私とは誰か? ここでとくにひとつの諺を信じるなら、要するに私が 誰と「つきあっている」かを知りさえすればよい、ということに なるはずではないか?
アンドレ ブルトン 『ナジャ』(巖谷國士訳、白水ブックス)
自己紹介を書けと言ってくる人が時々いるので、 書いてみようかとう気に少しなってきた。 一方で、 自己紹介のないところがいいと言ってくれた人を 裏切るようでもあるが……。
続く……
氏名: 後藤 文彦(ごとう ふみひこ) 小学校低学年の頃、私は自分の名前を「ごとうふみひこ」と ひらがなで書いていた。周りの席の級友の答案に 「よし子」とか「のり子」とか書いてあるのを見て、私は、 なるほどと思い確信と共に得意になって「ごとうふみひ子」と 答案に書いて提出した。 ところが先生に、 「なんだい、子どもの子は女の子だげだよ」 と言われて「ごとうふみひこ」に直された (因みに私の性別は男であるが、 小学低学年当時の私は小野妹子などのように、 「子」は男に使われていたという知識を持っていなかった)。
私は海外の会ったことのないエスペランチストとそれなりに 電便のやりとりをしているが、 その際に自分の性別を相手に知らせたり、相手の性別を知る必要性は、 通常はないと考えている(恋愛対象としての可能性を模索するとかなら 別かも知れないが)。 だから、 私はエスペラントで文章を書くときは原則として、 性区別のある敬称は使わないこととし (呼び捨てに抵抗がある場合は「Kara(親愛なる)」や 「Estimata(尊敬される)」などを付けることはあるが)、 三人称代名詞は中性代名詞「ri」を使うことにしている (尚、 私は日本語を使うときも特に会話中では「彼」や「彼女」を代名詞としては使わずに、「この人」や「あの方」と言ったり、呼び名を繰り返し用いたりしている)。 一方で、時々、特にヨーロッパ人で私を女だと確信する人もいるようだ。 なんでも、ヨーロッパでは 「日本人で名前の最後に『-ko』がつくのは女だ」 と思い込んでいる人が結構いるらしい。
私がローマ字名を氏名順、日本式ローマ字で書くのは、 本多勝一とかの主張に 共鳴したからであるが、何故、訓令式で「GOTO^」とか表音式で 「GOTOO」ではなく、仮名対応式で「GOTOU」と表記するかについては、 例えばここに少し書いた。 尚、私もかつては、「Fumihiko Goto」などと表記していたこともあり、 特に楽譜とかに「F」をヘ音記号で、「G」をト音記号で書いていたりした。 今でも楽譜に名前を書くときは、 このト音記号とヘ音記号を使いたいために 「GOTOU Fumihiko」のように表記することもある。
生年月日: 1966/9/27* * 誕生の月日である 927 という数字を 逆に並べると、729 となる。これは、9×9×9 のことである。 今、9 2 7 を逆に並べたぶん、もう一度 9 9 9 を逆さにして戻す必要がある。 そうするとこれは 6 6 6 になる。 生年の 1966 も一つの 9 を逆さにすれば 6 6 6 が得られることを示唆している。 9 を倒置して 6 を得る手法は、例えば サバタイ ゼビが 千年王国実現の年に指定した 1666 年 からキリストの再臨する千年王国の実現を 1999 年とする予言などでも 採用されている。 安部公房の『密会』の「テープカウンター」にも 729 の数字が 現れる。 映画「マルコムX」によると、キリスト教の旧約だか新訳だかの聖書のナントカ記の 9章27節に人種差別を正当化する記述があるそうだ (どこだか分かる人がいたら教えて)。 以上の暗号学的考察により、これはもう明らかである:
後藤文彦はダミアンの生まれ変わりである。
当然のことながら、これは単なるこじつけにすぎないが、 これと同程度の(更には「こじつけ」すらがない) 命題を、何の科学的な根拠もないにもかかわらず信じてしまえる 困った人たちは、現代においてすら、まだまだ大勢いるのである。
私が生まれた 1966 年は丙午(ひのえうま)である。 この年の出生率は前後の年の平均よりも 27%も減少している。 27% もである!!! こんなことが起きた理由は、なんと 「丙午年生まれの女性は気性が荒く、結婚すると夫を食い殺す」という 何の科学的根拠もない 単なるあほらしい迷信を気にして、その年に出産することを本気で避けようと 考えてしまう人がそんなにも多くいたからなのだ!!! なんと恐ろしい世の中であろうか。 幸いにして、私の両親は、そんな馬鹿くさい迷信に対して 「慎重なる回避」を取る必要などないと判断できる程度には、 健全なる合理的精神と分別を持ち合わせていてくれたようだ。 私は「両親の迷信信仰」に対する踏み絵となる丙午の年に生まれたことを 誇らしく?すら思っている。 高校受験の際も大学受験の際も我々の学年は、 「丙午の学年は人数が少ないために前後の学年よりも競争心が ないから、受験には不利だ」などと、嫌味めいたことを さんざん言われ続けてきた。 仮に「競争心がなく」偏差値で評価した「成績が悪い」というのが 部分的には当たっていたとしても、そんなことは私にとっては、 大した関心事ではない。 丙午生まれの子供たちは、 前後の学年の子供たちよりは相対的に、 迷信に惑わされない親たちに育てられてきたと言える。 つまり、丙午の子供たちは、 科学的根拠のないものをむやみに信じたりしない 合理的精神において、 前後の学年の子供たちよりも相対的に、幾分は 優っているのではないだろうか—という矜持(というか「差別意識」? と言っても、丙午に出産することを避けた親が丙午生まれの者に対して 抱いている差別意識には到底 及ばないが)を 私は前後の学年に対して抱いている。
さて、次の丙午(2026年?)にも、出生率が低下するだろうか? 1999年現在にノストラダムスだの風水だのと騒いでるようでは、 2026年もきっと丙午迷信は健在なんだろうな。ああ、嘆かわしい。
* 因みに1821年9月27日は『アミエルの日記』 のアンリ フレデリック アミエルの誕生日でもある。
** 更に因みに、 1983年9月27日は、 リチャード ストールマンが GNUプロジェクトの開始を 呼びかけた 記念の日でもあるとのこと。 思いがけず、自分の誕生日がGNUの誕生日と同じだなんて、 なんともすてきだ。 これからは、誕生日にGNU開始記念日の祝杯を挙げることとしよう。
0012/9/27: 46才の誕生日にグーグルで検索しようとしたら、ロゴが誕生日ケーキになってたので、 私の誕生日がクッキーか何かで収集されて表示が変わったのかと一瞬 思ったら、 9月27日はGoogleの誕生日でもあるようだ。
使用言語: 石巻日本語(母語)、 共通日本語(非中立 国内 普及語)、 エスペラント(中立 学習容易 国際 橋渡し語)
会話能力に限定した場合、 母語である石巻語の運用能力を 100% として、自分の 言語運用能力を主観的に見積もるとすれば、 石巻訛りの共通語 95%( 国内共通語としてはこれで十分許容されるべき)、 東京訛り共通語は 90% (大学入学当初かなり練習した)、 エスペラントは 70%(今後も徐々に運用能力は上がっていくとは思う)、 英語 20% 以下( 大学時代にESSという英語部に入って修練?した。 でも、最盛期でも 30% 以下だったろう。 発話に関しては、まだ 30% ぐらいいくかも知れないが、現地人英語の聞き取りに関しては 10% 以下である。今後もどんどん落ちていくだろう)、 日本手話 3% 以下(手話サークルでちょっと囓った程度、 いずれ暇になったらまたやってみたい)、 フランス語 0.1% 以下(大学の教養部で選択した。当時は結構 熱心に学習した のだが、その後 何もしないでいたら見事に忘れ去った。 「Le sacre du Printemps」が「春の祭典」 のことだということくらいしか分からない)。
私がエスペラントを喋ってる動画をいくつかYouTubeにアップした: "Ĉu vi havas malfacilaĵojn en Esperanto?", "Kiel vi lernis Esperanton?", "Kial vi lernis Esperanton?"
不使用言語: 英語(非中立 学習困難 世界普及語) 日本国内で前述の 使用三言語以外の音声言語で話し掛けられても、 原則として、この三言語のいずれかで返答する。 相手の話している言語が英語であると判断できた場合、 人命(特に自分の)にかかわるような事態である場合や、 仕事上(賃金をもらっている関係上)使わざるを得ない場合や、 相手の分かる言語で皮肉を言ってやりたい場合などを除き、 原則として英語は使わない。 外国を訪れるに際しては、できるだけ この人の態度を見習いたいところだが、 前述したような特殊な?場合や、 新婚旅行中(願わくばそんな機会が訪れたとして) に英語を使わないことによって 変人だと思われて成田離婚される危険性を 察知した場合には、適宜 使う。
料理能力:
小学低学年までの時点で納豆のかまし方 や鰹節の削り方(カンナを逆さにしたような鰹節削りで)を習得する。 小学中学年頃までには、目玉焼きや卵焼きやその変種 (ハムやチーズを入れるとか)を習得する。 小学高学年頃までには、果物各種の皮剥きと切り分け (丸ごと皮を長く剥くやり方と四分の一に切ってから、 中央の種の周辺を切り外して皮を剥くやり方と)を習得する。 中学時代に剣道部というものに所属していたために休日に練習試合などに 行かされることが多く、 その弁当の準備を母親と一緒にやる機会も多かった。 その際、丸形海苔おにぎりと醤油焼きおにぎりと生味噌おにぎりの製法を 習得する(私は味噌おにぎりは焼かない生の方がおいしいと思う)。 高校時代は特に目覚ましい進歩は認められない。 大学入学後、色々と自炊/実験することにより、 ちょっとした料理はできるようになる (「ちょっとした料理」というのは、 炊飯器でご飯を炊く、味噌汁各種、肉を焼く、魚を焼く、 カレー、シチュー、豚汁、鍋物各種などなど)である。 社会人になってから(と言っても私の場合は二十代後半であるが)、 「花婿修行」の一環として、 できる料理の品数を増やそうと心がけ始める。 そして、 中華関係:広東風焼きそば、炒飯、チンジャオロース(漢字?)、 ホイコーロー(漢字?)、酢豚、餃子などなど、 丼もの:牛丼、親子丼、いとこ丼(豚丼?)、天丼、 カツ丼などなど、 揚げ物:天ぷら各種、唐揚げ各種などなど、 和風総菜:肉じゃが、煮物各種、 洋食:オムライス、出来合いのルーを使わないカレーや ホワイトソースを使ったシチュー(圧力釜の実験を含む)などなど、 などなどの調理法を、練習し、 「出来」にムラはあるものの、それなりに「自分が喰える」 「友人にも喰わせられる」(実験済み)献立が少しずつ増えてきている (最近の成果。というか実状)。 しかし、 石巻に生まれ育ち、活きのいい魚料理ばかり食べさせられて育った私は、 相対的に鮮度の落ちる仙台の魚はどうしても敬遠してしまうので、 まだ魚料理には手を出していない。 そのまま塩をふって焼いたり煮汁で煮たりはできるが、 三枚に下ろしたり刺身にしたりする技術はない。 その辺は今後の課題である。 因みにホヤのさばき方は母親に教わった。
日常の娯楽
さて、以上の料理能力向上のための修練は、必ずしも自炊を目的として いる訳ではない(だから、「花婿修行」と書いたのも満更 冗談という訳でもない)。 料理というのは一人でしてもあまり楽しくはない。 ところが、その同じことを みんなでやると途端に楽しい「娯楽」となる ことを私は多くの経験から悟った。 こんなにもありきたりで身近な単なる家事労働の中に、 こんなにも楽しい娯楽の要素が潜んでいたとは大きな発見だった。 以来、私は、いつの日か、 愛しい人?と、あるいは自分の子供たちと、 (あるいは友人たちを自宅に呼んで、ぐらいは今でもできるが) 一緒に料理をする楽しみを享受できるやも知れないことを夢想(妄想?)して、 今からその準備のために自分の料理能力を磨こうとしている訳である。 その意味では、 仮に将来、自分の家庭のようなものを持つ機会が願わくば巡ってきたとして それなりに広い自分たちの持ち家のようなものを持つようなことがあるなら (あるいはマンションでも、好きなように改装できるとして)、 台所の流しは、両側から顔を向かい合わせながら洗い物の できるような家庭科室のような配置にしたいと考えている。 最近の住宅の流しは、居間の方を眺めながら作業できる方向に設置される ようになってきており、壁側を向いて設置された流しよりはマシであるが、 あれでも、複数の人間が向かい合って洗い物ができるようにはなっていない。 それに狭すぎて、せいぜい二人ぐらいしか作業に従事できないし、 顔を向かい合わせては作業できない。 台所は、家族で料理を楽しむ娯楽室でもあると考えるならば、 もっともっと広く快適にしなければならないのだが……。 (最近、知人に教えてもらった サンウェーブの2ウェイ・アクセスは、私のそうした理想に近い用途向けに設計されている)。 そんなふうな浮き世離れした?ことを夢想(妄想)する私の思想的背景? にも少し触れておく。「飲み話」の方にも関連することを書いた。先日(1999/11頃?)テレビタックルというテレビ番組で 田嶋陽子氏 が、 それが理想かどうかはともかくとして、 「将来的には、 各都市に給食センターが完備されて、 労働者たちが、家事に煩わされることなくそこで 食事を取れるようになるだろう」というようなことを言っていたが、 そのような方向性は、私は理想的だとは思わない。 世の中が、
1) 家計労働(職業)こそが生き甲斐だから、 それを専業とし、毎日、朝から晩まで殆どの時間をそれに費やしたい人
ばかりだったら、あるいは「給食センター」でもいいのかも知れない。 「給食センター」のない今までの時代においては、 仮に1)のような人がその意向通りに生活しようとすれば、 誰かがその人の生活に必要な家事労働を代行してやる必要があった。 性別役割が受け入れられていた今までの時代においては、 1)のような人になる資格(というか義務)が男だけに与えられていて、 一方、その配偶者である女には、
2) 家事労働こそが生き甲斐だから、 それを専業とし、毎日、朝から晩まで殆どの時間をそれに費やしたい人
になる義務(というか資格)が与えられているのだとみんなが思い込んで いたんだと思う。 しかし、当然のことながら、全ての男が1)のような人ではないし、 全ての女が2)のような人ではない。 例えば、
3)家計労働か家事労働かのどちらかだけを専業としてそれだけに朝から晩までの 時間を割くことは厭で、 家計労働にも家事労働にもどちらにも時間を費やしたい人
だっている。 そもそも、家計労働の楽しさやつらさと家事労働の楽しさやつらさは 全く異質なものなのに、 その両方を半分ずつ味見することは認められないのだろうか。 それに、 家計労働と家事労働の両方に従事した場合、 同質の労働のみに従事している場合に比べて、 「家計労働の楽しさが家事労働のつらさを家事労働の楽しさが 家計労働のつらさを紛らわしてくれる」 のような副次的効果も期待できるのではないかとも思うのだが。
勿論、現実には、3)のような人どうしが夫婦を構成していたとしても、 互いの意向通りに生活することは極めて困難である。 例えば、現状では専業とはしない家計労働はいわゆる パートタイムになってしまい、 たとえ共稼ぎであっても、それで家計を維持するのは極めて困難である*。 だから少なくとも夫婦の一方は、専業家計労働者にならざるを得ない のが現実であろう。
* 田嶋陽子氏の「給食センター」と対比させて書くなら、 私は現在の半分の労働時間(つまりパート労働程度の)の家計労働で 十分に一人分の家計が支えられるような社会になるのが理想ではないかと 考えている。 そうすれば、 夫婦の一方が午前中に家計労働を午後に家事労働を担当し、他方が午前中に家事労働を午後に家計労働を担当する といったような共同生活も可能になるであろう。
01/6/4追記: 友人が BS 放送で見た話を電便で教えてくれたのだが、なんでも、 オランダでは、パート労働者と正社員労働者との賃金の格差を 設けてはいけないというような法律があるそうで、現に夫婦二人でパートで働いて、 残った時間で夫婦二人で家事育児に携わるといった(正に私の理想視する)生活を実践している 人たちもいるようだ。なんでも、そのように夫婦二人でパートで働いた場合の収入は、 夫婦の一方のみがフルタイムで働いた場合の約1.5倍ぐらいになるんだとか。 こういうふうにフルタイムとパートタイムとに賃金格差を設けない(?たぶん)政策を オランダ型ワークシェアリング と言うようで、 今まで知らなかった私が不勉強なのだが、ともかく、 私の「想像(妄想)実験」を社会的に実践(実験)してくれている国があり、 それなりの成果を上げているらしいことは実に頼もしいことである。
私が願わくば3)のような人と夫婦を構成するようになったとしても、現実問題として 夫婦の少なくとも一方または両方は専業家計労働者になるであろうと思う。 だから、 前述のように、 「家族で一緒に料理をすることは楽しい娯楽だ」なんて暢気なことは 言っていられないであろうと思う(願わくば子宝にも恵まれたとして、 育児に手がかかる時期とかは。 しかし、育児自体だって料理に劣らぬ楽しさと喜びを包含しているとも 思うのだが……)。 だから、現実には、 料理や育児を楽しむなどという暢気なことは言ってられなくて、 慌ただしく忙しい毎日になるのだろうと思う (それだって、孤独の苦しみと格闘する日々と比べたらどんなにか 魅惑的で幻惑的なことかと妄想してしまうが)。しかし、仮にそうなったとしても、 せめて週末ぐらいには(特に子供がそれなりに大きくなったら)、 家族と一緒に料理を楽しむくらいのゆとりを作れるかも知れず、 そのささやかな楽しみのために、私が今から料理の腕を磨こうと 準備しているのが全くの無駄とも言い切れないだろう。 勿論、今のところ(未だに?)「願わくば」が訪れるような予兆は 一向にないから、これは本当に私の妄想に終わるかも知れない。 まあ、そのときは、 週末に友人たちを呼んで憂さ晴らしの宴会をしたり、 海外のエスペランチストを家庭滞在させてやったりする際にのために、 料理技術は転用?可能だから、それはそれでいいだろう (よくはないのだが……)。
追記(0000/8/1):
星新一の掌編で、蚊が絶滅した未来に、 「痒いところをつくって、そこを掻くのは気持がいい」と誰かが言い出したら、 痒くする薬を入れた 小型ヘリコプターを部屋に放し飼いにし、時々体を刺してもらって、 痒いところをつくってもらうのが流行りだしたとかいうのがあったが、 もしかすると私が思い描いている家庭の理想像というのも、それに近いのかも 知れない(尤も、私は「蚊に刺されたところを掻くのが気持いい」とは、 とても思えないから、「蚊のいない環境」の方が快適だとは思う。念のため)。 将来、科学空想映画みたいに部屋に備え付けの機械に命令すれば、好きな食物が出て くるような時代が仮にやってきたとして、 そんな世界で、家族(という集団形態が、なくなっていれば、それも 趣味仲間として形成/所属することにしてもいい)と一緒に、 食物を原材料から「自作」して食べるということを、趣味や娯楽 として楽しむことは、 多額のお金や時間や会場を必要とする極めて贅沢な道楽になっているかも 知れない。 その時代には、親しい人(たち)と楽しめるもっと魅力的で手軽な趣味や娯楽 (仮想現実とか?)が 発達しているかも知れないから、わざわざ「食物の自作」なんて贅沢な 道楽をする意義は薄くなっているかも知れない。
幸い、現代では、 「親しい人(たち)との食物の自作」や 「愛しい人との子供の手作り(手育て?)」は、 それを一緒に楽しむ相手さえ見つければ(実はある人々には ここが最難関であるのは棚に上げるとして)、 手軽に楽しめる設備は整っているし (材料や道具は何処でも売っていて作業場は何処の家にもある)、 どうせ生活必要経費として出費せざるを得ない 食費(や養育費)が、そのまま趣味の費用に使えるのだから、 非常に低予算で手軽である(毎日だってできる)。 しかし実状は、多くの人たちは、せっかく 「親しい人と一緒に暮らす」ことまでしていながら、 「一緒に食物を自作したり」や「一緒に子供を手育てしたり」を趣味とはしていない。 では、そういう人たちは、 別に「一緒に料理」や「一緒に子育て」を楽しまなくても、 命令すれば食物を出してくれる機械や、 子供を養育してくれるロボットを所有していて、 もっと魅力的な他の娯楽(仮想現実とか)を楽しんでいる のかというと、 まるでそうではないようだ。 共同生活を楽しむことを契約した二人のうちの 一方が一人で食費や養育費を捻出するために一日中賃金労働を担当し、 他方が一人で趣味としてではなく労働として食物の自作や子供の保育を 担当し(更に賃金労働をも担当したりし)ている。 だから、共同生活を楽しむことを契約した二人 (とその子供)で一緒に娯楽に興じられるのは、 せいぜい休日・休暇にどこかに出かけたりする折りぐらいに限られて しまったりしているようだ。
勿論、普段の生活は忙しくて共同生活者と趣味や娯楽に興じる余裕はなくても、 週末や休暇に共同生活者と趣味や娯楽に興じられるだけで満足だという 人(や、 生活費の捻出に専念する代わりに家事や育児の一切を代行してもらえさえすれば、 後は共同生活者には無関係に仕事帰りの飲みや週末のゴルフを楽しめるだけで 満足だという人や、 家事や育児の一切に専念する代わりに生活費を支給してもらえさえすれば、 後は共同生活者には無関係に昼ドラを見たり昼寝をしたりできるだけで満足だという 人)はそれでもいいかも知れないけれど、私はそういう人ではない。 誰かと共同生活を楽しむ契約をするのなら、もっと普段の生活こそを一緒に 楽しみたい。 料理や子育ての一切を備え付けの機械やロボットがやってくれるようには なっていない現代社会においては、 共同生活者どうし(一般的には夫婦) が共有できる時間をできるだけ多くして (つまり、共同生活者のどちらか一方でもが 賃金労働で留守にしなければならない時間をできるだけ短くして、 つまり仕事は適当にして) 少しでも一緒に料理や子育てをすることを 日常のちょっとした娯楽にしてしまうことは、 現代社会を楽しむ上での巧妙な(効率的で合目的的な)「適応」 ではないかという気が私はしている。 つまり月並みな言い方をするなら、 生活費を捻出する責任を夫婦の一方に押し付けて(「一家の大黒柱」)、 家事や育児の責任を夫婦のもう一方に押し付けて(「家庭の主婦」) 分担するやり方よりは、 そうした一連の責任を夫婦で共有する部分をもっともっと増やした方が、 お互いに責任の負担が減って精神的に楽になるし、 家事や育児の責任の共有部分は娯楽としても楽しめるようになるのではない かなあと夢想(妄想)する訳である(例によって)。
更に、私は現代社会に生まれたから、それを効率的で合目的的な「適応」なんて 捉えているけど、仮に、 子供がコンピューターの管理で養育され、 誰もが個人の部屋を支給されて、その部屋に備え付けの機械に命令して食事を取り出 すことが当たり前のような世界に私が生まれていたとしたら、 私はわざわざ日常生活を楽しむための 共同生活者を見つけだし、わざわざ金を払って部屋を借りて一緒に住み、 わざわざ食物の原材料を機械に作らせて(食物以外のものを作らせると 金がかかるとしても)、その共同生活者と一緒に食物を自作したり、 人間の幼児型のアンドロイドを特注で買ってきて(自分たちで勝手に子供を生んで 育てることが法律違反になっていたとして)、それを共同生活者と一緒に 保育したり(さしずめタマゴッチの実物版か?)という途方もなく 贅沢な道楽に興じたいと切に願うような人間だったかも知れない。 そう考えれば、 この前時代的な世界で、 その途方もなく贅沢な道楽に割と近い生活様式を実現できるかも知れないことは、 正に夢のような話ではないかと思うのだ (という訳で、続きは、私自身による実験の報告ができる日が 仮にも訪れた機会にでも…… 乞うご期待???? もうちょっと待って?? という訳で )
続く???……
運動能力: 球技一般:野球やテニスをはじめ、ルールすらよく分からない。 温泉卓球が辛うじてできる程度?
幼年期に、球技に特に関心がなく、また球技をやらなかったせいか、 たいがいの球技は極めて苦手である。ルールすら知らない。 ましてや、「スポーツ観戦」というやつには、全く興味がない。 親睦のための野球大会やテニス大会をやられると、とても困る。 ニュースのスポーツコーナーは邪魔。 というか、天気予報をスポーツコーナーの前にやってほしい (そうすれば、スポーツコーナーから後を見ないで済む)。 プロ野球で、九時からの映画番組が三十分繰り下げになると、 その不条理に腹が立つ。特に、せっかくビデオで予約録画していたのに、 最後の結末の三十分が録画されていないほど悔しいことはない。
球技以外の運動なら、人並み(以上?)にできることも、まあまあある。 スキーとかは、まあ滑れる方だろう。 最近はI氏に誘われて山スキーなども始めた。
続く……
スキー:緩斜面でウェーデルン(もどき?)ができる程度)。
スケート:確か、バックのクロスぐらいまではできていたと思うが、 もう何年も滑っていない)。
水泳:平泳ぎでなら数百メートルは泳げる。 クロールは25がやっと。50泳ぐと死にそうになる。 平泳ぎの潜水は、調子が良ければ辛うじて25まで届く。 でも死にそうになる。
剣道:小学三年の時から道場に通わされてしまったために、 中学でも剣道部に入ってしまう。だから、確か、四級、二級、一級、初段 を持っていたと思う。いずれ書くが、たぶん、もう二度と剣道をすることは ないだろう。中学の剣道部は、 金土は朝稽古、日曜も練習や練習試合、元旦も元朝稽古。 体調が悪くても休みずらい雰囲気の典型的な体育会系というか 空気の張りつめた武道系?のノリ。 正直なところ、私はやめたかったし、親からも、 「病気になっても休めねなんて、おがしいど思って顧問の先生さ 訊いだっけ、どんどん休ませて下さいっつうんでねえの。 結局、あんだがおがしんだっちゃ」 と責められて、どこにも救いの求めようがなかった。 体調が悪いからと見学をすると、先生が座ろうとした時には、 先生が面を取ろうと紐に手をかけるより前に走っていって、 粗相のないように先生の面を取って差し上げなければならなかったりして、 見学した方がかえって神経を使う。 私は剣道部のお陰で、初めて胃痛を経験し、胃腸薬を携行するようになった。 そりゃあ私こそが休みたかったよ、体調の悪い時であれ、 有意義に過ごしたい休日や夏休みであれ。 でも、雰囲気的強制力というか、組織のノリに逆らう恐怖には勝てなかった。 「体調が悪ければ休んでいい」「余暇活動なのだから、やりたい時だけやればいい」 など、表向きは保障されている筈の権利を、実質的にはまるで行使できなくするような 雰囲気的拘束力に支配された社会というものを経験したという意味では、 勉強になったとは言える。 それにしても、貴重な中学時代の時間をあれほど費やしてまで勉強するような ことではなかった。 もしあの時間に、ピアノでも習っていたら!!! 未だに「かかり稽古」の夢を見てうなされる)。
ボーリング:最低は14だったか。年に一回ぐらい、つきあいでやるが、 60〜90ぐらい。100は越えないだろう。
演奏楽器: ピアノ(技巧的水準は著しく低くて厭になってしまう。例えばインベンション辺りは弾けるには弾けるが、
「粒」はまるで揃わない。つまり、「ちゃんと」は弾けてない。
リズム感が悪い。致命的である。
せめて初見能力をつけたい)。バロック縦笛(いわゆるリコーダー。
ヘ調管での初見は無理。だからと言ってハ調管なら大丈夫という訳ではない。
ごくたまにしか吹かないので、一時期吹いていたという程度)。
バロック横笛(いわゆるフラウト トラベルソ。
まるで音が出ません。アウロスのプラスチックのを買って、
一月ぐらい頑張ってみたけど諦めた)。
口笛(もしかして、リコーダーよりも巧いのではないだろうか?
二オクターブ以上出るし。でも、リコーダーよりも音痴だが)。
22年から
ギタレレというミニギターを始めた。
家に「放置」してあった姉のピアノを意識的に自己流で いたずらし始めたのは中学三年頃から( それ以前はこんな感じ)。 大学入学時にはバンドでキーボードを担当し、 ちゃんとピアノの先生についたのは大学四年頃から。 その辺の話は こっちに書くかも。
続く……
参考までに、以下に列挙した曲の多くは、 Classical MIDI Files at MIDIWORLD や Classical MIDI Archives を初めとする公開の頁で midi ファイルが見つかる。有り難い話だ。 というか、最近は、 YouTubeで検索すれば、 下記の曲の多くが動画で鑑賞できるようになってきた。 素晴らしい。 更に、 IMSLPで検索すれば、 下記の曲の多くの楽譜がpdfでダウンロードできる。 しかも、管弦楽曲のピアノ編曲の楽譜もあったりする。 夢のような時代になってきた。
ギョーム ド マショー (1300頃-1377, Wikipedia): ノートルダム ミサ曲(タバナーコンソートの「チリンチリン」と 鈴がなるやつ。 midi )
トーマス タリス(1505頃-1585): エレミアの哀歌 (Lamentations of Jeremiah, midi、四十声部のモテト (ルネサンス聖歌の中では非常に親しみやすい旋律) (YouTube動画) (IMSLP楽譜)
ジェズアルド(浮気したつれあいとその浮気相手とを殺した人。 この時代にしては半音階が多用されていたり、 予想外の跳躍があったりする)
スウェーリンク (1562-1621, Wikipedia): オルガン作品 エコーファンタジー十二番。
ジョン ダウランド (1563-1626, Wikipedia ): 涙のパバーヌ( midi。ダウランドのが最も有名だが、 スウェーリンクのやつとかもいい)。リュート歌曲 (恋愛を題材にしたものが多いが、その歌詞は悲しみと絶望に 満ちていて、なかなか凄い、いい。例えば:)
暗闇にぼくは住みたい 「悲しみ」を地面に
「絶望」を屋根にして 陽気な光を締め出そう
壁はいつも涙で湿っている黒い大理石
おぞましい不協和な音楽で 安眠を遠ざけよう
そんなふうに悲嘆を娶(めと)り 墓石を床にして
ぼくは生ける屍となりたい 真の死がくるまで
ジョン ダウランド:リュート歌曲集「音楽の饗宴1610」より 「暗闇にぼくは住みたい」(高橋康也 訳)
ルイ クープラン (1626-1661): 組曲ニ長調 前奏曲(出だしが印象的)、 シャコンヌ(独特の調性感)。 組曲ハ長調 パッサカリア(どんどん転調し続けるような独特の調性感) (YouTube動画) (IMSLP楽譜) 。
ディートリヒ ブクステフーデ (1637頃-1707/5/9, Wikipedia): 前奏曲とフーガ ト短調 Bux WV 163.
アルカンジェロ コレルリ (1653/2/17-1713/1/8, Wikipedia ): バイオリン ソナタ作品五第十二番フォリア(La Follia、 midi。 ブリュッヘンのリコーダーのやつ。ビバルディのフォリアもなかなかいい)。 コレルリのフォリアのピアノ編曲の楽譜とか、 ビバルディの四季のピアノ編曲の楽譜とかを弾きながら見ていると、 私の音楽感性には やはりバロック時代の対位的な分散和音の作り方の方が、 スカルラッティやモーツァルト以降の アルベルティバス的な 和声的な 分散和音の作り方よりもずっとかっこよく感じてしまう。
フランシス クープラン (1668-1733, Wikipedia): クラブサン曲集 第二巻六組曲の五曲目 神秘的な門 (Les Barricades Mysterieuses、midi)、 第三巻十三組曲の一曲目 花開くゆり(Les Lis naissans)、 二曲目 葦(あし、Les Roseaux)、 十八組曲の六曲目 ティク・トク・ショク、またはオリーブしぼり機(Le Tic Choc ou les Mailotins)。 クープランの曲は、長調の曲は異様に明るくて、 短調の曲は異様に暗い。私は短調の曲の方がいい曲が多いような気がする。
アントニオ ビバルディ(1678-1741, Wikipedia): リコーダー オブリガートを伴う二つの合奏体のための協奏曲イ長調 RV.585(2楽章アダージョ)。 マンドリン協奏曲ニ短調 RV.540(2楽章ラルゴ)。 協奏曲ニ長調RV.564(2つのバイオリン、2つのチェロ、2楽章ラルゴ)。 協奏曲ニ長調RV.90(ソプラニーノ、2楽章ラルゴ)。 リュート(またはギター)協奏曲ニ長調RV.93(2楽章、ラルゴ)。 協奏曲 RV.94(2楽章ラルゴ、リコーダー)。 協奏曲作品三「調和の霊感」第六番一楽章。 ビバルディのニ調の協奏曲の緩徐楽章のラルゴには、 この上なく美しい旋律の曲が多い。 もちろん賑やかな楽章のノリノリの曲も好きだけど。
ゲオルグ フィリップ テレマン (1681-1767, Wikipedia): 食卓の音楽 第二巻エール二番(ビバーチェ)
アレッサンドロ マルチェロ: オーボエ、弦楽器、通奏低音のための協奏曲ニ短調 (Concerto in D- for oboe、midi。 バッハ編曲 BWV974、グールド、二楽章)
ドメニコ スカルラッティ (Domenico Scarlatti, 1685/10/26-1757/7/23, Wikipedia) : ソナタ へ短調 K. 466 / L.118、 イ長調 K.208 / L. 238、 二短調 K. 436 / L.109、 ホ長調 K.380 / L. 23 ( midi)。 ファンダンゴ ニ短調(曽根麻矢子編曲)。 スカルラッティの旋律の作り方の癖は、実はあまり好きではない (バッハやビバルディの旋律の作り方の癖は非常に好きであるが)が、 たまに、私にも美しいと感じる旋律に出会う。
ゲオルク フリードリヒ ヘンデル (George Frideric Händel, 1685/2/23-1759/4/14, Wikipedea) :リコーダー ソナタ ト短調 HWV.360(楽譜:imslp) 3楽章プレスト、 イ短調 HWV.362(楽譜:imslp) 3楽章アレグロ。 鍵盤組第2巻曲4番ニ短調 HWV.437, 3楽章, サラバンド (キューブリックの映画「バリーリンドン」で弦楽?編曲版が使われていた)。 鍵盤組第1巻組曲第2番ヘ長調 HWV.427, 1楽章アダージョ。 ヘンデルの鍵盤曲は、 NAXOSのカクストンのチェンバロによるものとか、 グールドのよりによってチェンバロによる演奏とかを聞いて、 なんかぜんぜん (バッハみたいに1回聞いただけで旋律や曲の印象が記憶に 焼き付いて思い出して鼻歌で歌えるようになるかという意味では) キャッチー(英 すぐ覚えられる)じゃないし、 まあ、ヘンデルは別に開拓しなくていいかなあと結論していたけど、 リヒテルとガブリロフによる演奏会のCDを買って聞いてみたら、そう悪くない。 もちろん、バッハで似た感じのフランス組曲だのイギリス組曲だのと 比べてしまったら、バッハの方が圧倒的にいい曲だとは思うけど、 バッハ以外の作曲家による対位的な鍵盤曲で ピアノでパラパラと弾かれると映える曲が、 ほとんど見当たらないという状況では、 なかなか貴重な曲目だと思う (私の正直な感覚では、バッハ>原博>>>ヘンデルぐらいの感覚だが、それでも貴重だ)。 ヘンデルは、リコーダーソナタとかは、すごくキャッチーで、 バッハのフルートソナタ(と言っても偽作が多いのだが)なんかよりも、 ずっといい曲密度が高いと思うけど、 どうして鍵盤組曲は、リコーダーソナタみたいにキャッチーないい曲に しなかったのだろう? ヘンデルだったら能力的にできたと思うんだけど。 歌劇セルセ(クセルクセス) HWV.40 第一幕「なつかしい木陰(ラルゴ)」(の各種編曲もの)
ヨハン セバスチャン バッハ(J.S. Bach, 1685/3/21-1750/7/28, Wikipedia): ゴルトベルク変奏曲( YouTube 、特にアリア、25, 30, 2 変奏。グールド、高橋悠治、ロス、ジャコッテ)。 パルティータ(第二番:シンフォニア、アルマンド。第六番:ジグ。 グールド、高橋悠治)。 平均律第1巻 8番フーガ(YouTube)、 10番のフーガ、19番のフーガ、22番のフーガ( midi )、 平均律第2巻 4番のフーガ、6番の前奏曲、22番のフーガ( YouTube )。 フランス組曲(第四番クーラント、第五番サラバンド。グールド、ヘブラー)。 トッカータニ長調 BWV912(グールド、 YouTube)、 ホ短調 BWV914(グールド、 YouTube)。 シンフォニア:7、9番(グールド、高橋悠治、ジャコッテ。 BWV793(YouTube), 795(YouTube), midi )。 協奏曲BWV974(グールド)。 フーガの技法(高橋悠治、グールド)。 前奏曲とフーガ(オルガン) BWV543の前奏曲 (YouTube)、 BWV548のフーガ (YouTube)、BWV546のフーガ、BWV541の前奏曲。 チェンバロ協奏曲五番二楽章ラルゴ(グールド、ジャコッテ)。 バイオリンソナタ二番三楽章(midi)。 カノン BWV 1078(Canon super fa mi a 7 post tempus musicus, YouTube。 ムジカ アンティクワ ケルンの音楽の捧げもの に入っている)。 ブランデンブルク協奏曲(二番一、三楽章。三番一楽章。六番一楽章)。
シルヴィウス レオポルト バイス(ヴァイス) (Sylvius Leopold Weiss, 1687-1750, Wikipedia, YouTube): ソナタSW36番ニ短調iiiブーレ、ソナタ14番SW19番ivヘ長調ジーグ、 ソナタSW35番ニ短調iアレグロ、 ソナタ21番SW27番ハ短調vサラバンド、 ソナタSW37番ハ長調ivブーレ、ソナタSW46番イ長調viプレスト、 ソナタ4番SW5番ト長調iiアルマンド、 ソナタ2番SW2番ニ長調iiアルマンド。 (私はバロックの作曲家の中では、バッハとかビバルディの旋律の 作り方というか音階の選び方の癖はとても馴染みやすいが、 例えば、スカルラッティやラモーの旋律の作り方や音階の選び方の癖は 今一つ馴染みにくく感じる。 そういう音楽感性の私にとって、バイスのリュート曲は、 とても馴染みやすくいつまでも聞き続けていたいような心地よさを 与えてくれる。 いつのまにかNAXOSでバイスのリュート曲集が8枚も出ていたので、 ひとまず8枚めを買ってみた。 恐らくバイスの曲の中には私が気に入りそうな曲がまだまだ埋もれていそうな 感じがするので、これから開拓していくのが楽しみである)。 18/1/8追記: バイスの曲は、 (バッハみたいに1回聞いただけで旋律や曲の印象が記憶に 焼き付いて思い出して鼻歌で歌えるようになるかという意味では) キャッチー(英 すぐ覚えられる)じゃない。 その意味では、例えばスカルラッティとかの方がよっぽどキャッチーだ。 ただ、旋律の作り方や音階の選び方の癖という意味では、 バイスはいつまで聞いていてもいやにならないというか、 むしろいつまでも聞き続けていたいような心地よさが(私にとっては)あるが、 スカルラッティは、(私にとっては)癖が強くて聞き続けていると、 疲れてくる(私にとっては)。 もちろん、世の中にはスカルラッティの大好きな人たちも結構いるから、 そこは好みの違いでしかないのだが、 私の好みに影響を与えているのは、曲のキャッチーさだけではなくて、 音階の選び方の癖というのが大きいかなあと。 その点、バッハは私の好きな音階の選び方の癖の中で、 実にキャッチーないい曲ばかり作っているから、本当に別格の作曲家なのだが。 以前、 友人N氏が、 まるでキャッチーじゃないハイドンのピアノ・ソナタ群を評して 「毒にも薬にもならない」と言っていたが(私もそう思うが)、 バイスは、まるでキャッチーではないけど、 聞いていて心地よいという意味では、 私にとっては「薬」になっているのだなあと思う。 その点、スカルラッティとかは、私にとっては結構「毒」がある ということかもしれない。
ヨハン ヨーアヒム クバンツ (1697-1773):トリオ ソナタハ長調一楽章。
カール フィリップ エマヌエル バッハ(C.P.E. Bach, 1714 - 1788, Wikipedia):(2017/10/21追記) チェロ協奏曲イ長調 Wq.172 (二楽章はJSバッハのシンフォニア9番 の真似では?) (視聴:naxos)。 ソナタ イ短調 Wq.65/33(H.143), 1, 3楽章 (視聴:naxos) (楽譜:cpebach.org)。 IMSLPにないC.P.E.バッハの楽譜は、 http://cpebach.org/で見つかるかも。 C.P.E.バッハの鍵盤曲は、必ずしも(私にとっての)「いい曲密度」が高い方では ないが、少ない声部で短調の重いメロディーが対位的にからむ渋い(じじくさい?)曲が 時々あり、そういう曲はなかなか好きだ (ベートーベンで言うと バガテル作品126の4番的なというか。じじくさい?旋律というのは J.S.バッハで言うなら、 管弦楽組曲2番のポロネーズ的なというか、そういう意味では、こういう感じをポロネーズっぽいと言うのだろうか? ショパンだと和声的だけど、軍隊ポロネーズがややこの感じがあるか? でも、ポロネーズ的と言ったら、 タンタカタンタンタンタンのリズムのことで、旋律に選ばれる音階の じじ?臭さのことも言うだろうか)。 スカルラッティと似た感じの曲も多いが、 スカルラッティよりも(私にとっては)音階の選び方などの癖がなく(じじくさいと言っている以上、私にとっては心地良い癖で)、 ずーっと聞き続けていてもいやにならない。 ピアノでも割と弾きやすい方だし、少しずつ開拓していきたい。 ソナタ ホ短調 Wq.65/30(H.106), 3楽章 (視聴:naxos) (楽譜:cpebach.org)。 ソナタ イ長調 Wq.65/37(H.174), 3楽章 (視聴:naxos) (楽譜:cpebach.org)。 ソナタ イ長調 Wq.55/4(H. 186), 3楽章 (視聴:YouTube) (楽譜:cpebach.org, 楽譜:imslp)。 ソナタ変ロ長調 Wq.62/16(H.116), 1楽章 (視聴:naxos) (楽譜:imslp) 。
ジャック デュフリ(1715-1789):クラブサン曲集第三巻フォルクレ(ロンドー)。
アントニオ ソレル (1729-1783, Wikipedia, YouTube) :チェンバロ ソナタ:第17番変ホ長調 (YouTube) (IMSLP楽譜) 、 第91番ハ長調Op.4 No.1, 779 二楽章「Allegro di molto」 (YouTube) (IMSLP楽譜) 、 第53番イ長調(らっぱのソナタ) (YouTube) (IMSLP楽譜)。 第63番ヘ長調2,3楽章(2楽章はノリノリ、3楽章はフーガ。 へー、ソレルはこんなフーガを書いてるのか。 もっと開拓しなければ) (YouTube) (IMSLP楽譜) 。 私にはスカルラッティよりも弟子のソレルのチェンバロ曲の方が 馴染みやすいような気もする(旋律が分かりやすくて、調子やノリの いい曲がいっぱいあるのに、 どうして、あんまり有名にならなかったんだろう?)。 とはいえ、楽譜を買ってみたら、聴いていた以上に 分散和音をそのまま旋律にしたような感じのところが多く (こういう感じは、スカルラッティにも感じる)、 対位法から和声音楽への転換期(模索?期)の音楽とはいえ、 やはりバッハなどと比べてしまうと、だいぶ創意がなくなっているようにも感じる (その点、確かにスカルラッティの方が創意には満ちているのかも知れないが、 旋律の癖に関しては、私にはソレルの方が馴染みやすいような)。 というか、ソレルの左手の伴奏の 同音の連打やオクターブの交互連打やアルベルティバスなどは、 チェンバロという楽器の音でビート感を出すのになかなか効果的に 機能しているように感じる。 私は、バッハの対位的なチェンバロ曲は ノンレガートのピアノで聞いた方が パラパラと 躍動的なノリを感じるが、 和声的な連打音的なソレルに関しては、 チェンバロで聞いた方がジャカジャカと躍動感なノリを感じるような気がする。 ということは、私が今一つ好きになれていない モーツァルトのアルベルティバスとかも、 フォルテピアノとかで聞けば、また違った印象に聞こえるかもしれない。
フランツ ヨーゼフ ハイドン(1732-1809, Wikipedia): ピアノソナタ 53番 Hob.XVI/34 ホ短調、 55番 Hob.XVI/41 変ロ長調 。
ムツィオ クレメンティ
(1752-1832,
Wikipedia):
いつか開拓しなければならないと思っていたクレメンティであるが、
思い立って
コスタンティーノ マストロプリミアーノの
クレメンティ: ソナタ全集を買った。
18枚組CDで4235円なので、お買い得だろう。
フォルテピアノによる演奏だが、音色はチェンバロっぽくなく
(作品1や2の初期の曲はややチェンバロっぽいフォルテピアノで弾いているが)、
ピアノに近い音色で減衰が早い
私の好みの音に近いフォルテピアノなので、
なかなかいい買い物だった
(マストロプリミアーノの演奏も、ホロビッツやスパダよりも
早めのテンポでノリやビート感を強調した弾き方で気に入った)。
まだ、すべては聞き通していないが、
クレメンティは、
音階の選び方に
(スカルラッティやソレルとかに私が感じるような)
癖がなく、(ベートーベンみたいに)分散和音でビートを効かした
ノリのいい創意に満ちた曲がいっぱいある。
スカルラッティやソレルは、毎日とか聞いていると
(私にとっては癖が強すぎて、聴き続けるのがいやになってくるが)、
クレメンティは、既に1週間以上毎日聴き続けているが、
まだまだ聴き続けたい気分だ。
これは開拓し甲斐がある。
15/2/7追記:
開拓当初、後期の曲の方が完成度が高いかなあという偏見で、
作品50とかの後期の曲から聞いていったが、
作品7から12辺りのやや初期の曲が、
いい曲揃いだ。
私は、ベートーベンのピアノソナタの3番(i, iv)や、
12番(ii, iv), 13番(ii, iv)とかの
分散和音でビートを効かせたノリのいい感じの曲が好きだが、
こうした感じの曲は、
ハイドンやモーツァルトのピアノソナタにはどうも
見つからない(私にとっては)。
その意味で、クレメンティの作品7から12辺りの曲には、
分散和音でビートを効かせてノリのいい
ベートーベンの3, 12, 13番を(私にとって)彷彿とさせるような曲が
たくさんある。
クレメンティは、大当たりではないだろうか。
kyushimaさんの言う リズムの人、旋律の人、和声の人の分類で言うなら、
クレメンティは明らかに「リズムの人」だと私は捉えている。
あんまり有名でない作曲家の曲というのは、
いい曲はいいけど、
やっぱり全般的に(いいメロディーとかの)着想力や発想力が
(バッハだのベートーベンのレベルと比べると)
いまいちだなあと思わされることが多々あるが、
クレメンティはなかなかどうして、いい曲密度が高いのではないだろうか。
音階の選び方の癖や分散和音の作り方の癖も私の好きな癖だ
(つまり、私には癖がないと感じる)。
かれこれ、3週間ぐらい毎日クレメンティを聞いて、
毎週末、クレメンティを弾いているが、
未だにいやにならない。というかとても心地良い。
クレメンティは、私にとっては、ハイドンやモーツァルトよりも好きな作曲家に
なりそうだ。
歴史のゆらぎ具合がちょっと違っていたら、
クレメンティは、
スカルラッティとかよりずっと
有名な作曲家だったのではなんて思ってしまう。
よく今まで埋もれてたよなあ。
今はクレメンティに満足しているが、
チマローザだのガルッピだのの開拓は、またいずれだな
(その前にクレープスもあるし)。
以下、
コスタンティーノ マストロプリミアーノの
クレメンティ: ソナタ全集の作品番号に従っているが、
番号表記には揺れがあるようだ(例えば作品37がIMSLPの楽譜では作品39だったり)。
作品1, No.1, ii楽章、
作品1a, No.3, i楽章(舟歌っぽいきれいな旋律、
YouTube,
IMSLP)、
作品2, No.2(ノリがいい)、
作品1a, No.5(フーガっぽい)、
作品7, No.1, iv楽章、
作品7, No.2, i, ii(Amazon,
ショスタコービチの24の前奏曲とフーガの1番の前奏曲と
和音の進行、3拍子、和声進行を連想しにくいはっきりしない無機質な調性感等々、
とても似ている), iii(タンゴっぽい短音階)楽章
(IMSLP)、
作品7, No.3, i(英雄っぽい), iii楽章(小フーガ ト短調に似たテーマ)、
作品8, No.3, i楽章、
作品9, No.1, i楽章(ベートーベン3番i楽章、選帝侯ソナタ2番i楽章っぽい?
YouTube)、
作品9, No.2, i, iii楽章(NAXOS)、
作品9, No.3, i, iii楽章(YouTube)、
作品10, No.1, ii楽章(のどかな旋律)、iii楽章、
作品10, No.2, ii楽章、
作品12, No.1, i楽章(ベートーベン3番i楽章ふう?), iii楽章第7変奏(
松島オルゴール博物館のバンビーナ風)、
作品24, No.2, i, iii楽章(全音ピースあり、弾きやすくビートが効いてかっこいい、
YouTube、iii楽章の方が私は好きかもiii:YouTube,
モーツァルトの魔笛序曲なんかよりもクレメンティの方が全然かっちょいいと私には思えるのだが)、
作品25, No.1, iii楽章(イタリア協奏曲風)、
作品25, No.3, ii楽章(モーツァルト トルコ行進曲1楽章風)、
作品25, No.4, i, ii楽章(平均律1巻2番の前奏曲風の分散和音。実に耽美的。
ベートーベンの32番ii楽章の耽美的な和音をも連想させる、
YouTube)、
作品25, No.5, ii楽章(シューベルトっぽい感傷的な曲、シューベルトのソナタか即興曲でこんな感じの曲があったような。どれだっけ。バッハのイタリア協奏曲の2楽章とも似てるか。YouTube)、
作品33, No.3, i楽章(YouTube、ちょっとハンマークラビーアっぽいか)、
作品34, No.1, ii楽章(のどかで心地良い。YouTube)、
作品34, No.2, i楽章(運命)、
作品37, No.2, iii楽章(音名でラミ
15/10/10追記:IMSLPの外国の楽譜よりも日本の楽譜の方が格段に読みやすいので
(16分音符を4つずつまとめたりとか、リズムを読み取りやすくする工夫を
凝らしてあるし、上下段で同時に叩くべき音符がずれてるなんてことはないし、
雲泥の差がある)、全音の
クレメンティ ソナタアルバム全音ピアノライブラリー (1)(2)(3)を
買ったのだが、(1)に入っている
Op.2, No.1とNo.3が、フルート(またはバイオリン)とピアノのためのソナタということで、
CDの全集には入っておらず、どういうことかと思ったのだが、
Youtubeにバイオリンとピアノ版があった
(Op.2 No.1,
Op.2 No.3)。
全音のピアノソロ版は弾きやすく聞き映えのするなかなか儲けものの楽譜だ。
.
クレメンティの対位的作品(別枠):
バッハを彷彿とさせるような対位的な鍵盤曲を聞きたいと、
クレープスの楽譜や音声ファイルを
少しずつ開拓し始めてはいるのだが、今ひとつ
いい曲が見つけられないでいる。
一方で、
グラドゥス アド パルナッスム全3巻の方に入っている
クレメンティのフーガは、
IMSLPの楽譜で確認する限り、
原博とかを彷彿とさせるような
かなりしっかりしたフーガのようにも見える。
これはまた嬉しい拾い物をしたかもしれない。
15/2/17追記:と思ったが、
IMSLPで楽譜を見ながら、
YouTubeで聞いてみると、
なんか淡白で無機質な感じで、ショスタコービチの前奏曲とフーガとかの
印象にも近い
(つまり、私にとってはあまりいい感じじゃない)。
フーガの主題(自体があまり旋律的ではないが)に絡む他声部も、
あまり対位的でなく、伴奏っぽい感じだ。
というか、(私は対位法の理論的な部分は知らないので印象批判だが)
複数声部の絡ませ方が、
機能調性や機能和声がうまく機能するように構成されていない感じで、
そのために、調性感がはっきりせずに無機質に感じるような気がする。
その意味でショスタコービチの前奏曲とフーガ
の調性感のはっきりしない無機質な感じ
(もっともショスタコービチの場合は、
確信的に調性を満たそうとはしていないのだろうが)
と、とても似た印象だ。
ムストネンがバッハの平均律とショスタコービチの前奏曲とフーガから選んだ曲をまぜこぜの順番に弾いているCD
では、ショスタコービチの曲からバッハの曲に変わった途端に、
「やっぱりバッハはいいなあ」と痛感するが、
ショスタコービチの前奏曲とフーガとクレメンティのグラドゥス アド パルナッスムの
フーガとをまぜこぜの順番で弾いたら、
ショスタコービチからクレメンティに切り替わっても違和感があまりないかもしれない。
ちなみに
作品7, No.2のii楽章(Amazon)は
ショスタコービチの24の前奏曲とフーガの1番の前奏曲と
和音の進行、3拍子、和声進行を連想しにくいはっきりしない無機質な調性感等々、
とても似ているが、ショスタコービチは、実はクレメンティの楽想を
時々 使ってたりしないだろうか。
まあ、それはともかく、
クレメンティは古典派様式のソナタに関しては、
分散和音でビートを効かせたノリのいい いい曲が確かにたくさんあるが、
バロック対位法様式の曲はいまいちなのではないだろうか。
そういう意味では、
原博のフーガは、
フーガの主題は、なかなか旋律的だし、
他声部の絡みもちゃんと対位的で調性感が感じられてかっこいいし、
バッハ(自体が別格なのは自明として)以外の作曲家による
フーガとしては、やはり原博がダントツではないだろうか。
原博は、フーガの本質は機能調性の制約を満たすところにあるのであって、
その制約のない無調性のフーガを作曲するのはとても簡単だみたいな
ことを言っていたと思うが、確かにそう言うだけのことはあると思う。
ちなみに、クレメンティのフーガの中では、
グラドゥス アド パルナッスム 45番のフーガ
(YouTubeの2:16辺りから)が、渋い主題で絡み具合も、まあかっこよくて私の好みかな。
次は、
クレープスのフーガを開拓してみるか。
作品1a, No.5(フーガっぽい),
グラドゥス アド パルナッスム
(IMSLP,
YouTube)
カノン:10, 26, 33, 67, 70, 75, 83, 84、
フーガ:13, 25, 40, 43, 45, 54, 55, 56, 57, 74、
フガート:18, 90
まだ開拓途中(発掘中)なので、続く
ヴォルフガング アマデウス モーツァルト (1756-1791, Wikipedia): ピアノ 幻想曲二短調 K.397(グールド)。 12番ヘ長調 K.332(iii楽章)、 ピアノソナタ 14番ハ短調 K.457(i楽章、グールド)、 17番ニ長調 K.576(ii楽章)。 交響曲 29番(i、iv楽章)、25番(i楽章)。 私は、ビバルディやバッハやベートーベンの音楽(の癖)はとても好きだが、 それに比べて、例えばスカルラッティやモーツァルトの音楽(の癖)は 必ずしも好きでないような感じがする部分がある (勿論、喰わず嫌いな面もあるし、モーツァルトに関しては、 以前よりはだいぶ好きになってきたと思う)。 その(私の好みが受け取る)違いが何なのかを具体的に抽象するのは とても難しいことだけど (まあ一つには私は 和声的な音楽よりも対位的な音楽の方が 好きだということもあるけども) 例えば、伴奏における分散和音の作り方なんかは一つの要素かも知れない。 私はドソミソドソミソのような アルベルティバス や ドミミミドミミミみたいな割と幅の狭い和音で作られる分散和音を 子供っぽく感じてしまう感性を持っているかも知れない。 いずれ、もう少しちゃんと譜面を見ながら考察したいが、 ビバルディとかだと、オクターブを基調としたような割と幅の広い分散和音を 使っているのではないだろうか (スカルラッティより前のバロックの作曲家は割とそうではないだろうか。 パッヘルベルのカノンとか)。
追記(13/12/29): 子供が生まれてからここ十年くらい、 週末しかピアノを弾かなくなったのだが、 だから、一つの曲を弾けるようになるまで集中的に練習するという弾き方は 全くしてなくて、そのときそのときに弾きたい曲を初見練習的にしか弾かなく なったのだけど、モーツァルトのピアノ曲がなんか最近、 すごく弾きやすくなってきたような感じがしている。 もしかして、「週末弾き」を続けていたおかげで、 子供の好きそうな曲(アニメだの歌謡曲だの)も色々と弾いたりしてた こともあるかも知れないが、 なんか毎日 弾いていた一人暮らし時代よりも今の方が譜読み能力が 上がってきたような感じがする。 例えば、十年前は、モーツァルトの14番の1楽章だのベートーベンの1番の4楽章だの、 とても弾きたかったけど、なかなか弾きにくくて初見で弾き通すのは 諦めていたものだけど、最近はゆっくりであれば、そこそこ弾けるように なってきたような感じがする(もちろん、ちゃんとは弾けてないんだけど)。 おお、もしかして譜読み能力が上がったかと、 客観的指標で確認してみることにした。 私は、一人暮らし時代には、毎日、 バッハの平均律1, 2巻、 原博 の24の前奏曲とフーガなど、 24の調の対位的な曲を1曲ずつ弾いて(間違ってもそのまま弾き続けて)、 その演奏時間を書き留めていた。 そうすれば、前回 同じ曲を弾いた時に比べて、譜読み速度が上がっているかどうか 確認できるし、そうやって、演奏速度を記録しておくことで、 前回演奏時よりも少しでも速く弾いてやろうとするこどが適度な負荷となり、 少しずつ譜読み速度が上がっていくのではないかと思っていたのだが、 ほんの少しずつしか譜読み速度は上がっていかなかった。 結婚して子供が生まれてからは、そんな譜読み練習もやめてしまっていたが、 週末しか弾いてないにもかかわらず、 いつのまにかモーツァルトとかが弾きやすくなってきたような気がするので、 ためしに十年以上前の演奏時間が書き留めてあるバッハの平均律とかを 時間を計りながら弾いてみた。 そしたら、むしろ十年前よりも演奏時間が遅いぐらいなのだ。 こんなふうなことを書くと、 私が結構 譜読みが効くような誤解を与えかねないので、 バッハの平均律1巻の8番のフーガの演奏時間を恥ずかしながら晒しておくと、 98/7/15:14分49秒、98/9/30:12分55秒、 99/1/19:11分18秒、01/9/1:12分55秒、 02/6/26:12分46秒、13/9/1:13分54秒といった感じで、 ぜんぜんゆーっくりしか弾けてないのだ。 がっかり。 というか、実はバッハの曲は、そんなに弾きやすくなったとは感じられないのだ。 バッハの曲というのは、複数声部が独立に動く対位的な曲だから、 音符密度に対して難易度が高い部類に属するのではないかと思う。 そういう意味では、モーツァルトの曲というのは、 それほど高くない音符密度で、実に効果的に「聞き映え」するように 書かれているなあと感じるところが多々ある。 ベートーベンとかだったら、フォルテッシモの聞かせどころで 不協和音を含む四和音とか五和音の重厚な和音で書くだろうところを、 モーツァルトは、澄んだオクターブで済ませていたりする (そこがまた透明感が映えてかっこいい。もちろん、ベートーベンの 濁った和音も大好きだが)。 だから、モーツァルトのピアノ曲は、練習すれば割と弾けるようになるので (プロのピアニストみたいに粒を揃えて弾く域には達せないけど)、 なかなか「報いられる」曲のような気がする。 それに比べて、音符密度の割に難易度が高いバッハとかは、 なかなか報いられない(ほんとはバッハを パラパラと 弾きたいのだけど)。 ベートーベンやシューベルトになると、 音符密度自体がだいぶ濃くなってくるので、 音符密度相応に難しくなってくるのは仕方ないかなあと (初見で楽しむのは)諦めてる。 モーツァルトと同じくらいの音符密度のピアノ曲として、 ハイドンなんかもあるが、ハイドンの曲は、モーツァルトに比べて だいぶ弾きにくい。 ハイドンの曲は、付点音符と32分音符の関係とかが頻出して、 リズム感の悪い私には、なかなかリズムが取りにくい。 こういうリズムの取りにくい曲は、バロックやルネサンスの曲にも 結構ある。例えばルイ クープランの組曲ハ長調パッサカリアは とても好きな曲だし、音符密度も低い方だが、付点2分音符と16分音符の関係とか、 リズム感の悪い私にはなかなか数え切れない。 そういう意味では、バッハの曲はリズムとしては、とても数えやすいと感じる。 付点系の変則的なリズムを多用する場合であっても、 他の声部で常に16分音符とかを刻んでいるから、リズムを数えやすい。 だからバッハはリズム的には弾きやすいけど、 対位的なので弾きにくいのだ。 ほんとはそういう対位的な曲を初見弾きで パラパラと 楽しめるようになりたかったから、 一人暮らし時代はバッハだの 原博 を毎日 弾きながら演奏時間を計って 負荷をかけていたのだけど、結局、そういう練習を何年かやっても、 バッハや原博の譜読み能力はあまり上がらなかった。 それが、結婚して子供が生まれてから、 週末しか弾けなくなって、 音符密度がそれほど高くなく、リズムも数えやすいモーツァルトとか、 ソレルとか、 アニメだのポップスだの弾いているうちに (もっともポップスは音符密度は低いものの、左手の伴奏の リズムが変則的なやつが多いが)、 左手がアルベルティバスとかあまり変則的でない伴奏で、 右手が主旋律といった(モーツァルト等の和声的な というか広義の歌謡曲的な)曲の譜読みに特化して 得意になってきたという面があるのだろうかなんて最近 感じている (この傾向を客観的に確認するには、モーツァルトの 演奏時間でも記録してみようか)。 というようなわけで、 以前はあまり好きでなかった モーツァルトのピアノソナタも、最近は割と好んで弾いているのである。
ルートヴィヒ ファン ベートーベン(ベートーヴェン、ベートホーフェン) (1770/12/16頃-1827/3/26, Wikipedia): ピアノソナタ 三番(グールド)、十二、十三番(グールド、ヤンドー)、三十一番(三楽章)、三十二番(二楽章)、 十六番(二楽章)、二十九番(二楽章)、二十五番(二楽章)、 二十七番(二楽章) などなど(YouTube)。 ピアノ三重奏 三番、四番(スークトリオの1983,4年の新録音)。 弦楽四重奏、。 交響曲 七番(バーンスタイン/ウイーン)、二番(二楽章、 バーンスタイン/ニューヨーク)、一番(一楽章、バーンスタイン/ニューヨーク)、 六番(二楽章)、 八番(二楽章)、九番(三楽章)、五番(一楽章)、四番(一楽章)、 十番(クーパー復元、悲愴の二楽章の変奏) 。 序曲 レオノーレ三番、コリオラン。 ピアノ協奏曲 一番(ケンプ、グールド)、四番(ケンプ、グールド)。 弦楽四重奏 十五番イ短調(三楽章)、十六番へ長調(三楽章)。 弦楽三重奏形式の音楽 セレナードニ長調作品八(三楽章、 YouTube)。
ウェーバー:ピアノ ソナタ第三番(一楽章)。
シューベルト: ピアノソナタ 二十一番 D960(一、二楽章、ケンプ)、四番 D537(二楽章、二十番D959の四楽章の前身だろうが、四番の方がいい曲だと私は思う、ケンプ)、十三番D664(一、二楽章、ケンプ)、十五番D840(レリーク、ケンプ)。 ピアノ連弾 ハンガリー風ディベルチスマン(三楽章、ヤンドー)。 弦楽四重奏 十二番D703、十四番D810、十五番887。 ピアノ三重奏形式の音楽 夜想曲(ノットゥルノ)。 交響曲五番(一楽章、あーぢぢっぢっぢーあぢぢぢあーぢぢっぢっぢー)。 シューベルトの曲はなんとももの寂しい。 寂しいときに、そこに共感できる。
カール ツェルニー (1791/2/21-1857/7/15, Wikipedia) :ピアノ 五十番練習曲の二十七番( Etudes, Op.740, No.27, YouTube, 勿論、私は弾けない)。
メンデルスゾーン(1809-1847):ピアノ四重奏第1〜3番作品1〜3 (古典派的で、ハンガリー風というかジプシー風というか軽快である。 特に2番かな。 1番のi楽章はかっちょいい。 私はメンデルスゾーンは十代の頃の古典派的な作風の作品の方が 好きである)。 バロック対位的な作品という意味では、 割と有名な「六つの前奏曲とフーガ」作品35よりは、 むしろ、「七つの性格的小品」作品7の方が好きかも知れない。 でもこれらの曲を ノンレガートでパラパラと演奏してくれている CDはまだ手に入れていない(推薦版があったら教えて下さい)。 とはいえ、バッハに敬意を表した対位的な作品という意味では、 原博の方がずっと優れている (というか聴いていて(私の音楽感性にとっては)心地良い)と感じる。 交響曲4番1楽章、5番4楽章。
フレデリック フランソワ ショパン (1810/3/1-1849/10/17, Wikipedia): 24の前奏曲〜2番イ短調、4番ホ短調、バラード第1番ト短調、幻想即興曲。 中学の頃、幻想即興曲の 左手が3連符で右手が16分音符の 水の流れを連想させるような(その意味ではドビュッシー的とも言えるかも知れない) 効果音的な分散和音のところがなかなか印象的で ショパンというのは、こういうピアノ曲なのかあと 期待していたのだけど、 どうもそれ以外の普通にショパンらしい曲はもっと旋律的な曲ばかりで 今一つ私の好みとは違うかなあと。 例えば、革命のエチュードとかは、ベートーベンの熱情(の特に3楽章)と 似た感じの曲だけど、私にはベートーベンの方がずっとしっくりとくる。
ロベルト シューマン (1810-1856, Wikipedia): 交響曲1番1,4楽章、2番4楽章,3番1,5楽章,4番1,3,4楽章(クレンペラー。シューマンの交響曲は ドイツ系の「かっちょいくてにぎやかな」部分の 密度が高い)、 ピアノ四重奏。 子供の情景—知らない国々、トロイメライ。
フランツ リスト (1811/10/22-1886/7/31, Wikipedia): 交響詩「前奏曲」、超絶技巧練習曲—ニ短調マゼッパ。
アントン ブルックナー (1824/9/4-1896/10/11, Wikipedia): 交響曲 八番(四楽章、ヨッフム、かっちょいい)、五番(一、四楽章、クレンペラー)、六番(一楽章)、 四番(一楽章)、七番(四番よりもこっちの方が「ロマンチック」)。 ブルックナーの交響曲は にぎやかなとこはなかなかかっちょいいと思うけど、 静かなところは退屈に感じてしまう
ブラームス:ピアノ三重奏 二番(一楽章)。 ピアノ四重奏や五重奏など、ブラームスの室内楽は結構かっちょいい。 バイオリン、チェロ、管弦楽のための協奏曲イ短調作品102(一楽章)。
ムソルグスキー: クリミアの南岸(ピアノ、一楽章)。
チャイコフスキー (1840-1893, Wikipedia): 交響曲 二番(バーンスタイン/ニューヨーク)、 一番(トーマス)、 六番(ムラビンスキー)、四番(四楽章、ムラビンスキー、 midi )、五番(ムラビンスキー)、三番。 ピアノ協奏曲:三番(未完の交響曲七番の主題)。
ドボルザーク(1841-1904): 交響曲 九番(三楽章、バーンスタイン/ニューヨーク)、八番、六番(一楽章)。
フォーレ(1845-1924): 組曲「ドリー」子守歌(映画「アンドリューNDR114」で使われた)、スペイン風の踊り。
ドビュッシー(1862-1918): 映像第一巻 水の反映(クライバーン、 midi )。 バルスロマンチーク(ロマンチックワルツ)。 前奏曲集第一巻 雪の上の歩み。子供の領分 雪が踊っている。 十二の練習曲十二番 和音のために。 ドビュッシーのピアノ曲は水の流れを連想させるような 効果音的なところがなかなか好きだ。 中学の時に冨田勲のシンセサイザーのアラベスクかなんかがなかなか印象的だと思ったけど、 ピアノの原曲の方が遥かに鮮やかに水の流れのような印象を連想させる。
リヒャルト シュトラウス(1864-1949): 交響詩 死と変容(クレンペラー)、ドンファン(クレンペラー)。
シベリウス(1865-1957):交響曲一番(一、二楽章、バーンスタイン/ニューヨーク)。
サティ(1866-1925): 梨の形をした3つの小曲〜言い直し(ピアノ連弾)
ホルスト(1874-1934): 惑星(オーマンディー/フィラデルフィア。冥王星はまだ見つかっていなかった。 というかそれ以前に占星術は 海王星の存在すら予測できなかった。)
ストラビンスキー(1882-1971): 春の祭典(トーマス、デュトワ。 The Rite of Spring, midi)、 火の鳥(バーンスタイン/ニューヨーク、トーマス、デュトワ)、 ペトルシュカ( midi 、この曲はピアノ版の方がいいかも。管弦楽だったら T. トーマス、 バーンスタイン/ニューヨーク)。ピアノと管弦楽のための協奏曲 (ピアノ版、ストラビンスキー自演のピアノロール。 ストラビンスキーはピアノを自己流で習得したという逸話も聴いたことがあるが、 すごく巧い。「春の祭典」も ピアノ連弾版の方を 1910 年頃に最初に作曲して ドビュッシーと初演していたそうだが、 あの超難曲を弾きこなせる技巧を持っていたからこそ、ああいう効果音に満ちた 曲を作曲できたということなのかも知れない)。
プロコフィエフ(1891-1953): ピアノソナタ7番1,3楽章。3楽章はミニマルミュージックっぽい。 交響曲5番(バーンスタイン/ニューヨーク)、スキタイ組曲。
ショスタコービチ(1906-1975): 交響曲 十四番(ハイティンク)、五番(バーンスタイン/ニューヨーク 1959の録音)、十番(ムラビンスキー)、十三番(コンドラシン)。 弦楽四重奏:八番、七番、十番。
バルトーク: 二台のピアノ、弦、打、管弦楽のための協奏曲(バーンスタイン/ニューヨーク)、 弦、打、チェレスタのための音楽(バーンスタイン/ニューヨーク)、 弦楽四重奏四番五楽章。
三善晃: ピアノ協奏曲(出だしがかっちょいい)。 響紋(かーごーめ、かーごめ、ああ怖い曲)。
芥川也寸志: 交響管弦楽のための音楽(二楽章、かっちょいい)。 トリプティーク(かっちょいい)。 交響三章トゥリニタ シンフォニカ。 この人は新しい形式を模索しながらも、 「かっちょよく」「わかりやすい」曲を作曲してくれた 数少ない「現代作曲家」の一人。 もっと「かっちょいい」管弦楽曲をいっぱい作ってほしかった。 もっと長生きしてほしかった。
原博:
24の前奏曲とフーガ
前奏曲八番(
real
、前奏曲六番(
real
、前奏曲二十一番(
real
、
フーガ二番(
midi
)、
フーガ十六番(
midi)、
フーガ二十番(
midi)。
オフランド。
最近、聴き(弾き?)始めたジャズについての好みはこっち参照
カール セーガン: 『カール セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社。 『人はなぜエセ科学に騙されるのか』の改題で文庫本(上下巻)化 されたらしい。 菊池誠さんによる書評。 私の頁内での引用箇所: 金曜1、 金曜2、 科学1、 意識1、 死刑1、 seti1、 seti2 ) 、 アン ドルーヤンとの共著(羨ましい関係!?) 『はるかな記憶』(朝日文庫) (私の頁内での引用箇所: 死刑1、 seti1。 「女が育児をするのは『自然』なことだ」といった 「自然に返れ」論法に対する多くの反証を見つけることができた。 遺伝子が人間と99.6% 同じチンパンジーの社会では、オスが毎日のようにメスを強姦したり、それを拒絶されて腹を立てて子供を殺したりすることが「自然」なのである。 竹内久美子とかだと、それをすら「生物学的に正しい」なんて 言いそうだけど…… )
安部公房: 『壁』。 『夢の逃亡』。 『デンドロカカリア』。 『人魚伝』。『箱男』。『密会』。 なんと安部公房がエスペラントをやっていたらしい (詳しい人がいたら、教えて下さい)。
福永武彦: 『冥府』。『死の島』。『草の花』。
ホセ ドノーソ: 『閉じられたドア』(みたいな題。あるいは『開かれた窓』かも? 昔、サンリオ文庫から出ていたラテンアメリカ短編集みたいなのに入っていた。 友達に貸したら、返してもらわないまま、疎遠になってしまった。 是非、もう一度 読みたい話である)。 『夜の淫らな鳥』(なんと映画もあるらしいが見たことはない)。 『日曜日に僕はいかない』。 最近はもっと翻訳されているだろう。
笠原嘉 編『ユキの日記』(みすず書房): これと実に対照的な 割と有名な高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫)には、 私はちょっと共感できなくて、 特に『二十歳の原点 序章』で、特に好きでもない男から 連れ込み旅館に連れ込まれるのに身を任せた(自分の意志で) 辺りで凄く白けてしまったが、 『ユキの日記』のユキの訴える「孤独」には、 なかなか共感を覚えた(といっても、たぶんユキの方が私なんかよりも、 よっぽど若い時期から既に遙かに重症な孤独と格闘していたようであるが)。 キリスト教徒であるが故に抱かざるを得ないキリスト教への疑問も実に論理的で いじらしい。
小川未明:『港に着いた黒んぼ』『眠い町』
安房直子:『鳥』『きつねの窓』『ほたる』
立原えりか:『しあわせな森へ』 『はかない心』
東君平:『くんぺい 魔法ばなし』『君平 少年の四季』
金子みすず: 『玩具のない子が』 『こだまでせうか』『犬』
川島誠:『電話がなっている』
アゴタ クリストフ:『悪童日記』(せっかく一巻が素晴らしい、 終わり方をしたのに、二巻と三巻がそれをぶち壊してしまった。 一巻だけを読んで終わりにするのがいい)。
マイケル ローゼン: 石原武 訳編 『悪戯詩のすすめ』(リーベル出版)の中に入っていた マイケル ローゼンという人の詩 数編はなかなか良かったが 他に訳されていないのだろうか?
続く
チャップリン:『街の灯』『キッド』。
ラッセ ハルストレム:
『マイライフ アズ ア ドック』
イングマルは言っている、
「よく考えてみれば、ぼくは運が良かった。たとえばボストンで肝臓移植手術を受けたあの男。新聞に名前が出たが、死んでしまった。あるいは、 宇宙を飛んだあのライカ犬。 スプートニクに積まれて宇宙へ送られた。心臓と脳に反応を調べるためのワイヤーを付けられて、さぞかしイヤだったことだろう。食べ物がなくなるまで、地球を5カ月回って飢え死にした……」。
しかし、しあわせは相対的なものではない。これはイングマルなりに考えた合理化なのだ。私はイングマルとサガとの恋に、下手な大人どうしの恋愛場面を見た時とは比較できぬほどの羨望を覚えたが、所詮それは そういう経験に恵まれずに 大人になってしまった私の憧憬に過ぎず、子供であるイングマル自身にはサガとの恋愛なんかよりも母親の愛の方が遥かに重要だったかも知れないのだ——だどすれば、イングマルは不幸だったのだ。『やかまし村の子どもたち』 『やかまし村の春・夏・秋・冬』
キューブリック: 『2001年宇宙の旅』『時計仕掛けのオレンジ』 『博士の異常な愛情』
タルコフスキー: 『ストーカー』(私はテレビで最初に「ストーカーが出現」 なるニュースを聞いたときは、「案内人」のことか? と思った)。 『ノスタルジア』(ストーカーもそうだが、 タルコフスキーほど映像の美しい映画はない。 特に水面にゴミが浮いていたりする映像とかは実に綺麗だ。 見終わるとドッと疲れるが)。 『惑星ソラリス』 (バッハのオルガン小曲集 BWV639 もいい。 近未来都市に東京辺り?の高速道路?からの光景が出てくる)。
カルロス サウラ: 『カラスの飼育』
アナは言っている、
「子供時代が人生で一番幸せという人がいますが、わたしは違いました。子供の天国は信じません。無邪気さも優しさも……」。
私は今までの自分の人生の中で何の蟠りもなく手放しでしあわせな 日々に浴していられたのは 子供時代くらいだと感じているし、 今後の人生に於いて果たしてあの子供時代のしあわせに匹敵するような 温もりと安堵に満ちたしあわせな日々が訪れるとは思えない (そして今も「今後の人生」は日に日に短くなっている)。 二十代前半にこの映画を見た私は、 「だから、その子供時代にしあわせでなかった人というのは、ぼくには物凄くかわいそうに思える」と書いているが、 今になって思うと、 「子供時代は不幸でも、多感な青年期辺りが (様々な「葛藤」や「蟠り」や「不安」があったにせよ)最も充実してしあわせだった人」 の方が、人生における「しあわせの積分値」はよっぽど高いのではないかと 痛感する(どこで間違えたのだろう?)
蛇足: アナ トレントがめんこい。やっぱり子供はいい?
ホドロフスキー: 『エルトポ』(撃たれても死なない)『ホーリーマウンテン』 (訛った英語はかっこいい)
寺山修司: 『田園に死す』
フォルカー シュレンドルフ:『ブリキの太鼓』(「やっぱり ベートーベンは偉大だ」)
ジュゼッペ トルナトーレ:『ニュー シネマ パラダイス』 (「接吻場面」を見て泣ける映画は後にも先にもこれくらいだろう……)
過去に見た映画に記憶でケチをつけているので、 色々と勘違いや事実誤認があるかも知れません。 まだ見ていない人にはネタばらしになる部分もありますので ご注意下さい。
マトリックス:
人間から「生体エネルギー(だっけ?)」を吸い取るとか
いう目的で、大量の人間をカプセルの中で飼育してるそうなんだけど、
「人間を飼育するのに要するエネルギー」(栄養供給とか室温維持とか)自体
の方が、そんな人間から取り出せる「生体エネルギー」とやら
(というものが仮にあるとして)
よりも圧倒的に大きいよな。そうじゃなかったら人間で永久機関が作れてしまう。
仮想現実の中に乗り込んでいく際に、
コンピューターで任意の武器を作れるらしいのに、
何でわざわざ空手だかカンフーだかを習得して、
そんな古典的な闘い方をしなければならないの?
現に後で(大量の機関銃を用意する癖に)。
単に、カンフーの格闘場面を見せ場にしたいのが制作者の本心なだけの癖に、
「仮想現実の中の実体にも物理的な限界はある」みたいな
如何にも取ってつけた言い訳をしているのが見え見えだ
(主人公の戦闘場面を見せ場にしたいのが制作者の本心の癖に、
如何にも主人公が不本意ながらも戦闘に巻き込まれたかのような
わざとらしい舞台設定をするセガール主演の映画とか、
ランボーとか、宇宙戦艦ヤマトやガンダムの「どうして
私たちは戦わなければならないの?!」とかも同罪。
主人公が殺人を免罪されながら格闘場面を披露できるための舞台設定は、
しばしば傲慢の「罪」をこえる。
戦いたくてウズウズしている主人公が戦ったり、
殺したくてウズウズしている主人公が人殺しをする映画の方が
よっぽど素直で好感が持てる)。
任意の武器を作れるらしいのに、
機関銃というのも、今ひとつ古典的な武器のような気がする。
それに、任意の武器を作って仮想現実の世界に送り込める程度には
仮想現実の世界を制御できるのに、わざわざ人の意識が仮想現実に
入り込んでいって戦わなければならないというのも不自然な設定だ。
ロボット兵器を作って人間の代わりに戦わせてはダメなの?
「仮想現実で殺されると、現実の人間も死ぬ」
という設定も「命がけの戦い」にするための見え見えの演出だ。
仮想現実に入っていくといっても、要は脳と信号のやりとりを
してるだけなのに、「自分が殺された」という信号が入ってくると
現実の肉体も死んでしまうというのは、今ひとつ想像しにくい。
仮に、そうなっているとしても、「自分が殺された」という信号が
送られてきたときに、その信号を事前に検知して遮断するとか、
それぐらいのことはできてもいいんじゃないの
(人間の脳が自分が行動していると思い込んでいるのと同じ
像を仮想現実の中に作り出すほどの高度な技術がある癖に)。
敵?を倒すヒント?が、
占い師みたいな人の吐かす神懸かりな言葉にあって、
忘れたけど、それで神秘主義に染まった(洗脳された)かなんかした主人公が
「覚醒」して、
不死身だか無敵になって、っていうのもあまりに白けすぎる。
だったら、最初からコンピューターで無敵のロボット兵器でも作ってしまえば
済む話じゃないの?
「神様の力で選ばれた者が無敵になって人類を救う」
みたいな宗教な話にしたかったのかなあ? 白けるなあ。
どうせ「無敵」にするんなら、
エルトポぐらいに徹底してほしいものだ
(エルトポは弾丸が貫通しても平気なので、マトリクスみたいに弾丸
をスローモーションで「よける」必要すらないぐらいに不死身なのだ)。
フィフスエレメント:
なんとか星人という十分に人間に近い形
(顔と手足があって、顔には目鼻口があって)の宇宙人が出てきて、
まあ、それでも怪獣みたいな格好をしているから、まあいいか?と
思っていたら、実は、それは鎧みたいに体を覆うもので、
その中から地球人とまるで同じ外見の、しかも
主人公(男)または制作者の恋愛の好みに合致するような若い女が
出てくるのは、如何にも、
美しくかっこいい主人公の男(私には美しくもかっこいくも見えないけど)と
美しくかっこいい相手役の女(私には美しくもかっこいくも見えないけど)と
の間に恋愛を成立させようという意図が見え見えで実に安っぽい。
「愛の力」が主題なら、
若く美しくかっこいい主人公と、ぶよぶよした芋虫のような
宇宙人との恋愛でも描いてくれれば、その「愛の力」の方がよっぽど
説得性があるのに。
要は若い女の裸を見せたかったってことでしょ。
最終兵器の発射スイッチがまた幼稚すぎる。
高度な科学技術を駆使して作られた兵器の発射スイッチが、
四本の柱に「水」「火」「土」「風」を与えること
で起動するんだそうだ。
なんだこりゃ、エンペドクレスの世界観かい?
ん! と、この辺で
「フィフスエレメント(五番目の要素)」という題を思い出して、
どんどん悪い予感がしてくる
(エンペドクレス的には「要素」というよりは「元素」!か?)。
まさか、それだけではあってくれるなよ、と思いながらも、
正にその最も恥ずかしい結末になってくれるのである。
発射スイッチは「水」「火」「土」「風」の四つの鍵だけでは
作動せず、「五番目の要素」として
「愛」が必要(ああ、恥ずかしい)なんだそうだ。
で、どこが愛なんだか知らないけど、
主人公と相手役とが、台の上で如何にも安っぽく抱き合って、
スイッチが起動するのである。うー、くだんねー。ぺっぺっ。
あと、この宇宙人が、英語のアルファベットを読めるってのも
安直だ。仮に個々のアルファベット自体の読みを知っていたとしても、
英語というのは、発音が綴り字通りにはなっていない数少ないヨーロッパ言語
なんだから、もっともっと習得には手こずってもらわないと。
制作者は、英語の習得が、英語を母語としない者にとって如何に
習得困難かということを分かっていないのかな。
海の上のピアニスト:
ジュゼッペ トルナトーレ監督の『ニュー シネマ パラダイス』は
なかなかいい映画だったから、これも期待して見てみたんだけど、
ちょっと話の設定と進行が雑すぎる。
まあ、割と古典的なラグタイムピアノや現代曲的な要素の混じった
ラグタイムピアノっぽい音楽(一連の曲は既存の曲なのだろうか、
映画用に作曲したのだろうか)は個人的に楽しめたけど。
ピアニストが、幼い乗客に一目惚れして、
ストーカーして、なんと、寝室に忍び込んで寝ている
相手に口吻するなんてえのは、明らかな
変態行為だ
(ポッポヤでヒロスエが高倉ケンに何の脈絡もなく口移しするのの
次ぐらいにギョッとしてしまった)。
しかし映画の中では、その場面が変態行為として演出されている様子はなく、
恰もロマンチックな一場面の如く済まされてしまっている。
もしかして、
トルナトーレは、ああいう行為を変態行為として認知していないんだろうか?
揺れる船の中でピアノと椅子に座っている人間が離ればなれにならずに一緒に
滑り回るってのも都合いいよな。
忘れたけど、二重トリルみたいなので常に指が忙しく速く動いている
曲を弾いた後に、弦にタバコをつけるとタバコに火が付くという意味も
よく分からない。
弦が激しく振動して熱を持ったと言いたいのだろうか。
ピアノの弦なんてどんなに細かく連打したって、
一定の低周波の振動数(低音弦が20Hzぐらいから高音弦が4kHzぐらいまで)
でしか振動しないと思うんだけど。
戦争中、何年も船の中に一人でこもっていたらしいピアニストが、
何を食べて生きていたのか説明がない。
船の中がめちゃくちゃに掻き回されて汚れているのに、
ピアニストが小綺麗に着飾っているのも変だ。
「死んでも船に残る」というピアニストの説明
(「都会の道には終わりがなくて、どの道を選べばいいか
迷ってしまう」)は、私にはまるで納得できるような代物ではないけど
(だったら田舎に住めばいいし、田舎もダメだったら別の船に住めば
いい)、それに納得してしまって、ピアニストを見殺しにできる友人にも
納得がいかない。
ピアニストが訳の分からないことを言って駄々をこねていたら、
ぶん殴って気絶させてでも船から連れ出すぐらいのことを
してもいいんじゃないの。
結末をピアニストの衝撃的な死に方で演出したかったために
やや強引で雑な設定になっているように感じる。
大体において、あの時代、古くなった
巨大な船を処分するためにダイナマイトで爆破して海に沈めるなんて
ことを本当にやっていたのだろうか? (今だったら大問題では?)。
通常はドッグで解体とかじゃないの?
仮に沈めるにしても、別に大量のダイナマイトで爆破しなくたって、
沈められるんじゃないの。
まあ、
ピアニストに衝撃的な死に方をさせるための粗雑な演出なんだろうねえ。
スターウォーズ エピソードII:
スターウォーズは、物語自体は子供騙しで陳腐だけど
(中世ヨーロッパの騎士道を気取っているようなカッコつけたジェダイとかいう
男どものカルト集団が、修行して「フォース」とかいう超能力を身につけて
敵と闘うといった感じの……)、
宇宙を舞台にした巨大機械類の特撮を大いに楽しめる活劇映画という意味では、
私は、そう嫌いではない。実は、私がヨーロッパの古典音楽を
愛好するようになったのも
スターウォーズのテーマがきっかけである。
それはともかく、私が初めてスターウォーズの映画第一作
(物語の順番としては、第4話?)を見たのは、
小学五年の頃だっただろうか?
当時は、「フォース」の力は字幕では、「理力」と訳されていた。
私は、この「理力」(りりょく?)の意味がよく分からなくて、
「ルーク、理力を信じろ!」の意味は、
「機械の精度が悪ければ、コンピューターの計算に基づく
ミサイル?発射地点の指示よりも、
訓練によって研ぎ澄まされた人間の動物的カンに基づく操作判断の方が
場合によっては勝ることもある」
というようなことなのかと解釈して、
「『りりょく』というのは、なんか、かっちょいいなあ」と
思っていたものであるが、実は、これは私の全くの勘違いであることが
後に判明するのである。
映画第二作「帝国の逆襲」では、「フォース」は、もろに
超能力で、物を持ち上げたり動かしたりするのだけど、
私は、これの劇場公開を見はぐってしまって
(たぶん、中学の剣道部の部活のせいだと思うが! まったく、
剣道部のせいで、中学時代はスキーにも行けなかった。
未だに「かかり稽古」の夢でうなされる)、
次にスターウォーズを見たのは高校?の頃に、
映画三作目の「ジェダイの復讐」である。
これの中で、敵の偉い人(総督?)の手から青い光線がビビビーと
出るのを見た時は、さすがに退いてしまった。
まあ、自分が小学生の時よりも大人になっていたというのもあるけど、
「フォース」が、そんな子供騙しの超能力のことだったなんて、
ちょっと衝撃であった
(物を動かしたり、手からビビビーをやるんだったら、
バビル2世ぐらいに徹底してほしいものだ。超能力を使えるんだったら、
なんでわざわざ光る剣なんて原始的な武器を使って闘う必要があるの?
まあ、ジェダイさんたちはカッコもつけないとダメなんだろうけど)。
で、前置きが長くなったけど、今回のエピソード2だけど、
やっぱり、あの超能力の使い方は、なんか変だ。
例えば、オビワンとアナキンが倒れて動けなく
なっているところに、敵の強い人が大きな太い柱を超能力で倒して下敷きに
しようとするのだけど、
そんな大きい柱を壊したり動かしたりするような膨大なエネルギーを
使わなくたって、
オビワンとアナキンの脳味噌を超能力でちょっと
ぐちゃぐちゃにするなり、動脈を切るなりすれば、遙かに少ないエネルギーで
より確実に殺せるのに? と思ってしまうのである。
で、柱の下敷きになりそうになっているオビワンとアナキンを救おうとする
ヨーダもヨーダで、敵と同じくらいにボケている。
倒れかかっている大きな柱を超能力で根本から切り取って、
空中に持ち上げて、放り投げるのである。
この作業を物理的に行おうとしたら、いったいどれだけのエネルギーが
必要なことか。
それだったら、下敷きになりそうな二人の人間を床を引き摺って移動させる方が
遙かにエネルギーが少なくて済むし(これだったら、別に超能力を使わなくたって
できる)。
仮に、今にも倒れかかっている柱を支えることが先決と判断したんだとしても、
柱を安全な場所に移動させるなら、
柱の下端は切り離さずに床に付けたままで、既に切り離されている柱の上端を
支えながら柱を転がした方が、柱を完全に切り離して持ち上げるよりは、
ずっと少ない力で作業ができる
(もし、ヨーダがそんなふうに超能力を使っていれば、
「なるほど、ヨーダの方が超能力の使い方がうまい」と
感心するのに、なんてね)。
それにしても、あんな重い柱を持ち上げて移動させるほどの超能力を
使えるヨーダは、なんで、自分の体重をちょっと支える程度のことに
杖を必要とするんだ?? よくわからん。
どうでもいいけど、ジェダイというのは、頭が悪いのかも知れない。
オビワンとアナキンとパドメが敵に捕らえられて処刑されようとしていて、
いよいよ絶体絶命になってきたところで、
ジェダイたちが救いにきてくれるのだけど、
ここで、数千、数万の敵の軍隊(ロボット?)と
ジェダイ十数人〜数十人?ぐらいとの闘いが繰り広げられるのだけど、
私が見ていた限り、どうも救いにきたジェダイたちのうち、少なくとも
二、三人以上は敵に殺されている
(ということは、画面に映ってないところで、もっと死んでいるだろう)。
いくら、ジェダイが超能力を使えて強いからといって、
数千数万の敵に囲まれれば、多くの死者が出るのは闘う前から明らかだろう。
オビワン、アナキン、パドメの三人の命は、
ジェダイ数人(以上)の命よりも、救うべき価値がそんなにも
大きかったのだろうか(まあ、物語の進行上は、死なれては困るのだろうけど)。
あと、数千数万の敵に囲まれて四方八方から銃撃を受けているジェダイたちが、
あの光る剣で、銃弾を跳ね返すなんてのも、やはりかなりの無理がある。
四方八方から絶え間なく打ち込まれる弾丸を、
あんな、人間が剣を動かしている程度の緩慢な動きで
防御し切れているなんて想像することは、私にはなかなか難しい。
よしんば、あの光る剣を縄跳びみたいにしたやつで、常時、縄跳び
しながら、体中を覆っていたとしても、
弾丸の速度からは隙だらけだろうな。
バリアーとかシールドで弾丸を跳ね返しているのだみたいな、
もう少し無理のない設定にしてくれればいいのに
(そう言えば、ジェダイではないパドメは、どうして平気だったんだ?)。
あの光る剣は、ジェダイにとってはとても重要な武器らしいんだけど、
これが、闘いの最中にしょっちゅう落としたり壊されたりして、
武器がなくなってしまって、危機に陥るのである
(エピソード2に限らず)。
だったら、あの剣を三つとか四つとか常に余分に携行しておけばいいんじゃないの
と思ってしまうんだが……
あと、今回のエピソード2は、アナキンとパドメの恋愛物語というのが売り
ならしいんだけど、
このパドメというのが、エピソード1で王の付き人だった人の方なのか、
王だった人の方なのか分からなくて混乱してしまった
(さっき、検索して分かったんだけど、更に紛らわしいことに、
エピソード1で、王と付き人とは同じ役者が一人二役をやっていたそうだ)。
エピソード1で、アナキンと長時間 行動を共にして、
惹かれ合っていそうなのは、付き人の方だけど、
エピソード2に出てくるパドメは、どうも王だった人の方のようだ。
エピソード1で、付き人が、
ある部族に、「実は自分の方が本物の王だ」と「騙る?」場面が出てくるが、
あれは、私はてっきり、
付き人が、機転を利かしてそういう嘘を付いたのだと
思っていたのだが、
実は、あれは嘘ではなくて、付き人こそが最初から本当の
王だったということだろうか?
そういうことだったんだとすると、
私はエピソード1もかなり勘違いして見ていたということになる。
アナキンが(王の衣装を着て白い化粧をしている)王と話していた時の王は、
(付き人を装ってアナキンと行動を共にした方の)本当の王なのか、
影武者の方なのか、一体どうやって区別できるの?
(役者が同じ人だったら区別できないよね)。
皆さんは、その辺のとこを映画を見ただけで、ちゃんと
理解できてんの?
あと、私はエピソード1に出てきたパドメ(付き人であれ王であれ)が、
二十代ぐらいの人に見えていたから、
エピソード1で八歳?ぐらいのアナキンが十八歳ぐらいになった
エピソード2では、パドメは、もっと三十代〜四十歳ぐらいになってないと
つりあわないような気がしていたけど、さっき検索してみたら、
どうもパドメは、エピソード1では十四歳?ぐらいの設定だったみたい。
ああ、そうですか。それならしょうがないけど、
恋愛物語というと、いつも、
若くて美しい男女の恋愛ばっかりで
(仮に男の方は年を取っていて、多少 醜くなっていても、
女の方だけは、それなりに若くて美しいのはお決まりで)、
今ひとつつまんないのだ(フィフスエレメントのとこ
でも同じことを言ったけど、
せっかくスターウォーズには、動物みたいな色んな宇宙人が出てくるのだから、
(観客が若くて美しいと思うような)
ヒト型の主人公と、
(観客が気持ち悪いと思うような)ぶよぶよした芋虫みたいな宇宙人との恋愛でも
描いてくれればいいのに……。
あと、オビワンとか、ジェダイの男たちは、年を取ってからも
闘いの場面に出てきて活躍するけど、
若い時に闘いの場面でいっぱい活躍しても、パドメとかは年を取ったら、
もう闘わせてもらえないんだろうなあ。
関係ないけど、
シガニー ウィーバーには、六十代や七十代になってもエーリアンと闘い続けてほしい)
長くなったので、取り敢えず、ここまで。
天空の城ラピュタ(19/9/1)
テレビでは、ちょくちょくやっているのだが、
いつも途中から見て、冒頭の部分をずーっと見ていなかった。
先日、わらすがビデオに撮っていたので、
冒頭の部分を見てみて、なかなかゾッとした。
冒頭部分が一番 怖いシーンだった。
パズーは、空から降ってきた気を失った人を、
一人暮らしの自宅に運び込み、
自分のベッドに寝せたのである。
勿論、純粋に人助けをしたのだという解釈もできなくはない。
が、
映画の後半を見れば、
その空から降ってきたシータは、
パズーの恋愛対象にヒットする相手であり、
この時点では正に「好みのタイプ」だったのだと解釈できる。
そんな相手を一人暮らしの自宅に運びこむなんて、
梨花に冠を正す行為だし、
しかも、気を失っている人を見つけたのであれば、
まずは大人に知らせて、少しでも早く、手当てなり、治療なりを
施すべきではないのか。
今回は、たまたまシータが翌日 普通に目を覚ましたから
良かったようなものの、
もし、翌日 死んでいたりしたら どうだろうか。
パズーが気を失った人を自宅に運び込み、
治療もせずに放置したために死んでしまったということに
なるのではないか。
たとえパズーがシータに何もしていなかったとしても、
そんな、気を失った人を自宅に運び込んで放置して殺してしまったなんて、
なんか、おかしな意図があったと疑われても弁解は難しい。
うーん、公開時の1986年当時でも、
これって十分におかしい行為と思えるような気がするんだけど。
パズーが、炭鉱の親方に何度も
「女の子が落ちてきた」と言うんだけども、
そう言ったときにちょうど蒸気が噴き出したりして、
親方に伝わらないというのも、
わざとらしい言い訳というか、
パズーは変態なわけではなくて、
ちゃんと女の子が落ちてきたことを大人に伝えようとはしたんだという
見え見えのアリバイづくりにしか思えない
(もちろん、パズー自身の言い訳というより、作者の言い訳だろう)。
でも、1986年当時の感覚としても、
気を失っている人を見つけた以上、
蒸気が吹き出そうが何かで会話が中断されようが、
会話ができるようになり次第、
気を失っている人を見つけたことを大人に告げるべきだとしか思わないし、
現に親方が
「今日はもう仕事は終わりだ」と告げて仕事をやめ、
普通に会話ができる状態になったにもかかわらず、
パズーは、気を失った人を見つけたことを大人に教えなかったのだから、
確信犯だ。
そして、その後の具体的な描写はないのだが、
続く叙景的な夜(明け?)の建物の美しい景色の後
のシーンでは、パズーの部屋のベッドに、
気を失った人が寝せられているのだ。
いやー、怖い、なかなか怖い。
その他にも、当然のごとくシータは料理、パズーは機械整備っていういかにも性別役割な
設定とかは、まあ、1986年当時だと、そんなもんかなあという気はする。
登場人物の顔や服装や仕草は、
未来少年コナンの登場人物とそっくりだし、
スチームパンク的な雰囲気の飛行船とかの機械類も、
未来少年コナンの機械類の雰囲気にそっくりだ。
パズーとかの現実には不可能な体の動きとかも、
コナンの動きを連想させる。
私は、宮崎アニメでは未来少年コナンが断トツで好きなので、
そういうコナンっぽいところは、私としては好きである。
キューブ状の機械が空中に浮いて組み合わさるとか
(電子ブロックのコマーシャルとか、未来少年コナンの集積回路とか)
ああいうイメージは好きである。
シータの顔や仕草は、未来少年コナンのラナを連想させる。
たぶん、ああいうのが、 作者の好みなのだろう。
それ自体は悪くはない。私も小学生時代、
リアルタイムでコナンを見ていた頃は、
ラナが好きだったし。
でも、自分の好みのタイプの女の子が、
気を失った状態で自分の目の前に降ってくるという
設定は、
なかなかストーカーの妄想そのもののようで、怖いと感じる。
こういう、自分の好みの相手が
自分の思い通りになるというストーカー的な怖い設定は、
ドラエモンにもよく出てくる。
しずかちゃんに対するのび太のストーカー性は、
パズーの比ではないかもしれないが、これについては、
またそのうち。
ブレードランナー2049(19/9/23)
先日、BS放送でやっていたのを録画しはぐってしまって、
悔しくて、ついアマゾンで950円のDVDを購入して見たのだが、
まあ、それなりに面白かったのではあるが、
例によって、
ちょっとどうでもいいところが気になってしまった。
主人公のKが家に帰ってみると、
ホログラムのジョイが、
部屋に性サービス業の人を呼び込んでいて、
性サービス業の人と「同期」して肉体を持った自分と
事を致そうとKに提案をするのだが、
その「同期」率が全然 悪くて、
ジョイと性サービス業の人の動きが合わないと、
すぐにホログラムと実物がずれてしまうのだ。
しかも、サービス業の人の方は、普通に意識のある状況だ。
仮にその同期率が完璧だったとしても、
こういう状況で、
かっこいい設定になっていると思われる主人公が、
まさか、その提案を受け入れたりしないよなと思っていると、
なんと、Kは、
この状況で、事を致したようなのだ。
うーん、これって、
下ネタのお笑いネタでよく使われる「お面プレー」そのものだよな。
同期率の悪いところが、ますます「お面プレー」そのものだ。
Kはなんとマニアックな趣味を持っているのだろうと
思ってしまった。
続く……
これじゃあ物足りないので私についてもっと知りたいなどという
変わった趣味の方が仮にもいらっしゃった場合は、試しに
ここを覗いてみてください。
khmhtg