エスペラントをより中立に

Ni plue neŭtraligu Esperanton
エスペラント版
(Esperantlingva versio)
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目次

はじめに
数字の三桁区切り方式
月の呼び方
年月日や住所の順番について
固有名詞の表記について
冠詞 la の紛らわしさ(1988/8/7新設)
否定疑問の答え方
性の区別を強要する(1998/3/25新設)
ラテン系、ギリシャ系の高級語(1998/3/25更新、 1999/10/12 追記03/6/2覚え書き(03/6/2
Fundamento 問題

続く

京都大学エスペラント語研究会 藤原敬介さんの 「反エスペラント論」 の頁もご参考に


はじめに

 エスペラントは現在、中立の橋渡し語として 利用できるほぼ唯一の人工語です(インテルリングワとか、他の 人工語はエスペラントのようには普及していないとか、更にヨーロッパ語 に近いとか、学習が容易ではない、などの問題がある)。 しかし、エスペラントが中立語とはいえ、 ヨーロッパ語に近いということも事実です。 だから、非ヨーロッパ人が(例えば英語などの民族語を他民族との 意志の疎通に利用するよりは遥かにましだという理由で) エスペラントを使うことに決めたならば、 これ以上、エスペラントをヨーロッパ語に近づけないように するという意識が重要であると私は思います。 例えば、 現状のエスペラントの文法の枠組の範囲内で自由が許されている部分については、 あるいは、 文法が特に規定していない部分については、 何でかんでヨーロッパの表現方法の流儀に倣う必要は 別にないのではないかということです。

以下にその具体例を挙げていきましょう。

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数字の三桁区切り方式

 ヨーロッパの言語では、数字の三桁ごとに補助単位が現れるが、 四桁ごとに補助単位が現れる日本語などの主にアジアの言語圏の人々に とっては、三桁区切りは非常に分かりにくいし使いにくいのです。 例えば「この都市の人口は何人ですか」と訊かれた場合、 頭の中に「七十万」と思い浮かんでも、これをすぐにエスペラントに 言い換えるのは難しいものです。 またエスペラントで「sepcent mil(七百 千)」と言われても 「なんか大きい数だ」ということは分かっても、 これが七百万なのか七十万なのか七万なのかすぐには分かりません。 しかし厳密な話でない限り、 その程度で十分にことは足りているのではないかとも思います。 ということは我々も「万」に相当する補助単位を作ってみれば、 あるいは 新語はなるべく作らない方がいいのであれば「dekmil-」 といった造語でもいいですが (これも数詞にするか名詞にするかといった問題もありますが) 、そうすれば我々は「七十万」を咄嗟に「sepdek dekmil(oj)(七十個の万)」 と言うことができ、 ヨーロッパ人はそれが「何か大きい数だ」ということは分かっても、 「sep milionoj(七 百万)」なのか「sepcent mil(七百 千)」 なのか「sepdek mil(七十 千)」なのかすぐには 分からないというお互い様の関係になります。

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月の呼び方

 月の呼び方が数字でない(januaro とか februaro とか) のはやはり不合理だと 思います(田中克彦氏だかもエスペラントのこの点が不満だと書いています)。 エスペラントの林間学校の折に、私のクラスの講師の 大信田丈志さん に聞いてみたら、 別に「la 7a monato」(七番目の月)のような表現 をしたって構わないと言われたので、 私は今では「la n-a monato(n番目の月)」を多用しております。

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年月日や住所の順番について

 これも一般にヨーロッパは小さい領域から大きい領域へという順番で書き、 アジアとかの様々な国ではその逆です。 (これは恐らくヨーロッパ語は前置詞によって形容する言語で、 日本語とかは格助詞のような言わば「後置詞」によって形容する言語だ といったような違いが反映されているのかも知れません)。 また多くの場合、日本式の大きい領域から小さい領域へという順番の方が 便利なことも多々あります。 私は現行のエスペラント文法の枠組でも、別に日本式の順番で書いても 構わないと思います。 例えば

Mi naskig^is en 1966, la 9a monato, la 27a (mardo) je la 12a kaj 34.
(私は1966年9月27日12時34分に生まれた)とか

Mi log^as en la lando Niponio, la gubernio Miyagi, la urbo sendai.
(私は日本国宮城県仙台市に住んでいる)とか。

のように、時間とか場所を表す単語群は、日時とか住所の表示と同じように、 名詞の羅列で構わないのではないかということです。 より文法を尊重するのであれば、例えば

en Niponio, en Miyagi, en Sendai

のように「, en」で繋ぎながら小領域を後ろへ持っていく書き方は、 現にヨーロッパ人でも使っています。

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固有名詞の表記について

 ついでに、ここで Niponio という語を使いましたが、 私は国名や固有名詞などは、原音を尊重すべきではないかと考えており、 japan- といったヨーロッパ人が勝手に使っていた語幹を そのまま使い続けなくてもいいのではないかとも思っています。 固有名詞という意味では lando Nippon(またはNihon)と書いてもいいと は思いますが、国名は県名や市町村名よりはエスペラントの文脈に頻出 するので、外国人にも発音や派生語化がしやすいようにエスペラント化した語幹で 用いるのが妥当だろうと思います。 PIV(世界で広く使われているエス= エス辞典)では、「日本」の意味で「Nipono」が載っていますが、 このように国名語尾「-io(元々は-ujo)」ぬきで国名を表す例外を作るのは よくないと思います (この他の例外はアメリカ合州国をUsono、 アメリカをAmeriko、オーストラリア人をAu~strali-anoとか)。 私は「Nipono」は「日本人」の意味で使いたいと思っています。 尚、エスペラント化した国名の語幹は語頭も小文字で表されますが (japan-, c^in-, angl- など)、たとえどんなに有名な国名であっても、 固有名詞である以上は、それが固有名詞と分かるように、語頭を大文字にした 方がよいのではないかと私は考えています。

 これに関連して地名を Jamagato とか Jokohamo とか Tokio とかと エスペラント化して用いるのも、私にはちょっと抵抗があります。 県名や市町村名といったより地方的な固有名詞まで エスペラント化する必要はないのではないかとも思うからです。 la urbo Jamagata とか la urbo Tookjoo(または Toukjou か) でいいと思うし (訓令式ローマ字を使わない理由については 「漢字廃止への疑問」の頁)、 名詞語尾をはっきりさせたいのなら、せめて、 Jamagatao とかにしてほしいとも思います。 もし、日本語の固有の表記やせめて音韻法則を尊重するのであれば、 la gubernio 山形 または la guberunio Yamagata とか la gubernio 千葉 または la guberunio Tiba とか書いて、その後ろに (jamagata)とか(c^iba)と発音を付記するという書き方もあるかも知れません。 (エスペラントの辞書にヨーロッパの 地名や人名ばかりがエスペラント化して載っていることへの不満を 「エス和 和エス辞典の頁」に書いた)

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冠詞 la の紛らわしさ

Laŭ `la' Fundamento de Esperanto: `La personoj, por kiuj la uzado de la artikolo prezentas malfacilaĵon povas tute ĝin ne uzi.' (かの「エスペラントの基礎(いわゆるフンダメント)」によれば、 「冠詞を使うのが難しい人たちは、それを一切 使わなくてよい」とある。)
つまり、la を一切 使わないことは、現行のエスペラントでも 文法違反ではないのである。

 冠詞 la の使い方が日本人にとって難しいのは、 la がまるで意味の異なる複数の用法で使われて紛らわしいから だと私は思います。

1.限定用法

 話してと聞き手(あるいは書き手と読み手)にとって既知の対象を 指す限定用法の la (日本語の「その」「あの」「例の」「いつもの」に相当) は、日本人にとってもそれほどに難しくはないし、割と分かりやすい 用法だと思います。 尤も限定用法の中でも、 自分の体や服の一部などに対して付ける la などは、ちょっと分かりにくいとも思います。例えば、

1) Mi levis la manon.
(私は手を挙げた)

とかです。勿論、これは より厳密に言おうとすれば

2) Mi levis mian manon.
(私は私の手を挙げた)

と言うこともできるでしょう。さて、そこで問題に なるのが、冠詞を付けない次のような表現です。

3) Mi levis manon.

これは日本語の「私は手を挙げた」に最も近い表現です。 ところが、この3) の表現に対して、「la がない場合は、『私は誰か他の人の手を 挙げた』という意味になるから la を付けないのは間違いだ」 などと主張する人もいます。 私からすると、この 3) の表現を聞いて、「自分以外の他人の手を挙げた」 などと考える人は、よほどひねくれた人ではないかという気さえします (今度、欧米人のエスペランチストに、そういう誤解をするかどうか 確認しておきます)。 普通、「手を挙げる」とか「ポケットから財布を出す」とか「目を閉じる」 とか言った場合、特に「誰の」と代名詞や固有名詞などで指示していない 限り、それは本人の「手」や「ポケット」や「目」のことだと考えるのが 普通の感覚ではないでしょうか。 現に私(や恐らく他の多くの日本人のエスペランチストなども) 冠詞を使わない上記のようなエスペラントでしばしば欧米人とも会話しているが、 それで特に誤解を招いたことはありません。

 私からすると、1) の「私はその手を挙げた」のような表現の方が、 日本人にとっては、「その手っていったい誰の手だ?」といった 混乱を与えかねないとすら思います。つまり、もし仮に 3) の表現が欧米人に 対して誤解を与えやすい表現だとしても、1) の表現だって日本人には 別の誤解を与えやすいのだから、お互い様だと思います。 私自身は今のところ、3) の表現も許容した方がいいと考えています。

 それから、これも限定用法に含めることが多いと思うのですが (別の用法としている文法書もあるかも知れない)、 「世界に一つしかないもの」に付ける la も私には結構 分かりにくいです。

 例えば、la suno(太陽)とか la terglobo(地球)とかです。 恒星という意味での太陽だったら、「あの」太陽以外にもいっぱいあるし、 確かに、その意味では恒星のことを suno と言っていいようです。 では、「あの」太陽以外の特定の恒星のことだって、la suno と言っていい 訳だし、いずれにせよ、日常会話の中で冠詞を付けずに suno と言った 場合に、「あの」太陽以外の恒星を第一に思い浮かべる人は、 よっぽどひねくれていると私などは思ってしまいます。 あるいは、今日の太陽と昨日の太陽は違うと考える民族とかがいたら、 「ある日」の太陽には冠詞を付けない方が正確な表現になるかも知れません。 更に、「海」とか「空」とかは、ましてや世界に一つしかないものなのか、 いっぱいあるものなのか、私には分かりません。 いちいち、そんなことを会話の中で瞬時に判断することなどできません。 つまり、日本人である私には、言及している対象が世界に一つしかないものか いっぱいあるものか(更には単数か複数か、更には女性か男性か) を区別する発想はないのです。 だから、「la suno(その太陽)」などと言われると、逆に 「え、どの太陽?」とすら考えてしまうかも知れません。 私は、今のところ個人的には「世界に一つしかないものに付ける la」 もあまり好きではありません。

2.総称用法

 さて、la の用法の中で最も紛らわしいと私が思うのは総称用法です。 私はこの用法はなくなった方がいいと思うし、別に現状でも使わないで 済ませられると思います。 総称用法というのは「la xxxx」で「(およそ)xxxx というもの」 を表現する用法です。例えば

La homo estas stulta.

という文章で

1)(およそ)人間というものは愚かなものである。

という意味を表す用法のことです。しかしこの文章は、 la を限定用法と解釈すれば、

2) あの人は馬鹿である。

という意味になります。しかも、この 1) と 2) との区別は、 文脈によってしか判断できないのです。 これは実に紛らわしいことです。 あるアメリカ人のエスペランチストも、1) の用法は混乱すると言って いたので、これは日本人のみにとっての問題ではないようです。 1) の意味を表現したいならば、むしろ単に、

Homo estas stulta.
(人間は愚かである。)

と言った方がよっぽど紛らわしくないと私は思います。 もっと厳密に 1) の意味合いを表現したければ、

La ekzisto homo estas stulta.
(人間という存在は愚かである。)

といった表現もできるのではないでしょうか。 勿論、この La にしても、「人間という『例の』存在は」 ぐらいの意味で、是非とも必要なものだとも私は思いませんが。 「存在」が「愚か」というのに違和感があるなら、ekzisto ではなくて、 estanto(....であること?) とか aj^o(物)とか objekto(対象物) とか、あるいは la を伴わずに相関詞の io (あるもの)とか tio(そのこと) とかの方が相応しいでしょうか。

 いずれにせよ、限定用法の「あの人は」という意味と、 総称用法の「およそ人間というものは」という意味との隔たりは、 少なくとも我々日本人にとっては(ひょっとすると欧米人にとってすら) 両者の混在が混乱をもたらすには十分過ぎるほどに大きいと 私は感じています。 だから私自身は、特に便利でもなく使わなくても済む総称用法 は使わないことにしています。

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否定疑問の答え方

 小西岳さんの『文法の散歩道』で「ja -- ne」の関係に対応して「jes -- nen」の関係を有する間投詞「nen」を導入すれば、 日本人の付加疑問文への答えにくさを解消できるとあり、 それ自体には私も賛成なのですが、 解消の仕方が私にはあまり納得がいきません。 つまり小西案では、 「C^u vi ne estas sana ?」(あなたは健康ではないのですか) という問に対して、 自分が健康でないときは、 ヨーロッパ人は「Ne.」と答え、日本人は「Nen.」と答えればいいと 書いておりますが、 我々の頭に咄嗟に思い浮かぶ返事は「はい」であって、 これを「Nen.」に結びつけるのはやはり難しい。 私の案は、 間投詞の後に続く文を省略しなければ (この点も大信田さんにも指摘されたことですが) 、間投詞は民族ごとに 違った使い方をしてもいいのではないかというものです。つまり

「C^u vi ne estas sana ?」(あなたは健康ではないのですか) という問に対し

ヨーロッパ人は
Nen, mi ne estas sana. (いいえ、私は健康ではありません)
Jes, mi ja estas sana. (はい、私は健康です)

日本人は
Jes, mi ne estas sana. (はい、私は健康ではありません)
Nen, mi ja estas sana. (いいえ、私は健康です)

という具合にです。いずれにせよ、 厳密な話をしなければならないような場合には、否定疑問や二重、三重否定などは使わないように心掛けるべきでしょう。

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性の区別を強要する

 エスペラントは、ヨーロッパ語における性区別の風習 (三人称単数代名詞は常に性を区別しなければならず、 人を表す名詞は、女性の時のみいちいち女性語尾を付けたりする) をそのまま取り込んでしまっています。 しかし、世界には、このように言及する対象の性をいちいち 区別しない言語も多く存在します(昔の日本語も今のようには性の区別 をしていなかったが、近年、ヨーロッパ語の影響を受けて性区別のため の多くの造語をしてしまった)。

 これについては、エスペラント界の一部でも 既に性区別をしない「riismo」という提案があり、 私も支持しています(「Riisma Manifesto の和訳」 )。

 言語において常に対象の性を区別することが何故 問題となるかについては、 「言語の性区別」の頁へ。

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ラテン系、ギリシャ系の高級語

 エスペラントは文法や発音に関しては確かに合理的で簡単ですが、 高級語の語幹の多くはラテン系、ギリシャ系の語幹をそのまま借用して きており、ヨーロッパ語の素養のない者には覚えにくい限りです。 たとえヨーロッパ人であっても、高級語に通じていない庶民にとっては、 こうした高級語は覚えにくいことでしょう。 それに比べると高級語を基本語から造語することを徹底している中国語や 漢字熟語の方が、その点では合理的だとも言えるでしょう (複雑な線の組み合わせからなる漢字自体を覚える難しさは、確かに漢字の 欠点ですが、 漢字熟語は、ヨーロッパ語 例えば英語などに比べると圧倒的に 高級語を覚えやすく、初めて見る高級語の意味も推測できるという利点を持つ。 「漢字廃止論に疑問」の頁)。

 しかし、エスペラントは接尾辞や接頭辞が非常に発達しており、 決して造語能力がない訳ではありません。それなのに恐らく、エスペラントの創始者 のザメンホフや、初期のエスペランチストたちは、中国語や漢字熟語の ように基本語から高級語を造語することを徹底している言語を知らなかったために、 基本語から高級語を造語する努力を怠り(思い付きすらせずに)、 無造作にラテン系やギリシャ系の高級語の語幹をエスペラントに取り入れて しまったのでしょう(追記)。

 このような覚えにくい不合理な高級語群は、徐々に分かりやすい合理的な 造語で置き換えていった方が、エスペラントはより覚えやすく中立な 橋渡し語になると私は思います。 エスペラント学習者にとって中級者から上級者に至る壁が厚いのは、 多分にこの高級語の覚えにくさのせいもあると私は思います。

 先に述べた性区別をしないための「riismo」という提案では、 中性の代名詞として「ri」 や「-iĉ-」(男性化接尾辞) を「新語法」に則って導入している訳ですが、 「これはエスペラントの代名詞体系を改変するものであり、 fundamento (変更を許さないことに決めたエスペラントの基礎) に反している」といった批判の対象になったりもする訳ですが *、 基本語から高級語を造語することは、何等 fundamento に違反することでは ないので、どんどんやっていいと私は思います。

 このエスペラントにおける高級語は、エスペラントの容易性、 合理性、中立性における最大の欠点であり、極めて重要な問題である と私は考えているので、 「使いたくないエスペラント単語集」の頁 という専用の頁を設けてそこで考察することにします。

 尚、以上のような私の考えに対して、様々な国のエスペランチストから、 いくつかの意見を戴いております(今のところ、概ね賛成というのが 多い)。和訳はしていませんが、エスペラントが読める方は、この頁の エスペラント版の方を参照して下さい。

Fundamento 問題
* 法律であれ、科学の理論であれ、橋渡しのために作った人工語であれ、 人間が作ったものに「絶対」ということはありません。 近代科学においては、「既存の理論を反証することを妨げないことによって、常に 自己修正する」という方法が極めてうまく機能することが歴史的に示されて きました。既に多くの欠点も持っていることが明らかなエスペラントも、 fundamento に囚われずに自己修正し続ける方法を取った方が将来性があるだろう と私は思います(「週刊金曜日への疑問」の頁 「言論の自由」に関連事項)**。

** 1999/10/12 追記:
  大信田 丈志さんから電便で、「現在のエスペラントはそんなに fundamento に囚われている 訳ではない」「意志の疎通のために fundamento に従うということと、 fundamento を神聖不可侵なものと見なす fundamentalismo (原理主義)とは違う」と いうような指摘を受けました。 なるほど、私は自分の頁上で、 種々のエスペラント批判をしていることもあって、 コチコチの「原理主義者」じみたエスペランチストたちと議論する機会があったり もしたせいか、 エスペラント界における「原理主義者」の割合をかなり高めに見積もって 一般化してしまっていたようです。 「エスペラントを橋渡し語として機能させるためには、 使用者が共有する規範が必要である。その規範を誰でもいつでも自由に 改変できるのでは規範の普遍性が失われるから、 規範を守ることは重要である」 というのは全くその通りだと私も思います。 私が問題視していたのは、 「時代の変化と共に、 大部分の使用者が、ある規範に不都合を感じ始め、 それを変更した方が良いと思うようになったとしても、 飽くまで規範を神聖不可侵なものと見なすのか、何等かの 民主的な方法によって規範を改変する可能性も認めるのか」 ということです。

「FUNDAMENTO DE ESPERANTO」(エスペラントの基礎)の序文に書かれた、 fundamento の改変についてのザメンホフ自身の態度(戦略)については、またの 機会に触れます(簡単に言うと、 「主要な国々の政府がエスペラントを公的に採用した暁には、 その国々の政府から選ばれた委員会が fundamento に一度だけ改変を与える ことを認める」というような)。

覚え書き(03/6/2):
フンダメントなんかにとらわれずに、 エスペラントもプログラム言語みたいに 仕様変更していったらどうか

 多くのプログラム言語の仕様変更というのは、割とうまく機能している。 プログラム言語は、最初に発表された時点では、なかなか不具合が 予想できないが、多くの人が、様々な用途に使っているうちに、 明らかに改善すべき不具合が色々と見つかってくる。 でも、一定のユーザーを持つプログラム言語を、ユーザー個々人が好き 勝手に改造するということはない(というか、個人レベルで勝手に改造したら、 プログラム言語を実行するのに必要なコンパイラーやインタープリター の方もそれに応じて改造しなければならない。 例えば、ホームページを書く HTML 言語を自分の好みに応じて改造したら (例えば、「<縦書き>ここは縦書きにしたい</縦書き>」と書くと その部分を縦書きにするような命令を加えたなら)ブラウザーの方も その命令を理解できるように改造しないといけないし、 他の人のブラウザーにも自分の改造命令を認識させるには、他の人の ブラウザーも改造しなければならない。しかし、これを各人が勝手に 行うことは不可能だ)。 で、多くのプログラム言語には、その言語の仕様変更を管理している 団体があって、数年ごとに(不具合を改善しつつ、時代の要請に 応えつつ)新しい仕様を発表している。 そのようにして多くのプログラム言語は効率的に進化してきいるし、 まあ、用途に応じて違う言語として分裂することもあるし、 新しいプログラム言語もどんどん発案されてきているし、 使う人がどんどんいなくなって廃れてしまうプログラム言語もある。

 私自身は、プログラム言語のそのような進歩の仕方をじゅうぶんに 感じ取り考察できるほどには、プログラム言語を使いこなしていない (せいぜい、 Fortran77 と 90 の違いとか、 マークアップ言語なら、html と xhtml の違いとか、 LaTeX2.09 と LaTeX2e の違いとかを、 自分が使う範囲のものを必要な範囲で 書き換えられる程度にしか分からない)。 でも、私なりの限られたプログラム言語(やマークアップ言語)の 使用経験から見る限り、頑なに仕様変更を拒否し続けるエスペラントには、 (このやり方を続ける限り)(未来に行くほど)未来はないと思う (この先、ザメンホフ ヴァージョン の不具合の報告がどんどん蓄積されて いくだけだし、時代の要請もザメンホフの時代とはどんどん変わり続けていくし)。

Fundamento 不可侵主義の大きな根拠として イド問題(かつて、 Ido(イド語) という エスペラントの改造案が現れたとき、 有能な?エスペランチストたちがイドに鞍替えしたり、 エスペランチストたちと対立したりして、 エスペラントが存続の危機に陥ったことがある云々)を 深刻そうに持ち出す感覚にはちょっとついていけない。 (ある用途に特化したりしたために) 仕様変更の程度が大きすぎるときにプログラム言語が分裂する ことはあるし(分かんないけど、Basic とかは Visual とか色んな種類ができたし、 htmlだって、携帯用のやつとか、マイクロソフトIE 用のやつとか色々できた)、 それらの中で、どれが残るかは、どれが使い勝手が良くて、 ちゃんとユーザーの要請に応えるものかというようなことであって、 どうしようもない不具合を残した使いにくい代物はちゃんと淘汰されて 滅びていく。

分裂による消滅を危惧せざるを得ないのは、単にエスペラントユーザーの数が (適宜 仕様変更をしながら健全に存続している 一つのマイナーなプログラム言語の使用者数とかと比べても圧倒的に) 少ないからということかも知れないけど、 例えば、アカデミーオ (Akademio) とかが、十年に一回ぐらいの頻度で、 ユーザーの意見を反映しながらエスペラントの仕様変更を発表していったとして、 そんなことでエスペラント消滅の危機が訪れたりするのだろうか。

というよりも、本当は、 「ある計画言語が、その仕様変更を管理する機関によって、 数年〜十年ごとに仕様変更する」 というシステムは、プログラム言語の進歩などと類比しても、 実はむしろ ごく健全なシステムかも知れないのに、 何か宗教的な信念を死守したいエスペランチストたちが、 意図的に、その(健全化の)可能性に目をつぶり、 あるいは、その可能性を口にするものを黙らせるために、 (私にとっては、ぜんぜん説得力のない) 「Ido への分裂によってエスペラントは消滅の危機に瀕した」 をさも深刻そうに持ち出したがるのではないか。

私にはなかなか理解できないのだけど、 Fundamentoに固執するエスペランチストたちには、 何か宗教的な信念のようなものがあったりするのだろうか。 仮にあるのだとすると、それを発生させているものは何だろうか……

Fundamento 問題については ./skssm.html#fundamento にも書いた。

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