(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

Riisma Manifesto の日本語訳

 エスペラントから性区別を取り除こうというRiismoの宣言文を 日本語に訳してみました。但し、エスペランチスト以外の人が読む 場合も考え{ }内は私が補足しました。
Mi prove tradukis Riisman Manifeston en Niponlingvan (la japanan).
Riisma Manifest の原文(la originala teksto de Riisma Manifesto)


「言語の性区別」の頁にも関連記事

掲示板に 「性差別のせいでエスペラントを放棄した」とか 「riismo を知ってエスペラントを勉強し直す気になった」 といった書き込み( 99/500/9) があった。

「エスペラントへの疑問」の頁にも関連記事


注意
al Retpaĝo de GOTOU Humihiko
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RIISMA ESPERANTO
リイスマ エスペラント
{「ri{リ}」主義のエスペラント}
(エスペラントの規則化と性の無差別化)
riismo{リイスモ、「ri」主義}の紹介

riismoのエスペラントでは:

——代名詞「ri」が代名詞「li{彼}」と「s^i{彼女}」に代る。代名詞「li」と「s^i」は使わない。

——接尾辞「-ic^-」を{男性化接尾辞として新たに設け}、接尾辞「-in-{女性化接尾辞}」と対称に使う。これらは、性を強調したり、正確に扱う必要のある場合にのみ用いる。

——一般に、接尾辞「-ic^-」か「-in-」を伴わない語幹は性を示さない。 伝統的に男性のみしか表さず、接尾辞「-in」を伴った対応する女性形を持つ二十個の語幹も、無性の意味を受け入れるべきである。 しかし、例えば「liisto{りーイスト、従来通りliとs^iを使う人}」と話す時など、もし接尾辞「-ic^-」も「-in-」もつけないと混乱を招く恐れがある場合には、{無性化}接頭辞「ge-」をつけてもよい。 例えば、 「dentisto{歯医者}」は「dentistic^o」または「dentistino」のことであり、 「(ge)patro{親}」は「patric^o」または「patrino」のことである。 接頭辞「ge-」が有効となる主な単語には、例えば以下のようなものがある。 —— avo{おじいさんかおばあさん} edzo{つれあい} fianc^o{婚約者} filo{自分の子供} frato{きょうだい} kuzo{いとこ} nepo{孫} nevo{甥か姪} onklo{おじさんかおばさん} patro{親} vidvo{やもめ} —— bubo{赤ちゃん} knabo{「少年」か「少女」} viro{「男の人」か「女の人」} —— frau~lo{独身者} grafo{伯爵} princo{「王子」か「王女」} reg^o{「王」か「女王」} sinjoro{……さん} —— amiko{友達}

riismoの論証

エスペラントに対してしばしばなされる反対意見{の一つ}を取り除く

 エスペラントで「性差別」が可能であることは、エスペラント自身にとって危険である。というのは、それは簡単にエスペラントに対する攻撃要素になり得るからである。更に、「性差別」のせいでエスペラントを放棄した人は エスペラント社会から消えていくから、そういう人がどれくれいいるのかを見積もるのは難しい。 しかしこれは恐らく、ほんの数人だけに関わる問題ではない。 {従来の}伝統的なエスペラントと合同で、「性差別」のない種類のエスペラントがあったら、そういう人たちにとっては、エスペラントがより魅力的になる。

性差別をしない考え方への貢献

 言語を改めることにより人々がすぐに考え方も改めることができるなどと断言する人はいないだろうし、riisto{リイスト、「ri」主義者}たちにしても、 性差別をしない言語が必然的に性差別をしない考え方を導くといった意見を支持している訳ではない。 しかし、 「-in-」と「-ic^-」を対称に使うことにより、 男の方が女よりも偉大だとか基本的だとかいった信念を無意識に抱かされるようなことはなくなってくれるかも知れない。 また、 「li」と「s^i」はそれ自身は別に性差別ではないというのは確かにその通りだけれども、 代名詞「ri」は、言及している対象の性別を常に意識する必要性をなくしてしまうから、 差別が生じにくくなるということもあるかも知れない。

簡単に、より{時代に}ふさわしいものに

 仮定上の人について話すために特別な工夫を凝らしたりする必要はもはやない (例えば、「完璧を求める人が [ li au~ s^i / tiu / g^i ]{彼か彼女/その人/そいつ} といった{代名詞の}使い方をしていたら、しょっちゅう新しいインキ用リボンを買わなければならない」)。 もはや言及している対象の性別を覚えておく必要はないし、 {一般の}「人」について話したい人たちに対して、その「人」の性別を示す必要もない。 今や書類による情報伝達の時代であり、 性に対する歴史的、社会的役割も進化(時には融合)している時代だというのに、 何の工夫もしないで「ある人」のことを話すには、いちいちその人の性別を知らなければならないというのでは、実に面倒である。

規則化と国際化

 エスペラントには他にも不規則の例はあるけれども、 第三人称単数における二つの性の区別は、実はザメンホフ{エスペラントの発案者}が知っていた主にインドヨーロッパ語族の言語の紋切り型に基づく単なる歴史上の偶発的事故に過ぎない。 このおかしい点を取り除けばエスペラントの代名詞体系は規則的で国際的なものになり、それ故に、特に非ヨーロッパ人にとっては簡単なものになる。 更にriismoは、明確に男を示す訳ではない単語に「in」を使うことがもたらす混沌も取り除いてくれる。

よくなされる反論

「riismo は必要ない——エスペラントは既に完璧である」

 これはこれで、ありがちな態度である。riistoたちはriismoで話すことを全ての人に強制しようとしたりしてはいけない。エスペラント自体についても同じことが言えるが、ある人たちがriismoによる不利益よりも利益の方が勝ると考えて、その必要性を感じたならば、riismo を使い始めるだろう。 各人は各人の望むように話せばよい。

「riismoはアメリカ的な単なる『政治的正当性』に過ぎない」

 婉曲技法で欠陥を作りながら言語の使用方法を「変える」ことを目指す、あの極端な「政治的正当性」に、riistoたちは全く従うつもりはない。 riistoたちは、 ただ単純に、より公平で論理的な言語をめざしているに過ぎず、 運よく、それは{現行の}言語の使用方法に本質的には表面的な二つの変化を与えるだけで得られる。

「別に『li』か『s^i』を使えるから、『ri』は不要である」

 確かに。しかし、現にそういう言い方の中でも、言及している対象の性別を知らないという事実が明らかに表されている。 riistoたちは代名詞「ri」を、「li」と「s^i」の代りに使うのであって併用するのではない。だから、riistoたちにとっては、性別を知らない人について話すのも、性別を知っている人について話すのと同じように簡単である。 というか、言及している対象の性別を知っているか否かを明らかにする必要はないし、そんなことを意識する必要すらない。

「相関語{例えば、tiu:その、その人}を使えるから、代名詞『ri』は不要である」

 確かに。しかし、riistoたちは、性別を知っている人に対しても使える代名詞を持っている。 もし、単数代名詞の代りに、人を表す相関語だけを使うことにしたら、 新たに代名詞に使われることになったその新しい音に慣れなけらばならないし、 相関語が人を表しているのか物を表しているのかという新たな混乱を生じるし、 非常におかしな言語になってしまう。

「代名詞『g^i』{それ}を使えるから、代名詞『ri』は不要である」

 確かにザメンホフ自身もそう言っている。しかしザメンホフは、代名詞「li」と「s^i」を使うことをやめて、全ての対象に対して、性別を知らない対象に対しても代名詞「g^i」を使うことを提案してはいない。それをすることも可能ではあろうが、riismoよりもよほど大変な言語改造になるだろう。

「既に接頭辞『vir-』{男、雄}があるから、接尾辞『-ic^』は不要である」

 「 viro 」という語は同時に三つの意味を持っている——原形では、「人間」と「男」と「大人」の意味を暗に示す。 その語幹を接頭辞として使った場合、一般に「男」の意味だけが機能する。 しかし「 vir- 」には他に二つ意味があるから、「 -in- 」と完全な対にはならない。 注意しなければならないのは、 「 vir- 」は実際には人に対しては使わないということである。 従来のliismo{liとs^iを使う主義}のエスペラントでは、「 virkuracisto 」{男医}とは言わずに「 vira kuracisto 」{男の医者}という言い方をするし、 「 virkuracisto 」では、「男のための医者」の意味に誤解されかねない。 更に「 vir- 」は、合成語「 virino 」{女の人}の中では、明らかに接頭辞ではない。

「『ri』はあまりにも『li』に似ている」

 新しい無性の代名詞の形については、長い間、議論された。 当然のことながら、代名詞のように見えて、かつ他の意味を持たない形が選ばれなければならない。 同じ代名詞体系の中にある二つの代名詞が互いに似ていたのでは、大いに不都合である。例えば「g^i」{「ヂ」、それ}のそばで{それにそっくりの} 「j^i」{「ジ」}といったものを使うのでは、強い反論が出るだろう。 しかし代名詞「li」と「ri」は別々の代名詞体系に属しており、互いのそばで使われたり、対照して使われることもないので、これらが似ているからといって問題にはならない。 勿論、自分たちの母語に「l」と「r」の音の区別がないために、これらをうまく区別できないliistoとriistoが互いに誤解してしまうといった対話も作れないことはないが、現実にそうなる危険は少ない。 例えばドイツ語の代名詞「sie」などは、「s^i」か「ili{彼等}」か「vi{あなた、あなたがた}(格式ばったとき)」のどれかを意味するというのに、そのことで混乱することはめったにない。

「riismoは誤解を招く」

 riistoたちはliistoの言語も知っているし、話している人がriistoなのかliistoなのかはすぐに分かる。 liistoたちはriismoについて何も知らない。しかし、 この人たちにとってriismoの言語がどうやら奇妙なものだとしても、 それを問題なく理解してくれることは実際の経験から確かだと言える。 殆どのエスペランチストが既に語尾「-ic^-」には出くわしているし{この語尾はriismoが提唱される前に既に提案されていた模様}、受動的に「ri」を使われることや(その意味を理解することにも)すぐに慣れるだろう。 「patro{親}」などの{従来、男しか意味しない}範疇の単語には{中性接頭辞}「ge-」を使えば、riismoのせいで新しい意味を受け入れなければならなくなる単語は一つもない。 現にエスペラントには、riismoなんかよりもよっぽど誤解を招きそうな種はいっぱいある(例えば、「alie{他に}」が「alimaniere{他のやり方で}」を意味するのか、「aliloke{他の場所で}」を意味するのか分からないのを区別する 「aliel{alimaniereだけの意味}」を使う主義もある)。

「riismoは方言への分離である」

 riismoは目に見える変化ではあるが、極めて表面的なものである。 相互理解には何の問題もないし、状況に応じてriismoのエスペラントかliismoのエスペラントかを使い分けることもできる。 例えば、{状態ではなく動作を表す受動態の分子接尾辞に現在形のataを用いる}ata派と{過去形のitaを用いる}ita派の分裂や、国名の表し方{国を表す接尾辞として、昔は容器を表す-uj-が使われていたが、後に新しい接尾辞-io-が使われるようになった}の分裂に比べれば、riismoは危険ではない。 riismoは今までに起きた様々な言語変化の道筋を追うだろう—— ある人たちがあることを提案し、それを使い始め、ある人たちはそれに倣い、 ある人たちはそれを無視する。 言語計画を目的とした、中心的で尊重されるような機関は少ないので、 他のどんな方法でも自然に言語を進化させることはできない。

「riismoは{第1回世界エスペラント大会で変更を許さないことに決めたエスペラントの}基礎に反する」

 「patro{親}」の範疇に属する単語には{中性化接頭辞}「ge-」を使えば、 riismoはどの基礎単語も一切再定義しないで済むし、riismoのエスペラントで且つエスペラントの基礎を犯さずに話すことも可能である。 「ge-」がなくても、riismoは幾つかの基礎単語の意味の幅を広げるだけで済む。 「ri」と「ic^o」は新語法と捉えることができるし、 「li」や「s^i」を使わないことは、 基礎に反しているという意味では、 「ci{おまえ。親しい間柄の二人称。現在は殆ど使われない}」を使わないことと大して変わらない。 {具体的に}どの程度、基礎に反しているかを示せないならば、 「基礎に反している」といった議論を持ち出すべきではない。

「『ri』『li』『s^i』の代名詞が全部あればもっと良い」

riistoたちは、言及している対象の性別を知っている時でも代名詞「ri」を使う——riistoにとって代名詞「li」や「s^i」は古語である。 代名詞「ri」(または「s^li」など)を導入して、但し同時に代名詞「li」「s^i」も留めておき、それら全部を同一の代名詞体系の構成要素として一緒に使おうという提案がしばしばなされる。 仮にその提案に従ったならば、「ri」という語は、 話者が言及している対象の性別を知らないか意図的に隠しているという意味を 表すようになり、常に「ri」を使うriistoにとっての意味とはまるで違ったものを表すようになることは避けられないだろう。 「ri」「li」「s^i」を同時に使うことに対しては、様々な反論が可能だろう—— 例えば、「ri」と「li」はあまりにも似ているとか、 記録されている限りでは、人間の言語でそのような代名詞体系を持っているものは一つもないから不自然だとか、性別を知らない人を示す方法は、古典的なエスペラントの範囲内でも既に幾つか存在するのだから、余分な代名詞はまったくもって不要だとか。 そうした反論はその通りだが、それはここで提案しているriismoに対する反論にはならない。 付け加えるなら、「その人の性別を表したい対象」と「その人の性別を表したくない対象」とを新たに区別することは、古典的なliismoのエスペラントに存在する男女の強制的な区別よりも、更に煩わしくてやっかいである。

「riismoは言語を複雑にする」

 「ri」「-ic^-」の二つの新しい要素に関しては、頻出語句なのですぐに覚えられるだろう。語学学習において、新しい区別を覚えるのは難しいが、既知の区別を無視するのは難しくない。ということは、 riismoのエスペラントは、代名詞に性区別のある言語を使う生徒たちにとっては、liismoのエスペラントと同じくらい簡単だし、 代名詞に性区別のない言語(例えば中国語とかフィンランド語とか}を使う生徒たちにとっては、liismoのエスペラントよりも遥かに簡単である。

「riismoは表現力を失わせる」

 「-ic^」を導入することでより明確な区別が可能になり、言語が豊かになる。 もし必要なら「-ic^-」や「-in-」を使って常に性別を表すことだって可能なのだから、 「li」と「s^i」を使わないことによって少しは表現力が失われるとしても、大したことはない。 文芸作品においては、「li」と「s^i」は「ci」などと同じように随意に使われ続けていいだろう。 「li」と「s^i」は、それぞれ一人の男か一人の女を話題にして言及する時にしか有用ではないことに気付いてほしい。

「覚え直すのは難しい」

 ケンブリッジ エスペラント会では、 エスペランチスト全員でまたはほんの数人で「ri」を使うことにはごく短期間で慣れることが可能だということが分かった。 数週間もすれば、もう間違いを犯すことはなくなる。 「-ic^-」は「ri」ほど頻繁には必要でないこともあり、 幾分、覚えるのが難しいが、それも大した問題ではない。

歴史と将来

 「panjo{かあちゃん}-- patrino{おかあさん}」の関係から「pac^jo{とうちゃん}-- patric^o{おとうさん}」の関係が類推されるのは明らかなため、接尾辞「-ic^-」は多くの異なる人たちによって、何回も独立に作り出されてきた。恐らく代名詞「ri」にしても、多くの人が考え付いたに違いない—— 全ての子音の後ろに母音「i{イ}」を置いて、その中から、既に使われている語幹や、使い続けることになる他の代名詞とあまりにも似ている語幹を取り除いていけば、残る可能性はごく限られている。
 「-ic^」と「ri」の未来については予断を許さない。しかし少くとも、 複数の人間が既にriismoの言語を話していることは確かである。 現にこの文書もriismoで書かれ、riismoを弁護している。 riismoは理論上の提案ではなく、既に実用に根を下ろしている。 この文書の目的は、riismoを紹介し、それに対する幾つかのたちの悪い反論に反論し返すことである。 riismoで話したいか、liismoで話したいかは、個人個人が自分で決めることである。他人に対して、こういうふうに話せとか、ああいうふうに話せとか指図する人は恐らくいないだろう。
 もし地方の部会でriismoについて議論してみようとか、riismoの言語を試験的に使ってみようということになった際には、是非、この文書の共著者たちに報告して戴きたい。 我々は、賞賛であれ苦情であれ、どんな意見でも歓迎する。 尚、この文書は自由に配布して構わない(但し変えることなく)。

Edmund GRIMLEY EVANS, St John's College, Cambridge, CB2 1TP, Britujo
(Edmund.Grimley-Evans@cl.cam.ac.uk)

B. Robert HELM, Department of Computer and Information Science,
University of Oregon, Eugene, OR 97403, Usono
(bhelm@cs.uoregon.edu)

Konrad HINSEN, Gelderner Str. 22b, D-52428 Juelich, Germanio
(hinsen@acds21.physik.rwth-aachen.de)

Marko RAUHAMAA, 450 Via Colinas, Westlake Village CA 91361, Usono
(Marko.Rauhamaa@tekelec.com)

Mark RISON, Gonville & Caius College, Cambridge CB2 1TA, Britio
(rison@hep.phy.cam.ac.uk)

Marianne WELLE, 12 Sherlock Road, Cambridge, CB3 0HR, Britio

1994-07-05

日本語訳 後藤 文彦 尚、エスペランチストでない人が読むことも考え、{ }内は訳者が補足した。



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