(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

日々の覚え書き

注意
01/1/19

 案の定、私の場合、日記的な書き込みは年に三日か四日がいいとこである。 昨年、とある かげ?)で 日経ネットナビの ホームページ大王というやつに参加してみたが、そのとき、 「応援掲示板」というのに書き込む人が少ないので、 自分で日記代わりに使ってみたが、 一度の書き込み量を数行程度に制限されているせいか、 割と頻繁に書き込んでいた ので一応
ホームページ大王応援掲示板(00/12/1-00/10/15)
に置いておく。


1999/4/25

 シューベルトのピアノ三重奏一番(という言い方をするのかどうか 知らないが、作品番号99、D.890)を聴いていて、ふと 二楽章のミレファミ(階名唱法で)の 旋律の反復が、ジョン レノンのハッピークリスマス (「ウォーイーズ、オーバー」のところ)とそっくりだと思った。 これに似た旋律の反復としては、 ハイドンの交響曲24番ニ長調の4楽章には ドシレド(階名唱法で)の反復が出てくる。 そうすると、BACH の主題(シb ラドシ)にも似てくるが、 この主題は色んな人(バッハ本人によるフーガの技法 を初め、バッハの子供たちや、リストや マックス レーガーもか?)が、フーガとかに使っている (もしかすると、昔 テレビでやっていたイデオンという マンガの背景音楽にもBACHの反復が使われていたような……)。 BACHの最初の2音「シb ラ」を半音ずつ下げて ララb ドシにすると、 私のピアノ小品作品一の主題(階名唱法で) になる。 ところがこれは、バッハの平均律一巻の四番のフーガ嬰ハ短調 の主題(階名唱法で)と同じである。 シューベルトのピアノ三重奏のミレファミに戻るが、これは モーツァルトのジュピターの四楽章のドレファミの反復とか にも似てるかな。 ハイドンの十番台の交響曲にドレファミの反復が出てくるのは なかったろうか? 

16/1/10追記:ハイドンの交響曲13番の4楽章だ (YouTubeの18:20辺りから。 参考:『ジュピター音型』について)。 シラドシミレまたはミレファミラソとなると、 クレメンティのピアノソナタ作品41の4楽章の途中に出てくる音系か。

 ところで、シューベルトのピアノ三重奏(形式で演奏される一楽章形式の曲?) 「ノットゥルノ」(夜想曲とかノクチュルヌとかノクターンとか色々 言い方 はあるだろうが)は、あのあまりに美しい旋律ゆえに有名だが、 確かこの曲は、ポップス編曲されて、誰か (ヨーロッパ系の白人系の女の歌手?)が歌って、 それなりに有名になっていたのではなかったかと思うが、 あれは何という歌手(または演奏団体)の何という曲なのだろうか?  「シューベルト」「ノットゥルノ」「ポップス」「編曲」などの鍵語で検索してみても それらしいのは出てこない。 誰か知ってる人がいたら教えてほしい。

1999/4/15

 八甲田山雪質・積雪実態調査隊?というのに混ぜてもらって、 明日から山スキーに行くので、月曜まで更新はなし。電便も読まない。

 明日の準備をしながらテレビをつけたら、 アンビリーバボーという オカルト番組? で、天城街道峠だかどこかの山道を夜中に車で通りながら撮影したビデオに、 幽霊が映っているというのをやっていた。 私は、遂に 「鮮明な姿で動く」幽霊の映像でも撮影されたのかと期待していたが (しっかし、その問題の映像を見せるまでも、 その映像を見せられた人が怖がるところばかりを先に見せて、 更に 昔ここで誰が死んだだことの殺されただことの下らない演出をした上に、 十分以上待たされてようやく見せられた)、 「着物の女の人が立っている」と言われてから見ると、 確かにそんな感じのものがぼやけて背景が透けて映っているようにも 見えるが、そんなにはっきりと人の姿には見えない(別に動いている訳ですらない)。 そのビデオの映像は何回も繰り返し再生されていたので、 私は急いで自分のビデオの電源を入れて、辛うじて最後に再生された のを録画することができた。

 さて、その何かが映っている部分を停止画像で見てみたのだが、 私には必ずしも「着物の女の人」のようには見えない。 番組中では見せられた人が 「だんだんと輪郭がはっきりしてきて」 みたいな表現をしていたと思うが、 私には何回 見ても 輪郭がぼやけて背景が透けて見える何かワヤワヤしたもの (例えばビニール袋とか羽虫の群とか) にしか見えない。 「着物の女の人」と言われてそう思い込もうとして見ると、 何回か見ているうちに 「だんだんと輪郭がはっきりしてきて」 「着物の女の人」と確信できるようになる訳でもないのだろうか。

 それに、自転車(マウンテンバイク?)のサークルだかで、 山中の宿泊所に泊まって、夜中にそこから自動車で 買い出しに出かけ、「その山道のコースが練習用に使えるのではないか」 とふと思いついてたまたま、そこにあったビデオで録画 してみることにした(しかも、 その割には関係のない会話とかは特に入っていない) といった状況もどうもヤラセっぽいなんて私は思ってしまう。

 それにしても、 あの番組に出てきた人たちは、 どうしてあのワヤワヤを幽霊だなどとあんなにも素直に信じて 怖がることができるのだろうか。それこそが私には怖い。

1999/4/14

頁の運営方針

 書きたいことは本当にいっぱいあるけども、それをいちいち読み物として完成 させていくには、膨大な時間と労力を要する。思いついたことはなるべく 覚え書きにしておいて、それをほんの少しずつ少しずつ読み物の形に整理していく のがやっとである。だから、基本的に私は日記めいたものは書かないことにして いた。一日の中で自分の「趣味の執筆」?に要すことのできる時間は限られている のだから、それを日記なんかを書くのに割く余裕があったら、もっと自分の書きたい ものを書くのに使った方がいいと考えていたからである。

 実はその方針は高校時代から変わっていない。そもそも、私が日課または趣味 として文章を書くようになったのは、高校一年時に、当時あまりにも 国語の成績が悪かった私に対して、国語の先生が日記を書けと薦めた(命じた?) ことも一つのきっかけにはなっているかも知れない。というのは、当時の私は 日記なんか書くくらいだったら、自分の思考の成果?なり更には小説なりを書いた方が よっぽど面白いだろうし有意義だと考えたからだ (現に私は 小学時代から物語を書くのが好きだった)。 以来、私は毎日という訳ではないけれども、日記を書いている人が日記を書く ような感覚で、自分の思想?や小説を書いてきたらしい? 

 ところで、そういう自分の思想的な主張や小説を書くには、多かれ少なかれ 文章を推敲する作業が必要となる。つまり、書くのに時間と労力を要する。 だから、そういうものは少しずつしか書けない。

 私自身はそういう執筆方針でいいと思っている。その意味で例えば、 「 佐倉哲エッセイ集」のような頁の在り方は、私にとっての一つの手本である。

 しかし、書くのに時間と労力を要するネタというのは、毎晩 ビールでも 飲みながら少しずつ気軽に書きためていけるようなものでもない。 「書きたい」という欲求がある臨界点まで熟したときに、どうしても書かずには いられなくなって一気に書いてしまうものである。

 だったら、そういう書くのに気合いの要すものは、無理に毎晩 少しずつ 書き溜めたりするよりは欲求が熟すまで 放っておくとして、その分、普段は、もっと気軽に その日その日の思いつきを覚え書きとして書き込んでいってみてもいいのではないか と、ちらっと思ったのである。

 というか、勿論これには、少し下心?があり、毎日のように頁に更新がある と常連客が増えるのではないかという思惑もある。

 電網上では何故か日記ものが非常に流行っているようで、読み応えのある 評論や小説よりも、気軽に読めて毎日更新される日記の方が受けるのかも知れない。 仮にそうだとしても、私の書きたいのは別に日記ではない。 さて、どうしたものか。 現に覚え書きなどと言いながら、今日はこれを書くのに結構 推敲時間を使って しまった。こんなことを書くんだったら別の執筆途中の文章を 書いていた方がよかったかも 知れない。と言う訳で、あした以降、ここに書き込みをするかどうかは、 私も迷っている。


1999/4/13

 仙台市議会議員候補者選挙公報(青葉区選挙区)で佐藤わか子氏(民主党公認) は、自己宣伝として「血液型:B型 星座:魚座」などと書いておきながら、 「わかちゃんの辞書に差別や偏見という文字はありません!」などと ほざいている。 差別したり偏見を抱いている本人はそれを自覚していないことの方が多い という好例であろう (因みに、血液型を書くことを差別的だと思わない人は、 この頁参照。占星術の害悪については機会があったら後述)。

 勿論、私自身もあらゆる差別や偏見から完全に自由とは言えないだろうから、 「私は如何なる差別もしない」とか「私には如何なる偏見もない」などと 言い切ることはできない。

 ところで、この佐藤わか子氏は青葉区五位だかで当選したようだ。


 選挙の度に思うが、選挙の宣伝車で「……を宜しくお願いします」と 叫んでいる人は、声で判断する限り女の人ばかりのような気がするが、 どうだろうか。もしかすると、この人たちのことも「鶯嬢」と言うんだったっけ。 共産党すらも「鶯嬢」ばっかりではないだろうか。


 「女性党」というのは、名前の付け方からしてちょっと首を傾げるが、 どうも、「性別役割からの解放」とはむしろ逆行する 「女性ならではの」みたいな性差別的な方向性を志向しているのではないか。 宣伝用の貼り紙も、何やら桃色の背景に如何にも「女らしい」装飾を施した女の横顔 の写真を配したものだったと思うが、 何か勘違いしているのではなかろうか。要調査か?


 宇宙飛行士とか旅客機の操縦士とかになった人に対して、 「女性初の」と付け加えることがあるが、これも女性の進出にとっては 逆効果なのではないか。 仮に女性初であっても、別にそんなことを改めて言われなければ、 女性が宇宙飛行士や旅客機の操縦士になることがそんなに珍しいことだったとは 気付かされずに済むのではないか。



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