(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

意識とは何か

(Kio estas konscio)

注意

目次

「概念」とは
機械は「判断」しているか
意識は測定できるか
機械の「判断」と生物の「判断」
幽霊は存在するか
機械に意識が伴うとしたら
「眠ること」と「死ぬこと」は同値では?
クローンでも冷凍保存でも「死んだ」のと同値

追記(1999/2/26)
死後の恐怖の合理化、ホールデンの慰め、量子力学の多世界解釈
オメガ・ポイント理論
エレガントな宇宙(超ひも理論)を読んで
「中国語の部屋」に発生する意識(04/1/23)
山本弘『神は沈黙せず』を読んで


田口さんの 「意識と無意識の間〜脳型計算機への挑戦〜」の頁
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al la paĝo de GOTOU Humihiko


 以下は一九九四年四月頃に、東北大学の電子掲示板 TAINSbbmsで 「意識」について議論されていた 際に、私が掲示した文章を一部修正したものです。

 この手の話題は、とかく神秘主義に近付きやすいし、 以下の私の文章も、読み方によっては、神秘主義的にとられてしまう ような書き方をしているところもあるので、 そういうところには、注意書を添えていきたいのですが、 まだ、そのままにしてあります。 気を付けて?読んで下さい.....

「概念」とは

 高校の国語の時間に「概念」の意味を問われ、誰もろくに答えられぬままに先生が示した解答は、 「個々の事物の共通性を抜き出したもの」といった感じのものでしたが、私はその解答にどうも納得がいきませんでした。

 当時の私が「概念」という言葉に対して抱いていた概念は「言葉とか映像とか音声とかの具体的な情報を精神の認識できる信号に翻訳したもの」といった感じのもので、言わばコンピューターにとってのマシン語のようなものだと捉えておりました。

 後にこれは寧ろ「表象」という言葉の意味するものに近いということが分かり、それとは区別して新たに「概念」という言葉の概念を捉えたような気がします。

 さて問題は、事物の共通性を抽象したものが「概念」なのだとすると、その共通性を認識する為に必要な概念は既に獲得していなければならないのか---ということです。

 例えば「三角形」という概念を獲得する際に「線分が三つで角が三つ」といった共通性を抽象したとすれば、「線分」とか「角」という既知の概念をある論理表現で組み合わせたということになりましょう。

 では、「線分」とか「角」とか「三つ」という概念の獲得が如何になされたかという具合に、ある概念を構成する概念を更に構成する概念をと、どんどん掘り下げていくと、既成の概念の論理的組み合わせとは表現し得ない表象を表す概念の獲得という段階に行き着くのではないかというような気もします。

 といっても人間は胎児のうちから五感がある程度機能しているらしいことを考えると、生まれて初めて目にし耳にするものに対しても、既成の概念の組み合わせとして捉えるやり方がそれなりに行われているのかも知れません。

 それでは、目の見えなかった人が初めて映像を知覚したり耳の聞こえなかった人が初めて音声を知覚した場合には、新しい知覚に対応する概念が形成されないものでしょうか。

 つまり初めて知覚する表象群に対しても、人間はその共通性を抽象する能力を既にハードウェアとして持っているのではないかとも思うのです(例えば直線を見た時にだけ反応する視神経とかがあるんではなかったでしたっけ)。

 となると、既成概念の組み合わせとしては表現し得ない最も低次の構成概念とでも言うべきものは、人間のハードウェアによって規定される知覚項目の数と感情項目の数と論理用語の数の分だけは、一通り獲得可能であるということになっているのではないでしょうか。

 我々の日常生活では、そうした項目を一通り機能させるには十二分な多様性を有している為、物心ついたころには既にハードウェアが持ち得る構成概念の殆ど全てを獲得してしまっていて、後は専らそれらの組み合わせによって新たな概念を構築しさえすればよくなってしまっているとかいうことはないでしょうか。

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機械は「判断」しているか

 それほど重要なことではありませんが、人間の知覚はそもそもアナログなのでしょうか、デジタルなのでしょうか。

 まあ、仮にデジタルにせよ有界な知覚空間内での組み合わせは、ほぼ無限にあり(情報量に制約がなければ本当に無限でしょうが)、その殆どを獲得することは不可能であるとの指摘は正にその通りでしょう。

 私が言わんとしたことは、「線分」とか「角」とかの低次の概念を、成人に達してから初めて獲得するということが殆どない程度には、低次の概念を獲得済みであるということです。

 外国語を習得しようとていて母国語になかった新たな概念を獲得するということはありますが、それらは一般に高次の概念であって「線分」や「角」に相当する低次の概念においては希だと思います(兄弟という言葉は、 日本語や特に雅語では男女の区別はしないで年齢の上下を区別するが、 ヨーロッパ語は男女を区別し年の上下を区別しないとかいうのもありますが。 あと、ある国の言葉には「美しい」という言葉がないとか)。

 こうして「低次の」とか「高次の」とかいう表現を用いだした時点で、私自身「概念」の低次性に境界を設けられぬことを認めてしまっておりますが、確かに全ての概念はそれを規定する定義?の複雑性の程度が違うだけでしかないような気がしてきました。

 更に「線分」であれ「赤」であれ、「外界から入力されるある信号の組み合わせの抽象」という意味で同格のようにも思います。

 それこそ論理思考力が発達しておらずそうした単語すら知らない幼児が、「線分」や「赤」を目にした時に抱いた知覚表象が、既に獲得していたそれらの記憶表象と符合するという過程は「線分」と「赤」において特に差がないようにも思います(その程度の抽象作用を「概念」という言葉で扱うことに問題があるのでしたら、単なる「表象」で構いませんが)。

 私は寧ろ「赤」と「青」の違いの方に興味があります。というのは、物理的には波長の長さの違いといったせいぜい「程度の違い」でしかないものが、我々にはさも独立したベクトルであるかのように「感じ」られるからです。

 そうするとこれは「意識」にとっての知覚の問題です。

 私は機械に対して「音声認識」とか「……検知器」という使い方をするのは擬人法だと思っており、この他にも「知覚」とか「感知」とか「判断」とか「推理」とか「予測」といった意識作用を表す(と少くとも私は考えるところの)言葉を機械に対して使うのにはある種のイズさを感じます(かと言って他に適切な表現方法があるとも思いませんが)。

 それでは機械の「認識」と人間の「認識」との違いは何かと問われると、それは正に「意識」を定義できるかどうかという問題に帰着するのではないでしょうか。

 「我思う故に我あり」の「我思う」ものが「意識」なのだと言ったところで、それは「意識」を有する聞き手自身がそれに「共感」できるだけの話で、「赤」とか「線分」の定義を機械に書き込むようには、「意識」を定義できない訳ですから。

 精神というのはある種の構造物だと私は思うのですが、何故それに意識が伴うのかということは不思議でなりません。

 例えばコンピューターで人間の精神と同程度に高等な人工知能を作ったところで、それに意識が付随する理由は見当たらないし、個人的に想像実験してみる限りでは、現状の人工知能が如何に進歩しても意識が伴うことはないのではないかと私は見積もっています。

 一方、意識の発生に脳が寄与しているのだとすると、脳を有する如何に下等な動物であってもそれなりの意識を有しているのかも知れないという気はします。

 とすると、たとえそれが「快い」「不快だ」の二種類の感覚しか判断できない程度の下等な脳であっても、その「判断」は本来の意味での意識作用としての「判断」であり得るのではないかとも思うのです。

 つまり、回路が複雑になることが意識の発生の原因だとは私は思っておらず、みみず程度の「感覚」を人工的に再現することすら、現状では不可能というか、その機構すら知り得ていないような気がします。

 かと言ってニューサイエンスの類いの神秘主義に走ったところで、 ましてや何も解決しないでしょうが。

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意識は測定できるか

 物理的装置としての脳をニューロンの次元から忠実に再現した人工脳をつくったとして、その人工脳が自分には意識があると主張しだしたとしましょう。

 ところが、我々にはその人工脳が本当に意識を有しているのかどうかを見極める術がないのです。

 というかそれ以前に、我々は人間に意識が付随していることを測定すること自体できていないのです。

 というか、それはひょっとすると不可能かも知れないとすら私は思うのです。

 我々は五感によってある信号に変換された外界を認識している訳ですが、信号というのはそれの表す事象の真偽に拘らず存在し得るものです。

 例えば、夢というのは脳が勝手に作った言わば仮想現実ですが、我々が夢を見ている最中にそれが夢だと分かることは希で、夢を現実だと思い得るばかりか、夢の中の登場人物にも意識が付随していると信じ切って夢を見ているのです。

 となると、この現実も実は極めて精巧な仮想現実なのではないかという不安を否定することすらできなくなってきます。

 仮に万が一にこの世が正にそうした仮想現実だとして、 自然法則の解明というのが、その仮想現実をコンピューター上で 走らせるプログラムの解読に譬えられるとすると、 果たして「意識」というのも解読可能なプログラムでしかないのか、あるいはハードウェアに依存するもので仮想現実の中の登場人物には再現不可能なものだといったことはあり得ないかなどと考えてしまったりするのです。

 勿論、これは単なる譬えであり宇宙がどのような構造になっているのかは皆目見当がつきませんが、量子力学の観測問題のようなものもあることを考えると、宇宙にはある構造上の事情があり、その構造上の事情によって我々の観測能力が規定され、観測可能な情報だけではその「構造上の事情」の原因を説明することはできないといった事情があったりするのではないかと感じているのですが如何なものでしょうか*。

* 1999/2/26
 私は量子力学のことは分からないが、そのためもあり、 「シュレーデンガーの猫」に対する「コペンハーゲン解釈」とかは、 どうもよく分からない「ヘン」な話だと思っていたが、最近、 和田純夫『20世紀の自然革命』(朝日新聞社) や和田純夫『量子力学が語る世界像』(講談社、BLUE BACKS) などを読んで、 「多世界解釈」というのは、かなり「スッキリ」した「解釈」だと 思った。が、この「多世界」というのが例えば、作業領域上の架空の存在などでは なくて、実在するのだとすると、それがどこに存在するのかというのが、 改めて不思議になる。関係する話題は 追記で触れる。

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機械の「判断」と生物の「判断」

 そもそも私は、この一連の議論に共通の目的があるとも思っておりませんでしたので、**さんに建設的ではない等と仰られても当惑してしまいます。

 恐らく我々は(自分の専門がこの手の問題に関連しているにせよいないにせよ)、××さんの仰るような「そうなる理由が簡単にわかること」を、本能的に(必ずしも「技術の進歩のため」とか「仕事上」とは別に)知りたがっているだけのような気がします。

 「科学」というのは、寧ろ我々が「簡単に理解する」ための手段であり、言わば「自然法則を論理的に推測したもの/すること」だと私は考えております。

 更には、「論理的説明付け」すら「簡単に理解する」ための手段だと私は考えております。

 勿論それ以外に「簡単に理解する」方法がないという保証がある訳ではありませんが、経験上、「論理的説明付け」が物事を「簡単に理解する」最も適切な方法だと「信じて」いるのです。

 尤も私も、斯く天下り的に採用した論理的説明付けにおいて、「信じる」ということは「ある特定の可能性以外の可能性を否定することである」との懐疑の上、もう一度自分の設けている仮定の部分を考察し直してはみたのです。

 つまり、「AはA以外のものではない」という程度のことを「正しい」と「理解する」論理思考回路が既に誤っている可能性を、その回路自体に判断することはできないのではないかとか、思考は記憶を媒介にしている以上、信号である記憶の真偽の判定の不可能を克服することはできないとか、 そんなことまで考えていくと、 畢竟、論理的説明付けというのも別に絶対的な方法という訳ではなくせいぜい説得性が高いとか自然法則の推測に有効だという程度のことでしかないという 見方もできるかも知れません (但し、それに代る、より説得性のある説明付けがあるとは、まるで 思いませんが)。

 だから私が今、自分の戦略として論理的説明付けを用いるのは、現実を場合分けして、取り敢えずそれが適用できる方の場合に対する戦略である論理的説明付けを用いておくことに多大な益があるからであり、「そうしないと議論が進展しないから」という立場とは微妙に違うような気もします。

 つまり、例の如くあまり好ましい例ではありませんが、将来「天から神が降りてきて、実は天地創造の類が譬え話ではなくあのまま真実で、ある種の宗教で思い描いているような神様がそのまま宇宙を支配する絶対の法則で、それがそうなっていることには原因がない」などという私にとってはまるで理解し得ないことを、 「理解」しなければその後の日常生活に支障を来すような事態にでもなれば、私は自分の論理思考回路自体が現実を理解する手段として使えない方の場合に遭遇したのだと捉えるかも知れません。

(尤もこれは、「未知の者が舞い降りてきて奇跡を起こす」程度のことでは別に論理的理解/科学的解釈に難いことではないので、譬え話を思い付くことすら難しいほどに想像を絶する体験をする必要があるでしょうが。 それですら幻覚を見ているのだと納得してしまいそうですが、念の為。)

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、「他人の意識が仮想現実でしかない」方の場合をも考察することは、「意識とは何か」を論理的に説明しようとする上でもまんざら非建設的でもないような気がします。

 そのモデル化を採用したがために、自分自身に意識が伴う理由が理解できたということだってあるかも知れません。そうした飛躍的な展開は期待できないにしても、

 例えば仮想現実の一つの類推として、夢を見ている一人の人間とその中の登場人物の関係を考えてみましょう。夢の中の登場人物は、夢を見ている本人の働きかけに対して正に意識があるかのように反応する訳ですが、これはある意味で人間の脳内に、自分の意識の働きかけに対して他人の意識と同等に反応する回路がシュミレートされていることになると思います。

 私自身の想像実験ではこうした夢の中にシュミレートされた他人の精神には意識が伴っていないような気がするのですが、機械でも人間の精神回路をある精度で忠実にシュミレートしさえすれば意識が付随するに違いないと考える方々は、夢の中の登場人物にも意識は伴っているとお考えでしょうか。

 あるいは、意識が伴うのは人間の構造を忠実にシュミレートしなければ駄目で、見掛け上の反応が等価になるように人間の働きかけの全てに自然に反応するだけのデータベースと検索機構を備えたロボットなどには意識は伴わず、夢の中の登場人物にしてもその手の見掛け上の等価回路でしかないと考えるのでしょうか。

 それこそ、可能性は複数あってどれか一つだけを信じる必要性などないとは思いますが、もし「機械でも意識は伴うに違いない」と考えることに想像実験上の感覚的/感情的側面があれば、こうした譬え話でその部分がひょっとして抽象されはしないかという期待もあります。

 例えば私が、「機械でシュミレートした精神には意識が伴わない」と考える想像実験上の感覚的/感情的側面は前にもある程度書きましたが以下のようなことです。     

 1と1を入力されたときのみ1を出力し、それ以外では0を出力するといったアンドゲート程度の比較的簡単な電気回路に対して「1と1が入力されたことを判断する」といった表現を擬人的に用いることはあるが、その仕組みはある程度明解であり、別に意識が伴っているとは考えられない。

 では、そうした単純な回路を組み合わせて、 外界の刺激に対して全く人間と等価に反応するような回路になったら意識が伴うと考えられるかというと、 その回路の複雑性に境界線を引く基準は見当たらないので、やはり複雑になっても意識は伴わないだろうというのが一つの側面で、もう一つは、

 人間には意識がある、犬や猫にもあるようだ、精神の発生に脳が必要だとすれば、意識が伴う脳の高等性に境界線を引く基準は見当たらないので、脳を持つ生物であれば、かなり下等な生物でもそれなりの意識が伴っているのではないか、 しかし、ミミズ(には脳はありませんでしたっけ?)の外界の刺激に対する判断能力をある面で遥かに越える高等な機械を人間は既に作っているのではないか(そうでもないのですか?)、しかし私にはそうした日常的な機械(コンピューターであれ電化製品であれ)に意識が伴っているとは思えない、という側面です。

 つまり、アンドゲートにおける「1と1か」とか「1と1でないか」の「判断」と、ミミズにおける「熱い」とか「痛い」の「判断」とでは何か本質的に異なるのではないかというのが、私が概ね感じていることです。

 (どうも言いたいことが多くて話がまとまりにくいですが、取り敢えずはこんなところで...)

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幽霊は存在するか

>「意識の発生は生物の進化にともなう必然的なものか、偶然的なものか?」

という問題については、私の場合「幽霊はいるか」について考えているときにぶつかりました。

 私の雑記帳?からそのまま転載しますが、

 我々がなにげなく想像している幽霊は、思考能力や知覚能力を備えていて、死ぬ直前までの意識を継続することになっている。
 仮にそういう幽霊がいるとすると、一体如何なる仕組みで思考や知覚を為し得るのか。
 例えば、幽霊が生前の人間の物理的構造をそのまま未知の物質で再生した相似形で、それ故に生前の人間と同じ活動が可能なのだとすると、人間が生命機能を停止した時点でその相似形である幽霊も死ななければおかしい。
 ということは、幽霊は独自の思考能力や知覚能力を備えていなければならない。
 では、人間の死後、幽霊が思考や知覚を受け継げるとすると、何故生前の人間は思考の為の脳や知覚の為の感覚器を必要とするのか。
 つまり、もし死後幽霊になるところの霊魂という思考能力を持つものを生前の人間が既に持っているとすれば、何故我々の思考は脳を必要とするのか。
 そもそも、脳とは個体が生存に適すべき行動を判断する必要性から進化してきたのであって、そういう意味では生物学的機能においては意識を伴う必要性などないのだ。
 つまり、ただ感覚器から送られてくる信号が生存に適すことを意味するのか否かを機械的に判断しさえすればいいのであり、それらの信号を「快い」と「感じる」必要もなければ「不快だ」と「感じる」必要もない。
 では意識とは、生物学的必要性から進化した脳の偶然の副産物なのだろうか。
 しかし、コンピュータで脳の等価回路を作ったとしても、それに意識が付随するとも思えない。
 一般に、この世の如何なる不可解な現象も、それを生じさせそうな適当な物理的因果を想像することによって、その不可解さを合理化してそれなりに納得できるものだ。
 例えば、テレビに映像が映ることを不思議に思う人はいないが、それはテレビの物理的構造を理解しているからではなく、テレビの中の訳の分からぬ機械の塊が電波に変換された映像の信号を受信してそれを映像に変換しているのだろうなどと勝手に想像することによって納得しているに過ぎないのだ。
 だのに、「意識」の発生理由についてはこういうふうに納得がいかない。
 何故cogito「我思う」のか? その原因になりそうなことを想像することすらできないのだ。
 だから、「意識」には何か脳髄以外のもの(例えば霊魂とか)が関与しているのではないかと考えたくもなるのであろう。
 まあ、仮に万が一にそうだとしても霊魂に物理的原因がなくてもいいことにはならない。
 百歩譲って、既存の物理法則が全く通用しない系にその原因が潜んでいたとしても、その系の現象を記述できる理論体系が見つかった時点で、物理的解析が可能になる訳だし、それを物理と呼べない事情が出てきたとしても、少なくとも原因がなくていいということには決してならない。

 どちらかというとこの文章の趣旨は、「霊魂の存在とか意識の不可知性が科学や因果律の破綻を招くことにはならない」ということにあったような気もしますが、それなりに関係する主題なので場違いでもないでしょう。

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機械に意識が伴うとしたら

 意識のある状態/ない状態に関してはまた後で述べたいと思いますが、取り敢えずは機械と生物の比較の件について述べます(というか、その辺までしか読んでいない時点で書いたことですので、掲示が長くならないうちに出してしまいたいもので)

 確かに細胞の次元まで(それで不十分ならもっと細かい要素に)還元していけば、人間も単純な回路の複合体でしかないとは思います。

 そうした回路の複合体である人間に現に意識が伴っている以上、単純な物理回路の複合体として人間をモデル化した機械にも意識が伴うに違いないという論法も分かりますし、それはそれで一つの可能性としては認めています。

 というからにはそれ以外の(例えば現状の機械と生物との間に何か決定的な差異が存在するといった)可能性を私は考えていたのですが、ひょっとするとそれは私の「機械」の定義が狭いせいかも知れませんので、これからは生物と機械の区別をしなくて済むように「仕組み」という言葉を使います。

 つまり、人間は意識を伴う仕組みを持っている。しかし、人間がその仕組みを再現できるか理解できるかは不明であるというのが私の言わんとすることです。

 というのは、私には意識の仕組みが++さんの仰る「情報処理能力の総体」とは思い難いからで、何故そう思い難いのかと問われれば、私の想像力の乏しさのせいかも知れませんし、「簡単に想像」できないことは本質的な仕組みではない場合が多いと思っているせいなのかも知れません。

 例えば、私はコンピューターの仕組みは分かりませんが、アンドゲートやオアゲートやノットゲートの複合体としてそれが構築されていることを想像することは難しいことではありませんし、更には見掛け上人間と区別なく行動するアンドロイドの仕組みすら想像に難くないと思います。

 ところが、「そういうふうには」意識の仕組みを想像することすら私にはできないのに、細胞やニューロンの次元に人間を要素還元してモデル化した程度で、意識の仕組みをテレビや車の仕組みを想像するように想像できる人もいるとすれば(誰もそんなことは言っていませんでしたっけ)感覚の違いとしか言いようがないでしょう。

 尤も、テレビや車の仕組みは想像に難くないとは言っても、それは個人的感覚の程度問題に過ぎず、例えばミクロな領域での素粒子の挙動とか何故空間が存在するのかといった「仕組み」については結局不可知な訳であり、どんな「仕組み」を想像するにも既に不可知な自然法則を黙認しているものです。

 となると、「意識の仕組み」も実は不可知な自然法則の方に組み入れられるべきもので、既知の自然法則の組み合わせからは説明できないものかも知れないとも思うのです(前にも似た意味のことは言いましたが)。

 そうすると、表現上は「情報処理能力の総体」が意識の仕組みだと言うこともできるかも知れません。

 例えば、「物質で構成される組織にはその複雑性に応じた意識が付随する」といった自然法則があったとして、「風が吹いて埃が舞う」といった程度の自然現象にも実はそれなりの意識があり、人間程度に複雑な組織になるとその意識を自覚できるようになり、それらの間には程度の差しかない....といった可能性もなきにしもあらずです(なんだかアニミズムになってしまった)。

 しかしその場合は、意識は明らかに測定不能な自然法則だから、世の中がそうなっていたとしても、その証明自体ができないような気がします。

 となると遠い将来、極めて人間的な「仕組み」を持った人造人間が横行するようになったとしても、畢竟は意識論争に決着はつかないだろうという気がします。

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「眠ること」と「死ぬこと」は同値では?

 今は雑用が多くてこの速度で掲示を読み書きするのは極めて至難の業なので、時々ピントが外れているかも知れませんがご了承下さい。

 意識のある状態/ない状態に関係することで、私がだいぶ前に書いていた雑記*をそのまま転載します、

* この「雑記」とは、以前に書いていた小説 「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」 の中の一章 第三話「明日の『わたし』の為に」 のことである。

 わたしは幼稚園に行っていた頃、夜眠るのがとても怖かった。
 毎晩、真っ暗な部屋の中たった一人で怖いのを我慢しながら意識がなくなるまで待っていなければならなかった。
 そんなわたしを怖がらせようと、姉はわたしの寝る前によく怖い話をして聞かせたものだ。
「朝、目ぇ覚ますど、眠ってだ時の記憶ねえのなんでだが分がっか。実はな、夜になっと鬼やってきてHMHKば食べでしまうんだ。その時HMHKはうんと怖ぇど思いながら食べらいでしまうんだげっと、次の日の朝になっと新しいHMHKが用意さいでで前の夜の記憶は消さいでんだ。んだがら、朝、目ぇ覚ましてもHMHKは前の日の夜のごどば何も思い出せねんだ」
「んでも、ぼくきのうの夜ずっと起きてだげっと、鬼なんか出で来ながったよ」
「んで、朝まで眠んねがったのが」
「んーん、眠ったげっと」
「ほれな、んだべ。やっぱり、鬼に食べらいで記憶ば消さいだがら眠ったど思うんだ」
 姉にこんな話ばかり聞かされたわたしは、今鬼が出るか今鬼が出るかと毎晩脅えていたものだ。
 しかし最近になって、あの頃の姉の話は実はなかなか真実味のある譬え話のように思えてきた。
 我々は一旦眠ってしまえば、夢を見ようが見まいが少なくとも一回以上は必ず意識が中断する。
 翌朝中断していた意識が再開されれば、一見意識は継続しているようにも思えるが、次のような思考実験をしてみると恐るべきことに気付かざるを得ない。
 まず、両者に特に相互作用がないほど十分遠いところにこの地球とすっかり同じもう一つの地球があったとして、その地球にこの「わたし」とすっかり同じもう一人の「わたし」がいたとする。
 
 夜、わたしが眠って意識が中断した時点でこの「わたし」を殺す。でももう一人のわたし方は生き残って翌朝には目を覚まして、この「わたし」が生きていればしただろうこととすっかり同じことをする。
 この場合、この「わたし」の意識は継続していることになるだろうか。否、ならない。何故なら、もう一人のわたしがいようがいまいが元々相互作用のないところの「わたし」には最初から関係がないからだ。
 では、次の思考実験をする。わたしが眠って意識が中断した時点でわたしを殺し、わたしとすっかり同じ構造および記憶を持った人間を作り、その人間が翌朝 目を覚ました時わたしが生きていればしただろうこととすっかり同じことをするようにしておく。
 この場合、わたしの意識は継続していることになるだろうか。否、ならない。これはわたしを殺した後、先の思考実験におけるもう一人の「わたし」を連れてきたのと同値だ。
 では、この思考実験における状況とわたしが眠って目を覚ますという状況との間に如何なる差異があろうか。
 わたしが眠って翌朝目を覚ます際に意識を生じさせるのは、脳の構造だ。
 
 だから、その構造を、「わたし」と同じ意識を生じさせ得るほどの精度で完璧に複製した「わたし」のクローンを作って、殺した「わたし」の代わりに置き換えておいても、わたしが眠って翌朝目を覚ますのと何等違わないのではないか。
 つまり、一旦わたしの意識が中断したした後で如何なる現象が起きようと、死んでしまったわたしには全く関係がないのだ。
 つまり、眠って意識が中断した時点でわたしは死んだのだ。つまり、わたしは毎日死んでいるのだ。今の「わたし」と昨日の「わたし」とは別人なのだ。
 この「わたし」は今朝 目が覚めた時に昨日までの「わたし」の記憶を譲与されて発生し、日中 活動しながら譲与された記憶に更に新たな記憶を付加し、今夜 眠って意識が中断した時点で死ぬのだ。
 そしてこの「わたし」が付加した記憶は明日の朝 発生するだろう意識に譲与されるが、その意識はこの「わたし」の継続ではなく言わば全くの別人なのだ。
 我々は斯く蓄積された記憶を譲与されることによって然も長い歳月を生きてきたように錯覚しているが、実はそれは間違いなのだ。
 
 我々が生まれたのは我々が眠りから目覚めた時であり、死ぬのは我々が眠りについた時だ。
 つまり我々にとって「眠ること」と「死ぬこと」は同値なのだ。
 だから、「死ぬこと」を恐れながら「眠ること」が好きだなどというのは甚だしい矛盾なのだ。
 わざわざ自殺などするまでのこともない。眠ってしまえば苦しむのはこの「わたし」ではなくて、明日 生まれるだろう別人なのだ。
 では、わたしは今夜眠った時点で殺されるとしてもそれに何等の抵抗も感じないだろうか。
 否、感じないどころではなく明らかに拒むだろう。では何が拒ませるのか。譲与された記憶による誤謬のみがだろうか。
 前述の論理に何処か「落ち」はないだろうか。
 眠って意識が中断しても無意識は継続しているとしたらどうか(尤もフロイト型の無意識の存在は否定されているが)。
 では「無意識」とは何か。
 今わたしの考えている「無意識」とは、意識を生じさせる脳などの構造物の作動のうち、「意識」という「覚醒状態の認識現象」以外の作動のことだ。
 つまり、その構造物の主電源の入切によりその作動の一つである「意識」が発生・消滅しているのであれば前述の思考実験は成立するであろうが、その構造物内に作動の一つである「意識」だけを入切するスイッチがあってその構造物の作動は常に継続しているのであっても前述の思考実験が果して成立するかどうかだ。
 畢竟、この議論は「意識」が如何にして生ずるのかという例の問題に帰着する。この問題は今まで何度となく思索してみたが、未だその緒すら掴めていない。よってこの件に関してはいずれまた懐疑することにして、取り敢えず今日はもう寝よう。

 昔と今とで必ずしも用語の用法等が一致していないかも知れませんがご了承下さい。

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クローンでも冷凍保存でも「死んだ」のと同値

 取り敢えず、同一の構造を有す複数の(時間的空間的に)意識同志の自我同一性に関する問題提起と受け取りました。

 クローン人間の譬えで私が言わんとしたことは、意識というものは一旦中断してしまえばもはや再現不可能な代物で、意識の継続こそが意識の同一性の必要条件になるのではないかということです。

 例えば、SFによく出てくるネタで、「自分が死んでもその後にクローンをつくって生き返ればよい」とか「今の医学で直せない病気を持った人が医学の進歩を冷凍保存されて待つ」といった、意識が恐らく「主電源」の次元で中断されてから復活されるというものが多々ありますが、これらの場合、実は本人の意識は継続していることにはならない(本人にとっては死んだのと同じことだ)と私は思います。

 勿論、その周囲の人間にとっては生き返ったのと同値になるでしょうが。

 では、私の意識と同じ構造の意識をもう一つ作ったらどうなるかということですが、それは私の意識の継続ではありませんから、たとえ同一の記憶と思考回路を備えていても私にとっては別の意識でしかあり得ないでしょう(周囲の人にとっては同値でしょうが)。

 更に、朝起きたら自分が二人いたという方法を用いれば、自分が原物かクローンかを分からないようにすることは可能です。

 本人たちに区別できなくても、二種類の意識---「過去から継続中の意識」と「新たに発生した意識」は各々に固有な意識であると私は思います(「同一の構造を有す意識回路が複数存在しても発生する意識は一つになる」といった自然法則でもない限りは)。

 つまり、地球が二つあってその両方に同じ構造の人間がいたら、(両者に共通の意識が一つだけ発生している訳ではなくて、)各々に固有の意識が二つ発生しているのだとして、その両者を何処かで対面させたとしても、二つの意識は各々に固有であり続けるだろうという考え方です。

 一連の意識関係の話とは無関係に、もし自分の複製ーが現れたらどう思うかとう話であれば、それは想像実験のみではなんとも言えません。

 私は今までの人生で自分と似ていると自分で思える人には未だ出会ったことがありませんし、その自分とはおよそ似ていない人々の中で低い相関なりに自分と似ている人ほど自分には付き合いやすい人だと感じています。

 しかし、果たしてその極限が自分の複製ということになるかどうかは疑問です。「低い相関なりに」というところが味噌なのだと思います。

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追記(1999/2/26,28)
死後の恐怖の合理化、ホールデーンの慰め、量子力学の多世界解釈

 以上は私が 1994 年頃に抱いていた考えらしい?  当時の私は、「自我感が生じる機構を想像すらできない」 ということを根拠に、「意識=機械」とすることに、どうも抵抗を 抱いていたようだが、 田口さんの 「意識と無意識の間〜脳型計算機への挑戦〜」 とかを見ると、意識が機械的な「仕組み」で発生する機構が、 もう少しで見えそうなところまできているような気がしてきた。 更に、カール セーガン『はるかな記憶』(朝日文庫) 上巻「9 薄い壁」の章とかを読んで、「意識=機械」であることが、 だいぶ想像しやすくなった。

 さて、「意識=機械」ということを確信するようになってくると、 ますます「死後は意識が消滅する」ということを今更ながら確信するようになる。 勿論、私だって「死後に意識が消滅してしまう」のは、とてもイヤだし怖いし、 死後も幽霊とかになって意識が継続するのだったらいいのにと願ってはいる。 しかし、どんなに死後の意識の消滅を恐怖し、どんなに霊魂の不滅を願望していても、 「まず死んだら無になり霊魂などというものは残らない」 ということは、実に明晰に明瞭に理解し納得できている。

 多くの宗教が説いている「死んでも霊魂は不滅だ」とか、ひどいのでは 「悔い改めた者の魂だけが天国へ行く」 の類いの(私にとっては何の説得性もない)話は、 全くの虚構だと私は理解しているし、私にとっては虚構であることが あまりに見え透いた話だけに、私は何の「慰め」も見出だすことはできない (勿論、そういう話で十分な「慰め」を得ている人を私は非難しないし、 むしろ羨ましく/微笑ましく思う。死を間近に控えた老人が、宗教の説く死後を 信じて安らかに死を迎え入れようとしているならば、 当然、私はそれをそっとしておいてやりたいと思う。 宗教の説く死後を信じられるような人は、そう簡単に懐疑精神に目覚めたりはしない 敬虔な信者の筈だから、 この頁を読んだせいで宗教の説く死後が信じられなくなったなどということには、 まさかならないだろう)。

 さて、どうやら「死んだら無になる」のだということを、確信とは 言えないまでも、私は 幼少期に「悟った」訳だが、 私は私なりに様々な「慰め」を考えたものだ。 小学校高学年頃であろうか、例えば私はこういう「慰め」を考えた。 私が死んで私が消滅しても、遠い将来、科学が進歩して、誰かが 私を無から再生してくれるかも知れない。 時間は無限だから、そういうことは「きっと」起きるに違いない。 尤も、これは、 「『眠ること』と『死ぬこと』は同値では?」 「 クローンでも冷凍保存でも『死んだ』のと同値」 に書いたように、一旦 死んで「無」になってしまった以上、 たとえ未来に、どんなに正確に自分が再生されたとしても、 それは厳密な意味では同一の意識が継続したことにはならない (つまり生き返ったことにはならない)という問題は、ここでは ひとまず棚に挙げておくことにする。

  ところで、 こんなことは恐らく誰もが一度は考えるようなことなのだろうが、 これを更に「楽観的に」した考えに「ホールデーンの慰め」というのがあるようだ。 カール セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社)から引用しよう。

ホールデーンは、遠い未来の宇宙をイメージしてみた。その宇宙では、星の光も すでに弱まり冷たくて希薄なガスだけが広がっている。それでも十分に長い時間 待てば、希薄なガスの密度に統計的なゆらぎが生じる。途方もなく長い時間が経てば、 そんなゆらぎから、われわれの宇宙と同じようなものを再構成することもできる だろう。そして、もしも宇宙の年齢が無限大ならば、そのような再構成もまた 無限回起こるはずだ、というのがホールデーンの指摘である。
 つまり、銀河や星や惑星、そして生命さえもが無数に存在する年齢無限大の 宇宙では、地球とまったく同じ惑星が必ず登場するはずであり、そこでは あなたと家族のメンバーが全員そろうのである。 私は両親に再会し、両親に孫たちを紹介することができるだろう。しかも それが一度ではなく、無限回起こるというのだ。
 しかしこれだけでは、宗教が与えてくれるような慰めにはならない。少なくとも 私の気持ちとしては「今回」起こったこと(読者と私が共有している今回の 宇宙での出来事)の記憶が失われてしまうのなら、肉体が復活したところで 少しも嬉しくはないからだ。
 しかしこんな言い分は、無限大ということのすごさを見くびった発想である。 ホールデーンによれば、われわれの脳が無数の「過去」をすべて覚えているような 世界が存在するという。それどころか、そんな世界が無数に存在するというのだ。 なるほど、これならば気持の上でも満足できそうだ——

『カール・セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社)二〇六頁〜

 しかし、この同じ考えを「悲観的に」応用することも可能で、 当然、次のようなセーガンの考えも成り立つ訳である。

しかし、私が今回経験したのとは比較にならないほどの悲劇や恐怖に見舞われる ような宇宙も存在するかと思うと(それも一度ではなく無限回だ)、 満足だなどと言ってはおれない気もするけれど。
 ともあれ「ホールデーンの慰め」が得られるかどうかは、われわれが今 生きている宇宙がどんなタイプかにかかっている。おそらく、宇宙の膨張が いずれ収縮に転じるだけの物質が存在するかどうかや、真空のゆらぎの性質など の問題になるだろう。してみれば、死後の命を心の底から望んでいる人たちは、 宇宙論や量子重力、素粒子物理学や超限数の数学などに打ち込んでもよさそうな ものだが、どうやらそうではないらしい。

前掲書、二〇七頁

 つまり、冷静に考える限り、どうやら この「ホールデーンの慰め」 も大した「慰め」にはならない代物である。ところで、 「意識は測定できるか」 のところでもちょっと触れた量子力学の「多世界解釈」は、 「ホールデーンの慰め」とちょっと似ている、というか「ホールデーンの慰め」 の修正版を提供しそうである。 大雑把な話をすると (というか私が理解していないだけの話だが)、 「多世界解釈」によると、 この世界は、あらゆる瞬間にあらゆる場面で、 この世界と「干渉」を起こさない程度に十分にこの世界と「違っている」 世界へと無数に分裂しているらしい。 つまり、 更に大雑把な話をすると、どうやらこの世界と様々な程度において異なっている 無数の世界が存在しているらしい (「らしい」と書くのは「多世界解釈」というのは、飽くまで「解釈」 であって、たぶん反証できるような対象ではないから。 というより、私が量子力学を理解してないから)*

そうなると、自分が死んでしまっても、 「ホールデーンの慰め」のように果てしない未来まで待たなくても、 「別の世界」では自分は生きているかも知れないのである。 但し、これらの「無数の世界」には「ホールデーンの慰め」のような 「無数の可能性」が割と「均等に」分布している訳ではなくて、 「ある確率密度」でばらついているということになるらしい。 つまり、たぶん「この世界」と似たような世界がいっぱい分布していて、 「この世界」と極端に違う世界ほど希にしか「分布」しないという ことだろうか。

 さて、私は 「意識は測定できるか」のところで、「 この『多世界』というのが例えば、作業領域上の架空の存在などでは なくて、実在するのだとすると、それがどこに存在するのかというのが、 改めて不思議になる」 と書いたが、「多世界解釈」を受け入れようとすると、私にはもう一つ 「不思議になること」がある。 それは、「意識の継続性」の問題である。 私は、 「『眠ること』と『死ぬこと』は同値では?」 「 クローンでも冷凍保存でも『死んだ』のと同値」 のところで、「同じ意識であるためには、意識が継続していることが 必要である。だからクローン再生や冷凍保存しても生き返ったことには ならない」という趣旨のことを書いた。 さて、「多世界解釈」を受け入れるならば、「意識」も 無数に分裂していることになる。「意識の継続性が意識の同一性を保証する」 という態度を貫くなら、無数に分裂した意識は全て「違う」意識と解釈せざるを 得ない。 「現在の自分」が過去に無数に分裂を続けてきた「自分」の「一人」であって、 未来にも無数に分裂していくとしても、 ある「一人の」「現在の自分」にとっては、 過去は一つしかない。 同じ過去を共有している無数の「現在の自分」がいるとしても、 「現在の自分」の一人一人は、それぞれ一つずつの過去を持っている。 つまり、無数人いる「現在の自分」一人一人の意識は、それぞれ過去から 継続しており、無数人いる「現在の自分」はそれぞれ別個の「意識」を 持っている、即ち「別人」であると解釈される。 そうすると、「多世界解釈」も「死後の意識の消滅」に対しては、 大した「慰め」にはなってくれないようである。

 ところで、「意識=機械」であるということを確信することは、 「死後に意識が消滅する」という確信をより強固なものにはするけれども (だから、この件については潔く諦めるとしても)、 他方では、「意識の継続性が意識の同一性」という考えを揺るがしてくれ るのではないかという期待?もできそうな気がしてきた。 というか私は今でも、 「『眠ること』と『死ぬこと』は同値では?」 「 クローンでも冷凍保存でも『死んだ』のと同値」 に書いたように、 「意識の継続性」を厳格に掘り下げていくならば、「眠ること」と 「死ぬこと」が同値であるくらいには、更には「冷凍保存」や「クローン再生」 しても「生き返ったことにはならない」程度には、 「わたし」という「意識」または「自我感」 の「同一性」や「継続性」が、別に確固としたものでもなければ 絶対的なものでもなく、 あやふやで、場当たり的で、たまたま「今の自分」が手にしている「記憶」 のお陰で辛うじて、その「同一性」や「継続性」が確固とした絶対的なもので あるかのように思い込んでいるに過ぎないのではないかという気がしている。 だから、その程度の「あやふやで」「場当たり的な」意識の「同一性」や 「継続性」でいいのなら、 「意識=機械」である方が、少ない制約でそれを保証したり再現したり してくれそうな気はする (それで私が満足していいのかどうかは、よく分からない)。

 例えば、 この世界が巨大な電算機上で実行されている高度な「ライフゲーム」 (例えば、 この頁参照)のプログラムみたいなものだとして、 複数の電算機上で同じ初期条件で同じライフゲームを走らせているとする。 私は、その中の一つの電算機上で走っているライフゲームの中に 発生した意識だとする。今、この「私」が発生している電算機の主電源を 誰かが切断してしまったとしても、他の電算機上に発生していた 「私と同じ動作をする意識」が存続しているのなら、 別に構わない?のかも知れない。 主電源が切れる瞬間/過程にプログラム動作に異常が発生し、 私が、他の電算機上に発生している「私と同じ動作をする意識」と異なる 動作を一瞬でも蓄積してしまったら、その「私」はやはり消滅したのかも知れない。

 事故でライフゲームが中断しても、事故が発生した時点を初期条件として ライフゲームを再開すれば、私も「再開」されるのかも知れない。 仮にそう考えてもいい?のだとすると、「ホールデーンの慰め」 のような「果てしない未来における再生」 も、あるいは全くの無意味ではないのかも知れない。 また、 意識に於いて僅かに「わたし」だとか殆ど「わたし」だなどということが 仮にあるのだとするなら、 「多世界解釈」における別の世界の「微妙に違う」 「わたし」も、「少しは」「わたし」 だと解釈することもできるのかも知れない。 その辺のことは、 よく分からないし、私自身の解釈もまだまだ揺れている。 数年後にはまた別の解釈をしているかも知れない。 いずれにせよ、それほど魅力的な「慰め」などないのだろう ということだけが確かである。 だから?私は、「この」私の意識が継続してくれているうちに、 「ささやかなしあわせ?」を掴みたい??  それを最優先課題としなければならないことを、 死後の世界や神の愛を信じている人などよりも切実に痛感しているのだが、 そうそう うまくはいかないものである。 そっちの方が私には果てしなく恐怖である?????

 ひょっとして、 ささやかなしあわせ?を手にした暁には、 「意識の消滅」がそれほど怖くはなくなるのかも知れないし、 あるいは全然 そうはならなかったと幻滅するのかも知れない。 前者に期待するのは今の私にとっては、別の意味での一つの 「慰め」ではある?????  その「最低限の幻滅」??すら経験できないうちに私の意識が消滅してしまう 可能性を想像すると果てしなく恐ろしい…………

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覚え書き(追記):

オメガ・ポイント理論

 「オメガ・ポイント理論」という「慰め」もあるらしい。 これもまあ、「ホールデーンの慰め」の変種なのだが、簡単に言うと、 遠い将来、巨大なスーパーコンピューターの中の仮想現実の世界の中に、 「この世」が再構築されるというようなお話。 これが大した「慰め」にならないことについては、 「ホールデーンの慰め」と同じなので割愛。 オメガーポイント理論についてはマイクル シャーマー 『なぜ人はニセ科学を信じるのか』(早川書房)。

エレガントな宇宙(超ひも理論)を読んで

2002年頃、ブライアン グリーン著 「エレガントな宇宙—超ひも理論がすべてを解明する」 (草思社)を読んだのだが、これはすごく面白い。 推理小説を読むように、ワクワクしながら読み進んだ。 実際にはなんとも難解な数学を駆使して構築されている超ひも理論の最近の 進展について、 そんな高等な数学の知識のない人でも、様々な面白い 事情が想像できるように、実に巧みな譬えを駆使して分かりやすく 解説されている。おかげで、 3次元よりも多い空間次元の意味 (と、なぜ3次元までしか認識されないのかという事情)とかも、 だいぶ想像できるようになった。 実際に超ひも理論を研究している著者たちは、 (私とかが内容が分からないながらも、 なんか分かったようなつもりになって、 感じているワクワクなんかとは比べものにならないほど) どんなにか、日々 興奮しながら研究を進めていることだろう。 それはともかく、ふと思ったのは、超ひも理論が完成した暁に、 量子力学を超ひも理論の特殊な場合として説明できるようになったとして、 「観測問題」はどういうことになるのだろうか。 あるいは、現時点での見通しとして、 超ひも理論から「観測問題」を説明しようとすると、 どういうことになるのだろうか (あるいは、こういう疑問自体がピント外れだろうか)。 ときどき、 「 超ひも理論 量子力学 観測問題 」 とかの鍵語で検索しているのだが、 その辺を話題にしているやつがどうも見つからない。 トンデモ系も多いかも。

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「中国語の部屋」に発生する意識
山本弘『神は沈黙せず』を読んで (04/1/30、04/2/1更新

 山本弘 『神は沈黙せず』(角川書店) を読んでみたが、 なかなか面白かった。 「もし、神が人間とその周囲の世界を創ったというのが本当だとしたら、 幾多の不条理な悲劇や殺戮行為を生じさせている神の意図は何か」 ということが一つの主題になっていて、 仮想現実の中の登場人物とか人工知能に意識は伴うかという話題も出てくる。 その中で紹介されている「中国語の部屋」の譬え(に対する反論)は、 知性を機能させる実体が脳味噌だろうと半導体だろうと紙だろうと 等価なシステムになり得るということを分かりやすく説得してくれる (p.166-177辺り)。

「中国語の部屋」という譬えは、サールという人が1980年に発表した 「心・脳・プログラム」という論文の中で提唱されているものだそうで (どこまでが事実でどこまでが物語上の創作なのかは確認してないが)、 簡単に説明すると、こんな感じ。

部屋の中に中国語が読めない(けど英語は読める)人が閉じこめられている。 部屋には、中国語の文字の組み合わせを、 ある規則に従って他の文字の組み合わせに変換するための(英語の) マニュアルが置かれている(マニュアルには文字の意味については 一切 書かれていない)。 部屋の外から、部屋の中に中国語で書かれた質問が入れられる。 部屋の中の人は、マニュアルに従って、 その質問の文字列を別の文字列に変換して部屋の外に出す。 部屋の中の人は、マニュアルに従って、ただ機械的に操作しているだけで、 文字列の意味はまるで理解していない。 しかし、部屋の外にいる中国語の分かる人にとっては、 中国語の質問に対する適切な回答が中国語で返ってくるので、 部屋の中の人が中国語を理解しているように思えてしまう。

つまり、この譬えでサールが言わんとしたことは、人工知能がどんなに 質問に適切に答えたとしても、それは人工知能が知性を持っている ことの証明にはならないということなんだけど、 これに対してダグラス ホフスタッターという人が 次のような意味の反論をしたそうだ。

中国語の質問に中国語で回答するようなプログラムは、 そんな数枚の紙に書けるようなものにはならない。 実際にはとてつもなく分厚いマニュアルになって、 作業手順も極めて複雑になる。 つまり、そのような複雑なシステム全体として中国語を 理解しているのであって、 部屋の中の人はシステムの中の部品に過ぎない。

と。この手の「機械に意識は伴うか」周辺の譬え話としては、 なかなか分かりやすく何かと使いやすい例だと思った。

 それはともかく、以下に 「神は沈黙せず」における「世界はこうなっている」という解釈が 新種の「慰め」(または絶望)になり得るかという観点ともやや関係があるので? 感想を書いてみたい。 以下、 ネタバレあります

物語の前半では、 もし神が人間とその周囲の世界を創造したという 仮説を採用するならば、 「 不条理な仕打ちを受けてきた善良な人々 」 に対して、なぜ神がそんな非道いことをするのかを、 きちんと説明/釈明できる義務が生じる筈なのに (弁神論?)、 キリスト教を筆頭とするどんな宗教も、 まるで、真面目にその回答を与えていないばかりか、 無責任で欺瞞的で差別的でその場逃れな言い逃れを (聖典のレベルで)やらかしている様を、 旧約聖書の「ヨブ記」の綿密な解釈などを交えて糾弾していく辺りは 痛快ですらある。 もし、物語の最後で紹介されているように「ヨブ記」の ヨブの「悔い改めます」が ヘブライ語の誤訳に基づくもので、実はヨブは悔い改めておらず、 「(あんなろくでもない神なんかに自分が創造されたということを 疎ましく)遺憾に思う」と言ったと書かれていたのだ というのが仮に本当だとしたら、 「聖書に書かれていることは全て真実だ」と理解する主義の人たちは、 「神というのはヨブの言う通り、トンデモなく非道いやつなんだ」と 理解を改めなければならなくなってしまうのではないだろうか (まあ、敬虔な無宗教徒の私にはどうでもいいことだけど)。

 他にも、数々の(分かる人にしか分からないような)ギャグ?を 潜ませた一連のオカルト批判の数々も (まあ、だいぶビリーバーよりの保守的?な見解も紹介されてたりして、 その辺は、一般ウケを意識したのかなあとも)、 膨大な資料の裏付けがあって、なかなか説得力があり圧巻である (あの資料群に基づく例証の部分を、 オカルト批判の本として独立させてくれないかな。 今のままだと、どこまでが本当の資料でどこからが創作なのかが 分からない!)。 あと、細かい話だけど、 主人公(若い女)の話し方も前半の部分では、 「だわ/のよ」女言葉 ではない、割と普通の話し言葉で好感が持てていた (が、大人になって兄と話し始める辺りから「だわ/のよ」の 如何にもな女言葉になってしまった)。 まあ、他にも色々とあって、前半部分を読み進めている時は、 「自分とその周囲の世界が仮想現実である可能性は否定できない」と妄想している私? にとって、これは、 『カール セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社) 以来の人生の座右の書となるかも知れないと凄く期待させられながら読み 進んでいった。

が、結末が見えてくるにつれて、その期待は徐々に薄れていってしまった。 この世は神が量子コンピューター上でシミュレーションしてる仮想現実だという 設定の中で、 まるでメッセージ性のない無意味な超常現象が頻発することに、 シミュレーションの構造上の特殊な事情があるとしたら、 どんな(想像を絶する)事情が考えられるかということが、 この物語の根本的な着想になってるんだと思うんだけど、 その割には、その「想像を絶する」特殊な事情の設定が、 ややお粗末な感じがする (遺伝的アルゴリズムによる進化シミュレーションと 神のシミュレーションの類似性など、 他の部分の設定は、かなり綿密に設計されている割には)。

「特殊な事情」を簡単に説明すると、 神が創造したのは人間ではなく、 巨大な人工知能で、人間というのは、 (遺伝的アルゴリズムを利用して地球というフィールド上に 作られた)人工知能の中でシステムを機能させている駒 (「中国語の部屋」でマニュアル通りの操作をしている人のような) に過ぎないということだ。 で、超常現象というのは、その人工知能(グローバル・ブレイン)に 外部から与えられているメッセージ (「中国語の部屋」の人が中国語を分からないように、 人間には意味不明の)という位置づけになっている。

でも、私にはあまりピンと来ない設定である。 ミームを繁栄させるように活動している 地球上の生物(人間のみ?)集団に外部からのメッセージの入力を 超常現象などの形を与えて、それに対して生物集団が示す反応を 何らかの形で出力するといったシステムで、 そんなに高等な人工知能ができあがるような感じはしないし、 仮にそれで人工知能ができあがるんだとしても、 それを発生させるべく動いている多くの生物たちも高等な知性を 持っているなんてのは、 「人工知能を作る」という(ささやかな?)目的に対してあまりに ハードウェアの資源を無駄使いした 富豪的プログラミング である。 人工知能を作るレポートを出された神たちの中で、 一番 できが悪くて、だけどお金持ちの神が、 大容量で 超高速の量子コンピューターの中で遺伝的アルゴリズムを走らせていたら、 (他の できのいい神たちが直接プログラミングして 作った小規模のプログラムで走る軽量な人工知能には及ばないものの) どうやら人工知能のような動作をする巨大なシステムができあがったけど、 そのシステムの中には、 (プログラム全体としての人工知能よりも知的かも知れない) 多数の知的キャラクターができあがってしまったというような感じだろうか。

 物語の中では、研究者たちがどうしても人工知能に獲得させることの できなかった 「記号着地能力」を、主人公の兄が、 遺伝的アルゴリズムを利用した進化シミュレーションを (前述の神のグローバル・ブレインのように)用いた 人工知能では獲得することができたということが、 人間やその周辺の環境が神の作ったグローバル・ブレイン であることの傍証として描かれている訳だけど、 「記号着地能力を獲得するぐらいの高等な知能を成立させるためには、 遺伝的アルゴリズムを利用した進化シミュレーションのフィールドの 中でたくさんの知的キャラクターたちが ミームを繁栄させようとうごめいている」 ようなアルゴリズムでないと知性が成立しない (神ですらそのアルゴリズムを使わないと知性を作れない)んだとすると、 フィールド上の知的キャラクターとして既に記号着地能力を持つ人間たちの 脳内の思考回路フィールド上にも、 同様の知的キャラクターたちがミームを繁栄させようとうごめいて活動 しているということになってしまいそうな気がしてしまう。 そうなると、 堂々巡りのおかしな話になってしまう。 人工知能であれ、 進化シミュレーションであれ、グローバル・ブレインであれに 知性が発生した時点で、 その知性を発生させているフィールド内には知的キャラクターたちが うごめいていて、その知的キャラクターたちの知性を発生させている フィールド内にも知的キャラクターたちがうごめいていて、 その知的キャラクターたちを発生させているフィールド内にも 知的キャラクターたちがうごめいていて…… と、まあ、これはこれでSF的な(神秘主義的な)ネタにはなるけど、 山本さんは敢えてこの発想には言及していない (思いついてない訳はないだろうけど、 この発想を持ち込むと、せっかくの合理的な舞台設定が神秘化されて 矮小化されてしまいかねないし)。

 とはいえ、この物語の主題設定の意図自体はそれなりに 分かるような気がする。 世の中の宗教が主張している「神が人間や世界を創った」というのが 仮にあの人たちの主張通りに正しかったとして、 また、 超常現象のビリーバーたちが主張している通りに、 数々のへんてこりんな超常現象が現実に発生しているんだとして、 不条理な悲劇や虐殺に見舞われる善良な人々が多数 存在すること とも矛盾なく、 いったいぜんたい、どういう合理的な解釈が成り立つだろうか というようなところだろう。 そして、 科学的にあり得そうな可能性を、 膨大な資料に基づいて論理的に推理していくと、 「神が一人一人の人間を愛し見守っている」なんてシステムには 到底なり得ないという (神に縋って生きる人には絶望的な) 結末を示したかったのではないだろうか。

 実際、私はそういう結末の期待に胸を膨らませながら?前半部分を 読んでいた。 この世は量子コンピューター上の進化シミュレーションで、 人間の進化も、神が進化シミュレーションゲームで遊んでるだけ、 というところまでなら、 割と科学的にも納得できた。 でも、グローバル・ブレインの話は、どうも 富豪的プログラミング っぽくて、 今ひとつ科学的な説得力が弱く感じられた。

 例えば、神は凄く思考速度が遅くて、 シミュレーションゲームの中でキャラクターが悲劇に見舞われたり 虐殺されたりしても、そんな一瞬の出来事にはほとんど関心がなくて、 キャラクターがどいういう形態に進化するかとか、 どのようなミーム集団や社会や文明が形成されるかとかにしか興味がないとか、 そもそも、キャラクターに意識が伴っているという認識がないとか、 あるいは、れっきとした猟奇趣味・変態趣味で、 キャラクターをわざと悲劇に遭わせたり、 わざと大量殺戮を起こしたりしてはそれを眺めて 「イヒヒヒヒ」と喜んでいるとか…… といった説明付けの方が、私としては、すっきりするのである (前半部分では、そういう結末を連想させるような箇所は 多々でてくる)。 だから、進化シミュレーションゲームを楽しんでいる神にとっては、 いっぱい人を殺したりとんでもないことをしでかすキャラクターの方が 気に入られる筈だという加古沢黎の推測の方が考え方としては自然で素直だと 思う。 しかし、何の証拠もないその程度の推測をもとに、 神に気に入られて不死になろうと殺人を犯し戦争を誘発する 加古沢の打算は、あまりに幼稚で杜撰である (殺人を犯す良心の呵責よりも、 不死になれるかも知れない私欲を優先できる価値観は棚に上げるとしても)。 期待値に対するリスクがあまりにでかすぎる。 というか、前半部分では、 実に綿密に冷静に論理的に自分の利益を打算して行動する (しかも冷静な打算能力のある加古沢にとっては、 自分の利益とは地位や名誉や金ですらない。 それらは自分の利益を得る上での手段に過ぎない) 加古沢が、そんなしょうもない思い込みで行動してしまったとは、 焼きが回ったとしか言いようがない。 しかも、 金や名誉すら自分の利益ではないという冷静な打算のできるような人であれば、 「なぜひとを殺してはいけないのか?」問題 における打算(自分や自分の大事な人が殺されたくなかったら、自分も他人を 殺さない協定に契約するのが得だ)も幼少期から理解できているだろうから、 私欲のために殺人を実行できるような価値観を持っていること自体が ちょっと想像できない。 というか、実は、加古沢黎は、私がこの物語の中で 最も気に入った登場人物だっただけに、とても残念?である。 加古沢黎のような綿密な打算能力のある人間が「邪悪で」「悪い奴」 として描かれているのも、 私としてはちょっと不満である。 加古沢黎は、 その価値観の中に共感できない部分 (殺人による良心の呵責よりも私欲を満たすことが優先するなど) はあるものの、 自己の価値観を満たすために綿密な打算を行い、 安全な実現性を確保しながらそれを実行していく姿勢は、 爽快ですらある。

 一方、主人公や主人公の兄やその妻となった主人公の友達たちは、 そこそこ論理的な推論を組み立てていくけど、 せっかくの肝心のところで もっと客観的に吟味できる問題領域の判断を、 価値判断に矮小化してしまったりしていて、 まるで共感できない。 物語の締めくくりの部分で 「正しく生きられますように」が 「世界に平和をもたらす最初の一歩だ」 「私はそう信じる」なんて、 主人公たちがさんざん批判していた筈の 宗教 (自分たちは「正しい」と「信じ」ながら、 虐殺を繰り返してきた)の論理 とまるで五十歩百歩だ。 自分の価値観で「正しい」と「信じる」ことを実行したからといって、 それが世界平和にはつながらないどころか、 場合によっては、大量殺戮にもつながり得るということは、 さんざんミーム進化のゲームを通じて深く認識していた筈の ことではなかったのだろうか。

 例えば、 「自分たちは善良だ」と「信じている」人たちが、 「正しく生きている」と「信じ」ながら、 実は、直接的にではないにせよ幾多の残虐行為に荷担し再生産している実体を、 加古沢黎のような綿密な打算に基づいて行動する人物こそが、 鋭く分析してやり玉に挙げ、その一方で、 異なる価値観の人々がうまく折り合いをつけて それぞれが最大限に満足し譲歩できるようなシステムを構築するための 建設的な提案もしてくれたり というふうにでも描かれていた方が、私としては嬉しかった。 だって、「神は沈黙せず」の描き方だと、 なんか加古沢のような綿密な打算をすることが悪いことであるかのような 印象を抱かされてしまう人が結構 いるんじゃないだろうか。 そして、「そうか、正しく生きればいいんだ」みたいに納得してしまう 人も結構 いるんじゃないだろうか。

 この最後の締めの部分は、私は少なからず幻滅してしまった。 もしかするとここは、涙を誘う感動的な場面という演出なのかも 知れないけど (あるいは、これもなんかのギャグになってたりするんだろうか)。 いや、私も感動して涙が出そうになった箇所は数箇所ある。 大和田氏が妻の臨終の場面を回想しているところとか。 「 あちらで待っていますから、あなたも後から来てくださいね。 またいっしょに暮らしましょうね 」 という 妻の言葉に、 死後の世界が存在するとの確信が持てない大和田氏は、 「一緒に暮らそう」という(嘘を)言ってやれなかったことを ずっと悔いている。 臨死体験の夢の中に 妻が出てきても、 死ぬ前に妻に作っておいてもらった暗号化ファイルを開くパスワードを妻が 言ってくれない以上は、 妻の霊が語りかけているものだとは判断しない態度も 感動的だ。 セーガンの「コンタクト」 で、 あんなに会いたがっていた死んだ父親に再会した主人公が、 それが本当の父親ではないと見抜く場面と同じくらいに感動的だ。 実は、このパスワードによる霊の存在の証明方法は、 なかなかいい方法なので、私もそのうち gpg かなんかで 暗号化したファイルを公開しておこうかなんて思ってしまった。 といっても、暗号は時間をかければ解読できてしまうので、 死後あまりにも時間が経ってからパスワードを受け取ったと主張したとしても、 コンピューターで解読した可能性が高くなってしまうが。

04/2/1追記:  もともと「神はいない」「死後は無になる」とか 「まあ、仮に神がいたとしても、 人の行いの善し悪しに応じて巡り合わせを調整したりはしない 」 と見積もっていた人にとっては、 よしんば 「人間がグローバル・ブレインの中の部品に過ぎない」 という事実が発覚したとしても、 自分の価値観 (「素晴らしい音楽を作りたい」とか 「あの人と相思相愛になりたい」とか 「人のためになることをしたい」とか) を実現しようと生きていくに当たって、ことさらに 生き方(の戦略)を変える必要はない (せいぜい、 お祈りしたりといった神秘的な力に助けを求めようとしなかった これまでの戦略で正しかったと安心するぐらいだろう。 というか、これは原始仏教における 釈迦の教えそのものなんだが…… )。
 一方、 「神が人間を創造した」とか「神は私たち一人一人を愛している」 とかを信じているがために 「神から与えられた自分の使命を全うしたい」だの 「悔い改めて天国に行きたい」だのといった価値観を実現しようと 生きている人にとっては、 「人間がグローバル・ブレインの中の部品に過ぎない」 という事実が発覚してしまうと、 「生きる目的」が失われてしまう。 こういう場合、人間は 既に間違っていることが証明されてしまった妄想をあくまで信じ続けることで 「生きる目的」を保持しようとするか、 潔く事実を受け入れて新しい価値体系を構築しようとするか するだろう。 殆どの人は、 前者を選択してしまうような気がするが、 ここで、苦悩の末、後者を選択する人間の勇気を物語の中に描けば、 それは感動的な一場面となるだろう。 それに「新しい価値体系を構築」とは言っても、 「素晴らしい音楽を作りたい」とか 「あの人と相思相愛になりたい」とか 「人のためになることをしたい」といった、 より本能?に近い欲求の部分は、別に変える必要はないのである。
 「神は沈黙せず」の主人公たちも、 最後にそういうことを悟ってくれたのだったら、 私も素直に感動できたと思う。

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