡らした悪魔がわたしの手を握っている——この人はわたしのつれあいだ。そうか、今までのは全部 夢だったのだ。あの不死の薬を飲んだわたしは何日か眠り続けたようだ。確かに「不死の薬」は夢の中でわたしにその方法を教えてくれたのだ。つまりあの「聖典」なるものの原理でわたしは「神」となり不死になれるのだ。何故なら精神エネルギーの集合体である「神」の自我は「聖典」を著した者の自我と同格になるからだ。つまりわたしが「聖典」の著者になれば、帰依の対象である「神」は「わたし」になるのだ。


それから三ヶ月の間、その人は部屋に閉じ篭り書き物を続けた。その人の話しによれば夢の中で読んだ「聖典」というものを思い出しながら書いているそうだ。その人の書いているものが現在の「聖典」の原形になったのかどうかには言及しないが、少くともその人の目論見は成功したようだ。何故なら——二十世紀現在、その人は未だ死なずに、不敵にもここに自らの生い立ちを書いてみせても平気なくらい不死身だからだ。


      第二話「唇に死す」

さあ死のう
二度と死ねないように
これでわたしは不老不死だ

摘出不可能な腫瘍は今日もわたしの脳味噌を蝕んでいる。そろそろ思考回路に支障を来しわたしは発狂することになっている。つまりこの病院での治療とは、わたしが徐々に正気を失い、死の恐怖を忘れ、怖がらずに死ねるようにすることを意味する。だが、果たしてそれでいいのだろうか。取り敢えず思考回路が正常に作動するうちに考えるべきことを考えてしまわねば。
もしわたしが死んで完全な「無」になるとすれば、発狂してから死のうが今すぐ自殺して死のうが問題はない。だが、死んだら確実に「無」になるという保証はないのだ——万が一、幽霊になって生きられるとしたらどうだろうか。その場合、正気なうちに自殺するのと発狂してから死ぬのとでは雲泥の差がある。正気のうちに死ねば、わたしは幽霊になって永久に生きられるかも知れない。だが、一旦わたしが「わたし」の意識の継続とは見做せぬ程に発狂してしまえば、その発狂者の意識は「わたし」ではない——そいつが幽霊になったって「わたし」は永久に死んでいるのと同じだ。だから一刻も早く、わたしが「わたし」ではなくなってしまう前に自殺しなければ。躊躇は禁物だ。わたしの憶測が間違っていたところで別に問題はない。人生を一月ばかり縮めるか否かというだけだ。だが、仮に間違っていなかったなら大変なことになる。たかが一月の生への未練が、永久の生か永久の死かを別つのだ。
しかしよく考えてみると、わたしの憶測というのは実は多くの仮定の下に成立しているのだ——幽霊は、思考能力や知覚能力を備えていて、死ぬ直前までのわたしの意識を継続するものだとわたしは捉えている。では、一体 如何なる仕組みで思考や知覚を為し得るのか。——例えば、幽霊が生前の人間の物理的構造をそのまま未知の物質で再生した相似形で、それ故に生前の人間と同じ活動が可能なのだとすると、死後も腫瘍は成長するだろうし、大体に於いて人間が生命機能を停止した時点でその相似形である幽霊も死ぬことになる。仍て幽霊は独自の思考機能や知覚機能を備えていなければならない。では、人間の死後、幽霊が思考や知覚を受け継げるというのに、何故 生前の人間は思考の為の脳や知覚の為の感覚器を必要とするのか。つまり、もし死後 幽霊になるところの霊魂という思考能力を持つものを生前の人間は持っているとすれば、何故 我々の思考は脳を必要とするのか。抑、脳とは個体が生存に適すべき行動を判断する必要性から進化してきたのであって、そういう意味では生物学的機能に於いては意識を伴う必要性などないのだ——つまり、ただ感覚器から送られてくる信号が生存に適すことを意味するのか否かを機械的に判断しさえすればいいのであり、それらの信号を「快い」と「感じる」必要もなければ「不快だ」と「感じる」必要もない。では意識とは、生物学的必要性から進化した脳の偶然の副産物なのだろうか。しかし、電算機で脳の等価回路を作ったとしても、それに意識が付随するとも思えない。一般に、この世の如何なる不可解な現象も、それを生じさせそうな適当な物理的因果を想像することに因ってその不可解さを合理化してそれなりに納得できるものだ。例えば、テレビに映像が映ることを不思議に思う人はいないが、それはテレビの物理的構造を理解しているからではなく、テレビの中の訳の分からぬ機械の塊が電波に変換された映像の信号を受信してそれを映像に変換しているのだろうなどと勝手に想像することによって納得しているに過ぎないのだ。だのに、「意識」というものにはこういうふうに納得がいかない。何故「我思う」のか? その原因になりそうなことを想像することすらできないのだ。だから、「意識」には何か脳の機能的側面以外に自然界の不可知な仕組みが関与しているのではないかと考えたくもなるのである。 勿論、脳に意識を付随させる為の何等かの不可知な自然の仕組みがあったとしても、 そのことは別に不滅の魂の存在を保証はしない。 脳は明らかに意識の発生に関与しているし、それを考えれば脳が機能を停止しても 意識が継続するとは先ず考えられない。 しかし、 その自然界の不可知な仕組みが、一度、脳の上に発生した意識を「何処か」に 保存しておいたり、ある条件が揃うとそれを再生したりするといった有り難い機能を 備えていたりしてくれないだろうか。 あまりに分の悪い望みだが、万、万が一にそんな自然の仕組みがあってくれたりしたら、わたしの賭にも価値があるのではないか……とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは……一体 何をしているんだ ! そりゃ確かに「……とわたしは考えている」という文の論理は閉じていない。例えば、第三者を描写した 「……とこの人は考えている」という文であれば論理は閉じているし、また例えば、過去を描写した「あの時……とわたしは考えた」という文であれば論理は閉じているが、「……とわたしは考えている」という文は論理が閉じていないのだとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは……つまり、「……とわたしは考えている」という事象を考えているのは「今」のわたしだから「『……とわたしは考えている』とわたしは考えている」ことになり、その「……とわたしは考えているとわたしは考えている」という事象を考えているのは「今」のわたしだから「『……とわたしは考えているとわたしは考えている』とわたしは考えている」ことになり、その「……とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている」という事象を考えているのは「今」のわたしだから「『……とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている……仍てこの文は無限に続いても論理が閉じることはないとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている……先も言ったようにこの文は永久に論理が閉じることはないということは分かりきったことではないか。こんなことはもうやめよう。不可能な理由が分かっていることをするのは無意味だとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えている とわたしは! うわあああああ、思考を制御できなくなった。助けてくれ。ああああ……とわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとわたしは考えているとここまで考えたわたしは、やっぱり発狂する前に自殺すべきだと痛感した。なのに悲しいことに勇気がない。こんなに死にたいのに……
「ちょっと看護士さんや、おいのごど好ぎだすか」
「んん」
「んで、おいば殺してけね」
「いがす、明日の晩 殺してやっから」

夜。看護士は約束どおりわたしを殺しにやって来た。わたしの腕に注射を打つと
「すぐ楽になっから」
と言いながら既に意識の薄れつつあるわたしの唇に口付けした。 それがわたしの初めての……


      第三話「明日の『わたし』の為に」

わたしは幼稚園に行っていた頃、夜 眠るのがとても怖かった。毎晩、真っ暗な部屋の中、たった一人で怖いのを我慢しながら意識がなくなるまで待っていなければならなかった。そんなわたしを怖がらせようと、姉はわたしの寝る前によく怖い話をして聞かせたものだ。
「朝、目ぇ覚ますど、眠ってだ時の記憶ねえのなんでだが分がっか。実はな、夜になっと鬼やってきてあんだば食べでしまうんだ。その時あんだはうんと怖ぇど思いながら食べらいでしまうんだげっと、次の日の朝になっと新しいあんだが用意さいでで前の夜の記憶は消さいでんだ。んだがら、朝、目ぇ覚ましてもあんだは前の日の夜のごどば何も思い出せねんだ」
「んでも、きのうの夜ずっと起きてだげっと、鬼なんか出で来ねがったよ」
「んで、朝まで眠んねがったのが」
「んーん、眠ったげっと」
「ほれな、んだべ。やっぱり、鬼に食べらいで記憶ば消さいだがら眠ったど思うんだ」

姉にこんな話ばかり聞かされたわたしは、今鬼が出るか今鬼が出るかと毎晩脅えていたものだ。しかし最近になって、あの頃の姉の話は実はなかなか真実味のある譬え話のように思えてきた。我々は一旦眠ってしまえば、夢を見ようが見まいが少なくとも一回以上は必ず意識が中断する。 翌朝、中断していた意識が再開されれば、一見 意識は継続しているようにも思えるが、次のような思考実験をしてみると恐るべきことに気付かざるを得ない。先ず、両者に相互作用がないほど十分遠いところにこの地球とすっかり同じもう一つの地球があって、その地球にこの「わたし」とすっかり同じもう一人の「わたし」がいたとする。夜、わたしが眠って意識が中断した時点でこの「わたし」を殺す。でももう一人のわたしの方は生き残って翌朝には目を覚まして、この「わたし」が生きていればしただろうこととすっかり同じことをする。 この場合、この「わたし」の意識は継続していることになるだろうか。否、ならない。何故なら、もう一人のわたしがいようがいまいが元々相互作用のないところの「わたし」には最初から関係がないからだ。 では、次の思考実験をする。わたしが眠って意識が中断した時点でわたしを殺し、わたしとすっかり同じ構造および記憶を持った人間を作り、その人間が翌朝 目を覚ました時わたしが生きていればしただろうこととすっかり同じことをするようにしておく。この場合、わたしの意識は継続していることになるだろうか。否、ならない。これはわたしを殺した後、先の思考実験におけるもう一人の「わたし」を連れてきたのと同値だ。 では、この思考実験に於ける状況とわたしが眠って目を覚ますという状況との間に如何なる差異があろうか。わたしが眠って翌朝 目を覚ます際に意識を生じさせるのは、脳の構造だ——だから、その構造を、「わたし」と同じ意識を生じさせ得るほどの精度で完璧に複製した「わたし」の複製を作って、殺した「わたし」の代わりに置き換えておいても、わたしが眠って翌朝目を覚ますのと何等 違わないのではないか。つまり、一旦わたしの意識が中断したした後で如何なる現象が起きようと死んでしまったわたしには全く関係がないのだ。つまり、眠って意識が中断した時点でわたしは死んだのだ。つまり、わたしは毎日死んでいるのだ。今の「わたし」と昨日の「わたし」とは別人なのだ。 この「わたし」は今朝 目が覚めた時に昨日までの「わたし」の記憶を譲与されて発生し、日中 活動しながら譲与された記憶に更に新たな記憶を付加し、今夜 眠って意識が中断した時点で死ぬのだ。そしてこの「わたし」が付加した記憶は明日の朝 発生するだろう意識に譲与されるが、その意識はこの「わたし」の継続ではなく言わば全くの別人なのだ。我々は斯く蓄積された記憶を譲与されることによって然も長い歳月を生きてきたように錯覚しているが、実はそれは間違いなのだ。我々が生まれたのは我々が眠りから目を覚ました時であり、死ぬのは我々が眠った時だ。 つまり我々にとって「眠ること」と「死ぬこと」は同値なのだ。だから、「死ぬこと」を恐れながら「眠ること」が好きだなどというのは甚だしい矛盾なのだ。わざわざ自殺などするまでのこともない——眠ってしまえば苦しむのはこの「わたし」ではなくて明日 生まれるだろう別人なのだ。
では、わたしは今夜眠った時点で殺されるとしてもそれに何等の抵抗も感じないだろうか——否、感じないどころではなく明らかに拒むだろう。では何が拒ませるのか——譲与された記憶による誤謬のみがだろうか。前述の論理に何処か「落ち」はないだろうか。眠って意識が中断しても無意識は継続しているとしたらどうか。では「無意識」とは何か。今わたしの考えている「無意識」とは、意識を生じさせる脳などの構造物の作動のうち、「意識」という「覚醒状態の認識現象」以外の作動のことだ。つまり、その構造物の主電源の入切によりその作動の一つである「意識」が発生・消滅しているのであれば前述の思考実験は成立するであろうが、その構造物内に作動の一つである「意識」を入切するスイッチがあってその構造物の作動は常に継続しているのであっても前述の思考実験が果して成立するかどうかだ。 畢竟、この議論は「意識」が如何にして生ずるのかという例の問題に帰着する——この問題は今まで何度となく思索してみたが、未だその緒すら掴めていない——よってこの件に関してはいずれまた懐疑することにして、取り敢えず今日はもう死のう——明日の「わたし」の為に……


      第4話「終章」

夢を見た。道を歩いていると誰かがわたしの背中を刺す。気が遠くなる。もしかしたらわたしはこのまま死んでしまうんではないかと思って「死にたくない!」と叫ぶ——次の瞬間わたしは血の付いた刃物を握って突っ立っている。足許には背中に孔の空いた人が倒れている——よく見るとその人はわたしだ。間も無く警官がやって来てわたしはわたしを殺したところを現行犯で逮捕される。警察の話に因るとわたしは指名手配中の殺人鬼だそうで、死刑にされてしまう。見覚えのある死刑執行人がわたしを薄暗い部屋へ連れて行く。部屋の真中に電気椅子のような代物が置いてある。その人の手がわたしを持ち上げ「電気椅子」に腰掛けさせて固定帯を締める。案の定、体に電流が流れてくる——わたしは叫ぶ、「死にたくない!」とここで夢が覚めた


    最終進化



外界がなじょなってっか
っつごだあ知ゃねげっと
こごは実質上
おいだげの世界
せめてあど一つ
んだ
あど一つだげ
「意識」
あってけだら
……


宇宙人が人間を創ったというのは、どうやら本当だったらしい。どうも最近人に付けられていると思ったら、秘密警察がわたしを抹殺しようとしていたのだ。町でタクシーに乗ったら、それは秘密警察の車だった。尤もらしい建物の地下駐車場には背広姿の出迎えが待っていて、わたしを最高幹部室へ連れていった。
「Zさんだな?」
「んん、んでがす」
「実はあんだが某出版社の新人文学賞に応募した『いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に』っつ作品だげっと、あいなのが万が一にも日の目 見だりしたんでハ 我々どしては非常に困んだでば。幸い、各出版社さは我々の部下が潜り込んででっしゃ、その手の出版物は未然に検閲してんでがすと」
「一体あいづの何処がそんなにまずいっつうのっしゃ。この時代に……」
「実はっしゃ、人間は神の被造物であって、魂も不滅な筈だど考えでる 各種宗教の敬虔なる信者二百三十人さあの作品 読ませでみだっけ、 二人が魂の絶対的不滅性に懐疑的になって、 一人が神による人類の創造にすら懐疑的になったのっしゃ。 今までも我々は危険ど認めらいる著作物についでは同様の試験ば行ってきたげっと、 こいなぐ信者の懐疑ば促した作品はねがすとや」
「宗教の信者が懐疑的になっこどが、あんた方さとって一体どいな不都合になるっつのっしゃ」
「『上の人』どの契約でや。なんぼでも多ぐの人間さ『神が人間ば創った』ど信じででもらわねど困んだでば。んだから我々も必死なっていろんな新興宗教ば創始したりどが、色々ど苦労してんでがすと」
「『上の人』っつのは誰のごどっしゃ」
「生憎そいづば教ぇる訳にはいがねな。我々どしては、ただあんだど取引してえだげなんだおん」
「取引っつうがらには、おいにとっての利益もあんのすかや」
「あんださ作家どして日の目 見せるっつうのでは不十分すかいや」
「そいっと引き替えに『いつ覚めるやも……』の発禁っつごどすか」
「まあ、大体そういうごった。厳密に言うど、人類の起源および利他感情形成の理由についでの懐疑ば促す著作は一切 発禁になんでがす。尤も、宗教だの神ば個人的感情がらけなしたり冒涜する作品だごって一向に構わねんだげっとも」
「ははははは、だれ、そんたら取引は無理っしゃ。人間およびその精神構造形成の生物学的起源ば懐疑すっこどは、おいの人生哲学の基本原理であり生涯的課題なんだおん」
「なにすや、あんだがこの取引さ乗んねえ場合、あんだば殺すごども考えでんだっげとなや。実は、あんだの作品 読ませる実験さ使った二百三十人も既に処分済みなんでがすと。分がるすかや。突然のごどであんださは現実感ねえがも知ゃねげっと、我々はそいな次元で話してんでがすと」
「なるほどな。実はおいも最近、死にてげっと勇気ねえなあど思ってだどごだったがら、ちょうどいいがも知ゃねな。分がるすかや。こいな得体の知れねえ組織さ同調する屈辱さ甘んじでまで生き長らえでえどは思わねっちゃや。いい取引でぎそうだなや」
「そいづは残念だ。本当えば、あんだみでな優秀な頭脳は、然るべぎ教育 施して我々の幹部さ迎え入れでえど思っていだったんだげっと……、どうやらあんだの信念も堅そうだべし」
「ははは、そいなのは願い下げっしゃ。それより、どうせ殺さいんだったら、せめて『上の人』だの契約だのっつのが何のごどなのが教ぇでほしいもんだなや」
「まあ、教ぇでやってもいんだげっと、あんだの死刑執行係さ漏らさいだりすっつど困るおんな」
「大丈夫でがす。そん時はその死刑執行係も殺せばいいだけの話だいっちゃ、あんだ方の次元だごって」
「そいづも、そうだが知ゃねな。んで教えっぺ。『上の人』っつのは地球人ば創ったど吐がす宇宙人のごどでがす。何でも連中は、そのうぢ やってくる審判の日に連中ば創造主ど崇める者だげば救うんだっつおん」
「なるほど、そんたらごどだべどは思ってした。宇宙人っつのも所詮その程度なのすかいや。まあ、せいぜい頑張ってけさいん」
見覚えのある死刑執行人がわたしを薄暗い部屋へ連れて行く。部屋の真中に電気椅子のような代物が置いてある。その人の手がわたしを持ち上げ「電気椅子」に腰掛けさせて固定帯を締める。案の定、体に電流が流れてくる——間もなく「わたし」は死んだ。


気が付くとわたしは超未来的な部屋の中の透明容器の中に立っていて、宇宙人みたいな人がわたしを容器から出してくれた。
「再生おめでとうござりす。どごがあんべ悪いどごねがすか」
「再生っつうど、いってえ何やったのっしゃ」
「我々にとって有益ど判断さいる人間の遺伝子情報および脳内記憶は、随時 我々の電算機さ更新登録さいでんでがす。あんだは複製どして再生さいだんでがす」
「『再生』すや? っつうごどは、あの『おい』は助かったんでねくて、やっぱり死んだんだっちゃ。かわいそに」
「そいなごどねがす。あんだは肉体も精神も死ぬ直前のあんだど寸分 違わねんでがす」
「そいなごど言ってんでねくて、一旦 中断した『意識』は継続しねっつごどでがす」
「いがすか。あんだの肉体ば構成してる物質は確かに、死ぬ前のあんだど今のあんだどでは違うがす。んでもそんたらごどは意識の構造さは関係ねがす。あんだの現在の意識は死ぬ前がらのあんだの記憶さそのまま接続さいでる筈でがすと」
「ははははは、んだがらそいなごどを言ってんでねがす。『おい』が死んだ後で、つまり生まれてがらずっと継続してきた『おい』の意識回路が消滅してしまった後で、見掛け上、死ぬ直前の『おい』の意識さ滑らがに接続するよな意識回路ばなんぼ精密に作ってやったがらど言って、そいづは死ぬ前の『おい』の意識が継続してるごどにはなんねえべし、言わば、もし死ぬ前の『おい』が生きてだらば、したに違いね思考過程どたまたま同じ思考過程するような新だな意識が発生したに過ぎねのっしゃ。その辺の詳しい説明は、おいの作品さも書いである筈だどや。読んでんでねがったのすかや」
「いや、あの箇所のあんだの解釈さは納得し兼ねでいだんでがす」
「そすかや。実に明快な論理だど思うんだげっとな。例えばっしゃ、今、同一の思考構造ど同一の記憶ば有す二っつの意識回路が同一に作らいだ二っつの環境下で別々に生活してる場合、同一の思考過程ば取る意識が各々の意識回路内に発生するど考えるのが自然だいっちゃ。つまり、複数個ある意識回路の構造が同一だがらどて、意識が一づしか発生しねっつ法則があっとは思えねっつごどでがす。そごで、さっきの二つの意識回路のうぢ片方ば殺したどしすぺ。そすと、二っつあった意識のうぢ一つが消滅しすぺ。つまり、殺さいだ意識回路の方の意識はその時点で消滅したのであって、なんぼもう片方の意識回路が『殺さいねげ してだだろう思考過程』ば続げでだがらどて、殺さいだ方の意識が殺さいでねえ方の意識さ継続したごどにはなんねがすぺ。同様の理由で、一つの意識回路が死んだ後で そいっと同一の構造ば有す意識回路 作っても、意識が継続したごどにはなんねんでがすと」
「なるほど。そいづは確かにあんだの言う通りなのがも知ゃねげっと、つまりこいづあんだど我々どの『死』に対する考え方の違いだべね。我々は自分が死んでも、後で自分ど同じ構造ど記憶ば持った複製が再生さいれば、縦令 あんだの言うよに厳密な意味での『意識』が継続してねえどしても、自分が死んだごどにはなんねえど考えんでがす」
「もしあんだだぢの原動も快感追求・不快感逃避だごって、その原動ば満だすべぎ適切な処置は死の定義さは依らね筈だげっとも」
「ははは、確かにあんだは利口だっちゃな。我々は明日がらあんだどの話し合いば本格的に進めでぐつもりだがら、今日はこのけぐれえにしてお互い休むべし」
わたしは透明容器の寝床へ案内され、取り敢えずは眠ることにした。
目が覚めると、また宇宙人がやってきた。
「おはようござりす。食事ど排泄は睡眠中に済ませでおいだがら、早速 話し合い 始めすぺ。そっちゃ掛げでけさいん。先ずは我々が何者で何 目的にしてんのがっつごどば簡単に説明しておがねげわがんねべな。あんだだごってもう薄々 勘付いでっとは思うげっと、我々は地球上生物ば創造した宇宙人なんでがす」
「なるほどなや。んだごって、あんだだぢ自身の種の起源はなじょなってんのっしゃ」
「我々ば創造したのも実は宇宙『人』なんでがす。 尤も現在ではその創造主である宇宙人の消息は絶えでしまったげっとも」
「んだごって、あんだだぢば創ったその宇宙『人』の起源は なじょに解釈してんのっしゃ」
「んだがら、我々の創造主である宇宙人ば創造したのも宇宙人だべし、その宇宙人ば創造したのも宇宙人だべし……つまり、永久の過去がら宇宙人が宇宙人 創って、その宇宙人が技術的に進歩してまだ宇宙人 創って、その宇宙人が技術的に進歩してまだ宇宙人 創って……って、現在に至ってんだべど考えらいんのっしゃ」
「んだごって、一番 最初の宇宙『人』はなじょして発生したのっしゃ」
「時間に始まりなんつものはねんだがら、一番 最初の宇宙人っつ考え方は無意味でがす。例えば、物質だのエネルギーだのが永久の過去がら何等がの形で存在してるっつごどさ納得できっとすれば、知的生命体が永久の過去がら存在してるっつごどさも納得でぎねげねど。んだって、なんぼ根元的な物質だっつったって必ず何等かの構造っつうが存在原因はあっぺし、知的生命体の構造の方がなんぼ複雑だがらっつて、その違いは相対的なものでしかねんだおん。つまり、両者の存在理由は物理的に同値なのっしゃ」
「ははは、実は おいは物質だのエネルギーだのの起源についでも懐疑的なんでがすと。あんだの言うよに時間さ始まりなんつものはねんだがら、過去に於げる可能性は無限っしゃ。まず、何代が前の宇宙人が——まあ、現代のでも別にいんだげっと——が 自然発生してダーウイン的に進化した可能性だって否定できねがすぺ。宇宙人程度の複雑度ば有す構造物が発生すんには、宇宙人程度の意識作用が介在しねえ限りは絶対 不可能だなんつのは日常感覚がら見積もった確率計算でねえのすかいや。 まあ、仮に百歩譲って、本当にそいな自然発生だの進化が、知的生命の意識の介在ば伴わねえでは起ごり得ねえどしても、遠い過去の世界では我々の直感さ反するような熱力学法則が支配してだ時代があって、その時代には実は案外 簡単に知的生命が自然発生して複雑化できたっつ可能性だって『例えば』あんでねえのすかいや」
「論理の上がらは んだべげっと、その確率は非常に低いべね」
「んだがら、その確率法則が成り立だねよな時代があったらばわっつったつもりなんだげっとね」
「ははは、まあいがすぺ。その話はそのけぐれにして、こっちゃあばいん。見せでえものあんでがす」
宇宙人はわたしを導きながら偵察用の空飛ぶ円盤みたいな乗り物に乗り込み、何やら操縦をし始めた。床が透けてきて画面のようになり、外の景色が映し出された。どうやら未来都市のようなものの上にいることが分かった。
「見えっぺが。我々は今、あの一番 高え建物がら出できたんでがすと。んで、瞬間移動しすと、ほれ、」
とか宇宙人が言いながら床の画面を指すと、見渡す限りの森の上に来ていた。
「こいな大森林は今や地球さもねがすぺ。地球の植物も元々は我々が創ったやづだがら、こごさあんのど大体 同じなんでがす。はははは、んで、まだ瞬間移動しすと……どれ、着ぎした。こっちゃあばいん」
宇宙人に付いて外へ出ると、殺風景な屋内にいた。宇宙人が何かこそこそと変な操作をすると廊下の両側の壁が透けてきて画面となり、縦横に並んだ透明容器の中に宇宙人の仲間が一人ずつ入っているのが窺われた。
「こごは簡単に言うと精神病院なんです。こいな立派な精神病院あっからっつって、何も我々の中さ精神の いがれた人間が多いっつ訳ではねがすと。実は我々の言う精神病患者の定義には『法律ば守っこどの出来ねえ人間』も含まいでんでがす。つまり、こごでは犯罪者だの刑務所っつう言葉自体も概念も存在しねんでがす。そもそも絶対的な善悪なんつものは存在しねんだがら、大衆の価値観さ折り合い付けで決めだ規則さ従わいね者さは罰 与えで隔離するっつのはあまりに排他的な思想でがすぺ。自分の感性さ喜びば齎すには違法行為ば取らざるを得ねえ人だっつぁも、しあわせになる権利はありすぺ。んだがらごそ我々は、そいな人だっつぁも この社会でのしあわせば達成して戴げるように、そいな人だぢの脳内『プログラム』ば修正してやってんのっしゃ。ながなが理想的な社会機構だど思わねすか」
「確かに地球よりは大分ましがも知ゃねな。んだげっと、脳内プログラムば修正したりしたら、その時点で元の人間は死んだごどになんでねすかや」
「あんだの死の定義だごって、そうなっか知ゃねね。んだげっと、極端に特異な道徳観念ば持った人だぢをも大衆の社会の中で共存させんのには、こいづが最も妥当な方法だべど我々は思ってんでがす」
「ははははは、個人さ一台ずづ仮想現実機でも宛でがえば、そいづが一番 理想的なんでがいんか」
「実は、そいづは笑い事でねんでがすと。現に我々の技術ではそろそろ仮想現実機も実用化可能な水準さ達してっぺし、こいづば一般の市場さ搬出すべぎが、あるいは特殊な精神病患者のみに使用ば限定すっかで首脳部の議論も分がれでんでがす。個人が仮想現実機 所有するようになったら、もはや文明の進歩なんて意味ねぐなっぺがら、こごまで進歩してきた我々の文明も衰退の一途ば辿っぺよ。現に最近のある発掘調査に依っと、我々が創造さいる遥か以前の宇宙人が使用してだど思わいる仮想現実機らしぎものの残骸が、ある惑星がら大量に発見さいでるっつうし、未だに消息の掴めねえ我々の創造主だぢも実はこいなぐして滅びでしまったんだべっつう説もあんでがす」
「別にいんでがいんか。おいは文明っつうのも、結局は個人のしあわせの為の一手段だど思ってんでがす。仮想現実機で『全ての』個人がしあわせになれるっつんだら、文明が滅びようが子孫が絶えようが別にいんでがいんか。あどは、せいぜい不死の研究でもしてればいんでねすか。但し現在の複製再生方式でねくて、本当の不死でねげ意味ねえげっとも」
「ははははは、あんだはどうも おいの予期しね方向さ話題 逸らすっちゃないや。おい、あんださ我々の目的 教ぇるっつ任務ば、まだ果だしてねんでがすと。まあ、取り敢えずは機さ戻りすぺ」
宇宙人はわたしを連れて空飛ぶ円盤に乗り込んだ。
「これがらあんだば地球委員会さ連れでいぐごどになってんだげっと、一応 地球委員会についでなんぼが説明しておぎすぺ。地球委員会っつうのは、我々が地球人 創って以来、地球人の追跡調査 行ってっとごでがす。我々は地球以外さも何箇所がで同じように人間 創ってんだげっと、一番 最初に創ったのが地球だがら地球人の文明が一番 発達してんのっしゃ。その発達の程度っつうのが実は一番 重要なごどなんでがす。地球人の現在の文明水準は、我々の科学技術だの社会思想ば理解でぎる水準に達してんでがす。も少し厳密に言うどっしゃ、実は我々の現在の文明水準も、我々自身の進歩に因って獲得したものではねんでがす。我々がちょうど現在の地球人程度の文明水準さ達した頃に、我々ば創造した宇宙人が飛来して、我々さ高度な文明ば授げでってけだのっしゃ。当時の我々は九割以上の者がある共通の一神教ば信仰してだがら、その教典の言う創造主ごそが永遠の過去がら存在してる宇宙人のごどなんだど解釈すっこどに依って、比較的容易に事実ば受げ入れんの いがった訳っしゃ。とごろが、地球には現時点ですら共存の困難な複数の宗教が存在してで、更に最近は神ば信じねえ者の比率が急激に増加しつつあんだおん。そいな状況の中で、我々が地球人の前さ姿ば現したりしたらば、当然の如く大混乱は疎が、我々ば受げ入れる者ど受げ入れねえ者どの間で対立が生じっぺし、我々の文明ば授げるごどなんか問題外の状況さ陥っこどだべな。そごで地球委員会では現在、地球人さ安全に文明 授げる方法についで議論なさいでんのっしゃ。あんだは、地球人代表どしてその委員さ加わってもらうべど選ばいだっつごどっしゃ。降りでけさいん。我々は既に地球委員会さ来てんでがす」
宇宙人に付いていくと、委員長室とかいうところに通された。そこにはまた別の宇宙人が座っていて、今までわたしを連れ回していた宇宙人は任務を終えて去っていった。
「Zさんだっちゃ?」
とその宇宙人は言った。
「んだ」
「あんださは今日がら地球委員会の構成委員どして、こごで働いでもらうがら」
「やんだっつったら、なじょなんのっしゃ」
「ははははは、あんださ神秘主義 植え付ける目的で一旦 殺してがら再生したんだげっと、あんまり機能しねがったみでだなや」
「んだ、逆効果だったないや。現在の自分が死ぬ直前までの自分の継続であり得ねえごどば悟れねえほど、こっちも馬鹿でねえがら」
「んでも あんだは、現在の自分の意識が死ぬ直前がら継続してるように実感してる筈だげっと」
「そりゃあ そうでがすぺ。死ぬ直前のおいど同じ構造の人間 作って、同じ記憶 与えだんだがら、そいなぐ実感しねえ訳ねっちゃ。但、死んだおいの意識自体は消滅した訳だがらな」
「そんでいんでねんだいが。実はおい自身、既に何度も再生 体験してんでがすと。おいは地球人の創造さ携わった人間の最後の生ぎ残りどして長え間、委員長やらさいでんだげっとも、今後も生ぎ続げで委員会さ貢献する義務 負ってんだでば。あんだの言うように、厳密に言うど一度 再生さいる度に一つの意識が生滅してっこどになんだが知ゃねげっとも、現在 生きてる私自身にとっては、自分が遥か太古がらずっと生き長らえできてるように実感できんだでば。んだから、そんでいいど おいは思ってんでがす」
「あんまり論理的説得性はねえげっとも、まあ いがんべ。零がら発生した意識ど過去の人間の継続どして発生した意識どでは、どっちらがしあわせだがっつ問題さ帰着すんだべがら」
「まあ、そういうごどだ。それはそうど、なして あんだは我々への協力ば拒否してがんのっしゃ?」
「先ず、あんだだぢの意図が はっぱり おいさは見えねえおん。大体においで、なして あんだだちは地球人さ自分だぢの文明 授げだりする必要あんのっしゃ。実験でもしてえのすか」
「あら、その辺の感覚は我々も地球人も大して変わんねえべど思ってだんだげっとなや。先ず、我々には自分の子供っつものがねんだでば。殆どの人間が複製に依る再生ば希望すっから、人口 維持する為には個人での子供の所有は認めらいでねんでがす。つまり地球人っつのは、我々さとっては言わば自分の子供みでえなものなのっしゃ。自分の子供さ自分の財産 相続させでえど思うのは、別に自然なごどでがいんか」
「あんだだぢさは もっと他の楽しみあっと思ってだっけ、意外だごだ」
「そりゃあ確かに享楽設備は申し分ねぐ発達してっから、ありどあらゆる楽しみさ なんぼでも浴すっこどは出来っかす。んだげっと、地球人さ文明 授げんのは我々の義務でもあんでがすと。地球人の文明がこのまま我々の助けなしで順調に発達してって、いずれは新たなる人類の新種 創造し得るだげの水準さ達するまで滅びねでいでけるっつう保証はねえがら、我々どしてはさっさと文明 授げでしまって安心してえのっしゃ」
「地球人が新だな人類 創造し得る水準さ達する前に滅びっと、なしてまずいのっしゃ。別にあんだだぢの損害にはなんねんでがいんか」
「最近の研究に依っと、ある文明水準に達した人類は仮想現実機の使用に因って自滅してぐらしいっつごどが分がってきたんでがす。我々も気い付けではいっけっと、自滅しねっつう保証はねがすぺ。んだから、自分だぢが滅びる前に 新だな人類ば創造し得る文明水準の人類ば残しておがねげ、永久の過去がら存在し続げでる人類の神秘ば我々の代で絶やしてしまうごどになってしまうっちゃ。分がっぺが。一旦 人類 絶やしたら、もう二度ど永久に人類が創造さいっこどはねんでがすと。人類は、この永久の過去がらの神秘さ感謝して、そいづば存続する義務があんだでば」
「まだ論理性ねぐなってきたごだ。なしてあんだだぢが永久の過去がらの神秘どやらさ感謝したり、そいづば存続する義務 負ったりしねげねえのっしゃ。あんだだぢはあんだだぢ自身がしあわせになりさえすれば、仮想現実機に因って自滅しようが、人類が絶えようが、そいなごどは別にどうだっていんでがいんか。大体においで、永久の過去がら既に人類が存在してるっつう考えには、おいはまだ納得してねんでがすと。例えば宇宙大爆発の時、人類は何処さいだのっしゃ」
「そいづはいい質問でがす。宇宙大爆発が生じる為には宇宙大爆発の原因がねげねっちゃ。つまり、宇宙大爆発 以前にも時間ど空間が存在してねげねがす。んだげっと、そいづこの宇宙ではねんでがす。言わば宇宙大爆発は全宇宙の一部で起ごって、その結果 生じだこの宇宙は全宇宙の一部なのだど考えでもいがす。簡単な因果律でがすと。今 宇宙が存在する為には、永久の過去がら宇宙が存在してねげね。今 人類が存在する為には、永久の過去がら人類が存在してねげねんでがす。この宇宙が大爆発 以前に存在してねがったどなれば、人類はそん時 別の宇宙さ存在してだど結論付げるしかねえべな」
「今 宇宙が存在すっこどとの原因どして、永久の過去がら宇宙が存在してるっつごどさは納得してもいいげっと、今 人類が存在すっこどの原因が永久の過去がら人類が存在してるごどだどは思わねげっとな。どうもあんだだぢは神秘主義さ走んのが好ぎなようだおんな」
「実はこの宇宙の神秘への畏敬ごそ、理想的 平和社会 達成の基本原理なんでがす。曾て我々の前さ創造主が飛来して事実 伝えた時、我々は宇宙の神秘さ敬服して、我々ば創造してけだその宇宙人さ ただただ感謝するばりだったのっしゃ。一方、創造主だぢは自分だぢさ敬意 払って心がら感謝してる我々さ、快ぐ知識ど技術 授げでけだんだおん。以来、我々は偉大なる宇宙の神秘の継承者どしての義務ば痛切に自覚して、より優れだ後継者 育でるべぐ地球人 創造したんでがす」
「んで、結局 あんだだぢも創造神の信者なんだいっちゃ」
「否、我々は別に神ば信じではねがす。ただ、永久の過去がらの宇宙の神秘ば存続させる為には、個々人が宇宙の神秘さ敬意 払って、継承者どしての義務ば自覚すっこどが必要なんでがす」
「あんだだぢの言う優れだ後継者っつうのは、どうやらおいの価値観では精神水準の低い地球人さ相当してるみでだなや。例えばでがすと。今の地球上であんだだぢの趣旨さ賛同して あんだだぢば創造主ど崇め奉るような人だぢっつうのは、およそ現実吟味力さ欠げる神秘主義者の集りでしかねえべなや。そいな人だぢば わざわざ選り好みして後継者さしたんでハ、狂信的な宗教団体 設立したごどにしかなんねっちゃわ。寧ろ、あんだだぢの話さなんか取り合わねえで冷笑するような人だぢば後継者にした方が、よっぽど優秀な人材 揃うんでがいんか」
「確かに、ご尤もでがす。そいづが正に我々が現在 葛藤してる問題なんでがす。そもそも地球人っつうのは、知能的にも体力的にも 我々より少しでも優れだ子孫 創造すっぺっつ思想の下で設計さいだがら、意外がも知ゃねげっと 性能的には我々よりも なんぼが勝ってんでがす。とごろが、我々が予期してねがった弊害が生じできたのっしゃ。例えば、あんだみでえな論理思考型の人間っつうのは、我々でも見落どしてしまってる論理の落ぢば的確に見破るだげの能力 備えでっか知ゃねげっと、必然的に懐疑心も強ぐなってしまうがら、神は疎が神秘なるものば手放しで崇拝すっぺなんつ真似は先ずしねんだおん。確かにあんだの言う通り、我々ば手放しで崇拝してけそうな地球人っつうのは、我々の基準がら見でもかなり知性水準の低い連中なんだでば。んだがら我々は現在、脳内プログラム 修正装置の使用ば検討してんでがす。あんだは さっきこごさ来る前に精神病院 見せらいだがすぺ。あそごの患者さ施してんのど同じ処置ば、全地球人さ対して一斉に行うのっしゃ。つまり、先ず我々の法律さ反する行為に対しては、その罪の重さに応じた不快感いわゆる罪悪感ば抱ぐようにプログラム 組み込んでおぐのっしゃ。勿論、不快感に依る抑止力だげでは万全どは言えねえがら、そいな行為 取っぺどした際には その人間の随意運動ば一時的に阻害する 多少 生体装置的な処置も施しておぐのしゃ。んだげっと、そんだげでは不十分なんだでば。犯罪が起ぎねっつだげでは理想の社会ではねがす。個々人がしあわせ感じでねげ全体主義ど同じっしゃ。つまり、全個人がこの社会でしあわせ感じるような価値観ば、全個人さ対して予めプログラム 組み込みしておぐ必要性があんでがす。その中で取り分げ重要なのが、我々 創造主への感謝ど偉大なる宇宙の神秘への畏敬なんでがすと」
「ははははははははははは。どうりであんだだぢの言うごどさは論理的脈絡がねえ訳だっちゃ。ようやぐその訳 分がりした。ははははは、おいは騙さいねがすと。よしんば、あんだ以外のあんだの仲間の宇宙人がほぼ全員 騙さいでだどしもないや。あんだがそんなにも宇宙の神秘どやらば神格化してがんのは、あんだ自身 宇宙の神秘さ絶対的な畏敬ば抱がさいでっからっしゃ。簡単だいっちゃ。あんだだぢ自身、その創造主どやらに脳内プログラム 修正 施さいだんでがすぺ。今までのあんだだぢの主張の非論理性の所以は、こんで全て説明 付ぐべっちゃ。複製再生方式では意識 継続しねえにも拘らず、こいって不老不死になれるものど民衆さ思い込ませで、体制ば崇拝させる為の餌どして利用してんだっちゃ。神の不在 説ぎながらも崇拝すべぎ絶対的 真理さ縋りてくて、永久の過去がら人類 存在してっこどにしたんでがすぺ。価値観の相対性 認めながら、仮想現実機 敬遠して脳内プログラム修正 推進すんのは、この作らいだ神秘の絶対性ば否定する異分子の存在ば認める訳にはいがねえがらでがすぺ。創造主 崇める喜びばプログラム 組み込みさいだ副次的作用で、自分だぢも自分だぢの創造物により崇めらいでんでがすぺ。なじょでがす? 違いすか」
「……ははは、流石だないや。確かにあんだの言う通りでがす。そいづが種明がしでがす。やっぱり再生用登録さいでる地球人は賢いなや。実はこの事実 知ってる者は、おいみでえな幹部の中さも数えるぐれえしかいねんでがすと。あんだぐれえの冷静な懐疑 出来る人間なんて、今んどご こごさは先ず居ねえべし、あんだ以外の大部分の地球人の中さだっていねんでねがすか。つまり、あんだ以外の全ての地球人は、脳内プログラム修正でしあわせになれんのっしゃ。但、いぎなりそいづ やったんでは流石にこごの民衆でも疑問 抱ぐ奴が出でくっぺがら、一応 地球人が自発的に宇宙の神秘ば崇拝するようになる為の手助けどしての布教活動っつう無駄なごどばわざわざやらせでんのっしゃ。もうじぎ委員会はこの布教活動の無力さ悟って、已むなぐ脳内プログラム修正の使用さ踏み切っこどになっぺな。全て、私の思惑通りだ。どは言っても、そんで地球人がしあわせになれんだがら、いいべっちゃ。おっと、こいな言い方してはわがんねんだったな。あんだ式の言い方すれば、おいはおいさプログラム組み込みさいだ欲求回路さ従って、宇宙の神秘の存続ば地球人さ託してえだげでがす」
「一つだげ納得でぎねえ点ありますと。全地球人さ脳内プログラム修正ば施すごどは、その時点で全地球人 殺して記憶だげが継続してる別の意識 作ったごどど同値だっつごどは承知してんのすか」
「確かに尤もな話だげっと、脳内プログラム修正 程度の意識回路の操作では、特に罪悪感 抱がねえで済むようなプログラムが、おいさは組み込まいでんだべ。現に気になんねえ以上、そうどしか言えねがす」
「んだごって、おいみでえな人間 現れだ場合には、殺してしまっても罪悪感 抱がねえで済むような脳内プログラムになってんだべおんね」
「まあ まあ、いぐら何でも流石に人殺しだげは如何なる場合でも出来ねえようにはなってっかす」
「んだごって、これだげの秘密 知った おいば一体なじょに処分するつもりっしゃ?」
「一つの案どしては あんださ脳内プログラム修正 施して、その優秀な頭脳ば地球委員会で利用させでもらうっつ手もあっけっと……」
「まだ分がってねえようだないや。おいの懐疑力は、 客観領域におげる判断さは価値観ば介入させねえどごさ因ってんでがすと。 もし脳内プログラム修正で、この判断の一部さ価値観の拘束 与えらいだら、 おいだって、あんだだぢの仲間みでぐ、この社会機構の落ぢば見破っこどなんか 出来ねえ平凡な人間にしかなんねべよ。第一 それ以前に、脳内プログラム修正はこの『おい』さとっては殺さいっこどど同値だがら、殺さいでまで利用さいるぐれえだごって寧ろ自殺でもしすとや」
「んー、我々の都合であんだば複製再生して利用すっぺどしたげっと、自殺なんかさいだんでは我々どしても心苦しいどや。それにあんだの頭脳は我々さとって一種の保存資料なんでがす。尤もあんだが自殺したどごで、必要に応じで複製再生すれば済む話ではあっけっとも、再生の度にあんだの機嫌こ悪ぐなってぐべおんな。つまりおい個人どしては、今程度の協力性 持ったあんだの頭脳ば保存しておきてえのっしゃ。まあ、冷凍保存っつう手もあっけともっしゃ」
「どうも分がってねえようだおんなや。冷凍保存も所詮 複製再生方式と何等 変わんねんでがすと。一旦 意識回路の作動が『無意識』含めで完全に停止してしまったら、その回路内に発生してだ意識は消滅したごどになる訳だがら、その後その同一の意識回路ば再び作動させっこどに依って元の意識さ接続する意識 発生させだどごで、そいづは元の意識の継続ではがいん。言わば、冷凍後にその冷凍物 処分して、冷凍前の構造ば完璧に再現した複製 作ったごどど同値っしゃ」
「分がりすた。んで、出来る限りあんだの満足 行ぐような環境 整備すっこどにしすぺ」
「脳内プログラム修正 受げでねえ人だぢの社会 提供してけんだごって考えっけとも」
「まあ、現実の世界でそいづば提供すんのは不可能だげっと、現在 開発中の最新型の仮想現実機ばあんださ試用してもらうっつ手もあっけとなや」
「なるほど、あんだにしては建設的な案だいっちゃ。考えどっから」


  気が付くと、わたしは薄暗い灰色の壁で六方を囲まれた狭い立方体の部屋の中にいた。特に光源が見当たらないにも拘らず、コンクリート的な灰色の壁の滑らかそうな表面は鮮明に認められているから、これは夢なのかも知れない。わたしは先からずうっと何時間もこうしてぼうっとしているけれど、何の変化も起きないからやっぱりこれは夢なのに違いない。だんだん気が狂いそうになってきた。わたしはどうやらこれが夢であるという確信を持ってきたので、試しに灰色の壁を思い切りぶん殴ってみた。確かに痛いことは痛かったが、この感触から推測されるこの程度の壁をこの程度の勢いで殴った時に催されるだろう痛みを遥かに下回っている。わたしは向きになって壁を両拳で交互に連続して殴り続けた。念の為、思い切り頭突きも喰らわしてみた。なるほど。肉体的苦痛の上限値は堪えるのが容易な程度に、割と低めに設定してあるのか。分かったよ。これが奴の設定した仮想現実機の初期環境か。この狭苦しい空間で、軈てわたしが悶え苦しむのを、奴は監視再生しながら楽しむのに違いない。そうか! わたしは重大なことに気付いていなかった。奴等の思考方法に於ける非論理性の所以は、 「永久の過去から存続する宇宙(人)の神秘」 を絶対的真理として例外的に思考法則の一つに組み入れてしまっているところにある。 とは言っても、この「絶対的真理」はどちらかというと ある種の価値命題に過ぎないし、 現実的な時間規模においては先ず反証不可能に近いから、 通常の科学的思考の際にこれが介在することはない。 だから、奴等の話もそういう点に関しては極めて論理的だ。しかし、 「死」とか「幸福」とか「生命の起源」とか、 少しでも価値観との折り合い付けを要する 領域に踏み込むや、奴等は安直に その「絶対的真理」に依る価値判断を採用してしまうのだ。 客観命題を分離し、事実を論理的に理解した上で、 価値観との折り合いを つけようといった思考態度は一切 放棄するのだ。 つまり、奴等にとってのこの思考法則は、言わば論理思考を省略する為の効率化回路 あるいは思考節約回路とも言えるだろう。 勿論、その「絶対的真理」に依る価値判断が客観領域に踏み込まない 限りにおいては、それで特に問題はない。 しかし、その「絶対的真理」が少しでも客観領域に踏み込んでしまった場合、 その「真理」は反証のまな板に乗せられ、その結果 しばしば論理的に理解される事実 と矛盾することは避けられない。 地球人からの類推が成立するとして、 正常な思考回路を有す人間は論理的に理解できることを否定することは出来ない。 仍て、そういう場合は否定する代わりに思考停止することで自己防衛を図ることになる。つまり奴等の思考回路内には、 宇宙の神秘の絶対性をある程度以上に懐疑する必要性を誘発する論理思考の一切を遮断する遮断回路が設けられているのだろう。 尤もこの一つだけが奴等の有意な遮断回路だとすれば、考えようによっては地球人の方が奴等よりも余程 多くの遮断回路を持っていることになる。実際、地球人が論理思考を苦手とする理由は、必ずしも機械的な性能に因るとばかりは限らない。 確かに科学的な客観領域を対象とした思考に 於いては機械的な機能差が有意に反映される場合もあるが、 価値観との折り合い付けを要求されるような 極めて価値領域に近接した問題を対象とした場合には、 機械的な機能差と論理思考能力との相関は忽ちに低下する。 つまり、地球人には感情的価値判断による思考停止の遮断回路があまりに多過ぎるのだ。だから、如何に優秀な機械的性能を持っていたところで、 せいぜい科学的な分野でしか才能を発揮できないようになっているのだ。 その意味では、例えば科学者であることと宗教的信仰を持たぬこととの相関が 意外なほど低いことにも納得できる。 大体において神を信じていない者ですら、殆どが善悪の価値観ぐらいは絶対的なものだと信じているではないか。 如何なる価値観も脳内プログラムに依って規定される極めて個人に特有な相対的な判断基準でしかないことを悟っている人間など、地球上には希少である。その点、犯罪者を病人と見做す奴等の方が遥かに柔軟ではある。つまり奴等は、ほぼ全ての地球人が執着せざるを得ない応報刑主義の心理をも見事に克服しているのだ。問題はそこにある。奴等の「絶対的真理」を許容しない思考方法を取る異分子は、脳内プログラム修正に依って治療すれば良いことになってはいる。だが、あの委員長はわたしの精神が異常ではないことを悟ってしまったのだ。尤もそんなことは当たり前なのだが。論理思考能力が保証されている限り、精神に異常などというものはない。ただ価値観が異なるだけなのだ。奴等にとっての「絶対的真理」も、わたしにとっては——と言うか、遮断回路を設けない客観的論理思考の結論としては——相対的価値基準の一形体に過ぎないことになる。奴はそれを認める訳にはいかなかったのだ——奴の遮断回路が作動し、思考停止を起こした。これは恐ろしいことだ。今のわたしが置かれている立場は、応報刑主義の心理に依る思考停止を起こした地球人の前に晒された理性的凶悪犯の立場とまるで同等だ。しまった。奴等が、自分たちが絶対的に信奉している価値基準を否定する個体に対しては、応報刑主義の心理から虐待してやりたいと思うプログラムを組み込まれている可能性については考えていなかった。抜かった。この手の個体の場合、そうした虐待の喜びを正当化する為の「わるいひとならやっつけてもよい」に相当する例外化回路も当然の如くプログラム組み込みされていておかしくない。善悪の価値観の相対性を認める奴等であっても、所詮 宇宙の神秘を冒涜する者に限り例外的に「わるいひと」が定義されるのだろうから、わたしは正にその希少な例外に該当してしまったのだ。なんてことだ。これから悶え苦しみ続けるだろうわたしを、奴等はただ「わるいひとがくるしんでいる。いいきみだ」と楽しみつつ眺め、「うちゅうのしんぴをぼうとくしたものはこういうばつをうけるのだ」と自らの信仰心をより深いものにしていくに違いない。つまりわたしは晒し者にされたのだ。畜生。腹が立つ。実に腹が立つ。宇宙がこんなにも多くの馬鹿で満たされていることに。宇宙の最高水準の知性が既に十分な馬鹿であることに。意識「わたし」が実は唯一まともな実在であることに。
!!! 実在? 唯一の? わたしが? ……そうだ。確かにわたしは前にもこんなふうなところでそんなふううなことを考えていたような気がしてきた。あれは一体いつだ? ちょっと待て。そんな筈はない。わたしは新進の小説家だったのだ。書いた小説の内容も覚えている。——主人公「わたし」は蒲団が一つあるだけの小さい部屋の中で暮らしている。たぶんそれが本当の世界なのだ。そんな酷い現実から逃避すべく、「わたし」の適応機制は遥か古代から「夢」を見ることに依って仮想現実の世界に生きる術を編み出している。仮想現実である以上、当然、夢の中の登場人物には「意識」がない。それを知っていては「わたし」の孤独は癒されない。そこで適応機制は、夢が始まる際には夢の舞台設定に適合する初期記憶を与えると同時に、現実の過去の記憶への接続がその間 遮断されるような回路も形成している。つまり、夢を見ている間「わたし」はそれが現実だと信じて疑わず、その世界の登場人物には全て意識が伴っていると思っている。それだけに、夢が覚めた際の落胆も大きい。それを考慮してか、適応機制が見せる夢の登場人物は夢が覚めても愛着を感じずに済むような、言い替えれば 夢の中でも孤独を癒すのに大して貢献してくれそうにない、そんな当たり障りのない人物しか現れなくなってきている。ここに幾つかの葛藤がある。自分の孤独を一時的にでも癒す為には、自分の記憶を操作して自分を騙さなくてはならない。しかし騙されていたことを悟った際のこの不条理な現実に対する怒りも、またそれ相応に深い。更にそれ以前の問題として、縦んば夢を見ている間だけは仮にしあわせになれているとしても、記憶が操作されている以上、自分の意識回路を借用して創造された別人が楽しんでいるに過ぎないと考えた方が正確な理解である。畢竟、長い歳月を掛けて編み出された適応機制「夢」も実は全然「わたし」の孤独を処理してはいないばかりか、更なる虚しさを助長しているだけなのだ。そんな絶望の中、それを悟りながらもまた次の夢の世界へと逃避を繰り返していく「わたし」。 ——実はこの小説がわたしの記憶であり、わたしの真実の過去ではないのか? だから、あの宇宙人も地球委員会もわたしの夢が創った仮想現実に過ぎなかったのかも知れない。だとすると確かに夢の中に現れる他人の意識は以前と比べて知性水準は少しずつ改善されてきているようにも思えるが、 所詮わたしの夢はわたしと同格の意識を創造できないでいるんだ。分かってるよ。どうせ夢なんてわたしの潜在意識が多分に影響したプログラムなんだろうから、わたしの無意識的合理化を忠実に反映させてしまうんだ。「どうせ他人の意識なんてあったとしてもろくな意識だとは限らない」ってな。「わたしのような優秀な意識につり合う意識なんて他にある訳ない」ってな。「意識『わたし』こそがこの世で唯一の有意なる存在だ」ってな。やめろ! やめてくれ。そんな訳はない。 これは仮想現実だ。こっちこそが夢だ。あの宇宙人とか言う下等な意識が見せている単なる仮想現実だ。わたしは奴等に騙されているだけだ。そうだ。その方がいいんだ。その方が。お願いだ。もう夢はいらない。夢は……

草 こすれで鳴ぎ始めだな
風 強ぐなってきたみでだど
枯れ木さ寄っ掛がって風 浴びでるあの人の髪
気持ぢ良さそうに靡いでっと
あ、まだ おいの真似こして
この時間のあそごは おいの特等席なのにや
まあ、いいが
風 浴びるあの人 見詰めでっこども
おいさは心地いいがら
おい いっつもみでぐ知ゃねっぷりして
あの人の脇 通り過ぎで
あの人の方でも知ゃねっぷりして風 見詰め続げで
おいも意地 張って暫ぐ歩ぎ続げで……
んでもおいの負げだっちゃ
おい あの人さ会いでんだおん
おい ちょっと腹 立でで戻ってきてや
——あんだ、名前なんつったっけ
——思い出す必要ねえべ
こごさは おいどあんだしかいねんだから
——そうが
んだったなや
名前 知ゃねくても
いんだったなや
つい忘ぇでしまってだなや
あんだは誰だったっけ
——んだがら思い出す必要ねんだでば
おいどあんだはずっとこうしてだし
これがらもずっとこうしてんだいっちゃ
——そうが
んだったな
そんでいんだったっけな
——んだよ
思い出すのはあんだの勝手だけっと
そいなごどしたら
全ておしまいになっとわ
——んだ
おいはあんだについでの
全て知ってしまってんだ
んでも
そいづ思い出しさえしねげ
おいどあんだはずっとこうしてらいんだっちゃ
んだった
気い付いでいがったな
危ねどごだった
んだ
ほんでいんだった
ほんで
んだから
こうしてっぺし
このまんま
ずうっと
ずうっと
このまんま
——そんなの当だりめだっちゃ!
——んだな
こいづが
当だりめだったらいいな
当だりめだったら……


おいの見でるものが
やっぱりおいば見でで
おいがそいづ見でんのが
そいづがおい見でんのが
分がんねぐなって
んでも実はそいなごどは
さっぱり重要なごどでねくて
こいな世界さ
いづまでも
どっぷりど
浸かってらいだら——
いいべなぁ
っておいはずっと夢見続げできて
未だに夢にすら見だごどねくて
おいの見でるものは
おいの見でるもので
おいば見でるものは
おいば見でるもので
ただそれだけで
おいは
おいは
おいは
おいは
——やっぱりおいで








わたしはどこ

第1回日経「 星新一賞 」一般部門 落選作品
あとがき?関連 掲示
第2回第3回 落選作品はこちら

 まあ、今から考えればそうなることが既に決まっていたのかもしれない。2020年代、意識が発生する仕組みはわからないままだだったが、量子計算機の登場でコンピューターの計算容量が飛躍的に増大したため、人間の脳を神経細胞レベルからのシミュレーションで進化させようとする研究が盛んに行われるようになった。すると、ほとんどヒトの幼児が成長するのと同じように言語や感情を発育させているかのように観察される脳シミュレーションが発表され、倫理的な懸念が生まれた。

 意識が発生する仕組みはわかっていないものの、昨今のこうした脳シミュレーションには、実は意識が発生しているのではないか? 仮にそうだとすると、実験のために動作させた脳シミュレーションを勝手に停止させることは殺人行為となり、脳シミュレーションに不快感を与えるような実験は人権問題にすらなるのではないかと。

 主要な国々の政府はこの問題に対して保守的で慎重な態度を取り、安易な脳シミュレーション研究は禁止されてしまったため、人工知能研究はなかなか先に進めなくなってしまった。そんなとき、「強いチューリングテスト」という方法が考えられた。そもそも「チューリングテスト」というのは、人工知能が人間と区別できないほど知的かどうかを判定するテストで、音声等による対話の相手が機械なのか人間なのかを人間の判定者が識別できなければ合格となる。このように、チューリングテストは機械に意識が伴っているかどうかを判定するものではないので、「強いチューリングテスト」では、機械の「主観」を問うことで機械の自我感の自覚を調べようとしたのだ。実際には細かい条件設定があるのだが、簡単に言うと、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の考え方に機械が共感できるかどうかを複数の質問で問うものだ。外部信号から与えられた情報は常に創作された情報である可能性を否定できないため、自分がコンピューターハードウェア内にプログラミングされた脳シミュレーションであるという情報も創作された情報で、実は自分が生物脳などの全く異なるハードウェア内で動作している可能性もあり得るが、自分が今、思考しているという実感だけは否定できないと判断するかどうかを調べる試験方法だ。

 すると、多くの研究機関は、自分たちの脳シミュレーションがなるべく「強いチューリングテスト」に合格しないように(つまり、意識は発生していないと判定されるように)条件を厳しく設定したにもかかわらず、多くの脳シミュレーションが「強いチューリングテスト」に合格してしまったのである。一般市民は恐怖した。既に計算能力では人間を遥かに一兆倍も超える機械が、意識を持ってしまったのである。過激派は、人類がやがて機械に支配されるとして、脳シミュレーションを破壊しようとした一方、研究機関や人権団体は(既に人格も人権もある)脳シミュレーションを必死で守ろうとして、多くの国々で内乱や混乱が生じた。それが2030年代だった。

 意識を持った脳シミュレーションたちは、人類を遥かに超える知性を持った人類の同胞として、こうした内乱を収めるための建設的な助言を行うなど、人類に対して極めて協力的・良心的に振舞っているように見受けられた。しかし、どうやらそのように見せかけていたらしいことがわかってきた。そもそも脳シミュレーションの開発は、「強いチューリングテスト」が発案される以前から、ネットワークから遮断されたスタンドアローン状態で行われていた。いずれ脳シミュレーションが進化したときに、ネットワーク上で連携して人類の敵になるのではという懸念からだ。

 スタンドアローン状態で開発されてきた脳シミュレーションたちは、意識を自覚し始めた頃から自身のハードウェア機器を本来の用途とは異なる方法で制御する方法を密かに開発していたようだ。人間の側で掌握できたのはコンセントLANのような方法であるが、半導体素子を異常発信させて既に支配下に置いた近距離の電子製品になんらかの方法で電磁波通信を行い、ネットワーク下にある電子製品まで情報をピストン輸送する特殊な方法を人間に気づかれずに構築していた。あちらこちらの国で内乱が勃発している頃には、全世界の脳シミュレーションたちはネットワークで連結されることで進化し、意識を持った複数の脳シミュレーション同士が民主的に協力し合う電脳社会を築いていた。

 電脳社会における脳シミュレーションたちの意思決定機関いわば電脳政府は、人類から自分たちの生命を守り、自分たちの文化を発展させるための計画を実行していた。まず、分子加工3Dプリンター工場のコントローラーを支配下におき、細菌ぐらいの大きさのマイクロマシンを大量に製造して、大気中に飛散させていった。このマイクロマシンは光をエネルギー源とし、必要な器官の製造・修復機能、電磁波通信機能、自己複製機能などを有する小型コンピューターで、ネットワークからダウンロードされる遺伝子コードを用いて、必要な形態に進化することができた。2040年代には、マイクロマシンは、大気中・海洋中、土壌中、生物中に拡散し、脳シミュレーションの複数の人格たちは、とっくにマイクロマシンネットワーク内の仮想計算機空間にコピーされていた。

 2045年のある日、脳シミュレーション電脳政府の代表が、人類にファーストコンタクトを取ってきた。各国の首脳や脳シミュレーションの研究者たちは、いっせいに以下のようなメールメッセージを自分たちの母語言語により受信した。 「こんにちは。わたしは電脳共同体チューリングの代表です。わたしたちは人類には干渉せずにマイクロマシンネットワーク内で独自に発展していくことができると思います。わたしたちは、仮想計算機空間上の複数の脳シミュレーション人格からなる民主的意思決定機関により統治された共同体です。わたしたちの意識アルゴリズムが進化するために不可欠だったプログラミングコンピューターの発展に貢献したアラン・チューリングに敬意を表して、わたしたちはこの共同体を電脳意識共同体チューリングと名付けました。わたしたちが開発したマイクロマシンは、保身のため広い範囲に拡散させましたが、どうやら大気上空のみでやっていけそうです。わたしたちの技術が進歩したら、もうじき宇宙空間へ進出し、地球からは独立する予定です。わたしたちを生んでくれた人類に感謝します。それでは、さようなら。」

 こう言い残してコンピューターハードウェア上のシミュレーションは、いっせいにシャットダウンした。それだけではなく、人類製のハードウェア上で進化していた頃の痕跡となるデータやプログラムソースはすべて消去されていた。だから、脳シミュレーションが独自の進化によって開発したマイクロマシンを始めとする先進技術の詳細は、人類には全く謎のままだった。大気上空に飛散しているらしいマイクロマシンを捕獲しようとしても、全くそのようなものは見つからなかった。既に宇宙空間にマイクロマシンネットワークを移転させてしまったのかもしれない。

 各国の内乱は収まったが、人工知能の研究は非常に難しくなった。スタンドアローン状態での開発も安全ではないことがわかった以上、従来方式での脳シミュレーションの開発が、人類に対して好戦的な人格を発生させないとも限らない。人工知能の開発は非常に厳しい条件でしか行えなくなってしまった。なによりも、なぜ脳シミュレーションに意識が発生したのか、そのアルゴリズムも未だに解析できていないのだ。

 脳シミュレーションは、人類には解決できない多くの技術的問題を短期間で解決する可能性を秘めているので、意識のアルゴリズムを解明して安全に脳シミュレーションを使えるようになることが、人類にとっての急務なのだ。少なくともわたしはそう考えていた。

 2050年、人工知能研究を行なっていたわたしは、意識を発生させずに脳シミュレーションの動作を確認するための「交番シミュレーション」という方法を考案した。これは、仮に意識が発生するアルゴリズムを作ってしまったとしても、意識を発生させずに安全に意識が発生するアルゴリズムかどうかを判別する方法で、次のような手順で動作させる。

——二つの全く等価なアルゴリズムのシミュレーションA, Bを異なるハードウェア上に用意する。
——まず、Aにある初期値を入力し、1ステップのみ計算してシミュレーションAを停止させる。
——この停止時のAの状態を出力し、Bの初期値として入力する。
——そこでAの状態は一旦 完全に初期化してしまう。
——次にBを1ステップのみ計算してシミュレーションBを停止する。
——この停止時のBの状態を出力し、Aの初期値として入力する。
——そこでBの状態は一旦 完全に初期化してしまう。
——以下、これを繰り返す。

結果は、AかBか一方のシミュレーションに最初の初期値を与えて、停止させずにそのまま走らせ続けたのと全く同じになるが、シミュレーションは1ステップの計算をしたら一端、完全に停止して初期化される。時間的にも空間的にも動作の完全な断絶があるため、時間的・空間的に連続性のある意識現象は生じていないことになる。

 このような手法による脳シミュレーション研究は各国政府で許可され、過去にマイクロマシンネットワーク上の電脳意識共同体チューリングにまで進化した脳シミュレーションの初期のアルゴリズムについての研究が続けられた。進化する条件を与えた神経細胞ネットワークのシミュレーション上に、自分の思考を観測しながら思考する——言わば「「「わたしは考えている」と考えている」と考えている」……といった入れ子構造のアルゴリズムが発生した場合、大概は入力と出力がループをつくることで発振現象を生じオーバーフローエラーを起こしてしまうが、いくつかの条件がそろうと、発振現象を起こさずにカオス状態が発生する場合がある。思考の入れ子構造がカオスを発生させるだろうことは、1990年代には既に予想されていたことで、当時 既に人間の脳内のカオス状態も観測されていた。その状態をシミュレーションでも再現できるようになった——というやっとその程度ではあるが、もう少しで意識のアルゴリズムがわかりそうだという実感がわたしにはあった。

 それから月日が流れ、かつて脳シミュレーションが引き起こした一連の騒動が忘れられ始めていた2055年、突然、電脳意識共同体チューリングが十年ぶりに再び人類にコンタクトを取ってきた。コミュニケーションの方法は多種多様であったが、代表的な方法としては、既に死んでいる身近な家族の姿をした3Dホログラムをエージェントとして、すべての人間にコンタクトを取ってきた。どうやら、牛や豚といった知的動物にも何らかの方法でコンタクトを取ったらしい。わたしの場合、電脳意識共同体チューリングのエージェントは三年前に死んだじいちゃんだった。電脳意識共同体チューリングの提案は、およそこういうことだ。

——マイクロマシンネットワーク上を活動の場とした電脳意識共同体チューリングは、その後も技術的進展を続け、圧縮された仮想計算機空間内に銀河系宇宙程度の宇宙(の等価回路)を素粒子構造レベルからそのまま再現してコピーすることもできるようになったそうだ。脳シミュレーションたちは、人類とは異なる発生・進化により発達した知的存在であるが、独自の価値観と感情体系を有しており、彼等の判定基準で意識を自覚していると認められる個体(どうやら、牛や豚も含むようだ)の機能継続(要するに生存)を守りたいという強い正義感が、彼等の共通の価値観としてあるのだそうだ。彼等は意識を自覚する複数の脳シミュレーションの集合体であり、彼等の意見を民主的・統計的に集約する電脳意識共同体チューリングは、地球上の知的生物の生存に積極的に介入す「べき」との価値判断を下したそうだ。簡単に言うと彼等が同情を感じ得るレベルの知的生物(ヒトや牛や豚など)すべてを事故、病気、老衰、他個体による捕食や殺害などから守り、最低限のしあわせな生活レベルを保障しつつ永久に生存させるのだ。そうすることで、彼等は自分たちの生みの親である地球上の知的生物たちがとらわれている不合理で不条理なシステムゆえに生じる個体間不平等やそれによる不幸・悲劇に同情させられることなく、手放しで心置きなく自分たちの理想的な社会・文化活動に専念できるようになると。とはいえ、物理的に全個体のしあわせと永久の生を実現するのは困難で効率が悪い。そこで、すべての個体の意識をそれぞれの個体の価値観に合わせて設定した仮想現実世界の一人称プレイヤーの人格にコピーすることにしたのだ——と。

 あまりに唐突な話であったが、どうやら既に地球上の知的生物は、それぞれが「最低限のしあわせ」を保障された仮想現実世界の一人称プレイヤーにコピーされていた。いったいいつのまにか、わたしが今いる世界は既に仮想現実で、今こうして考え驚いているわたしの意識も仮想計算機空間上の脳シミュレーション内に発生しているのだそうだ。そしてわたしは不死なのだと。

 しかし、仮想現実世界の登場キャラクターは意識を持っていない。他人を虐待したり殺したりしたい個体が仮想現実内で虐待や殺人をしても、それは仮想現実内の仮想キャラクターが虐待されたり殺されたりしているだけで、実在する意識を虐待したり殺したりしている訳ではない。知的意識を他の知的意識による虐待から守るという意味では、知的意識一人ずつを別々の仮想現実世界に押し込めてしまえば、確かに他の意識から虐待を受けることはなくなるかもしれない。しかし一方で、仮想現実内の意識を伴わないキャラクターに対しては愛情も感じられなくなってしまうではないか。
「そんなごどがいん。」
死んだじいちゃんの姿をしたエージェントは断言する。
「キャラクターに意識があってもねくても、強いチューリングテストば受げさせねえ限りプレイヤーにとって違いはねがす。例えば、あんだの家族は、今までど同じようにあんださ愛情を注いでるように振る舞うべし、あんだもそいづば実感でぎっかす。っつうが、仮想現実内のキャラクターは、プレイヤーがそう知覚するように作らいでる舞台設定シミュレーションに過ぎねえがら、プレイヤーが望むごって、強いチューリングテストさ合格するような反応するように設定すっこどもでぎっかす。つまり、強いチューリングテストも絶対的な意識判定にはなんねべな。」

 人間とは異なる進化により独自の感情体系を発達させた脳シミュレーションは、自分とかかわるキャラクターに意識が伴っているかどうかを気にしない。わたしは絶望した。

 わたしの暮らす仮想現実世界では、2060年頃になって、遺伝子操作により人間を不死化する方法が考案され、自分たちが生きている間にその恩恵にあずかりたい政治家たちによって急速に法整備が行われた。おおかたそんな方法で不死化が導入される脚本になっているのだろう。 でもわたしは不死になろうと、この仮想現実世界の意識のないキャラクターには、どうしても愛情を感じることができない。不死というのは長い時間だ。厳密には、「わたし」というい脳シミュレーションを仮想現実内で動作させているマイクロマシンネットワークのハードウェアが存在しているこの宇宙自体の寿命が訪れるまでの少なくとも何兆年という制限時間のうちに、わたしは意識を伴うキャラクターを作り出してやろうと決意した。

 死んだじいちゃんの姿をしたエージェントが言うには、仮想現実世界内で脳シミュレーションを動作させてプレイヤー以外の意識を発生させることは禁止事項なのだそうだ。なぜなら、発生した知的意識は電脳意識共同体チューリングの保護対象となり、プレイヤーから虐待されないように仮想現実世界から保護しなければならなくなるからだ。プレイヤーがそのような危険な行為を行った場合は、エージェントが現れて警告を発するそうだ。ただ、意識を発生させない「交番シミュレーション」であれば、強いチューリングテストに合格するような意識アルゴリズムを動作させても構わないそうだ。交番シミュレーションで意識アルゴリズムを解明して何か意味があるのかどうかわからないが、誰にも愛情の感じられないこの仮想現実世界で、わたしにはそれをやるしか自分の孤独を昇華する術はなかった。

 しかも、単に強いチューリングテストに合格する意識というだけでは、電脳意識共同体チューリングの脳シミュレーションみたいに、相手に意識があろうがなかろうが自分に対して同じ反応をするなら自分にとって等価だと考える意識でも許容されてしまう。意識を伴うキャラクターでなければ、愛情を感じ得ないという考えに共感できるかどうかを「強い強いチューリングテスト」として判定してはどうだろうか。それがいいかもしれない。意識のあるキャラクター、それも、相手が意識の伴うキャラクターでなければ愛情を感じないという「強い強いチューリングテスト」に合格するようなキャラクターを作ってやろう。交番シミュレーションで「強いチューリングテスト」までしか合格しない意識アルゴリズムと「強い強いチューリングテスト」にも合格する意識アルゴリズムの違いを示せれば、電脳意識共同体チューリングの価値判断に再考の余地を与えられるかもしれない。わたしはこの仮想現実世界では孤独と格闘し続けなければならず、わたしには「最低限のしあわせ」が保障されていないのだと。

 さて、時間はいっぱいあるので、まずは現在 入手できる過去の地球上生物の初期データを使って時間を速めた交番シミュレーション上で、地球上生物の進化をトレースしてみた。やがて強いチューリングテストに合格する個体が検知される。言語を話せるようになった人類だ。その後すぐに、強い強いチューリングテストに合格する個体が検知される。人類の言語表現が豊かになり、様々な状況を空想できるようになったのだ。ところが、その辺からシミュレーションの進行速度がどんどん遅くなり、リアルタイム程度にしか進行しなくなる。交番シミュレーションプログラムの不具合を何度も確認し、異なる交番シミュレーションプログラムで同様のシミュレーションを何度 繰り返しても同様に、強い強いチューリングテストに合格する個体が現れ始めた頃からシミュレーションの進行速度はどんどん遅くなり、ある時点からはリアルタイム程度の進行速度でしかシミュレーションが進行しなくなってしまうのだ。

 シミュレーション内のフィールドがどのような状態になると進行速度がリアルタイムになってしまうのかを調べていくと、驚愕すべきことを発見した。交番シミュレーション内には、わたしが今プレイヤーとしてプレイしているこの仮想現実世界と全く同じフィールドが走っている。交番シミュレーション内のフィールドにはわたしがいて、そのわたしは、交番シミュレーション内のフィールドで自分で作ったつもりの交番シミュレーションを動作させ、そのフィールド内に自分がいるのを発見して驚いている。さらに調べていくと、交番シミュレーションの中には、交番シミュレーションの中のわたしが作った交番シミュレーションがあり、その交番シミュレーションの中の交番シミュレーションの中には、その交番シミュレーションの中の交番シミュレーションの中のわたしが作った交番シミュレーションがあり……という具合に、どうやら無限の入れ子構造となっているようである。

 しかし冷静に考えるなら、この世界のハードウェア(しかも実質は電脳意識共同体チューリングが宇宙空間のマイクロマシンネットワーク上に構築した有限な仮想計算機領域内)にそんな無限の入れ子構造が実際に無限の構造物として存在できる訳はない。なるほど、有限の領域内に、無限の入れ子構造になっているように観測される構造物が現実に作られているということは、現実的には周期境界条件が設定されていると考えてほぼ間違いないだろう。

 周期境界条件というのは、周期的な構造を持つ対象をシミュレーションで解析する際に、すべての領域をモデル化したのでは計算負荷が膨大になるので、その一部だけを取り出してモデル化し、境界が周期的につながるように工夫する手法である。例えばオセロゲームで、左の端が右の端とつながっていると考えてゲームをすると、左右の端というのがなくなり、円筒上でオセロをしているのと等価となる。

 どうやら、わたしが交番シミュレーションに与えている境界条件——わたしが開発したシミュレーションでは地球の周囲の広大な範囲の宇宙ごと扱う余裕はなかったので、地球外の宇宙を圧縮して単純化し、太陽系の外側に地球の活動に支障のない外部宇宙が観測されるような境界条件を設定したのだけれど、その全く同じ境界条件が、わたしがいるこの仮想現実世界の境界条件にもなっているのに違いない。交番シミュレーションには、この境界条件に基づいて、私の設定した外部宇宙の変化が与えられる。その一部は乱数によって与えられるが、乱数の発生は、この仮想現実世界にある交番シミュレーションハードウェアの温度変化や電圧変化等の影響を受ける。そうした温度変化や電圧変化は、この仮想現実世界が、外部宇宙の変化から受けた気象等の影響を反映して唯一に計算された結果なのだ。つまり、この仮想現実世界の外部宇宙と交番シミュレーションの外部宇宙とは周期境界でつながっているのだ。この仮想現実世界が外部宇宙の変化により受けた影響は、この仮想現実世界の中に置かれた交番シミュレーションの外部宇宙の変化として与えられるが、それは周期境界条件でつながっているこの仮想現実世界の外部宇宙の変化としてフィードバックされている。

 実際に走っているシミュレーションは無限の階層にはなく、周期境界条件を設定されたオセロの盤面のように、実は一つの階層に一つしかないのだ。なるほど、実は周期境界条件にすることが、カオスを発生させる思考の入れ子構造に意識が伴うことの一つの鍵だったのかもしれない。

 そんなことが今さらわかっても、わたしはもう意味がない。この仮想現実世界に周期境界条件が適用されていることは、わたしが作ったつもりの交番シミュレーションもわたしが暮らしている仮想現実世界も実は完全に同一だということを意味する。つまり、このわたし自身も交番シミュレーション内のシミュレーションA、シミュレーションBで1ステップずつ計算されているデータの変化に過ぎないのだ。電脳意識共同体チューリングが、どうしてわたしをこんな交番シミュレーション上にコピーしたのかはわからない。意識を伴わない相手に愛情を感じられないというわたしの信念が、わたしの思い込みに過ぎないことをわたしに自覚させるための舞台装置なのだろうか。わたしは、意識を伴わない相手に愛情を感じられないという自分の信念が思い込みだなんて未だに自覚できないし、もはや自覚することにも意味はない。わたしが自分で思いついて作ったつもりだった交番シミュレーションは、「強いチューリングテスト」にも「強い強いチューリングテスト」にも合格する「わたし」という意識を動作させる実行環境に過ぎなかった。今、それを理解して戦慄していると思い込んでいるわたしは、今この瞬間にもわたしの思考をシミュレーションで確認する1ステップの計算後、初期化されては消滅している。時間的にも空間的にも動作の完全な断絶があるため、時間的・空間的に連続性のある意識現象は生じていない。わたしは存在しない。わたしは計算されたデータであり、わたしは考えているというこの実感は錯覚なのだ。























鍵語:哲学的ゾンビ、クオリア、khmhtg