(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

週刊金曜日に疑問

Duboj pri Semajna Vendredo

注意
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko
khmhtg

目次
はじめに(1998/3/23微更新)


ボツになった私の投書
金曜日は擬似科学に弱い?
金曜日の内ゲバ的性格(1999/1/12微更新)
日本人はヘンか
買ってはいけない! 本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』(1998/8/31微更新)


その他、私の意見や感想
漢方薬の副作用
自然が一番で科学技術は有害でしかないのか00/10/24追記a, 01/3/22追記
真に受けてはいけない! 荻野晃也氏の電磁波有害説
科学的根拠のない風説に「慎重なる回避」を取る危険性01/3/30追記
「慎重なる回避」か「冷静なる非回避」か——エイズ啓蒙の場合
スプーン曲げがオカルトではなく原初の科学?!
電磁波の有害性と金曜日の有害性
「自由主義史観」を疑似科学的と言えるほど 金曜日は科学的か?(1999/1/12,1999/6/14)
金曜日こそが疑似科学的
人権を侵害する「言論の自由」は権力で抑圧されるべきか00/10/24追記b
ナチス禁止法や本多勝一氏の方法論こそがファシズムに繋がるのではないか
常温核融合(1998/4/10)
味の素を「買ってはいけない」なら昆布も「買ってはいけない」 (1999/3/2,3/31,9/9:余話,01/5/23:追記)
グルタミン酸で「中華料理店症候群」が起こるもんなら天然の和風ダシでだって起こる
本多勝一氏に謝意を表して『金曜日』の購読やめる(1998/12/15追加)
『買ってはいけない』こそ買ってはいけない(臨時1999/8/22, 23, 27, 9/8, 9, 16, 10/1, 11/1
続く?


その他 採用された私の拙稿と関連する頁へ


その他、私のお小言
四コマ漫画
見開き四頁分の漫画
投書や論争の字数制限 (1998/3/23微更新)
投書、論争の電子掲示板への無断転載


関連する頁:

 私の友人I氏の電網頁が開設されましたので、今までここに紹介していた I氏による「週刊金曜日」批判は、I氏の 「オカルト・超科学批判のページ」 でご覧下さい (「電磁波問題の旗頭・荻野氏ってこの程度か」「ヒーリングはオカルト商法だ」「素みがきは臭そうだ」等々)(1998/4/28)。 また、 本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』のトンデモさを紹介する注釈集をI氏と私との共著で執筆し始めましたので(今は専らI氏が 書き込んでいるが)是非 ご覧下さい(1998/8/31)。

 「論争する雑誌」「タブーに挑戦する」という金曜日のうたい文句の偽善性 を批判している西村有史さんの頁 「『金曜日問題』とは何か」は、私やI氏とはまた別の視点からの金曜日批判 であり、参考になります。

 C.Uneyama さんの 「つぶやき」 は、金曜日にありがちな「西洋医学批判」や「自然が一番」主義や 「慎重なる回避」の思想の問題点を的確に指摘していて(と私は解釈したが)、 大いに参考になります。以下の本文中でも数ヶ所で C.Uneyama さんの 関係頁に言及しました。一方で、Uneyama さんの方でも、 この私の頁の補足版、「週刊金曜日に疑問 出張コーナー」というのを書き始めたようです(1999/3/31)。

 「本多勝一氏の思想・発言の軌跡を実証的にたどることを主たる目的として結成された」「本多勝一研究会」の頁。 カンボジア虐殺否定問題を始め、本多氏の現行不一致や著作書き換え の実例の数々を、原文に当たりながら綿密に考察している(1999/6/14)。

 週刊金曜日から取材を受けた 山形浩生さんが その珍妙な顛末と後日談を語る 「13 日の金曜日:My Affair with 週刊金曜日」および 「その後日談:Part Deux Jason's Revenge!」。

 問題の 株式会社金曜日の公式頁では、毎号の投書と一部の記事(編集委員の随筆とか)が読めます。 フレームが重くて鬱陶しいので、 中身に直接リンク全ての号の目次検索ができます


はじめに (1997年7月頃だったか?)

 言葉関係の頁 でも書いているように、私は本多勝一氏の著作に大いに影響を 受け、また、氏の趣旨に賛同して、氏が 落合恵子、久野収、佐高信、椎名誠、筑紫哲也らと編集している (創刊時の編集委員は知らない)週刊誌『 週刊金曜日』 を一九九六年一月から購読し始めました。

 当初はなかなかいい雑誌だと思って読んでいたのですが、 最近、この雑誌の記事および本多氏の文章に、 客観的検証からはほど遠い 疑似科学 的な断言が目立ってきたように思います。 例えば「買ってはいけない」の欄では、 怪しい専門家たち(臨床環境医とか環境問題研究家とか)が身近な商品 (歯磨き粉や缶ビールや電気剃刀など)を 「買ってはいけない」危険な商品として槍玉に上げていますが、 科学的説明に怪しいところが多く、私でも明らかに間違いと分かるようなこと が平気で書かれています。 そもそも「電磁波が人体に有害だ」という話自体、私はオカルト臭いと 考えています。

 日本の電力中央研究所や全米アカデミーやアメリカ国立ガン研究所の これまでの生物実験や症例対照研究の結果、 いずれも「居住環境で生ずる程度の電磁波が人体の健康に影響を及ぼす 証拠は認められない」という結論が出ています (世界各地の機関で、現在も電磁波の生体への影響に白黒を付けるべく、 長期的な調査が行われています。恐らくあと数年のうちに それらの結果が出ることと思います—— 01/3/30追記)*。

* 「電磁波問題」に関しては、電網上では、藤井研太さんの 「電磁波は本当に危険なのか?」の頁、 著作としては、大朏博善著『電磁波白書--電磁波はほんとうに怖いのか?』 (CD-ROM付き)(ワック出版)、 ロバート パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか——魔法はけっして起こらない!』(主婦の友社)等が参考になろう。

 しかし週刊金曜日では、そうした科学的調査の経緯や中間報告の 詳細を紹介したりはせずに、 電磁波は有害なものと決めつけた上で、 怪しげな専門家たちによる一方的な電磁波批判や 「危険な」電磁波商品の紹介で特集を組んだりする訳です (似たような手法で、遺伝子組み替え食品や歯磨き粉とかが特集されたりする)。 そうすると、「歯磨き粉を使うのをやめてから食べ物がおいしくなった」 みたいな「金曜日に書いてあることはなんでも正しい」と真に受けるような 人たちの投書がたくさん載ってしまうのです (私は仮に寿命が数年縮んだところで、 「自分の唾液だけで歯を磨いてそれを飲み込む」というような気持ちの悪い「健康法」を実践するつもりは毛頭 ない)。

 そして「自薦」の欄では、「トンデモ本」ではないだろうかと 思わせるような怪しい自費出版の本とかが時おり紹介されていたりします。 そして先日、遂に本多勝一氏が自画自賛する『はるかなる東洋医学へ』 が紹介されてしまいました。 実は、私は本多氏の文章がオカシクなり始めた頃 (「成人病にならぬための養生訓」で非科学的なこじづけをやりだした辺り から)、ちょっと不安になって、この『はるかなる東洋医学へ』を 恐る恐る読んで見たのです。

 不安が的中したどころか、あまりに幻滅してしまいました。 私には、この本の内容は典型的な擬似科学だとしか思えません。 勿論、私も東洋医学の全てを「非科学的なもの」として根絶するべきだとは 思いませんが、その治療効果や安全性については、 二重盲検法などの適切な科学的手法で、今後、検証していく必要性は あると考えています。 その辺のことは、私が理論武装のために読んだ 高橋晄正著『効かない!?漢方薬Q&A』(ラジオ技術社) の中で、実に説得性の高い明快な論旨で書かれています*。

* 代替医療の非科学性については、 The Skeptic's Dictionary 日本語版代替療法 alternative medicineや、 大豆生田さんによる sci.skeptic FAQ の和訳 「信仰療法と代替療法」の頁を参照のこと(00/4/25追記)。

 しかし、本多氏が 「気」といった「反証しようのない仮説」に代表される東洋医学の神秘的な思想 と対比して、西洋医学や科学における「客観的な反証と実証の積み重ね」 を批判する態度は、明らかに間違っていると思います。

 金曜日の投書欄に「やっぱりアルミは有害だったのか」とか 「今まで牛乳に騙されていた」と書いてくるような本多信者や 金曜日信者がこの本を読んだら、「やっぱり西洋医学は効かないのか」 とか「これからの時代は科学よりもニューサイエンスだ」などと 思い込んでしまう人も出てくるかも知れません。 本多氏の筆の影響力を考えると、これは重大な問題だと思います。

 そこで私は、一九九七年の七月末に、この本を批判する記事 「買ってはいけない! 本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』」 を「論争」欄に投稿しました。 今のところ、この投稿は採用されていませんが、 もし投稿時から二箇月たった九月末まで採用されなかったら、 ここに掲示するつもりでしましたが、 案の定、採用されなかったので、 ここに掲示します。

 尚、その他にも、金曜日に採用されずに二箇月以上経った投書のうち、 主に本多氏や金曜日を批判したものを以下に掲示します。 というか、金曜日を購読している私の友人も、私と同じような印象を 抱いており、恐らく、金曜日の読者の中には、 他にも金曜日のオカルト臭さに疑問を抱いて 批判の投書を投稿している人もそれなりにいる筈だと思います。 しかし、そういう投書がなかなかく載らずに、「やっぱり牛乳は……」 みたいなのばかりが簡単に載るところをみると、 編集部が選択的に金曜日批判や本多批判を排除しているのではないか と疑いたくもなります (編集後記には、なんと「ニューサイエンスを照射したい」と 書いた人もいることだし)。 「金曜日にタブーはない」というのも甚だ怪しい気がします(*t)。

*t 私とはまた別の視点による金曜日批判としては、
金曜日編集部の論争回避や差別事件のもみ消しを批判した西村有史さんの資料 さらば「週刊金曜日」 (広島週刊金曜日読者会の頁)や、西村有史さん御自身の頁の 「『金曜日問題』とは何か」は、 「論争する雑誌」「タブーに挑戦する」という金曜日のうたい文句の偽善性 を批判していますので参照されたい。

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ボツになった私の投書

金曜日は擬似科学に弱い?

 「成人病にならぬための養生訓」における本多勝一さんの様々な「仮説」には、特に科学的検証が示されていませんが、「随筆」であればそれでも構わないだろうと読み流しておりました。しかし、その後の投書で、本多さんの説に手放しで賛同し納得する方々がたくさん登場し、段々と話が拡大解釈されるにつけ、どうもこれは一種の神秘主義・擬似科学の類であるという印象が強くなってきました。

 まず肉料理や牛乳が日本の食文化を乱しているという問題と、 これらが健康にも悪いかも知れないという問題とは、 混同すべきではないと思います。例えば日本の伝統的食文化にも 健康に悪そうなものはあり、東北に育った私はしょっぱい味付けが 好きですが、健康に悪いからといって、ことさらに塩分を控えようとも 思いません*1。

 肉料理*2や牛乳が日本の食文化を乱していることに危機感や恨みを抱くこと自体は理解できますが、その有害性を示すに足るろくな科学的検証も示されていないのに、「あの本多勝一さんが否定的態度を示しているから、やっぱり有害だったのだ」と牛乳を否定するのでは、ほとんど宗教になってしまうような気がします。南京虐殺やガス室の否定論者が自説を唱えるには、文献調査に留まらずに実地検証する義務があるのと同じように、肉食や牛乳の有害性を説く人も、個人的体験や見聞きした話に留まらずに科学的に検証する義務があるのではないかと思います。

 因みに、金曜日を購読している友人によると、神秘主義、擬似科学を批判しているマーチン=ガードナーの古典的名著『奇妙な論理』(教養文庫)*2の中でも「反牛乳主義」というのが紹介されているそうです。

*1 念のため、この「塩分の取りすぎが体によくない」という知識は、 科学的に検証されているという意味で、 民間伝承や個人的体験に基づく仮説とは明らかに別格である。

*2 マーチン ガードナー『奇妙な論理』(教養文庫)の次の箇所も参考になろう。

肉なしでもバランスのとれた食事ができることを否定する医者はいないが、 そうすることは困難だし、全く不必要だというのが真相なのだ。 健康に絶対必要なアミノ酸のうち、一〇種ほどは私たちが食べる食物から 供給されねばならない。この一〇種全部を植物食品から得るのはきわめて困難で、 もし一つでも欠ければ栄養不足が生じる。

からだの不調をおこす上で肉が重要な役目を演じている証拠は一つもない。 ある菜食主義者たちは、ひどく歪めた統計を使ってガンの原因を肉だと 主張しているが、これも全く根拠はないのである。


 リスク分散のためには肉も含めてバランス良くいろんなものを食べましょうという C.Uneyama さんの 「ガンを予防するための3ヶ条」もご参照ください。

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金曜日の内ゲバ的性格

 金曜日では「『自由主義史観』の連中が司馬遼太郎を愛読しているから」とか「反『史観』論者が司馬遼太郎を批判しているから」といった説得性のない理由で司馬遼太郎が「史観」論者と同類にされている一方、本多勝一集二一巻付録の中では、柳田国男や宮沢賢治までも「史観」の流れに関係していると朝日新聞の増子義久記者が説明していると書かれていました。

 私の認識では、以上の著作家たちは何れも「大筋において」は平和反戦主義者ではないかと捉えています。尤も見方や解釈の違いによっては、この著作家たちの著作や言動の一部に、反動的に映る部分もあるのかも知れません(その決定的なものに私はまだお目に掛かっていません)が、それによって、この著作家たちの著作や活動の全てが無効になるとは私は思いません。というか私の場合、主義・思想において共感、尊敬できる人(本多勝一さんとか)でさえ、いくつかは共感、支持できない部分もあることの方が普通です。

 大体において、様々な側面を持つ種々の社会問題に対する考え方の全てに共感できる人などというのはそうそういないだろうから、特に自分の立場が少数派に属する場合には「小異を捨てて大同に就く」ことが重要ではないかと私は感じています。

 前掲書には本多さん自身の説ではないにしても「ヒトラーはベジタリアンで肉も食べず、酒も飲まなかった。宮沢賢治は菜食主義という衣をかぶったファシスト志向で、彼の『銀河宇宙』は全体主義国家と指摘した詩人がいた」との記述がありますが、私には神秘主義や擬似科学がやりそうなこじつけの手法とそっくりに思えます。「成人病にならぬための養生訓」に手放しで納得するような本多さんの信奉者の中に、「菜食主義をするとファシストになる」と曲解してしまうような人がいないことを願ってしまいます。

追記

 本多氏は司馬遼太郎の他にも、有名なところでは大江健三郎(*1)を 糾弾したり、確か立花隆すら批判の対象にしていたと思います (例えば、181号の風速計。これについては 「言論の自由」の章で触れる)。

(*1) いとうくにおさんの大江健三郎ファンクラブ掲示板1998年2月3日と1月28日のところに書かれている意見など 参考になろうか。

 私からすると、大江氏に触発されて平和反戦運動に目覚めた人もいると 思うし、立花隆氏*2の緻密で明晰な論理で問題を客観的に検証していこう とする姿勢とその能力は、言葉でものを訴えようとする者には、 見習うべき手本でしょう。

*2 尤も、立花隆「同時代を撃つ」ホームページにある 「人類を蝕む環境ホルモンの恐怖 」 とかを読むと、 「環境ホルモン→性的異常→異常殺人というのは一つのありうるリンクなのです」 というようなことが書かれていたりして、 最近の立花氏は、どうも相関関係と因果関係を混同してこじつけたり するような面もあるようだ。 こうした立花氏の主張の問題については、Uneyama さんの 「環境ホルモン騒動について」を参照されたい。 (1999/1/12追記)

 私の個人的な価値観では、大江氏にせよ立花氏にせよ、 (本多氏には気に入らない要素があったとしても)、今の世の中には 有益な存在であると思っています。因みに、 本多氏の疑似科学的な態度は、今の世の中には十分に有害だと私には 思えますが、それでも本多氏の価値を総合的に判断すれば、 本多氏も今の世の中にはやはり有益な存在だとは思います (最近の本多氏や金曜日は、価値を総合しても有害性の方が優るような気すら してきた)。

 ところで、本多氏(や週刊金曜日)はこのように 「半端物はいらない」的な極めて 内ゲバ的性格の持ち主だと思っていたのですが、これも必ずしも 徹底している訳でもないようなのです。

  例えば、国粋主義的なある団体の会長だかをやっていた作曲家の 黛敏郎氏が亡くなった直後、黛氏と懇意にしていた岩城宏之氏や 永六輔氏が、さんざん黛氏の追悼番組に出演して、黛氏を賞賛して おりました。勿論、岩城氏や永氏は黛氏の国粋主義的な部分に 共鳴して懇意にしていた訳ではないことは私にも分かりますが、 司馬や大江を批判対象にしている本多氏や週刊金曜日のことだから、 きっと岩城氏や永氏も「黛と親しくしていたから国粋主義者だ」 といった安直な論理で批判するくらいでなければ筋が通らない のではないかと楽しみにしていたのですが、 一向に岩城氏や永氏の批判をせずに、この人たちの記事を載せ 続けているのです(勿論、私自身は岩城氏や永氏を好きですが)。

 この辺のことは、後でもう少し補足するかも知れません。

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日本人はヘンか

 163号に民族主義と国粋主義を区別してはという拙稿を書きましたが、167号の岩崎さんの投書を読むと、どうもこの辺を混同しているような印象を受けました。『諸君!』に「多くの日本人は外国人に『日本人はヘンだ』と言われると、ニコニコしながら『本当にそうですねぇ』と心から言う」のを嘆いた投書が載ったそうですが、この限りでは私もその投書に共感します。

 勿論「ヘンだ」の内容にもよりますが、何もヘンなのは日本に限らず、 異なった文化圏の風習は少なからずヘンに映るものです。 私には欧米人の民族性こそヘンに思えます (西洋人のヘンさを知るには中島義道著『ウィーン愛憎』(中公新書) がお薦め*)。つまり、民族によって文化風習が違うのは当たり前であるが、 その違いに優劣を付けずに互いのヘンさを尊重し合いましょうという 文化相対主義 の立場を取る限りは、「外国人にうだうだ言わせるな、もっと愛国心を持て」という発言自体は一理あると思います。

 但し民族の違いでは認められぬような自明な人権侵害が行われていることを他民族が指摘するのは構わないと思います。尚、ウォルフレンさんの著作は読んでいないので、相対的視点を失わずに民族的偏見を差し引いて日本批判しているのか否かは私には分かりませんし、『諸君!』の投書者の発言も相対的視点によるものか日本民族至上主義によるものかは分かりません。

* 中島義道著『ウィーン愛憎』(中公新書)の「あとがき」で、中島氏が 電気通信大学の西尾幹ニ氏に謝意を表明していることが、やや気になりますが、 同じ職場の上司への謝辞に過ぎないと考えておきましょう。 仮に中島氏が西尾氏と共有するような 「国粋主義的な」動機で『ウィーン愛憎』を書いたのだとして も、あの本の内容自体の価値には変わりはありません。 因みに、津田幸男編『英語支配 への異論』(第三書館)の中で中島氏は、「われわれ日本人もアジアを 帝国主義的に支配し、彼等を言語を絶する悲惨な目に合わせた。 そして、韓国人朝鮮人から彼等の母国語を奪い、日本語の使用を強制した」 と書いており、少くとも、日本のアジアへの侵略は事実と認めた上での 相対的視点に立っているものと見受けられます。

(尚、関連することを「英語崇拝からの脱却」の頁の 「デスカッション、デベート」に書いた。また、 「相対的」視点でアメリカを見たiwahataさんの 「ふざけるな、アメリカ人!」の頁、おねえちゃんさんの 「アメリカっていう国は!」の頁も参考に)。

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買ってはいけない! 本多勝一著『はるかなる東洋医学へ』

 『金曜日』にタブーがないとしても、常に正しい訳ではありません。本多勝一氏も人間なので常に正しい訳ではありません。それなのに「やっぱりアルミは有害だったのか」だの「今まで牛乳に騙されていた」といった「金曜日に書いてあることや本多氏の言うことは何でも正しい」と思い込んでいるような投書が多いのに(またそのような投書ばかり採用する編集部の姿勢にも)うんざりします。一方で私が、本多氏の擬似科学的態度を批判した投書を書いてもなかなか採用されないところをみると、「タブーがない」というのも怪しくなってきます。

 「養生訓」に始まる最近の本多氏の執筆内容は、どうもオカルト臭いので、悪い予感がして、氏の『はるかなる東洋医学へ』を読んでみたのですが、予感が的中したどころか、「これが、あの本多勝一の書いた文章なのか」と幻滅しました。もはや、この本の内容は「あまりに非科学的で幼稚な独断」に満ちた典型的な擬似科学であり(*0)、「と学会」辺りの連中に知れたら、完膚なきまでに叩かれることでしょう(往年の本多氏がベンダサン氏を叩いたように)。これは自由主義史観の連中にとっても、本多攻撃の恰好の材料となるかも知れません。

 本多氏はこの著書を書くにあたって「一般論とせず」「可能なかぎり具体例を示したかった」そうです。S先生とやらの東洋医学に診療を受けて、自分や自分の身近な人の病気が「治った」という話自体は、事実だとしましょう。しかし、そんなことでは、S先生の治療効果が証明されたことにはならないし、ましてや、東洋医学一般の治療効果を証明したことにもなりません。あれは単なる随筆に過ぎません。それはそれで構いませんが、御自分の筆の影響力というものをもう少し考えてほしいと思います。金曜日の投書欄から察するに、「やっぱり西洋医学は効かなかったのだ」などと短絡する人も現れかねません(177号の編集後記にはニューサイエンスを照射したいという方もいらっしゃいます)。

 さて、本多氏によると、西洋医学は対症療法に過ぎないのに対し、東洋医学は病気の根源を突こうとするものなのだそうです(*1)。当然のことながら、西洋医学を始めとする科学は万能ではありませんから、医療現場では、最先端の知識に基づいた対症療法が行われているでしょう。しかし、病気の根源を解明して、より的確に治療する方法も、西洋医学では常に科学的に研究され続けているし、そうした研究は客観的であるので、誰にでも一定の説得性を持ち得るでしょう。

 一方、東洋医学では、如何に「病気の根源を突いているのだ」と主張したところで、それを「気」といった反証しようのない仮説(*a)でかたづけてしまい、二重盲検法などによる科学的検証を拒否する限りは、少くとも客観的な説得性は持ち得ません。それなのに本多氏は、二重盲検法による評価自体が東洋医学には向かないと主張しております。その理由は曖昧な論理なので私には理解できなかったのですが、どうも偽薬(プラシーボ)効果の部分にこそ東洋医学の効果があると言っているようでもあります(論理的に考えるなら、これは「効かない」ということになるのですが)(*2)。

 ともかく、反証を受け付けないのは、占星術やバイオリズムに代表されるようなオカルトの典型的な特徴であり(ハインズ博士『「超科学」をきる』化学同人)、本多氏の主張は東洋医学を擁護するどころか、むしろ東洋医学をオカルトだと宣伝しているようなものでしょう。一方で、漢方を科学的に評価しようとした高橋晄正著『効かない!?漢方薬Q&A』(ラジオ技術社)などの説明は説得性が高いと私には思えます。そしてこの本を読めば、本多氏が『はるかなる〜』で展開した議論が、別に目新しいものではなく、既に使い古された陳腐なものに過ぎないことが明確になるでしょう。

(*0) 『はるかなる東洋医学へ』の内容の滅茶苦茶さに呆れ果てたは私は、 本の余白に書き込みをした上で友人のI氏に渡した。I氏も更に書き込みを 加え、いずれ注釈集を共著しようと話していたが、延び延びになっていた。 最近になってI氏が、書き込みをもとにぼちぼち注釈集の執筆を開始したので 是非こちらもご覧ください(1998/8/31)。

代替医療リンク

(*1,*2) 東洋医学を始めとする代替医療の非科学性と、そのことによる 問題については、以下を参照して戴きたい。

The Skeptic's Dictionary 日本語版鍼治療プラシーボ効果、プラセボ効果、偽薬効果代替療法(0000/4/25追加)

偏頭痛に対して鍼治療は偽鍼治療と効果に違いはない 鍼は緊張性頭痛を約半分に削減する (食品安全情報blog)

整形外科と接骨院の違>い

大豆生田さんによる sci.skeptic FAQ の和訳の頁:
「西洋医学は還元論的で代替療法は全体論的じゃないの?」
「二重盲検とは何? プラシーボとは何?」
「なぜ、代替療法に科学的基準を適用しなくてはいけないのか?」
「鍼治療は働くのか?」

本多氏の「西洋医学は対症療法に過ぎないのに対し、 東洋医学は病気の根源を突こうとするものなのだ」 という勘違いした「科学万能主義批判」については、 「本多氏や週刊金曜日はオカルトという言葉を履き違えている」 を参照のこと。

(*a) 反証不可能性については、 「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁

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その他、私の意見や感想

 これからは、投書に採用されそうにない意見や感想は、 ボツになったのを確認するまで二ヶ月も待っていられないので、 投書しないでここに直接 書き込むことにしました。

漢方薬の副作用

 201号「買ってはいけない」の三好基晴氏の記事の「前半部分」 は、この欄にしては、評価できることが書かれていたと思います。 簡単に言うと、

たとえ四千年の歴史があったからといって、 漢方薬も薬である以上は副作用があり、 発癌性に繋がる変異原性が認められたものもある。 しかし一九七六年に漢方薬が健康保険扱いになった時に、 厚生省は発癌性の有無の調査を行っていなかった。 変異原性は催奇性にも繋がることから、妊娠中の人や 出産計画中の人は漢方薬を控えるべきである。

といった内容であります。 これは、前述の高橋晄正著『効かない!?漢方薬Q&A』(ラジオ技術社) でも指摘されていることです。一方で、 週刊金曜日120号と『はるかなる東洋医学へ』に載った境信一氏の記事 「『西洋医学』が起こした漢方事件」における次のような主張

もともと「副作用」という概念が漢方にはないのですから。 あるとすれば「誤用」であって、病態(証)に合っていれば 副作用的なものなどないし、合っていなければその薬の効果が別の形で 出てきます。それは漢方薬の誤用ですから、副作用ではない。

とかは、とても危険な考え方だと私は思います。 西洋医が「科学的に実証された訳ではない」漢方薬の効能を「信用して」 使ったために、その副作用で人を殺してしまったことは、確かに 西洋医にも責任の一端はあるかも知れません。 が、より深い責任は、効能や副作用に関する科学的な実証データのない 漢方薬を、数千年の歴史を尊重して、国が1976年に健康保険への採用を 認めたことにあるでしょう。

 また、科学的な実証データのない漢方薬でも、東洋医が東洋医学の 基本哲学に基づいて処方すれば安全だということにはならないし、 そのような妄信こそが危険であると思います。

 占星術や陰陽五行説を例に挙げるまでもなく、数千年の歴史の中を 伝承されてきた統計データや理論体系が間違っていることは珍しくありません。 東洋医学が伝承してきた数千年来の統計データや理論体系も、 人の健康を預かる以上は少なくとも、 現代の科学で一通り「追試」し直すべきだと思います (アメリカでは東洋医学といえども、厳正な二重盲見法などの 科学的実証を通過した上でなければ臨床に使えないという話も 聞いたのですが、実際のところはどうなのでしょう)*。

* 注(98/12/8, 00/9/13)
 私の漢方薬や東洋医学に対する こうした表現や、I氏と私の共同執筆 (I氏が大部分を書いているが)による 「『はるかなる東洋医学へ』(本多勝一)をきる!」 に対して、私の 掲示板上に水島広子氏から意見が寄せられ、 議論がなされた関連掲示

 さて、話を戻して三好氏の記事の後半部分についてですが、 こちらには素直に納得できません。 例えば

「下痢は本来、からだが吸収してはいけないものを排泄するために おこる防衛反応でもある。下痢を止めることで、有害なものを吸収 してしまうこともあるのだ」

といった論法は、よく耳にするもので、この他にも 「発熱とは本来、病原菌を殺すための防衛反応なのに、解熱剤を飲んだり したら病原菌を殺せなくなってしまう」 など色々とあります。 しかし、こうした論法は、人間の防衛反応は常に生体にとって 「最善・最適な反応」をする訳ではないということが考慮されていません。 例えば、病原菌を殺すための発熱は、病原菌ばかりではなく人間自身の 生体機能をも傷み付けてしまうことがあるし、有害なものを排泄する下痢 にしても、人間自身が栄養摂取することをも妨げてしまったりする訳です。

 つまり解熱剤や下痢止めは、生体側のこうした「過剰な」防衛反応を抑えた方が 生体にとって有利な場合であると判断された時に使うのだと私は捉えています (まあ、生体にとって特に有利でなくても、気分がすっきりしないから 熱を下げたいみたいな使い方もされるでしょうが)。

 あと、最後の方に「 下痢を止めようと抗生物質を使うと、O-157が死滅するときこのベロ毒素 が大量に放出され、重症化したこともあった」 とありますが、正露丸の話をしてるのに、抗生物質を持ち出してくるのは 攻撃対象のすり替えではないでしょうか。

 抗生物質のお陰でこれまでにどれだけ多くの人々が救われたかと いうことも考えるなら、抗生物質を一方的に有害なものと決めつけるような 書き方はどうかとも思います。

I氏の 「東洋医学には副作用がない?」も参照のこと(1998/12/8追記)。

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自然が一番で科学技術は有害でしかないのか

 201号の本多勝一氏の風速計「三七億年」について二言、三言。

地球に生命が誕生してから人類まで進化した時間としての約三七億年。 その間、生物の各種はさまざまな自然界の有害物に対して適応し、 防御のための手段を講じてきました。(*1)

ところが現在の地球は、三七億年来の自然界に全くなかった人工的 新有害物にあふれている。 ダイオキシン等の有害合成有機薬品はもちろん、電磁波や抗生物質など、 飲食物も空中も反自然的未適応環境だらけ、生物としての防衛準備が とてもまにあいません。 異常児出産やガン等が増大するのは、あまりにも当然の現象です。(*a)

とあります。 さて、自然界に「人工的新有害物」がまだあふれていなかった頃、 つまり近代科学がまだ発達していなかった頃、 「自然界の有害物に対して適応」してきた筈の人類の平均寿命は、 せいぜい三十歳くらいでした。 確かに科学技術は様々な有害物質を自然界に撒き散らしましたが、 人類の寿命が飛躍的に延びたのも科学技術のお陰であります ( 「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁に関連事項) )。 電気製品や抗生物質が、これまでにどれだけ多くの人々を 救ってきたことでしょう。 本多氏自身、著書『そして我が祖国・日本』(朝日文庫)の「あとがき」の中で、 文明を拒否すれば大飢饉や伝染病による一部落全滅などにも甘んじなければなら ないとして、文明や機械文明そのものが 悪い訳ではないと書いていた筈だと思いますが、 その後、意見が変わったのでしょうか (「スプーン曲げ」に関連事項)。

 「人工的新有害物」で飲食物(*2)や空中が汚染されているということだけを 根拠に、「異常児やカン等が増大するのは、あまりにも当然の現象です」 とそれらの因果関係を断定するのでは、 もはや、論理的な緻密性などは放棄した感情論に過ぎません。 ちょっと考えてみれば、私に思いつくだけでも、 かつては死んでいたような「異常児」も、近代科学のお陰で 生きられるようになり、見かけ上の「異常児」の数が増えた ということも考慮しなければなりませんし、 平均寿命が三十歳の時代には、大部分の人はガンに罹るような年になるまで 生きていなかったということも考慮しなければなりませんし、 当時は、たとえガンになっても、それがガンだとは分からなかったであろう ことも考慮しなければならないでしょう(*3)。

 科学技術がもたらす弊害に対して警鐘を鳴らしていくことの 重要性自体は私も認めますが、 感情論によって「怪しそうな」因果関係を断定してしまう態度は、 客観的な実証を要求することの意義をないがしろにし、 とかく非科学的なこじつけ(センサー理論とか)に納得してしまう 週刊金曜日の読者層とかには、大いに有害な影響を与えているのでは ないかと心配します(本多信者は本多氏の言うことを 「信じ」ますから)。

*1 このくだりは、荻野晃也氏が高圧線鉄塔建設反対運動のある講演会(福島県) で講演した内容に本多氏が共感して引用したもののようだが、 内容的には、 金曜日163号「電磁波汚染国ニッポン」の荻野晃也氏の冒頭の文章とほぼ同じである。 この号の荻野氏の文章は、シューマン共振が生命発生に重要な役割を果たした といった類の多分にオカルトじみた内容ですが、あの優れた眼力を持っていた筈の 本多氏は、荻野氏のようなオカルトがかった「専門家」たちの話を少しも胡散臭いとも思わずに全て真に受けて受け売りしているのだろうか。 (163号の荻野氏の記事については、私の友人I氏の頁の 「電磁波問題の旗頭・荻野氏ってこの程度か」 も参照のこと)。荻野氏の主張のトンデモなさについては 次章で触れる。

*a  ヒトの進化と環境の変化に対する長谷川眞理子氏の次のような捉え方は、 荻野氏や本多氏とはまるで対照的である (NHK人間大学1997年4月〜6月期 「オスとメス・性はなぜあるのか」)

哺乳類の一員としてのヒトが進化してくる過程で存在した環境条件は、 いまや大幅に変化してしまった。人々の生業形態も変化したし、 さまざまな科学技術の産物、社会福祉、保険など、昔はなかったものを、 私たちはいま手にしている。また、個人の自由と人権という思想も作り出した。

「スプーン曲げ」に関連事項)。

*2 テレンス ハインズ著「『超科学』をきる」(化学同人)の次の箇所も 参考になろう。

サッカリンを与えられた実験群のネズミは、与えられなかった対照群の ネズミと比べて膀胱癌になる確率が高かった。人間に関しては、膀胱癌 とサッカリンの摂取量に相関があることを示すデータは得られなかったのだが、 大衆の間にサッカリン恐怖が広がってしまったのである。 (中略) それにサッカリンには健康によい面もある。とくに肥満で苦しみ砂糖の摂取量 を少なくして体重を減らしたい人とか、砂糖の摂取を制限している糖尿病患者には 不可欠な甘味料なのだ。 (中略) こうした恩恵のほうが、がんへの危険度よりも実際 はるかに大きいのだ。
(中略)
広く使用されている二種類の保存料BHAとBHTは、ネズミに脳障害を 起こすなど問題があるといわれている。例によって大量投与実験でわかった ことだ。皮肉なことに、後年、これらの保存料は微量に摂取されると、 むしろ弱いながらも抗ガン作用を示すことが判明した。
(中略)
一般大衆に伝えられていない点は、ある物質が食品添加物として認められる ためには、いくつもの安全性テストを通過しなければならないという点だ。 健康食品産業の営利主義としかいいようのない危険食品ヒステリーにもかかわらず、 大抵の食品添加物はおおむね安全なのである。
(後藤註 尤もこれはアメリカの話を書いた著作ではある)

尚、サッカリンのサルを使った安全性試験については、C.Uneyama さんの 「サッカリンについて」 も参照のこと。

*3 唐沢俊一著『薬局通』(ハヤカワ文庫)の次の箇所も参考に なろう。

藤原道長も糖尿病で背中に腫物をつくって死んでいる。抗生物質の なかった時代には腫物は死に至る病であった。 (中略) 豊臣秀吉は若いころの放蕩がたたって老化が早く進み、慶長三年(一五九八)、 癌で逝った。そしてあれだけ健康に留意した家康も結局は数カ月にわたる 消化系疾患で苦しみぬいた末に元和二年(一六一六)死亡。 鯛のてんぷらにあたったためともいわれるが、結局は癌であったろうというのが 定説となっている。よく、最近でも現代人の病気はすべてファーストフード など汚染された食べ物が原因だ、昔の自然食に帰れば万病平癒、などという説を 唱える人がいるが、自然のものばかり食べていたはずの当時のひとも、 糖尿や癌で死んでいたのである。

00/10/24追記a
 佐倉哲さんの「 日本と世界に関する来訪者の声」で 鳥居孝夫さんが福岡正信氏の自然農法について佐倉さんと議論している ( 「福岡正信氏の自然農法について」(再)(再々))。 福岡氏の自然農法は「何もしない」と言いつつもいろいろなことをやっていて、 「氏の自然農法も、氏が否定する科学に基づく農業技術の一つとしか思えません」 という鳥居さんの意見に私も同感である。 これは、 「自然」とか「科学」という言葉の定義の問題だという佐倉さんの意見自体は、 その通りかも知れない。 しかし、 一般の読者(例えば「買ってはいけない」 を素直に信じてしまうような)は、 福岡氏の科学批判を読めば、 「なんだ、農業においても科学は不要で、自然が一番 だったのか」 なんて短絡してしまうかも知れない (更には「科学は悪で自然が一番」という思想を独自に拡張して、 「病気になったら、医者にかかるよりもニンニクを食べた方が治る」 なんて考えてしまう人が現れかねないことは私には容易に想像がつく)。 そういう読者(社会)への影響ということを考えたとき、 私は、 「自然(が一番)」主義者たちが、 自分たちで勝手に誤解している「科学」という仮想敵を 批判した中に、仮に学ぶべき思想が含まれていたとして、 その学ぶべき部分を善意の解釈で汲み取って紹介するのはいいけれども、 だからと言って誤解に基づく「科学批判」を放置するのはまずいと思う。 その意味で、 鳥居さんの 「福岡氏の農法がうまくいっているのは、自然の哲理に基づいているからというより、試行錯誤によってうまくいったものを残してきたからです。 結局私には、方向性は違うものの、福岡氏の農法も科学に基づく農業技術の一つ、としか見えません」 のような意見のように、 実は、科学というのは、福岡氏の自然農法でもやっているように 「試行錯誤によってうまくいったものを残していくから、うまくいくのだ」 ということを啓蒙していくことの方が重要ではないかという気がする (そうすれば、例えば 「提唱された理論や方法を 膨大な臨床データに基づいてうまくいったものを残してきた西洋医学の方が、 ナントカ博士の思い付きや伝統的迷信に基づいているだけで科学的検証や追試を 受けていない 代替療法よりも 信頼できそうだ」のような判断力を一般大衆に与えることにも繋がるかも知れない)。


覚え書き:
「科学者は、ああすればよい、こうすればよい、ということばかり考えていて、 ああしなくてよい、こうしなくてよい、ということを考えていない」 というのは本当だろうか?  科学の進歩によって「やらなくてよく」なったこともたくさんあるのではないか。 例えば「医学はどうすれば病気を治せるかばかり考えていて、どうすれば病気に かからないか」を考えていないだろうか。 例えば、下水道が整備され、衛生概念が普及したことによって、 伝染病への罹患率は激減しているのではないだろうか(ペストの例)。 では、「下水道が整備され、衛生概念が普及したこと」を 「人が伝染病にかからなくなったから、医療技術なんていらなくなった」 ことの典型例と捉えられるだろうか。むしろ 「下水道を整備し、衛生概念を普及させること」を含めて「医療技術」なり 「医学の成果」と捉える方が、「医療技術は病気を治すことしか考えない」のように 「医学」を誤解(曲解)した仮想敵を批判するよりもずっと建設的ではないだろうか。

01/3/22追記:
 谷田貝和男さんの日記で、  福岡正信『自然農法 わら一本の革命』(春秋社)についての感想が書かれているが、 ここを読むと、この本がどういうふうにトンデモで、 そういうのに感化されやすい人(例えば、アニメ制作者?)がどういうふうに この手の著書に影響され、 この手の着想(「自然が一番」の妄想)の 受け売りを大衆に波及させていってしまうことかが 容易に想像できて怖い。 因みに、その手の「感化」を受けた典型的なアニメらしい? 『地球少女アルジュナ』については、谷田貝さんの ここにも書かれているので参考に。

この項、続く。

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真に受けてはいけない! 荻野晃也氏の電磁波有害説

 金曜日202号の次号予告に「ポケモンも原因は”電磁波”」と出ていたのを 私の友人のI氏に見せたところ、「まさが、いぐらなんでも 『光も実は電磁波だった!』なんつこ馬鹿くせえ話でねえべな」 と危惧しておりました。 確かに、その論法でいけば、「日射病も原因は”電磁波”」とも言えるし、 「電子レンジで加熱した牛乳を飲んで舌を火傷した原因は”電磁波”」とも言える 訳ですが、これらは言うまでもなく、世間で騒がれている

1)「送電線や家庭電化製品から出ている500ミリガウス以下の 50Hz/60Hzの変動磁場が健康に影響を及ぼす」

2)「携帯電話などから出る1.5GHz, 1W程度のマイクロ波の電波が 健康に影響を及ぼす」

といった仮説を実証する事例にはなり得ません(あまりに当たり前のことですが)。 だから、ポケモン事件を誘発したのがテレビ映像の光の明滅だったとしても、 「その光が電磁波である」ことを理由に、1)や2)の仮説の傍証とするような真似は いくらなんでもしないだろうと思っていたのです。

 203号が届いて<「ポケモン」パニックと電磁波>という荻野晃也氏の 記事を読んでみると、 「ポケモン事件でも、光以外の電磁波過敏症の可能性もありうると私は 思っている」と書かれており (つまり、ポケモン事件は光の明滅ではなく、テレビから出る変動磁場で 引き起こされた可能性があり、正に1)の仮説が該当するかも知れないという) 更にトンデモな内容だったので私も絶句してしまいました。

どうやら荻野氏は、

イ)電化製品から出る10〜100Hzの変動磁場
ロ)10Hz前後の変調がかかったマイクロ波の電波
ハ)10Hz前後で明滅する可視光線

ひょっとすると更には

ニ)16Hzの低周波音 (すら)

の違いがよく分かっていないか、 あるいは作為的に混同しているようです。 電子レンジで加熱した牛乳を飲んで舌を火傷したからといって、 それが1)や2)の電磁波有害説を実証する事例にはなり得ない のと全くおなじことで、 光や音のパルス信号(10〜20Hz)を 目や耳の感覚器を通して脳に知覚させると痙攣やてんかんの発作を 誘発することがあるからといって、 それが1)や2)の電磁波有害説を実証する事例になる訳はありません (あまりに当然のことながら)。

 ところが荻野氏は、「”犯人”はパカパカ周波数」だと主張し、 前述のイ)ロ)ハ)ニ)をごっちゃにして、 光だろうが電波だろうが音だろうが、 明滅や変調やパルスの周波数が、人間の脳波に近い 10〜20Hzの「パカパカ周波数」になると脳に影響を与えると考えている ようです。

 しかも、1)や2)の仮説で想定しているような 「電磁波がじかに体や脳を通過して影響を与える」ということと、 「光や音を感知する 感覚器を通して知覚されたパルス信号が脳に影響を与える」 ということとの区別が分からないのか、 あるいは意図的に混同しているようでもあります。

 荻野氏によると「視覚には多数の神経やシナプスがかかわっており、 いわば眼で物を見るのではなく脳で見ているのである」のだそうです。 でも一応その直後に「神経内は電気パルスが、シナプス間は神経伝達物質が 媒介しており」と続くので、一応、脳が直接に光という「電磁波」を知覚 している訳ではないということは分かっているようです。 と思いきや、その少し後に

「光ではない変調電磁波は、網膜ではなくこの脳神経を直撃する可能性があり、 一五Hz前後の変調周波数・電磁波も同じように問題になるはずだ」

などということが書かれてあり、何となくいわんとすることが幽かに分かって まいりました。 恐らく荻野氏は

A)脳が15Hz前後のパルス信号を知覚すると痙攣発作を起こすことがある
B)そして、それは光や音を感知する感覚器を通して脳がパルス信号を知覚するという以外にも、 変調をかけたマイクロ波などがじかに脳を通過することによっても起こりうる

という仮説をどうやら思い描いているようです。 神経の活動電位が数十から百mVにもなることを考えれば、 日常で発生する変調マイクロ波がそれに影響を与えようの ないことは分かりそうなものですが。 しかも、この人は、この文脈で「エイディ博士らは、マイクロ波を極低周波で変調させた電磁波が ニワトリの脳細胞内のカルシウム・イオンを漏洩させることを発見した」 と書いており、 A)の仮説を実証する事例とはまるで関係のない事例を恰も傍証の如く並べる というお決まりの手法をまた使っております。

 一体、この人は、電磁波の有害性を検証するには、どのような仮説を立て、 どのような実験や調査をすればいいのかということ以前に、そもそも 自分が実証したいと思っている仮説が何であるかもまるで考えていないのでは ないでしょうか。電磁波が何かに有害でさえあれば何でもいいのでしょうか (因みに音は電磁波ではないが)。

 デイディ博士とやらがニワトリに浴びせた変調マイクロ波の電波の周波数や変調周波数や出力について 書かれていないので何とも言えませんが、例えば 2.5GHz程度のマイクロ波を500Wくらいの出力で集中的に浴びせたならば、 電子レンジの中と同じ事になりますから、ニワトリが焼き鳥になっても 不思議ではありません(因みに携帯電話とかは1GHz程度の0.5W程度)。

 さて、そのニワトリの脳細胞のカルシウム イオンの漏洩が最大になったのが、 変調周波数が16Hzの時だったのだそうですが、その文脈に続けて

低周波騒音公害で知られる和歌山市の汐見文隆・医師から 「低周波でも人間に一番悪影響を与えるのが一六Hzである」とうかがったことがある。視るのも聴くのも脳神経の働きなのだから、同じことだと納得した。

などと仰っております。もう滅茶苦茶です。 その汐見氏が言っているのは恐らく低周波振動による体の不調とかの話であって、 パルス音によっててんかん発作が誘発されるといったA)の仮説の実証とは まるで関係のない話です。 荻野氏は一体 何を訴えたいのでしょうか。 一通り記事を読んで氏の意図を汲み取るならば、恐らく

C)16Hz前後の「パカパカ周波数」が人体に悪影響を及ぼす

そして、パカパカ周波数は光でも電波でも変動磁場でも音でも悪影響を及ぼす

また、人体への悪影響もてんかん発作の誘発や脳内細胞のカルシウム・イオンの 漏洩、頭痛、肩こり、眼精疲労、などなど色々とある

ということのようです。 しかし、このC)の仮説は、検証するにはあまりにも漠然と過ぎた仮説です。 これを検証するには、もっと具体的な検証しやすい仮説群に分けてやる 必要があるでしょう。例えば、大ざっぱに分けても

C1)光の16Hz前後のパルスがてんかん発作を誘発する
C2)音の16Hz前後のパルスがてんかん発作を誘発する
C3)16Hz前後の変調をかけたマイクロ波(何GHz? 何ワット/kg? )が脳内細胞のカルシウムイオンを漏洩させる
C4)16Hzの低周波騒音(何dB?)が体の不調をもたらす
C5)16Hzの変動磁場(何ガウス?)が体の不調をもたらす
C6)16Hzの変動磁場(何ガウス?)がてんかん発作を誘発する
C7)16Hzの変調をかけたマイクロ波(何GHz? 何ワット/kg?)がてんかん発作を誘発する

などなど、まだまだ他にも色々とあるでしょう。 尤も、C)の仮説は漠然としているため、C1)〜C7)の うちのどれか一つでも実証されれば、C)が実証されたことになるのか、 C1)〜C7)の 全てが実証されなければC)が実証されたことにならないのか曖昧です。

そこが狙い目なのか荻野氏は、 ある特殊な条件下で得られているC1)〜C4)の傍証の幾つかをもって、 C)の仮説が さも実証されているかのように 主張し、C6)やC7)のようなまるで荒唐無稽なことが起きている 可能性もあると 宣伝している訳です。

 つまり、できるだけ「 仮説を検証しにくい漠然としたものにしておいて、 その仮説と矛盾しない傍証は何でも仮説の証拠としてしまう」という ——疑似科学のあまりにも典型的、古典的な手法——を荻野氏も 用いているということのようです。

 最後の段落にも「電磁波過敏症」というのが出てきますが、 一体どんな「過敏症」なのでしょう。なんと市民集会まで開かれたそうで、 「過敏症」の人が「私たちが過敏なのではない。あなたたち多くの人が 鈍感症なのだ」と述べたそうですが、 そもそも荻野氏の主張を真に受けるような人たちが「電磁波過敏症」になって 荻野氏の主張に取り合わないような人たちが「電磁波鈍感症」になるのだとすれば、 それだけで「電磁波過敏症」の客観的説得性がほぼ失われると私などは 思ってしまうのですが。 その「電磁波過敏症」とやらには私も興味があるので、ぜひ二重盲検法でも やってほしいものです(例えば対象群を次の四つに分ける: 電磁波を当てていると思わせて、実は当てていない/当てている。 電磁波を当てていないと思わせて、実は当てている/当てていない。とか)。

 「電磁波過敏症の人は病院へ行っても、ノイローゼ扱いしか受けない」* そうです。 電磁波過敏症の存在については、本当に二重盲検法でもして調査しなければ 今のところ、「そんなものある訳はない」と私に断言することはできませんが、 他方で、 荻野氏のような人が、この記事で紹介しているような、 科学的に荒唐無稽な強引なこじづけによる 滅茶苦茶な電磁波有害説が、科学に疎い純真な人々を電磁波恐怖症に 追いやっている責任は重いだろうと思います。

 現に電力中央研究所の生物実験の結果によると、 50Hz, 500mGの変動磁場にマウスを暴露しても、 胎児の奇形発生や細胞内カルシウムの変化はまったく認められていないことなどを 参考に私なりに考えると、 恐らく、電化製品や高圧送電線から出ている500mG以下の変動磁場 を心配する必要はないのではないかと思っています。

 一方、1.5GHz,1W程度のマイクロ波を用いる携帯電話の場合は、 電子レンジを浴びるのの数百から数千分の一くらいの効果はあるかも知れない という気もします(尤も、単位Kg当たりに照射されるワット数は、出力 ワット数よりもずっと小さくなるでしょうが。 携帯電話で長電話をすると耳たぶの温度が0.1度くらい上昇するなんてことも あり得るのでしょうか?? マイクロ波もどうやら無害であることについては ここに少し書く)。

 まあ、何れにしても、電磁波そのものが人間に与えているかも知れない害 よりも、電磁波恐怖症が人間に与えている害の方が遙かに有害だと私は感じています。

 記事の最後に荻野氏は 「私にとって電磁波過敏症も今回のポケモン事件も、まさに電磁波問題そのものなの である」と括っていますが、 これは正に 性質の異なる様々な問題を一緒くたにして 電磁波問題とこじつけてしまう荻野氏の牽強付会な態度を非常によく象徴 していると思います**。

** この点については私の友人I氏の頁の 「電磁波問題の旗頭・荻野氏ってこの程度か」でも 163号の荻野氏の記事について書いている。 その他、 * 「電磁波問題」に関しては、電網上では、藤井研太さんの 「電磁波は本当に危険なのか?」の頁、 著作としては、大朏博善著『電磁波白書--電磁波はほんとうに怖いのか?』 (CD-ROM付き)(ワック出版)、 ロバート パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか——魔法はけっして起こらない!』(主婦の友社)等が参考になろう。
* ところで、「電磁波過敏症」よりは、だいぶ有名な「化学物質過敏症」 については、 NATROMさんの 「化学物質過敏症に関する覚え書き」 や 西村さんの 「科学における不存在証明」が参考になる。

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科学的根拠のない風説に「慎重なる回避」を取る危険性

 電磁波の人体への有害説など、因果関係 が科学的に実証されていない この種の問題では、しばしば「慎重なる回避」という論法 によって、その「有害性」の宣伝行為や 「有害性」を生じる商品や設備(送電線鉄塔等)に対する反対運動が 正当化されているようです。

 勿論、「有害性」との因果関係にそれなりの 科学的根拠があるならば、「慎重なる回避」をする意義は十分に あると思います (例えば煙草が癌を発生させる仕組みはまだ分かっていないが、 煙草と癌とに因果関係があることは動物実験や疫学調査によって 科学的に実証されている)

 しかし、因果関係にまるで科学的根拠がなかったり、 根拠となる報告が科学的信頼性に欠けていたり、 むしろ因果関係を否定する科学的な報告が出現し始めている ような有害説に対して、 扇動家の非科学的な言説を信じて 「慎重なる回避」を取ることは、第一に まるで不必要な無駄な労力だろうし、更には、 感情的に妄信しているだけに恐怖症などの実際に「有害な」問題を 引き起こしたり、 「慎重なる回避」を根拠に 科学的な反証に耳を貸さない狂信的な反対運動を引き起こしたりする ことに繋がっていくのではないかと私は思います。

 例えば、明らかに科学的な根拠のない次のような噂に対して 「慎重なる回避」を取ることの馬鹿らしさを考えてもみて下さい。

「口割け女に襲われるので、夜一人で出歩かない方がよい」
某ハンバーガー屋のハンバーガーにはミミズの肉が使われているので、食べない方がよい」
肉を食べると癌になるので、食べない方がよい」
草食主義をするとファシストになるので、草食主義はしない方がよい」
牛乳を飲むと体に悪いので、飲まない方がよい」
「生物学的に人間に近い動物を食べると体に悪いので、できるだけ遠いもの 例えば昆虫などを食べた方がよい
「血液型A型の人は怒ると怖いので、怒らせない方がよい」
「血液型O型の人は大ざっぱなので、会計はやらせない方がよい」
バイオリズムの危険日は体が不調になるので、仕事を休んだ方がよい」
「わたしとあなたの相性占いの結果は最悪と出たので、 結婚しない方がよい」
「女性ドライバーの運転は危ないので、近づかない方がよい」
女性は方向音痴なので、道案内を任せない方がよい」
「女性は論理的思考には向かないので、理系には進まない方がよい」
日本語は論理的ではないので、 国際会議の公用語には使わない方がよい」
西洋医学は対症療法をしているだけで病気の根元自体はむしろ悪化させる ものなので、西洋医学にはかからない方がよい」

……などなど幾らでも思いつきますが、 このように極端な例を列挙していくと、 根拠のない風説に対して「慎重なる回避」を取ることが、如何に馬鹿げていて、 場合によっては差別であったり、生命を危険に晒す可能性 すらあるということが見えてくるかも知れません。

 実際、ここに挙げた例の中には、一見「科学的」体裁を装った 非科学的な説明付けがなされているものも幾つか含まれています。 例えばバイオリズムにはれっきとした「理論」があるし、 血液型占いには「統計的に」相関関係を示した報告などもありますが、 何れも科学的な追試によって完全に否定されています*。

* 例えば、血液型占いについては柴内康文さんの 「血液型を書くのはやめましょう」の頁

 バイオリズム占いについては ハインズ『「超科学」をきる』(化学同人)等

 それでは、例えば今 世間を騒がせている電磁波有害説の場合、 一体どの程度の科学的説明付けがなされていると言うのでしょう。 少なくとも荻野晃也氏(前章参照)や天笠啓祐氏による電磁波関連の文章に関する 限り、科学的な信頼性は甚だしく低いようです。 あれは、バイオリズム理論や血液型理論(例えば竹内久美子氏による) と同類の典型的なオカルト=疑似科学 だと私には思えます。

 一方、変動磁場と発癌性との相関を示唆して電磁波 問題の発端ともなったザビッツ論文(1988)やカロリンスカ論文(1992)は、 科学的な疫学調査を報告したものであり、取り合うに値する 報告です。

 これらの論文は、簡単に言うと、 送電線などの磁場に暴露された住民と暴露されていない住民との 間で、脳腫瘍や白血病の患者の発生率に違いがあるかどうかを 疫学的に調査したものです。 これらの調査に対しては、対象とした住民総数に対して、 癌の症例が少なすぎるので、統計的に有意な相関と言えるかどうかが 疑わしいという批判もあります。 例えば、 ザビッツ論文(88)では、小児白血病と磁場暴露との相関は 認められましたが、脳腫瘍と磁場暴露との相関は認められませんでした。 ところが、1995年にザビッツ氏が電気作業者に対して調査し したところ、今度は脳腫瘍と磁場暴露との相関が認められて、 白血病と磁場暴露との相関はみとめられませんでした。 一方、カロリンスカ論文では、小児白血病と磁場暴露との相関は 認められましたが、それ以外の小児癌との相関は認められませんでした。 つまり、現在、報告されている多数の疫学調査は、 必ずしも一貫性や再現性が認められる域には達していないようです。

 そして現在、世界各地の様々な機関で、ザビッツ論文やカロリンスカ論文 で示唆された仮説を追試または検証すべく、動物実験や疫学調査が 行われている訳です。 ある仮説の 科学的検証というのは、ある研究者がある限られた条件で一回やってみただけでは、 再現性の点から十分な信頼性があるとは言えない部分があります。 異なる研究者が仮説に沿った様々な条件で追試しても同じ結果が得られ るならば、仮説の客観的信頼性が得られていくし、 追試によって仮説を裏付けるような結果が得られなければ仮説は 否定されていくでしょう。 科学とは、そのよう に仮説を検証しながら知識を蓄えたり修正したりしていく方法を意味するのだと私は捉えています( * 「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁)。

 ダイオキシンの毒性を無責任に強調するマスコミの問題について論じた C.Uneyama さんの 「ダイオキシン報道に一言」も参考になろう。

01/3/30 追記
 ロバート パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(主婦の友社)という本を買った。 この本は 「科学者には、インチキ科学の情報を必ず世間に伝える義務がある。また 一般の人たちに科学的な手法、考え方というものを説明し、 理解してもらう責任がある」という立場からアメリカにおいてインチキ科学が もたらした種々の騒動について書かれており、非常に好感が持てる。 「主婦の友社」は、 「話を聞かない男、地図が読めない女」 を筆頭とするトンデモ本ばかり出版しているのかと思ったら、 こういうまともな本も出しているのだ。 「主婦の友社」の社員は、自社から出版されている ロバート パーク氏の著作をちゃんと読んで、 「話を聞かない男、地図が読めない女」 みたいなトンデモ本を世に撒き散らすことが如何に会社の(いや、社会の) 恥であるかを 学んでほしい。 それはともかく、 この本の第7章「恐怖の電流——電磁場が白血病の原因というデマ——」 では、アメリカにおける電磁波騒動の顛末が分かりやすく解説されている。 この本によると「慎重なる回避」という言葉は、 カーネギーメロン大学のグランジャー モーガン教授による造語だそうだ。 どうやらこの人は電磁場の人体への悪影響を説いていた人らしいのだが、 荻野氏や金曜日は、単にその手のアメリカの一昔前のデマ (中華料理店症候群とかも) を受け売りして(妄信して)得意になって言い触らしているだけでは ないのだろうか(因みに、 アメリカで「電磁波で癌になる」というデマを流した 張本人である「ジャーナリスト」のポール ブローダーの名前を 金曜日の目次検索で検索してみたら、“ 健康を蝕む電磁波;高圧線近くに住んでガンになる(講演 ポール・ブローダー);「圧力を越えて」——ブローダー氏に聞く(懸樋哲夫);危ない あなたの身のまわりの電磁波(高圧線問題全国ネットワーク)”というのが出てきた。 なかなか案の定である)。 さて、以下に、『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』から数ヶ所を 抜粋する。これを読む限り、どうやら(案の定) マイクロ波も変動磁場も人の健康には影響しないようだ。

(前略) ガンの誘因となりうる もの——X線や紫外線などの電離放射線、タバコの煙などの化学的発ガン性物質、 ある種のウィルス——はDNAに損傷を与える。 それにより、化学結合が破壊されたり、一部が変化したりして、突然変異した DNA鎖ができる。ところがマイクロ波の光子は、化学結合を伸ばしたり曲げたり はするが、化学結合を引き離すほど接近することはできない。
(中略)
直接、化学結合を破壊することができる光子のうち、もっとも エネルギーの低いものは、電磁波の波長でいえば紫外線の周辺、 可視光線のやや上にある。これらの光子は、エリー・アデアが実験に使用している マイクロ波の一〇〇万倍以上のエネルギーをもつ。
ロバート・L. パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(主婦の友社)、 272-273頁

 一九九五年春、米物理学会は、電磁波問題に関する調査報告書をまとめた。 (中略) 米物理学会は「ガンと送電線の電磁場に関係があるという憶測には、 なんら科学的実証がない」と声明を発表した。
同書、 290頁

(前略) 一九九六年、全米科学アカデミーが「電磁場が人体に悪影響をおよぼすという 証拠はなにひとつあがっていない」という満場一致の結論をだし、それを 『スティーヴンズ報告書』にまとめた。
同書、291頁

(前略) 一九九七年七月二日、国立ガン研究所(NIC)がようやく徹底的な疫学調査の 結果を公表した。 (中略) 「小児急性リンパ芽球性白血病と磁場との関係は、検知するにも、 懸念するにも微弱すぎる」と結論を下したのである。
同書、292, 293頁

 一九九九年五月一日、長らく待たれていた、カナダ人疫学者による小児白血病に 関する調査が発表された。 (中略) カナダの研究においても、住宅が電磁場にさらされることと小児白血病のあいだには なんの関係も見られなかったのである。
同書、295-296頁

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「慎重なる回避」か「冷静なる非回避」か——エイズ啓蒙の場合

 他方、こうした電磁波問題とは対照的なまでに、 科学的根拠のない風説に対して「慎重なる回避」を取らずに 「冷静なる非回避」を取るように世界各地の行政が宣伝した珍しい例として、 HIV 感染に関する「正しい知識」による民衆の啓蒙が挙げられるでしょう。

1)「エイズの人を刺した蚊に刺されるとエイズがうつる」
2)「エイズの人の呼気に含まれる唾を吸うとエイズがうつる」
3)「エイズの人を触るとエイズがうつる」
4)「エイズの人と口づけするとエイズがうつる」

などなどの風説に対して、

「唾液バケツ三杯分の唾を飲んでやっと HIV 感染の可能性が出る」
「コンドームを用い(粘膜どうしの接触を避け)れば、まぐわいしても大丈夫である」
といった知識——つまり 「ある一定量以上の血液や体液が体内に取り込まれなければ感染しない」 ということが種々の情報媒体を通じて大々的に宣伝されたのです*。

* 尤も、こうした知識の宣伝は、しばしば 性倫理や性体験の個人差に対する配慮を欠いた演出 (例えば、「今時の『普通の』高校生なら(青年なら尚のこと)、 複数の異性と『日常的に』性交渉しているのは『自然なこと』だから」 といった調子の「不特定多数の相手との幼いうちからの性交渉」を 既成常識化/多数派化し、その多数派化に漏れる者を不要に煽ってすら いたのではないか) を伴っていたという意味では、私は必ずしも手放しで評価する訳ではありません (性体験の低年齢化は必ずしも「性の解放」の反映とは言えないような気がする)。 差別を助長するような非科学的な風説が蔓延しないように釘を刺した ことを評価している訳です。

 さて、「慎重なる回避」を理由に電磁波有害説を方々で宣伝してる人たちは、 エイズに関する1)〜4)のような風説に対しては 「慎重なる回避」を取るべきだとは判断しないのでしょうか。 実際、1)〜4)の仮説に対する「科学的」根拠 (「蚊が血を媒介する」「口内で出血していれば唾の中にも HIV ウイルスが含まれる」 「口や手に傷が付いていれば血を出したり取り込んだりし得る」とか) の説得性の次元は、 電磁波有害説に対する「科学的」根拠(せいぜい疫学調査数例や 「高出力の」マイクロ波は水分を加熱し得るとか) の説得性の次元と比べるならば、 むしろ高いくらいではないかという気さえします。

 私は現在のところ、送電線や電化製品から出ている程度の 変動磁場に対しては「慎重なる回避」ではなく 「冷静なる非回避」の態度を取りたいと考えています (どうやらそれでいいらしいことについては、 01/3/30追記)。

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スプーン曲げがオカルトではなく原初の科学?!
——オカルトも休み休み載せるように

 最近、オカルト記事には事欠かない金曜日ですが、 206号にかなり重傷なトンデモ記事が載りました (こんな記事を載せてしまう編集部もどうかしている。本多氏の悪影響だろうか)。 「林郁の眼」という欄で、

 先生は工学専門でいま八〇歳、現代人が失った能力を保っておられる。 人の体や物を熱くし、スプーン曲げもすぐできるが、それは小事で、 教え子や縁者の病を救ってきた。私も不調のとき授けていただいた。 これは超能力でもオカルトでもなく、自然の力、原初の科学である。

などという見事な「信者」表明が書かれておりました。 「人の体や物を熱く」することも「スプーン曲げ」も、 立派なオカルトです。こういうのは 「原初の科学」と言うのではなく、疑似科学と言うのが正確です。 違うと主張するなら、きちんとした科学の手続きに 従って立証して下さい。 再三の追試によって実証されてきた科学的常識と矛盾するような ことが起きていると主張する以上は、その立証責任は、 そんな大それたことを主張する側にあるのです。

 「教え子や縁者の病を救ってきた」というのが、どういう方法による ものか、記事中には書かれていませんが、 「人の体や物を熱くし」との関連で文脈から判断すると、 恐らく「手かざし」のような心霊療法のことではないでしょうか。

 記事は更に

 ところが、「自然」や「健康」で人を不幸にするマヤカシ人がいる から困る。悩む人や病人の弱みを握り、恐怖と不安を与え「やさしく」 して自立できなくする。
 良心の大閑(たいかん)先生は超能力者扱いされまいとしてきた。

と続きます。はっきり言って、「人の体や物を熱くし、スプーン曲げも すぐできるが、それは小事で教え子や縁者の病を救ってきた」 と林郁氏に信じ込ませている大閑(たいかん)先生こそが マヤカシ人そのものであるということに、林郁氏は気付かないのでしょうか。

 仮に「手かざし」の類いの心霊的な療法で「教え子や縁者の病を救って きた」のだとしても、その心霊療法の治療効果は全く実証されたことには なりません。 「はるかなる東洋医学へ」の所でも書きましたが、 二重盲検法などの厳正な科学的検証によって、 偽薬(プラシーボ)効果や自然治癒のせいで治っている分を 差し引いた上でなければ、治療効果の有無を評価することはできないのです。

 科学的に治療効果が検証されていない心霊療法の類いを信じることは、 しばしば危険でもあります。西洋医学のもとで早期に適切な治療を受ければ 完治する病人が、わざわざ心霊療法の類いを信じて「治療」を受けたために、 本当は治っていないのに、偽薬効果で症状が一時的に抑えられ、 再び症状が再発してきたときには、西洋医学でも手の付けようがない 手遅れになっているということだって起こり得るのです。

 「良心の大閑先生は超能力者扱いされまいとしてきた」からと言って、 それが大閑先生の治療効果がマヤカシではないことを実証することには なりません。というか、「超能力者扱いされまい」としなければならない のは、正に「超能力者扱い」されるような「手かざし」の類いの心霊療法 を施していることを示しているに過ぎないでしょう。

 超能力者や心霊療法士が、確信犯としてマヤカシをやっているか、 本人も信じてやっているかということと、 超能力や治療効果が本物かということとは、全く関係がありません。

 スプーン曲げとか霊媒師とかは確信犯でやっている場合が多いでしょうが、 心霊療法や精神分析や各種占いや霊視とかになってくると、 やっている本人が自分にそういう能力があると思っていることは珍しく ありません( 偽薬効果を自分の能力と勘違いしたり、 確率法則に従った正解率を自分に都合良く解釈したり)。

 更に林郁氏は田岡嶺雲の「悪魔的文明」から以下の箇所を引用して きます

文明は分析的にして綜合的ならざる。巧利故(ゆゑ)に冷酷、 智巧故に矯偽(けうぎ)に陥る、故に不自然也。科学は万象を説いて、 万象の人生に相渉(あひわた)る所以(ゆゑん)を論ぜず。 優勝劣敗也、弱肉強食也。

 今から百年前の文明観、科学観を現在の基準で批判するのは妥当では ありませんが(金曜日の連中がよくやる手法)、 この田岡氏の主張に林郁氏も共鳴しているものとして、 少し述べさせて戴きます。

 科学は万象を説くことはできません。 科学は、事実を「分析」して得た知識を「綜合」して体系を築き、 その体系によって、万象の一部を説明したり「予測」したり できるに過ぎません (「科学と宗教」の頁参照)。 そして、科学技術によって発達した現代の 「文明」は、その意味では、「分析的」に留まらず、 「綜合的」で「予測的」であるとすらと言うこともできるのではないでしょうか。

「優勝劣敗也、弱肉強食也」の田岡氏の言葉の後に、林郁氏は 「謀略あり、幾多の大戦あり、虐殺あり、環境破壊あり」と続けていますが、 これらの原因は、果たして科学文明そのものにあるのでしょうか。 科学文明など発達しない方が、人々はしあわせだったのでしょうか*1)。

 科学文明は、人々の平均寿命を飛躍的に延ばし、いつ病気や飢餓で死ぬかも 知れない恐怖から人々を解放し、より多くの人が文化的な生活を 享受することを可能にしたのではないでしょうか (「自然が一番」に関連事項)。

 産業の生産能力に余裕ができたことにより、 職業選択の自由が保障されるようになったことや、 書籍やテレビなどの情報媒体の進歩により、 市民に啓蒙が行き届くようになったことも、 個人の自由や人権の思想を生み出すのに 大いに貢献した筈だと私は思います (長谷川眞理子氏の言葉参照)。

 科学文明を嫌悪し、「原初の生命原理にもどらねばと思う」 のは勝手ですが、 科学文明のない「自然に満ちた」時代には、支配層を除く 大多数の民衆は、奴隷やせいぜい小作農に甘んじなければならなかった だろうし、ろくなものも喰えず、ちょっとした病気に罹っても ろくな医学はなく(心霊療法の類いはたくさんあったが、 偽薬効果以上の効果はなかったばかりか、「瀉血」とかむしろ病状を 悪化することすらやられた)、だから、今では西洋医学のお陰で治る ような病気もみるみる悪化して、大抵の人は、 若いうちに死んでしまっていたことでしょう。

*1) カール セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社)の次の箇所など 参考になろう。

科学から御利益を得ているのはモラルの低い技術者や、権力に取りつかれた 腐りきった政治家だけだと決めつけたり、科学なんかは疫病神だがら 追い払ってしまえと言うわけにはいかない。なんといっても、医学や農業 が進歩したおかげで、過去のすべての戦争で失われたよりもずっと 多くの命が救われてきたのである
(中略)
最近ある夕食の席で、私は集まっていた客たちに一つの質問をした。 客たちの年代は、三十代から六十代だったと思う。もしも抗生物質や ペースメーカーなど現代医学の成果がなくても、今日まで生きてこられ たと思いますか? 上がった手は一つだけだった。もちろん私の 手ではない


 現代医学の恩恵を拒否するからには、病気や死をも受け入れなければならない という意味で、 C.Uneyama と毛利子来さんとの予防接種についての電便のやりとり 「予防接種について」における C.Uneyama さんの意見も参考になります。

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電磁波の有害性と金曜日の有害性

 208号に「『ポケモン』とTVの電磁波」なる投書が載りました。 この投書者は203号の荻野氏の記事で述べられていたように、 テレビからの電磁波が直接、脳神経に与えた影響が大きいと考えている とのことです。 つまり、このように、前述した 荻野氏の非科学的なこじつけを、そのまま 真に受けて信用してしまう人も現にいるのです。 しかも、この人は購入した「電磁波測定器」でテレビの「電磁波」を測定して いるようですが、測定周波数や磁束密度も示さずに「測定器の針が動く」と言っても あまり意味はありません。 恐らくこれは超低周波用のガウスメーターではないかと思いますが、 この種のメーターに高周波が侵入すると、電磁波障害によって、 無意味な数値を表示することもあるようです(大朏博善『電磁波白書』)。

 このような投書を載せてしまう編集部や本多氏自身が既に、オカルト精神に どっぷりと浸かっていて、科学的判断力を欠いてしまっていることは、 最近の金曜日紙上でトンデモ記事が跋扈している現状を見れば、 明らかではありますが、少しも是正される様子がないばかりか、ますます酷く なっているように感じています(次から次へとヘンなのが載るので、いちいち ここで取り上げてる訳にもいかない)。

 そして、投書欄には、金曜日の非科学性、オカルト性を的確に批判した 投書は一切 載らないし、その他にも金曜日を強く批判する投書は少なくなったような 気がします(金曜日を批判する投書は載るとしても、簡単に反論できるような ものばかり載せているのではないかという気すらします) 。反面、金曜日を持ち上げるような投書や、荻野氏などの非科学的な 記事を真に受けて同調するような投書は簡単に載るような気がします。 そして、牽強付会なこじつけ投書が実に増えたように思います (旧七三一部隊の幹部連中が薬害エイズを引き起こした、「キレる」子の原因 は環境汚染だ、小沢征爾の「マタイ」は受難の予兆では、長野五輪の自己満足状態 は先の戦争と同じ、などなど)。

 これは、金曜日編集部が、金曜日を批判する投書よりも金曜日を持ち上げる 投書を選択的に載せているためかも知れず、また、最近の金曜日の非科学性に 嫌気のさした読者たちが白けて、購読をやめていったためかも知れません (現に私の友人I氏なども、金の無駄だと怒ってやめた。私も金曜日がこのまま 改善されないならば、購読をやめるかも知れない)。 これは、共産党に対する民主集中性 批判などとも通じることですが、 絶対的な判断などというものを持ち得ない人間の集団において、 少しでも誤った判断を減らしていくためには、常にその集団の内外からの 批判を受け入れることで「自己修正」する機能を保っておくことが重要だと 私は考えています。

 その意味では、最近の金曜日はどんどん「自己修正機能」を失ってしまって いると私は思います(まともな記事を書いている(と私には思える) 筑紫氏、落合氏、久野氏らの良識に期待したい)。 このままでは、金曜日は、非科学的狂信集団の温床になってしまうのでは ないかと心配します(現にそういう機能も果たしてしまっているのではない だろうか)。

 先日(九八年二月)、四国の高圧線鉄塔が何者かに人為的にボルトを外されて 倒されてしまいました。尤も、これは電磁波有害説とは関係のない 悪戯かも知れません。しかし、もしこれが電磁波恐怖症/過敏症の人や 高圧線建設反対運動の人などによって起こされた事件だとすると、 非科学的な電磁波有害説で無知な人々を扇動している荻野氏や金曜日にも それなりの責任があります。 まあ、今回の事件は悪戯だとしても、 今後、金曜日に扇動されたせいで、同種の過激な抗議行動に出る狂信的な 反対派が出てこないとも限りません。 高圧線鉄塔が倒れれば、誰かがその下敷きになるかも知れないし、 高圧線に触れて感電するかも知れないし、電気やガスが停まることで、 それに依存して生命を維持している病人や、正に手術や治療を受けている患者 の生命が危うくなるかも知れないし、信号機が突然停まることで、車や列車などの 事故が誘発されるかも知れません。 私には、そういう生命にも関わる被害の方が、 電磁波が人体に直接 与えている影響(仮にあったとして)よりも、 よっぽど重大な問題のように思えます。

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「自由主義史観」を疑似科学的と言えるほど金曜日は科学的か?
金曜日こそが疑似科学的

 202号に 「『藤岡史観』と『疑似科学』」という投書が載りました。 その投書では、 「藤岡史観」の支持者と「疑似科学」の支持者は似ていて、最初に結論があり、 その結論を正当化するためだけに議論をし、論理的、科学的検証をする気は はなからなく、捏造も平気で行い、専門家が理を尽くして反論してもびくとも しないといったことが共通しているといったことが書かれていました。

 これについては私もそう思いますが、こうした「疑似科学の支持者」 的な態度は、正にこの頁で紹介しているような週刊金曜日の寄稿者や投書者 にこそ共通していると私は感じています。一方、「新しい歴史教科書を つくる会」の賛同者に名を連ねている民俗学者の大月隆寛氏などは、 と学会の疑似科学批判を支持していた(*1)と思いますが、 「自由主義史観」の支持者の中にも、疑似科学やオカルトを批判し得る程度には 科学的な人もいるようです(念のため、私は大月氏の思想は支持していない)。

つまり、オカルトを野放し状態にしておいて平気でいるような 金曜日おかかえの論客(例えば本多氏でも構わない)が、 「自由主義史観」おかかえの少しは科学的な論客を相手に、 本当に論理的、科学的に論難し得ていたと言い切れるのか、また、 今後もその態度で 論難し続け得るのかどうか、私は少々、不安になってまいりました。

 例えば、「自由主義史観」は、 非科学的なことも言う本多氏に攻撃されていて、 科学的なことも言う大月氏に支持されているから正しいんだ と思ってしまう人だっているかも知れません。

(*1)例えば、次のような大月氏の主張は、現にトンデモの宝庫と 化している金曜日には既に大きな痛手になっているのではないだろうか。

 昨今の「歴史教科書」をめぐるいざこざなども、ことの本質として「と学会」 様の守備範囲にほぼ片足以上を突っ込まざるを得ないところがあります。 いや、一応はその片棒を担いでいる小生が言うのも何なのは百も承知ですが、 いずれものを考えようとする知性がある臨界点を超えると「トンデモ」に ハマるのは、右も左も同じこと。 (と学会編著『と学会白書 Vol.1』イーハトーヴ 出版)

1)「自由主義史観」の主張がおかしいことを示すためには、どこがどう おかしいのかを筋道立てて説明した、より説得性のある主張を示すのが 本来だと思います(勿論、金曜日にはこういう態度の記事もありました)。

これに対して、

2) 「自由主義史観」論者の人格を攻撃するための感情的修辞や、 「自由主義史観」論者の言論自体を封じ込めるべきだといった意見は、 いくら「自由主義史観」の主張が間違っていても、それを論難している ことにはならないし、むしろ逆効果だと思います (特に投書欄には、この手の意見が散見されたような気がします)。

 これと似た不安は、ナチスのガス室否定論を巡る議論が金曜日で展開された 時にも感じました。 過去の議論のやりとりを検索して読み返してみる余裕はありませんが、 私には、投書欄に見られる ガス室否定側の木村愛二氏や西岡昌紀氏の主張(例えば154号)が、 論理的な次元で既に支離滅裂だったとも思えないし、 この人たちが主張している仮説は検証不可能なことでもないから、 是非、その真偽のほどを検証してほしいと思っておりました。

 一方、それに対する反論の投書として、歴史認識を覆すような仮説を 検証するには、ガス室があったとする膨大な証言の全てを客観的な証拠で否定 しなければならず、その挙証責任は、そんな仮説を主張する側にあると する意見(例えば157号 寺門正倫氏)などは1)に属する尤もな意見 だと思いました*。

* ガス室否定論に対するこうした反論の投書の中に、実は 西村有史さんの投書もあったのですね。 西村さんの頁の中の 「おたずねにこたえて」を読むと、 なんと、西村さん宛に木村愛二さん本人から電便が届き、 このガス室否定論についてもやりとりがなされています。 西村さんの 「証明されない推論よりも、当事者の証言のほうが資料的価値が高い」 という主張は確かにその通りであり、私も納得します。 (1999/1/12追記)

 しかし、2)に属するような「逆効果」の投書も多かったと思います (というか、1)か2)かに明確に分けられる訳でもないのですが)。

 そして、155号から連載された 金子マーチン氏による「『ガス室はなかった』と唱える日本人に捧げるレクイエム」 は、ガス室否定論者たちの引用している文献の信憑性の低さなどを、 丁寧に指摘していったもので、おおかた1)に属する論難だと思いながら 読んでいたのですが、 史実の捏造や改竄に立脚した言論の自由は認められないという 2)に属する主張に関しては賛同しかねました。

 私は、史実を改竄したり、人権を蹂躙するような言論の自由は許されない とする金子氏の意見には賛同しません。この問題について、次章で説明します。

1999/6/14 追記。 マイクル シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房)では、 合理的懐疑主義/ニセ科学暴きの視点からホロコースト否定論を実に詳細に綿密に 考察し論難し尽くしている。 「ホロコースト否定論の方法論」から一部引用する。

 ホロコースト否定論に三つの大蛇をふるう前に、少しばかりの否定論者の方法論、 つまり彼らの議論のやりかたを見てみることにしよう。彼らの論法のまちがいは、 創造論者のようなほかの過激派グループのまちがいにぶきみなほどよく似ている。

1 みずからの見解に関する最終的結論をほとんど述べずに、相手の弱点を集中攻撃 する。たとえば、否定論者の場合なら、目撃者の証言に見られる不一致を重点的に 攻めようとする。
2 対抗する主張の主たる学者たちが犯した失策を利用し、相手の結論が少しばかり まちがっていたからという理由で、その結論は「まったく」のまちがいだとほのめかす。 否定論者は、人間石鹸にまつわる噂が、実は作り話だと判明したことにふれ、歴史学者 たちがアウシュビッツでの死者数を四〇〇万から一〇〇万に減らしたことを理由に、 「信じられないほど規模が小さくなったホロコースト」について話す。
3 自分たちの意見に説得力を与えるために、有名な主流派の言葉を断片的に 引用する。否定論者は、イェフーダ・バウアーやラウル・ヒルバーグ、 アルノー・メイヤー、そしてナチスの指導者の言葉まで引用している。
4 彼らは、ある分野における特定の問題点に関する学者たちの純粋無垢な議論を、 その分野の是非にかかわる論争だと誤解している。否定論者はホロコーストの 拡大についての目的論派と機能論派の議論を、ホロコーストがあったか、 なかったかという論争としてろらえている。
5 一般に知られていないものには注目するが、知られていることは無視し、 また都合のいいことは強調するが、都合の悪いことは軽視する。否定論者は、 ガス室について一般に知られていないことに注目し、証人たちの報告や、 大量殺人にガス室が使用されたとする法廷答弁をすべて無視している。


マイクル シャーマー『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房)p.336

関連掲示: 「返:歴史修正主義」「こんな説明ならわかるでしょうか?」

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人権を侵害する「言論の自由」は権力で抑圧されるべきか
ナチス禁止法や本多勝一氏の方法論こそがファシズムに繋がるのではないか

 金曜日では、「自由主義史観 論者やガス室否定論者が史実を修正 しようとすることに対してまで言論の自由を認める必要はない、 現にドイツでは法律で禁止されている」といった論法がしばしば使われます。 例えば、金子マーティン氏は「『ガス室はなかった』と唱える日本人に捧げる レクイエム」(155号)の中で以下のように書いています。

「ナチス統治下の行為を承認、否定または矮小化する者はこれを最高五年の禁錮刑 で処罰する」とされている。  そのような法がある「ドイツの社会には言論の自由がない」と木村は嘆いている。 問題は「ドイツ社会に言論の自由がない」ことよりも、「言論の自由」という概念 を木村がはき違えているところにあるのではないだろうか。「言論の自由」とは確か に近代民主主義の基礎的権利のひとつだが、それは無制限な自由を意味するものでは ないだろう。史実の捏造や改竄に立脚した「言論」によって他人の人権を蹂躙したり 冒涜しても許されるといったような自由ではないはずである。

 また、本多勝一氏は162号の風速計「ファシスト」の中で、更に問題のある 発言をしています。要約すると、

歴史改竄主義者とそれを糾弾する側とが、マスコミや一流大学の講堂を舞台に 「対等の立場で『どちらが正しいか』を討論なりディベート(!)なりすると」 、改竄主義者はあらゆる屁理屈を動員して強弁するので、観客には改竄主義者にも 五部の理があったのだろうと印象づけられ、結果的に得をするのは改竄主義者の 側である(*1)。「実際、これがドイツであれば犯罪として取り締まりの対象にされるような 自虐・反日的な連中が、日本ではマスコミで『対等に』扱われるどころか、 一部マスコミではこれを支援し、むしろ日本の”主流にもなりかねない」。

というようなことで、歴史改竄主義者との議論や討論の場を設けることに すら否定的です。

(*1) いわゆる「ディベート」形式の討論は、 客観的検証を目的とした議論には、まるで 適しないと私も考えているが(英語崇拝の頁) 、物事を検証していく上で議論をしない方がいいということにはならないだろう。

 また、181号の本多氏の風速計「どんなツラか?」でも、無制限の「言論の自由」 を是とはしない氏の思想が現れています。 要約すると、

神戸の小学生殺害時件の十四歳の容疑者の写真をフォーカス誌に公表した新潮社 に抗議して、新潮社から全著書の版権引き上げを宣言した 灰谷健次郎氏に比べ、大江健三郎は、自分がベ平連で活動しながら、そのベ平連 を名誉毀損した新潮社からベストセラーを出し続け、 文藝春秋にも協力を惜しまない。 今回の灰谷氏の決断に対して、またしても一部の文筆業者による大江的行動学が始まっている。 報道によれば、問題の少年のツラを見ることを < 「はなから拒絶している人には、そもそもあの事件の持つ意味を本当に 理解しようとする意志が根本的に欠けている」として『フォーカス』誌を 支援する「評論家」もいるようだ(読売新聞七月一七日夕刊)

というようなことです。この「はなから拒絶……」の文章を書いた「評論家」 とは、立花隆氏であると思われますが、どうして実名を出さないのでしょうか。 読売新聞には、実名が出ていなくて、本多氏も誰であるか確認できなかったの でしょうか。この立花氏の元記事と思われる、 週刊現代(97年7月10日)の立花隆「同時代を撃つ!」 「少年の顔写真公開を一方的に批判した言論人たちは決定的に間違っている」 (週刊現代提供の頁)は私も読みましたが、本多氏の引用した一文は立花氏の主張を要約するには 最も不適切で誤解を与える箇所だと思います (尤も、本多氏は読売新聞の記事に従ったのかも知れませんが)。

 立花氏の論点は、「顔写真の公表が人権侵害かどうか」という次元にではなく、 「たとえ人権侵害だとしても、それを事前に制限していいのか」という次元に あるのだと私には読めました。一部、引用しましょう:

どんなにワイセツなことでも、どんなに人の名誉を棄損することでも、どんなに破防法違反の煽動にあたることであっても、「自分はいかように処罰されようともそれを主張する」という人は止めようがないし、またそれを事前に止めるようなこと(つまり予防検束的なこと)はしてはならないというのが、現代社会の法の基本なのである。  特に言論に対してある制限を課すような法に関しては、誰かが、その法制限を侵してものをいわない限り、その法の妥当性が具体的な問題として提起されないということがある。確信犯的違法行為者の存在がそういう時には必要なのである。

  私には、この立花氏の主張の方が、金子氏や本多氏の「予防検束」を認める主張 よりも遙かに説得性がある民主主義的な考え方だと思えます。 どうして人権を侵害するような言論にまで自由を認める必要があるのか、 ということについては、カール セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社) の最終章「真の愛国者は問いを発する」 に分かりやすく説明されていますので、一部を引用しましょう:

 人間とは弱いものである。それにもかかわらず、アメリカの憲法と権利の章典 はみごとに機能して、自ら軌道修正することのできる装置となったのだ。
(中略)
 以下にいくつか、アメリカではこんな自由も許されているという例を挙げて みよう。

(中略)
●科学的だと言われている記事や、売れている本の中には、ある人種がほかの 人種よりも「優れている」と主張するものがある。その主張がどれほど有害で あろうと、国家によって検閲されることはない。人を惑わすような主張を正す ためのよい方法は、それを抑圧することではなく、もっとよい意見を聞くことだか らだ。
(中略)
●ヒトラーやスターリンや毛沢東のような、明らかに大量殺戮者だとわかっている 人物を褒め称えてもかまわない。どれほど憎むべき意見であっても、表明する 権利はある。
(中略)
 中絶手術を扱う病院を封鎖する団体「オペレーション・レシュキュー」の 創設者ランドル・テリーは、一九九三年八月に、ある集会で次のように語った。
(中略)
 不寛容の波に押し流されようではないか。……憎悪を歓迎しよう。……われわれの 最終目的は、キリスト教国家を打ち立てることだ。……われわれはこの国を征服する ために、神によって召集されたのである。……われわれは、一国内にいくつもの人種 や宗教があるような状態を望まない。
(中略)
 権利の章典は、このような意見を表明する権利さえ保障している。たとえその考え の持ち主が、権利の章典を廃止したがっていたとしてもだ。こんな考えは認められな いと思う者の防衛手段は、同じ権利の章典を使うことによって、権利の章典の かけがえのなさをすべての市民に訴えてゆくことである。
 右に引用したような意見を言う人たちは、どうやって人間の誤りやすさから自分 たちを守るつもりなのだろう。どんなエラー修正機能を使おうというのだろうか。 決して誤りを犯さない指導者がその機能を果たしてくれるというのか? 

 つまり、どんなに世間で共有され国際常識と化している 歴史や法律や通念であっても、 それを反証する権利を奪うことは自己修正機能を失うことを意味します。 どんなに自明に思えることでも、 人間が作り上げた体系(科学ですら)に「絶対」ということはありません。 「絶対に間違わない指導者」を掲げたファシズムや「絶対に正しい真理」 を掲げた宗教が、残虐行為や大量虐殺を容易に正当化してしまうことは 、歴史的に何度も実証されています(「科学と宗教」 の頁)。

 「既存の体系を反証することを妨げないことによって、常に自己修正機能 を保つ」という方法は、科学においては非常にうまく機能することが歴史的に 示されてきましたが、 「権利の章典」や「言論の自由」という「方法」が 社会機構や政治において同じような機能を発揮し得るということは、 正に現代社会において実験されているのかも知れません。

 さて、歴史を改竄するような言論の自由も認められているアメリカ(や日本)と、 言論の自由の一部に制限を与えられているドイツとで、 今後どちらの方法が破綻するでしょうか........



覚え書き:
  「言論の自由」がどこまで「公共の福祉」を犠牲にするかの問題。 名誉毀損となる(かも知れない)言論は予め法律で制限されるべきか。 それとも言論が行われて、裁判になって名誉毀損罪の判決が出てから 制限されるべきか(00/10/24追記b)。

関連掲示: 「返:歴史修正主義」「こんな説明ならわかるでしょうか?」


続く……



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常温核融合

 210号の自薦の欄で小島英夫著『常温核融合の発見——存在を疑われた常温核融合の ドラマ』(大竹出版)が紹介されていました。まず冒頭部分を引用しましょう:

 読者の皆さんの中には、常温核融合と聞いて耳を疑う方も多いことでしょう。 かつて物理学の研究者だった人や大新聞の編集者、書評家などが、これまでの科学の 既成概念や、特許の関係で実験事実のすべてが必ずしも公表されないことなどを理由に 「あれは間違いだった」「ペテンだった」などと書いているからです。

 私は、常温核融合が「あれは間違いだった」「ペテンだった」と判断されたのは、 「実験事実のすべてが必ずしも公表されないことなど」によってではなく、単に 多くの追試によって否定されただけの話だと思っていました。 1989年にポンズ氏とフライシュマン氏が常温核融合に成功したと発表して以来、 世界中の研究機関で追試が始まり、 常温核融合を肯定するような報告には科学的な誤りやデータの捏造が認められた 一方、科学的に信頼できる報告からは、常温核融合を肯定するような結果は まるで得られなかったということだったのではないのでしょうか。 勿論、それでも追試を不十分と考えて、小島英夫氏が更に追試を続けているの なら、それはそれで結構であります。 ところで、小島氏は「本書は、世界中の数十人の科学者が発表している数多くの 実験事実を紹介し、常温核融合の存在証明とその理論的な説明を行っています。」 とも書いています。 この「数十人の科学者」の「発表している数多くの実験事実」には、常温核融合 を否定しているものも当然、含まれているのでしょうか。 科学的に信頼できる「数多くの実験事実」は既に常温核融合の不在を「実証」 しているのではないのでしょうか。不思議です。

取り敢えず、常温核融合関係の頁:
小島英夫さんの頁
「研究内容——個体中で生ずる原子核反応の理論的研究」
松田卓也さんの頁
松田卓也が読む「常温核融合スキャンダル・・・迷走科学の顛末」
大豆生田利章さん頁
「病的科学とは?」
さて、どちらの意見が尤もらしいでしょう....

 尚、常温核融合騒動の顛末に関しては、 ロバート・L・パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(SHUHUNOTOMOSHA) で分かりやすく整理されて詳細に述べられている。

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味の素を「買ってはいけない」なら昆布も「買ってはいけない」 (1999/3/2,3/31)

 この件については、Uneyama さんの「週刊金曜日に疑問 出張コーナー」 も是非 参照されたい。(1999/3/31)

 『金曜日』182号(1997/8/8)の「買ってはいけない」では、船瀬俊介氏 (消費・環境問題研究家)が「世界の食文化を侵す“白いインベーダー”味の素」 として、調味料「味の素」を有害であると紹介し、 更には会社「味の素」を「私は“恥の素”と呼ぶことにしている」と 誹謗している。

 諸外国で「味の素」すなわちグルタミン酸ソーダ(MSG)の毒性、有害性を 指摘する学術論文が多いことに驚かされる。
「生後一〇〜一二日目のマウスにMSGを〇.五 g/kg 経口投与すると、 その五二%に、一 g/kg 投与で一〇〇%に、神経細胞の損傷や破壊が起こった」 (一九七〇年、ワシントン大学オルニー博士)
 味の素が「脳細胞を破壊する」という衝撃的報告だ。脳生理学の分野では MSGを「神経興奮毒物」(ニューロ・トクシン)と呼ぶ。

『週刊金曜日』182号(六二頁)

 一方で、このグルタミン酸による脳への悪影響についての 研究を、高橋久仁子「『食べもの情報』ウソ・ホント」(講談社、BLUE BACKS) では、次のように紹介している。

子供の脳に悪影響?
 まず乳幼児の頭脳に悪影響をおよぼすという説は、MSGの大量投与が、幼動物の 脳に病変を生ずるという研究結果を根拠にしていると思われます。米国の学者 オルニーの、一九六九年の発表を契機に、MSGの大量投与の影響がいろいろな 角度から研究されました。その結果、ラットやマウスの新生仔に非経口的 (皮下まはた腹腔内注射など)に多量のMSGを投与すると、視床下部の損傷、 肥満、不妊、内分泌異常などを生じることがわかったのです。
 こうならべると「やっぱり悪いんだ」と思われるかもしれませんが、心配には およびません。以上の研究は、すべてMSGを、食べるということからかけ離れた 方法や条件で与えた場合の結果なのです。大量のMSGを食べるという方法、 すなわち食餌とともに与えたときには神経毒作用も、内分泌的な異常も生じません。
 この説は、摂取方法や摂取経路の違いを無視した誤解といえましょう。 しかし、米国のベビーフード会社は、一九七〇年代はじめから自発的に MSGを乳幼児用食品に使わないようにしました。このことも、この誤解に 拍車をかけたのかもしれません。

高橋久仁子「『食べもの情報』ウソ・ホント」(講談社、BLUE BACKS)、五一頁

 さて、船瀬氏の引用した論文によると、 「生後一〇〜一二日目のマウスにMSGを〇.五 g/kg 経口投与すると、 その五二%に、一 g/kg 投与で一〇〇%に、神経細胞の損傷や破壊が起こった」 ということであるが、一方の 高橋氏によると、「視床下部の損傷、肥満、不妊、内分泌異常 などを生じる」のは、「ラットやマウスの新生仔に 非経口的(皮下または腹腔内注射など)に多量のMSGを投与」 した場合であって、 「大量のMSGを食べるという方法、 すなわち食餌とともに与えたときには神経毒作用も、内分泌的な異常も生じ」 ないということである。 つまり、両者の言っていることは完全に喰い違っている。 これは電磁波の人体への影響や常温核融合 に関しても言えることだが、 仮にある論文が「経口投与で神経細胞の損傷が起こった」と報告していたとしても、 それが他の研究者たちによる複数の追試によっても確認されないことには 鵜呑みにする訳にはいかない。実状はどうなのであろうか。

 脳には「血液—脳関門」と呼ばれる機能がある。“関所”のように有害物質の 侵入を阻んでいる。ところが出生直後では、この“関所”を閉じていないので 「神経毒物」味の素はフリーパスで、未成熟脳を直撃する。 この関門の完成は三歳ころ。 「乳幼児に味の素を与えてはいけない」という根拠だ。 また脳の視床下部や下垂体などには「脳関門」はない。 この部分へのMSGアタックによる細胞破壊が報告されている。 ヒトはとりわけグルタミン酸塩の影響を受けやすい。経口投与実験でも、 ヒト幼児はサルに比べて約二〇倍、大人でも一五倍ほど血中グルタミン酸濃度は はねあがる。グルタミン酸そのものは、神経細胞間の伝達物質。化学調味料タップリ の食事をとると脳内濃度が数十から数百倍に急増。一アンペア電線に大電流を 流すのと同じ。神経繊維はショートし断線する。これが脳損傷のメカニズムだろう。

『週刊金曜日』182号(六二頁)

 この船瀬氏の主張も、高橋氏の「MSGの乳幼児の脳への影響を心配することはない」とする 主張とことごとく喰い違っている。 ところで船瀬氏によると、乳幼児には「血液—脳関門」(脳血液関門)が ないためにMSGが脳に侵入してしまうということであるが、 ということは、MSGの脳内への侵入を防ぐ脳血液関門がある 大人であれば、別に味の素を取ってもいいということかと私には読める。 ところが船瀬氏によると「大人でも一五倍ほど血中グルタミン酸濃度 ははねあがる」→「グルタミン酸そのものは、神経細胞間の伝達物質」→ 「化学調味料タップリの食事をとると脳内濃度が数十から数百倍に急増」 と論理が飛躍するのである。 少なくとも大人であれば脳血液関門があるのに、 血中グルタミン酸濃度が十五倍はねあがると、 どうして脳内グルタミン酸濃度が 数十から数百倍に急増するのだろうか?  どうも船瀬氏の主張は自己矛盾していないだろうか。

 「一アンペア電線に大電流を流すのと同じ。神経繊維はショートし断線する」 という譬えを、船瀬氏がどういう演出意図で使っているのかも理解しかねる。 繊細な電子機器に囲まれている 我々の日常から考えても、一アンペアと言えばかなりの大電流である (因みに人間に 50mA の電流を流すと死ぬ)。 「一アンペア電線」と言われたら、私は 100W とかの電気機器に用いる 100V 交流電源用のぶっとい電線を連想するが、もしかすると船瀬氏は 一アンペアを微弱電流と考えていたのだろうか(まあ、譬えだからどうでもいいが、 扇情的な演出を狙うにしても、もう少し適切な譬えを使ってほしい)。

 化学調味料入りのワンタンメンなどを食べるとシビレ、頭痛、圧迫感などを感じる 場合がある。「中華料理症候群」と呼ばれる急性中毒症状だ。フィリピンなど東南 アジアでは、野犬を捕獲するときに缶詰の魚にアジノモトを振りかけて広場に 置く。野犬がガツガツ食べると、そのうち足がぶらつきはじめ、昏倒する。 そこを捕らえる。日本でも“暴力バー”のホステスが酒に味の素を振りかけ、 酔客を前後不覚にさせて金品を奪う事件も起こっている。味の素の急性神経 毒性は、一般人もとっくにご存じなのだ。

『週刊金曜日』182号(六二頁)

 船瀬氏はこのように「中華料理店症候群」についての扇情的なデマ紛いの噂を紹介 しているが、 一方の高橋氏は以下のように「中華料理店症候群」を 否定している。

たくさん食べると中華料理店症候群?
 中華料理店症候群は米国の報告がもとになっています。中華料理を食べたあと、 腕、背中、首などがしびれる、心臓がドキドキする、顔が火照るなどの症状が起こる、 と一九六八年に医学雑誌に発表され、この症状は中華料理店症候群 (Chinese Restaurant Syndrome : CRS)と呼ばれることになりました。
 食事中のMSGが原因ではないかと疑われ、その後、多くの研究者が CRSとMSGとの関係を検討しました。結果はいろいろでした。六グラムの MSGを五五人に投与してCRSの症状を呈した人は一人もいなかったとか、 一二グラムのMSGを三六人に投与したところ全員がCRSのどれか一つの 症状を呈したとか、です。
 結局のところ、厳密に管理された条件下でおこなわれた研究では、 MSGの大量投与がCRSを起こすという事実は認められていません。

高橋久仁子「『食べもの情報』ウソ・ホント」(講談社、BLUE BACKS)、五二頁

 ところで、私は広東風焼きそばや炒飯をしばしば作って食べるが、 その際、東北育ちで濃い味の好きな私は、恐らく平均的な「中華料理店」 が使うよりも「タップリ」の中華「化学調味料」各種を気前良く 使っている。が、その程度の使い方では なかなか「中華料理店症候群」にはならないようだ。 また、私はグルタミン酸が大量に含まれている昆布の煮物も 何度も食べたことがあるが、 それでも「中華料理店症候群」になったためしはない。 ということは、どうやら東北人が「うめえ」と感じる程度の、 つまり関西人が「濃い味だ」と感じる程度のグルタミン酸では、 少なくとも「中華料理店症候群」にはならないということなのだろうか。 すると、 「日本でも“暴力バー”のホステスが酒に味の素を振りかけ、 酔客を前後不覚にさせて金品を奪う事件も起こっている」 のようなことは、 東北人すらが味が濃いと感じるほどに大量の味の素を振りかけたときのみに 起こるのだろうか? しかし、それだけ大量の味の素を振りかけられた酒を 気づかずに大量に飲むなどということがあり得るとは到底 思えない。 というか、普通の鍋物程度の濃度のグルタミン酸が酒に入っていたって、 余裕で気づくのではないだろうか??  扇情的なデマを流すにしても、もう少し尤もらしいデマを考えてほしいものだ。 気づかれない程度に「味の素」を振りかけた酒を飲ませて 前後不覚にできるくらいなら、 昆布ダシの鍋物を食べさせて前後不覚にすることも余裕でできてしまうだろう。

 もうひとつの懸念は、石油合成法の味の素だ。かつて四日市工場で 月産一〇〇〇トンも大量生産されていた。ところが強烈な発ガン物質 三・四ベンツピレン混入を専門家や市民団体などが告発。同社は明確な反論も 行わず、突然一九七四年、同工場を閉鎖。しかし、残る二工場は輸出向けに 生産続行。同社は生産量、輸出量、海外生産量ともに「企業秘密」だ。 これほど秘密主義の会社も珍しい。いまだ危ない石油合成法は、密かに 生き残っているのではないか?

『週刊金曜日』182号(六二頁)

 事実関係については知らないが、石油化学製品に対する高橋氏の意見を 比較のために引用しておく。

「化学」は悪い、は大きな誤解
「石油が原料だから体に悪い」「化学○○は、よくないと感じてしまう」という 声には「自然は善、人工は悪」という考え方が作用していると思われます。
 現在、MSGは発酵法によって生産されていますが、発酵法より少しあとに 開発された合成法で一部が作られていた時期がありました。このときの主原料が 石油化学製品であったため、「石油から合成するので毒だ」という説が流れました。 しかし、どのような方法で作ろうとも、消費者の口に入るMSGは、最終的には精製 されていなければなりません。ですから製造方法を心配する必要はないのですが、 「合成」はとにかく悪い、とされているようです。
 経済の高度成長期に、各種の化学工業がさまざまな公害を生んだという悪い影響 が影を落としているのかもしれません。


高橋久仁子「『食べもの情報』ウソ・ホント」(講談社、BLUE BACKS)、五四頁

 さて、船瀬氏の記事の最後は以下のような文章で締めくくられている。

 われわれはカツオブシ、コンブ……など天然ダシで和風の味をきわめてきた。 洋食にもさまざまな天然スープエキスがある。味の素は味覚を狂わせる “白いインベーダー”だ。私はMSGの有害性を『味の素はもういらない』 (三一書房)にまとめ、同社にコメントを求めると「反論はありますが、 公表できません」(広報部)。
 これには呆れた。同社は元刑事をスカウト、総会屋対策などダーティな仕事を やらせていた。彼が使いまくった闇ガネは約八億円。底知れぬ暗部を抱え持つ 同社を、私は“恥の素”と呼ぶことにしている。


『週刊金曜日』182号(六二頁)

 あれ? 和風の天然ダシであるコンブのうま味成分はグルタミン酸だということを 船瀬氏は知らないのだろうか???  「天然」のグルタミン酸と「合成」したグルタミン酸とは違うとでも 思っているのだろうか???  神経伝達物質であるグルタミン酸を経口摂取することが そんなにも危険だと主張するのならば、 味の素と同じように天然の昆布ダシもやり玉に挙げなければ筋が通らない筈なのだが ???  「総会屋対策などダーティな仕事」云々についての事実関係は知らないが、 それがグルタミン酸の有害性とどういう関係があるのだろうか?  「グルタミン酸を有毒と知りつつ売っている悪徳業者だ」というような 意味なのだろうか??  だとしたら、同様に昆布(ダシ)業者も相当な悪徳業者だということには ならないのだろうか?  「恥の素」などという品位のない誹謗をするのもいいが、 グルタミン酸の経口摂取が人体に無害だったら(高橋氏の主張を信じる限りは 無害のようだが)、 船瀬氏は相当にピントの外れた言いがかりを付けて、自ら 恥を晒していることになるのではなかろうか。

 ところで、「アミノ酸」と「脳血液関門」を鍵語に電網頁を検索していたら 「オーナー夫妻のショッピングモール」 という面白い頁が引っ掛かった。ちょっと引用してみる。

脳代謝促進には、γーアミノ酪酸が最も良いとされている。このアミノ酸は脳にエネルギーを 与えるヘキソキナーゼという酵素の活性を高める働きがあり、脳神経で重要な役割をするアセ チルコリンの生成を高める作用がある。ただし、脳髄中の脳血液関門を通過することのできる のは天然態のアミノ酸だけであって、他の化学合成によるアミノ酸は脳血液関門の内側へは拒 否されて進入することができない。 このように、γーアミノ酪酸は脳髄にとっては最も大切な栄養素であり、この作用については 次のような症状に対し多くの臨床実験例がある。 脳出血、脳軟化症、脳動脈硬化、頭部外傷、などの後遺症(片麻痺、言語障害、四肢の運動障害 など)・及び頭痛、痺れ感、めまい、耳鳴り、不眠、高血圧に伴う肩凝り、その他筋萎縮症、夜 尿症など。

オーナー夫妻のショッピングモール より引用)

 船瀬氏の場合はグルタミン酸が脳血液関門を通過して脳内に侵入するから 有害だと主張し、更には「天然」ものよりも「合成」ものがより有害である と主張している。 ところが、この「オーナー夫妻のショッピングモール」では、 脳血液関門を通過したアミノ酸が脳にエネルギーを与える???酵素の活性を 高める?働きがあるそうで、更には、 「化学合成」によるアミノ酸では脳血液関門を通過できないが、 「天然」のアミノ酸なら脳血液関門を通過できるとしている。 「天然」ものが良くて「合成」ものが悪いという点は 船瀬氏もこの「オーナー夫妻のショッピングモール」も 同じだが、 その理由付けが全く逆だというのが象徴的で面白い (このオーナー夫妻の頁は飽くまで対比のために引用したのであって、 私は別に、この「アミノ酸が脳にエネルギーを与える」云々という 話を信じている訳ではない。念のため)。


余話

 1999年春頃。宮城県 仙台市の某百貨店の食品売場で物色?していると、 仙台の某有名蒲鉾店の蒲鉾売場で、 店員が頻りに笹蒲鉾を宣伝している。
「当店の笹蒲鉾は化学調味料を一切使用していないので、とても おいしいです……」
笹蒲鉾と言うと仙台の名産と考えている人が多いようだが、 石巻人の味覚では、仙台の笹蒲鉾よりも石巻の笹蒲鉾の方が格段においしい( 例えば、 粟野蒲鉾店 とか 白謙かまぼこ店 )。 好みの問題もあるかも知れないが、簡単に言うと石巻の笹蒲鉾はやわらかくて甘くてキチジの香りがするが、 仙台の笹蒲鉾は堅くて味や香りがない。 これは主に素材となる魚の種類と新鮮さの違い(石巻のササカマはキチジをふんだんに使っているから) ではないかと私は考えている(それだけでもないらしいことは後述)。

01/05/23追記: 石巻の笹カマ店としては、今では白謙が非常に大きく有名になったが、 昔は粟野が最も有名だったらしい。 私の親が言うには、 白謙は、昔は二流のように思われていたが、 消費者に受けるように「特上笹カマ」とか「チーズ入り」とか様々な新製品も 開発し、包装も豪華箱入りとか保冷材入りとか贈答用にも使えるようにしたりと 工夫しているうちに流行りだして今では一番 流行っているが、 粟野は旧態依然としていて昔ながらのやり方を続けているうちに、あまり 流行らなくなってきたものの、味は昔からの笹カマの味なんだそうだ。 先日 NHK のテレビ番組で笹カマを扱ったときに粟野が紹介されていたが、 その番組によると、笹カマというのは、昔 仙台(の市場?)で余った(くずれた?) 魚が勿体ないからとそれで笹の形にカマボコを作ったのが石巻に伝わり、 石巻では、昔は大量に捕れていたキチジの余りだけを使って笹カマを作ったため、 石巻の笹カマは独特の風味があったんだとか。 ただ、現代では石巻といえどもキチジはそれなりに「高級魚」になってきたので、 100%キチジだけの贅沢なカマボコをつくる訳にもいかず、スケソウダラなども 繋ぎとして混ぜているそうだ。 番組では、キチジ100%の笹カマを作ってみていたが、私もあれを食べてみたい。 キチジ100%の笹カマを「超極上笹カマ」とかとして一枚千円とか十枚入り一万円で売ってみたら、 高級志向の人とか食通の人とか買う人もいるのでは?  それはともかく、私も久しぶりに粟野の笹カマを喰いたくなって、買ってきて食べてみたのだが、 確かに、粟野の方が白謙よりもキチジの香ばしい香りがはっきりとしていて、 酒にもとても合う。粟野の笹カマは、ところどころ赤い繊維のようなものが 見えるが、キチジの皮かも知れない。たぶん、それだけキチジの分量が多いということなのだろう。

 さて私は、仙台の大手蒲鉾店の笹蒲鉾の味もたまには確認 しておこうかと思い、その「化学調味料を一切使用しておりません」の 笹蒲鉾を試食してみた。やっぱり堅くて味がしなかったので、私は正直に
「なんだが、この蒲鉾 かでくて味もそっぺもねんでねえすか。 おら、やっぱり白謙だの粟野の笹蒲鉾の方うめえなあ」
と言ってみた。すると店員は、
「はい、白謙さんも粟野さんも化学調味料を使って、 どんどん甘くやわらかくしていますけども、 うちの笹蒲鉾は化学調味料を一切 使っていないので あっさりしていて堅いんです」
と答えた。なるほど、甘さと柔らかさに対する価値評価が私とは まるで逆のようだ。私は、
「おら、その甘くてやっこいほう好ぎだねえ。 やっぱり化学調味料 使ったほうが うめんだおんね」
と言ってみた。すると店員は、さすがにムッとしたのか
「そうですか、好みの問題ですから」
と言い捨てた。 ご尤も、確かに然りである。 意見の喰い違いは最終的には価値観の違いに還元される。 ところで、白謙や粟野の笹蒲鉾の原料には「キチジ」の他に確かに 化学調味料(や砂糖やみりんなど)も使われているようだ。 まあ、化学調味料を使っていようが使っていまいが、 甘くてやわらかい笹蒲鉾の方が私にはおいしい。 というか、そもそも原料の魚自体にだって化学調味料のうま味成分である グルタミン酸やイノシン酸が含まれているだろうに(キチジのうま味成分は何だか知らないけど)。 魚の素材の味を味わいたいのなら、刺身で食べるなり焼いて食べるなり すればいい訳で、 「蒲鉾」という調理をするにあたって化学調味料その他で味を付けては いけないということはないだろう。 果物のジャムを作るときに、素材だけの甘さでは甘さが足りないから 砂糖を加えることはいけないのだろうか (尤も 砂糖は反自然物質?だから駄目という人もいることはいるが)。 味を付けておいしくなるのなら、私はそっちの方がいい。

補足: 合成法では、D型とL型のグルタミン酸ができてしまうが、 発酵法では L型だけができるといった話については、 「 安心!?食べ物情報[55号] 」 参照。L-グルタミン酸には「うま味」があるが、 D-グルタミン酸にはないといった話は、 「 自 然 の 中 の 左 と 右 」 を参照。

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本多勝一氏に謝意を表して『金曜日』の購読やめる (1998/12/15)

 尚、以下とほぼ同じ文章を、I氏と私の共同執筆 (I氏が大部分を書いているが)による 「『はるかなる東洋医学へ』(本多勝一)をきる!」 の頁にも 「『はるかなる東洋医学へ』を著して下さいました本多勝一大先生に謝意を表します」 の見出しで置いてある。

 1996年の1月から『金曜日』を3年契約で定期購読をしていましたが、 1998年の12月で購読期限が切れるので、購読をやめることにしました (『金曜日』が根本的に改善されることがない限り、再び 購読することもないでしょう)。

 最近、この頁を更新していませんが、それは最近の『金曜日』に オカルト記事が載らなくなったということではなくて、 単に批判する気が失せたということと、読む気さえも 起きなくなってきてしまっているということです。 例えば、最近の『金曜日』でも、 「模擬神の剣 逆襲する 化学物質」 とかいう小説では、どうやら、あの フリーエネルギー*が肯定的に描かれていたりして**、 『金曜日』のオカルト精神は健在ですのでご安心下さい。

* フリーエネルギーについては、例えば菊池誠さんの 「科学と科学のようなもの」参照。 この頁には「科学の法則のすべてが演繹的に導かれている」 といった勘違いを質す非常に分かりやすい解説が書かれていて、 お奨めの頁である。 こうした勘違いは、例えば 「本多勝一は科学とオカルトを履き違えている」 とかに代表される「科学万能主義」批判者にしばしば見受けられるが、 こういう人たちは、この勘違いした 仮想の敵(全ての法則が演繹的に導かれている「科学」) を攻撃することで科学を批判しているつもりになっている。

 こうした科学における演繹性と帰納性に関連して、 論理だけで真偽を判断できることと事実と照らし合わせなければ真偽を判断できない ことについての 佐倉 哲さんの考察 「真理と論理、および真理の根拠(1)」もご参考に。

** この金曜日の小説のフリーエネルギーの件に関しては 菊池さんの掲示板 で、菊池さんも触れている(下の方の「Tue Sep 8 11:05:49 GMT+0900 1998」 と書かれたところ)。

 勿論、『金曜日』にはいい記事「も」載っているとは思います。 しかし私は、本多勝一氏や『金曜日』に流れている一つの「ノリ」* (少数派や弱者の意見であれば、検証抜きで正しいものとして伝える。 その結果、異端である疑似科学をも支持する)に本質的な問題を 感じるようになってきました(この問題については西村有史さんの 「週刊金曜日」問題3を参照のこと)。

 私がこの頁で『金曜日』批判をやり始めた当初、 「『金曜日』のオカルト記事には確かに困ったものだと思うが、 総合的に判断すると、やはり『金曜日』は今の日本には必要な雑誌であり、 支持するだけの価値がある」という意見を複数の人から電便で戴き、 私自身も「自由主義史観」論者の勢力の拡大とか とのつり合いを取るためには、 多少、方法に難があっても『金曜日』はあった方がいいのかも知れない くらいに思っていました。 しかし、今では、 『金曜日』は総合的に判断しても「害」の方が優るのではないか という気もしてきました。

 勿論、『金曜日』に書かれていることにはおかしいこともいっぱいあって、 投書の採用などにもかなり偏向した「篩」がかけられているということを 理解している人なら問題はないのでしょうが、 『金曜日』の読者の中には、 本多勝一氏の言うことや『金曜日』 に書かれていることを無批判に信じ込んでしまう「信者」 が大勢いるように見受けられるので、そういう「信者」にとっては 『金曜日』は非常に有害であると思うのです。

 実は、白状するなら私自身も、1994年頃から96年頃に掛けて 『殺される側の論理』や『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』(朝日文庫) で本多勝一に傾倒していた時は、 「ホンカツ教」信者になりかけていたのだと思います。 そして、たまたま同時期に本多勝一を読んでいた 友人のI氏 から『金曜日』を紹介されて、1996年の1月から購読を始めたのです (その時点では、『金曜日』に愛想を尽かすことになるとは夢にも 思っていなかったので、迷わず三年間購読の契約をしてしまった)。

 本多氏が『金曜日』で「成人病にならないための養生訓」とやらに 「センサー理論」 (「センサー理論の奇々怪々」参照) を初めとする疑似科学的なことを書き散らし始めてから、 私とI氏は、一緒に飲みながら冗談で 「本多が耄碌して老醜 晒す前に、 右翼にでも殺さいでけでだら、英雄どして一生 尊敬すんのいがったのにやー」 と嘆いたものですが、 今となっては本多氏が耄碌して老醜を晒してくれてむしろよかったのだ と思っています。 というのは、本多氏は「年をとってからおかしくなった」のではなくて、 私が感銘を受けた『殺される側の論理』や『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』 の著作を書いていた時から既に、 その方法論に「ズレ」があったのだと思えるようになったからです (念のため、仮に耄碌する前の本多氏に「ズレ」がなかったとしても、 完璧ではあり得ない一人の人間を英雄視して批判を杜撰にするという態度に 問題があるのは言うまでもないが)。 そしてその「ズレ」が長年の間に増幅し、 現在に至って軌道修正が不可能になり、方々で 老醜を晒しまくって (『噂の真相』で「リクルート スキー接待疑惑」を突かれ、 さんざん見苦しい言い訳をした末に、降板させられたりとかして) いるのだと思います*。

* 耄碌する前から本多氏の方法論には既にズレがあったのではないか という点については、いずれ考察したいが、取り敢えずは 本多氏の方法論の問題点を的確に指摘している 西村有史さん「週刊金曜日」問題3を参照しておいてほしい。
佐倉哲さんの「 日本と世界に関する来訪者の声」で、 まるで本多氏の著作に感化されたかのような人 (本人は本多氏には言及していないが)が、 「殺される側」「殺す側」という二項対立を振りかざしてきたのを、 佐倉さんから、それはマルクス・レーニン主義の焼き直しに過ぎないと 諭されている実に興味深いやりとりが ここの下の方で読める。

 「ホンカツ教」に入信しかけていた私が完全に目を覚まさせられたのは、 あの珍作『はるかなる東洋医学へ』 であります。いくら本多勝一大先生が書いた本だからといって、 あんな論理的にすら支離滅裂で、しかもオカルトを肯定する主張の数々 を読まされたら、いくらなんでも目を覚まさない訳には いかないでしょう。私は目を覚ましました。 危ないところでした。 この本に出会うことがなければ、 危うく私も筋金入りの「ホンカツ教」信者になり兼ねないところでした。 くわばら、くわばら。 私は自分がじゅうぶんに懐疑精神を持ち合わせているつもりでいましたが、 それでも、「ある人のある主張に十分に論理的な説得性を感じて 深く納得してしまうと、 その人の別の主張も同じ程度の論理的説得性があるに違いないと見積もって 批判的吟味を杜撰にして無批判に受け入れてしまう」危険性が備わっている ことを自覚させられました。 「疑うこと」の大切さ、「信じること」の危険性を再認識させられました。 私は本多氏が 『はるかなる東洋医学へ』を執筆して下さったことに心から 謝意を表します。

 私は、このように自分に「ホンカツ教」に陥りそうな危険性があったことを 認識した直後にカール セーガンの名著『科学と悪霊を語る』(新潮社) (菊池誠さんによる書評参照) を読みましたが、そのお陰で セーガンが訴える科学における「自己修正機能」の必要性、 民主主義における「自己修正機能」の必要性を実感 するようになりました。 本多勝一氏は「自己修正」を潔しとはしないし、 『金曜日』もろくな「自己修正機能」を備えてはいません (例えば品のない記事も扱う雑誌ではあるが、 『噂の真相』の投書欄には『金曜日』の投書欄にはまず載らない ような「本多勝一批判」や「金曜日批判」も載る一方で 「本多勝一擁護」や「金曜日擁護」や「噂の真相批判」も載る という意味では、「本多勝一批判」「金曜日批判」の投書が排除される 『金曜日』よりも、よっぽど民主的で自己修正機能のある雑誌だと 見ることもできる)。

 今だから言いますが、私がこの頁を開設した当初は、実は 『金曜日』がこの頁を見て軌道修正してくれないだろうかという 仄かな期待がありました(電便で何回かこの頁のことは 『金曜日』編集部にも教えてある。それに対する返信とかは 特にないが)。 しかし、今となっては『金曜日』が軌道修正してくれることは、 もはや殆ど期待できません (そもそも、最初から軌道修正できるような自己修正機能が 組み込まれてなかったのですから)。 だから、I氏の頁に 「『はるかなる東洋医学へ』(本多勝一)をきる!」を I氏と共同執筆することにした当初から、私は その頁を読んで本多勝一大先生が目を覚ましてくれないだろうかなどという 幻想にも近い期待など微塵も抱いてはおりません。 ただ、科学に疎かったりしたために 運悪く目を覚ます機会のないままに 「ホンカツ教」に洗脳させられてしまった、あるいは今、この瞬間に 『殺される側の論理』や『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』 (今でもこれらの本に一定の価値があることは認めるが) を読んで「ホンカツ教」に入信しそうになっている (つまり、本多勝一や『金曜日』の言うことなら無条件に正しいと 信じている/信じそうになっている)人々に目を覚ましてほしい という期待はしています (尤も、 論理的整合性や客観的説得性以前に自分の地位の保身が大前提であり、 自己修正の可能性など端から否定しているかに見受けられる 「ホンカツ教」教祖様のこの致命的に 「困った態度」までもご丁寧に見習って、 対立する意見の論理性や客観性に取り合う以前に思考停止してしまう 重症な「ホンカツ教」信者にはもはや期待はしませんが)。

  ここに、往年?の本多勝一氏の著作『しゃがむ姿勢はカッコ悪いか?』 (朝日文庫)の中の「浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』を読みましたか」 から少々 引用します。山本七平氏がイザヤ ベンダサンの偽名で 書いた『日本人とユダヤ人』の内容のインチキさを暴露した 浅見定雄氏の著作の紹介です。

 ところが、ユダヤを自称した日本人がユダヤについてでたらめを書き、 ほとんど全頁がウソ八百としたらどうでしょう。 しかもそのでたらめを一般の日本人が見破れず、しかも当人がでかいツラを してユダヤ学の権威ぶり、しかもそれが日本の反動化・軍国主義化に貢献し、 しかもキリスト教界にまでそのウソ八百でのさばりだしたとしたら どうでしょうか。
 かの『日本人とユダヤ人』は、まさにそのようなインチキ書だったのです。 それを完全に暴いて——よく「完膚なきまでに」といわれますが、 「なきまで」といった生やさしいものではなく、まさに一片の板きれも 残さずに撃沈せしめたのが、最近刊行された浅見定雄氏の本 『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社)であります。 ベンダサン(山本七平)氏にだまされた人はもちろんのこと、 だまされなかった人でも、この本ほど知的スポーツとして痛快な例は めったにありませんから、ぜひともごらん下さい。
(太字は原著では傍点)

 『日本人とユダヤ人』が有害なインチキ本であることは私も認めます。 では、『日本人とユダヤ人』の有害性を訴える本多勝一氏の書いた 『はるかなる東洋医学へ』はどうなのでしょう。 多くの人に読まれているという意味では確かに『日本人とユダヤ人』も 有害でしょうが、本の内容的には『はるかなる東洋医学へ』も劣らず 有害な本であると私は思います。本多氏の言葉をもじって 言わせてもらいます。

 ところが、「仮説は常に、実験(実証)の裏付けがあるまでは仮説の 域を出ることができません」* と主張するジャーナリストが、医学や医療についてでたらめ を書き、ほとんど全頁がウソ八百としたらどうでしょう。しかもその でたらめを一般の日本人(ましてや「ホンカツ教」信者)が 見破れず、しかも当人がでかいツラをしてジャーナリストの権威ぶり、 しかもそれが日本のオカルト・神秘主義化に貢献し、しかも医学会 にまでそのウソ八百でのさばりだしたとしたらどうでしょうか。
 かの『はるかなる東洋医学へ』は、まさにそのようなトンデモ本だったのです。 それを完全に暴いて——よく「完膚なきまでに」といわれますが、 「なきまで」といった生やさしいものではなく、 まさに一片の板きれも残さず撃沈せしめようとしたのが**、 I氏と私の共同執筆による 「『はるかなる東洋医学へ』(本多勝一)をきる!」 であります。本多勝一氏にだまされた人はもちろんのこと、 だまされなかった人でも、この頁ほど知的スポーツとして痛快な例は めったにありませんから(手前味噌ではありますが)、ぜひともごらん下さい。

** 本多氏の文章をもじった関係上、「撃沈せしめようとした」などと 書いてしまったが、我々の目的は別に「勝つ」ことでも「相手を負かす」 ことでもない。この問題については 「英語崇拝からの脱却」——デベートを参照のこと。

* さて、「仮説は常に、実験(実証)の裏付けがあるまでは仮説の 域を出ることができません」とは本多勝一著 『滅びゆくジャーナリズム』(朝日文庫) の中の「知識と事実と論理」という章(二十頁)から引用した文ですが、 この章に、 本多氏の考え方の一つの問題点が現れているように思うので、 少し考察してみます。 本多氏は「知識と事実と論理」の関係を゛極論”とはいいつつも次のように 整理しています。

一、知識は論理と関係がない。
二、論理とは事実の選択・整理である。
三、知識は事実ではない。
(『滅びゆくジャーナリズム』)

 まず、第一点の根拠として本多氏は次のような例を挙げています。

古今東西の古典や外国語の知識をたくさん並べて話すのに、内容に一貫性・整合性 がないため矛盾するところがおおくて、つまりは論理としての力に欠ける人。 他方では、これはいなかの山村などにときどきみられるのですが、知識としては 自分の体験くらいで読書もあまりしていないのに、論理の構築がしっかりしている ために強い説得性をもつ人。
(『滅びゆくジャーナリズム』)

 これは本多氏がしばしば持ち出してくる例ですが、これは単に 「知識のある人が論理的だとは限らないし、知識のない人でも論理的な人はいる」 ということであって、それを「知識と論理は関係がない」と言ってしまう のには問題があると思います。例えば、 学問的知識というものは(特に自然科学の場合)、 たとえその知識をベンダサン氏のような人が学識をひけらかす目的で 利用したとしても、 あるいは週刊金曜日のような雑誌がフリーエネルギーのような架空の存在を 肯定する目的で利用したとしても、 当の知識自体は、その専門分野の先人たちが事実と照らし合わせて 「論理的に」導いてきた体系には違いないでしょう。 本多氏の説明は、幾多の検証によって事実と照らし合わせ検証されてきた 知識の体系を、「いなかの山村」の「自分の体験くらいで読書もあまりしていない」 ような知識のない人でも「論理」によって簡単にくつがえし得るかのような印象を 与えます。 実際、どうやら本多氏がそのように考えている節があることは、続く 「第二点(論理と事実の関係)」で更に濃くなってきます。

 第二点(論理と事実の関係)については、いかに精巧な論理でも事実によって かんたんにくつがえされる例によって明らかでしょう。 仮説は常に、実験(実証)の裏付けがあるまでは仮説の域を出ることが できません。
(『滅びゆくジャーナリズム』)

 さて、 「論理」が「事実」に「くつがえされる」なんてことがあるのでしょうか?  尤も、本多氏は「論理」という言葉を、「与えられた仮定から結論を導き出す 推論の筋道」といった広義(狭義?)の意味で使っているのかも知れません。 それにしても、「くつがえされる」とはどういう意味でしょう。 「結論が間違っている(事実と違う)」ということでしょうか。 「推論自体が間違ってる」ということでしょうか。 しかし、「精巧な論理」というからには「推論の論理の筋道自体は正しい」ことを 想定しているのではないでしょうか。ということは、「推論の論理は正しいが 仮定が間違っているために結論も間違っている」例えば次のような推論 を想定しているのでしょうか。

仮定1「全ての人は動物である」
仮定2「全ての動物は卵を産む」
結論 「よって全ての人は卵を産む」

 観測事実と照らし合わせると「全ての人は卵を産む」という結論は間違っています。 しかし、この推論の「論理」自体は間違ってません。 「全ての動物は卵を産む」という仮定2が間違っているのです (これも観測事実から確認できる)。 もし、このことを言いたいのであれば、私だったら 「いかに論理的に正しい推論であっても、事実と異なる仮定に基づいていれば 事実と異なる結論を導き得る」 のように表現します。あるいは「精巧な論理でも」「くつがえされる」 というのは、推論の論理自体が間違っている次のような推論を想定 しているのでしょうか。

仮定1「全ての人は動物である」
仮定2「卵を産む生物は動物である」
結論 「よって全ての人は卵を産む」

 観測事実と照らし合わせると確かに「全ての人は卵を産む」という結論は 間違っています。では、どこで間違ったのでしょう。 「全ての人は動物である」という仮定1 も「卵を産む生物は動物である」という仮定2も観測事実(あるいは言葉の定義) と照らし合わせても間違っていません。 「AはBである」「CはBである」「よってAはCである」という推論の 「論理」が間違っているのです。しかしこの間違いは事実と照らし合わせること なく、「論理だけで」判断することができるのです。 つまり、 本多氏の 「いかに精巧な論理でも事実によってかんたんにくつがえされる」 という表現はこの場合も妥当ではありません。とすると、「事実」によって 「精巧な論理」が「くつがえされる」というのは、ひょっとすると 「文字通り」の意味でしょうか? つまり、最初の例の

仮定1「全ての人は動物である」
仮定2「全ての動物は卵を産む」
結論 「よって全ての人は卵を産む」

においては、推論の論理自体には間違いはないが、つまり「精巧な論理」の筈だが、 「全ての動物が卵を産む訳ではない」 「人は卵を産まない」という「事実」によって「くつがえされる」、 つまり、次のように書き換えられるということでしょうか?

仮定1「全ての人は動物である」
仮定2「全ての動物が卵を産む訳ではない」
結論 「よって人は卵を産まない」

こうすると、仮定1も仮定2も結論もすべて「事実」です。 つまり、我々が正しいと理解していた筈の三段論法 「AはBである」「BはCである」「よってAはCである」 というのは間違いで、 実は、 「AはBである」「BはCとは限らない」「よってAはCではない」 という推論こそが正しかった! めでたし、めでたしということでしょうか?  「いかに精巧な論理でも事実によってかんたんにくつがえされる」 を文字通りに解釈したらそういうトンデモない意味になるのではないでしょうか。 いくら本多氏でも、執筆当時(『朝日ジャーナル』1988年4月号)、まさかそんな トンデモないことを信じていたとは考えにくいので(今となってはそれも分からない が)、種明かしは、本多氏が「知識と事実と論理」の関係を、 まるで理解していなかった(学識をひけらかす「知識人」ほどにも) というのが本当のところなのかも知れません。

 さて、本多氏は第三点目の「知識は事実ではない」の根拠として、 以下のように述べています。

常識もふくめておおくの知識は、すでに事実として万人に認められたものであります。 しかしそれはそれだけのことであって、だからといって知識は事実だということには なりません。万人に認められた事実が全くまちがっていた例など、歴史上 いくらでもあったし今後もあるでしょう。
(中略)
これもまた、知識は事実と別次元のものであって、関係がないと極論することさえ できると思います。少しでもうさんくさい匂いのする知識は、自分の知識であれ 他人のであれ、なんらかの方法で確認なり検証なりしてみることです。
(『滅びゆくジャーナリズム』)

 確かに常識はしばしば間違っていることでしょう。また、学問的知識であっても、 実験による検証の難しい(または不可能な) 歴史などが間違っていることもあるでしょう。 幾多の実験によって事実と照らし合わせて検証されてきた自然科学の体系さえも、 完璧と言い切ることはできないでしょう。 しかし、幾多の実験による検証を経ている「知識」と、 実験が不可能で検証の困難な「知識」と、 更には迷信や俗信などが常識化した「知識」とでは、 それぞれに信頼性があまりにも違い過ぎます。 例えば、 誰も真面目に検証しようとすらしなかった俗信を検証しなおして 「くつがえす」ことはそれほど難しくはないでしょうが (例えば、そのようにして 「血液型と性格の相関」 は既に科学的に 否定されている*)、 既に幾多の実験的な検証によって裏打ちされている科学(や西洋医学) の体系を「くつがえす」には、 幾多の実験的な検証結果を「くつがえす」だけの 幾多の実験的な検証結果を示す必要がある訳で(しかも異なる研究者の 追試による再現性も要求される)、そうそう簡単に「くつがえせる」 ようなものではないのです。確かに 本多氏の活動領域であるジャーナリズムの世界では、 「ポル ポト政権下での大量虐殺はなかった」といった報道が 後の現地調査でくつがえされたり**ということも珍しくはないのかも知れませんが、 科学の世界では、 幾多の実験と追試により客観性と再現性が既に確認されている結果というのは、 そうそう簡単にくつがえる種類のものではないのです。

* 例えば、血液型占いについては柴内康文さんの 「血液型を書くのはやめましょう」の頁

** 『滅びゆくジャーナリズム』で本多氏は「奇妙なことに、現地も見ず、なんの 具体的根拠もないままに、ポル=ポト政権下の虐殺政策を全否定した学者 やジャーナリストがいました」などと涼しい顔をして書いているが、 なんと当の本多勝一氏本人が 「具体的根拠もないままに、ポル=ポト政権下の虐殺政策を全否定した」 「ジャーナリスト」だったのである。 この一大問題については、西村有史さんの 「本多勝一論」 の頁に置かれている 佐佐木嘉則さんの論文を参照のこと。

 その辺の認識が本多氏には決定的に欠如していたのではないかと私は考察します。 だから本多氏は、 『はるかなる東洋医学へ』に至っては、自分の 家族が西洋医にかかって死んだとか東洋医にかかって治ったといった個人的体験 やそれに対する主観的判断、また 「気」などの反証不可能な仮説に基づく東洋医学の哲学による そうした主観的判断の正当化などなどによって、 幾多の実験や臨床試験による検証を経てきた西洋医学の体系に対抗できる、 更には「くつがえす」こともできるかのような幻想(妄想)を抱いてしまったのでは ないでしょうか。 それでも、『滅びゆくジャーナリズム』を書いた 一九八八年の時点では、本多氏は一応 「実験(実証)の裏付け」 の必要性は認識しているからまだいいのですが、 一九九六年の『はるかなる東洋医学へ』では、もはや「実験(実証)の裏付け」 の必要性に思い至りすらしないどころか、 二重盲検法による評価自体が東洋医学には向かないなどと主張する始末なのです。 やはり本多氏には科学的思考能力に欠陥があったと理解しておく方が 妥当でしょう。

 この辺の命題や推論の真偽の判断の話については、 佐倉 哲さんの 「真理と論理、および真理の根拠(1)」もご参考に。
 また、科学の演繹的な面と帰納的な面を分かりやすく解説した 菊池誠さんの 「科学と科学のようなもの」もご参考に。
 一方、 「科学の法則のすべてが演繹的に導かれているだけで、 実験によって実証したりしていない」かのように勘違いしている 本多勝一氏の恰好の例文は、 「本多勝一は科学とオカルトを履き違えている」 で触れた。

 さて最後になりましたが、 ややもすると「ホンカツ教」信者になりかけていた まだまだ修業の 足りなかった我々に、このような 恰好の「知的スポーツ」の教材を与えて下さ いました本多勝一大先生に、改めて心からの謝意を表します。

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続く?


『買ってはいけない』こそ買ってはいけない (臨時1999/8/22, 23, 27, 9/8, 9, 16)

  お知らせ

1999/10/1追記
 夏目書房編集部編『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目BOOKLET 3、夏目書房)がいよいよ発売されました。 装丁は、A5判で『買ってはいけない』とそっくりです。 頁数も全 208 頁で『買ってはいけない』と同じになっていたりします。 内容は、『買ってはいけない』で取り上げられた 全 89 商品について、 『買ってはいけない』が批判の根拠としている論点を要約して示し、 その論点の論理的矛盾、科学的間違い、などを指摘した上で、 同商品の危険性/安全性をより科学的に考察し直し、 「買ってもいい度」なるものを 10 段階評価で示しています。 買わない方がいいと判断された商品は、ちゃんと買わない方がいいと書いています。
 かつて本多勝一氏は、 山本七平(イザヤ ベンダサン)氏の著作『日本人とユダヤ人』(山本書店)が「インチキ書」であることを「完膚なきまでに」暴いて「まさに一片の板きれも残さずに撃沈せしめた」 浅見定雄氏の著作『にせユダヤ人と日本人』(朝日新聞社)を、 「ベンダサン(山本七平)氏にだまされた人はもちろんのこと、だまされなかった人でも、この本ほど知的スポーツとして痛快な例はめったにありませんから、ぜひともごらん下さい」と書いていましたが、 この『「買ってはいけない」は買ってはいけない』もそれに劣らぬ恰好の 「知的スポーツ」の教材ですので、 『買ってはいけない』に「だまされた人はもちろんのこと、だまされなかった人でも」 ぜひ買いましょう

1999/11/1 追記
 日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』(文藝春秋)が、 発売されました。内容は、『文藝春秋』99/9,10月号に掲載された、 日垣氏の「買ってはいけない」批判記事と、渡辺雄二氏の反論記事、 日垣氏の書き下ろし等です。
 『「買ってはいけない」は買ってはいけない』 や 『「買ってはいけない」は嘘である』 などの「買ってはいけない」批判本については、 Uneyama さんの 「買ってはいけない批判本に対する感想文」、 鹿砦社フォーラムの 「『買ってはいけない』は是か非か!?」、 西村有史さん「『買ってはいけない』は買ってはいけない」をよんだ 等を参照してください。

1999/9/16追記
 谷田貝和男 さんの 『買ってはいけない』関連サイトリンク集は、電網上で『買ってはいけない』について 論じている頁を最も網羅的に集めています。


 ここでも、トンデモのネタとして ところ どころ で使わせてもらっていた 週刊金曜日の連載「買ってはいけない」が、一冊の本として出版されて百万部近くも売れているらしい。 この連載が如何に非科学的で馬鹿らしいかということについては、 Uneyama さん「週刊金曜日に疑問 出張コーナー」「買ってはいけない」雑感小波秀雄さん『買ってはいけない』は買っていいか? 西村有史さん「今日の一言」乳は”白い血液”酢も塩も毒性物質なのか事実を捻じ曲げるような引用単なるネズミいじめパロディー「買ってはいけない」)、 I氏冷してこそケガは治る健康情報の読み方 (小内 亨さん)「買ってはいけない」を考える、 などを参照して戴きたい。

 ところで、雑誌『文藝春秋』の1999年9月号に、 日垣隆氏が「『買ってはいけない」はインチキ本だ」 という記事を載せ、『買ってはいけない』の非科学性、馬鹿らしさを批判した。 さて、「反核運動をしているのに、反動的な文藝春秋に協力している」というだけの理由で 大江健三郎氏に因縁を付け続けてきた本多勝一氏が編集委員をやっている 週刊金曜日のことだから、 「文藝春秋に載るような記事なんかどうせデタラメだ」 と議論を回避するのではないかと心配していた折、つい数日前、ヤマハの 楽譜売場で 岩城宏之著『指揮のおけいこ』 という本を見つけた。これは、以前 岩城宏之氏が週刊金曜日に連載 していた随筆を一冊の本にしたもののようである。 どこから出版されているのだろうと思って出版社を見てみたら、 なんと、「文藝春秋」ではないか!!!!  週刊金曜日に連載ものを執筆している 岩城宏之氏や永六輔氏が黛敏郎氏の追悼番組にさんざん出演していたことに文句をつけなかったことでも週刊金曜日は筋が通っていない と思ったが、これはその比ではない。 だって本多氏は、文藝春秋に協力的だというだけの理由で大江健三郎氏に対して長年に渡って因縁を付けてきたのだから。

 ともかく、これで週刊金曜日は、日垣隆氏の 「『買ってはいけない』はインチキ本だ」 は文藝春秋に掲載されたものだからどうせデタラメだなんて言えなくなった。 めでたし。めでたし。 と思っていたら、なんと、 週刊金曜日1999/8/20号では涼しい顔をして、『買ってはいけない』の著者の一人  渡辺雄二氏による日垣氏の記事への反論 「消費者運動をつぶす 『文藝春秋』さま」*を掲載している。曰く、 「市民運動や消費者運動つぶしの記事をタイミングよく掲載することで 定評のある『文藝春秋』が、さっそく『買ってはいけない』に攻撃を 仕掛けてきた」ときたもんだ。勿論、反論や議論自体は大いにやるべきだが、 文芸春秋に文句をつけるような筋合いはない筈だ。 なんと面の皮の厚い出版社なんだ。あきれてしまう。

* 日垣隆氏による「『買ってはいけない』はインチキ本だ」とそれに対する 渡辺雄二氏の「反論」については、西村さんの「今日の一言—— ブームに乗ってみることにした」や 小内 亨さんの 「買ってはいけない」を考えるを参照のこと。

 さて、週刊金曜日1999/8/20号では、

発売三カ月、別冊『買ってはいけない』が一〇〇万部を越えた。 「初めて知った」「今までだまされていた」など、読者の驚きの声が たくさん届いている。“おすすめできない”商品として紹介された企業は どう思っているのかといった声も多い。これらの疑問を登場企業に投げかけた アンケート調査の結果をお伝えする。「回答は遠慮します」「認識の違いです」と “黙殺”が七六%を占めた。

と勝ち誇ってはいるものの、アンケート調査に応じた十六社の 回答も掲載している。その中には『買ってはいけない』の事実誤認を手厳しく 批判しているものもあり、例えば、正露丸の項に対する大幸薬品の回答などは 痛快とすら言える。

「恐るべき漢方薬 正露丸」とあるが正露丸は漢方薬ではない。
(中略)
クレオソートについて=医薬品として使用するクレオソートと電柱等に使用 されていたクレオソートとを混同している。(参考文献 Merck Index 12th)  医薬用クレオソートは、ブナの木等から得られた乾留物を精製、 蒸留したもので日本薬局方クレオソートである。一方電柱等に使用していた クレオソートは、コールタールを原料としたもので日本工業規格クレオソート油 である。両者はその構成成分からも全く異質のものである。
(中略)
変異原性について=当試験は、発がん性試験の前段階でしばしば用いられる スクリーニングテストであると思われる。よって、本テストで陽性反応が 認められたからといって、そのものが発がん性につながるという結論を下すことは きわめて短絡的である。
フェノールやクレゾールについて=国立医薬品食品衛生研究化学物質情報部での 調査においてはフェノール、クレゾールは内分泌撹乱物質と認められていない。 また、これらの物質は、一般正常人の体内にも食物(タンパク質) の代謝物として通常的に存在するものである。
O-157 に関する記事について=当社正露丸が抗生物質と全く同様の作用機序である かの表現になっている。
(参考論文)
1)“ベロ毒素の腸管粘膜障害に対する木クレオソートの効果”「新薬と臨床」 第47巻第5号93-99(765-771)
(要約)O-157 に感染しても、正露丸の成分である日本薬局方クレオソートは 小腸の粘膜を保護する作用がある。
(中略)
「正露丸」については、医薬品としての安全性、有効性に何ら問題がないため、 改善や変更を行うことはない。
(中略)
▼弊社に取材も事前の了解もなく、貴編集部が一方的に弊社の製品に関して誤った 記事を掲載したことについての釈明を望む。 不正確な情報や誤った情報をもとにした記事は、いたずらに消費者を混乱させる のみである。この点についての貴編集部の釈明を望む。▼『週刊金曜日』誌上にて 公開される場合は、弊社からの回答の全文を掲載することを望む。▼本回答書 受領後、直ちに掲載を取り消し、既に発刊済みの書籍(『買ってはいけない』) を回収していただくことを要望する。

 このように大幸薬品は『買ってはいけない』の事実誤認を手厳しく指摘し、 そのような事実誤認に基づいた記事で消費者を混乱させたことに対する釈明を 週刊金曜日編集部に求めている。これに対する週刊金曜日側の回答は、

 正露丸を「漢方薬」としましたが、漢方薬の成分である生薬は使われている ものの、厳密には「漢方薬」ではありません。漢方薬を「生薬」に変え、 構成や見出しなども訂正させていただきます。
 正露丸に使われているクレオソートはコールタールを原料とする 日本工業規格クレオソート油ではなく、ブナの木などから得られる乾留物を 精製・蒸留してつくる日本薬局クレオソートでした。
 おわびして訂正いたします。

のみである。要は「私どもの不勉強でした。あなたの言う通りです」 ということである。 それなのに、不勉強で ろくに調べもせずに悪意の曲解でデタラメな記事を書いて大幸薬品を誹謗し 消費者を惑わしたことに対する釈明は一切なしである。 いったい何を考えているのだろうか。 自分たちの記事に対する手厳しい事実誤認の指摘と、 その事実誤認で消費者を困惑させたことに対する釈明の要求とを 余裕たっぷりに自分たちの雑誌に載せてみせて、それに対する まともな釈明も反論もできていないのに、涼しい顔をして勝ち誇ってみせる この連中の精神構造は理解に苦しむ*。

* 1999/9/9 追記:ここを読むと、なんと、なんと、『買ってはいけない」の改訂版では、 この正露丸の項を何の釈明もなしに改竄しているそうである*。 さんざん歪曲に基づいてデタラメを書いて、大幸薬品を誹謗し、 消費者を困惑させておきながら、何の釈明も謝罪もなしに改竄して それで済むとでも思っているのだろうか???  まるで、これは カンボジア虐殺を自信たっぷりに否定しておきながら、後で虐殺が事実であることが明らかになると、何の釈明もなく涼しい顔をして自著を改竄し、さも自分も昔から虐殺否定派を批判し続けていたかのように振舞ってみせる本多勝一教祖様 の態度そのものではないか! 

* 谷田貝和男さん作成の 『買ってはいけない』改竄箇所対照表

続く....

『買ってはいけない』の後書きで、 さも『暮らしの手帖』の商品テストの精神を手本にしたかのような ことが書かれているが、 週刊金曜日の非科学的なこじつけ記事と 『暮らしの手帖』の実証主義的な「商品テスト」とを一緒にされたのでは、 『暮らしの手帖』にとっての侮辱である。 現に1999/8,9月号の『暮らしの手帖』では、 「『食べ物信仰』はやめましょう」という特集を組み、 高橋久仁子氏の調査などを紹介しながら、 特定の食品だけを食べることの危険性、馬鹿らしさや、 化学調味料を避ける必要もないことなどを平易な文章で 解説している。

買いましょう!
高橋久仁子「『食べもの情報』ウソ・ホント」(講談社、BLUE BACKS)
『暮らしの手帖』(1999/8・9月号)
夏目書房編集部編『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目BOOKLET 3、夏目書房)
日垣隆『「買ってはいけない」は嘘である』(文藝春秋)



採用された私の拙稿と関連する頁へ

108号投書 偏見が事実なら差別してよいのか
110号投書 真の平等社会の達成のために
(投稿時の題:羊水検査)
115号投書   「女性」が子供を産まないのは生産的でないか
122号投書 異常かどうかは重要でない
144号反無名人語録 「配慮」は男性にも年を尋ねないこと
(投稿時の題:無用な配慮が「美は女性の価値」を助長する)
163号投書 民族主義と国粋主義
172号論争 ディベート競技の形式自体に疑問
(投稿時の題:デベート競技の形式自体が疑問)

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その他の私のお小言

四コマ漫画

 岩城宏之氏の「指揮のお稽古」は気に入っていて必ず読むのですが、 この頁に掲載される四コマ漫画が、実は正直に言うと、私には、 まるで面白くありません。しかし、今まで掲載され続けているところを みると、あの漫画を面白いと思う読者(編集者?)が多いということ なのでしょうか。いくら注意深く読んでも、何の社会風刺すら私には 読みとれません(もしかすると、私には理解し得ない高尚な風刺が 隠されているのでしょうか)。あの余白があれば、投書が一つ分、 載せられると私などは思ってしまうのですが....

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見開き四頁分の漫画

 「こんなものを食べてきた」と「蝙蝠を撃て」の見開き四頁の漫画は、 四コマ漫画に比べれば、だいぶ面白いですが、四頁もの紙面を割く価値 のある漫画だとは私には思えません。 内容的にも特に漫画である必要性は認められません。 例えば「こんなもの〜」は本多氏の得意とする随筆に挿し絵の一つか 二つを入れれば十分だし(その方が私には魅力的な読み物になるでしょう) 、「蝙蝠〜」は半頁ほどの戯曲にでもしたらどうでしょう (今の「蝙蝠」も単に戯曲に話者の顔の絵が付いているだけとしか 思えません)。

 漫画を載せるべき紙面を割く一方で、 より多くの投書を載せるために、投書の字数を少なく制限したり、 投書欄の字を小さくしたりというのは、私にはまるで「貧困なる精神」 に思えてしまうのですが如何なものでしょう。

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投書や論争の字数制限

 投書や論争を字数制限以内に収まるように苦労して推敲したあげく、 投稿した拙稿が、編集部によって更に短く書き換えられていることが あります。私は、自分の書いた文章には一定の責任を持たなければ ならないと考えておりますが、編集部の書き換えによって誤解 されやすくなった文章にまでは責任を取りかねるので、投稿原稿は 書き換えずに載せてほしいと思っておりました。

 ところが、最近、字数制限を大きく越える論争が掲載されました。 編集部は字数制限を満たした投稿すら短く書き換えるのに、 どうして字数制限を満たさない投稿を載せたりするのでしょうか。 とても不思議です。

追記 私は字数制限や編集部による書き換えは、「編集上」ある程度やむを 得ないものであるかのように思わされてきましたが、以下の頁を 読むと、私が如何に無邪気であったかと反省させられます。

金曜日編集部の論争回避や差別事件のもみ消しを を批判した西村有史さんの資料
さらば「週刊金曜日」(広島週刊金曜日読者会の頁)

「論争する雑誌」「タブーに挑戦する」という金曜日のうたい文句の偽善性 を批判した西村有史さんの頁
「『金曜日問題』とは何か」

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投書、論争の電子掲示板への無断転載

 週刊金曜日に掲載された投書と論争は、 ニフティーという電子網仲介業者の電子掲示板に 毎週、投稿者に無断で転載されているようです。 更に、電子掲示板への転載を希望しない人は、 その旨を投稿原稿に書けば転載されないという話も 聞こえてきました。 このようなことは、ちゃんと投稿規定に明示すべきだと思います。

追記: その後、週刊金曜日の公式頁ができてからは、 投書は、その頁上に公開されるようになり、公開を希望しない人は 投書の際にその旨を記すようにと応募規定にも加えられました。 しかし、それまでに無断で電子掲示板に転載していたことについては、 何の弁明も今のところないようです。 とうも週刊金曜日は筋を通しているようで通していないところも 多いように感じます。

追追記(1998/7/8):この頁の読者から電便で指摘を受けたのですが、 金曜日の投書をニフティーに転載することについては、 89号以前の3週間にわたって金曜日誌上で広告されていたそうです。 私が購読を始めたのは105号からなので、そのことについては知りませんでした。 また、89号以後は 投稿規定に「通信での公開を希望されない方は、その旨付記して下さい」 という文で、転載のことも明示してあるとのことでした。 なるほど、私もこの文自体は投書する際に読んではいましたが、 実は「通信」の意味がよく分からず、 これがパソコン通信上の電子掲示板のことだとはまるで想像できませんでした。 なるほど、そういう意味だったのですか。 因みに現在の投書規定では「ホームページでの公開を希望されない方は、 その旨付記して下さい」となっています。 これなら、私にも意味は分かりますが、 インターネットを知らない人には、これでも何のことか分からないかも知れませんね。 まあ、どこまで説明してやるべきかというのも難しいところですが。

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