——一九九六年十二月二十日にこの世を去った (だからと言って、勿論あの世にも何処にも居る訳ではない)カール セーガン を追悼して......
私がここで相対主義と言っているのは、 「西洋音楽と邦楽とでどちらが優れているとは言えない」 といった価値の相対主義や文化相対主義などと同じような 用法として、 「科学と宗教とでどちらが正しいとは言えない」というような 態度のことを大雑把に言ってみただけだが、 『「知」の欺瞞』 などで論じられている認識的相対主義とかは、またちょっと違う 意味合いのようなので、 その辺を確認したい方は、 「相対主義に関するよくある質問」 辺りを参照してほしい。
まえがき(15/3/9)
(暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)
はじめに
「信じている人」との出会い
「信じている人」とつき合うために
反証不可能な仮説(1998/5/12微更新,01/7/6加筆開始)
「神の存在は証明できないが不在も証明できない」
「お父さんを愛していた証拠を示せるか」
奇跡体験を根拠に神を信じるのは傲慢ではないか
覚え書き:「なぜ人を殺してはいけないのか?」問題
(0000/9/8更新)
サンタを信じるのが「夢のあること」だろうか?
(00/12/8覚え書き)
覚え書き: 認知科学が進歩したら価値命題も客観命題になり得るか
(04/1/31追記)
ドーキンス「神は妄想である」を読んで
(伊勢田哲治さんによる批判的なメモについて)(07/10/5)
科学的命題と価値的命題の間に文脈相対主義は馴染むか
(伊勢田哲治さんの文脈主義について)(07/10/11)
中間考察(08/3/18)
(伊勢田さんの『哲学思考トレーニング』を読んでみた)
伊勢田さんのブログにコメント
(14/9/26)
続く……
私は以前、このページ上で、 宗教が価値領域の問題しか扱わないならば特に問題はないというような ことを書いていたが、 最近のテロのニュースとかを見ていると、 それだけでは不十分だと思うようになってきた。 セーガンが 「悪霊にさいなまれる世界」 で述べているように、 宗教の最大の問題点はエラー修正機能がないことだと思うし、 エラー修正機能がない限り、 ドーキンスが 「神は妄想である」 で述べているように、 どんなに穏健な宗教であっても、いつか過激派に転じる危険性をかかえていると思う。 進化論を否定する創造論主義者の問題を論じるぐらいだったら、 価値領域と客観領域を切り分けることで十分かもしれないが、 信念を実現するために人殺しをしたりする集団の問題を論じるには、 エラー修正機能の有無を論点にした方が有効なような気がしてきた。 また、過激派の思想集団等の場合、 過激な行動に走る特徴自体は宗教的でも、 世の中の人は、宗教集団としては捉えていないかもしれない (宗教的集団のくせに宗教を批判・禁止していたりもするし)。 そこで、 今後の議論?のために (というか、 民主的なエラー修正機能の重要性をより広く啓蒙していくために)、 エラー修正機能があるかどうかの観点から、 暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステムの特徴をなるべく単純化して、 わかりやすく示しておきたい。
つまり、エラー修正機能がない。 だから、いつまでも進歩できない。
つまり、エラー修正機能がある。 だから、進歩することができる。
「絶対に正しいこと」というのが仮にあったとしても、 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断しているのは、自分である。 既に経験的にわかっているように、自分は計算を間違ったり、 字を間違ったり、色々と間違いを犯す。 自分の判断は全く完璧でないし、しばしば間違う。 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断している自分の判断は、 本当に正しいのだろうか。 そもそも、自分が 「絶対に正しいこと」 と信じることにした 「絶対に正しいこと」は、 宗教の場合、 「神の言葉」とかのことだし、 思想集団では、絶対に間違わない指導者の言葉とかのことだ。 絶対的な存在なので絶対に間違わないことになっている神や指導者が 述べた言葉だから 「絶対に正しい」とか、だいたいそういう根拠だろう。 仮に、百歩譲って「神の言葉」自体は 「絶対に正しい」んだとしても、 その内容は、どのような入力手段によって 自分の頭に入ってきたのだろうか。 例えば、聖典に書かれている文字ということであれば、 それは、仮に、「神の言葉」を 直接 神から聞いた昔の預言者やその信者たちが書き残して伝えたものだとしても、 最初の聖典は、神が直接に生成したものだとしても、 現在、利用されている聖典は、 歴史的に何度も翻訳や編集を経て、現在は誰かの手で電子データとして コンピューターに入力され、編集されて印刷された印刷物である。 「神の言葉」が聖典の活字になるまでに、 多くの人間の作業を経ている以上、 そこには間違いや勘違い(あるいは作為的な脚色や曲解)が入り込む可能性がある。 更に公平を期すために言うなら、 聖典に書かれていることが、単に昔の人の考えたつくり話だという可能性だってある。
宗教指導者が語った言葉を 「絶対に正しいこと」と判断している場合はどうだろう。 人間が語る言葉は、 ましてや脚色されたり曲解されている可能性がある。
ついでに、 自分の頭の中に神が直接 語りかけてきたのを聞いたのだという場合も あるかもしれない。 それはよくあることだ。 確率的には、 自分の脳が作り出している幻聴である可能性の方が圧倒的に大きいだろう。
既に経験的にわかっているように、 自分の脳は全く完璧ではない。 「絶対に正しいこと」を 「絶対に正しいこと」だと判断している自分の判断は、 本当に正しいのだろうか。
人間や高等な動物が、 証拠がなくても何かを信じるようになっているのは、 十分な判断能力のない動物時代には、 その方が生き残りやすかったから、そのように進化したためだろう。 例えば、青い実を食べたら、腹が痛くなったので、 「青いものを食べると腹が痛くなる」と信じて、 青いものを食べないことにするとか。 青い実を食べて腹が痛くなった原因を科学的に調べる 方法がわからない時代においては、 「青いものを食べない」というのが、 「現時点で一番いい方法」だったかもしれない。 「青い実を食べたら、腹が痛くなった」というのは、 個人的体験だったとしても、 弱い証拠ではある。 ただし、現在の科学の基準からすると、サンプルサイズが1個だけだし、 再現性がないし、科学的な断定を下せるレベルの証拠ではない。 多くの人に青い実を食べさせてみて、 (他のものを食べた場合と同じ頻度でしか)腹が痛くならなかったとすれば、 最初に食べた人が別の原因で腹が痛くなりそうなときに、 たまたま青い実を食べただけかも知れない。 あるいは、青い実自体が腹痛の原因ではなくて、 腐っている実を食べたのが原因だったのかもしれない。 様々な証拠から、どうやら そっちの仮説の方がもっともらしいとなれば、 今まで信じていた 「青いものを食べると腹が痛くなる」という仮説は放棄して、 「腐ったものを食べると腹が痛くなる」という新たな仮説を採用した方が いい。 現在の人間は、とても賢くなったので、 多くの科学的な仮説を実験的に検証し、 それを生活の役に立つ技術に応用できるようにまでなった。 現在、科学の教科書にのっているような科学の知識は、 数々の実験によって再現性の点からも十分に 実証されているほぼ確実な知識ではあるが、 それでも将来、反証される可能性は常に残されているし、 反証しようとすることはタブーではない。 もっとも、過去の再三に渡る実験によって再現性が確認されている仮説が ひっくり返るようなことは、そうそう起きないが。 つまり、そういう意味では、科学が採用している仮説は、 「現時点で最ももっともらしい仮説」だし、 その仮説を利用してものをつくったり現実的な技術に応用できているので、 ひとまずそれが「現時点で一番いい方法」だ。
一方、民主社会における 国民主権や言論の自由といった社会制度は、 科学的な手法で検証された方法ではないが、 現実の民主国家等で採用し、社会実験されながら、 (なるべく多くの人がしあわせになれる社会が いい社会だという価値観を共有する人々にとっては) 「現時点で一番いい方法」と考えられている。
信じることは良いことで、疑うことは悪いことだという考え方がある。 人の信頼関係の話なら、それは全く間違いというわけではないだろう。 ただ、信頼できる人というのは、それまでのつきあいから、 あの人なら信頼できるだろうということが、 証拠や実績によって判断されている部分が大きい。 もし、信頼できるかどうかという何の証拠も実績もない赤の他人であっても、 「人を信じるのはいいことだ」と初対面から誰でも無条件で信じることにしてしまうと、 確実に詐欺の被害に合ってしまうだろう。 「無条件で信じる」というのはとても危険なことだし、 おかしいときに疑ってみることは大事なことだ。 親子や恋人同士の信頼関係においては、 たとえ騙されていても信じ続けたい、 騙され続けるデメリットよりも 愛情を与え続けられるメリットの方が大きいという 価値判断もあるかもしれない。 個人と個人の間だけに関わることなら、騙されてでも信じていたいというのは、 個人の選択の問題になるかもしれない。 では、 「こうすれば世界は平和になる」とか 「こうすれば人々は幸せになれる」みたいな主張は、 無条件で信じていいのだろうか。 世界や人々を対象とした提案を実現しようとすることは、 他人を巻き込むことだ。 しかも、「平和」とか「幸せ」というのは 価値観に依存することだから、 客観的に「正しい」方法なんてそもそもあるわけがない。 にもかかわらず、 自分たちの考える「平和」や「幸せ」をすべての人に 押し付けようとすると 確実に衝突が起きる。 「正しい」と思っていたやり方でトラブルが起きているなら、 そのやり方が本当にいいやり方か疑ってみてほしい。 おかしいときは疑ってみる。 それは、暴走を防ぐとても重要なことだ。
既に経験的にわかっているように、 人間の判断は完璧ではない。 どんなに「絶対に正しい」と考えられていたことでも、 もしかしたら間違っているかもしれない。 その可能性はなくならない。 「絶対に正しいこと」を疑ってはいけないことにしてしまうと、 もし、「絶対に正しいこと」に間違いがあっても、いつまでも修正されない。 これでは、いつか 暴走する可能性がある。 そもそも、 「絶対に正しいこと」が「絶対に正しい」という自信があるんだったら、 疑ったって、何の問題もないはずだ。 本当に正しいんだったら、 いくら疑われても反証されることはないし、 その真実性がますます高まるだけなのだから。 それに、 疑うことを許しておきさえすれば、 もし間違いがあったときに、 その間違いを見つけてもらえて、修正してもらえる可能性があるのだ。 つまり、 「より正しい」ことを追求しようとする限り、 自由に疑い批判することを許した方が有利な戦略なのだ。 現に、科学はその方法で、目覚ましい科学技術の発展に成功したし、 民主国家だって、 奴隷や小作農を前提にしていた時代の絶対王制の国家に比べれば、 より多くの国民に人間的な生活を提供するのに一定の成功をしている。 だから、民主社会を機能させるには、自由に批判ができる言論の自由が必須なのだ。
「どんな病気もお祈りで治せる」みたいに客観的に間違ったことを 信じるのは明らかに問題があるけど、 「人を愛することは素晴らしい」とか 「人はみな平等であるべきだ」とか、 価値観の領域のことは、 それを信じたからといって特に問題はないような気もする。 ただし、そういう価値観の領域のことを、 現実に実現しようとすると 現実の社会や人間との関わりが出てくるので、 価値観の領域には 収まらない話になる。 「絶対に正しいこと」も、現実とすり合わせるために、 様々な「解釈」がなされ、 価値観の領域には収まらない「絶対に正しいこと」のバリエーションが つくられていく。 例えば、 「「人はみな平等であるべきだ」を実現するためには、 その考えに反対している民族集団を虐殺してでも、 反対勢力を取り除かなければならない」 みたいなエスカレートしたバージョンも 「絶対に正しいこと」のリストに加えられ、信じられていく。 おかしいときは疑ってみる。 それは、暴走を防ぐとても重要なことだ。
もっといい方法が見つかったら、 「一番いい方法」を見直す。 これは、現時点で「正しい」と思われていた仮説の間違いを 修正するということに留まらず、 「現時点で一番いい方法」を「もっといい方法」に改善する機能がある。 この機能を持っているかどうかが、 歴史的体系を飛躍的に進歩させられるかどうかの鍵となる。 占星術や漢方は何千年もの歴史があるが、 その間に近代科学(の枠内での天文学や医学)へとは発展しなかった。 9世紀頃からのイスラム黄金期には、科学や医学が発展していたが、 12世紀の聖職者アル・ガザーリーは、 原因を結果と関連づける可能性に異議を唱え、人はこれから先に何がおこるかを知ることも予測することもできないと教えた (パルヴェーズ・フッドボーイ氏による文章)。 日本の和算は、 せっかく積分まで発見していたのに、 秘伝主義でなければ、もっと発展したのではないだろうか。 一方、 宗教の影響力が強くて 地動説や進化論を受け入れるのに苦労するような ヨーロッパで 近代科学が発展した。 それは、 たまたま「エラー修正機能」が組み込まれただけなのかもしれないし、 民主主義の発達と関係があるのかもしれない。 ともかく、 ものごとが発展するには、 「公開」し、「批判を歓迎」し、「もっといい方法が見つかったら改善」する、 という仕組みが必要なのだ。
エラー修正機能があるかどうかという観点から、
暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステムの違いと私が考えていることを
なるべくわかりやすく単純化して示してみようと思ったのだが、
まだ、十分にわかりやすくはないかもしれない。
科学や民主主義においてエラー修正機能が非常にうまく機能しているということは、
セーガンの
「悪霊にさいなまれる世界」で、
とてもわかりやすい例を多用しながら、
説明されている。
私が
エラー修正機能が重要だと思うようになったのは、
このセーガンの著作を読んだことがきっかけだ。
一方、
ドーキンスの
「神は妄想である」では、
「宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則」 が
ある以上は、穏健な宗教でも、
いつか過激主義に転じる危険性をかかえているとして、
宗教自体を相手に、正面から容赦なく徹底的に戦おうとしている。
その意味で、宗教の信者や宗教的思考に親近感を抱く人にとっては、
セーガンの本の方が、
(腹を立てずに)読まれやすいかもしれない。
エラー修正機能の重要性を、
宗教の信者にもわかりやすく、あまり長くない文章で、
宗教の文化的な側面には敬意を表しながら、
相手が怒らないように説明するのは、なかなか難しい。
まずは、まだこなれていない上の
「まえがき」を公開して、
他の人からの意見(批判)も参考にしながら、より良い表現を模索していきたい。
ちなみに、「無条件に信じる」という態度の問題性を童話的なお話で、
なるべくわかりやすく表現できないかという試みの例としては、
第4回星新一賞落選作品、
第5回星新一賞落選作品辺りも
参照していただきたい。
追記(22/4/23): ロシアによるウクライナの侵略で見られる 国家の典型的な社会システム上の問題の一つを、私の捉え方で整理してみた。
もちろん、問題は言論の自由の有無には留まらないが、 ロシアによるウクライナ侵略に関して、 色々と感じたことを、 「飲み話」の方にも書いた。
以下は、宗教に批判的な考えを抱くようになった 私の思考過程を書いていったものなので、 それなりにくどい部分もあるが、 まあ、私の思考過程のメモということで。
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