(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

漢字廃止論への疑問

Funkcio de Ĉin-literoj en Nipon-lingvo

. Iuj insistas, ke la Nipon-lingvo forĵetu Ĉin-literojn kaj ke havu nur son-montrajn literojn kiel `kana' aŭ Latinajn literojn, por ke ĉiuj Nipon-anoj povu facile legi kaj skribi ilin. Sed mi ne tute konsentas pri la opinio laŭ kelkaj punktoj jenaj.

1. Oni povas konjekti signifojn de eĉ malfacilaj vortoj, kiuj konsistas el kunmetitaj Ĉin-literoj, kiujn oni ordinare uzas ankaŭ por facilaj vortoj, sam-kiel Esperantistoj konjektas signifon de kunmetitaj esperanto-vortoj el bazaj radikoj.
2. Ĉin-litero povas esti speco de pont-litero inter Nipon-anoj, kiuj parolas lok-dependajn diversaĵojn de Nipon-lingvo.
3. La son-montra litero ne povas esti `son-montra' litero por lok-lingvo-parolantoj, kiuj ne parolas la norman Nipon-lingvon.

注意
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko

目次
漢字には長所と短所がある
複雑な漢字より表音表記の方が簡単か(98/3/11更新)
方言語彙を高級語に導入するのがよいか
漢字は方言表記に有効
表音表記は方言話者に不利
目の見えない人には無意味
覚えるのが難しい
カナノヒカリへの意見
カナモジカイへの意見
日本語ローマ字化には反対
「…わ」「…とゆー」等の表音表記
追記(98/6/5)
どうしても日本語を表音表記するとしたら


 私の掲示板で、日本語の文字表記や造語法についての書き込みがありました

北海道エスペラント連盟の頁の投稿記事 「日本語カナ文字・ローマ字論への初歩的な疑問」も是非 参照して下さい (川合氏は私の友人)。

 漢字を廃止した際の日本語の表記として、仮名文字を用いることを 提唱している 「財団法人カナモジカイ」の頁や、ローマ字を用いることを提唱している 「日本のローマ字社」の頁も参考に。尤も、カナモジカイの国語国字問題Q&Aによると、「私たちは、漢字をこの世から抹殺しようなどと考えているわけではありません。私たちの主張は、日常生活 では漢字なしで済ませよう、ということです。」という主張のようです。そういうことであれば、「 漢字は読めさえすれば、書くのはパソコンを使えばいい」という私の主張とも、やや近いかも知れません。

 また、たてまつさんの「科学で乾杯!」の頁の 「日本語の表音表記について」では、 ローマ字に濁音記号を導入することを提唱している (確かに、東北語を通常のローマ字で表記すると、「カ行」や「タ行」が濁点化する ために読みにくくなる)。

 ついでに、冬樹 蛉さんの「掌編小説(?)コーナー」の 「読者からのお便り」 は、漢字を読めないという「障害」を持つ人からの「投書」が作品となっており、 色々と示唆するものがあります(因みに冬樹さんの他の随筆や日記の頁も 私には色々と面白い)。

 社団法人日本ローマ字会 の提案する 「99式」日本語のローマ字表記方式 は、 助詞の「へ」「は」「を」を he, ha, wo と書くことも許しているので、 私の仮名対応式ローマ字は「99式」ローマ字に 含まれそうです。


 言語学者でエスペラントにも好意的な田中克彦氏や 民族学者でエスペランチストの梅棹忠夫氏 など、言葉の問題に関心を持っている人で 漢字廃止を唱える人は多く、 日本人のエスペランチストにも、漢字廃止論や日本語ローマ字化を 支持する人が結構いるようです。 私自身は漢字擁護派の鈴木孝夫氏などの考え方の方にむしろ共感を覚えますが、 更に方言表記への漢字の利用の可能性なども考え合わせると、 今のところ、やはり漢字はあった方がいいと思っています。 先日、日本エスペラント学会の機関紙『La Revuo Orienta』(1997年6月号)の 新会員の自己紹介の欄で 「漢字廃止や日本語ローマ字化には不賛成」と書いたところ、 漢字廃止を支持するエスペランチストの知人から、 カナモジカイの機関紙『カナノヒカリ』(890号)を送って戴きました。 漢字廃止の是非については、前々から自分の考えを書いておこうと思って おりましたが、これを機会に、現時点の自分の考えを 綴ってみました(例によって、まだまだ整理し切れていません)。 尚、文中 「漢字かんじ」のように書いてあるところは、 「漢字」という字に「かんじ」という振り仮名が振ってあるものと 思って下さい。

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はじめに

 まず、「文字表記が一部の知識人や選良にしか使いこなせないようなものではなく、庶民が誰でも自由に使えるようなものにすべきだ」ということについては私も賛成です。一方で、民族の文化を尊重すべきであるという視点からは、一定の歴史を持つ文字表記も、文化の一つとして尊重されるべきものだとも思います。 尤も、文化の中には弊害もあり、例えば家父長制に象徴されるような性差別の文化などは、なくなってしまってよいと思います。 もし日本語表記における漢字文化が、性差別文化のように多大な害悪を与えるに過ぎないものであるならば、漢字は廃止されるべきものかも知れません。 日本語表記における漢字の利用には、長所もあれば短所もあると思います。 その短所だけを強調して漢字廃止を唱えたり、長所だけを強調して漢字廃止を 批判することは、いずれも説得性に欠けると思います。 私自身も漢字利用の長所と短所についての十分な知識があるとは言えません。 但し今のところは、その少ない知識なりに、長所と短所とを天秤にかけると、 漢字は廃止しない方がいいと思っています。 勿論、その価値判断には私の心情的な部分も絡んでいる訳ですが、 言葉のように社会と関りのある問題の価値判断といったものは、所詮、 主観から自由ではあり得ないでしょう。 だから、私の価値判断がどのように偏向しているかを知って戴くために、 私の心情的な立場を予め書いておくべきでしょう。 私の母語は宮城県石巻地方で話されている日本語(月並みに言えば石巻弁)であり、私が民族的な愛着を持って守りたいと考える第一の言語は、 標準日本語ではなく、石巻弁であります ( 石巻語辞書石巻語詩 )。 そして、 激減しつつある方言の一つを母語とする者としての共感から、 他の地方の多様な日本語方言も保存されてほしいと願うし、 更には、世界の少数民族の言語も保存されてほしいと願っています。 そうした心情はエスペラントを始めた動機の一つでもあります。

 さて、漢字の長短を論じる際、標準日本語または古典に現れるような「中央の」やまと言葉のための表記文字としてのみ捉えるか、多様な日本語方言の表記としても捉えるかで、若干、長短の意味がずれてきます。 標準日本語の表記に限定した場合の漢字の長所については、鈴木孝夫氏が著書『日本語と外国語』(岩波新書)とかで主張している通りだと思うし、 こうした主張については、漢字廃止論の方々も既に知っていることだろうと 思いましたので、La Revuo Orienta の「はじめまして」の欄には、 方言表記に利用した際の長所のみに触れました。

 では、方言表記に利用した際の漢字の有用性なども含め、漢字の長短を以下に考察していきたいと思います。

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「数十個の仮名文字の他に複雑な図形からなる漢字を数千個、適切に組み合わせて単語を綴る方法を覚えるよりも、 仮名文字またはローマ字などの単純な図形からなる文字を数十個だけ 使って表音表記で単語を綴る方法を覚えることの方が遥かに易しい」

 確かに、自分の既に知っている語彙を文字で表記することだけに着目するならば、表音表記の方が楽に習得できるでしょう。 しかし、初めて出会う単語(しかも新しい概念や難しい単語や専門用語など)を覚えたり、 あるいはそういう単語をも含む他人の書いた文章を読む際にも、 表音文字のみの表記の方が楽かというと、 そうも言えなくなってくると思います。 今日の日本語では、いわゆる高級語や専門語の大部分は、やまと言葉ではなく 漢字熟語が占めています(最近は英語外来語に基づくカタカナ専門語も急増していますが)。 恐らく漢字廃止の立場の人は、このこと自体が既にやまと言葉の破壊に繋がっていると考えるでしょう。 確かに私もその点は否定しないし、高級語や専門語をわかりやすいやまと言葉でも十分に表現できるのなら、その方が好ましいと思います。 例えば朝永振一郎氏が 英語の「renormalization theory」を「再標準化理論」などと訳さずに「くりこみ理論」と訳したというような姿勢には私も好感を覚えます。 しかし「くりこむ」のように既にやまと言葉の中に日常語としてある言葉で代用できる場合はそれでいいのですが、 「やまと言葉」にはないような 新しい概念の高級語や専門語を造語する場合、漢字熟語とやまと言葉では、 やまと言葉で造語する場合の方が、音節数が多い長い単語になってしまうような気がします。 一般に漢字の訓読み(つまりやまと読み)の方が音読みよりも音節数が長いということから安直に考えると、ある漢字熟語に相当する意味のやまと言葉が思い付かない場合、 それをやまと言葉で表現するには、その漢字熟語を訓読みした程度の長い単語になるのではないかと思います (例えば「時計」なら「と(き)ばかり?」とか「遺伝」なら「のこしつたわり?」とか)(*1)。

(*1) 単音節は「子音+母音」の一種類しか持たない日本語に比べると、 ヨーロッパ語の場合は二十種類前後の単音節を持っているため、 多くの単音節語を作り得る。しかし、それでも ドイツ語などのように 基本語から高級語を造語する傾向の強い言語では、やはり多かれ少なかれ 単語が長くなってしまうことは避けられない。 つまり、漢字熟語において簡潔で短い多くの高級語が造語できるのは、 中国語の基本語の大部分が、やまと言葉やヨーロッパ語に比べて、 圧倒的に短い単語で表せるからであろう。中国語では、こうした短い基本語を 発音し分けるために発音が難しいという「欠点」を伴うが、 一方、発音が簡単な日本語では、その代わり同音異義語が増えるという「欠点」 を伴う。そして日本語では、この「欠点」を補うために良かれ悪しかれ 漢字の視覚的補助をかなり利用している。 誰にでも容易に習得できることを志向する人工語においてすら、 発音の容易さ、高級語造語の容易さ(基本語の短さ)、同音異義語の少なさ の全てを同時に満たすことは難しく、 どこかに短所ができてしまうことは避けられない。 例えば、エスペラントは発音は容易で同音異義語も少ないが、 基本語からの高級語の造語を徹底するには 基本語の語幹が十分に短くはなく(それだけが理由ではないだろうが)、 やはり高級語はラテン語やギリシャ語の高級語の語幹をそのまま取り入れて しまっている (この問題については 「使いたくないエスペラント単語集」の頁)。

しかし、長い単語は不便なので、それが頻繁に使われるようになると、 一般に省略されて短くなってしまいます。 現に英語外来語などは日本語になると音節数が増えて長くなるために、かなりが省略化されて短くなっています(例えば「パーソナル=コンピューター」を「パソコン」とか「ゼネラル=コンストラクター」を「ゼネコン」とか)。 このような現象は、恐らくやまと言葉によって造語を行なっても避けられないことだろうと思います。

 漢字熟語の批判として、同音異義語が多いというものがありますが、膨大な数の高級語や専門語を短い単語で造語しようとすれば、音素の少ない日本語の音韻構造の制約がある限り、漢字熟語で造語しようがやまと言葉で造語しようがカタカナ外来語で造語しようが、多かれ少なかれ同音異義語はできてしまうだろうと思います(今日の漢字熟語語彙の大部分をやまと言葉に置き換えてみるといった試みはなされているのでしょうか。 もし今日の大部分の漢字熟語語彙が簡潔なやまと言葉に置き換え可能で、しかも同音異義語も極めて少なくなるといった研究結果とかがあれば、 私も少し考え直します。 方言語彙も導入すれば、やまと言葉の語彙は更に拡大しますが、 その場合に生じる新たな問題については後述)。

 尤も、文章を高級そうに見せようとして、日常的な やまと言葉で十分に表現できる単語が、漢字熟語で置き換えられる傾向は、 日常的な日本語で十分に表現できる単語がカタカナ外来語で置き換えられる傾向と同様に、 漢字熟語やカタカナ外来語の持つ弊害の一つだとは思います。 しかし日常的なやまと言葉では言い表せないような専門語を造語する場合、 漢字熟語を利用する長所は大きいと思います。 漢字熟語は、一般に基礎概念を表す日常的な単語の組み合わせとして造語されるからです。

 ある言語の高級語や専門語の語彙には、 大きく分けると二つの種類があります。 一つは、外国語をそのまま借用してきた外来語が定着したもので、 もう一つは、既存の基礎的な単語の組み合わせによって造語したものです。 例えば英語の場合、高級語や専門語の多くはギリシャ語やラテン語から取ってきているので、こうした単語は、始めて見る人にはどういう意味かまるで見当がつかないし、意味を知ったところで全く新しい単語として覚えなければなりません。 日本語のカタカナ外来語もそういう性質のものでしょう。 これに対し、漢字熟語の場合、それを構成している個々の漢字を、その意味に相当する日常的なやまと言葉の訓読みとして利用していれば、 少くとも文字を見た場合には、始めて見る単語でもおおよその意味は推測できるし、また、そうした日常語との関連のおかげで覚えやすくもなるでしょう (関連掲示03/1/2)。 このように基礎単語から高級語を造語する傾向は、 ドイツ語にも認められますが、 英語などのように外国語の高級語をそのまま借用するやり方よりは、 より庶民に高級語が解放されているということなのではないかと思います (エスペラントも潜在的にはかなりの造語能力を持っているが、 漢字熟語のようには、基本語からの高級語の造語をまるで徹底しておらず、 ヨーロッパの高級語の語幹をそのまま借用してきている。 この問題については「使いたくないエスペラント単語」の頁)。

 尤も、中国語やドイツ語の場合は、基礎概念を表す日常的な単語が、 その読み方を変えずに、元のオトのまま組み合わされて造語されるから、 文字を見なくとも、オトだけでも、始めて耳にする高級語の意味を推測できる という利点はあるかも知れません。 しかし、前述したように音素の少ない日本語の場合、 日常的な大和ことばだけで造語をすれば、 音節が長くなりすぎて実用的ではないと思うし、 その結果、省略や短縮化が生じた場合、逆に意味が分かりにくくなることもあるのではないかと思います (因みに、中国語は発音が難しいという「欠点」を伴い、ドイツ語は単語が 長くなるという「欠点」を伴う) 。

 一方、漢字熟語として造語された単語でも、あまりに長くなりすぎると、 やはり省略、短縮化されますが、この場合、適切な漢字だけを残せば、 短縮形でもかなり意味が分かります (「自動販売機」を「自販機」とか「電子計算機」を「電算機」とか)。 その意味では、漢字熟語は短縮化に極めて適した表記であり、 単語の音節が長くなりやすいために短縮化が生じやすい日本語 にとっては、カタカナ外来語などよりも、より適した高級語の表記方法ではないかとも 思えます(「パソコン」や「ゼネコン」では何のことか分からない。 更にヨーロッパ語においても、APSとかECUとかSAといった 多数の「頭文字略語」が使われるが、頭文字では始めて見て 意味を推測する手がかりにはならないし、現に「同音同文字異義語」が 多数存在するが、漢字熟語の略語は文字で意味を推測でき、同音異義語を識別できる 点でより優れているとも言える)。

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「やまと言葉の方言語彙を導入することによって、高級語や専門語の多くを、可能な限りやまと言葉で表すのが良いのではないか」

  専門語の類で、方言語彙の中にぴったり該当するものは、なかなかないでしょうが、 ある種の高級語の場合、方言語彙では日常的に使われている簡単な言葉で 表せるものも多いことでしょう (方言語彙の豊富さについては、 山本和英さんの「ふるさとの方言」の頁 参照)。 例えば「違和感がある」「責任転嫁する」「撹拌する」「執念深い」 「弁償する」といった漢字熟語は、 私の母語の 石巻弁 では、それぞれ「いずい」「かつける」「かます」「ねっちょぶげえ」 「まやう」という 日常語でほぼ近似的に置き換えることができると思います。 このような方言語彙が、もっと「共通語」語彙に採用されることによって、 東京方言に偏向している現行の「標準語」が中立化されることは、 私のような方言話者からするとなかなか好ましいことだと思います。 しかし、一方で、日本語語彙の中にこうした方言語彙が増えていくと、 その語彙を母語に持たない地域の人々にとっては、所詮それは高級語に 留まる訳です。 つまり、英語の中のギリシャ語系またはラテン語系高級語が分かりにくい のと同じような不都合が生じるでしょう。 但しこの不都合は、橋渡し表意文字としての漢字を使えば、 だいぶ解消できるものかも知れません。 例えば「違和感いずい」 「責任転嫁かつける」 「撹拌かます」 「執念深ねっちょぶげえ」 「弁償まやう」などと 書けば、石巻弁を知らない人でも大体の意味は分かるでしょう。 勿論、こうした漢字が読めるくらいの人には、 日常語としての石巻弁のやまと言葉的なオトよりも、 漢字熟語としてそのまま音読みしたオトの方が馴染み易いと思うかも知れません。 勿論、私も方言語彙を知らない人に、こうした語彙を使うことを強制しようとは思いませんが、 方言話者が、 自分たちが日常的に使っている語彙を書き言葉の中に使う権利はあると考えています。 そうした語彙は、漢字を橋渡しにすれば、かなり他地方の人にも理解されるのではないかという可能性に私は期待したいと思っています。

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「漢字は方言表記に有効である」

 これだけ「標準語」教育が徹底され、 また「標準語」表記が浸透した現在においては、 今さら書き言葉を方言で表記することの利点はあまりないようにも思えるかも知れません。 「話し言葉」については方言の方が圧倒的に喋りやすい私でも、 「書き言葉」ならこの程度の「標準語」で自由に書くことができます。 但し、それは石巻弁程度では、十分に「標準語」との相関が高いからであって、これが、例えば津軽弁話者くらいになると、 「書き言葉」すら方言で書いた方が楽になるのかも知れません。 蛇足ですが、 ワープロが普及し始めた頃に青森では、「標準語」にしか対応していない ワープロは 自分の思い通りに漢字変換してくれないので、 「のワープロ壊れでる」と大騒ぎになったとかいう冗談めいた噂を聞きましたが、 十分に有り得る話だと思いました。 というのは、私は最近、岩手の一ノ関出身の友達と、互いの 母語のみで電子メールのやりとりをし続けているのですが、 現行の日本語ワープロが方言対応にはなっていないので、 「標準語」とは異なる送り仮名や格助詞を伴う漢字を 書く際になかなか苦労します。 例えば「見た」と書いた後に「た」を消して「見だ」と書くとか、 「書類を」という文節だったら一度に変換してくれても 「書類ば」という文節では「書類」と「ば」に分けないと変換してくれない といったことです。 但し、この点を除けば、母語表記は、 「標準語」で書くときのようには文章を「推敲」する必要性が特になく、 「話し言葉」をそのまま文字に置き換えるだけで済むという意味では、 実は「標準語」表記よりも、だいぶ楽に文章が書けるということを 実感しております。 しかし、現在でも着々と地方の方言が「標準語」に侵食され続けていることを 考えると、 残念ながら方言話者にとっての「書きやすさ」としての方言表記の必要性は、 ますます認められなくなっていくのかも知れません。 それでも、 せめて「話し言葉」(あるいは藤原与一氏の言い方を借りれば「生活語」) としての方言が「標準語」に駆逐されないためにも、 方言を故郷の「恥」ではなく「文化」として誇れる精神を養うためにも、 例えば「文学」の表現手段としての方言表記の意義は大きいと私は 考えています。 というのは、よく言われる「詩を翻訳することはできない」という理屈が、 正に方言についてこそ当て嵌ると思うからです ( 石巻語詩 )。 それぞれの言語の構造や語彙には、その言語を使う民族の生活背景や文化背景 の違いから生ずる「発想の違い」が多分に反映されており、 そうした部分は、他の言語で正確に言い換えることはできないのです (例えば、本多勝一氏が言うように 「こおり」はヤマト語では「こおるもの」を意味するが、アイヌ語では「とけるもの」を意味するとか)。 正に、そのような方言語彙でしか表現できない特有の詩情を、 堂々と文学にしたものの一つに、 高木恭造の津軽弁による方言詩(高木恭造『方言詩集まるめろ』津軽書房、 NTT弘前の頁 弘前市立郷土文学館 高木恭造の世界 )があります。 この詩を読んで私は、津軽弁が分からないなりにも、 今まで自分が読んできた「標準語」による詩からは得られなかった 共感や文学的感動を覚え、 実はそれが、「書き言葉」としての方言表記の必要性を考えるきっかけに なりました。 というのは、もし、高木恭造の詩が「仮名のみ」で書かれていたなら、 私には津軽弁の意味がよく分からず、特に感動することもなかったかも 知れないからです (因みに、伊奈かっぺい氏による高木恭造の詩の朗読を聞くと、 単語の抑揚には少くとも表音文字以上の情報が含まれているため、 私の母語と似た系列の言葉として、大体の内容は推測できます)。 その意味では、高木恭造は実に効果的にひらがなと漢字と振り仮名とカタカナ を使っています。 例えば「ケパねバ 駄目マイネンだド!」のようにです。 これが「仮名のみ」で書かれていたなら、 東京地方の人などにはまず意味が取れないのではないでしょうか。

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「表音表記は、結局、中央(東京)の発音が標準となるため、方言話者にとっては、必ずしも表音表記にはならない」

 表音表記を支持する人たちは、喋っている言葉をそのまま表記すれば済む から誰でも自動的に文字表記ができると考えているのかも知れませんが、 方言話者にとっては、標準語の表音表記は、必ずしも 表音表記になるとは限らないのです。 例えば「はやく」 を「hayaku」のように表記することにした ところで、私の母語の音韻体系では、これを 「haigu」のように発音しているのだから、 結局は「hayaku」という綴りとして覚えなければならない訳です。 それならば、例えば標準語の得意な人は 「はやく」と書くのが普通だとしても、 標準語の苦手な石巻の人とかが 「はいぐ」と書いてもよくて、 漢字が橋渡しになって互いに意味が通じるというのも 悪くはないと思うのです。

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「漢字表記には表意文字としての利点もあるが、目の見えない人にとっては、その利点はまるで機能しないばかりか、同音異義語に至ってはまるで区別できない」

 これは正にその通りだと思います。 一方で、「表音表記にすれば分かりやすい」という考え方にしても、 果たして耳の聞こえない人にとっても「分かりやすい」かどうかは 疑問です。特に、手話なら分かるが口話は苦手だという人にとっては、 表音表記は別に分かりやすいものではないと思います。 尤も、そうした人たちは、漢字も苦手なことが多いようですが。 そういう意味では、そのような手話話者たちにとっては、 手話の手振りを記号化したような文字が、あるいは分かりやすいのかも 知れません(因みに、手話の単語の中には漢字の形から作られたものも、 結構ある。「公……」「北」「……千」「小……」等々)。 但し、それは口話日本語の表記には適しないでしょう。 つまり、これは程度問題だと思うのですが、「誰でも使えること」 を限りなく追求していくなら、 例えば、目も見えず耳も聞こえず指点字もつかえない 人でも振動で分かるような、 モールス信号のような伝達手段を作れば、 ある意味では誰にとっても極めて「公平」かも知れません。 しかし、そのような単純な方法で伝達すると 、単位時間当たりに伝達できる情報量が 少くなり、非常に伝達効率が落ちる訳です。 そして伝達効率の悪い伝達手段であるということは、 かえって覚えにくいことでもあるのです。 例えば 123-4567 といった 七桁の電話番号くらいならすぐに覚えられる人でも、 これが二進法表記で 0001-0010-0011-0100-0101-0110-0111 となっていたら、 なかなか覚えられないでしょう。 二進法表記の方が使う文字数はたったの二つだけ、と明らかに 「単純化」され た表記なのに、その分、似たような単調な組み合わせの 羅列が続き、かえって分かりにくくなってしまうのです。 つまり、言語の伝達手段というのは、 「単純化」した方が、「目が見えない」とか「耳が聞こえない」といった 伝達能力に支障のある人が使う際の「物理的制約」に関してはなくなるかも知れませんが、 反面、伝達効率が落ちるために分かりにくくなるのだと思います。 漢字の文字表記への利用にしても、目の見える人にとっては、 伝達効率を上げる画期的な道具だと私には思えます。 だから、どの辺で折り合いを付けるべきかは程度問題なのだと思います。

 漢字熟語は、目の見えない人にとっては確かに分かりにくい語彙かも 知れませんが、少くとも目の見える人にとっては、 漢字熟語があることの方が、仮名だけの表記よりも「分かりやすい」 のではないかと私には思います。 仮に「仮名だけ」「やまと言葉だけ」の表記が奨励された結果、 高級語のやまと言葉への置き換えやその短縮化による同音異義語が出てきたとすると、 目の見えない人にとっての分かりにくささは「漢字仮名混じり文」「漢字熟語あり」のときと特に変わらないかも知れませんが、 目の見える人にとっては、漢字からの意味の推測がつかない分だけ、 分かりにくくなるだろうと思うのです。

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「漢字に様々な利点があるのも分かるが、それにしても複雑な図形なので、覚えるのは非常に難しい」

 確かに漢字の書き方を覚えるのは非常に難しいと思います。 しかし、読み方を覚えるのはそれほど難しいとは思いません。 ワープロというものがこれだけ普及し、 今後、更に使い易くなり、安くなり庶民に浸透していくだろうことを考えると、 漢字は読めさえすれば書けなくてもいいということにしてもいいような 気はします。 現に、留学生などで、 漢字を書けないが読めるという程度に日本語ができれば、 ワープロを使って十分に漢字仮名混じり文を書けるという 実例も目にしています。

参考資料(漢字の方が失読症に強い)
「女」なんか見たくない
失読症患者と高齢者、健常成人の眼球運動測定実験

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 最後にカナノヒカリ890号のオバタ・タダオさんの記事 「ヤマトグチを漢字でかくオロカサ」で述べられている「漢字の害」について、私の意見を述べたいと思います。

——「語訳」のガイ。「挙」と「行」を区別するため、「挙」を「あげる」、「行」を 「おこなう」とよむことにした。このため「国中・国全体」のイミの 「挙国」が「国をあげて」に、「式をおこなう」の「挙式」が「式をあげる」 になった。(中略)こーして「あげる」のイミがゆがめられたが、 こーゆーコトバを なんともおもわなくなった。——

 これは確かに漢字の誤訳の害の一つだとは思います。 その意味では、「挙式」のように訓読みすると「しきをあげる」のような 不自然なやまと言葉になるような漢字熟語に関しては、 例えば「行式」のように、やまと言葉の「しきをおこなう」と対応 するような漢字に置き換えていくことによって、 誤訳の害を減らせるかも知れません。

——差す・指す・刺す・挿す・注す・鎖す・点す……わ、 みな「さす」であって、これだけのナカミをもったコトバなのであり、 「かれる」わ、「イドがカレル/ノドがカレル/このハがカレル」と ゆーふーにつかうコトバだが、これを「涸れる・渇れる・枯れる」などとかく から、「かれる」のホントのイミわわからない。

  民族語の中に反映されている民族の文化や発想を保存していくという意味 では、一つの単語が合わせ持つ様々な意味は、分化しない方がいいかも知れませんが、 少くとも「言葉を分かりやすくする」という意味では、 ある程度、分化した方がいいような気がします。 「早い」と「速い」、「熱い」と「暑い」とかは、 別に区別しなくても不便ではありませんし、 今日の日本人にとっても、むしろ区別しない方が便利かも知れません。 しかし、「鼻」と「花」や「歯」と「葉」を区別しないのは、 今日の日本人にとっても、やはり 不便ではないでしょうか。

 ——誠・言葉・事柄 これわ、マ+コト・コト+ハ・コト+ガラ、ところが、 このよーにベツベツの漢字のコロモをきせたために、もとのコトバがみえなくなってしまい、まったくベツのコトバだとおもっている。——

 確かに、これらの言葉を仮名で書くと、簡単な単語を組み合わせた造語に なっているということが分かります。 その元の単語を見えやすくするためには、 「真事」「事葉」「事柄」のような漢字を使うという手もあるかも 知れません。 しかし、この三語については、十分に日常語になってしまっているから、 単語のなりたちが見えなくても、特に覚えにくいといったことはないような 気がします。 それだったら、「まこと」に「誠」の字を当てておくことによって、 「誠意」「誠実」「忠誠」などの比較的、高級な語彙が覚えやすくなる という利点だってあると思います。 (こうした高級語をやまと言葉で表すことの問題については前述した)。

——ヤマトグチをシナモジでかくのわアテジだが、このアテジもわざわざ チョクヤクでわなく、とーいアテジをつかうから、もとのイミわ、 まったくみえなくなる。——

    こころよい くびき つちかう ほほえみ みなと いずみ
ちかい 心良い 首木 土支う 頬笑み 水戸 出水
とーい 快い 培う 微笑



 確かに「ちかい」の段の方が、 どういう言葉の組み合わせでできている言葉かが分かるので、 やまと言葉の意味を推測するという意味では、 より適した表記かも知れません。 尤も、「こころよい」「ほほえみ」「みなと」「いずみ」などの単語は、 これらを構成している元の単語から意味を推測するまでもなく、 じゅうぶんに日常語だとは思いますが。 それでは、これらの単語を使って、より高級な語彙を造語していく場合、 「空港くうこう」や 「温泉おんせん」 よりも「空水戸そらみなと」 「温出水ぬくいずみ」とするのも一つの手ではありますが、 やまと言葉の組み合わせだけで造語していくと、 このように音節数が増えて、いずれにせよ 省略・短縮化が起きやすいといった問題は避けられないと思います。 その意味では「水戸」のことを一文字で「港」と表し、 漢字熟語として造語されるときは「こう」と読むというやり方にも 長所はあるかと思います。

——漢字でかいたヤマトグチを ` オトヨミ ' するコトでほろびた。
a. しろうま→白馬→ハクバ/ひのこと→火事→カジ/ちゃばなし→茶話→サワ/ふとね→大根→ダイコン/(中略)/あしあと→足跡→ソクセキ(後略)——

 漢字が入ってきていなくとも、 「ひのこと」を「ひの?」とか 「ちゃばなし」を「ちゃば?」とかいった省略は起きたかも知れません。 尤も「ふとね」を「だいこん」とか「あしあと」を「そくせき」 のように、漢字を音読みしても 音節数が特に減らないようなものについては、 確かにやまと読みのままの方がいいとは思います。

——オクリガナとわ、シナモジとニホンモジをどのよーにまぜるかとゆーこと だが、これで「預かり金」か「預り金」か、「後ろ姿」か「後姿」かと いったイミのないことにアタマをなやましている。——

 このような送り仮名のふり方は、現在ではかなり個人の自由が認められる ようになってきているのではなかったでしょうか。 学校教育で特定の送り仮名だけを正解としているのだとすると、 確かに問題があると思います。 例えば、方言話者が「預がり金」とか「後ょ姿」と表記する自由も 認めてほしいと思います。

——「トーゲ」「カミシモ」など、漢字のないヤマトグチをかくために、 わざわざ「峠・裃」などとゆー漢字もどきをつくった——

 確かに、音読みによって高級語を造語することのない やまと読みだけの漢字は、 特になくてもいいかも知れません。

——マエにいったよーに漢字語えのオキカエで、ドンドンほろびている。 ヤマトグチわいやしーコトバ、漢字語わありがたいコトバだから、 とにかく漢字語をつかおーとする。 これもガッコーのコクゴキョーイクのセイである。——

 確かにこのような学校教育の弊害は、 「日本語は卑しい言葉、英語は有り難い言葉」 とか「方言は卑しい言葉、標準語は有り難い言葉」 という通念づくりにも、大いに貢献してきたと思います。 しかし、だからと言って排外主義を徹底して、 漢字語や外来語や共通語が母語方言へ混入すること を一切、拒否したのでは、更なる弊害を生むでしょうから、 どこかで、ある程度の折り合いをつける必要はあるかと思います。

——とくにひどいのが専門用語で、こーゆーコトバをつかうことが、 ガクモンテキだとおもっているのだろー。 トコズレ→ジョクソー/タマネギ→ハシュ/イシヤジリ→セキゾク/ タネウマ→シュボバ/(後略)——

 確かに、この程度の日常的なやまと言葉で十分に言い表せる言葉は、 専門語彙でもやまと言葉のまま使った方がいいと思います。 せっかく当て嵌る日常的なやまと言葉があっても、 漢字を音読みした読み方の方を高級だと 思わせてしまう点は、確かに漢字の欠点の一つだとは思います。 しかし、現にこの「ヤマトグチを漢字でかくオロカサ」を書いている オバタ・タダオさん もカタカナで書いているような、 やまと言葉には訳しにくい言葉もたくさんある訳であり (「国語教育」とか「学問的」とか)、 そうした言葉に関しては、漢字熟語の方が分かりやすいと思います (但し、そのためには「くに」「かたる」「おしえる」「そだつ」 といった日常語に、「国」「語る」「教える」「育つ」の漢字を使って おく必要はありますが)。 そうなってくると、新たに 高級語や専門語を作る必要にせまられた場合、 我々は大体、次のような優先順位に従って作るべきような気がします。

一、やまと言葉で表現できないか
二、漢字熟語で表現できないか
三、方言語彙で表現できないか
四、外来語を借用する


(二と三の順番に関しては、場合によっては入れ代わってもいいと思いますが、 方言語彙を共通語に導入する問題等については前述したので割愛)。

——ワタシわ、これらのコトわ、ミンゾクとブンメイのオトロエを しめすデキゴトだとかんがえているが、 マルヤ・サイイチ、スズキ・タカオ、国語問題協議会など、 「漢字バンザイ」をさけびながら「ニホンゴをタイセツに」 などといっているヒトタチわ、イッタイ、ナニをかんがえているのだろー。 ——

 マルヤ・サイイチについては私は読んでいないので分かりません。

 鈴木孝夫の『日本語と外国語』(岩波新書) は読みましたが、漢字の長所を非常によく分析してあり、 説得性の高い主張だと私は思いました。 ここに書いてきた私の主張も、方言表記に関することを除けば、 基本的には鈴木孝夫の主張の受け売りであります (念のため、ここでの私の大雑把な考察よりも、 鈴木孝夫の緻密な考察の方が説得性が高いと思います)。 このカナノヒカリ890ゴウの「ヤマトグチを漢字でかくオロカサ」 で挙げられている「漢字の害」の数々については、 確かにその通りだと思いますが、 それらは、鈴木孝夫の主張する「漢字の有用性」を別に否定は していない訳です。 つまり冒頭にも述べたように、 漢字には長所もあれば短所もあるのだから、 その一方だけを強調して漢字廃止や漢字廃止批判をするのは、 あまり説得性がないと私は思います (尤も、鈴木孝夫の著書も、それほど漢字の短所には触れていないかも 知れませんが)。 オバタ・タダオさんは、鈴木孝夫の著書を読んでいるのだとすると、 あの中で述べられている「漢字の有用性」についても否定する のでしょうか。 私には鈴木孝夫の主張の方が説得性が高いと感じましたが。

 国語問題協議会についてもよくは知りませんが、 「標準語」や「東京山手敬語」を「正しい日本語」 としているところだとすれば、私もそれには批判的な立場を取ります。

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補足

 カナノヒカリの末尾にある「カナモジカイ は どんな 団体か……」について。

——さしあたり ヒツヨウ な 運動は, カンジ〜セイゲン  の 強化, それに ワカチガキ と ヨコガキ を 広める  こと だと 思います。——

 分かち書きの奨励については部分的に賛成です。というのは、 東北の言葉では、 主語や目的語を表す助詞はしばしば省略されるのですが、 これを漢字混じり文で書くと、例えば 「誰林檎喰ったの(だいりんごくったの)」 のようになり、単語の切れ目が何処にあるのか分からなくなるので、 そのような場合に限り、 「誰 林檎 喰ったの(だい りんご くったの)」 のように書いた方がいいとは思います (高木恭造の詩でも、この書き方が実践されていたと思います)。

 横書きの奨励については理由が分かり兼ねます。 文字の並べ方には、私の知っている範囲では「縦書き上から下へ」 「横書き左から右へ」「横書き右から左へ」などがあり、 こうした流儀は、民族の文化だからそれぞれが尊重されるべきだと 思っています。 特に日本では、漢字が元になっているとはいえ、 「ひらがな」という実に縦書きに適した 「日本らしい」文字が生み出され、その過程で? 「行書」や「草書」などの書道における芸術文化も生まれ、 今日まで伝承されている訳です。 こうした民族文化を否定してまでも横書きにするのがいい という理由はどこにあるのでしょうか。 西洋などの強国の言語が「横書き左から右へ」だから、それに 倣うのが合理的だといった考え方だとすれば、 英語を国際語にすれば合理的だという発想と五十歩百歩だと思います (同じ理由で日本語ローマ字化にも私は反対です)。 私は、今のところ漢字の長所の方が短所よりも勝ると考えておりますが、 仮に将来、短所の方が勝ると考えるようになって漢字を廃止した方が いいと考えるようになったとしても、 そのときは「たてがき ひらがな がき」をよしと考えるでしょう。 エスペラントの文字表記にしても、もしエスペラントが十二分に 普及した暁には、どの民族も使っていないような新たな文字表記 に切り替えた方がエスペラントはより中立になるとすら思います (エスペラントの合宿などで、よく飲みながら冗談で言うのですが、 どの民族もやっていないような「縦書き下から上へ」が最も 中立かも知れません)。

関連掲示:「返:横書き」

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その他—— 仮名文字の表音表記について。

 「……は」「……を」 「……へ」「……という」などを表音表記にして 「……わ」「……お」「……え」「……とゆー」 のように表記するのがよいと考える人たちは、 漢字を使う人の中にもいるようです。 私は古語の知識がないので分からないのですが、 こうした表記は、 「けふ」「てふ」のように、 かつては文字どおりに発音していたものが、 段々と訛って「きょう」「ちょう」のようになってきた といった類のものではないのでしょうか。 そういうことを考えると、地方によっては「お」と「を」 の音の区別が、まだ保存されている方言もあるかも知れない などと思ってしまいます。 因みに私の母語では、「……では」の「は」 は「ha」と発音することもあります (九州のどこだかでは「……を」を「wo」と発音するとかいう話 も聞いたことがある)。また、 「弱い」ことを「ようぇえ」と言いますが、 こういう場合、「ゑ」の仮名が使えると便利です(「よゑえ」 の他には「こゑえ」「やゑえ」等)。 また「……を」や「……という」には文法的な意味も含まれており、 表意文字的な機能もあるので、 この文字を当てる利点はそれなりにあるかと思います。 「を」は目的格であることが分かるし、 その意味では東北の人は「を」を「ば」と発音する文字だと 捉えることすらできるかも知れません。 「いう」を「ゆー」のように書くと、 これが「いう」というワ行五段活用動詞の終止形か 連体形であるということが、 仮名の形からは分からなくなり、 「ゆー」は 「おもう」「あう」「かう」などのワ行五段活用動詞とは 違った活用をする不規則動詞のように捉えられてしまうかも知れません。 ……などということを考え合わせると、 今のところ私には、現行の部分的に表音表記になっていない仮名表記 の方がいいような気がしています。 もしかすると、旧仮名遣いの方が文法的例外(「思う」→「思った」に対して「問う」→「問うた」とか) が更に減る部分もあるかも知れませんが、 その辺は、口語の表音表記としての機能との間で 折り合いをつけて、現行の仮名表記あたりが妥当な線だろうと感じています (主観の問題ではありますが、 詩歌で使われる旧仮名遣いは、なかなか味があると思います)。

 ついでに、私が日本語をローマ字表記する場合(前述したように、 日本語ローマ字化には反対ですが、 日本語入力のできないコンピューターで日本語を書きたいときとか 、日本語をローマ字で書く必要に駆られた場合)、 仮名と一対一に対応させたローマ字を使うことにしています (但し、子音の表記については、ヘボン式ではなく、 日本式と(訓令式とも)だいたい同じになります)。 つまり、徹底した表音表記が最良だとは思わないので、 「……は」「……を」「……へ」「……という」は、 それぞれ「ha」「wo」「he」「toiu」のように書くということです (訓令式では、 これらを「wa」「o」「e」「toyu^」のように書くのでしょう)。 訓令式にしても、必ずしも表音表記を徹底しているという訳でもなく、 例えば「たちつてと」は日本語の音韻構造の規則性の方を尊重して 「ta ti tu te to」と表記するのです。 その一方で「いう」などのワ行五段活用動詞については、 動詞活用の規則性よりも表音表記の方を尊重して 「yu^」などと表記するのだとすると、 最も合理的だとされる訓令式にも、御都合主義的な面はあるかと 思います(尤も、長音に関して 表音表記にすらなっていないヘボン式なんぞに比べたら 遥かに合理的だとは思いますが)。 そういう訳で私は自分のローマ字綴りを仮名に対応させて 「GOTOU Humihiko」と書いています。

 つまり私は ニセローマ字 の支持者です。 尤も、  社団法人日本ローマ字会 の提案する 「99式」ローマ字表記 は、助詞の「へ」「は」「を」を he, ha, wo と表記することも許している ようなので、 私の仮名対応式ローマ字は、99式表記に含まれることになりそうだ。

関連掲示:「返:横書き」無題

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追記(1998/6/5)
どうしても日本語を表音表記するとしたら

 エスペラントのような国際橋渡し語では、発音のばらつきはある範囲に 限定されるので(t1)、表音表記を使う利点は確かに大きいと思います。

t1 例えばエスペラントでは「r」の発音としては巻き舌が推奨されているものの、 「l」との区別がつく限り、 仏語の「r」や独語の「r」や英語の「r」や 日本語の「ラ行」で代用しても構わないし、 それで十分に通じる。

 しかし、地域間で発音が大きく異なる多様な方言からなるような民族語の 文字表記においては、政治的経済的中心地の発音を標準とすると、地方の 人々は不利を被るので、必ずしも表音表記は適しないと思います。 かといって、たとえ地方間での文字による橋渡しができなくなってでも、 地方ごとに異なる表音表記を作った方がいいのかどうかは分かりません (例えば、漢字が方言間の橋渡しになっている中国語において、 広東語や北京語や上海語がすべて独自の表音表記に切り替えた方が いいとは今の私には思えません)。

 そういう訳で、私は国際橋渡し語については表音表記の方がいいと思っていますが、 民族語においては必ずしも表音表記の方がいいということにはならないと 今も思っています。

 さて、それはひとまず棚に置くとして、 「仮に」日本語を表音表記するとして、それに適した文字表記はどのようなものかと いうことについて私なりに考えると、 少なくともローマ字は表音表記(特に日本語の)には適しないのではないかという 気がします。 日本語の音節は大体、「母音一つ」か「子音一つと母音一つ」からなる訳ですが、 ローマ字ではこの音節をローマ字を横に並べた組み合わせとして表し、 単語を綴るには、これらの音節を更に横に並べて一つの単語とするので、 一つの単語が一方向(つまり横方向)に非常に細長くなってしまうのです (この傾向は、多かれ少なかれヨーロッパ語のアルファベット表記にも 当てはまります)。 すると、(ここからは、ちゃんと認知科学か何かの実験/調査をしてみなければ 言えないことなので私の主観に過ぎませんが)、 漢字によって構成された一塊りの単語を「図柄」として認識するのに比べて、 細長いローマ字の単語は今ひとつ「図柄」としては認識しにくいのではないか と私は感じています(これはエスペラントや英語の文献を斜め読みするときにも 感じます。尤もローマ字主義者の人はローマ字表記に馴れてしまうと、 漢字仮名交じり文と同じようにスラスラ読めるようになると主張するので、 本当に実験でもしなければ本当のところは分からないでしょう。 道路標識とかで、四文字くらいの漢字の表示と同じ面積くらいで併記された 英語またはローマ字十数文字の細長い表示とがあった場合、 私は漢字の方が遙かに手前から認識できるのだが......)。

 その意味では、ハングル文字などは、子音と母音を組み合わせたものが 一文字となる表音表記であり、視覚的にも「図柄」として認識しやすい 優れた文字表記なのではないかと想像します(私は朝鮮語は学習していない)。

 もし、日本語をどうしても表音表記にしなければならなくて、 しかも文化的遺産である「仮名」ではなくて、「子音」と「母音」の情報が 視覚的に区別できるような表音表記にしなければならないのだとしたら、 以上のような理由でローマ字は不適格だと私は思うので、 ハングル文字のような表記法*を新たに考案した方がいいだろうと思います。

この項続く? 関連掲示:「返:横書き」無題
* 07/1/25追記: ラテン文字をハングルのように並べて視認性を高める アルファングルという 表記法を提案している人もいます。

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