(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

西洋古楽への道(準備開始)

Vojo al Eŭropa malnov-muziko
—— かっちょいい、ノリのいい、刺激的な音楽の探求 ——

注意
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al Retpag^o de GOTOU Humihiko

目次
はじめに
「運命」的な出会い
ジャジャジャジャーン、「新世界」の替え歌?「大阪夏の陣」
軽騎兵序曲
スターウォーズのテーマ
覚え書き(続く)
かっちょいいバーンスタイン
グールドのゴルトベルクとの出会い
ついに見つけたビートの利いたビバルディ
古楽奏法
ルネサンス聖歌
好きな楽器(編成)


はじめに

 然るべき状況?で「趣味は何ですか?」みたいな話になったとして、 例えば エスペラントをやっていると言うとどうも変わり者だと思われる ようだが(これはまだ理解できなくもないが)、 「クラシックを聴く」というのも、どうもあまりいい印象を 与えないらしい。 曰く、「高尚ですねえ」とか「眠くなりませんか」とか 「私にはそういうのは分からないので」とか更には 「凄いんですね」???などとなる訳である*。

* 前にNHKのテレビの「中学生日記」で、世界文学と クラシックを愛好している中学生が、級友にそのことを隠しているのだが、 ある級友が家に遊びに来た時に、「隠していた」世界文学全集と クラシックのCDを発見されてしまい、翌日から学校では 「ネクラ」と呼ばれることになってしまうというのを見て、 私は絶句した。世界文学全集を読んでクラシックを聴くことが何故に 「ネクラ」になるのか!?!?!?  こんな偏見を再生産するような番組はけしからん。 まず「ネクラ」かどうかということと本や音楽の好みは関係ないし、 そもそも「ネクラ」は悪いことではない。 私からすると、趣味やノリの違う者に「ネクラ」というレッテルを貼って排除したがる 「ネアカ」の連中の陰湿さの方がよほど問題である (良心的に解釈すれば、件の番組もそれを問題視しようとしたのかも 知れないが、「世界文学=ネクラ」「クラシック=ネクラ」 という偏見を否定していない)。

 私のピアノ仲間のある友人が、「大量のビデオを所有している ようなオタクが猟奇事件とかを起こすと、世間やマスコミは 『ああ、やっぱりね』と反応する癖に、どうして かっちょいい スポーツ選手とかが幼児にイタズラしたりしても 『ああ、やっぱりね」 と反応しないのだろうか。 俺からしたら かっちょいいスポーツ選手の猥褻行為とかの方が よっぽど『ああ、やっぱりね』なんだが......」 と言っていたが、 世間やマスコミは自分たちの気に入らない趣味や嗜好を有す者が 問題を起こした時に限り、ここぞとばかりにそれを犯罪誘発性と 結び付けて、そうした趣味や嗜好への非難を正当化しようとする傾向 はあると思う。 多数派とは違う趣味や嗜好を有す者にとって、これはなかなか 怖いことである。実は私は、 最近の猟期殺人犯の部屋からクラシックのCDが大量に 発見されたりしなかったことに内心、ほっとしている。

 とにかく、 世間ではクラシックというのがあまりにも誤解されているようだ。 一般にクラシックと呼ばれている音楽は、 ある時代のヨーロッパの民族音楽の一形式に則った音楽のことであり、 その意味では、ジャズとか演歌とかロックという音楽分野と特に別格ではない (その分野で頻繁に演奏される「古典」作品の作曲年代がやや古いという 程度の違いしかないだろう)。 音楽の定量表記や楽曲分析の「道具」としては、確かに西洋音楽の「楽典」が最も 組織化され 汎用性に優れているかも知れないが、そのことで西洋音楽という「材料」 が「規範」や「標準」になる 訳ではない。 例えば、ヨーロッパ言語の分析のために発達した文法用語が世界の言語の分析にも 有用だったとしても、そのことでヨーロッパ語が「規範」や「標準」になる訳ではない というのと同じことである。

 ところが、学校の音楽の授業では、「道具」としての「楽典」の教育に抱き合わせて、 西洋音楽に固有の民族的「癖」をも「規範」であるかのような教え方をする (たぶん今もそう変わらないであろう)。 例えば、私は、「なぜ音階はドレミファソラシの七つなのか?」 「なぜ長調と短調があるのか/しかないのか?」 「なぜ強起の曲と弱起の曲があるのか/しかないのか?」 「なぜ原則として二拍子と三拍子と四拍子しかないのか?」 などなど、 ずうっと不思議だった。 実は、これは「ある時期の西洋音楽」がたまたまそうなっているに過ぎないのである。 用いる音階なんて民族によっても時代によっても違うし (サイレンのように連続的に変化する音程で構成される音楽には、 音階という段階的な音程を与えること自体が不可能だ)、 だからましてや調性は、長調とか短調という特殊な枠組みに当てはまらない ものはいっぱいあるし(当の西洋音楽ですらルネサンス以前には長調とか短調とかはない)、 リズムにしても定量記譜の困難な変動を伴うものだってある (拍子のはっきりした「弱起の曲」ですら、欧米人が裏拍に手拍子を入れたがる曲に 日本人の年寄りとかが表拍に手拍子を入れたりする以上、「弱起/強起」 の区別すら危うい気がする)。

 つまり、クラシックと呼ばれる西洋のある時代の民族音楽は、 極めて「癖の強い」「独特の」「ヘンな」形式を有する様々な音楽の中の 一形式に過ぎないのである。 そして、西洋音楽の中でも特に、バロック期の対位的な音楽が、古楽器で、 ビブラート(伊 音を振るわせること)をかけずに、 ノンレガート(伊 音の間を切って演奏すること)でパラパラと、軽快に、高速に演奏される中に私が心地よいノリを感じる感覚は、 ジャズ愛好家がスイング(英 揺れるような律動)に感じる、 あるいはヘビメタ(英 ヘビーメタル。金属的で重厚な音のロック) 愛好家がビート(英 拍子を刻む打音)に 感じる「ノリ」と「似たり寄ったり」のものだと思う (尤も「ヘビメタはスイング感のないリズムに特徴がある」という ような文脈での狭義の「ノリ」は、細かい種類に分類されている のかも知れないが)。

 しかしながら、仮にそこまでを理解してもらえたところで、 冒頭に述べたような方々?にとっては、そもそも 「テレビの歌番組でやっていてカラオケで歌われるような音楽」以外の 音楽は、よしんばジャズであれヘビメタであれ、 興味の対象になることはないだろうから、 別にここではそういう方々を「啓蒙」しようなどという大それた 意図は微塵もない。 ただ、テレビの歌番組を愛好しているような人たちと比べて 著しく分布密度の低い「私と近い嗜好を有する人」 のことは読者に想定している*。

* それにしても、テレビドラマや歌番組やスポーツ観戦を愛好している 言わば「大衆とかなりの部分で嗜好を共有する人」が、 実に容易にそういう「趣味の話題が合う」相手が見つけられているのだとすると、 更にはそういう「趣味の話題が合う」ことを選択条件に入れるなどという「贅沢な 選択」ができているのだとすると、本当に羨ましい限りである????  こちとら、「趣味の話題が合う」などという至福の思いが得られることなんて、 端から諦めているというのに。 こういうふうに希少な価値観の一致を実現できている人 が羨ましい限りである。 特定の趣味にのめり込めばのめり込むほど、 私の市場価値はますます下がる一方である??? (興信所とか?がこの私の一連の頁を見つけたりしたら、 「この人はヤバイですよ」ってなことになるのだろうか???)

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「運命」的な出会い

 私がヨーロッパ民族の古典音楽いわゆるクラシックを 意識的に聞いてみたいと思った最初のきっかけは、 小学低学年の頃にテレビか何かでベートーベンの交響曲第五番「運命」 を聞いたことに遡るのではないかと思う。 あの「ジャジャジャジャーン」の単純な動機が、幾何学的に、対位的に、 重厚に重なり合う独特の響きは、非常に私の印象に残ったらしく、 どうも私はことあるごとに「ジャジャジャジャーン、ジャジャジャジャーン」 と歌っていたのではないかと思う。

 そのころ、我が家では管球式のモノラルの蓄音機しかなかったのだが、 新たに最新式のトランジスター式ステレオ式レコード再生装置を購入したという 背景?があり、 その装置のこけら落とし?のために私の親は、 クルト マズア指揮ライプツィヒ ゲバントハウス響の ベートーベンの交響曲第五番と九番のレコードを買ってきて、

「ふみひこ、ほれ、あんだのジャジャジャジャーンっつうの、こいったぞ」

と言って、私に聞かせてくれたのであった。 それから、バーンスタイン指揮ニューヨークフィルのドボルザークの 交響曲第九番「新世界」も聞かされた。 確か父親が、

「二楽章は、遠き山に日は落ちてのちれえな曲なんだぞ」

と言っていたのと、

「ふみひこ、何楽章 聴ぐ? 四楽章は一楽章がら三楽章までの 音楽まだ出でくっから四楽章 聴ぐごどにすっか?」

とか言っていたのを微かに覚えている。 どうやら私がそれまで「ジャジャジャジャーン」という言葉?で抽象していた 音楽は、「ジャジャジャジャーン」の他にも色々とあり、どうやら 「交響楽」という音楽らしいということを私は薄々 認識しつつあった。 私がこれらの曲を聴いていたのは、小学低学年のごく僅かな期間のみで、 それ以後は特に継続して聴いてはいなかった。

 ただ、小学中学年の時に豊臣秀吉が好きになった私は、 「新世界」の四楽章の主題 (ミーーファ#ーソーファ#ーーミミーー、 ミーーレー_シレミーーーー、ミーーファ#ーソ−ファ#ーーミミーー、 ミーソミソシー_シミーーーー) に、

一番:
大阪冬の陣千六百十四年外堀埋めらいだ
(おーーさーがーふーうゆーー、のーーじーいいんーーーー、
せーんろっぴゃぐじゅーーよねーーん、そーどぼりっうめらいだーーーー)
二番:
大阪夏の陣千六百十五年豊臣氏滅びだ
(おーーさーがーなーあつーー、のーーじーいいんーーーー、
せーんろっぴゃぐじゅーーごねーーん、とーよとみしほろびーだーーーー)

という歌詞を付けて歌っていた。 ちょうど 「悪魔のワルツ」とかを作曲?していた時期である。

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軽騎兵序曲

 小学中学年の頃、担任の UTM先生 (音楽が専門)が授業で、スッペの軽騎兵序曲を聞かせてくれた。 これは非常に「かっちょいい」曲に思えて気に入った。 音楽の時間だか図工の時間だか試験中だかに、軽騎兵序曲を聞かされながら、 曲の印象を絵に描かされたことがあり、 私は一生懸命ヨーロッパの「軽騎兵」を連想しながら描いたのだが、 UTM先生は、「GTUはよぐ、こいな短けえ時間で、 こいなにいっぺえ戦国武将 描ぐのいなあ」と感心された (これは 「落どした場所」ネタに取っておこう)。 家に帰って、父親に軽騎兵序曲が気に入ったという話をすると、 父親は、「んだ、軽騎兵序曲もウイリアムテルも同じなんだ」?? と意味不明のことを言って、ロッシーニの「ウイリアムテル序曲」 を聞かせてくれた。私は「どごが軽騎兵序曲どおんなじなんだい???」 と思って慎重に聞いたが、 どこが軽騎兵序曲と「おんなじ」なんだかさっぱり分からなかった (もしかして「序曲」という意味で「おんなじだ」という意味だったの だろうか?)。 その後、母親に軽騎兵序曲の入った教科書教材用のレコードを 買ってもらい、ちゃんと軽騎兵序曲が聞けるようになった。 しかし、それもそのうちに聞かなくなった。

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スターウォーズのテーマ

 私が小学五年生だかの時に、「スターウォーズ」という映画が 日本で封切られて話題になったのだが、その一年前に「笑点」かなんかの テレビ番組にアメリカだかのポップス楽団が出演して、 「スターウォーズのテーマ」を演奏したのを聴いて、それが私の印象に 残った。ただ、その時の演奏は「ドーソッファミレド’ーソッ」の 原曲版(YouTube)ではなく、「ドーソーーファミーレド’ーソーー」みたいな 間の抜けたポップス編曲版 (例えばこんなのとか?YouTube) だったような気がするが、それでも十分に 私の印象に残ったのだ。

 その後、私は親が知人の子供から譲り受けてきた? 懐かしのテレビ漫画/特撮(鉄腕アトム、鉄人28号、ウルトラマン各種、 他多数)の主題歌のソノシートを好んで聴くようになった。 (例えば山本直純作曲の マグマ大使の出だし (YouTube) などはなかなかかっちょいいと思ったし、 ジャングル大帝やキャプテンウルトラの主題歌など、冨田 勲の曲は なかなかいい曲だと思った。あと、この時期に聴いていた歌という訳ではないが、 「海のトリトン」の主題歌とタイガーマスクの「みなしごのバラード」は 今でも名曲だと思う。因みにカラオケに連れてこられた時は、 こういうのしか私の歌える歌はない)。

 さて、私が小学高学年頃、 我が家ではFMチューナーというものとカセットデッキというものを 購入し、 FMラジオ番組サウンドオブポップスで、あの「スターウォーズのテーマ」 をやると知った私は、父親に頼んで、 ズビン メータ指揮ロサンゼルスフィルの「スターウォーズ組曲」を録音 してもらった (YouTube) 。

 この「スターウォーズのテーマ」は当時の私には非常に「かっちょいぐ」 感じられた。

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続く



以下、覚え書き…………先は長い、

ベートーベンの交響曲から出発
刺激系
ストラビンスキー春の祭典との出会い
刺激を求めてバルトークやショスタコービチを聞く
が、春の祭典に匹敵する刺激には出会えない
大学でバンドを始めハードロックをやる
その関係でキングクリムゾンというプログレを知る

かっちょいい系
チャイコフスキーは初期の交響曲の方がいい。 なんで後期ばかりが受けるのか??

かっちょいいバーンスタイン
60年代以前のバーンスタイン/ニューヨークフィルの演奏は、凄く「かっちょいい」のが多い。 火の鳥とか、新世界とか。ベートーベンの交響曲(特に1番、2番とか)とか古典的な作品でも、 コントラバス(かチェロ)がバチバチ鳴っていて(激しいために弓と弦以外の部分どうしが ぶつかり合っているような音)、それがまた刺激的だ。 だから、バーンスタインなら「かっちょいい」んだと思っていたのに、 70年代後半以後のバーンスタインの演奏は、ことごとくすんげえかっちょわるい。 何でこんなにも「変容」してしまったのか。 バーンスタインがまだ生きている頃に、こうした認識を共有する私の友人は 「バーンスタインはもう死んだ」と言っていたものだが、確かに然りだと思う。 ウイーンフィルとのライブ録音は、まあ、古典派とかせいぜいロマン派以前には、 それなりにいい演奏もある(例えば、ベートーベン交響曲全集、特に7番とか)。 しかし、テンポはどんどんのろくなっていくし (チャイコフスキーの悲愴の3楽章なんて冗談かと思った)、かつては得意だった筈の近現代曲の 効果音的なとこの 解釈もどんどんへなちょこになってしまった。 年を取った演奏家を巨匠と呼んだり、「円熟した演奏」ともてはやしたりするが、 大部分の演奏家は若い頃の方がいいのではないか。 それにしてもバーンスタインの変容ぶりはひどすぎる*。

* 「Kyushima's Home Page」の 「ピアニストのピーク」 では、 「純粋な運動能力は10代後半から20代がピークであって、楽器を速く正確に弾く運動能力も例外ではない 」と書かれているが、指揮者にも多かれ少なかれそういう傾向はあるような気が私はする (勿論、例外はあるだろうが)。 まあ、指揮者は運動能力はあんまり関係ないような気もするけど、例えば 音の解析能力とかリズム制御能力とかが老化していくということも有り得るような気もする。

一方で、ムラビンスキーとかカラヤンというのは、若い時と年をとってからで 解釈や演奏速度があんまり変わらない。
T.トーマスやデュトワや60年代以前のバーンスタインの音楽の 「かっちょよさ」は、ロマン派以降や近現代ものやアメリカもの には格別だが、 この「かっちょよさ」は、 ベートーベン、ブラームス、ブルックナーといった ドイツ/オーストリア系の「かっちょよさ」には合わない。 ドイツ系の「かっちょよさ」には「ジャンッ」のように直ぐに立ち上がって 直ぐに減衰する軽い打撃音よりも「ズダーーーン」のようにゆっくりと立ち上がって 深く余韻を残す重い打撃音の方が格別である。 だから、ドイツものは フルトベングラーやヨッフムやクレンペラーの方が「かっちょいい」と思う。 トスカニーニはどちらかというと、バーンスタイン系の走りだったのではないか。

バロック系

グールドのゴルトベルクとの出会い
ベートーベンを好きな筈の私が、バッハしか聞かなくなっている
どうしてグールドのバッハにはまったのか??
対位的でノンレガートでパラパラの「ノリ」
実はこうした「ノリ」はバーンスタインとかの「かっちょよさ」とも ドイツものの「かっちょよさ」とも まるで対照的な領域に属する
果たして私はどんな音楽を求めているのか
アーノンクールの古楽器によるアクセントの強い軽快で高速な「四季」 は実にノリがよく刺激的だ。これに比べるとバーンスタインとかの ビブラートこってりの「四季」は気持ち悪いくらいだ。 ビオンディの四季も激しいところはアーノンクールの四季よりも過激で刺激的だが、 緩徐楽章は割とまともなので、全体を通してはアーノンクールの四季の 方が奇抜である。しかし、アーノンクールの四季以外の演奏 (バッハのブランデンブルクとか管弦楽組曲とか)は 四季ほどに奇抜な訳ではない。 ビオンディにしても、「調和の霊感」とかバッハのバイオンリンソナタはとかは、 四季のように過激には演奏していない。 どうやら、バロック演奏家には四季を過激に奇抜に演奏する風習があるのかも 知れないので、四季の演奏を演奏家の指標に使うのは不適切かも知れない (四季は効果音的要素がちりばめられた特殊な曲である)。

ついに見つけたビートの利いたビバルディ —— イル ジャルディーノ アルモニコ (YouTube)

 

イル ジャルディーノ アルモニコのビバルディ (YouTube) は、恐らく今まで聴いた中では、最もビートの利いた 刺激的な演奏である。 しかし、ビバルディ以外の演奏(バッハのブランデンブルクとか)は必ずしも、それほどビートの利いたノリノリ の演奏というほどでもない (それでもアーノンクールやビオンディよりはよっぽどビートが利いているが。 というか、アーノンクールやビオンディも、 ビバルディ以外はそれほどノリノリな訳ではない)。 やはり、ビバルディの音楽こそがビートの利いたノリノリの演奏に適している のではないか。 この意味ではバッハの管弦楽曲や協奏曲も今一つである (イル ジャルディーノ  アルモニコのブランデンブルクもビバルディほどの刺激性はない)。 というか私はバッハの器楽曲は素晴らしいと思うが、 バッハの管弦楽曲や協奏曲や声楽曲はあまりいいとは思わない。 バッハの大好きな私でも、 バッロク協奏曲や合奏曲に関しては、やはりビバルディの方がずっといいと思う。 というか、バッハ自身もビバルディの協奏曲を素晴らしいと思っていて、 鍵盤曲用に編曲している。

0010/12/1追記: 各種の演奏家の演奏に触れるための音源がCDぐらいしか手に入らなかった時代には、 自分の好みに合う演奏家を見つけだすまで、 さんざん、いろんなCDを買っては裏切られて、 というのを繰り返しながら、自分の好みに合う演奏家を見つけ出していったものだし、 少ない小遣いで、たまにしか買えない3000円近いLPレコードを 買っていた高校時代なんて、 ハズレの演奏家のレコードを買わされた時は本当に恨めしい気持ちだった。 それが、 最近はAmazonやYouTubeのおかげで、 実に様々な演奏を気軽に試聴できるようになった (なかなか聞く機会のなかった過去の演奏も含めて)。 本当にいい時代になったものだ。 CDやらmp3ファイルやらを買うにしても、 買うに値する品物かどうかをちゃんと見(聞き)定めてから、 買うことができるようになった。 なによりである。 そんな中でみつけたレッド プリースト(YouTube) の奇抜で斬新な演出と奏法は、 とても楽しいし、ピアーズ アダムスのリコーダー (YouTube)も なかなか技巧的で刺激的だ。

 このようにヴィヴァルディは、非常な速さで数多くの作品を生み出していったから、 中にはかなり似かよった楽想が出てくることもある。それについて現代イタリアの 作曲家ルイジ・ダラピッコラ(一九〇四〜一九七五)は、 「彼は六〇〇曲の協奏曲を書いたのではなく、一つの協奏曲を六〇〇回 書き換えたのだ。」と皮肉っている。しかし逆にいえば、たとえ似かよった 楽想が出てきても、これだけたくさんの作品のうち一つとして同じものがないと いうことに、むしろ驚きを覚えるのである。

渡邊學而『大作曲家の知られざる横顔』(丸善ライブラリー)

 確かに、バッハの器楽曲やビバルディの協奏曲のように、 膨大な作品の一つ一つがどれをとっても同等の高い「品質」の ものばかりであることは、私には非常に有り難いことである。 勿論、これは個人の音楽感性や価値観に依存する問題であろうが、 私はヘンデルやテレマンの作品は、いいものは確かにとてもいいと思うけれども、 それはヘンデルやテレマンの作品の中のごく一部であって、 バッハの器楽曲やビバルディの協奏曲のように、どれをとっても「はずれ」 がないというふうには行かないのである。 こうした傾向(その作曲家のいい作品は確かにいいが、 それ以外は「はずれ」も多い)は、古典派以後の作曲家になるほど 更に強くなると思う。 特に好きな作曲家という訳ではないが、ハイドンやモーツァルトは、 割と「品質」に「ムラ」のない曲ばかりを大量に作曲してくれた最後の 作曲家ではないだろうか(そういう意味では、ハイドンやモーツァルトの 愛好家は、さぞ「いい思い?」をしているなあ? と想像する)。
  そういう意味で、私は品質にムラの少ない六〇〇曲の協奏曲を作った ビバルディには大いに感謝するとともに、 バッハに関しては、もっと器楽曲を大量に作曲してほしかったと 思うのである。 というのも、キリスト教会オルガン奏者であり宮廷音楽科であったバッハは、 毎週の礼拝のために、毎週一曲ずつのカンタータを作曲し、 それを楽団に演奏指導しなければならなかったのだ。 だから、バッハは何百曲という膨大な数のカンタータを作曲している。 バッハのカンタータをこそ好きな人にとってはこれは有り難い話だろうが、 バッハの器楽曲こそが好きな私にとっては、 バッハがカンタータの作曲に費やした時間や労力の半分でも、 器楽曲の作曲に費やしてくれていたならと思わずにはいられないのである (後は、原博のような現代作曲家が、 バッハの器楽曲を彷彿とさせる曲を作ってくれることを待つしかないのだ)。

古楽奏法

 それはともかく、古楽奏法(アクセントを強くしまたはノンレガートにし、 ビブラートを排し、 ロマン派のようには強弱やリズムを揺らさずに、 淡泊に、軽快に、パラパラと演奏する奏法?)に準じた方法で、 古典派以後のロマン派や近現代ものまでが演奏されるようになってきた (ガーディナー、ブリュッヘン、アーノンクール、ノリントン)。

 古楽奏法で演奏されるバロック音楽は確かにパラパラしていてノリがよく 心地よいが、古楽奏法で演奏される古典派以後、特にロマン派以後の楽曲には、 バロック音楽のような「パラパラした」ノリの良さはどうも感じにくいし、 ましてや、60年代以前のバーンスタインやドイツもののような「かっちょよさ」 も感じられない。

 バロック音楽というのは、曲の最初から最後まで、あまり曲の調子が 変わらない。例えば、八部音符が小刻みに動き回るような曲であれば、 最初から最後まで八部音符が動き回っている。だから、その八部音符を ノンレガートで演奏すれば、最初から最後まで「パラパラしたノリ」が 保たれる。

 しかし、古典派以後、特にロマン派以後の曲では、そうした曲の調子は 一定していない。静かになったりうるさくなったり、のんびりになったり 忙しくなったりする。 うるさくて忙しい部分だけに着目すると、確かにバロック奏法が効果的な 場合もあるかも知れないが、古典派以後/ロマン派以後の曲では静かで のんびりした部分が長すぎる。

 しかも、そうした「静かでのんびりした」部分が「この上なくきれいで 美しい」旋律ならいいのであるが、古典派/ロマン派以後の楽曲で 「このうえなくきれいで美しい」旋律は、そう頻繁には出てこない。 だから私は、古典派/ロマン派以後の曲は賑やかなところ以外は たいくつに思うことが多い。

 例えばブルックナーの交響曲とかは、賑やかで派手なところは確かに すんごく「かっちょいい」と思うが、それ以外の静かなところは正直に言うと私には なかなかたいくつである。 もし、ブルックナーのあの賑やかで派手なところだけを寄せ集めて、 最初から最後までずっと賑やかで派手なのが続く交響曲を作ったら、 私みたいな好みの人間には格別な曲になるだろうに。 それにしても、古典派/ロマン派以降の作曲家は何故に、そういう最初から 最後まで賑やかで派手なのが続く曲を作らなかったのだろうか?  そういう意味では「春の祭典」とかは例外なのかも知れない (二部の出だしが、やや静かなのが続くが)。

 それに比べて、バロックの音楽、特にバッハの音楽では、 一つの楽章の中では最初から最後まで、音符が一定の密度で動き回っている (尤も、フーガなどは、後ろに行くにつれて密度が濃くなっていくが、 それでも全声部が出揃ったところからは、ほぼ密度一定になる訳である)。 しかも、密度の低い緩徐楽章も、バッハやビバルディの場合は、 そこで退屈にならないには十分過ぎるほどに「きれいで美しい」 旋律で構成されていることが多い。 そして、旋律自体が「きれいで美しい」緩徐楽章の場合は、 下手にこってりしたビブラートをかけて強弱やリズムを揺らしたりすると、 せっかくの旋律自体の美しさが台無しになってしまうので、 古楽奏法の方が「素材の良さ」を活かすのである。

 などなど、様々な理由でバロック音楽には正に古楽奏法が本領を発揮する と言えるが、 古典派/ロマン派以後の音楽には古楽奏法は必ずしも適さないのではないか。

古楽奏法が、「アクセントを強くし/ノンレガートにし、 ビブラートを排して、強弱やリズムを揺らしすぎない」 といった方法で躍動的な「ノリ」が得られることを実演してみせた ことは、古典派/ロマン派以後の演奏方法にも大きな可能性を 示したと思う。が、私の個人的好みでは、 現状の古楽奏法寄りの古典派/ロマン派以後の 演奏(アーノンクール、ブリュッヘン、ガーディナー、ノリントン) よりは、 トーマス、デュトワ、六〇年代以前のバーンスタインによるロマン派以後/ 近現代もの、 ヨッフム、クレンペラーによるドイツものの方が好きである。 勿論、バロック音楽に関しては古楽奏法が一番いいと思っている。

続く

ルネサンス聖歌

こんなことを書くと、ただでさえ少ないクラシック愛好家の仲間を 更に減らしてしまいそうだが。

私は中学から本格的にクラシックを聞くようになったが、 声楽だけはほとんど興味がなかった。 興味がなかったというか、 特にオペラに代表されるあの(私の音楽感性にとっては)なかなか 耳障りな歌い方は、はっきりと嫌いであった。 当時のクラシック好きの友達の間でも、その感覚は共有されていた。 恐らく西洋クラシック特有のあの歌い方は、 ベル・カント唱法 と呼ばれる歌い方でほぼ網羅されるのではないかと思うのだが、 ドイツ唱法をベル・カント唱法とは区別したりする向きもあるようなので、 その辺の細かい区別は知らない。 私からすると、バロックオペラ以降のマイクを使わないで歌う西洋クラシックの 歌い方は、ドイツ歌曲であれ、オペラであれ、同じような意味で好きになれない。 言葉で表現するのは難しいが、 口や鼻の中の空洞に独特のやり方で (この部分が他の歌い方との大きな違いが出るところだろうが) 歌声を大音量で響かせて、常時 強いビブラートをかけながら、 表情過多に歌う歌い方とでも言ったらいいのだろうか。 ワーグナーの歌劇なんて、せっかくあんなにかっちょいい旋律でいっぱいなのに、 歌が入ってるなんてもったいないなんて思ってたくらいである。 だから、ワーグナーは未だに序曲しか聞かない (ワーグナーは確かにかっちょいい)。

大学生の頃、合唱をやっていた友人に、 「おれは実は声楽にはまるで興味がない。というか実は嫌いだ...」 と前述したような話をしたら、その友人は 私の主張に完全に同意した上で、 ルネサンス聖歌やノートルダムミサ曲を紹介してくれた。 いわく、ルネサンス以前の西洋のキリスト教会音楽は、 オペラとは違ってビブラートを一切かけないで、 ストレートトーンで歌われるから美しい。 しかも、当時は女が教会に入れなかったから ソプラノも男だけで歌われていた。 まずは聞いてみて。ということで、友人の部屋で色々と聞かされたが、 確かにその場で素直にすごくきれいな音楽だと実感した。 タバナーコンソートのノートルダムミサ曲のチリンチリンと鈴が入るところは、 なんか、子供時代にどこかの原っぱをさまよっているような 妙に懐かしい思いがこみあげてきたし、 タリスの四十声モテト (YouTube)なんて、 人間の声の楽器としての美しさを究極まで追求した一つの到達点のように 思えた。 後でわかったが、ルネサンス聖歌以前の西洋音楽は、 音階が教会旋法で、長調や短調ではないことが独特の和声と調性感を 生み出しているのだ。 ここに、ドミソの長三和音で終止する和声進行が入ってきたら 一気に白けてしまうだろうなという独特の崇高さがある。 といっても、私は無神論者であり、 キリスト教会音楽の歌詞内容には全く共感していないが (というかラテン語は聞いてもわからないが)、 私は標題音楽だろうと作曲者の意図とは無関係に絶対音楽として 鑑賞する流儀なので (ここの下の方の「反戦曲?」参照)、 如何に歌詞の内容が私の共感できないものであろうとも、 美しい音楽は美しい音楽として鑑賞できる。

というようなわけで、それ以来、私はルネサンス聖歌以前のキリスト教会音楽 に限って、西洋クラシック音楽の 声楽も多少は聞くようになったのである。 バロック音楽を聞くようになってからは、 FMラジオの早朝のバロック番組でやっているバロック期の声楽曲 (バロックオペラやカンタータなど)も聞かされるようになったが、 ビブラートをかけない唱法によるものであれば、 バロック期の声楽曲は、オペラほど耳障りだとは思わないが、 それでも、声楽以外のバロック音楽を手放しで大好きだと感じるようには、 バロック期の声楽曲でも好きにはなれていない。 やはり、西洋の声楽曲は、私の音楽感性では、 ルネサンス期のキリスト教会音楽で一つの頂点に到達しており、 その後、よく言われるように、 マイクやスピーカーのなかった時代の大ホールで声を響かせるように 私の嫌いな唱法が発達していったということなのではないだろうか。 マイクが登場して以降のポップスとかロックの歌い方は、 私は特にいやではない。 ポップスもロックも特に強い興味はないが、きれいに歌われる歌は いっぱいあると思う。 オペラに代表されるバロック以降、マイクが発明されるまでの クラシック声楽は未だに興味がない、というか(後略)

好きな楽器(編成)

私は、バッハのチェンバロ曲が好きだが、 チェンバロによる演奏よりも パラパラしたピアノによる演奏の 方が断然 好きだ。 ルネサンス聖歌のストレートトーンによる歌声を聞いていると、 人間の声というのは、何と完成度の高い美しい音を出す楽器なのだろうと 感心するが、 同じ歌声でも、ベルカント唱法によるオペラを聞いていると なかなか耳障りな音に感じてしまうこともある。 このように、 私には好きな音の楽器(や楽器編成)があるのだが、 おおよそ、私の好きな(よく聞く)順番に挙げていってみる。

ピアノ

好きな楽器の音に順番をつける必要もないとは思うのだが、 やはり断トツでピアノが好きだと思う。 私が物心ついた頃から、 5才上の姉がピアノを習っていたのだが、 毎日のようにハノンみたいな練習曲 (YouTube) を、 ドミファソラソファミレファソラシラソファ...と延々と聞かされて、 ピアノというのはなんとも耳障りな音を出す楽器だなあというのが最初の 感想だろうか。 小学校の頃に交響曲だの スターウォーズのテーマだの 管弦楽曲に多少の興味を抱くようになってからは、 ピアノというのは、同時に複数の音を出せて便利だからよく 使われるだけで、ピアノの音がいいからという理由でピアノが 使われるわけではないとすら思っていた。

中学になってからは、割とはっきりとクラシックの管弦楽曲が好きになっていて、 自分からFMラジオやレコードでクラシックを聞くようになった。 その頃はベートーベンの交響曲が好きだった。 定番の7番とかは言わずもがなとして、 田園なんて、なんともロマンチックでモダンだし、 2番の2楽章 (YouTube) なんかもとても美しく印象的だと思った。 4番の1楽章もとてもかっちょいいと思った。 そんなわけで? ベートーベンのピアノ協奏曲も聞いてみようと思った。 今、思えば、最初に聞くなら、 ノリがよくてかっちょいい1番や4番あたりがいいのではと思うが、 当時は、YouTubeで検索すればすぐに何でも聞ける時代ではないので、 まずは、定番の(要は、一番有名な)5番「皇帝」から手をつけることになる。 といっても、ネットで検索すれば出てくるものではないので、 FMラジオで放送されるのを待つか、 レコードを買うかなんだけど、 中学1年の頃に母親に買ってもらったような気がする。 というのも、レコードは1枚に裏表あわせてせいぜい50分前後 (運命とか短い曲だと30分とか)しか録音されて いないのだが、当時の値段で2500円ぐらいから3000円ぐらいもした。 だから、そうそう気軽に買えるものではなかった。 それはともかく、そのとき買ってもらったのは、 ケンプ:ピアノ、ライトナー:指揮、ベルリン・フィルの 皇帝だったのだが、 ピアノソナタ14番「月光」がおまけで入っていたのだ。 月光の1楽章の印象的な分散和音を聞いて、 こういう(曲名の「月光」を連想するかどうかはともかく、 確かに、揺れる水面に月光が反射しているかのような)叙景的な 「効果音的な」音は、ピアノの音ならではの効果だなあと初めて実感した (YouTube)。

家にあった姉のピアノを自己流でいたずらし始めたのは、 中学3年の頃だったろうか。 月光が印象に残った時点でも、 ピアノの音には一定の興味を持ち始めていたのではあるが、 ピアノの音を好きになる大きなきっかけはドビュッシーだ。 音楽の授業だったか友達から借りたカセットテープかで、 冨田 勲のシンセサイザーによるドビュッシーのアラベスクを、 ドビュッシーのピアノより最初に聞いたような気がする。 (先日、亡くなったばかりだが)冨田 勲のシンセサイザーは、当時の シンセサイザーブームの中で、 YMOとかが、単に電子オルガンの延長的な旋律楽器としてしか使っていないのに 対して(異論はあるだろうが、当時の私の印象として)、 ちゃんとシンセサイザーでなければ作れない効果音的な音 (水のせせらぎとか、 風の音から人の声に変わったりとか、 あるいは、こうした自然界の音には属さない「効果音的な」音とか)を 実に効果的に、単なる旋律楽器としてではなく、 効果音的に有効に機能させていた。 だから、私はシンセサイザー奏者の中では、 冨田 勲は別格だと評価しているのだが、 冨田 勲のドビュッシー(の特にアラベスク)は、 本当に水の流れを連想させるような、実に効果音的な音だなあと、 その初めて聞く音に、素直に感動した(YouTube)。 しかし、(順番的には)その後(だと思うが)、 クライバーン とかのドビュッシーのピアノのレコードを買ってきて 聞いてみたら、 ピアノによるドビュッシーの方が、 あの冨田 勲の効果音的なシンセサイザーによるドビュッシーよりも、 はるかに如実に「水の流れ」そのものを連想させる音なのだ (例えばアントルモンYouTube )。 私は感服した(その意味ではストラビンスキーの火の鳥も)。 シンセサイザーの表現力の可能性を私は全く否定しないし、 期待しているが、 完成されたアコースティック楽器の表現力というのは、 そう簡単に電子楽器で再現したり、凌駕したりできるものでは ないのだなあと(2016年現在でも、たぶん。もちろん、 将来、 アコースティック楽器が電子楽器で完璧にシミュレートされ凌駕される こと自体は大歓迎なのだが)。

という感じで、私がピアノの音自体を最初に好きだと感じるようになった きっかけは確実にドビュッシーの水の流れを連想させる効果音的な (まあ、具体的に言うなら、 全音階の分散和音をペダル踏みっぱなしで響かせるというか) 音に違いない (例えばクライバーンの「水に映る影」YouTube)。 だから、私が中学3年の頃から 自己流でピアノの即興を録音したりしていた頃は、 ずっとペダル踏みっぱなしだった。

自己流とはいえ、 ピアノが少し弾けるようになってくると、 まあ、高校1年の頃とかは、 ドビュッシーの月の光だの夢だのを弾いていたと思うが、 ドビュッシーは好きだった。

一方で、バルトークの打楽器的なピアノ奏法も好きだった。 中学の時に FMラジオで「2台のピアノ、弦、打、管弦楽のための協奏曲」 (YouTube) をカセットテープに 録音したやつが気に入って、何度も聞いた。 これは、本当にかっちょいい曲だと思う。 後藤文彦 ピアノ小品 作品1とか 後藤文彦 ピアノ小品 作品3とかは、 確実にバルトークの打楽器的な奏法の影響があるのではないかと思う。

だから、私は大学4年ぐらいまでは、 ドビュッシーのペダルで響かせた効果音的な分散和音や、 バルトークの打楽器奏法みたいなピアノが、好きなピアノの音だった。 というか、その頃まで、 ストラビンスキーだの、 ショスタコービチだのバルトークだの(キング クリムゾンだの)、 ちょっと無調的で不協和音等のノイズを含む刺激的な音楽ばかり求めていたのだが、 大学4年生ぐらいのある日、 ふとベートーベンが聞きたくなって、 ベートーベンの交響曲の1番だの2番だのを聞いてみたら、 ショスタコービチだのバルトークとはぜんぜん比べ物にならないレベルで、 なんの我慢も必要とせず、 手放しで「いい曲」なのだ。 恥ずかしい当時の私の日記:

1988年二十二歳
12月24日 火曜日 雪
 最近、ショスタコーヴィチだのバルトークだのばかり聴いていて、ふとベートーヴェンを聴いてみると、その知覚表象が昔抱いていた「音楽」の記憶表象にピタリと一致しているのを感じる —— そう言えば、これが「音楽」だったっけ —— と。 だから、ぼくは不断ぼくらが無意識に作っている不合理なポリシーによって、(某野球選手を自分のアイドルにしてしまったが為につまらないプロ野球を我慢して見ている女の子とか、「前衛的」ということを「芸術的」ということと勘違いしている前衛芸術家とかみたいに)苦いコーヒーを我慢してブラックで飲むようなことはせず、自分の感性に素直に —— 例えばブラジルの女の子のように、コーヒーには砂糖をたっぷり入れて飲もうと思うようになった。取り敢えずそのその辺から脱出を試みていこうと思う。

当時の私が、一人称に「ぼく」を使っていたり、 プロ野球が好きだった小学校の同級生やコーヒーに大量の砂糖を入れていた 留学生の知人をまず「女の子」と類別していたりといったところは、 まあ、私もその程度の典型的な若者だったということで興味深い (ちなみに、 この文章を含め、こうした日記っぽい露悪的な文章は、 「後藤文彦の頁」を隈なく探索すると ところどころに置いてある)。

というような感じで、たぶん、大学4年ぐらいから、 ベートーベンのピアノソナタを聞き(弾き)始まったんだと思う。 当初は、3大ソナタとかが、16ビートや8ビートで、ほとんど ハードロックというかヘビメタというか、 明らかにビートの効いたかっちょよさを追求した音楽だなあという辺りから 開拓を初めて、 3番、12番、13番、といった、実にノリのいいモダンな曲や、 31番や32番といった実に耽美的で荘厳な曲など、 ベートーベンの良さを再発見していったわけである。 3番、12番、13番に関しては、 グールドの演奏を聞いたからその良さが分かったという面が大きい。 3番の2楽章なんて、 普通は必ずしも旋律としてではなく、 伴奏か効果音のように演奏されることの多い右手の分散和音が、 グールドの演奏では、正にサビというか聞かせどころの主旋律になっている (YouTube)。 こういうふうな普通は主旋律ではない単なる伴奏や効果音的な音を 巧みに拾い出して、そっちを主旋律にしてしまうというような解釈が グールドには多々ある。 そんな流れで、 グールドと言えばバッハだし、グールドのバッハも聞いておこうかなあと、 割と安く売っていたモノラル版の 1955年デビュー盤のゴルトベルクのCDをなんとなく買ってきて、 完全に打ちのめされた(YouTube)。 恐らく、私はこのとき初めてこの曲を聞いたのではないかと思う (今ではさんざん映画やアニメで使われすぎてベタな曲になってしまったが)。 初っ端のアリアを聞いた時点から、 「ああ、これだ、これだ」 という郷愁を喚起された。 一切、 ペダルで和音を響かせたりしない パラパラしたピアノは、 ドビュッシーとかのペダルで和音を響かせる音とは完全に対局にあったが、 そのパラパラした音の虜になってしまった。 49才になった今でも、 パラパラしたピアノによるバッハ (グールドに限らず、高橋悠治でも、 シュタットフェルトでも シェプキンでも)は、 あらゆる音楽の中で、やはり別格だ。

好きな楽器について順番に書いていこうと思ったら、 ピアノだけでもだいぶ長くなってしまった。 書き始めると、ついついいろんなことを書きたくなってしまうので、 どうしても長くなってしまう。 次項のリコーダー以降は、またそのうち。

リコーダー

バロック協奏曲の花形楽器、主役楽器

リュート

将来、退職後にでもやってみたい。

ギタレレ

22/2/13追記: と思っていたが、子供たちも大きくなり、クリスマスに プレゼントを買ってやるような感じでもなくなってきたので、 2021年の12月に、自分用のプレゼントとして、 ヤマハのギタレレというミニギターを買ってみた。 本当は、リュートでバイスとかを弾いたりしたいのだが、 リュート(特にバロックリュート)は大量生産されておらず、 製作者に数十万円で制作依頼してもらうような入手方法なので、 気軽にちょっと買ってみるというわけにはいかない。 前々から、茶の間で(家族の迷惑にならずに)ちょっと弾ける楽器はないものかと 思っていたが、 まあ、鍵盤楽器でそういうものがあるなら、 すぐに弾けるから望ましいのだが、 例えば、3オクターブぐらいのミニキーボードの小さいやつというのは、 意外とない(鍵盤部分以外のコントロール部分やスピーカー部分が 大きすぎる)。 1980年代に流行ったヤマハのポータブルキーボード (PortaSound PS-2)は、 鍵盤ハーモニカぐらいの大きさで(鍵盤以外の部分が最低限で)手頃だったが、 ああいう必要最小限の大きさのキーボードが今はない。 MIDIキーボードで、3オクターブぐらいのキーボード部分だけの大きさで、 スマホで鳴らせるやつがあるようだが、 これも、考慮すべき選択肢だ。 私の目的は、茶の間で、家族の迷惑にならずに、 楽器で即興したり、テレビで流れた音楽の旋律を確認したりとか、 そういうことなのだが、 そうした用途にちょうどいい楽器がなかなかない。 小型で音が小さい楽器がいいので、 ウクレレとかもいいかなと思ったが、音域が狭すぎる。 マンドリンやマンドラも悪くない。 でもそれだったら、ミニギターの方が6弦だから (たぶん4弦よりは早いパッセージとか和音とかの)自由度が大きく、 例えば、バッハとかバイスを弾くことを考えたら、 現にギターでバッハやバイスはさんざん弾かれているわけだから、 まあ、ミニギターをやってみようかと、 ためしに買ってみた次第。 ギタレレはネックが短くて普通のギター用の弦を 張ると十分な張力が得られないため、 普通のギターより4度高めに調弦して下さいとなっているのだが、 私は、普通のギターの指使いでバッハとかを弾いて、 調が変わるのがいやなので、 (あるいは、 テレビの音楽をギターで確認する際に、 通常の指使いだと4度ずれるというのはいやなので)、 普通のギターの調弦 (低い方から6弦E, 5弦A, 4弦D, 3弦G, 2弦B, 1弦E)で、 弾いてみていたのだが、 やはり張力が弱いために、色々と難があるようだ。 まず、ヤマハの弦は、 3弦Gのナイロン弦が太く、 張力が弱い状態だと、フレットをしっかり押さえても 音程が合わなくなってしまう(1/4音ぐらい低めの音になる)。 これでは、実用に耐えない。 3弦Gは、開放弦以外では音程がすべて狂ってしまう。 ギタレレを通常の調弦で使う方法を検索していたら、 SAVAREZ サバレス クラシックギター弦 コラムアリアンス ハイテンションセット 500-AJ を普通の調弦で張ればそのまま使えるという情報があったので、 これを買って、通常の調弦で張ってみた。 これは、通常のギターにやや張力を強く張って通常の調弦になる弦という ことではないかと思うが、 ネックの短いギタレレだと、まあ、ほどよい張力で通常の調弦で 張れるということではないかと思う。 3弦Gが、ちゃんと音程が合うようになったので、 ひとまずは、この方法で満足していた。 バッハのリュート組曲集とかの楽譜を買って、 定番の組曲1番ホ短調BWV996のブーレとかを 練習しているのだが(まだまだ、ぜんぜんちゃんとは弾けて いないのだが)、 アレグロとかの クラシックギターの楽曲を、それなりの速さで滑らかに、 (しかもタイの音はちゃんと持続させながら)弾くには、 (リコーダーで言うところの替え指というか) 同じ音程を出す複数の指使いの中から、 (次の音が押さえられなくなる選択を避けて)どれでもとっさに自由に使えることと、 (一本の指で複数の弦を押さえる)セーハをきちんと使えることが、 まず習得すべき基本かなあと思い至ったのであるが、 どうも、ギタレレの張力の低い弦だと、 セーハがうまく出ないような感じなのだ。 親指を人差し指の下の位置で押さえて、着実に 人差し指の脇をくっつけてと色々とやってみても、 外側の6弦と1弦は、まあ、それなりに鳴るけど、 それ以外の内側の弦は、なかなかちゃんと鳴らない。 ヘッド側に近い2フレットぐらいまでだったら、なんとか 鳴るが、4フレット以上になると、ほとんど実用にならない。 まあ、私のセーハの押さえ方が下手くそだということも あるにしても、これだけ押さえ方を色々と変えてみても、 全くちゃんと鳴らないということは、 張力が低いことが原因と思われる。 ということで、 ギタレレで通常の調弦にする方法として紹介されていた もう一つの方法: 最も低い6弦は、6弦E用の弦をそのままEで張り、 5弦は6弦E用の弦を4度高いAとして張り、 4弦は5弦A用の弦を4度高いDとして張り、、、という具合に、 5弦から上を一つ低い弦を通常の音程になるように張るというやり方を 試してみた。 これは、予備で買っていたヤマハの弦でやってみた。 ギタレレの推奨調弦は、通常の調弦より4度高めだから、 1つ低い弦を4度(G-B間は3度)高めの通常の調弦で張るという やり方は、5弦より高い弦に関しては、 通常のギターの張力に近い状態になっているのではないだろうか。 この張り方にしてみたら、 セーハに関しては、多少は鳴りやすくなったような感じがする。 張力が大きい方が、音は大きくいい音が鳴るとは思う。 しかし、ヤマハの3弦G用を2弦Bとして張っている弦は、 ちょっと太くて、フレットをしっかりと押さえないと音程が 狂いやすい。この弦がセーハもやりにくくしている。 今度、 サバレスの細い弦で、この5弦より高い弦に1つ低い弦を張るやり方を 試してみたい。 あと、 ギタレレは、弦を張り直すと、調弦が落ち着くまで、 しばらく時間がかかる。 私の張り方(特にペグ側)が悪いのかも知れないが (でも、弦がしっかり固定されておらずに滑ってきているとは 考えにくいので)、 たぶん弦のクリープ変形とかで、張ってしばらくは、 弦が伸びて音程が下がってくるのではないだろうか。 特にナイロン弦が、弦を張り替えて何日間かは、音程がどんどん 下がってくる。そんなもんなのだろうか。 ギターに関しては、私はまだ色んなことがわかっていない。

それはともかく、最近の私は、 夜、寝る前に毎日ギタレレを弾いている。 音階練習をしたり、バッハを弾いたり、即興してみたり (もちろん、ぜんぜんちゃんとは弾けてないのだが)。 楽器を弾くということは、私に寛ぎと充実感を与えてくれる。 私は、夜 寝る前に寛ぎたくて、 それを言い訳に、 (テレビで酒場放浪記だの街ピアノだのを見ながら) ついつい寝酒する誘惑に負けることもあったが、 ギタレレを弾くようになってからは、 それで寛ぎが得られ、ほどよく眠くなってきて、 寝酒することもなくなった (まあ、夕飯時には、酒を飲んでいるのだが)。 こういうことなら、もっと早くに買っていてもよかったかもしれない。

クロスギター

ギタレレは、フレット間隔も弦間隔も狭いので、 普通サイズのギターに比べて色々と制約が大きいのでないかと思い (特にセーハがうまくできないのも、そういう理由が大きいのでないかと思い)、 次の自分用クリスマス?に 一回り大きいミニギターでも買ってみようかという気になってアマゾンを 物色していたのだが、 クロスギター 1.0 (ナイロン弦) という折りたたみギターに興味を引かれた。 ネック部分は普通サイズでありながら、ヘッドとネック部分だけの大きさに 折りたため、音量も小さい。 というわけで、ひとまず衝動買いしてみた。 音量は、ギタレレよりも更に小さく、アパート暮らしの人とかでも、 大丈夫ぐらいの感じだ。 回転バーを出して、それを膝とかにのせて固定するのだが、 なかなか固定しずらい。 2つのバーをトラス状に三角形にくっつけると多少 固定しやすいような。 それはともかく、ギタレレの狭いフレット間隔、狭い弦間隔に 慣れてしまっている状態で普通サイズのクロスギターを弾いてみると、 あまりにも弾きづらい。 そのうち慣れてくるかなあと思ったが、2ヶ月ぐらいクロスギターだけを 弾いていてもまるで弾きにくい。 試しにギタレレに持ち替えてみると、ギタレレの方が圧倒的に 速く弾ける。 リコーダーなんかもそうだけど、テナーとか大型になるほど、 指が押さえにくくなって、速いパッセージとかを吹きにくくなるけど、 アルトに持ちかえると、だいぶ速く指を押さえられ、 ソプラノに持ちかえると、更に速く指を動かせるようになったりするけど、 正に、そういう感覚だ。 で、肝心のセーハであるが、 クロスギターの幅の広いフレットでも、 なかなかうまく押さえられない。 禁じられた遊びに出てくる「セーハしながらかつ小指で弦を押さえたまま セーハの2弦がうまく鳴らないところ」は、 クロスギターでもまるでうまく鳴らない。というか、 小指で押さえるところの距離が遠くなるクロスギターの方が更に難しい。 YouTubeで禁じられた遊びのセーハのやり方というのを いくつか見てみたが、私は指が短いんですという確かに指の短い人が、 普通サイズのギターでちゃんとセーハを鳴らせているので、 確実にコツなのだろう。 うーん、不思議だ。 いくつかのYouTube動画では、親指に力を入れず、 体重をかけるといった表現が頻出するが、 もし本当に腕の力を抜いて体重をかけるっていったって、 最大でも腕の重量ぐらいしかかけられないし、 弦を押さえながら腕を完全に脱力するなんてのは無理な話だ。 想像するに、「体重をかける」というのは比喩的な表現で、 私なりに物理的に解釈すると、たぶん、 反力を親指だけに取るのではなく、複数の支点に反力を分散すれば、 親指にはあまり力を入れなくても、 十分に人差し指を密着できるようになるとか、そういう意味のような 気がする。 つまり、ボディー部分がなく、ぐらぐらする回転バーで反力を取らなければ ならないクロスギターは、構造的にセーハがやりにくいのではないかと思うのだ。 クロスギターでさんざんセーハに苦労した後で、 ギタレレで禁じられた遊びのセーハをやってみたら、 なんか、前に苦労してたときよりも、だいぶセーハが少しは鳴るように なってきた。 うーん、 速いパッセージはギタレレの方が弾きやすいし、 今となっては セーハもギタレレの方が押さえやすい感じだし、 この際、もうクロスギターは諦めて、ギタレレに特化して練習しようかなと。 もちろん、ギタレレの方があらゆる点でクロスギターより弾きやすいという わけではなく、例えば、 同じフレットで隣り合う2弦や3弦を1本ずつの指で押さえなければならない ようなときは、ギタレレの狭いフレットでは指がくっついてしまって、 フレットからはみ出してしまったりする。 まあ、小さいリコーダーの方が指を速く動かしやすくはなるけど、 ソプラニーノぐらいに小さくなってくると、 指どうしがくっついて逆に動かしにくくなるとか、そんな感じか。 というわけで、またしばらくはギタレレの練習を続けてみる。 ヤマハのショートスケールクラシックギター も 気になるが。 次の自分用クリスマス?まで様子を見たい。 横山光輝の三国志 全60巻箱入り も候補なのだが...

24/1/6追記: 結局、 ヤマハのショートスケールクラシックギターCS40J を買ってしまった。 クロスギター、CS40J, ギタレレの ネックの上端の幅はそれぞれ、51mm, 48mm, 47mmで、 ネックの幅に関してはCS40Jはギタレレに近く、 その意味ではセーハもやりやすい。 クロスギター、CS40J, ギタレレのネック上端から 第1フレットまでの距離(内側)はそれぞれ、 34mm, 32mm, 23mmで、フレット間隔に関しては、 ギタレレよりはクロスギターに近い。 最近は、 ピアノの即興練習の方の 優先順位が高いので、ギターの方はあまり弾いていなかったが、 クロスギターのセーハは絶望的に上達しない。 特に、セーハをしている人差し指以外の指で他のフレット間 (特に禁じられた遊びみたいに小指で数フレット離れたフレット間)を 押さえながらのセーハとか、どこをどうやっても無理で、 張力を低く張れるライトテンション(ライトゲージ)の弦に張り替えてみたら、 多少は押さえやすくなったものの、 それでも全然 無理そうだ。 セーハ以外でも、離れたフレット間どうしを複数の指で押さえなければ ならないような指使いの指定が、 それなりに長い方ではないかと思われる私の指でも全く押さえられそうに なかったりする。 たぶん、小指から人差し指までが、今以上に大きく広げられるようになって、 なおかつ、それぞれの指が独立に適切な角度に曲げられるように ならないといけないのだろう。 左手の指のそれぞれが指定の位置に来るように右手で強制的に 配置しようとすると「いててて」というか 「こんなの(現状の指の自由度で実現するのは)無理でねの?」という感じだ。 その点、CS40Jはセーハも比較的やりやすいし、 練習さえすれば、指定の指使いが大体 実現できそうな感じがする。 これからしばらくは、CS40Jに特化して練習を続けてみたい。

ピアノ三重奏

ピアノと弦が同時に鳴る響きがいい。

弦楽合奏

エフェクターでいうところのストリング効果、コーラス効果。 チャイコフスキーの交響曲で、弦楽合奏で分散和音を連打するとことか。 春の祭典とか。



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