ピアノの先生
Pianoinstruistoj
Laŭ mi:
Pianoludantoj, kiuj komencis lerni pianon post kiam
ili kutimiĝis vole aŭskulti diskojn de pianomuziko (kiel mi),
aĉetas la muziknoton de sia ŝatata muziko kaj
ludas ĝin imagante la ludadon de sia ŝatata pianisto.
Dume kelkaj el
pianoludantoj, kiuj de infaneco estis devigitaj lerni
pianon, ludas muzikojn, kiujn la pianoinstruisto donis al ili
kaj aĉetas la diskon de muziko, kiu plaĉis al ili
por `fari imagon' de la muzio.
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al la paĝo de GOTOU Humihiko
一九九四年十月五日
NHKのピアノ講座を見て感じたことに始まる……
ある作曲家がある曲を作曲する際に、その人に特有の価値観、思想、宗教が多分に反映されているだろうことを、歴史的資料による事実としてあるいは推測として公言することには特に問題があるとは私は思いません。
しかしあのNHKのピアノの先生(私も名前は失念しました)のしていたことが、それに相当するとは私には思えませんでした。
ひょっとするとこれは通訳の問題なのかも知れませんが、通訳された日本語のみから判断する限り、「バッハがこのトッカータを作曲した際には、この導入部では聖書のこの箇所の情景を思い描き、またこのフーガの複数の声部は聖書のこの箇所における使徒たちの声を現しているのだ」といった「解釈」が、資料に基づく事実として言っているように聞こえました。
私も不安になり、トッカータのCDの解説とかを読み直してみましたが、これは作曲年代もはっきりとは特定できていないような曲で(ケーテン時代には入っているようですが)、特にバッハがそのような聖書の特定の箇所を主題として、ある種の標題音楽として作曲したなどという記述はどこにも見当たりませんでした。
つまり、あのピアノの先生の仰っていたことは、「私はバッハがこの曲のこの部分で、聖書のこの箇所を思い描いていたのだと思う」または「そう信じたい」といった個人的推測、個人的感情のようです(そういう言い方をされていれば、だいぶ印象は違ったと思います)。
それからもう一つ私には引っ掛かることがありました。「楽曲の演奏に作曲者の生活背景、思想、宗教観等を反映させる」のも、「誰がどんな目的で作曲していようと飽くまで絶対音楽として扱う」のも、演奏者個人の自由でありましょう。
だから例えば、モーツァルトが下品な話(特にうんことか)を好んだからといって、「モーツァルトはこの曲のこの部分では、うんこの臭さを表現しようとしていたのです」といった教え方は、流石にあの先生もしない筈です。
つまりバッハの場合は、自分個人の宗教観と作曲者のそれとがたまたま一致しているから特に思い入れがあるのだということだったのだとは思いますが
(その点については今後この番組で他の作曲家の背景をどう扱うかではっきりとしてくるでしょうが)、
個人の宗教的な思い入れに対して共感を求められたあの生徒さん
(恐らくキリスト教徒ではないでしょうが)は、
困惑していたのではないでしょうか
(というか見ていた私自身が不快感を覚えたということですが)。
私は、ある特定の価値観、思想、宗教の中でのみ感じることのできる「良さ」を、異なる価値観、思想、宗教の人に共感してもらうべく教え込もうとする行為は、
ある種の「いやがらせ」ですらあると思っていまして、今回のはこれに抵触するのではないかと感じたのです。
一九九四年十月六日
なるほど、どうやらあのくらいの教え方は十分に標準的なのでしょうか(私は個人的にオピッツさんの教え方は好きでしたが)。
私は、無料奉仕で教えて下さるキリスト教会のピアノの先生方
(六年間に四人ほど)に、自己流ピアノを「矯正」して戴いていたことがありますが、(所詮、趣味講座の域である為でしょうが)どの先生も優しい方で押し付けがましい講釈や説教の類は一切受けませんでしたから、誤ったピアノの先生像を抱いていたのかも知れません。
というか私の技術水準は全然、話にならない程度なので、各先生方の曲想や解釈を垣間見得る以前の技術上の指導が主だったために、
そうした宗教的な臭い
を感じずに済んでしまったというだけのことなのかも知れません。
四人の先生方の中である一人の先生だけ他の先生とは教え方がまるで異なっておりまして(私にはその先生の教え方が一番気に入りましたが)、「滑らかに」とか「重く」とか「弾むように」とかいった抽象的な形容表現を悉く使わないのであります。
例えば普通の先生であれば「滑らかに」と言うだろうところを、「123の指でドミソを弾いたら3の指を離す前に、1の指を潜らして次のドを弾いてから3の指を離して下さい。ソを弾いてから突然1を潜らせると時間がかかってしまうから、12の指はドミを弾いた後でいつまでもそこに置いておかないで3の指を弾いた後にすぐ1を潜らせることができるように、内側に寄せて準備しておいて……」といった具合に殆どが言わば「物理的記述」のみによってお稽古が進められるのです。
そういった技術的なことはある程度の技術水準に達した人には当り前のことなのかも知れませんが、私は最初に見て戴いた先生から「もっと重く、重く」とか言われても、一体どう弾けばいいものか皆目見当が付きませんでした。
頭の中で「重い」音を思い描いたところで、
それを音に反映させるだけの技術がない私には同じ音しか出せませんでしたから、
仕方なしに「重く」というのは「強く」ということなのかも知れないと強く弾いてみると、
「それじゃあ音が割れてるでしょ」と言われたりして、
「音が割れでるっつのは和音が同時に鳴ってねどが各音の強さが揃ってねっつごどだいが。
んだごって、重ぐっつのは、
和音の各音の強さど打鍵の瞬間が揃うように弾ぐっつごどなんだいが……」
といった具合に頭の中で自分の言葉に翻訳しながら
(今になって思えばそれらの翻訳は悉く間違っていた場合が多いのですが)
対応していたので、上達の効率は非常に悪かったことと思います。
そんな中で後に「物理的記述」に徹する先生に見て戴いた時には
目から鱗が落ちる思いでありました。
下手くそなりに「どう弾けばいいのか」が
極めて明瞭に理解できたつもりになれました。
勿論「弾き方」を教わったからといって直ぐにそれが実践できるようになる訳ではありませんが、
私には物理的記述の方が記憶に保存され易いので、
結局、未だに練習の際の基本はそのとき教えて戴いた「弾き方」に依っていると思います(単に技術的に次の段階に進歩していないだけのことかも知れませんが)。
といってもこういう事柄は、技術的発展途上にある初心者の問題であって、例えば、作曲者に関る宗教的講釈を聞いた後で即それを演奏に反映できてしまうあのNHKの番組の生徒さんぐらいになると、どの経路(または手法)で現在の技術水準に達したかは大して重要なことではないのかも知れません。
自分で思い描いた表象をある程度忠実に音に再生できる技術水準に達している人にとっては、
どういう表象を持つかということの方が技術的なことよりも重要な関心事になるのかも知れません(だから素直に人の話も聞けるのかも知れません)。
私などは中学頃にまず西洋古典音楽を好きになったことが自己流でピアノをいたずらし始めたきっかけですから、
「自分の好きなピアニストの特有の弾き方」といった言わば
表象(捉えている次元は低いのかも知れませんが)の方が先行していて、
好きな複数のピアニストの弾き方から自分に「良い」と思わせる要素を抽象した自分なりの表象(頭の中にはあるつもりの)を、
音に再生できるだけの最低限の自由度としての技術を身に付けたいという具合に、他人の勧める表象よりも専ら技術の方が関心事になってしまうのかも知れません。
こうした態度(「自分が弾きたいと思う通りに弾けるようになりたい」といった)は、私と似たような境遇でピアノを弾くようになった友人にはかなり共通しているのですが、
かたや子供の頃から英才教育的にピアノを習わされてきたような人には
「自分の弾き方を模索している」というような人が多いような気もします
(技術的問題を解決した後の高い次元での話なのかも知れませんが)。
ただ面白いのは、私のようなピアノ弾きは、
レコードなどで既に聴いていて自分の気に入った曲の楽譜を買ってきて、
自分の気に入ったピアニストの演奏を表象しながら弾くというのが通常の
やり方ですが、
子供の頃からピアノを習わされている人の中には、
先生から与えられた曲を弾いているうちに自分の気に入った曲が出てきて、
その曲の表象を作る為にレコードを買いにいくといったまるで逆の
やり方が通常な人もいるのです。
つまりそうした人達は音楽が好きで音楽を楽しむ為の技術を習得しようとしている私どもとは逆に、物心ついたら、ある技術が身に付いてしまっていたので、せっかく身に付いたその技術をどう活用すれば楽しめるのかを模索しているといった感じなのです。
私からするとそういう技術は勿体ないというか、非常に悔しい気さえします。
私の姉も子供の頃から高校ぐらいまでピアノを習わされていましたから、
技術的にはかなり巧くなっていたものの、別に音楽に興味がある訳でもなく今では職業上、小学校で音楽の時間にピアノを弾く以外にはいっさい弾いていないでしょう。ひょっとすると今や私に追い越されているかも知れません(私が巧くなったということではなく姉が下手になったという意味で)。
大抵の芸術分野やら運動競技分野では、
個人がその分野に興味を持つようになるかどうかが判明する以前の幼少期からその英才教育を施しておくことが、
取り敢えずプロにするための必要条件のようです
(勿論、その他に才能も必要でしょうが)。
そういうやり方でプロになった演奏家の演奏を聴いて感動し共鳴してしまうということは、よくよく考えてみると私のような者には少しばかり
悔しい気もしてきます。
本当に音楽が好きで大きくなってから努力して演奏技術を身に付けた人の演奏の方が(プロより明らかに演奏技術が劣っていても)、
安心して共感できるという付加価値が伴うような気もしてまいりました。
khmhtg