(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

宗教と応報刑主義と自由意志と死刑制度に疑問


Duboj pri religio, puno kiel rekompenco, libera volo kaj mortopuno
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目次

宗教相対主義
私は神を信じるか?
ミミズのハンバーグ
死刑への疑問
わるいやつならやっつけていいか?

「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁 にも関連することを書いた。

宗教相対主義

 まず、私は無神論者であり、 死んだら無になり意識も消滅すると考えています。 一方、私の家は浄土真宗の檀家なので、私も形式的には(統計上は?) 信徒ということになっているようです (世界の?割以上の人が神を信じているとかいった統計も、 おおかたこの程度のデータに基づいているのでしょう)。 しかし、釈迦自身の教え及び初期仏教における 縁起説や無我説では、 「絶対的な神」の存在も「不滅の魂」の存在もきっぱり否定している ということを最近 知りました (例えば佐倉哲さんの 「仏教における『魂』と『神』」の頁、 「空の思想(一章 自性論)」の頁)。 つまり、(後の大乗仏教や特に浄土宗におけるような) 神格化された如来の話や極楽浄土の話は、 「方便」(衆生に真実を明かすまでの暫定的な仮の教え) であって「事実」ではないと解釈すれば、私は別に 形式的な「仏教徒」であることを少しも憚る必要などないのかも知れません。 その意味では、どの宗教の教えも、多かれ少なかれ 人に心の平安を与えるための「方便」なのだと思います。

 ところが、例えば キリスト教旧約聖書における天地創造を、あのまま「事実」だと信じる人が、 いたりするから困るのです ( この問題については、大豆生田さんによる sci.skeptic FAQ の和訳の頁 ) 。

 特定の価値観の人々の間でしか理解されない「事実」は、 少くとも科学における客観的事実とは明確に区別されるべきものです。 飽く迄も、一種の「譬え話」であり「方便」なのだと思います。 それを「真理」といった言葉に擦り替えることは、 非常に問題があると思います。

 例えば、価値観に依存する宗教的「真理」を客観的事実と勘違い してしまったために、 自分たちの宗教の「真理」だけが絶対的に正しくて、 それとは矛盾する他の宗教の「真理」は絶対的に間違っているといった考え に陥ってしまったなら、それは立派な 選民思想、同化政策、帝国主義に繋がると思います (現に、いくつかの宗教は戦争や植民地政策を抑止し得なかったばかりか、 むしろそれらを正当化する役目すら果たし得たのではないでしょうか)。

 科学の知識や技術も戦争などに悪用されてきましたが、それは 「科学の方法」自体の問題ではなく、それを利用する人間の 価値観の問題だと思います(さて、多くの宗教の場合、 「宗教の方法」自体には問題はないと言い切れるのでしょうか)。

 「宗教と科学は、方法は違うが、真理を追究するという目的 は一致している」などという人がいますが、 宗教が追求している「真理」は多くの場合、 価値観に依存する事柄であって、科学が追究しているような 客観的事実ではありません。 また宗教の「真理」は多くの場合、反証を拒否したり、 反証自体が不可能だったりして、科学の本質とも言うべき 「自己修正機能」を持ち合わせていない(かまたは、極めて 貧弱)なのではないでしょうか。 そこが科学と大きく違う点の一つだと思います。

 価値観に依存する領域で、文化相対主義や言語相対主義 が叫ばれるようになった今日、明らかに価値観に依存する領域である 宗教も相対主義を受け入れるべきだと私は思います。 つまり、「どの宗教または無宗教、無神論にも優劣はなく、 それぞれの立場が他から干渉されることなく尊重されるべきである」と。 更に、「どの宗教の教えも一種の『方便』であって、 客観的事実とは混同せずに明確に区別されるべきものである」と。 そして「宗教の『真理』が客観的事実によって反証されたならば、 それを自己修正していくべきである」と。

 参考までに安斎育郎著『人はなぜ騙されるのか』(朝日新聞社) の「宗教と科学についての提言」の章から引用します:

<....「科学的命題」と「価値的命題」を峻別し、現代科学が到達し得た 体系的認識と矛盾する主張は、科学の発展段階に即して大胆に再評価する ことが必要である。それは、宗教が提起している固有の価値体系の訴求力 を少しも傷つけないであろう。>

(尚、安斎育郎氏については 「立命館大学 国際平和ミュージアム」の頁

  また、カール=セーガン著「カール・セーガン 科学と悪霊を語る」 (新潮社)の次の箇所なども参考になるでしょうか:

もしも中核となる教義が科学によって反証されたらどうするか、という ことだ。この質問を現在の第十四世ダライ・ラマに投げかけたとき、彼は ためらうことなく、保守的な宗派や根本主義の指導者が誰も言わなかった ようなことを言った。ダライ・ラマは、「そうなれば、チベット仏教は 変わらなければならないでしょう」と言ったのだ。
 一方、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、 すべて正しくて、いかなる間違いも含まない」 といったキリスト教聖書の無謬性を反証する 佐倉哲さんの「聖書の間違い」の頁 や、それと対照的に 「人間の認識の届かない領域の断定は知識と認めない」といった釈迦の 教えを考察する 佐倉哲さんの「仏教における『魂』と『神』」の頁 も参考になるでしょう。

註 尚、ここでは無宗教や無神論を一つの価値観と見なして、 宗教と同列に書きましたが、それは、「様々な宗教の間には 優劣はなくとも、何等かの宗教を信じている人の方が、 何の宗教も信じない人よりも優れている」のような高慢な 解釈を排除するためです。

 参考までにカール=セーガンとアン=ドルーヤンの共著「はるかな記憶」 (朝日文庫)の中の次のような文章を引用しておきます:

ドストエフスキーは,どんなに心根のやさしい人でも,宗教を否定するなら, いずれは「大地を血に染める最期を迎えるしかない」と警告した。しかし,血塗 られた結末は,開闢以来のお定まりで,しばしば宗教という名のもとでさえ行わ れてきたことが知られている。
 念のため、価値観に依存する事柄を扱う宗教と、 客観的な事実を扱う科学との間に 相対主義を持ち込むのはおかしいと思います。 つまり、相対主義を振りかざして客観的事実をすら歪曲するような 真似はすべきではないということです。

 私が言っている相対主義というのは、価値の相対主義であって、 科学と非科学との相対主義ではありません。 その辺については、またいずれ書くことにします ( 「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁 )。

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私は神を信じるか?

 これは、「神」の定義の仕方および「信じる」の定義にも依存します。

 果して特定の宗教にはその信者間でなら少くとも共通する厳密な「神」の定義 が存在するのでしょうか。

 私は未だに、どの宗教の「神」の概念もしっくりとは抱けずにおります。

 例えば、

○意識はあるのか

○意識があるとして、特定の価値観(愛は素晴らしい等)を持つのか

○姿形はあるのか

○全智全能なのか

 --全智全能とはどういうことか
 --どの程度のことができることをいうのか
 --文字通りの全能では論理的に矛盾を来さないか(1+1=1にすることもでき るとか)
 --そういった自明の論理をも覆せることを言うのか

○どの程度のものを創造したのか
 --地球とか生物とかの次元か(だとしたら文明の進んだ宇宙人の定義で置き換えることもできるのか)
 --神自身を除く全てをか
 --神自身を含む全てをか
 --それらが創造される前には何も存在しないと考えるのか
 --神が全ての原因の出発点で神に原因はないと考えるのか

...といった項目(まだ十分とは言えないが)に対する見解を明らかにされない と、それが私にも存在する可能性を想像できる程度のものなのかどうかまるで判 断できません。

 例えば、現在の構造を有す宇宙が、ある意識作用の 介在によって発生した可能性ぐらいならSF的に「想像」はできますが (この世はコンピューターの中の仮想現実だとか)、 「全ての原因の出発 点でありそれ自身の原因はないところのもの」と定義されるものは、私には定義 自体、論理的に理解することができないので思い浮かべてみることすらできません。

(その点、「如何なるものごとも縁起(依存関係)の中にあり、 絶対不変な存在などない」とするナーガルジュナの「空の思想」 <佐倉哲さんの「仏教における『魂』と『神』(その3)」の頁> の方が私には「信じ」やすいです)。

 まあ、そのように思い浮かべることすらできない事象については、 せいぜい神秘主義的にしか「信じる」ことはできないでしょうから、 その可能性を思い浮かべられるような事象につ いて「信じる」という意味を考えてみましょう。

 人によって「信じる」の定義も異なるでしょうが、私は大体次のような意味で 遣っています。

 --ある特定の事象が真である確率が、論理思考の下では100%未満(せいぜい50%とか70%くらい)と結論されていても、あるいはそう結論されることが予想されても、何等かの価値判断の介入により、それが100%真であると見做すこと--

 更に「信じる」には次の側面があると私は捉えています。

 --ある事象の解釈として複数の可能性が思い浮かべられる時、その中の特定 の一つの可能性のみを100%真と見做し他の可能性は全て否定すること--

 こうした意味では、私には「信じている」ものは何もないことになります。 「神」とか客観的反証の不可能な (反証可能な明確な定義を示されれば別だが) 価値的領域の事柄に関する限り、勿論それが「良い」ことだとも「悪い」 ことだとも言いません。

 小学校の道徳の時間に「走れメロス」を読まされた時、何故「友が自分を裏切 った可能性を思い浮かべること」が「悪い」ことなのか、何故「友が自分を裏切 った可能性を否定すること」が「良い」ことなのか、私の価値観では、かなり疑 問に思われました。

 というか、自分の思考において自然に見積もられる可能性 (友が来てくれる確率が70%くらいで、 途中で事故に遭った確率が29%くらいで、裏切った確率が1%くらいと か)を思考領域から抹消するということに不快感を抱いたのだと思います。

 それはそうと、価値的領域の問題について 「価値観の違いを許容するかどうか」ということの方が、 私にとっては 「ある特定の価値基準の下につくられた体系(例えば宗教とか)を信じるか どうか」ということよりも、遥かに気になることです。

 私は価値観というのは相対的なものであり、絶対的な価値観などというものは 存在しないと思っています。

 そこで問題となるのは、善悪の基準は価値観に依存するということです。

 「飲酒」や「肉食」の善悪に関しては価値観の相対性を許容できても、「殺人」と かに関しては絶対的な「悪」でなければならないと考える人が多いので、 私はよく次のような譬えを使います(勿論、私は自分の価値観において、 また多くの人間が共有する価値観において殺人は悪だと思っています 、念のため)。

 --人間の善悪は概して「共存に適すこと」「共存に適すまじきこと」に対応 している。

 ということは、「共存に適すこと」「共存に適すまじきこと」が人間とは逆転 する生物がいたとすれば、まるで逆さの価値体系が生まれるかも知れない。

 例えば、ある星の宇宙人は常に分裂を繰り返し増殖を続ける為、常に殺し合っ ていなければ人口を維持できないとしよう。

 その為、その宇宙人にとっては殺し合うことが美徳であり、また殺されること を恐怖と思わず有難いと思う価値観が成立していたらどうだろうか--

 この手の空想は私はしょっちゅうしているのですが、 そんな宇宙人 がいることは想像すらできない、仮に宇宙人がいたとしても人間と同じ価値観を 持つ筈だと思うという人も結構いるのです。

 カルト宗教の信者に限らずとも自分の価値観を絶対視する人は多いようですが、 これは時として危険なことだと私は思います。

 例えばAの価値観にとっての「悪い」ことをBがしたとき、Aは、「悪い」こ とは絶対的な筈だからBがその行為を「悪い」ことと自覚してやったのであり、Bは罪人だからBに罰を与えなければならないと考える--ところが、Bの価値観 ではその行為が少しも「悪い」ことではなかったりする--といった構図が世の 中のいざこざの多くを生んでいるのではないかという気がします。

 価値観で論理思考を拘束することをせずに、互いの価値観にとって最も益が大 きく最も害の少い解を捜す(つまり折り合いをつける) ことが最大多数の最大幸福を達成する上での有効なや り方ではないかと私は思います。

 しかし、価値観の違いを許容するだけでは実はまだまだ不十分ではないかというのが私 の真意なのです。

 というか、今まで述べてきた価値観の相対性というのは言わば善悪の基準に対 する懐疑を誘発する為の準備段階で、私が主題としていることの本質ではあり ません。

 こんな書き方をされても、何を言わんとしているのかよく分からないとは思い ますが、私が問題視しているのは次のようなことです。

 自分と価値観の同じ理性的人間が「悪い」ことをした時、その人を罰すること が妥当だと考えるかどうか。

 つまり「罪と罰」を構成概念とする思考方法は果して、一般の人間の共存にと って有効か否か。

 この辺の主題に関しては色々と述べたいこともあるのですが、 取り敢えず、私の応報刑主義への疑問を述べてみます (因みに以上は94年頃に東北大の電子掲示板 TAINSbbmsに書いたものを 修正したもの)。
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 以下は東北大の電子掲示板 TAINSbbmsに96年の1月頃に掲示したもの に手を加えたものです。


ミミズのハンバーグ

 私の場合、誰かが殺してくれて、殺す際の生理的嫌悪感を抱かなくて済むので あれば、殺すことに抵抗を感じさせる要因は、専ら、殺される対象の「意識」の 高等性だと思っています。

 だから、蝿とか蚊とか、恐らく下等な意識しか有していないと見積もれる生物 を殺すことには少しも抵抗を感じませんが(これくらいなら自分でも十分に殺せ ますが)、牛とか豚とか、殺すには「かわいそう」と思えるには十分に高等な意 識を有していると自分に見積もられる動物を殺すことには、それなりの抵抗を感 じてしまう訳です。

 と言っても、私は牛も豚も鯨も食べる主義の人間で、それでは何か倫理的/宗教的 に正当化できる尤もな言い訳をしながら食べているのかというと、そうではなく て、ただ単に、みんなが食べているし、子供の頃から食べているし、そういう習 慣に「慣れて」いるから食べているのに過ぎません。

 無理に自分の立場を合理化する理由をこじつけるとすれば、以下のようになり ます。

 人はみな程度の差において、利己的な存在である。 自己の欲求充足への魅力の程度と、その間接的犠牲者である他人への思いやりの程度とのつり合い位置が、その人の価値観で決まる。 だから、「恋愛して結婚して家庭を持って」という人 並みの「しあわせ」を一切、 放棄してでもめぐまれない人のために生涯を捧げよう と決断する人もいれば、めぐまれない人たちのための募金に十円を払うことすら もったいないと思う人もいる。私の場合、牛や豚に対する同情よりも、牛や豚を 味わう魅力の方に、つり合い位置があるらしい。

 一時期、あるハンバーグ屋のハンバーグにはミミズの肉が使われているという 噂が飛び交ったことがありますが、もし本当なら、なかなか喜ばしいことだと私 は思ってしまいました。ミミズの肉があんなにも肉として通用する味がするのな ら、もっとミミズの肉が普及すれば良いとも思いました。つまり、ミミズ程度の 下等生物であれば、殺すことに殆ど良心の呵責を覚えずに済みますから、牛や豚 を食べる時のような後ろめたさを感じずに、手放しで味わえるという意味です (しかし実際には、ミミズの肉が牛や豚や鯨の肉の代用になるほどおいしい などということはまず ないでしょう。尤も亀はおいしそうに食べますが)。 目次へ戻る

死刑への疑問

 私は死刑反対ですが、それは、応報刑主義(悪いことをした人は懲らしめるべ きだ)や感情的復讐心から人殺しを正当化するのには反対だという理由です。

 尤も、仮に「抑止力」としての死刑が顕著な効果を有しているのだとして、 「死刑にして殺さなければならない人数」の方が、 「死刑を廃止した場合には凶悪犯に殺されているだろう犠牲者の人数」 よりも圧倒的に少なくて済むのだとすれば(そうとも思いませんが) 、死刑は必要悪かも知れないとは思います。

 仮に死刑を必要悪と認めたところで、死刑囚には人間としての尊厳も人権も 一切認める必要性はないとは私には思えません。

 死刑囚となった凶悪殺人犯と、一般の人(あるいは自分)とを区別する明確な 境界が私には見当たらないからです。

 このようなことを改めて考えてみたのは、一九八九年頃の 連続 幼児誘拐 殺人事件 の時です (既にそれ以前の一九八六年頃に私は、 小説 『虚夢』で応報刑主義に対する疑問を主題にしている) 。 あの凶悪犯が、その価値観や嗜好において幼児を誘拐し殺すという作業は、 私が私の価値観や嗜好においてCDを買ってきて音楽に聴き耽るという作業と何か違 うのだろうかと考えた訳です。勿論、自己の欲求を充足させる作業が、他人に危 害を加える種類のものか否かという違いがあり、自己の欲求充足への魅力の程度 とその犠牲者となる他人への思いやりの程度とのつりあい位置にも決定的な違い があります。

 これらの違いを、ヒトという生物種の共存適性の違いとして捉えると、 (先天的な要因にせ よ、環境的な要因にせよ)著しく低い共存適性を持ってしまった凶悪殺人犯とい う人たちに、私は同情すらしてしまうのです。

 例によって非常におかしな譬えですが、仮に私がある国に定住しなければなら ないことになったとしましょう。その国の人は音楽を聞くと悶え苦しんで死んで しまうとしましょう。私は、必死に音楽を聞けない苦しみに堪え忍んでいたけれ ども、遂にその反動で、そうすると何が起きるかを自覚して、人前で歌を口ずさ んでしまったとしましょう。その途端に周囲の人が悶え苦しみ実に悲惨な死に方 をしたとしましょう。そうしたら、私は凶悪殺人犯として逮捕され、人々から何 と残酷な人なのだろうと罵声を浴びるようになってしまった

というような状況が、凶悪殺人犯から見た立場なのではないかと考えてしまうと、 凶悪殺人犯といえども、人間としての一切の尊厳を無視して構わないというふう には、どうしても思えないのです。

 勿論、被害者の方に同情する程度の方が圧倒的に大きいことは、 言うまでもないことですので、 「私は、死刑に反対するには十分、犯罪者に同情を感じる」 と書くのが正確かも知れません。勿論、 これは私の価値観の問題でもあり、この感覚を説明するのは非常に難しいことで すが、以下にそれを試みたいと思います。

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わるいやつならやっつけていいか?

 大多数の意見では、死刑を復讐心を晴らすために(きれいに言えば応報刑主義 の目的で)必要だと捉えられていると思います。私自身も復讐の心理を持ってい ますし、誰かに意図的に危害を加えられれば、仕返ししてやりたいという感情を 本能的に抱きます。だから「わるいやつならやっつけてよい」とか「罪を犯した 者には罰を与えるべきだ」という発想も、子供の頃はごく自然に受け入れてきま した。それこそ情状酌量の余地のないような凶悪殺人犯などの場合には、何の疑 いもなく罪相当の罰を与えるべきだと考えていました。

 それに対する疑問を改めて考えさせられたきっかけは、先に触れた一九八九年頃の 連続 幼児誘拐 殺人事件です (既にそれ以前の一九八六年頃に私は、 小説 『虚夢』で応報刑主義に対する疑問を主題にしている)。 私にはあの犯人が十分に精神の病んだ人だと思えましたが、 「精神鑑定」とか「責任能力」という言葉を頻りに耳にする度に、世間が求めて いるものは結局、「復讐対象を得ること」だと思えたのです (だから精神異常と鑑定されて復讐対象がいなくなると困るに違いないと)。

 一方でこのことは、私が当時、感じていたもう一つのことと符合しました。そ れは(PL法にも関連する)、日本では到底「ばかげたこと」としか思われない ような主にアメリカにおける数々の訴訟事件(猫を電子レンジにかけたら死んだ のは、そういうことをすると猫が死ぬと説明書に書いていないのが悪い、とか、 運転中にコーヒーをこぼして火傷したのは、そんな熱いコーヒーを売った売店が 悪いとか、 道路で転んで怪我をしたのは、道路を作った役所が悪いとか、子供が幼稚園で天 才的に馬鹿な真似をして怪我をしたのは幼稚園の先生が悪いとか、デマとか も含まれているかも知れませんが、その手の話)をたくさん聞きました。

 つまり、人間というのは「誰か(特に自分)に災難が降り懸かった場合、その 責任を負う個人がいなければならない」という発想を、ごく自然に本能的に抱く ものです。特に、その災難が殺人のようなものなら、なおさらそうです。

 ところが、殺人という災難が降り懸かっても、責任対象が見つけられない場合 があります。落雷とかの天災の場合です(尤も避雷針がないのが悪いとか、責任 対象と結び付く場合もあります)。

 このような天災で災難を被った場合、人間は腹は立って悔しいけれども何処か に責任対象を見つけようとは思わないのです(人災が絡んでいれば別でしょうが)。

 それでは、

「老衰や病気に殺される場合はどうか」

「交通事故に殺される場合はどうか」

「精神病者に殺される場合はどうか」

「冷静な人間に計画的に殺される場合はどうか」

と私は考えていった訳です。

 これら各々の場合に対応して、我々が抱く感情は全く変わりますが、その違い は、単に「責任対象を見つけやすいか」どうかということに依っているのだと私 は思いました。

 しかし、どうも、この「責任対象」というのは、我々の復讐心にとって、それ をどこに見つけるのが最も「気が晴れるか」という極めて主観的な規準で選ばれ てきただけのようにも、私には思えてきました。

 確かに「責任」という言葉自体がある種の主観を伴った言葉でもありますから、 人に災難が降り懸かった「原因」という言葉で置き換えてみると、もはや「罪」 という概念自体が消失するのではないかと私は思いました。

 つまり、災難の「原因」というのは個人に固有なものだとは思えないのです。 その人が持って生まれた主に脳の構造と、それを犯罪誘発性の高いものに育て上 げた、周囲の環境や偶然の積み重ね、を含めた、「あらゆるものの相互作用」で あり、その意味では、人災や犯罪でも天災にまで還元できるとも思えてしまいます。

 だから、実現性を度外視した話をするなら、犯罪を犯してしまう「犯罪抑制回 路に異常のある人」は、「あらゆるものの相互作用」の被害者であり、せめて病 人扱いしてやるべきではないかとも思います。

 尤も、交通違反程度の犯罪者も病人扱いされて治療とかカウンセリングを受け たのでは、自由意志が奪われた擬似=桃源郷的な世界を連想させます。

 そう言えば高校の時、映画「時計仕掛けのオレンジ」を見て、これはなかなか 理想的な犯罪抑止の方法だと思ったことがあります。

 凶悪犯罪者である主人公が、犯罪を犯そうとすると吐き気を催して犯罪を犯せ なくなるように条件付けられて社会に戻る訳ですが、映画の中ではこの処置を否 定的に描いています。その否定の仕方が、主人公の好きなベートーベンの第九を 聞いても吐き気を 催してしまうといった「論理の擦り替え」によってなされていたような気がしま すが、高校の時の記憶なので違っているかも知れません。

 何れにせよ、「犯罪者を病人として扱うこと」に目的をおいても、「凶悪犯罪 の悲惨な被害が起きないようにすること」に目的をおいても、より犯罪抑止的な、 (善行悪行を選択する個人の)自由意志に制約を設ける「時計仕掛けのオレンジ」的な 社会の方が、理想的なのではと思ってしまったりもします(但し、同時に独裁や 全体主義がやりやすくなるという決定的な欠点を伴うでしょうが)。

 恐らく、世の中の大多数の人が抱いているだろう考え方は、どちらかと言うと 「善行悪行の選択は個人の自由意志に委ねられるべきで、その結果、罪を犯した 者にはそれ相応の罰を与えればよい」という「自由意志尊重」の方なのだと思い ます。

 分かりやすくいうと、「道路に応じた制限速度を自動車が検知して、運転者が いくらスピードを出そうとしても、制限速度以上は出せないようなリミッターを 全車両に設ける」という方向性よりは、「車の速度は運転者の自由意志で好きな ように出せるが、制限速度を越えたのを警察に見つかると捕まる」という現行の やり方の方が受け入れられやすいという意味です。

 そこで私が指摘したいのは、「車のスピードが運転者の自由意志に委ねられる」 方式を採用することは、「犯罪抑止回路に異常のある人が、飲酒運転や居眠り運 転をして、あるいはスピードを出したいという異常な嗜好から、とんでもないス ピードを出し、その結果、事故を起こして本人や他人を殺傷してしまう」可能性 が既に想定されている筈だということです。

 つまり、「犯罪抑止回路に異常のある人が犯罪を犯してしまうこと」を「自由 意志尊重」のための犠牲にしている訳です。ところが我々は、その犠牲になった 犯罪者と被害者のうち、被害者の方には多大な同情を向けるけれども、犯罪者の 方には同情どころか、復讐対象として刑罰を課すというのは、少し傲慢なのでは ないかという疑問を感じるのです。

 この疑問は、キリスト教における自由意志の話を聞いた時から強く抱くように なりました(間違った解釈を聞いたからかも知れませんが、何れにしても、それ が私には大きな問題提起になりました)。

 キリスト教の神は「どんな悪いことでもできるように」人間を創ったそうです。この時点で 既に「悪いことをする人間が出てくる」ことは想定される訳です。しかし「人間 を神のロボットにするよりは、自由意志を尊重する」ために、敢えてそのように 創ったそうです。その結果、案の定「悪いことをした人」は、神が「万人に自由 意志を与えた」ことの犠牲者であると私には思えるのです( エホバの証人と科学」の頁の「 エデンにリンゴとヘビと自由意志を放置した神の責任」も この問題に触れています)。

 ところが、「悪いことをした人」は悔い改めない限りは天国に行けないばかり か、「悪いことをした人」の犠牲の上に「自由意志」を謳歌した「悪いことをし ないで済んでしまった人」たちが当然の如く天国へ行けてしまうというのは、私 にはなんか不条理な感じがするのです (その点、親鸞の悪人正機説「善人なをもちて往生をとぐ。 いわんや悪人をや」の思想 には共感を覚えます。ついでに、 片桐 悠さんの 「サイコップジャパン この世に不思議は存在しない」の頁の 下の方の「孤島問題」の前後も参考になります。 そのちょっと上の方の「ケーススタディ」も痛快です)。

 もし仮に万が一に神や天国や地獄というのがあったとして、 正にそのような制度(悔い改めた人のみが天国へいき、 理性的に確信犯的に悪人のまま一生を通した人は地獄へ落ちるとか) になって いるとしたら、 あの世を含めた世の中の仕組みというのは、既にたくさんの「必要悪」 のかたまりなのだろうかと思ってしまいます (そんな天国は仮に万が一あったとしても、行きたいとは思いませんが)。

 そう考えると、現状の死刑を含めた法的制裁制度も、 そのような「あの世を含めた世の中の仕組み」 の正に縮図になっているのかも知れないと納得してしまいます (つまり、宗教が思い描いているあの世だって、 十分に不条理なのだなあと)。

最後に一言。

 もし仮に万が一に天国とか極楽があったとして、 誰もが無条件に行けるところでなければ、私は行きたいとは思いません。 実は多くの宗教が想定している天国も、 本当はそういう天国なのかも知れません。 ただ、「悪人でも誰でも神を信じなくても祈らなくても当然、無条件に天国へ 行けるのですよ」ということをばらしてしまうと、 「それならば、悪いことをするのも平気だ」という人が現れて 犯罪を抑止するどころか促進してしまうので、 「悔い改めた人しか天国へは行けない」の類の「方便」しか教えない ことにしているということなのだと私は考えたいのです。 その意味では、悪人正機説を説いた親鸞とかは、 この宗教界の暗黙の了解を破り、 「種明かし」をしてしまった(実は、根っからの悪人こそが 往生できることをばらしてしまった)のだと 捉えることもできるのかも知れません。 という意味で、自分がたまたま形式的に浄土真宗の信徒に なっているらしいことには特に悪い気はしません。

(「科学と宗教の間に相対主義は馴染むか」の頁の 「奇跡体験を根拠に神を信じるのは傲慢ではないか」 に関連することを書いた)





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