科学と宗教の間に相対主義は馴染むか

Ĉu estas ĝusta, relativismo inter scienco kaj religio ?

(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

——一九九六年十二月二十日にこの世を去った (だからと言って、勿論あの世にも何処にも居る訳ではない)カール セーガン を追悼して......

私がここで相対主義と言っているのは、 「西洋音楽と邦楽とでどちらが優れているとは言えない」 といった価値の相対主義や文化相対主義などと同じような 用法として、 「科学と宗教とでどちらが正しいとは言えない」というような 態度のことを大雑把に言ってみただけだが、 『「知」の欺瞞』 などで論じられている認識的相対主義とかは、またちょっと違う 意味合いのようなので、 その辺を確認したい方は、 「相対主義に関するよくある質問」 辺りを参照してほしい。

この頁の作者:後藤文彦 クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
注意
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko

目次

まえがき(15/3/9) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)
はじめに
「信じている人」との出会い
「信じている人」とつき合うために
反証不可能な仮説(1998/5/12微更新,01/7/6加筆開始)
「神の存在は証明できないが不在も証明できない」
「お父さんを愛していた証拠を示せるか」
奇跡体験を根拠に神を信じるのは傲慢ではないか
覚え書き:「なぜ人を殺してはいけないのか?」問題 (0000/9/8更新)
サンタを信じるのが「夢のあること」だろうか? (00/12/8覚え書き)
覚え書き: 認知科学が進歩したら価値命題も客観命題になり得るか (04/1/31追記)
ドーキンス「神は妄想である」を読んで
(伊勢田哲治さんによる批判的なメモについて)(07/10/5)
科学的命題と価値的命題の間に文脈相対主義は馴染むか
(伊勢田哲治さんの文脈主義について)(07/10/11)
中間考察(08/3/18)
(伊勢田さんの『哲学思考トレーニング』を読んでみた)
伊勢田さんのブログにコメント (14/9/26)

続く……

まえがき (15/3/9)(10/17微修正)

暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム

私は以前、このページ上で、 宗教が価値領域の問題しか扱わないならば特に問題はないというような ことを書いていたが、 最近のテロのニュースとかを見ていると、 それだけでは不十分だと思うようになってきた。 セーガンが 「悪霊にさいなまれる世界」 で述べているように、 宗教の最大の問題点はエラー修正機能がないことだと思うし、 エラー修正機能がない限り、 ドーキンスが 「神は妄想である」 で述べているように、 どんなに穏健な宗教であっても、いつか過激派に転じる危険性をかかえていると思う。 進化論を否定する創造論主義者の問題を論じるぐらいだったら、 価値領域と客観領域を切り分けることで十分かもしれないが、 信念を実現するために人殺しをしたりする集団の問題を論じるには、 エラー修正機能の有無を論点にした方が有効なような気がしてきた。 また、過激派の思想集団等の場合、 過激な行動に走る特徴自体は宗教的でも、 世の中の人は、宗教集団としては捉えていないかもしれない (宗教的集団のくせに宗教を批判・禁止していたりもするし)。 そこで、 今後の議論?のために (というか、 民主的なエラー修正機能の重要性をより広く啓蒙していくために)、 エラー修正機能があるかどうかの観点から、 暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステムの特徴をなるべく単純化して、 わかりやすく示しておきたい。

エスペラント訳を公開した。
esperanta versio
paralela traduko inter Nipon-lingvo kaj Esperanto(日エス対訳)

暴走しやすいシステム(原理主義、過激派等)

  1. 「絶対に正しいこと」があると考える。
  2. 「絶対に正しいこと」を無条件で信じる。
  3. その結果、「絶対に正しいこと」を実現するため、 暴走していく可能性がある。

つまり、エラー修正機能がない。 だから、いつまでも進歩できない。

暴走しにくいシステム(民主社会、科学コミュニティ等)

  1. 「現時点で一番いい方法」を使うことにする。
  2. 「現時点で一番いい方法」を疑うことを妨げない。
  3. その結果、もっといい方法が見つかったら、 「一番いい方法」を見直す。

つまり、エラー修正機能がある。 だから、進歩することができる。


1. 「絶対に正しいこと」があると考える

「絶対に正しいこと」というのが仮にあったとしても、 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断しているのは、自分である。 既に経験的にわかっているように、自分は計算を間違ったり、 字を間違ったり、色々と間違いを犯す。 自分の判断は全く完璧でないし、しばしば間違う。 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断している自分の判断は、 本当に正しいのだろうか。 そもそも、自分が 「絶対に正しいこと」 と信じることにした 「絶対に正しいこと」は、 宗教の場合、 「神の言葉」とかのことだし、 思想集団では、絶対に間違わない指導者の言葉とかのことだ。 絶対的な存在なので絶対に間違わないことになっている神や指導者が 述べた言葉だから 「絶対に正しい」とか、だいたいそういう根拠だろう。 仮に、百歩譲って「神の言葉」自体は 「絶対に正しい」んだとしても、 その内容は、どのような入力手段によって 自分の頭に入ってきたのだろうか。 例えば、聖典に書かれている文字ということであれば、 それは、仮に、「神の言葉」を 直接 神から聞いた昔の預言者やその信者たちが書き残して伝えたものだとしても、 最初の聖典は、神が直接に生成したものだとしても、 現在、利用されている聖典は、 歴史的に何度も翻訳や編集を経て、現在は誰かの手で電子データとして コンピューターに入力され、編集されて印刷された印刷物である。 「神の言葉」が聖典の活字になるまでに、 多くの人間の作業を経ている以上、 そこには間違いや勘違い(あるいは作為的な脚色や曲解)が入り込む可能性がある。 更に公平を期すために言うなら、 聖典に書かれていることが、単に昔の人の考えたつくり話だという可能性だってある。

宗教指導者が語った言葉を 「絶対に正しいこと」と判断している場合はどうだろう。 人間が語る言葉は、 ましてや脚色されたり曲解されている可能性がある。

ついでに、 自分の頭の中に神が直接 語りかけてきたのを聞いたのだという場合も あるかもしれない。 それはよくあることだ。 確率的には、 自分の脳が作り出している幻聴である可能性の方が圧倒的に大きいだろう。

既に経験的にわかっているように、 自分の脳は全く完璧ではない。 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断している自分の判断は、 本当に正しいのだろうか。

1. 「現時点で一番いい方法」を使うことにする

人間や高等な動物が、 証拠がなくても何かを信じるようになっているのは、 十分な判断能力のない動物時代には、 その方が生き残りやすかったから、そのように進化したためだろう。 例えば、青い実を食べたら、腹が痛くなったので、 「青いものを食べると腹が痛くなる」と信じて、 青いものを食べないことにするとか。 青い実を食べて腹が痛くなった原因を科学的に調べる 方法がわからない時代においては、 「青いものを食べない」というのが、 「現時点で一番いい方法」だったかもしれない。 「青い実を食べたら、腹が痛くなった」というのは、 個人的体験だったとしても、 弱い証拠ではある。 ただし、現在の科学の基準からすると、サンプルサイズが1個だけだし、 再現性がないし、科学的な断定を下せるレベルの証拠ではない。 多くの人に青い実を食べさせてみて、 (他のものを食べた場合と同じ頻度でしか)腹が痛くならなかったとすれば、 最初に食べた人が別の原因で腹が痛くなりそうなときに、 たまたま青い実を食べただけかも知れない。 あるいは、青い実自体が腹痛の原因ではなくて、 腐っている実を食べたのが原因だったのかもしれない。 様々な証拠から、どうやら そっちの仮説の方がもっともらしいとなれば、 今まで信じていた 「青いものを食べると腹が痛くなる」という仮説は放棄して、 「腐ったものを食べると腹が痛くなる」という新たな仮説を採用した方が いい。 現在の人間は、とても賢くなったので、 多くの科学的な仮説を実験的に検証し、 それを生活の役に立つ技術に応用できるようにまでなった。 現在、科学の教科書にのっているような科学の知識は、 数々の実験によって再現性の点からも十分に 実証されているほぼ確実な知識ではあるが、 それでも将来、反証される可能性は常に残されているし、 反証しようとすることはタブーではない。 もっとも、過去の再三に渡る実験によって再現性が確認されている仮説が ひっくり返るようなことは、そうそう起きないが。 つまり、そういう意味では、科学が採用している仮説は、 「現時点で最ももっともらしい仮説」だし、 その仮説を利用してものをつくったり現実的な技術に応用できているので、 ひとまずそれが「現時点で一番いい方法」だ。

一方、民主社会における 国民主権や言論の自由といった社会制度は、 科学的な手法で検証された方法ではないが、 現実の民主国家等で採用し、社会実験されながら、 (なるべく多くの人がしあわせになれる社会が いい社会だという価値観を共有する人々にとっては) 「現時点で一番いい方法」と考えられている。


2. 「絶対に正しいこと」を無条件で信じる

信じることは良いことで、疑うことは悪いことだという考え方がある。 人の信頼関係の話なら、それは全く間違いというわけではないだろう。 ただ、信頼できる人というのは、それまでのつきあいから、 あの人なら信頼できるだろうということが、 証拠や実績によって判断されている部分が大きい。 もし、信頼できるかどうかという何の証拠も実績もない赤の他人であっても、 「人を信じるのはいいことだ」と初対面から誰でも無条件で信じることにしてしまうと、 確実に詐欺の被害に合ってしまうだろう。 「無条件で信じる」というのはとても危険なことだし、 おかしいときに疑ってみることは大事なことだ。 親子や恋人同士の信頼関係においては、 たとえ騙されていても信じ続けたい、 騙され続けるデメリットよりも 愛情を与え続けられるメリットの方が大きいという 価値判断もあるかもしれない。 個人と個人の間だけに関わることなら、騙されてでも信じていたいというのは、 個人の選択の問題になるかもしれない。 では、 「こうすれば世界は平和になる」とか 「こうすれば人々は幸せになれる」みたいな主張は、 無条件で信じていいのだろうか。 世界や人々を対象とした提案を実現しようとすることは、 他人を巻き込むことだ。 しかも、「平和」とか「幸せ」というのは 価値観に依存することだから、 客観的に「正しい」方法なんてそもそもあるわけがない。 にもかかわらず、 自分たちの考える「平和」や「幸せ」をすべての人に 押し付けようとすると 確実に衝突が起きる。 「正しい」と思っていたやり方でトラブルが起きているなら、 そのやり方が本当にいいやり方か疑ってみてほしい。 おかしいときは疑ってみる。 それは、暴走を防ぐとても重要なことだ。

2. 「現時点で一番いい方法」を疑うことを妨げない

既に経験的にわかっているように、 人間の判断は完璧ではない。 どんなに「絶対に正しい」と考えられていたことでも、 もしかしたら間違っているかもしれない。 その可能性はなくならない。 「絶対に正しいこと」を疑ってはいけないことにしてしまうと、 もし、「絶対に正しいこと」に間違いがあっても、いつまでも修正されない。 これでは、いつか 暴走する可能性がある。 そもそも、 「絶対に正しいこと」が「絶対に正しい」という自信があるんだったら、 疑ったって、何の問題もないはずだ。 本当に正しいんだったら、 いくら疑われても反証されることはないし、 その真実性がますます高まるだけなのだから。 それに、 疑うことを許しておきさえすれば、 もし間違いがあったときに、 その間違いを見つけてもらえて、修正してもらえる可能性があるのだ。 つまり、 「より正しい」ことを追求しようとする限り、 自由に疑い批判することを許した方が有利な戦略なのだ。 現に、科学はその方法で、目覚ましい科学技術の発展に成功したし、 民主国家だって、 奴隷や小作農を前提にしていた時代の絶対王制の国家に比べれば、 より多くの国民に人間的な生活を提供するのに一定の成功をしている。 だから、民主社会を機能させるには、自由に批判ができる言論の自由が必須なのだ。


3. その結果、「絶対に正しいこと」を実現するため、 暴走していく可能性がある。

「どんな病気もお祈りで治せる」みたいに客観的に間違ったことを 信じるのは明らかに問題があるけど、 「人を愛することは素晴らしい」とか 「人はみな平等であるべきだ」とか、 価値観の領域のことは、 それを信じたからといって特に問題はないような気もする。 ただし、そういう価値観の領域のことを、 現実に実現しようとすると 現実の社会や人間との関わりが出てくるので、 価値観の領域には 収まらない話になる。 「絶対に正しいこと」も、現実とすり合わせるために、 様々な「解釈」がなされ、 価値観の領域には収まらない「絶対に正しいこと」のバリエーションが つくられていく。 例えば、 「「人はみな平等であるべきだ」を実現するためには、 その考えに反対している民族集団を虐殺してでも、 反対勢力を取り除かなければならない」 みたいなエスカレートしたバージョンも 「絶対に正しいこと」のリストに加えられ、信じられていく。 おかしいときは疑ってみる。 それは、暴走を防ぐとても重要なことだ。

「正しく生きられますように」問題
理想社会シミュレーション

3. その結果、もっといい方法が見つかったら、 「一番いい方法」を見直す

もっといい方法が見つかったら、 「一番いい方法」を見直す。 これは、現時点で「正しい」と思われていた仮説の間違いを 修正するということに留まらず、 「現時点で一番いい方法」を「もっといい方法」に改善する機能がある。 この機能を持っているかどうかが、 歴史的体系を飛躍的に進歩させられるかどうかの鍵となる。 占星術や漢方は何千年もの歴史があるが、 その間に近代科学(の枠内での天文学や医学)へとは発展しなかった。 9世紀頃からのイスラム黄金期には、科学や医学が発展していたが、 12世紀の聖職者アル・ガザーリーは、 原因を結果と関連づける可能性に異議を唱え、人はこれから先に何がおこるかを知ることも予測することもできないと教えた パルヴェーズ・フッドボーイ氏による文章)。 日本の和算は、 せっかく積分まで発見していたのに、 秘伝主義でなければ、もっと発展したのではないだろうか。 一方、 宗教の影響力が強くて 地動説や進化論を受け入れるのに苦労するような ヨーロッパで 近代科学が発展した。 それは、 たまたま「エラー修正機能」が組み込まれただけなのかもしれないし、 民主主義の発達と関係があるのかもしれない。 ともかく、 ものごとが発展するには、 「公開」し、「批判を歓迎」し、「もっといい方法が見つかったら改善」する、 という仕組みが必要なのだ。


エラー修正機能があるかどうかという観点から、 暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステムの違いと私が考えていることを なるべくわかりやすく単純化して示してみようと思ったのだが、 まだ、十分にわかりやすくはないかもしれない。 科学や民主主義においてエラー修正機能が非常にうまく機能しているということは、 セーガンの 「悪霊にさいなまれる世界」で、 とてもわかりやすい例を多用しながら、 説明されている。 私が エラー修正機能が重要だと思うようになったのは、 このセーガンの著作を読んだことがきっかけだ。 一方、 ドーキンスの 「神は妄想である」では、 「宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則」 が ある以上は、穏健な宗教でも、 いつか過激主義に転じる危険性をかかえているとして、 宗教自体を相手に、正面から容赦なく徹底的に戦おうとしている。 その意味で、宗教の信者や宗教的思考に親近感を抱く人にとっては、 セーガンの本の方が、 (腹を立てずに)読まれやすいかもしれない。 エラー修正機能の重要性を、 宗教の信者にもわかりやすく、あまり長くない文章で、 宗教の文化的な側面には敬意を表しながら、 相手が怒らないように説明するのは、なかなか難しい。 まずは、まだこなれていない上の 「まえがき」を公開して、 他の人からの意見(批判)も参考にしながら、より良い表現を模索していきたい。
ちなみに、「無条件に信じる」という態度の問題性を童話的なお話で、 なるべくわかりやすく表現できないかという試みの例としては、 第4回星新一賞落選作品第5回星新一賞落選作品辺りも 参照していただきたい。


追記(22/4/23): ロシアによるウクライナの侵略で見られる 国家の典型的な社会システム上の問題の一つを、私の捉え方で整理してみた。

esperanta versio
paralela traduko inter Nipon-lingvo kaj Esperanto(日エス対訳)

元首や政府が犯罪を犯し放題の国家と犯罪を犯しにくい国家

元首や政府が犯罪を犯し放題の国家(独裁主義国家、専制主義国家等)

  1. 元首や政府を批判できる言論の自由が憲法で保証されていない。
  2. 元首や政府は、国民が元首や政府を批判することを 犯罪として取り締まることができる。
  3. つまり、元首や政府自体は、犯罪を犯しても、 それを指摘する国民を犯罪者として取り締まることができる。
  4. よって、元首や政府は、嘘をついたり、人を殺したりといった 犯罪をやり放題である。
  5. その結果、元首は 「隣国にいる自国系住民がネオナチによって大量虐殺されている」 といった嘘を国民に信じさせることもできてしまい、 その嘘を信じた兵士に、 (または嘘だとわかってはいても命令に逆らって犯罪者とされることを恐れる兵士に) 隣国の住民を大量虐殺させることもできてしまう。

元首や政府が犯罪を犯しにくい国家(民主主義国家等)

  1. 元首や政府を批判できる言論の自由が憲法で保証されている
  2. 元首や政府は、国民が元首や政府を批判することを 取り締まることができない(それをすれば、憲法違反となる)
  3. もし、元首や政府が犯罪を犯せば、 国民はそれを告発して、犯罪として立件することができる
  4. よって、元首や政府は、簡単にバレるような嘘はつけないし、 簡単に証拠が見つかってしまう犯罪は なかなか犯せない。
  5. もし元首が 「隣国にいる自国系住民がネオナチによって大量虐殺されている」 みたいに簡単に反証される嘘をついたら偽証罪に問われる。 仮に元首が兵士に隣国の住民を大量虐殺する命令を下したとしても、 それ自体が国内法で犯罪になるかもしれないし、 兵士たちは自分たちが国内法や国際法で犯罪者になる可能性があるので、 命令に逆らうかもしれない。

もちろん、問題は言論の自由の有無には留まらないが、 ロシアによるウクライナ侵略に関して、 色々と感じたことを、 「飲み話」の方にも書いた。


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メール:

以下は、宗教に批判的な考えを抱くようになった 私の思考過程を書いていったものなので、 それなりにくどい部分もあるが、 まあ、私の思考過程のメモということで。





khmhtg


 宗教に対する私の姿勢については 「宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問」 や「科学紀元」にも書いた。  尚、疑似科学的な思考や方法(例えば科学文明否定主義)の持つ問題点を 示す実際的な例として 「週刊金曜日に疑問」の頁も参照して戴きたい。 ここでも、カール セーガン氏の『科学と悪霊を語る』を数ヶ所で引用した。

科学と宗教、セーガン追悼などに関係する頁

佐倉哲さんの 「聖書の間違い」
NATROM さんの 「 進化論と創造論
The Skeptic's Dictionary 日本語版 —— 二千年紀のための懐疑論ガイド
超絶技巧的ピアノ編曲の世界」 (midi が鳴る)の 「経 典
福翁自伝
碓井堅一郎さん の「 聖書の矛盾
後藤謙太郎さんの 「カール・セーガンの思ひ出」


はじめに

 科学の進歩には利点も欠点もあるとは思います。 科学の知識や技術(特に医学や農業)は、人の寿命を飛躍的に伸ばし、 いつ病気や飢餓で死ぬかも知れない不安から多くの人を解き放ち、より多くの人が 人生を享受することを可能にした一方、 人類が瞬時に滅びるような核兵器を作ることも可能にしました。

 確かに科学の知識や技術は、それを利用する人の価値観によって、 良い方向にも悪い方向にも使われますが、 それでは、「科学の方法」自体に 問題はあるのでしょうか。

 一方で、しばしば科学の進歩の足を引っ張ってきた宗教 にも利点も欠点もあります (片桐 悠さんの 「サイコップジャパン この世に不思議は存在しない」の頁の 下の方の「ケーススタディ」も参考になります)。 宗教は、神などの絶対的正義を想定することで、 この世の不条理や不平等に疑問を抱いている者に希望を与え、 それが奉仕活動を促したり、犯罪を抑止したりする一方、 その同じ神の名の下に拷問や処刑や大量虐殺が正当化されてきました。

 さて、これは果たして、宗教を利用する人の解釈や価値観の問題であって 「宗教の方法」自体には問題はないと言い切れるのでしょうか。

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「信じている人」との出会い

 私が初めてこの世に神を信じている人がいるということを意識させられたのは、 小学五年か六年の時だったと思います。 ある朝、学校へ行くと私がいつも通る裏口のところで大人の人が私たち小学生に 紙切れを配っています。 恐らくこの配り主は、よく祭りの時にスピーカーからカセットテープで 終末論を流しながら漫画の小冊子を配る「あの」宗派の キリスト教の人だったかも知れません(もしかすると、この宗派は、 田舎の方の民家の塀とかに 「死後さばきにあう」 の看板を貼っている宗派とも 同じだろうか?)。 (カトリックやプロテスタントの人たちは、こういう「宗派」の人たちが キリスト教の印象を悪くしているのだと言うかも知れませんが、 少なくとも今ここで話題にする「神が宇宙や人間を創造した」と考えているという点に 関してはどの宗派も特に大差はないと思います。)

 私自身もその紙切れをもらったのかどうかは覚えていませんが、教室に入ると、 皆がその紙切れを眺めて何やかにやざわめいています。 その紙切れには幾つかの質問が書かれていて、その中の一つに 「あなたはわたしたち人間をつくったのは誰だと思いますか」というのがありました。 私は、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、それに答えて「時間だ」と言いました。 UMT は「空間も必要だど」と言いました(もしかすると私とUMTの台詞は 逆だったかも知れません)。HRAKは「自然だ」と言いました。 私はそれもなかなか捨て難い答えだと思いました。 いずれにせよ、当時の私(たち)には「神が人間をつくった」などという 発想自体が思いもよらなかったし、そんなことを本気で信じている人も世の中には いるのだということを知って些か衝撃的ですらありました。 しかし、そんなことを信じているのは、ちょっとオカシイ少数の人に過ぎないと 思えたので、この一件には特に気に留めることもなく月日が過ぎ去りました。

 次に神を信じている人を意識させられたのは高校三年の時でしょうか。 家で留守番をしている時にエホバの証人らしき中年の人が訪れ、 猿人の化石の発掘などの事実は全て科学者の捏造だったということが図入り で紹介されている冊子を見せながら、 進化論が科学者の捏造であったという説明をして帰っていきました。 (エホバの証人についてはユダ・イスカリオテさんの 「エホバの証人--封印された真実」の頁)

 その時の私は単に「世の中にはちょっとオカシイ人もいるものだなあ」と思っただけで、世の中のごく一部の特殊な宗教の信者のみが創造論を信じているのだと思っておりました。

 その認識が覆されたのは大学二年の時です。 実は 私もESS(英語で議論したりする部活)に入っておりまして 、その関係でキャンパスクルセード (別名?ディスカバーフレンズ)という各国の大学に点在するキリスト教のサークル(違っているかも知れない)の方々と交流を持つことができました。

 この人たちは我々に割と積極的に布教行為を行ってきたので、 血の気の多かった当時の私はたどたどしい英語で様々な議論を 交わしました(相手の母語による議論が如何にこちらにとって 不利であるかはここでは触れない)。

 自分の信条の中の神聖不可侵な部分に疑問を投げ付けられると怒ってしまう人もいましたが、中には極めて情緒安定で相手の考え方も理解しようと努める人もおりました。

 そんな一人と私は進化論と創造論について右手に英和辞典、 左手に和英辞典を持って朝から夕方まで議論したことがありました。

 その人は、

「あなたが無人島にいて、そこにコーラの缶が流れてきたら、 それを作ったのは誰だと思うか? 人間が作ったと思うでしょう。 だから私も人間を作ったのは神だと思うのです」

のような比喩をしていましたが、どうやら言いたいことは、

「人間程度の複雑な存在が(何等の意識の作用も介在せずに) 自然発生したとは考えにくい。その可能性は零とは言えないが、 自分には神が創造した可能性の方が信じやすい。 神の発生原因については我々には不可知である」

ということのようでした。一方、私の主張は

「自分は比較的単純なものの自然発生を(何等の意識の作用とも関係のない) 自然法則として受け取れるが、複雑性は程度問題でしかないから、 人間程度の複雑な存在の発生もその延長上において納得できる。 神が創造した可能性も零とは言えないが、その場合は神ほどの複雑な存在の 発生原因についてどうどう巡りの議論になる」

ということでしたが、言語的不利によってこの論理は十分に相手には 伝わらなかったことと思います。恐らく向こうは、十分に私を 言い負かしたつもりでいたかも知れません(言語差別に興味のある人は 「英語崇拝からの脱却」の頁 )。

 ところで、自由聴講で英会話を教えてもいたアメリカ人のキリスト教 宣教師の方が私に 対して、あの連中をどう思うかと訊いてきたので、私は迂闊にも (常識がなかったもので)、 「まさか本当に創造論を信じているとは思わなかった」 と言ってしまったのです。

 するとその宣教師は「私は神が進化を利用して人間を創ったのだと思う」 と言うのです。そこで初めて私は「しまった」と思い、ようやく自分の認識 不足に気付き始めました。

 つまり、世界じゅうの殆どの人はたいていなにがしかの宗教の信者ではあ りますが、それは我々日本人の多くが仏教徒でありながら、実状は単なる形式的な 信者に過ぎず、死んだら成仏して仏になれたらいいなあとは思いつつも、 絶対にそうなれる筈だと本気で信じている人はあまりいないように (尤も、初期仏教では不滅の魂を否定している。 <佐倉哲さんの「仏教における『魂』と『神』」の頁>)、 世界じゅうの大多数の人は形式的に宗教を信仰しているだけでしかない ---ましてや「神が人間を創造した」などという現実離れした教えを 説いている宗教の場合は、尚更そうだろう--- と私は自分の生活環境 の中で培った常識感覚で勝手にそう思い込んできたのであります。

 ところがどうやら例外は寧ろ日本の方のようで、世界じゅうのなに がしかの宗教の信者は本気で神仏を信じ信仰しているらしいということが、 留学生等との交流も通して段々と分かってまいりました。

 つまり日本国内の認識では「神を信じる人」の方が「ちょっとオカシイ人」 ととられる風潮があるかも知れませんが、世界の認識では「神を信じない人」 の方が「ちょっとオカシイ人」ととられる風潮がかなりあるようなのです。

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信じている人とつき合うために

 このように、 私は大学に入るまでは、正直に言うと 宗教を(特に神を、特に創造神による人類の創造を) 信じている人は、ちょっと「おかしい」 人だと思っていました。 大学に入ってからは、身近に、敬虔なイスラム教徒やキリスト教徒の友人や知人が でき、その人たちとはごく普通に親しくなれたので、 宗教の信仰者を色眼鏡で見てしまう自分に、 ある種の呵責を感じるようになってきたのだと思います。

 特に、イスラム教徒のマレーシアの留学生たちとは親しくなりましたが、 この人たちは、自分たちは酒や肉を口にしないのに、 私に対しては酒や肉を勧めるのです。 これには私も感動しました。例えば、キリスト教会の英会話講座に出ていた時に、 講座の後にお祈りや賛美歌を非キリスト教徒にまで強要されたのとは 大きな違いでした(勿論、これは単に私が巡り会った一例に過ぎず、 イスラム教にせよキリスト教にせよ、原理主義から形骸化したものまで 多種多様でしょうから一般化はできませんが)。 その辺の経験から、私は少しずつ「相対主義」の重要性を 意識し始めたのかも知れません。

 とにかく、 そういう信仰者を親しい友人や知人として受け入れなければならないという 気持ちから、 頭の片隅ではどこか公正ではないとは思いつつも、 「神は存在する」という宗教的な主張と 「神が存在する証拠はない」という科学的な主張との間に相対主義を 持ち込むことで、信仰者との友好関係にひびを入れないようにしようと していたような気がします。 つまり、しばしば宗教者が持ち出す 「神の存在は証明できないが、不在も証明できない」 という主張に対して、明確に反駁する術を自力では見出だせず、 また、それを自らの「相対主義」の拠り所にすらしていたのです。

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反証不可能な仮説

 疑似科学批判の本のどれかを読めば、 その相対主義が実はまるで公正を欠いたものであることに 気づいたのでしょうが、 私の場合、つい最近まで疑似科学批判に格別に大きな興味がなかったこともあって、 恥ずかしながら、『ハインズ博士「超科学」をきる』(化学同人) を読むまでは、頭の片隅に蟠りを残してむんむんとしておりました。 つまり私の場合、「反証不可能性」という言葉に出会ったのは、 このハインズの本だった訳です。 この本の中でハインズは、反証不可能な仮説として、 冒頭に次のような例を挙げています:

「私、テレンズ・マイケル・ハインズはまさに神そのものである。 私は宇宙を三〇秒前に創造した」。 もちろん、あなたはこの仮説を信じやしないだろう。けれども、これが 間違いであると証明できるだろうか? あなたはこう反論することもできる。 「あなたは三〇秒前にこの宇宙を創造したとおっしゃるが、 私は何年も前の記憶をもっている。だからあなたは神ではない」と。 しかし、私は次のように答えることができる。 「私がこの宇宙を創造した時、すべての人間の記憶をもった状態で 創造したのである」。 このような応酬がしばらく続くだろうが、結局、私が神でないことは証明できないのだ。 しかし、この仮説はどうみてもばかげている。

 この件りを読んで、私の長年の蟠りがふっきれました。 「神が宇宙を創造した」の類いの仮説は正にその「反証不可能な仮説」 なのです。 勿論、「反証不可能な仮説」だからといって「間違っている」ということは できません。万、万が一、「正しい」こともあるかも知れません。 しかし、「仮説」というものは無数に立てられるのです。

 例えば、

「昨日、隣の鈴木さんが宇宙を創造した」

「一昨日、向かいの佐藤さんが宇宙を創造した」

「数千年前に猿の惑星から猿が地球に飛来し、 遺伝子操作で人類を創造して去っていった」

「実は宇宙は存在しておらず、 あなたがコンピューターの仮想現実の中で夢見る妄想に過ぎない」

「人類が下等な生物から進化してきたというのは嘘で、 神によって創造されたのである。 生物の進化を示す化石などの証拠は、神が人間を試すために つくっておいた偽の証拠である」

「科学的には発見できない未知の病原体があり、これに感染すると、 旧約聖書に書かれた天地創造をあのまま真実だと信じるようになり、 たとえ、それを否定するような科学的証拠がいくら提示されても、 それは神が人間を試すためにつくっておいた偽の証拠だとしか 考えられなくなってしまう」

「神というのは存在せず、天地創造したのは、実は神ではなく悪魔 の遊びだったのだが、 悪魔は狡猾なので、多くの人間を騙して神がいると信じ込ませ、 様々な宗教を信仰させている。 祈りによって神の声を聞いたり、奇跡を経験したとしても、 それは悪魔が人間に神がいると思い込ませるための罠なのである。 これまでに神の名の下に幾多の人々が虐殺されてきたという事実が それを裏付けている 」

「あなたの周りの人間はすべて宇宙人で、地球人の振りをしながら あなたを実験、観察しているのである。あなたが喋っている言葉も 信仰している宗教も、すべて宇宙人が実験のためにつくった 舞台装置に過ぎない」

「論理的に導かれることも科学的に実証されることも全て間違っている。 本当は後藤さんの言うことだけが真実なのだ」

……などなど、この手の仮説はいくらでも無数に立てられます。 しかし、こうした仮説は、例えば 「タイムマシーンで過去に戻って観測しないと確かめようがない」 など、 反証するためには実現不可能な荒唐無稽な技術を要したり、 あるいは 「この現象は確かに存在する。しかし、その存在を科学的に検証しようとした 途端に存在しなくなってしまう」 などのように、科学的に検証できないことが既に仮定されていたり、 はたまた 「x+y=10 を満たすx,y は、x=5, y=5 だけである。 もし、それ以外の答えを見つけたとしても、それは神が人間を試すために、 『それ以外の答えを見つけた』と思わせているだけである」 などのように、論理的に導かれる判断すらを無効とするものだったりして、 どれもこれも反証のしようがないのです (この辺、01/7/6加筆。 尚、論理的に反証不可能であると分かるような仮説のことを 「原理的に反証不可能」と言ったりもするようだ)。 だから、こうした無数の仮説は、反証のしようがない以上、 それぞれが万、万が一「正しい」のかも知れません。

 そんな万、万が一「正しい」かも知れない無数の仮説の 中のどれに信じる価値があり、どれに信じる価値がないかを 一体どうやって判断することができるのでしょうか。

例えば、こうした無数の仮説の中から

1)個人的な生活環境や運命的な神秘体験や奇跡の経験を通して、恣意的に 主観的に自分が「正しい」と「実感」できたある特定の「仮説」を信じることにする。 先人たちがその仮説に基づいて 物事を説明づけたり予測するべく築いた体系(例えば宗教の教義)を学び入れ、 それを自らの行動規範に組み入れる。一旦そうと決まれば、 こうした体系は神聖不可侵なものとなり、 疑ったり反証したりすることは許されない。

といった態度を取ることもできるでしょう。恐らく多くの宗教の信者は これと五十歩百歩の態度を取っているのではないかと私は想像します。 しかし、そのような反証不可能な仮説が「正しい」という保証は、 客観的には全くありません。尤も、そのような反証不可能な仮説の下に 築かれた宗教的教義とはいっても、それを信じることで心の平安が 得られ、また、その教義に従うことが、人生に降り注ぐ幾多の試練を 乗り越える支えとなるのであれば、それはそれで、そのような宗教的な 体系も極めて有用な「処世訓」としては十分に評価されるべきでしょう。 しかし、そうした処世訓の枠を外れて「何故、人は病にかかるのか」とか 「その病を治すにはどうすればいいか」といった種類の問題 (つまり答えが個人の価値観に依存しない問い) については、宗教的教義は何等 適切な答えを得ることに成功していない ばかりか、むしろデタラメの処置を施して大失敗をしてきたことは歴史的に 証明されていると言っても過言ではないでしょう*。

* 紀元前四世紀頃からヨーロッパでは、ヒポクラテスなどのお陰で、 科学的方法による医学が発達し始めていたのに、 古代ローマ帝国が衰亡すると、祈祷や奇跡の癒しに頼るようになってしまい、 せっかく発達し始めていた医学の芽が摘み取られてしまい、その後、近代 に至るまでそんな状態が続いた。 (現代でもクリスチャン サイエンスという宗教は 「病気は病原菌によって起こる」という考えを否定しているし、 エホバの証人は輸血を拒否する。 この辺に関しては、大豆生田さんによる sci.skeptic FAQ の和訳の頁 「信仰で治療できる?」 も参考になろう)。   また、中世ヨーロッパでは精神分裂病の人を含む推定 何百万人もの人々 (九百万人という統計もある)が キリスト教のカトリック教会(後にはプロテスタント教会も便乗した) によって「魔女」だとされ、想像を絶する拷問の末、虐殺された。 これらの詳細については、カール セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社) を参照されたい。ついでにこの本から、次の文章を引用しておこう:

どれほど多くの宗教が、予言によって権威を示そうとしたことだろう。 どれほど多くの人が、当たりもしないあいまいな予言を信仰の支えにしている ことだろう。だが、科学ほど正確で信頼性の高い予言のできる宗教が、 かつて存在したことがあっただろうか? たいていの宗教は、科学に匹敵する ほどの力で未来を予言したいものだと思っている。正確な予言、筋金入りの 懐疑主義者の前で、何度でもやってみせられるような予言だ。しかし 人間の作ったもののなかには、科学ほどの予言ができるものはほかにない。
(中略)
重ねて言うが、科学がうまくゆくのは、エラー修正機能が組み込まれているからだ。 科学には問うてはいけないことなど何もない。聞くのがはばかられるような微妙な 問題もなければ、冒すべからざる神聖な真実もない。

 さて、ここで、多くの宗教が取っているだろう前述の1) のような態度と対照的な態度 を取っているものとして科学を引き合いに出しました。 それでは科学の態度とは1)と対比して書くとどのようなものなのでしょう。 私は、おおよそ次のような態度だと捉えています。

2)客観的に検証できないような仮説は扱わない。 客観的に検証できるような仮説については、何度も検証を重ね、 公開して世界じゅうの研究者の追試に曝し、 「再現性」の観点からも十分に実証されたと判断されたら、 物事を説明づけたり予測する既存の理論の体系にその仮説を新たに加え、 以前よりも多くのことを説明づけたり予測したりするのに利用するようになる。 但し、人間には常に誤りはつきものなので、 既に実証済みの仮説が、新しい仮説によって反証されることを妨げない(以下、 註釈が長くなってしまったので、飛ばすときはここから*)。

* 追記(01/7/6): ここで「客観的に検証できないような仮説」と言っているのは、 「愛は素晴らしい」などのように、真偽の判断が価値観に依存する仮説とか、 前述したような「反証のしようのない仮説」とかのことである。 因みにこの文章は、以前は

2)反証できないような仮説は一切、取り上げない。反証できる仮説については、 何度も検証を重ね、「再現性」や「客観性」の観点から十分に実証されたと判断できたら、 その仮説に基づいて物事を説明づけたり予測する体系を築いていく。 但し、人間には常に誤りはつきものなので、既に実証済みの仮説が、 新しい仮説によって反証されることを妨げない(*h1〜*h3)。

と書いていたが、価値領域を扱っているために客観的な検証の対象にならない仮説をも 「反証できないような仮説」に含めてしまうのは 適切ではないと思うようになったので、「客観的に検証できないような仮説」と書き換えた (ここ以降の文章でも)。 科学と疑似科学と間の線引きがそう簡単にはできない難しい問題であり、 少なくとも「反証可能か反証不可能か」だけを問うたからといって「科学か疑似科学か」 の明確な定義などはできないということは分かる (この辺の問題に関しては、例えば ここの伊勢田哲治さん の文献等が参考になる。 07/10/7追記:伊勢田さんは、正に科学と疑似科学との線引き問題について 掘り下げて整理した『 疑似科学と科学の哲学 』という本を書いている)。 しかし、ある主張が科学的か胡散臭いかを判断する際に、 その主張が 「反証不可能な仮説」を振りかざすことで 科学的な検証を回避する逃げ道を用意していないかどうかをまず吟味してみることが まるで無意味だとまでは私は思わない。 カール セーガン『科学と悪霊を語る』(新潮社)の 「第十二章“トンデモ話”を見破る技術」の中では、 以下のように「反証可能性」について触れられている。

●反証可能性。仮説が出されたら、少なくとも原理的には反証可能かどうかを問うこと。 反証できないような命題には、たいした価値はない。たとえば次のような壮大な仮説を 考えてみよう。「われわれの宇宙とその内部の一切は、もっと大きな宇宙のなかの一個の 素粒子(電子など)にすぎない」。だが、この宇宙の外からの情報が得られなければ、 この仮説は反証不可能だ。主張は検証できるものでなければならない。筋金入りの 懐疑派にも、推論の筋道がたどれなくてはならないし、実験を再現して検証できなければ ならないのだ。

ついでに、 ロバート・L・パーク『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか』(主婦の友社) の「第2章 信じたがる脳——科学とはなにか?」では、 「科学」に次のような説明を与えている。

「科学は、万物に関する知識を収集し、系統だて、検査や分析が可能な法則や理論に要約する、 規律正しい大事業である」

 この拡張高い説明は、生物学者E・O・ウィルソンの著書『 一致コンシリアンス』からの引用である。 ウィルソンはこのなかで、科学の領域として考えられるかどうか判然としない、あやしい主張を くいとめるための条件を提案した。その条件とは、たったの二項目。

 ・実験を再現し、検証することができるか?
 ・それによって、以前より万物の予測がたつようになるか?

 このふたつの問いにたいする答えが、どちらか一方でもノーであったら、それは科学ではない。
 また、科学が成功し、信頼されるかどうかは、科学者が以下のふたつのルールに従おうとする意思を もっているかどうかにかかっている。

1.自分の新しい考えや実験結果を、すべて公開し、ほかの科学者に自由に実験を再現してもらう。
2.自分の考えや実験結果より完璧な、あるいはより信頼がおけるものがほかにあれば、自説と 照らしあわせ、いさぎよく自説を放棄したり、修正したりする。

以下は、 この文章を書いたときの註釈:

*h1 科学に対するこうした捉え方に対しては、 トーマス クーンやファイヤ アーベントが指摘しているように、 実際の科学の進歩はそのような反証に対する謙虚な姿勢からは生まれて きてはいないといった批判もある。 しかし縦しんば、科学が既存の理論に大幅な修正を強いるような反証に晒された時に、 科学者の多くが直ぐには反証を受け入れようとしなかったにしても、 時間をかけて反証された事実を受け入れていった訳だし、また、 そうした大胆な反証だろうと拒否しない余地が科学にはあった訳である。 この件については、浅田彰、他著『科学的方法とは何か』(中公親書)の中の 佐和隆光氏の次のような見解に私も共感する:

科学哲学者や科学史家の所説に耳を傾けてみると、自然科学においてすら、 ポパーの反証主義は十分に機能してこなかったそうである。 だからといって、自然科学者が反証主義の流儀をかなぐり捨てて、論理の展開や 実証の手続きを杜撰にするなどという話を、寡聞にして私は耳にしたことがない。 要するに反証主義は、科学が従うべき「規範」の一つなのである。反証主義は 「科学」たるものがあくまでも則るべき方法的立場であって、自然科学の 歴史的展開においてそうした方法が有効に機能してこなかったからといって、 べつだん反証主義に懐疑的になったり、いわんや「規範」としての反証主義を かなぐり捨てるべきだということにはならない。

 また、前述のハインズの本の訳者 井山弘幸氏も、「歴史や文学のように反復実験の 不可能な学問の世界においては、データによる実証よりもテキストの解釈が ものをいう場合が結構ある。そうした解釈はすべて反証不可能である。ハインズ の定義だと歴史も文学も疑似科学になってしまうが、歴史や文学は不確かで誤った 知識の集積ではない」(ハインズ『「超科学」をきる』Part II 化学同人) と批判している。しかし、歴史認識を覆す遺跡が発見されたり、 既存の文法体系では説明できない用法が若者に使われだしたりすることなどは、 歴史や文学?が反証され得る例ではないかという気もする。私は、反証不可能性が 科学の十分条件だとは思わないが(例えば、その他にも「 論理的な間違いさえ犯さなければ誰が答えを導いても同じになる」 といった客観的な操作 (ひょっとするするとこれの ことをクーンは「パズル解き」と呼んだのだろうか??)で組み立てられていることなども条件の一つであろう)、必要条件の一つではあろうと捉えている。 歴史や文学、更には哲学といった「学問」において、反証不可能な領域があったから といって、それを特に「科学」と呼ぶ必要性を私は感じない。 その意味では、和田純夫著『20世紀の自然革命』(朝日選書)の以下の「哲学」に関する見解には共感する:

 西欧哲学の代表者として、カントやヘーゲルの名がしばしばあげられる。しかし 彼らの哲学は現代の自然観と整合するものだろうか。カントは、「時間や空間という 概念は、人間の意識の特性である」と主張したが、一般相対論は、「時間や空間とは、 計量場によって表される実体をもつ時空の座標である」と主張した。そして一般相対論 は、万有引力の法則が成り立つ理由を説明したのみならず、水星の不思議な運動、太陽 の近くを通る光の曲がり、ブラックホールの存在など、自然界のさまざまな現象を明らかにした。一方、カントの時空観によって説明できた自然現象は、「何もない」。
 ヘーゲルは、「意識が変われば対象も変わる」とか、「対象は知に本質的に属している」という発言をする。ヘーゲルに詳しいわけではないので、いい加減なことをいうなと お叱りを受けるかもしれないが、人間の主観を離れては客観は存在しないという主張だと理解する。しかし生物学も含めて二十世紀の自然科学が、人間の主観を切り離すことによって大きな成功を収めたのは紛れもない事実だろう。

*h2 もう一点、補足しておくと、ここで取り上げているような反証不可能 な仮説というのは、厳密に言うと「反証するためには実現不可能な荒唐無稽な 技術を要するため、当面は反証される心配のない仮説」という程度の 意味であって、中には技術の進歩によって遠い将来に反証が可能になるものも 含まれるかも知れません。 例えば、月に人間が降り立つなどということが夢物語だった時代には、 「月には兎がいる」という仮説は殆ど反証不可能だったかも知れませんが、 今日ではその仮説は反証できるようになってしまった訳です。

 その意味では、「神は存在する」といった仮説も「神」を価値観に依存しない ように定義することができるのなら、技術の進歩によって反証できる仮説に なる場合もあるかも知れません(尤も、私は科学的反証のまな板にのせられるような 明確な「神」の定義を耳にしたことはありませんが)。

 但し、「愛することは素晴らしい」のような価値的領域に属する仮説は、 どんなに技術が進歩しても、科学的反証のまな板にのることはありません。

 つまり、ここで「反証不可能な仮説」という場合は、客観的領域を扱っては いるけれども「当面は反証される心配のない仮説」と価値的領域を扱っている ために「科学的な反証の対象になり得ない仮説」とを含んでいると言うのが 厳密でしょう。

** ついでに、「人間の認識の届かない領域に関する断定を知識と して認めない」釈迦の教えは、こうした「科学の態度」と意外にも 類似しているように私には見えます (佐倉哲さんの「仏教における『魂』と『神』(その2)」の頁へ)

*h3 (1998/5/12)。以上のような私の「反証主義」的な態度に対して、 黒木玄さんの頁の掲示板 上で黒木さんが 批判文 を書いているのを見つけました。 黒木さんの言わんとすることを私は完全には理解できていないのですが、 数学の研究においては、しばしば「○○と××は似ている」というような (反証不可能な)仮説が決定的な役目を果たすから、反証不可能な仮説を 取り上げないなどというのは馬鹿げているということのようです。 勿論、人間が頭の中で、ある理論や手法やモデル化などを着想する際には、 「客観的に記述できる命題や客観的に記述できる推論の真偽を判断する」 ということ「だけ」をやっている訳ではなくて、「○○と××は似ている」のような 主観的印象などを大いにヒントにしているとは思います。 しかし、だからといって「○○と××は似ている」のような価値的命題を 科学の法則にしたり、理論の中で使われる推論の根拠にしたりはしない訳ですよね。 つまり、反証や実証(数学の場合は証明もか)の対象となるのは、やはり 反証可能な客観命題や推論だと思うし、その結果、実証(証明)されて法則化 された命題や理論にしても反証可能な訳ではないのでしょうか。 一方これに対して、疑似科学(と私が考えているもの)では、 「○○と××は似ている」のような価値的命題をも法則化し、 それを根拠に様々な推論を組み立ててしまうものが多いと 私は捉えていたのですが、この認識は間違っているのでしょうか。 まあ、この辺は黒木さんの関係頁辺りを暇な時にでも見ながら、 もう少し考えてみたいとは思います。

 さて、その辺を念頭に置いてもらった上で話を戻しますが、

 とにかく、科学は 客観的に検証できるような 仮説だけを扱うことと既存の理論が 反証されたら自己修正を行うこととによって、 「答えが価値観に依存しない問い」に答えることには、大いに 成功してきました。 しかし、勿論、科学は「答えが価値観に依存するような問い」 (「人はどう生きるべきか」とか「しあわせとは何か」とか) には答えません。

 そうした問いへの答えを捜すのに、多くの人にとっては宗教が有用かも知れません。 しかし、一方ではそうした「答えが価値観に依存するような問い」への 答えを捜すのに、別に宗教を必要としない人も少なからずいます。 そうした問いへの答えを捜すのに宗教を利用するのも利用しないのも 個人の選択です。 宗教から導かれる答えと、宗教を用いずに導かれる答えとで 、どちらかが絶対的に優れているということはあり得ません。 個人がどちらにより説得性を感じるかだけの話です。 例えば、私の場合、ピアノや英会話を習っていたところがプロテスタント系の キリスト教の施設(*p) だったこともあって、 実際に礼拝に出て牧師の説教を聞く機会に何度か恵まれましたが、 そうした説教は正直に言うと、私にはあまり説得性を感じられるものでは なく、心に響くものでもありませんでした (勿論、私のキリスト教に対する予備知識のなさも 手伝っているのでしょうが)。

 その一方で、安斎育郎やカール セーガンが人類の平和の達成の方法を模索している 文章などを読むと、そこには宗教的な発想は一切 関与していませんが、 私は深い共感と感動を覚え、それが私の行動規範に組み入れられることもあるのです (勿論、私とは逆の感想を持つ人もいることでしょう)。

(尚、安斎育郎氏については 「立命館大学 国際平和ミュージアム」の頁

 整理すると、 科学が扱えるのは客観的領域であり、宗教が扱えるのは価値的領域です。 そして気をつけなければならないことは、 科学以外に客観的領域で物事をうまく説明づけたり予測したりできるものは 今日まで特に見つかっていませんが、 価値的領域で物事を説明づけたり予測したりする方法は、 何も宗教には限らないということです。 宗教が扱えるのは価値的領域に限られますが、その 価値的領域を扱う思想に宗教が必須な訳ではないのです。 つまり、宗教とは、「人によっては」価値的領域を扱う際の強力な道具となる 言わば処世訓のようなものと捉えるべきものではないかと最近の私は考えています。 そのような宗教の位置づけをわきまえて分相応の役割を果たしている分には、 宗教は特に問題を起こさないのだと思うのです。 それが「進化論は間違っている」といった客観的領域に、 「何故なら聖書と矛盾するからだ」といった価値的な手法で踏み込んでくる から問題なのです。

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「神の存在は証明できないが不在も証明できない」

 さて、そろそろ前に提起した相対主義の問題に答えられるかも知れません。 「神の存在は証明できないが不在も証明できない」 という主張は宗教と科学との間の相対主義を果たして正当化するでしょうか。

 神を崇拝する宗教では「神は存在する」という 「客観的に検証しようのない仮説」 の下に物事を説明づけたり予測する体系を築いていますから、 「神が存在する」ことはその宗教にとって、最も重要な神聖不可侵の 大前提です。

 一方、「神は存在しない」という仮説も確かに 「客観的に検証しようのない仮説」 ではありますが、 前述したように科学は、このような 「客観的に検証しようのない仮説」 (「神は存在する」にせよ「神は存在しない」にせよ) は取り上げないのです。そして 科学は別に「神は存在しない」という 「客観的に検証しようのない仮説」 の下に 物事を説明づけたり予測する体系を築いている訳ではありません。 「神は存在しない」ことは科学にとって、最初から取り上げていない 別にどうでもいいことです。

 つまり、「神の存在を証明できないこと」は神を崇める宗教にとっては大きな 弱みですが、「神の不在を証明できないこと」は科学にとっては何の弱みでもない ごく当たり前のこと (客観的に検証しようのないものは客観的に検証しようがないというだけのこと) に過ぎません。 結局、「神の存在は証明できないが不在も証明できない」といった主張は、 宗教と科学との間の相対主義をまるで正当化しないばかりか、 宗教の弱みを露わにしているに過ぎません。

 尤も、ここで「神の存在を証明できないこと」が神を崇める宗教にとっての 「弱み」となるのは、宗教が科学の領域に踏み込もうとすることを想定した場合 の話であって、宗教が価値的領域だけを扱うものに留まっている限りにおいては、 むしろ、その「弱み」こそが異なる宗教間で相対主義の立場を取るのを助ける かも知れません。

 というのは、種々の宗教が前提としている仮説は、それぞれに異なっているけれ ども、それぞれが 客観的に検証のしようがないお陰で 衝突しないで済むからです。 つまり自分たちの信じている仮説も他の宗教の信者が信じている仮説も、 客観的に検証のしようがない 以上は、どれが「正しい」とも言えないのです。 万、万が一に「正しい」かも知れない無数の仮説の中の一つを、 個人の価値観で選択しているに過ぎないのです。 そう捉えれば、自分たちの宗教の方が「正しい」とか「優れている」といった 考え方はできなくなります。それが私の言う 宗教相対主義の意味です。

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「お父さんを愛していた証拠を示せるか」

 もう一つ、宗教家や疑似科学者が科学と宗教(または疑似科学)との相対主義を 正当化しようとして用いる典型的な論法に触れておきましょう。 先日、カール セーガンの小説『コンタクト』を映画化したものを見てきました。 その中で、「神が存在する証拠はない」「証拠がないものは信じない」と主張する 科学者の主人公に対して、その恋人役の宗教学者が大体 次のような問いを発します。

宗教学者:あなたは子供の頃、お父さんを愛していたか? (主人公のお父さんは既に死んでいる)
主人公:はい、愛していた。
宗教学者:それなら、その証拠を示せるか?

 科学者に対するこの手の問いかけは、この他にもよく耳にするもので、 ちょっと前にTVタックルというテレビ番組で疑似科学批判をやっていた 時にも、大槻義彦氏に対して超常現象肯定派の俳優みたいな人が 「あなたは人を好きになったことがありますか」 と喰いかかっていました。

 勿論、この手の問いかけは、前述の「神の不在を証明できるか」と同じように 科学にとってはどうでもいいことです。 宗教や疑似科学は、「神が存在する」ことや「超常現象が存在する」ことを 前提として物事を説明づけたり予測したりする体系を築いていますが、 科学は別に「お父さんを愛していた」ことや「人を好きになったことがある」こと を前提に物事を説明づけたり予測したりする体系を築いている訳ではないのです。

 「人を好きになることは素晴らしい」とかその手の価値的領域に属する事柄を 科学は扱いません。 それは科学の欠点なのではなく、そのような価値的領域に属する事柄を一切  扱わないことによって、価値観の異なる誰にでも客観的な信頼性を保証できる ことこそが科学の価値なのだと私は思います。

 尚、ここで宗教と疑似科学とを並列して書きましたが、前述したように 宗教が価値的領域のみを扱っている分には特に宗教を問題視する必要は ありません。一方、疑似科学の場合は、正に客観的領域に価値的手法で踏み込んで くるから問題なのです。 例えばこれが医療や健康食品の領域だと、人の生命に直結する重大な問題です。

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奇跡体験を根拠に神を信じるのは傲慢ではないか

 ちょっと前にアンビリーバボーとかいうテレビ番組で 紹介されたお話などは典型的な例でしょう。 今から数十年前、アメリカだかヨーロッパだかのあるキリスト教の教会 が夜の七時半だかに爆発したそうです。 その日は聖歌隊の練習日で、普段なら 七時半には既に全員(十五人だか)が集まっている時間なのに、 何故かその日に限って、 それぞれ様々な事情で (うたた寝をしてしまったとか、宿題が終わらなかったとか) たまたま全員が遅刻したために爆発に巻き込まれずに助かった のだそうです。

 当時の聖歌隊を訪ねて取材にいくと、 誰もが「あれは神様が私たちを助けてくれたのだと信じている」 と口を揃えて言うのです。 そして番組側も、一人が遅刻する確率が十回に一回だとしても、 十五人全員が同じ日に遅刻する確率は十分の一の十五乗だから千兆分の一 の確率だなどと演出しているのです (私の学生時代の経験では、いつも数十人の学生が出席している 授業に、ある時、数人しか出席者がいないといったことはよく起きました が、まあ、ここの趣旨との関係で、 本当に奇跡的なことが起こったことにしておきましょう)(*1)。

(*1) 大豆生田さんによる sci.skeptic FAQ の和訳の頁 「信仰で治療できる?」も参考になろう。

 さて、私には多くの疑問が湧いてきます。 まず第一に、もし神が自分の意志で聖歌隊の人たちを救おうと考えた のなら、何故、わざわざ十五人のそれぞれに小細工をして 遅刻させるというような回りくどいことをしたのでしょう。 爆発自体を起こさなければ良かったのではないでしょうか。 それとも神といえども全能ではないのでしょうか。 結果的に、聖歌隊の人たちは、この奇跡の経験により 「神が自分たちを助けてくれたのだ」と信じるようになりましたが、 神はまさかそうなることを望んでいたのでしょうか。 神が全知全能で万物を創造したのなら、 爆発を起こしたのも神の意志ではないのでしょうか。 これは「自由意志への疑問」 (「宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問」の頁) にも通じることですが、 もし神が、自分で爆発を起こしていながら、 自分でその爆発に巻き込まれる人たちを救ったのだとすると、 これは、とんでもない茶番劇だと感じるのは私だけでしょうか。

 さて、二つ目の疑問です。 神というのは、行いの良い人や、信心深い人を、 現世での災いから救ってあげたりするのでしょうか。 仮に、神がそんなことをするのだとすると、 この世で今までに、 悲惨な目や残酷な目に会い、陵辱され虐殺されていった、 あるいは今この瞬間に正にそのような目に会っている 数え切れない人々は、 行いが悪かったり、信心深くなかったり、あるいは異教を信じていたり したために、神に救われる資格を持たないというのでしょうか。

 カトリック教会に魔女だとされて、想像を絶する拷問の末、虐殺された多くのヨーロッパ人たちや、 ヨーロッパの国々の植民地主義の被害を受けて陵辱され虐殺され絶滅させられた アメリカ大陸を筆頭とするアフリカやアジアの旧植民地の多くの先住民たちや、 遅ればせながらそうした覇権争いに参加してきた旧日本軍によって 天皇の名の下に陵辱され虐殺された中国南京を初めとするアジア各地の人々や、 ナチスの強制収容所で虐殺された多くのユダヤ人たちや、 アメリカが落とした原爆によって一瞬の内に蒸発させられたり、文字通り生殺しにされた広島、長崎の人々は、 たまたま全員が神に救われる資格を持たないような 極悪人だったとでも言うのでしょうか。 虐殺された多くの子供や赤ん坊までも神に救われる資格を持たない 極悪人だったとでも言うのでしょうか。

 前述の聖歌隊の人たちは、このような 無念に虐殺されていった 誰よりも神に救われる資格を持った善人だったとでも言うのでしょうか。 その程度の善人が、前述の虐殺されていった人々の中には皆無だとでも 言うのでしょうか。

 もし本当にそのように納得した上で神の奇跡を信じると言うのなら、 私には恐ろしい限りです。

 神を信じない私の目から見る限り、良い巡り合わせも悪い巡り合わせも、 善人や悪人に関係なく、人々に対して大体 正規分布的にばらついているように しか見えません。 つまり、大部分の人にとっては、 そこそこの良い巡り合わせも巡ってくれば、そこそこの悪い巡り合わせも巡って くるが、 中には、奇跡的としか言いようのない有り難い巡り合わせが巡ってくる人や 不条理としか言いようのない残酷な巡り合わせが巡ってくる人もいたところで 、別段 不思議なことだとは思いません。

 そして、そうした巡り合わせは、前述したように、人の行いの善し悪し と相関があるとはまるで思えません (尤も、勤勉なために成功したとか、賭博好きで失敗したという程度の 相関はあるかも知れませんが、 正直なために馬鹿を見たり、人を騙して成功する人だっている訳です)。

 つまり、奇跡的に救われる信心深い人もいるだろうし、 死刑に処せられる凶悪殺人犯もいるだろうし、 不条理に虐殺される善良な人格者もいるだろうし、 充実した人生を全うする冷酷な殺人鬼もいることでしょう。

 そうした巡り合わせは、単に当たり前の確率法則に従って ばらついているようにしか私には見えません。だから、 仮にこうした一見 不公正な巡り合わせが、神の計り知れない意志によって 操られているのだとすると、 神というのは、 善人にも悪人にも分け隔てなく 我々が認識している当たり前の確率法則を実践している (つまり何もせずに傍観しているのと同じことなのだが) ことにしかならないと私には思えます*。

* 因みに、「神は世界の究極原因ではあるけれども、 神に創られた世界は、神の手を離れて自律運動を続ける」 という考え方を「理神論」と言うようである。 尤も私には、「究極原因」には原因がなくていいという理由が 想像できないので、 理神論的な神だろうと「信じる」ことはできない。 それだったら、今から約三十数億年前に、優れた科学技術を有す知的物体 (生物でも機械でも) が地球に立ち寄って、生命発生の種を蒔いて何処かへ去っていったという 仮説の方が私にはまだ数十倍も想像し易い。 それよりも、ある条件がたまたま揃って、 自己複製する分子から生命が自然発生したという可能性 の方が更に数千倍も私には想像し易い。

 世の中の人々を観察する限り、 神が人の行いの善し悪しによって巡り合わせを調整しているようには まるで見えないし、 そもそも、人の行いの善し悪しによって褒美や罰を与えるような思想自体に 私は反対です (理由は「宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問」の頁 「わるいやつならやっつけていいか」 参照)。だから、そのようなことをする神が仮に実在したとしても、 信仰するつもりはありません。

04/1/30追記: もし神が人間とその周囲の世界を創造したという 仮説を採用するならば、 「 不条理な仕打ちを受けてきた善良な人々 」に対してちゃんと 釈明できなければならないという一大問題については、  山本弘 『神は沈黙せず』(角川書店) の中で綿密な議論が行われている。 この本についての私の感想は、 「意識とは何か」に書いた

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以下は覚え書き

価値命題でさえあれば、どんな命題を信奉することも尊重されるのか

 価値領域を扱ってさえいれば、どんな価値観の宗教や文化や思想も許容される ということになるのだろうか。例えば、価値の相対主義を徹底するなら、 「殺し合うことはすばらしい」という価値命題も「平和はすばらしい」という 価値命題と同様に尊重されるべきだということにはなってしまうのではないか。 確かに「互いに殺し合うことで、しあわせを感じつつ、しかも滅亡しないで 進化してきた宇宙人」のようなものが存在したら、地球人にとっての脅威 だろうし、その宇宙人との「平和」共存の方法を考えることすら困難だろう (地球人が単純に平和共存は「いいことだ」と考えても、 その宇宙人にとっては「耐え難い苦痛」だったりするかも知れない)。 幸い、現行の地球人の場合は、 「人殺しが楽しい」と感じるような人は少数だし、 「人殺しが楽しい」と感じるような人ですら、「自分の命は惜しい」と 感じる価値観や「自分の肉親や恋人の命を危険に晒したくない」と感じる 価値観ぐらいは持っているかも知れず、その部分では平和共存主義の価値観の 人々と目的が一致する可能性がある。 つまり、人殺しを楽しいと感じる人にとってすら、 「(自分を含む)より多くの人が平和共存主義の 価値観を持っていること」の方が都合良い部分はかなりあり、 どこかで折り合いをつける方法が見つかるかも知れない*1。 ただ、 「人殺しを我慢すると耐え難い苦痛を伴って生きる望みがなくなるので、 たとえ そのことで自分や自分の肉親の命が危険に晒されることになるとしても、 人殺しの楽しみだけは譲歩できない」 というような価値観の持ち主にも、「しあわせに」平和共存してもらうためには、 仮想現実機械の中の仮想世界で好きなように人殺しをしながら暮らしてもらうとか しかないだろうか。

*1 「なぜひとを殺してはいけないのか?」問題に関しては、 稲葉 振一郎さん の「緊急アンケート:14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの? 」と聞かれたらあなたは何と答えますか」や C.Uneyama さんの「 なぜひとを殺してはいけないのか」 も参照のこと。
科学的命題と価値的命題の間に文脈相対主義は馴染むか」 のところにも「なぜ人を殺してはいけないのか」問題について 少し書いた。
関連リンク:
「なぜ人を殺してはいけないか」は倫理規範の同期現象である
「で、みちアキはどうするの?」
児童小銃 .456

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サンタを信じるのが「夢のあること」だろうか? (00/12/8覚え書き)

 カール セーガンの 『カール セーガン 科学と悪霊を語る』(新潮社) の原題 「悪霊に取り付かれた世界——その闇を照らすロウソクとしての科学」 の意図とはまるで対照的な意見として、 「科学が発達したせいで、 迷信や神話や妖精や妖怪などが忘れ去られ、 夢がなくなった」 のようなことを言い出す人たちがいる。 果たしてそうだろうか。
 私は子供の頃、ウルトラマンごっこやジャンボーグエースごっこの中で、 恰も自分がウルトラマンになったつもり、 ジャンボーグエースの操縦席の中にいるつもりになり、 空想の世界に浸って楽しんでいたものだが、 別にウルトラマンが本当に居るなんて信じていた訳でもなければ、 ジャンボーグエースを本当に操縦しているんだと 信じていた訳でもない。 想像力で空想の世界を楽しんでいたのである。 それは大人になった今でも特に変わっていない。 私はスターウォーズに登場する宇宙船や宇宙人やロボットなどが、 実在していると信じてはいないけれども、 そのような虚構の創作物を空想の世界で楽しむ能力を (普通の子供や 大人 と同じように)持っている。 そのように空想を楽しむ私たち(普通の子供や大人)の性癖は、確かに 「夢がある」ことだと言えると私は思う。 しかし、それを空想としてではなく、 「ウルトラマンは実録ドキュメンタリーだ」「私は妖精が見える」 のように現実だと信じることは、 「夢のあること」というよりは、むしろ 「妄想」と呼ぶのではないかと私は思う。
 例えば、岐阜の町営住宅“幽霊騒動”なんかは、 実に白ける「夢のない」話だと私は思う。 「カン、カン」という怪音が響くというのであれば、 夢のある子供や大人たちの知的好奇心、科学的探索心、探偵的推理心をこれほど くすぐる恰好のネタはないであろうに。それなのに、 そこの住人たちは、 せっかく集めた「調査費用」九万円を、よりによって 「祈祷師」に「自殺した女性の霊がいる」などと霊視させるのに使っちゃっているのだ。 そんな説明で納得してしまって、 「お祓いをすれば怪音は消える」と信じているなんて、 なんとまあ、時代錯誤な妄想なんだろうか。
 そういえば、前に「探偵ナイトスクープ」というテレビ番組だったかで、 音の出る椅子を調べてほしいという依頼を扱ったことがあった。 椅子のレントゲン写真を撮ってみると、虫が入っているようでもあるが、 今ひとつはっきりせず、実際に椅子の脚を切ってみたら、 中に確かに虫が入っていて、それが木を囓る音であったことが判明したというのを やっていて、とてもワクワクさせられた。 こういうふうに最低限の科学的教養と常識のある現代人として(少なくとも 祈祷とかの神秘的な力によって何事かがなされるといった妄想からは覚めていて)、 ちゃんと 現実的に考えられる可能性を想定し、(冗談半分とはいえ) 科学的に原因を解明していこうとする姿勢は、 町営住宅“幽霊騒動”なんかと比べると、 よっぽど「夢のある」ワクワクする姿勢だと私は思う。

続く……

覚え書き(以前、私が友人某に書いた電便)

今 出がげねげねえがら、詳しくは書がいねえげっと、
正にあんだの言う通りだど思うな。

理科教育の問題に関しては、いずれ頁上に書くべど思ってる。

http://www.lb.u-tokai.ac.jp/joy/misc/virginia-j.html
こいな頁どが見っつど、やっぱり子供さサンタクロース
信じこませんのは有害なんでねえがどすら、思ってくる。

まあ、ちゃっけえ頃は騙してでもいいどしても、子供が
「おらいさ煙突ねえのに、どうやってサンタさん入ってくんの」
だの
「サンタさんって一人で一晩のうぢに世界中の子供のうぢさ
いぐのいいの」
だの
「誰それちゃんらいさはサンタさん来ねがったっつよ」
だの、そういう疑問(いずれも、おい自身が親に訊いたやづ)に
子供ど一緒になって
「んだなあ、なしてだど思う?」
ど懐疑する精神バ養う「教材」どしてむしろ利用するべぎなんだ
が知ゃねな。

そして、ある時、子供が
「もしかして、サンタさんって、おとうさんなの?」
どがって言ってきたらば、
「んだ、よぐ分がったなあ」
ど種明かしして褒めてやるごどごそが子供にとっても衝撃的で貴重な
体験になんでねえのがや。


サンタだの妖精だの天使だの神だのが実在するど思い込むごどが
「夢がある」ごどではねくて、虚構だど理解していながら、
SFだのSFXバ楽しめる想像力にごそ「夢がある」んだど
おいは思うな。

それに、可能性が限りねぐ零に近いそいな妄想バ追いかけるごどよりも、
少しは可能性のある SETI みでえな科学的根拠に根ざした対象バ
おっかげる方が、よっぽど真の意味で「夢がある」ごどだど思うなや。

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覚え書き: 認知科学が進歩したら価値命題も客観命題になり得るか

04/1/31追記: ……たぶん、ならないと思う。 価値判断を含めた人のあらゆる判断や選択を (というか、簡単のため、 この世が コンピューター上のシミュレーション みたいなものだとして、これから起こるすべての現象を) 確定論的に予測できるようになったとしても、 その予測を知った途端に人は行動を変えるだろうから、 これはものすごい非線形問題になってしまって、 収束解が得られないのでは。

……あるいは、人の精神活動をすべて 定量的に記述することが仮にできるようになったとして、 「ある感情値が行動抑制のある閾値を超えたことによって犯罪行動を取った」 みたいなことも分かるようになったとして、 「その感情値の方は平均的な人の値と比べてそれほど 大きくなかったのに、行動抑制の閾値の方が低いために犯罪行動を取った」 場合には、処罰すべきなのか治療すべきなのか、 「行動抑制の閾値の方はどんな人格者よりも遙かに高かったのに、感情値がそれ以上に高くなってしまったために犯罪行動を取った」 場合には、処罰すべきなのか治療すべきなのか、 どちらの場合の方が罪が重いと「価値判断」するのかといったことは、 正に価値観で判断されることである。 で、この価値判断をも定量的に記述しようとしていくと、 これまた、ものすごい非線形問題になってしまって、 とても収束解が得られそうにない。

……仮に、解が得られたとしても、人間は それに納得できる知性を持ち得ないだろう。 あなたは将来、犯罪を犯すことが確定していて、 これはあなたが今からどのように回避しようとしても回避できないことも確定しているので、 あなたを今のうちに死刑にしておきます (それがより多数の人間にとっての幸福であるということも 確定しています) なんて社会に納得できる訳はない……

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ドーキンス「神は妄想である」を読んで
( 伊勢田哲治さんによる批判的なメモ について)

ドーキンスの 「 神は妄想である—宗教との決別 」(垂水 雄二訳、早川書房) という本を読んだのだが、 宗教の問題点を一つずつ整理して、 信者陣営にまったく媚びずに容赦なく論難しつくしていく姿勢は、 爽快で感動的ですらある。 数ある 疑似科学(ニセ科学)やオカルトの批判本では、 疑似科学やニセ科学の 問題点については容赦なく論難しつくしていくものの、 なぜか、全く同様の議論が当てはまる(と私には思える)宗教については、 歯切れが悪く、おだやかに済ましてしまうものが多いような 気がしてすっきりしなかったが、 ドーキンスの「神は妄想である」は、 ようやく、人前で堂々と「王様は裸だ」と公言してくれる 科学者が現れてくれたという感がある。 私がこの頁上で議論しようとしてうまく議論し切れていないことについても、 ドーキンスの方が実に良質の議論を展開しているのではないかと思う。

が、残念なことに、垂水雄二氏の日本語訳は(氏の他の翻訳もだが)、 直訳的、逐語訳的で、日本語としては読みにくい ( desert island diskといったら、普通は「無人島」に持っていくのCDのことだと 思うんだけど「砂漠の島」と訳されている。 頻繁に登場する「世俗」とか「世俗主義」という用語 (secular, secularismの訳だろうか?)も宗教用語?としては正しいのかも 知れないけど、普通の人は「俗世間」のことかと思ってしまうので、 「政教分離」とか、もう少し適切な訳語はないものか)。

07/10/23追記: ところで、 フライング・スパゲッティ・モンスタードーキンスの無神論 は、 ドーキンスの宗教批判の一通りの要点がわかりやすくまとめられているので、 ドーキンスの主張の概要をてっとり早く把握するにはお薦めである (インタビューからの訳ということもあるにしても、 日本語訳も垂水雄二氏なんかよりもよっぽど自然で、わかりやすいし)。

さて、私がこのページ上で あまり厳密でない議論を展開しているのとは違い、 科学と非科学との線引き問題に関して、 ちゃんと掘り下げて厳密な議論を展開している 「 疑似科学と科学の哲学 」 というを良書 (私の感想菊池誠さんによる書評 田崎晴明さんによる書評 ) を書いた 伊勢田哲治さん が、ドーキンスの「神は妄想である」について 批判的なメモ を書いている。 これは日記の中のメモなので、多少 粗雑に議論を展開したのかも 知れないが、 私にはまるで同意できない(というか理解できない部分もある)理由で ドーキンスを批判している。 勿論、私が感動を伴って共感したドーキンスの議論を 批判する人がいても全く構わないのだが、 伊勢田さんのようなニセ科学を批判する側の論客 (と私が思っていた人)が、 どうも、神学者や宗教信者の持ち出す (私からすると典型的にエセ科学的なというか 『「知」の欺瞞』 で批判されたポストモダン的な 悪質な論法)を一見 擁護(というか援用)するかの ような (と私には読めてしまう)文章を書いているのを読んで、 私としては、とても意外で謎に思えた。 どうも伊勢田さんは、 「客観的な議論の対象となる問題」と 「価値観に依存する問題」とを区別していないというか 混同しているように私には読めてしまうのだけど、 一体どういうことなのだろう?

これは私の偏見というか気のせいだと思うが、 神学者や宗教信者を擁護しているようにも見える伊勢田さんには、 何か、そういうバイアスを与える信仰とか信条があるのだろうかという 考えが一瞬よぎったが、 こういう自分の信仰や信条によるバイアスがかかりやすい議論を するときには、事前に自分の信仰や信条を表明して 自分がそのバイアスゆえに陥りやすい弱点をわかりやすくしておいた 方がいい だろうから、一応、はっきりと 私は無神論者だと言っておく。

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科学的命題と価値的命題の間に文脈相対主義は馴染むか
( 伊勢田哲治さんの文脈主義 について)

「科学的な文脈で成り立つことが他の文脈では成り立たない」 みたいな主張は、 『「知」の欺瞞』 で批判された認識的相対主義の態度にも似ていると 私は感じたので、 「文脈相対主義」という言葉をわざと使ってみたが、 検索してみると、 7件しかヒットしない。 私の思い描いている意味とは全く違う用語として使われているかも知れない。

ドーキンスの『神は妄想である』について 伊勢田さんが書いた 批判的なメモ の中で使われている 「文脈」という用語の意味がわからなかったが、 日刊!ニュースな本棚 で紹介されている伊勢田さんへのインタビュー記事 を見ると、 なんと伊勢田さんは「文脈主義」という立場から積極的に 「文脈」という用語を使っているらしいことが分かった。 「 なぜ人を殺してはいけないのか?——伊勢田哲治インタビュー其の二 」 の中で「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに対して 異なる「文脈」を例示している部分を以下に引用する。

この問いにも文脈主義という考え方を、当てはめることができます。そもそもなぜ我々は道徳的であるべきなのかということ自体を問いの対象とする文脈もあれば、道徳的であるべきという前提は認めたうえで、「なぜ人を殺してはいけないのか」という具体的な規範について考えるという文脈もある。   さらに問いを立てる理由もさまざまで、「人を殺してはならないというルールに従うことは自分の利益にならないのではないか」と、自己利益との対立から議論する人もいれば、「人を殺してはならないというルールには根拠はないのではないか」という議論の立て方をする人もいます。   そういうさまざまなタイプの理由から出てくる、さまざまな文脈の問いに対して、万能の答えというのはありませんから、それぞれの問いかけに対して個別に答えることになると思います。

確かに「なぜ人を殺してはいけないか」という問い自体は、 状況設定や暗黙の前提などが示されておらず、 その辺を回答者が自由に解釈できてしまうので、 これだけの題意からは、 法的な違法性を検証せよといった客観的な問いなのか、 ある対象(回答者とか一般大衆とか)の価値観に許容できるか どうかを問う価値的な問いなのか、 あるいは、様々な価値観の人が混在する実社会で できるだけ多くの人が満足するようなルールを模索せよといった (客観的な問いと価値的な問いが複雑に絡み合う)問いなのか分からない。 このように厳密な議論を展開するには問題設定が 粗雑すぎて人によって勝手に様々な異なる問題設定から 独自の議論を展開してなかなか議論が噛み合わないような時に、 (例えば「第22回 「自衛のため」のクリティカル・シンキング——伊勢田哲治インタビュー其の四 」に書かれているように) 「 議論の構造、言葉の定義、暗黙の前提をハッキリさせるという作業なんですね。 」 というのが文脈主義なら、 その態度自体は私も支持できるものだと思う (ただ私なら、議論の構造をハッキリさせる上で、 客観的に検証できる部分と価値観に依存する部分の 区別をハッキリさせる ということは第一に意識するだろうが)。 しかし、(私のこの「文脈主義」の捉え方がそう外れていないとして) 問題設定が粗雑なせいで、各人が異なる問題設定で議論して 議論が噛み合わないなら、(異なる価値観の人でも)議論が噛み合う程度に 問題設定を厳密にするなり、 複数の人が(無意識に)提起したそれぞれの問題設定を厳密化して 場合分けするなりすればいいとは思うものの、 その辺を「文脈の違い」として捉えることには私としてはやはり違和感がある。 確かに(文字通りの)文脈には、議論者の価値観が反映されているのを 見て取れるかも知れないし、 (文字通りの)文脈を善意の解釈で観察することで 議論者がどのような問題設定に立っているのかをある程度は 汲み取ることができるかも知れない。 だからといってその辺をきちんと言語化することなく、 「神学の文脈では」とか「科学的な文脈では」と済ませてしまったのでは、 具体的にどのような価値観を重視する立場の人が どのような問題設定に立っているのかという部分が むしろ曖昧にごまかされてしまいそうな気がする。 勿論、これが杞憂というか (日記中のメモゆえに伊勢田さんが自分の専門とする用語で 簡略して書いたことから無理矢理 読みとろうとすることに起因する) 私の勘違いで、 文脈主義というのが、(文字通りの)文脈から 価値観の対立点や問題設定の粗雑さがもたらす場合分けなどをきちんと 分析して (文字通りの文脈からそうした暗黙の前提を読み取らなくてもいい程度に) それらを徹底的に言語化しようというような態度なら、 私も支持できるものかも知れない。 その辺は、いずれ伊勢田さんの 『 哲学思考トレーニング 』 (ちくま新書 (545)) を買ってちゃんと読んだ上で考察し直すかも知れない。

さて、伊勢田さんの文脈主義について、 私が勘違いしている可能性があることを承知の上で、 (伊勢田さんの著書を読んで確認したりする手間をサボって) 現時点(07/10/11)での感想・印象をメモしておきたい。 上述したように現時点での私は、 伊勢田さんの使う「文脈」という用語を 「問題設定の暗黙の前提などの細かい部分が議論者の解釈に ゆだねられている問題に対して、 議論者各人が勝手に想定している問題設定の違い」 (短く用語化するなら「暗黙の問題設定」ぐらいか) というふうに捉えている。 では、このように「文脈」という用語を捉え直してみた上で、 ドーキンスに対する批判的なメモ の中の以下のような主張の内容が理解しやすくなっただろうか。

神学者は神学者なりの文脈で問題をとらえているわけだから 神学の文脈の問いに対してどういう答えが適切かを誰よりも知っているという意味では まさに神学者の領分であるはず。
(中略)
同一人物が科学的文脈では「神がいない」と信じ、宗教的文脈では 「神がいる」と信じ、しかもその両方がそれぞれの文脈で正当化されている、 ということはありうるだろう。

まず、神学者が神学者特有の「暗黙の問題設定」にのっとって議論している ために、 (「神の存在の証拠」といった客観的検証の対象となる議論にせよ、 「子供の教育に神を持ち出すべきか」といった価値観に依存する議論にせよ) 部外者がその問題設定を共有できずに議論に参加できないという ことであれば、 神学者特有の「暗黙の問題設定」をきちんと言語化して、 誰でも議論に参加できるようにすればいいとしか私は思わない。 もしX学者たちが、 自分たちの議論が実は根拠のないものであることを部外者から 「王様は裸だ!」とバラされるのを恐れて、 X学特有の「暗黙の問題設定」をわざとハッキリと言語化せずに、 『「知」の欺瞞』 で批判されたポストモダン的な 難解な修辞を作為的に散りばめてとらえどころのない議論を 弄んでいる状況があるとするならば、 こういう「文脈」という用語の用法は、 X学者たちのごまかしを擁護する道具にもなりそうだとという気が私はしてしまう (「文脈主義」の本来の意図は議論を厳密化することにあるとしても)。

そりゃあ、(「暗黙の問題設定」の一部として) 「神」という言葉の定義自体や「いる」「いない」という言葉の 定義自体を変えてしまえば、同一人物でも 「この定義の『神がいない』なら信じて、 この定義の『神がいる』なら信じる」 ということもありえなくはないだろう。 例えば、 「『科学的な証拠がある』を『いる』と定義するなら、 『いない』と信じているとも言えるし、 『たとえ話として、いると想像できる』を『いる』と定義するなら 『いる』と信じているとも言える」みたいに。 でも、そういう特殊な問題設定の下で成立する特殊な状況は、 「こういう特殊な問題設定をしているために、 こういう一見 矛盾する状況になっている」と その辺の細かい問題設定を きちんと説明しないと誤読を誘発してとても紛らわしい。 科学的に検証できるように細かく厳密に問題設定された 科学的問題の検証内容は、 (価値観の異なるどんな人にとっても) 科学的に正しいか間違っているかなのであり、 同じ問題を 科学的に検証できないように(作為的に)微妙に問題設定をすり替えた 価値的問題の価値評価がどうかということと混同する (ように誘導する)必要はない。 ドーキンスは、 宗教家たちが科学者の前では、 「まさか、そんなキリストの復活だの処女懐胎だのを あのまま科学的事実として 信じている訳がないじゃないですか」というようなことを言いながら、 信者たちの前では、 キリストの復活や処女懐胎を科学的事実のように述べている態度を 非難しているのであり、 だからドーキンスは、 科学的な問題設定をきちんと提示して、 宗教家たちが 自分たちに都合のいい問題設定に問題をすり替えて 逃げたりごまかしたりできないように、 科学的に検証できる内容と矛盾する主張をするからには ちゃんと科学の土俵に上がってきて立証責任を果たすようにと 釘を刺しているのだと思う。 このようなドーキンスの態度に大いに賛同する私からすると、 「科学的な問題設定とは異なる(価値観が依存する)問題設定を 行えば、科学的な検証内容と一見 矛盾する内容の 価値的な問題もつくれる」 (といった内容のことだろうかと私には想像されてしまうこと)を、 「文脈」の違いといった用語を持ち出して、 大仰に強調してみせることは、 自分たちの主張が科学的に検証できる内容とは矛盾していることを 隠したい集団に対して、 その矛盾を(問題設定を作為的にすり替えたりして)ごまかす行為を むしろ(学問的に)権威化して正当化してあげていることになるのでは ないだろうかという 印象を私は抱いてしまった。

覚書: 伊勢田さんの『哲学思考トレーニング』を買ってないので、 検索してみたのだが、 「 k-takahashi’s 雑記 」 で紹介されている 「 そのために著者が提案するのが「文脈主義」の考え方であり、文脈主義のふたつのタイプが紹介されている。 一つは「関連する対抗仮説」型。ある問題についての複数の主張(対抗仮説)が複数あるとする。まず、まじめに取り上げる仮説と取り上げない仮説に分ける。そしてまじめに取り上げる仮説(関連する対抗仮説)の中で、もっとも優れていることを示せれば妥当であるという考え方。関連するかの判断は、その対抗仮説を正しいと考える理由があるかどうかで判断する。 もう一つは、「基準の上下」型。要求される確実さのレベルを文脈によって上げ下げし、それに見合った証拠が得られれば妥当とみなす、というもの。 」 といった内容から察すると、 「文脈の相対性から非科学的な主張をも正当化しているのでは」 という文脈主義に対する 私の印象批判は外れていて、 もしかすると私もある程度は共感できる主義なのかも知れない。 それにしても、ここで紹介されている 「対抗仮説の優劣や要求される確実さのレベルを文脈によって判断する」 といった態度を採用したとして、 なぜに 「 神学者は神学者なりの文脈で問題をとらえているわけだから... 」 や 「 同一人物が科学的文脈では「神がいない」と信じ、宗教的文脈では 「神がいる」と信じ... 」 といった主張が成り立つのか、 それは具体的にはどういう状況を想定しているのかは、 やはり謎のままである。

中間考察(08/3/18)
(伊勢田さんの『哲学思考トレーニング』を読んでみた)

伊勢田哲治さんの 『 哲学思考トレーニング 』 (ちくま新書 (545)) を買って読んでみた。 まず、おおざっぱな全体的な感想から書くと、 合意形成なり問題解決なりを指向した議論において 事実判断や価値判断を整理する手法や問題点などが 伊勢田さんらしくわかりやすくまとめてあって、 お薦めの本だと思う。 私が読んだ限りでは「ディベート」という単語は一つも登場しなかったと 思うが、この本で紹介されている議論の手法は ちゃんと合意形成を指向しているし、 自分の間違いを認めて改める態度や相手の見方を理解することで自分の立場が 変わることなども重要視しており、 ディベート批判にも援用できるかなとも思った。 私にはよく分からない「哲学的」という言葉についても説明しているが、 これはやはり分からない。 ごくわかりやすく「科学的思考法」とか「合理的思考法」ではダメなのだろうか。

で、問題の「文脈主義」についての説明なんだけど、 期待していたよりもかなりあっさりと書かれていて、 結局 具体的にはどういうことなのかますます謎が深まってしまった。 まず、文脈主義の定義的なものを述べている部分を引用する。

文脈主義とは、あることを知っているかどうか、 ある主張が妥当かどうか、 といったことについての判定は、 その判定を下す文脈 (何のために判定するのか、 判定が間違っていたときはどうなるのか、など) によって変わりうる、という立場である。 言い換えれば、 同じ人の同じ主張が、 判定を下す側の文脈で妥当とも妥当でないとも 判断できる、という可能性を認めるのが文脈主義 である。
伊勢田哲治『哲学思考トレーニング』 (ちくま新書 (545)), p.137

この文だけでは具体的にどういうことを指すのか分からないし、 読み方によっては、 『「知」の欺瞞』 で批判された認識的相対主義の態度にも似ていると感じる。 伊勢田さんは 「今日夕立が降った」という主張を例に挙げて、 「文脈主義の使い方」を説明している。 例えば、「夕立が降った」という経験をしたこの世界が 実はデーモンの見せている仮想世界に過ぎないというデーモン仮説も あり得るが、 夕立でびしょぬれになるのが嫌だというのは 現実だろうとデーモン世界だろうと変わらないから デーモン仮説は対抗仮説にならないとか、 「誰かが上からバケツで水をかけたのではないか」という仮説は、 そういう状況で夕立と勘違いすることはほとんどありそうにないので 排除されるとかいった話である。 「夕立」とか「降った」という言葉の定義の問題はあるにせよ、 この「夕立が降った」という例は割と客観的な範疇の話で、 題意から 「科学的文脈」だけで話が片付いてしまっている(と私には思える)ので、 この例からは、非「科学的文脈」例えば「宗教的文脈」で、 ある主張についての判断が変わってしまうというような 具体例がなかなか思い付けない。 伊勢田さんは日記では「科学的文脈」と「宗教的文脈」を対比させて書いており、 ドーキンスが「科学的文脈以外の文脈を無視している」点を 批判しているように読めるところから察するに、 やはり「価値判断が介入することで命題の判断が文脈によって変わる」と 言っているのではないかという気がする。 とすると、例えば、 「神が存在する証拠が科学的には存在しないことには(科学的文脈で)納得できてるし、 (ベイズ)統計的にも神が存在する確率は極めて小さいことにも(科学的文脈で) 納得できているけども、 神のような超越的な存在が自分を見守っていると想像することで、 (自分のような価値観の人間にとっては) 安堵感が得られ 道徳的(利他)行動が促進され、 その理由について仲間たちで共感できるので、便宜上 (宗教的文脈では)神が存在するかのような言動を取ることにしている」 というような感じのことだろうか。 うーん、まだまだ苦しい。だって、 神がほぼ存在しないと科学的文脈で納得できてしまっていたら、 神がいたらいいなあと想像したからといって、そのことで、 安堵感が得られたり利他行動が促進されたりはしないだろうから。 存在の証拠がないことには科学的に納得していても、 (ベイズ)統計的に存在確率が低いという見積りには納得していなくて、 宝くじが「きっと当たる」と信じるように 「証拠はなくても、きっといる」と信じているとかいう感じのことだろうか。 いずれにせよ、 これらの場合、科学的主張の妥当性が文脈によって変わっている訳ではない。 「神の存在を信じると安堵感が得られる」といった主張は 価値主張でしかないし、こうした価値観の介入する主張なら 「判定を下す側」の価値判断で「妥当とも妥当でないとも判断できる」のは 当り前のことだと思うが、 伊勢田さんはそういう当り前のことを言っているのだろうか。 それにしても、 神信仰が道徳的行動を促進するとしてもそのことは 神の存在の可能性を高くしないというドーキンスの論に対して 「ドーキンスが科学的文脈以外の文脈を無視している一つの徴候だろうか」 と批判するからには、 ドーキンスに神を信じることの道徳的効能に対してもっと 価値的な(肯定的?)評価を与えるべきだというようなことが 言いたいのだろうか(ドーキンスは否定的な価値評価ならしていると思うが)。 私からすると、 ドーキンスはこうした価値判断のからむ問題に対して、 ちゃんと科学者的なクリティカルシンキングの手法で 客観的に議論できる領域(神の存在確率、 神信仰の有無が道徳的行動に差を与えるかどうか、 道徳的行動の生物学的起原)を 分離・整理した上で科学的な文脈の議論を行い、 そうした科学的考察結果に対して自分の価値評価を示しているように読めるし、 そうした議論態度は、伊勢田さんの本の クリティカルシンキングの手法にもかなり通じているように私には受け取れるのだが。

うーん、私は伊勢田さんの『擬似科学と科学の哲学』や 『哲学思考トレーニング』といった著書の内容には それなりに納得できて共感できているのに、 伊勢田さんの日記のドーキンスに対する批判は まるで納得できないし内容の理解も困難で、 伊勢田さんの著書と矛盾した内容であるようにさえ思えて まるで謎、謎、謎なのであるが、 こういう「 二つのグループがまったく違う世界観で世界を見るために 基本的な出来事さえも違って見え、そのために話が通じなくなるという状態 」 は伊勢田さんの『哲学思考トレーニング』で紹介されている科学哲学用語を使うなら、 正に「通約不可能性が働いている」ということなのだろう。 「通約不可能性が生じている場合には、 自分からは合理的再構成と見えるものが、 実は相手の意図をねじ曲げてしまう可能性も高い」 とのことなので、 私が上で挙げている具体例の解釈は、 ことごとく伊勢田さんの意図をねじ曲げているのかも知れない。 だとすると、伊勢田さんの真意がどういうことなのか、 ますます謎で興味深くなるが。

伊勢田さんのブログにコメント

2014/5/15に伊勢田さんがブログで『神は妄想である』の書評をのせていたので、 コメントを書き込んでみた。 ここで、私と伊勢田さんとのやりとり が読める。 私のコメントは、私が読むぶんには、 わかりやすい素朴な質問ではないかと私には思えるのだけど、 伊勢田さんのコメントは、 非常に誠実に返答してくれていることはわかるものの、 正直なところ私には、何度 読み返してもなかなか理解しにくい。 とはいえ、伊勢田さんが 「聖書に書いてある(人間くさい行動をとる)神」ほとんど反証されていると言ってもいいと思っていること、 カルト宗教に対抗するために良識的な有神論者全員を敵に回すような理屈に頼るのは議論の戦略としてもまずいし、社会をよくもしない と認識していること、 ドーキンスは個人的な信念としても神を信じることは不合理だと主張している と思われることに異議をとなえていること などが確認できたことは、収穫であった。 ちなみに私は、私の価値観において、 宗教というシステム自体の問題点がテロを誘発するという ドーキンスの考察に同意するし、 良識的な有神論者全員を敵に回すとしても、 宗教自体の問題点をきちんと批判することが、 長期的には社会をよくする方法だと思っている。 また、 科学的根拠のないこと(どの程度 科学的根拠がなくて、その内容が、 個人や社会にどれくらい危害を加えるかという程度にもよるが) を個人的信念として信じることを不合理だと思うのは、価値観の問題だし、 その価値観を個人の意見として表明する自由も民主社会にはあると思うので、 ドーキンスの主張に特に問題があるとは私は思わない。 例えば、手かざしやお祈りでガンなどの難病も治ると主張するような 代替医療や心霊療法を個人的信念として信じることを 不合理だと主張することとそれほど違わないと思うのだが。

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続く
鍵語: 原理主義, 冒涜, 撲滅, トンデモ, オカルト,