(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

現行の国内橋渡し語のことを敢えて「標準語」とか「東京日本語」と書く理由


Kial mi nomas la pontlingvon en Lando Nippon `la norma lingvo' aŭ `Tookjooa-Nipona' ne `la komuna lingvo' ?
Miaopinie:
Al homoj, kiuj parolas malsamajn lingvojn, necesas neŭtrala komuna lingvo. Kiam la komuna lingvo estas sufiĉe disvastigita, loĝantoj en la centro de komerco faraĉas eĉ la komunan lingvon sia patra lingvo. Ĉi tiel la komuna lingvo perdis sian neŭtralecon kaj fariĝas `norma lingvo'. Do ankaŭ ali-regionanoj, kies patra lingvo ne estas la `norma lingvo', komencas peni mastraĉi ĝin por havi lingvan avantaĝon kaj do `dialektoj' aŭ malmultlingvoj iom post iom pereas. Tia problemo estas ne-disigebla el `komuna lingvo' kaj eĉ Esperanto ne povas eviti ĝin.

目次:
「共通語」ではなく「標準語」と書く理由
何故、「標準語」のことを敢えて「東京日本語」と書くか
「ら抜き言葉撲滅委員会」への異論
地方日本語(非共通語)の書き言葉を作るとどうなるか
話し言葉と書き言葉(01/3/15、 04/1/7追記
NHKのニュースは悪文の典型(02/11/12覚え書き、02/11/16追記
NHKのニュースは修飾節の長い書き言葉で、耳で聞いてもまるで分からない
秋田の言葉は聞き取りにくい?(02/11/12)
日本語の訛りのばらつきは英語の訛りのばらつきより余裕で小さい……

この頁で話題にしているような方言や共通語に関連する話題は、 大学生を対象とした 飲み話 にも書いている。



続く……

注意
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al la paĝo de GOTOU Humihiko

「共通語」ではなく「標準語」と書く理由

 言葉の違う人々が橋渡し語として使う言葉を、「共通語」と呼ぶのには特に抵抗はありませんが、「標準語」と呼ぶのには抵抗があります。 「標準」という言葉は「基準」とか「正しい」という印象を与えるし、「標準ではないもの」は「間違っている」かのような印象を与えるような気がします。 また、「標準」なるものは基準なので、ばらつきを許容しないような印象を受けます。

 しかし、一部の地域の人にとって話しやすく、ばらつきを許容しない言葉は、橋渡し語として妥当だとは思いません。橋渡し語は、どの地域の人にとっても話しやすく、つまり、発音の仕方とかに、ある程度のばらつきが許容される言葉でなけらばならないと思います(例えば、 仏語のrと独語のrと伊語のrと英語のrと日本語の「ラ行音」をきちんと 発音し分けなければ通じないような国際語を作ったとしても実用性に欠けるでしょう) 。

 例えば世界の人々のための橋渡し語として作られ、現に実用されている エスペラントには、特に「標準」となる発音はない(というかあってはい けない)と私は捉えています (エスペラントのrの発音は巻き舌が推奨されているようではありますが、 仏語のrや独語のrや英語のrや日本語の「ラ行音」をそのまま 使ったとしても特に問題なく通じます)。

 例えばヨーロッパ人はエスペラントをヨーロッパ語訛りで (腹式発声で単語どうしをねっぱして過剰なアクセントで)発音する人が 多く、日本人は日本語訛りで(非腹式発声で単語どうしを区切って単調な アクセントで)発音する人が多いようですが、それでお互いに十分に意志 の疎通ができています。ポーランド人だか旧ユーゴスラビア人だかの エスペラントの発音が きれいだとかいう意見もありますが、それを標準視するのはよくないと思 います(私個人の美的感性では、日本人のうまい人のエスペラントが最も きれいに聞こえます。中国北京放送のエスペラントを訛っていると言う人も いますが、単語の区切れが明瞭でヨーロッパ製のエスペラントの テープ雑誌などよりもずっと私には聞き取りやすいと思います)。

 日本国内の橋渡し語にしても、現行のアナウンサーが話しているような「標準語」ではなくて、もっとばらつきを許容しても十分に通じると私は考えています。 現に私の石巻語訛りの日本語も関西人の関西語訛りの日本語も十分に意志の疎通に耐え得るということを私は実感しておます (勿論、方言そのままでは分かりにくいでしょうが、アクセントや音韻の違いとかまで東京語訛りに従わなくても十分に通じると思います)。 つまり、意志の疎通のためには、何も現行の東京語訛りしか認めない「標準語」ほどばらつきを狭くしなくても、 もっと他の地方語訛りも許容した「共通語」を用いても十分に通じる筈だと私は捉えています。

 それなのに現状では、地方でも、ますます東京語訛りの「標準語」を使おうとする人が増えてきています。というか、公的な場では、東京語訛りの「標準語」を使うことが礼節であるかのような風潮が蔓延してしまったような気がします。

 これは一つには接客業において(コンビニとかホテルとかで)、さんざん東京「標準語」による手引書敬語が徹底されたのも一因でしょう。言語学者の田中克彦も言っていることですが、もともと地方方言における敬語体系は単純で簡単なものなのに、封建的な支配者隷属者関係を反映した複雑怪奇な東京語敬語を、どうしてわざわざ覚えてまで使わされなければならないのでしょうか。

 つまり話を戻すと、現在、国内で橋渡し語として使われている言葉は、地方訛りを許容する「共通語」ではなくて、東京語訛りしか許容しない悪い意味での「標準語」であると私は捉えているので、この言葉を指すときに私は「 」付けで敢えて「標準語」と書いている訳です。

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何故、「標準語」のことを敢えて「東京日本語」と書くか

 さて、現行の「標準語」は、東京山手地方で話されていた方言が下地になっているとはいえ、 かなり作られた部分もある一種の人工語だから、これは東京語ではないし、中立な言葉だといった意見もあるようです。

 私は「標準語」がどのように成立したのかについての知識を持ち合わせておりませんが、 どうも、参勤交代で江戸に滞在していた様々な地方の人の方言が混じり合って、 中立的な共通語ができていったというような話も聞いたことがあります。

 つまり、「標準語」もできたての頃は、エスペラントのように、 どの地方の者にとっても母語ではない、中立な人工語のようなものだったの かも知れません。

 しかし、東京地方の人は(特に山の手か)、 「標準語」をそのまま自分たちの母語にしてしまったのだと思います (尤も、下町などでは江戸弁を母語とし続けた人たちもいるでしょうが)。  その結果、「標準語」は、できたての頃は中立的な言葉だったかも知れませんが、 現在では、東京地方の人の母語と極めて相関性の高い非中立な言葉になって しまっています。

 因みに、佐藤和之著『東北篇 方言主流社会』(おうふう)に、NHKが 一九七九年に行なった調査結果が紹介されています。 「あなたの共通語の手本はなんだったと思いますか(複数回答)」 の問に対し、 東京方言話者で「家族のことば」と回答したのは、58%であるのに対し、 津軽弁話者では5%に過ぎません。 また「テレビ」と回答したのは、東京方言話者でも30%、津軽方言話者 では60%にもなります。

 「標準語」と相関の低い方言を母語とする者が「標準語」を習得するのは、 日本人が英語を習得するのに比べれば、難しくないかも知れませんが、 アクセントや音韻(方言では母音も違うし、カ行やタ行がある法則の下に ガ行やダ行に変わる)までも、東京語訛りで発音できるようになることは、 日本人がイギリス人と全く変わらない英語を発音できるようになること くらいに難しいことだと思います。

 だから私は、字面は従来の「標準語」で、 アクセントや音韻は地方訛りを許容した言葉を「共通語」とすれば いいのではないかと考えています (それでも、文法や語彙的には東京方言話者に有利ですが)。

整理すると、

 言葉の違う人どうしが平等に意志の疎通をするためには、 中立な共通語が必要だが、 中立な共通語といえども、ある程度、普及してくると、 経済的中心地などで、 それを、そのまま母語としてしまう地域が現れる。 すると、その共通語は中立性を失い、「標準語」となってしまう。 すると、「標準語」を母語とはしていなかった他の地方の人々まで、 言語的優位に立つべく、 この「標準語」を母語としようとし始め、 地方の方言や少数言語が滅びていく。

というような問題は、「共通語」には付き物だと思うし、 これはエスペラントにしても避けられない問題だと思います (「エスペラントへの疑問」の頁)

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「ら抜き言葉撲滅委員会」への異論

一九九七年十二月三十日
 先日、 ら抜き言葉撲滅委員会という頁を見つけました。 簡単に言うと、ら抜き言葉が「日本語」の「美しさ」を乱すから これを撲滅しようという趣旨のようです。 半分は冗談なのでしょうが、私にはちょっと引っかかりました。 というのは、この発想は方言排除や言語統一の思想と五十歩百歩だと 私には思えるからです。 例えば石巻語話者である私には、 東京語などにおける「……けれども」といった表現はなかなか 発音しづらいので、他地方の人に対して「共通語」を 話す時にも「……けども」のように「れ抜き言葉」を使いますし、 それで十分に意志の疎通ができます。 また、語頭以外に「カ行」「タ行」を入れるのも発音しにくいので、 「共通語」を話す時でもこれらを東北語の音韻体系に準じて「ガ行」「ダ行」 のまま発音したりしますが、それで別に意志の疎通に支障はありません。

 仮にこのような東北語訛りの「共通語」が東京語話者にとっては「汚い」 と感じられたとしても、それは美的価値観の相違の問題でしかありません。現に 私の美的価値観では、東京語訛りの「共通語」即ちいわゆる「標準語」こそが 最も「汚い」日本語だと感じられます。 つまり、「汚さ」や「きれいさ」といった価値の問題を言語の撲滅や標準化 の根拠とするのは無意味であり、価値の多様性を否定する選民思想ではないかと すら私には思えます。

 ところで、 前の章 で今日の「標準語」はばらつきを許容しないから 橋渡しのための「共通語」としての資格に欠けると書きましたが、 その意味では、「ら抜き言葉」や「平板アクセント」や「させて戴きます敬語」 のような日本語の 変種が「標準語」の中に混在していくことは、今日のあまりに東京語に 偏向した「標準語」に少しでも幅を持たせ、中立化するのに役立つことも あるだろうとも私には思えます。

 現に日本の各地には、 「ら抜き言葉撲滅委員会---私達はこう思う」の頁で 北野浩章さんの指摘したような「らなし言葉」を母語とする 人々が多数 存在することを考えれば、 「共通語」が「ら抜き言葉」を許容するようになれば、 「らなし言葉」を母語とする人々は、「共通語」を話す時にいちいち意識して 「らあり言葉」を話すという努力をする必要がなくなる訳です。

 私は更に最近の若者が封建的な「標準語」敬語体系を「正しく」使えなく なってきていることなども大いに歓迎しています (一方、地方の接客業者が東京訛りの「標準語」手引書敬語を駆使するように なったことは嘆いていますが)。 前章でも述べましたが、言語学者の田中克彦氏も指摘しているように、 そもそも地方の日本語話者が日常で使っている敬語体系はもっと単純で簡単なので、 東京語的「標準語」敬語体系を覚えて「正しく」使いこなすためには、 ただならぬ努力を強いられるのです。

 後で、また詳述する予定ですが取り敢えず整理しておくと(年末なもので)、 地方の若者が、東京訛りの「標準語」しか話せなくなり、「正しい」「美しい」 地方語 (いわゆる「方言」)がどんどん失われていくことを憂える私などにとっては、 都会(特に東京地方)の若者が「正しい」東京訛りの「標準語」を話さなくなり、 「標準語」の変種を撒き散らしていることは、なかなか小気味いいとすら 感じます。 尤も地方の若者は、その変種をも真似しようとしてしまうのですが......

この項、続く(たぶん)。

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地方日本語(非共通語)の書き言葉を作るとどうなるか

 私が、自分の頁などで書いている石巻語表記は、実際には「話し言葉」の 石巻語を、東京「標準語」の「書き言葉」の表記を借用して書いているに過ぎません。 地方日本語は、会話の中でしか話されないので、普通は「話し言葉」としてしか 使われないし、それで足りている訳です(だから、地方日本語のことを「生活語」 と言ったりする)。ところが、私のように、いざ地方日本語を用いて様々な事を 文章として叙述しようとすると、「対話文」や「語りかけ」に関しては特に困らない のですが、「客観的な叙述」をしようとすると、どうしても「標準語訛り」になって きてしまうのです。「標準語訛り」を抜こうとすると、どうも私の主観が付加 された文になってしまうのです。

 地方日本語というのは、非常に語尾表現が豊かです。例えば石巻語では、 「…や」「…しゃ」 「…べ」「…ちゃ」「…がすと」「…ど」「…おん」「…でば」「…つけ」などなど、 多様な語尾(文末詞?)が、事物を叙述する際に頻繁に伴い、その事物に 対する話者の感想や捉え方を表す訳です。 勿論、東京地方語においても、 「話し言葉」においては、 「…ね」「…でしょ」「…だよ」「…だって」「…もん」「…ってば」 「…なんちゃって」のような話者の主観を反映させる語尾表現は多用されている 訳です。

 ところが、主観が排除されるべき学術文書や報道記事(ニュースも) においては、そのような語尾表現は排除され、「である」調や「です/ます」調 で書かれ(話され)る訳です。 石巻語から前述のような主観を反映させる語尾を排除したら、 東京語の「である」調は「だ」調に、「です/ます」調は「でがす/っかす」調 にでもなるのかも知れません。

 しかし、そのような「だ」調や「でがす/っかす」調 による客観的叙述に徹底した 石巻語表現は今まで見たことも聞いたこともないので、いざ、自分がその文体の 石巻語で「客観的な叙述」をしようとすると、とても「いずい」し、 それは、石巻語と「標準語」の混じったおかしな言葉のように思えてしまうので、 客観的に叙述するのが適切な事柄であっても、 不必要に主観を介入させた「話し言葉」の石巻語 で書いてしまったりする訳です。

 一方で、東京地方語の「話し言葉」と「標準語」の「である」調「です/ます」調 も、互いに十分に違う言葉です。 「標準語」の「である」調「です/ます」調は、 東京地方語の語尾などに含まれる主観的な表現を排除して、 東京地方語の文法的骨格だけを抽出して作られた非「話し言葉」なのだと思います。 同様に、石巻地方語の語尾などに含まれる主観的な表現を排除して、 石巻地方語の文法的骨格だけを抽出した非「話し言葉」を作ることも可能でしょう。 すると、語尾などの主観的な表現の部分では互いに大きく異なっている地方語 どうしても、文法的骨格の部分はそれほど違わないから、 そのような非「話し言葉」を作ると、互いに割と似通った言葉になるのでは ないかと思います。 現状では、東京地方語から作られた非「話し言葉」しか普及していないから、 そのような石巻語を書くと、どうも「東京訛り」だと感じてしまうのでしょう。

 さて、そのような石巻語の非「話し言葉」を作って、石巻語でも客観的叙述が 可能であることを示すことが、石巻語の保存と発展に役立つと言い切れるかと いうと、いくつかの不安もあります。 東京語の「話し言葉」と非「話し言葉」の関係を見れば分かるように、 非「話し言葉」は教条的に「より優れた」「より正しい」言葉と見做され、 「話し言葉」を拘束し勝ちです。
(この項、続く)

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話し言葉と書き言葉(01/3/15)

 小学生の頃、私はテレビのニュースで言っていることが、 実に難解で殆ど理解できなくて、どうして大人というのは、こんな 訳の分からないつまらない番組を毎日 見たがるのか実に不思議だった。 しかし、いざ自分が大人になった今でも、 ニュースで話されている日本語は、 ちゃんと集中して聞いていないと頭の中に入ってきにくいので、 (ドラマや娯楽番組とかで話される東京訛りの日本語と比べて) なかなか理解しにくいなあと思うのである。 数年前、「20世紀解体新書」とかいう番組だかで、 天野裕吉だったがが 「(ニュースで)付近の住民らからは口々に不平の声が挙がっていました」 なんて言ったってどういうことだかピンと来ないから、 「近くの人たちはブーブー言っていました」 と言えばいいのにみたいなことを言っていたが、 私も同感である。 私は、 耳で聞いて理解しやすいのは、「書き言葉」調の話し方よりは、圧倒的に「話し言葉」調の話し方だ と考えている。 しかし、テレビやラジオなどのニュース番組を始め、 会議や講演や学会発表などなど、私の身辺の様々な広報や発表は、 多かれ少なかれ「書き言葉」調を指向していて、 そのために理解しにくくなっているのではないかと私は感じている (日本語に限らずエスペラントのラジオ番組 でもそれを感じる) 。 私は「話し言葉」と「書き言葉」の特徴を、大体 次のように捉えている。
話し言葉:日常的な言葉が使われる。 短い単文が多用されて、同じ言葉の繰り返しや言い直しが多い。 文法的な「間違い」は多く、 一文一文が文法的に完結していなかったり、 接続詞で繋がれた前後の文が論理的に対応していなかったりする。 話している内容に対する話者自身の印象が語尾や語気に反映されやすい。

書き言葉:非日常的な難解な単語や修辞が多い。 同じ言葉の繰り返しや言い直しが避けられ、 そのせいで修飾節の長い重文や複文が多い。 文法的な「間違い」は殆どなく、一文一文は文法的に完結していて、 接続詞で繋がれた前後の文も論理的に対応している。 話している内容に対する話者自身の印象が語尾や語気に反映されにくい。
例えば、次のような二種類の店頭販売を「耳で」聞いたとき、 どちらがより「分かりやすい」だろうか?
「書き言葉」調: 「…… この度当社で開発されたA4版冊子型MOファイルは、1頁に四枚収納可能だった 従来方式の冊子型MOファイルとは異なり、目下特許申請中の折り畳み構造を 導入したABCD加工により、1頁に六枚のMOを収納可能となりました……」

「話し言葉」調: 「……今度のMOファイルは違うよ。まあ、今までも本棚に収納できるこういうい ファイル型のはあったけど、 あれは1頁に四枚までしか入んないでしょ。A4の場合ね。 でも、今度のこのABCD加工っていうのは、凄いよ。ほら、こんなふうに ここが折り畳めるからね、1頁に六枚も入るんだよ。これね、今、特許申請中 なんだよ……」

注:因みに、これは適当に考えた「例」なので、そんなファイルが 実在する訳ではない(念のため)。
参考までに、 「書き言葉」をそのまま話したような典型例として、 「超絶技巧ピアノ編曲の世界——体育会系ピアニズムの系譜」で紹介されていた 蓮實重彦総長の式辞 と、 それに対する感想を紹介しておく。
実は、某購買の文房具売場の前で、正に上記の「書き言葉」調みたいな 店頭販売をやっているのを聞いて、 こんなんじゃ宣伝内容を聞き取って理解してくれる客なんて殆ど いないだろうなあと思ったのであるが、 よく考えてみると、テレビやラジオのニュースも、 この「書き言葉」調の方に属しているように思う。 勿論、客観的な事実を正確に伝達することが要求される ニュース番組においては、 「…ね」「…でしょ」「…だよ」「…だって」「…もん」「…ってば」のような話者(アナウンサー)の主観を反映させる語尾表現を多用する訳にもいかず、 「書き言葉」調にならざるを得ないという考えも分かる。 だから、そこは譲るにしても、 同じ言葉を何度も繰り返す短い単文調で喋ったっていい筈なのに、 ニュースでは修飾節を伴う複文や重文で同じ言葉の繰り返しを避けたりしている ような気がする (代名詞で繰り返すにしても、「男は」「女は」みたいな誰も会話では使わない ような極めて奇怪な代名詞を使いだしたりする。 「この人は」じゃ、どうしてダメなんだろう?)。 それに 「客観的事実の報告」と「話者の主観的意見」とを聞き手がちゃんと区別できるような表現を使うなら、 別にアナウンサーの主観を語尾や語気に反映しながらニュースを伝えたって 構わないような気もするし、 その方が聞いていて分かりやすくて面白いのではないかとすら私は思ったりもする (その意味では、ニュースステーションとかは、 そういう方向性をやや模索していたのではないだろうか)。
 勿論、私も、学術論文などにおいては、 「客観的事実の報告」と「著者の主観的意見」とを読み手がちゃんと区別できる必要性があるという 理由だけではなく、 情報を正確に伝達する上で、「文法的な間違いを含まない」とか 「一文一文は文法的に完結していて、接続詞で繋がれた前後の文も論理的に対応している」など様々な必要性から、「書き言葉」調で書く方が適しているとは思う (つまり、そうした必要性の方が耳で聴いた際の理解しやすさよりも優先すると 見積もっている)。 但し、専門的な内容を扱う文章においてすら、 入門書や啓蒙書、参考書の類いの場合、「話し言葉」調の方が有効な場合も あるとは思う。前に 大信田 丈志さんから 笠原皓司「新微分方程式対話」(日本評論社) という本があるのを紹介されて買ってみたのだが、先生と生徒たちとの 「対話」形式(例えば「今、ひょっと思いついたんやけどな、初めの行列は 対称行列やろ。終わりの5-7も対称行列やろ。そやのに、何で中間段階の行列が 対称でないんやろ」「そうなんや。今5-7を計算してて、気味がわるかったんや けど……」みたいな関西訛りの共通語?) で書かれていて、まるで自分も一緒に実際の授業に参加しているかのように 錯覚しながら楽しく学習できるように工夫されている(参考までに)。 こういう例を見ると、 もしかして、小中学の教科書や参考書などにおいても、もっともっと 「話し言葉」調を導入した方が子供たちの理解を促すのではないかという 気もする (「……なのは、どうしてなのか、みんなで話し合ってみよう」とか、 そういう「話し掛け」調は既に多用されているのかな?)

 つまり、「話し言葉」と「書き言葉」にはそれぞれ一長一短があるのだから、 それらを(あるいは両者の中間や混合を)、用途に応じて使い分ければいいと 思うのだが、 「話し言葉」調の方が有効に違いない実に多くの情報伝達までもが、 不必要なまでの「書き言葉」調でなされてしまっているがために、 日常の様々な情報収集が (特に東京日本語の運用能力が劣る年少者や外国人などの人々にとって) 困難になっている面もあるのではないだろうか。

04/1/7 追記 : 口頭発表は「話し言葉」でやるべきだという意見を 「 良いプレゼンと悪いプレゼン 」 に書いた。



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NHKのニュースは悪文の典型(02/11/12覚え書き)


 NHKのニュースは修飾節の極めて長い書き言葉で、 耳で聞いていても、非常に非常に分かりにくい。 例えば、 http://popup2.tok2.com/home/teruo27/khbc-for/nhk960325.htm に紹介されているNHKのニュース原稿
きょう正午すぎ、福岡市の福岡空港で乗客・乗員合わせて二百七十五人 の乗った福岡発ジャカルタ行きのガルーダ・インドネシア航空の飛行機が 離陸に失敗して滑走路を外れた所で炎上し、男性三人が死亡したほか、乗客ら 百十人と消火にあたった消防士がけがをするなどして十三か所の病院 で手当てを受けています。
みたいなのが、典型的なNHK文体であるが、 こんな修飾節の長い重文/複文は、 耳で聞いて最も分かりにくく、口頭発表では避けるべき悪文の典型である (前項の「話し言葉と書き言葉」参照)。 話し言葉でニュースを読んでくれたら、どんなに理解し易いことか。
さっき、飛行機事故が起こりました。 福岡空港で、ジャカルタ行きの飛行機が離陸に失敗して燃えました。 ええと、飛行機はガルーダ・インドネシア航空の飛行機です。 乗員と乗客は二百七十五人 乗ってたんですが、 三人 死にました。 あと、消防士と百人ぐらいの乗客がヤケドして*、十三か所の病院に運ばれました。
みたいに。そういう意味では、NHK週刊子供ニュースのニュースは 非常に分かりやすい(大人用のニュースも少しはあれを見習ってほしい)。
*02/11/16追記:実は原文の 「乗客ら百十人と消火にあたった消防士がけがをするなどして」 のところを最初に読んだとき、私はてっきり 「乗客ら百十人と一緒に消火にあたった消防士がけがをするなどして」 の意味だと思ったので、この部分を 「 あと、消防士がヤケドしました。 百人ぐらいの乗客が消火を手伝ったそうです。 ヤケドした人たちは、十三か所の病院に運ばれました 」と書いていたが、 掲示板で、 それは恐らく(悪文ゆえの)勘違いで、 NHKが言わんとしたのは「消火にあたった消防士と百十人の乗客らがけがをするなどして」 ということだろうという指摘を受けたので、 「 あと、消防士と百人ぐらいの乗客がヤケドして*、十三か所の病院に運ばれました 」と書き直した。 掲示してくれた人も書いているように、 しかし、あらためて、聞くにもダメだし読んでもダメな、救い難いほどの悪文ですね」。つくづく、改めて。


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秋田の言葉は聞き取りにくい?(02/11/12)
日本語の訛りのばらつきは英語の訛りのばらつきより余裕で小さい……(覚え書き)

 私は、02年3月に宮城県仙台市から秋田県秋田市に引っ越してきたのだが、 しばらく秋田で生活してみて、 秋田の言葉について、友人某に送った電便。 友人の文章を引用した部分については、斜体でその要旨を示した。
仙台の役所の窓口は、徹底した東京山手マニュアル敬語だが、
秋田の役所の窓口では現地訛りの人がそれなりにいる。
「訛りを消しきれない」という側面もあるのでは。

っつうが、共通語っつうものは、アクセントだの音韻にある程度の
ばらつきを許していいど思うし(現にエスペラントどがの喋り易さの
理由の一つもそこにあっと思う)、アクセントだの音韻まで完璧な
東京山手訛りでねえど(字面が如何に共通語でも)通じねえような
共通語では、共通語どしてあまり適格でねえども思うんだな。

そういう意味で現行の共通語っつうものは、東北の人には、
なかなか発音の難しい音韻構造になってっとも思う。

例えば、語頭以外のカ行だのタ行だのが濁音の方が言いやすいのは、
東北人だげでねくて、中国人だの韓国人だって「わだしは」どがって
言うし、更には英語(特にアメリカ英語)だって、
get out がゲダウト どがになったりするごどがら考えても、
東北弁っつうのは、どっちがっつうど発音しやすさに特化した
言語のような気もする。

一方で、現行の東京山手訛りっつうのは、聞き取りやすさだの明瞭さに
特化した言語のような気がすっけっとも、これは、アナウンサーどが
訓練を受けた人の発話を聞く分には確かに聞き取りやすくていいがも
知ゃねげっと、完璧な東京山手訛りで明瞭に発音できるようになるのは、
違う方言を母語どして育った者にはかなりの努力を強いるがらな。

んだがら、共通語っつうものは、違う方言の人もそれなりに発音しやすい
げっと、それなりに明瞭に聞き取れるようなどごで折り合いをつけて、
色んな訛りに慣れれば聞き取れる範囲でばらつきを許容すべきだど思う
んだよな。

正にエスペラントの国際性は、発音が割と簡単だから、
色んな訛りを許容してもまあ大丈夫で、色んな訛りに
エスペランチストが慣れでるために、ちょっとやそっと母語訛りで
発音しても十分に通じるどごにあるど思うんだな。

そういう側面は、英語でもあるんだげっとも、ただ、
英語の場合は、発音が極めて難しい上に、実に音が不明瞭で
聞き取りにくい(つまり、発音のしにくさと聞き取りの不明瞭さに
特化した最悪の)言語だがら困る訳だな。

日本語の場合、放送媒体だので、アナウンサーどがが喋る共通語っつうのが、
実にばらつきの狭い特定の訛りだけで喋るがら、その特定の「訛り」
だけに慣れて育った人は、違う訛りに対する解析能力を鍛えられねえ
でしまうんだな(例えば**氏どが?)

例えば、関西弁っつうのは、東北弁ども東京弁どもかなり違う言葉
だど思うし、現に、小学校の頃どがは、おいは関西弁の漫才が
聞き取れねがったげっと、テレビで聞かされでるうぢに、
ちゃんと理解でぎるようになったがらな。

テレビどがで、もっと色んな訛りの共通語を許容するようになれば、
共通語だげで育った人の違う訛りに対する解析能力も鍛えられる
どは思うんだな。

転勤で秋田に引っ越してきた人の子供が小学校から泣いて帰ってきた。
なんでも「先生が何を言っているか分からない」そうだ。そんな訳は
ないだろうと授業参観に行ってみたら、親にも本当に分からなかった。
その人は岩手出身だが、東北出身者にとっても、秋田の訛りは分かり
にくいのではないか。

確かに、おいも秋田の警察署さ車庫証明にいったっけ、
(「へば」どが言ってっから青森の人がや?)
最初は、何 言ってっか分がんねくて面食らったげっと、
よっく、聞いでみっと、字面は、それなりに共通語で喋ってんだよな。

まあ、
1)カ行/タ行が濁点どが(おい自身がそうだ)、
2)「キ」が「チ」になるどが(おらいの親父)、
3)「ニ」が「ヌ」になるどが、
4)「い」が極めて「え」に近いぐれえだったら、
おいが今までに蓄積した解析データベースでも対処でぎんだげっと、
5)「本拠地」が「ホンケチ」どが、
データベースに登録されでねえ訛りに出くわすど、ながなが困惑
してしまうんだな。まあ、そのうぢ慣れでくれば、5)もデータベースに
登録されっぺげっと。

一方、この1)−4)のデータベースすら持ってねえような人だど、
おいどあんだが喋ってんのすら聞き取れねえがも知ゃね訳さな。

んでも、留学生の英語だの、英語の国際会議だのの英語を聞いてっと、
発音不明瞭な言語なりに、正に1)−5)みでえなデータベース
例えば、
a)ドイツ人は v を f の音で発音する
b)フランス人は h の音を抜かす
c)日本人の R と L は同じだったり逆だったりする
d)フランス人の R は H みたいに聞こえる
e)フランス人は ch の音を sh で発音する
などなどを
色んな訛りに鍛えられたみんなが持ち合わせでっから、
それで、英語は、色んな国の人にそれなりに通じるように
なってるんだど思うな。
#一方でアジアの人の英語が、それに慣れでねえヨーロッパの人に
#通じねえなんてごども多々ある。

英語の訛りの酷さa)-e)に比べだら、日本語の訛り1)-5)なんて
まだだいぶましな(学習容易な)方でねえがどすら思うんだな。
覚え書き:

秋田など、地方の役所の窓口で話される「共通語」の 発音のばらつき(例えば1)-5))なんて、 英語の発音のばらつき(例えばa)-e))に比べたら、 余裕で小さい。 あんなに発音のばらつきの大きい英語が、それなりに 国際的な橋渡し語として(色々とはあるものの) どうにか通じているのに、それに比べてよっぽどばらつきの小さい 秋田などの(しかも字面は共通語で話される)言葉すらが聞き取れない 「標準語」母語話者というのは、 単に、様々な地方で話されている日本語の発音のばらつきを、 (聞き取りのために必要な)「発音データベース」として 蓄積していないということにつきるのではないか。 もし、現行の日本語の「共通語」を、 (その非中立性にもかかわらず) 日本国内の橋渡し語として採用することにした人は、 少なくとも、その「共通語」を 仕方なく橋渡し語として使わせられている 地方の人たちの様々な発音のばらつきを (「共通語」の聞き取りのために必要な)「発音データベース」として 蓄積するぐらいの努力を払う義務はあるのではなかろうか (その程度の努力は、 「標準語」を母語としない者が、字面だけでも「共通語」を話すべく払っている努力に 比べたらぜんぜん大したことないだろうし)。

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