散文変奏
Prozvariaĵoj
初稿:一九九五年一月頃。
試み:1)人称代名詞を一切 用いない。2)登場人物の数だけ章を設け、各章でそれぞれの登場人物を主人公とする。
尚、脱稿後に福永武彦の『忘却の河』を読んだところ、2)の手法が用いられている
ことを知る。恐らく1)についても誰かが既にやっているかも知れない。
いずれにせよ、1)も2)も所詮、この作品の「演出手段」に過ぎない。
目次
甲一
乙一
甲二
乙二
甲三
乙三
甲四
乙四
甲五
乙五
甲六
乙六
甲七
乙七
甲八
乙八
甲九
乙九
甲零
乙零
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al la paĝo de GOTOU Humihiko
散文変奏
——非鏡像の主題に基づく
後藤文彦
各断章は作者の演出意図に基づいて配列されているに過ぎず、記号の順位とそれらの象徴的意味との対応は特に設定していない。よって作者の演出意図に拘らなければ読む順番は任意であり、同一記号を他の象徴的符号または単語と置換しても構わない。
甲一
小等科三年の時だろうか。学級の皆で講堂へ移動しようとしていた時だ。甲一らははしゃぎながら廊下に列をなして進んでいた。階段の踊り場を通過し掛けた時、甲一は何気なくそこにある壁掛け鏡を見やった。前々から薄々 勘付いていたことではあるが、その時 甲一ははっきりと鏡の中に映っている自分の顔が明らかに醜いということを悟った。その次の瞬間から甲一は無邪気にはしゃぐことができなくなった。感情を表出するほど顔の醜さが強調されることを、その瞬間の鏡の中の顔の写像は如実に物語っていた。精神病理学上の用語では自己醜恐怖というのだろうか。以来、甲一は人前にいる時は常に自分の醜貌が他人に不快感を与えているという強迫観念に支配されることになった。といってもそれは主に自分と同年代の異性に対して卓越する種類のもので、同性間の交友関係の成立には特に支障はなかったとは思う。というのも甲一は子供が価値を認める幾つかの領域で秀でた才能を持っていたから、醜貌でからかわれたり苛められたりする余地を与えない程度の信頼と権威を同性間には獲得していたのだ。それに甲一自身、同性の醜貌に対して抱く生理的不快感は異性に対するものに比べると無視できる程度のものでしかなかったから、同性間での醜貌の無効性に安心していたのだ。尤も、同性の美貌に対する嫉妬や醜貌に対する共感がなかった訳ではないが、交友関係選択の際の判断項目にまではなっていなかった。だから甲一は同性とは誰とでも話したし、快活で社交的であったとすら言える。しかし異性に対しては醜貌恐怖からくる強迫観念が事務的な会話以外の一切を不可能にした。というか、事務的に不可避な会話すら甲一には至難の業であった。尤も相手も醜貌を有している場合には、恐らく同じ悩みを抱いているのだろうという共感から、多少は楽に事務処理を行えたが、相手が美貌の持ち主の場合には堪え難い屈辱を感じた——相手の美貌に恋愛感情を喚起される正常な美的感性が図らずも機能してしまうことに、それを相手に見透かされ、場合によっては同情されているだろうことに。斯く乙を悉く避けてきた甲一は、乙と日常的に会話する能力がまるで欠如していた。大学科に入って間もない頃、甲一は乙零という甲一に劣らぬ醜貌の乙と出会った。乙零も詩作を趣味とすることを知ってしまった甲一は、互いの作品を見せ合い評し合うことをしない訳にはいかなかった。斯くして甲一は、乙との距離感が縮まっていく過程というものを初めて経験しつつあった。乙零を何処ぞに呼び出して二人切りで会うなどという真似はまだまだできる業ではなかったが、教室で乙零と話し込んでいるうちに二人切りになり、取り敢えず帰りがてら大学科内の植物園を一緒に散歩したりとかくらいはできるようになった。甲一は乙零の作品を通して、乙零との会話を通して乙零の内面が段々と分かってきたし、乙零にしても甲一の内面をかなり理解してくれているに違いなかった。そんな内面的付加価値を吟味するまでもなく、甲一はいつの間にか乙零を好きになっていた。このままこの心地良い二人の親密な関係を持続すべきか——この関係の破局を覚悟の上で告白すべきか。打算の結論は既に出ていた。
甲一は特定の恋愛対象との相思相愛が達成されていなければ、他の如何なる条件が満たされたところでしあわせにはなれない種類の人間だ。いくら今の状態が心地良いとはいっても、厳密にはそれは甲一の過去の状態よりは相対的に「まし」だということであり、今の状態がどんなに長く続いたところで甲一の恋愛感情は満たされはしないし、甲一は持続する孤独の成長から解放される訳でもない。甲一の目的は甲一がしあわせになることだ。しあわせの可能性を一つずつ確認していくしかない。確認もせずに確率の低い可能性にいつまでも縋っていることは、しあわせの期待値を徒に下げることをしか意味しない。よって結末は早く出した方がいい。問題は告白方法だ。口頭では絶対に失敗する自信がある。乙零への恋愛感情が成長し切った現在、当たり障りのない普通の会話ですら時々 舌が硬直し脚が震えだす始末なのだ。手紙か詩か——文章による方法しか思い付かない。甲一にそんな勇気があるのか。どうすればいい。こうして甲一が甲一を急き立てるほどに、甲一の乙零への接し方はぎこちないものになっていく。どうやら乙零も何かを察し甲一を避け始めてきたような気さえしてくる。甲一の本心を察して離れていく分には寧ろ構わない。だが、誤解によって可能性の確認ができなくなってしまう事態は絶対に避けなければならない。さて、告白を決意してから一体 何日が経ってしまったろう——一周間か一月か一年か——一体甲一は何をしているのだ。こうしている間にも乙零は他の誰かに靡いてしまう。取り敢えず動け。だめだ。とても無理だ。閾値が高すぎる。もっと時間が必要だ。もっと時間が
乙一
乙一は自分の美貌に感謝している。乙一はほぼこの美貌のみの機能性により、乙一にとって最も卓越した欲求を求めるままに充足することができるのだ。それも別に苦労することもなく、ただ待ってさえいればこの乙一が持て余すほどに際限なく流れ込んでくる。乙一はこの現状に満足している。しあわせと言い切れるかどうかは分からないけれど、この生活をやめることはできない。甲たちは乙一に思い付く程度の淫らさは、乙一が拒みさえしなければ、忠実に実践してきてくれる。つまり乙一が甲に求めたがるようなことは既に、甲は乙に対してしたいと思っているのだ。本当に創造主は人間を巧妙に創って下さったものだと思う。尤も乙一にも欲が出ることはある。確かに甲九や甲零は乙一の交合欲を満たすべき機能上は、各々十分な魅力を有している。甲九は淫らさの極限を、甲零は身体的美しさを享受させてくれる。つまり乙一にとってあの甲等は自分の欲求を満たすべき道具であり、それは甲等にとっても同じことであろう。そういった退廃的な乙一等の世界とはまるで次元の異なる世界で、乙一等の世界では到底 達成し得ぬものを——言わば、かっこよさの極限とも言うべきものを——いとも当然の如く纏っている奴がいる。甲二だ。乙一は甲二が欲しい。今まで、どんな甲も乙一が近づきさえすれば確実に動いてきた。だから乙一は自分の気に入った甲は楽に手に入れ、またまぐわいすることもできてきた。なのに甲二は、乙一をというか乙自体を避けているかのようだ。甲二には、全ての甲に固有の属性である筈の乙を求めようとする素振りが皆無なのだ。しかし、甲二が無欲で鈍感で無頓着だという訳では決してない。甲二は容姿と知性に於いて他の追随を許さぬ域にあるばかりでなく、服装、喋り方、身のこなしに至るまで全てに抜かりがない——洒脱なのだ。それも、かっこつけようと必死に背伸びした跡がまるで見当たらない——完璧な固有のかっこよさなのだ。甲二は一体、どんな乙とまぐわいしているのだろうか。悔しい。甲二も甲である以上、乙一の美貌に交合欲を刺激されている筈だ。それとも、かっこよさの完璧性を犠牲にしてまで本能を貪ることに意義を認めないというのか。
甲二
甲二の場合、自分の外面も内面もそれなりに高い水準にあることは知っていた。だから乙を獲得する上でさほど苦労はしないだろうと思っていたし、少くとも自分とつり合う程度の外面と内面を備えた乙とはつきあえるようになるだろうと思っていた。しかし、それは今や絶望的になった。ふと気が付くと、甲二とつり合うような乙なんて——否、つり合うどころか、甲二が嫌悪とか屈辱とかいう致命的不快感を感じずにつきあえそうな最低限の乙すら、世の中には殆ど存在しないことになっていたのだ。甲二は、甲と乙との非対称性が生む世の中の構造上の事情というものを、もっと早くから悟っているべきだったのだ。しかしこれは見抜けなかった。例えば、少くとも中等科ぐらいまでは乙の方が甲よりも有意な差に於いて真面目だったものだ。もう少し厳密に言うなら、甲、乙 各々を各々の中で真面目な順に並べてみたとき、
乙の中である順位にある乙は、
甲の中でその順位にある甲よりは遥かに真面目で保守的な人間だった筈だ。だから甲二は、自分より真面目な乙は自分より真面目な甲よりも多いのだからと、安心し切ってしまっていたのだ。更には、真面目に振る舞っていた方が真面目な乙にとっての印象もいい筈だと思い込んでいた。しかしそれは違っていた。甲乙の属性の差が、あまりにも有意な非対称性を形成しているのだ。甲二は現状の解析に当たって、次のような簡単な模式化を当て嵌めてみた。甲の一部は能動型であり、残りの甲及び乙の大部分は受動型である。能動型の甲の各人は複数の乙に動く。その結果、能動型の甲の数を遥かに越える数の乙が、付加価値の高い順に汚染されていく。つまり、動かないことによって自らの保存状態を保った甲には、それとつり合う保存状態の乙が確保されている訳ではなく、畢竟は汚染された乙で妥協する羽目となる。汚染されていない乙を求めるには、
醜貌などの負の付加価値を許容しなければならない。
相当に性格の悪い乙であっても、外見が良ければ十分に保存性は落ちてしまう。乙の容貌の美しさに恋愛感情を喚起されることに快を伴う視覚感性を、結局甲二は放棄せねばならぬのか。仮に甲二が醜貌の乙と一緒になったとして、過去の孤独への共感は得られても、視覚感性を満たせぬ悔しさを、手放しの恋愛感情に懐疑を誘発する醜貌の生理的不快感を、そうした数々の葛藤を伴う恋愛しか得られぬ憤りを、その乙は感じなくて済んでしまうのだ。真の共感を成立させる為には、甲二自身が自分の顔を醜貌に整形するか、その乙の顔を生理的不快感を伴わない程度に整形するか……否、それでも厳密には対称な関係ではない。甲二にとって自分のせっかくの美貌の機能を使わずして失うことは悔しいことだし、その乙にとっても自分の醜貌をさんざん悔しさを覚えさせられてきた美貌に整形することは深い屈辱であるかも知れない。つまり、もう何処にも最適解はないんだ。では、誰でもいいか。でも保存状態は妥協できないな。乙零辺りなら好きになれそうだけど。だけど乙零は甲一と仲良さそうだし。甲二なんかが介入して、仮に乙零が甲二に靡いたりしたとしても、所詮それは非対称な共感でしかない。それに比べたら、乙零と甲一は本当に共感し合えるんじゃないか——本人たちがそれを悟っているかどうかは別としてさ。は、は、は、なんか甲一が羨ましいな。
乙二
最近、甲零が乙二に近づいてきた。どうせあんなかっこいい甲は高嶺の花だと思っていたから甲九に靡いてしまったのに。仕方ないさ。乙二だって寂しかったんだから。畜生、あんな甲とまぐわいしてしまったことが汚らわしい。甲零がもっと早く乙二に動いてくれてさえいれば、乙二は何の汚らわしい過去も悔しさも蟠りも持たずに完璧に純粋なままで、あの最初の新鮮さが消費されていく過程を甲零から享受することができたかも知れないのに。ははは、既に甲零とまぐわいすることを予期している乙二は淫らな乙だろうか。でも一般に甲の方が乙とは桁違いに淫らなのだから、乙二は安心してもっといくらでも淫らな空想に耽っていいのだ。そうさ。そういう意味では、きっと経験豊かな甲零とまぐわいすることは実は待ち切れぬほどに楽しみだ。甲九なんてただの野獣だったから、やっぱり甲は経験がなくてはな。一体 甲九は乙二とまぐわいする以前に、一体 何人の乙とまぐわいしたことがあるのだろうか。まさか、乙二が初めてだった訳じゃないだろうな。だったら乙二たちはひょっとしてお互いに初めてだったの? 乙二と甲九が? 最悪だ。畜生、甲零がもう少し早く乙二に動いてくれてさえいればなあ。
甲三
人間の最低限の生活水準として万人に保障されるべきものは何であろうか。普通、経済水準がまず念頭に置かれるが、それは最も重要なことだからというよりは寧ろ、法的に制度化しやすいということなのかも知れない。共産主義に賛同するひとも、
せいぜい経済上の財産共有までしか想定していない訳だし、
しかも所謂「実力主義」とか個人の能力差によって獲得財産に差が生じる制度は許容するのかも知れない。というか、取り敢えずせっかく自分が能力上 有利な地位にあることを機能させ続けたいという前提があるのかも知れない。一方で、全ての個人に同等の権利が認められるべきだという主張には多くのひとが賛同する。しかし実質上は、個人の能力差または付加価値差により、実際に個人が行使できる権利には雲泥の差があるのが実状だ。甲三はこれも差別だと思う。当然 人間に認められているべき権利が実質上は行使できないのであれば、権利が認められていないのと同じことなのだ。つまり差別とは程度問題なのかも知れない——個人が行使できる権利にどの程度の差が生じるところから許容できるかの。少くとも現状の社会では、能力に応じて賃金を差別することに異議を唱えるひとはいないし、ましてや恋愛対象や配偶者の選択が個人の自由に委ねられることには何の疑問の余地も挟まれることはない。甲三に引っ掛かっているのはその点だ。実は経済的平等などは寧ろどうでもいいことなのだ。甲三にとっては恋愛対象の獲得こそが最も重要な人生の意義であり目的なのだ。にも拘らず、甲三は能力的 付加価値的劣等によって、自らの恋愛感情を満たし得る水準の乙を獲得することは実質上絶望的なのだ。つまり甲三は、生まれながらにしてしあわせになる権利を剥奪されているようなものなのだ。そう、この一点を挙げただけで人間は生まれながらにして不平等なのだ。
最愛の伴侶を得ながら、法の下の平等だの共産主義を吐かすこと自体が既に本末転倒であり偽善である。
自らの欲求充足の上で最も深刻で深遠な部分だけは例外を認めつつ、それ以外の部分でいくら自らの欲求充足を譲歩した平等論を説いたところで、何の説得性もない。その意味では、親類が決めた結婚相手に対面するまでは互いのことを一切知ってはいけなといったある少数民族の風習の方が、相手の当たり外れが個人の能力差や付加価値差にはあまり依らない分、また相手の保存状態だけは誰にでも保障されている分、平等だと言えるのかも知れない。何が理想かは甲三自身にも分からない。財産共有の話に限定したところで、現状の全ての人々の財産を均等にならしたなら、今日の物質文化の大部分は消滅してしまうだろうといった見積もりもある。
その意味では、本の一冊あるいは音盤の一枚を生産するに要す労力や費用で、死ぬべきひとを一人ぐらい救えるのかも知れない。
勿論、巨視的に見れば、近代科学、特に医学の進歩によって命を救われた人の数は、
近代科学が生み出した殺戮兵器によって殺された人の数を遙かに上回るという統計
もある。
しかし、実際に
ある種の極限状況の中にあり物質文化とは無縁の人々にとっては、物質文化の維持と発展の為に消費される労力や費用は全くの浪費であり、
言わば殺人費用にしか映らないのかも知れない。
例えば、医学の進歩は人の寿命を飛躍的に延ばしたが、
その恩恵にあずかれるのは、一定の物質文化を纏うことのできた
一部の集団に限られるのかも知れない。
一方、そういう
最低限の生活水準が保障された人々は、何らかのかたちで物質文化に依存して生き甲斐を見出だし得ている場合が多い。全ての人々に最低限の生活水準を保障すると、少なくとも物質文化は消滅するとしたら——全ての人々が納得できる恋愛対象の宛がい方の組み合わせが存在しないとしたら——生物の生存本能が弱肉強食を前提に設定されている如く——人間の生存目的も不平等を前提に設定されているとしか言いようがない。もしこうした生きとし生けるものが、誰かさんの言うような超越的存在により創造されたものだとしたら、設計まちがいも甚だしい。偽善者たちは自らの文化的欲求充足への魅力の程度と、その間接的犠牲者たちへの同情の程度とのつり合い位置に漂っていれば済むのだ。甲三だってしあわせになりたい——他人を犠牲にしてでもしあわせになりたい——自らのしあわせへの魅力の程度の方が、他人への同情の程度よりも勝るからだ——つまり人間は、自分より不幸な人間の存在を知ってもしあわせになれるように出来ているのだ——だから甲三もそんなふうに、その実に人間的なやり方でしあわせになりたい——甲三よりも不幸なひとを犠牲にして。
乙三
甲零なんか乙三にはつり合わないから諦めろ とある乙に言われた時、乙三はてっきり甲零は高嶺の花だから諦めろという意味だと取ったのだが、どうやら逆の意味らしい。つまり、甲零はその美貌を武器に手当たり次第に乙をものにしては一過性の快楽を得る道具として利用するのだから、乙三のような純真無垢な乙は甲零にとっては恰好の鴨であり、いいように遊ばれた挙げ句に捨てられるのが落ちだということのようだ。薄々勘付いていたことではあるが、そうした甲零の実態は、実際に被害を受けた乙の話を聞くうちにいよいよ明らかなものとなった。それは確かに乙三にとって甲零の負の付加価値ではあるが、乙三の甲零に対する恋愛感情を相殺するに足る訳ではない。というか乙三の恋愛感情を萎縮させるほどの負の付加価値が存在し得るということ自体、乙三には想像することができない。たとえ甲零が乙三を嫌いだとしても、あるいは甲零が死んでしまったとしても、乙三は甲零を諦められないだろう。つまり、乙三にとって甲零に遊ばれて捨てられたところで、それは本望なのだ。それなりにしあわせになれそうな自分の人生を甲零の為に台無しにされても、乙三は少しでも甲零に近づきたいのだ。どうしてそんなにも乙三は甲零を好きなのだろうか。いったい甲零の何に惹かれているというのか。甲零の全てか? 否、それは厳密ではない。顔か? それはあるかも知れない。それを合理化する為に他の要素も好きな理由だと思い込ませてきただけなのかも知れない。それならそれでいいではないか。乙三の恋愛感情がその手の美的感性に支配された「偽り」の感情でしかないにせよ、乙三は真の恋愛よりもこの偽りの方に魅力を認める種類の人間だというだけの話なのだから。乙三は自分の精神が納得するような人生を自分に提供してやることを考えればいいのだ。たかが一枚の絵画を手に入れる為に一生を捧げてしまうひとに比べれば、乙三の方がよっぽど普通の人間に近いし、また普通の人間に近い必要性自体がない。そもそも乙三の抱いている感情が恋愛感情である必要性もないし、乙三は一枚の絵画を求める如く乙三の感情を満たせばそれで良い。
甲四
甲四は自分の頭の良さを恨む。あるいは日常の中に自分より相対的に
愚かな乙どもしか見当たらないという現実を嘆く。厳密に言うなら、世の中が甲四とつり合う知性の乙によって満たされていることは特に必要な訳ではなく、甲四の言葉を理解し共感する能力を有し、且つ甲四が自らの一切を晒し切ることを躊躇わせる要素を持たぬひとが一人さえいてくれればいいのである。子供の時は親がその機能をほぼ完全に果たしてくれていた。親は全てに於いて自分を遥かに凌いでおり、自分の日常の全てを、無知の全てを、感情の全てを親に晒すことが、ある種の安堵感を成立させていた。しかし成長とともに自分の能力が親に近づくに連れ、あるいは家族以外の集団で獲得した羞恥心が発達するに連れ、親に自分を、特に感情を晒すことは、とても白けた恥ずかしいことと感じられるようになっていき、最終的には一般の他人同様、親に対しても自分の内面を晒すような真似はしなくなった。確かに甲四は、自分に降り懸かった困難を克服するといった能力の面では子供時代の親を遥かに凌いでいるし、もはや物事の判断に於いて他人の助言なぞ必要とはしない。しかしそうした自らの能力では対処できない苦難が一つある——孤独だ。子供時代、親に完全に縋り切ることによって獲得していた安堵感というものが、実は親の能力や性格以上に子にとっての親の価値の大部分を占めていたのだということを今になって痛感する。あの安堵感が絶たれているというだけのことで、これほどまでに孤独の苦しみに囚われる羽目になるとは思いも寄らなかった。普通の場合、この手の問題の解決は比較的簡単なもので、そのひとに自らを晒し切り縋りたいと思わせるような、またそれを許してくれる対象を一人 獲得すれば済むことではある。その機能を恋愛対象に求めることは、甲四の嗜好に於いて唯一の選択であり、平均的人間の生活様式とも符合する。恋愛対象として外見的および性格的特徴がある種の恋愛感情を喚起するに足る乙は有意数存在する。しかしその中で、「自らを晒し切り縋りたいと思わせる」乙というのには今のところ出会ったことがない。自らの内面を晒す気にさせるには、相手がこちらの内面をある程度以上 理解し共感してくれる能力を具えていることが必要であり、その為にはそれなりにこちらとつり合う知性を有していてもらわなければならない。ところがどういう訳か、甲四程度の知性ですら、それとつり合う乙の分布密度は激減してしまうのだ。
それが生物学的要因によるものとも思い難いし、
そうなってしまう社会的要因は色々と思い当たるが、とにかく
甲四はこの状況下での最適解を求めるしかない。せいぜい外見的 性格的特徴が喚起する恋愛感情が満たされた心地良さの中に安堵感の幻影を見出だそうか——しかしその状態が、付随して交合欲が満たせるとか家庭が築けるとかの付加価値も加味した上で、果たしてどれほどの安堵感を与えてくれるだろうか。
乙四
分相応、それでいいではないか。元々 甲二なんて乙四にはつり合わないんだし、甲二が乙四に動いてくるなんてことは有り得ないんだから、乙四は乙四に動いてきた甲九に靡けばいいのだ。でも万が一があるかも知れないって? 甲二が乙四を好きかも知れないって? それだったら甲二は動いてくるさ。現に甲九程度の付加価値しかない奴すら乙四に動いてくるのだから、あれだけの付加価値を有す甲二が乙に動くことには何の躊躇いもない筈だ。しかしこの場合の付加価値とは何だろうか。確かに甲二は多くの付加価値を有している。しかしそれら一つ一つの価値が、乙四が甲二に惹かれる理由だろうか。甲二が乙に動くに当たって躊躇いなどないと乙四に確信させる理由だろうか。付加価値の積分という意味では甲一の方が甲二を越えているのではなかろうか。そうだ。これで はっきりした。ひとの付加価値は積分で機能している訳ではない。外見の価値のみから見積もられる等級づけからの微小な変動を、他の付加価値が受け持っているだけだ。だからひとは先ず暗黙のうちに自分の外見の等級づけを的確に見積もっておいて、それを目安に相応する等級の母集団に恋愛対象の選択肢を設けているのだ。乙四が甲二を高嶺の花だと決めてかかるのも、正にこの外見の等級が違い過ぎることが最大の根拠だし、甲九で妥協する気になれるのも、外見の等級のつり合いに納得できているからでしかない。下らない。大体に於いて、外見というのはそのひとの内面を反映しない割には、ひとの美的感性に与える影響力があり過ぎるのだ。その意味では、外見による判断を非難しておきながら美容整形を否定するなんてのは、とんでもない矛盾だ。
外見に対する美的好みが十分に ばらついていない以上、
ひとが恋愛対象を内面で判断し得るようになる為には、外見の格差がなくなることが先ず必要条件だ。というか、必要十分条件になりそうだな。でもそれは、万人が一斉にしなければ意味のないことだ。畢竟、乙四は社会的非難を受けながら甲二が乙四に靡く可能性に賭けるよりも、甲九で妥協する道を選ぶのだ。
甲五
恋愛感情が芽生えた頃からその対象は甲だったような気がする。しかしその恋愛感情が満たせた例しは未だない。当初、甲五は異性を意識し始める年頃に同性を意識し始めている自分の方が、恋愛対象の獲得に於いて優位に立っていると思っていた。というのも、甲五の恋愛対象となる甲とは、既に甲同志の仲の良さが成立しているのが常だったからだ。しかし閾値の高い甲五の場合、どんな悩みも相談できるほどの友情を獲得済みの甲に対しても、結局 恋の告白だけはできなかった。やがて甲五はある種の危機感を覚え始めた。同性愛的嗜好を持つ甲は異性愛の乙よりも圧倒的に母集団は狭まる訳であり、更にその中で甲五のように純真な甲はましてや希少に思えてきた。甲五は今までそうした希少な甲をあるいはそうした希少な存在になってくれる甲を求めてきたが、それが悉く実現不可能なことのように思えてきた。大体に於いて同性愛者という母集団自体が既に純真さとは相容れない——交合欲の権化といった偏見が世間には定着してしまっている。下手に動いて自分の同性愛的性癖が発覚すれば、世間は甲五を正にそういう偏見の中の同性愛者と同一視してしまうのだ。
そんな危険を犯すくらいなら、甲五は普通の乙で妥協するさ——というかそっちの方が「健全」なのかも知れない。純真な甲の中に眠る同性愛的嗜好を目覚めさせて甲五に靡かせるよりは、甲五の嗜好を隠し切って普通の乙と一緒になった方が。否、勿論選択肢は何もこの二つだけという訳ではない——ただ甲五は今、ある異性愛者の甲を好きになっているというだけのことだ。——甲六は甲五との間に乙との間には成立し得ない完全な共感が成立しているものと思い込んでいる。甲五は甲六を騙しているのだ。所詮これは乙との間に成立する共感よりも更にたちの悪い単なる類似性に対する共感でしかない。甲六は自らに相応しい乙の不在を嘆き、甲五は自らに相応しい甲の不在を嘆いている。一体 何を目論んでいるのだ。甲六の共感に付け入って相思相愛の擬似体験をしようというのか。——甲六に漸近する過程に於いて甲六がこちらに靡いてくれればこちらの策略通りだし、ある一線を越えた時点で拒否されたとしても、その一線に達するまでの実現可能な擬似体験の最大値を享受できたということなのだ。
乙五
高等科の時だった。乙五は自分が乙六にある特殊な感情を抱いていることに気付いた。それは身近に甲がいないことに起因する乙への擬似恋愛感情だったのかも知れない。最初にそれを感じたのは乙たちと親しそうにじゃれ合っている乙六を見た時だ。乙六を取り囲んでいる乙たちが、乙五と同じような感情を下心を抱きつつ乙六に近付こうとしているに違いないという想念が、乙五を強迫した。しかし乙五は、あんなあからさまな直接的に感情を表現する方法では、寧ろ乙六が敬遠することをよく知っていた。現に乙六は乙から受ける異常な親切——弁当を作ってくれるとか、体操の時間に乱雑に脱いでいった筈の服がきれいに畳まれているとか——についての愚痴を、乙五にはよくこぼしてくれた。今思えば、あれは乙六の陽動作戦だったのかも知れない。乙六に話し掛けられることは嬉しかったが、それで舞い上がったのでは乙五自身、乙六が敬遠する種類の乙と同じことをやってしまい兼ねない。乙五は巧妙だった。乙六への信頼度を示すべく、自らの悩みを告白していったのだ。実際 乙六は、今思えば如何にたわいもない悩みだろうと親身になって取り合ってくれた。徐々に悩みの種類が内面的な深刻なものになるに連れて——乙五は「寂しい」とかその手の生々しい言葉をも、遂には乙六の前に吐ける域に達し——自然、乙六は乙六の方から乙五を抱きかかえてくれるようになった——成功だった——縦んば乙六の振舞の中に一切の恋愛感情が介在していないとしても、乙五を同情し慰めの為に抱きかかえてくれるだけで、乙五には至福の思いだった。もう一つ嬉しいことがあった。親しくなった乙五と乙六の仲を、学級じゅうの乙が噂し始めたのだ。というか、それは明らかに乙五に対する嫉妬だった。そうした噂の中に浸ることは、自分が本当に乙六と学級の乙たちが想像しているような関係にあるかのような心地良い錯覚を乙五に与えた。その錯覚を現実にしたのは、乙六の吐いた一言だった。乙六は今まで決して乙五の前に弱さを見せることはしなかったが、ある時、何の前触れもなく——寂しい——と呟いた。それは乙六にとっては最大限の譲歩であり賭けだったことだろう。乙五は安心して乙六を抱き締めた。
甲六
甲六は一貫して境遇への共感を求めてきた。しかし残酷にも、どうやらそれを乙に求めるのは不可能であることが判明した。例えば甲六程度の付加価値を有す甲六程度に純真な乙たちが甲六に共感できる程度の孤独な境遇を持ち合わせているかというと、悉く否なのである。特に孤独も知らずに済んできてしまったそんな乙たちに甲六の境遇を慰めてもらうのは——甲六の付加価値を当然の如く享受されてしまうのは——そんな偽善には——そんな屈辱には——甲六は到底 堪えられない。こんな話に共感してくれるような乙はいなくても、皮肉にも甲の中には多数の共感者がいるものなのだ。というか境遇の共感とはいっても、所詮 異性間ではせいぜい「対称な」対応関係にしかなり得ないが、同性間ではこれが完全に重なり得るのだ。例えば甲六は甲五に自分の分身を見るような気がする。付加価値、境遇——全てに於いて甲六とまるで似通っているのだ。この共感は正に甲同志——甲五と甲六でなければ成り立たぬ代物なのだ。しかしこの共感に浸ることによって得られる安堵が、心地良さが、果たして問題を全て解決してくれるだろうか——恋愛欲の代償になるだろうか。分からない。抑、恋愛感情の成立要因の中で共感の占める割合は大きい。つまり甲五に対するこの共感の気持ちが、一般的な恋愛感情と似た部分を有しているということなのか、あるいは甲六が甲五に対して恋愛感情を抱きつつあるのか——否、厳密に言うなら甲六が自分にそう「組み込み」したのだ——現状に適応して精神を保護すべく 甲五との共感に恋愛の代償を見出だそうとしているのだ。——同性との擬似恋愛を選択する上で、異性の外見的特徴にしか刺激されない恋愛感情や交合欲への未練を放棄しようとするくらいなら、何故に、境遇に対する共感の方を放棄して乙を選択しようとしないのか。しかも、現状の社会への適応の為には後者の方が遥かに有利な筈なのに。つまり甲六にとっては、屈辱とかの心理的苦痛を伴いつつ生理的には魅力のある恋愛欲だの交合欲を満たせることよりも、そうした欲求機構を利用する上で生理的には多少の不快感を伴いつつも心理的な共感が成立することの方が根本的に必要なのだ。
乙六
乙六は自分が乙から高等科学生特有の擬似恋愛の対象として見られ易いことを知っていたし、満更それが不快でもなかった。乙六は人前に自らの内面の弱さが露呈されてしまうことを悉く制してきたし、また乙六に気を寄せる乙たちは疎か甲にすら関心がないかのように装うことで、ますます乙たちから畏怖され崇拝されるようになっていた。そしてその状態は乙六にとって、自分の権威願望を擬似的に叶えてくれる実に理想的なものに当初は思えた。しかしそうやって権威を纏えば纏うほどに、乙六は権威願望とは相矛盾する、より致命的な欲求に支配されるようになっていった。ひとから畏怖される以上に乙六はひとに甘えたかった。権威を獲得する為に人前に弱さを晒さない主義を貫いてきたことを後悔すらした。といって、今更この権威を手放すこともできなかった。というか厳密にはそれらは両立し得ないことでもなく、私的に甘えさせてくれる特定の個人を一人 用意しさえすれば済むことだ。但しその選択には慎重にならなければならない。乙六に群がる乙どもの中から ましそうなのを見繕って手を付けていったのでは、それこそ乙六の権威は忽ちに失墜してしまう。乙六は乙六につり合う、他の乙たちも納得する洗練された乙を選ぶ必要があるのだ。その点、乙たちの中での乙六の権威を単に乙六の人間的信頼性の故と勘違いして乙六に相談を持ち掛けてくる乙五なんて、如何にも初で可愛い。問題は如何にして乙五をこの道に誘い込むかだ。というか乙五は本当に無邪気なだけなのだろうか。「寂しい」などとあまりに挑発的な言葉を発しつつ、乙六が精一杯 自制して軽く抱きかかえてやるのに身を任せてみせる乙五には、何の下心もないのだろうか。何れにせよ乙六は乙五が羨ましい。乙五が乙六にそうやって甘えさせてもらっているように、乙六こそ甘えさせてほしいのだ。乙六が突然 甘えだしたら乙五は一体どうするだろうか。単に無邪気なだけであっても、下心があるにしても、何れにしても乙六を甘えさせてくれるとは思うのだが……!
甲七
乙七が唯一創造神教徒だったとは……。今時の世の中であれだけ潔癖で純潔な乙もまだいるものなのかと希望を回復しつつあったのに、所詮 唯一創造神教徒ぐらいにしか純潔は求められないのか。漸く自分に相応しい乙と出会えたと思っていたのに、畢竟は幻影だったのだろうか。それで甲七は乙七を諦められるというのだろうか。乙七の無垢さを知ってしまった今、縦令それが唯一創造神教徒 故に保存されてきたものだとしても、仮にそれ以外の付加価値で乙七を遥かに凌いでいる乙がいたとしても、甲七には世間一般の乙の中に自らの恋愛対象を見出だすつもりはない。しかし乙七を諦めないことにしたとしても、甲七が克服しなければならない問題は大きい。乙七は神を信じているのだ。それも特定の価値観を伴う人格神としての神を。結局、最大の引っ掛かりは思想的な感覚の隔たりではなくて、単にその一点なのかも知れない。甲七は乙七に甲七のみを愛し崇拝してほしいのだ。それなのに乙七は、よりによって思想的にも道徳的にも甲七より優れているとは思えない唯一創造神教の神を一番目に崇拝しているのだ。挙げ句、甲七への愛は二番目というか、人間に対して抱き得る最大のものというに過ぎず、所詮、神への愛に比べれば遥か低次元にしか位置しないようなのだ。かたや甲七は乙七を一番目に愛し、それを自らの全ての行動の原動として設定しようとしているのにだ。何かが割に合わない。何れの乙を選択するにせよ、こちらが妥協させられる項目の方が多いような気がする。それが現状なら妥協項目のましな方を選択するしかないさ。どうせ保存状態は譲れないんだし。現に乙七を相当に好きになってしまってんだろ。もう決まりだ。それに乙七は「機械的性能」の方は悪くないから、甲七との対話を蓄積するうちに徐々に啓発されて、遂には信仰を捨ててくれる可能性もない訳ではない。仮にそうなったとすれば、その乙七は正に甲七が求め続けてきた理想の乙そのものではある。しかし「意識の相対性」ということを考えると、その乙七は甲七が好きになった今の乙七とは別人になりはしないかという点が引っ掛かる。例えば今の甲七は、今後の自分の人生に於いてどんな思想的感化や宗教的誘惑に晒されても、神を信じるようには決してなり得ないという確信がある。そんな甲七が乙七の感化を受けて万が一にも神を信じるようになったとすれば、それは甲七にとって精神構造の大変容であり、それだけの不連続で過度の有意差を与える変化を生じた精神が、今の「甲七」という意識の継続である自信はない。言わば、甲七が死んでその代り、乙七にとっての理想の甲が生まれたということのような気がする。甲七が恐れているのはそういうことだ。勿論、乙七には甲七を思想的に感化するだけの能力はない。寧ろその逆の方が心配だ。結局、甲七が乙七に認めている最大の付加価値というのは、保存状態だの機械的性能だのといったその手の乙七の属性などではなく、乙七を好きになり、乙七を思い続け、乙七とつきあってきたという——乙七という個人への愛着なのだ。だから縦んば、
乙七にどんな負の付加価値が付随したところで、今後どんな理想の乙が現れたところで、もはや恋愛対象を変更することはほぼ不可能な状態なのだ。だから甲七は甲七が好きになり愛着し続けてきた乙七を殺さないように、甲七にとっての乙七のどんな負の付加価値をも温存し続けなければならないのだ。甲七が好きになっていた時の乙七は、不運にも神を信じるひとだった。甲七は甲七が好きになっていた時の乙七に、甲七が好きになっていた時の乙七で い続けてもらう為に、それが甲七にとってどんなにつらいことでも、乙七には神を信じ続けてもらうのだ。
乙七
甲七はいいひとだ。乙七が今まであった中で明らかにいちばんいいひとなのだ。なのに甲七は信仰を持たない。あんないいひとが、どうして神を信じようとしないのだろうか。このままでは甲七は天国へ行けないでしまうのだ。何と惜しいことだ。神様は何故 甲七のような人格者に神を疑う試練を与えておきながら、かたや、たまたま気紛れで神を信じるようになった者なら悪人であっても寧ろ天国行きの資格をお与えになるのか。乙七には納得がいかない。どう考えてもひとそれぞれに与えられる試練の程度は全く異なるし、そうした試練に堪える能力にも個人差が与えられている。それなのに、大して試練に堪える能力もないのに与えられた試練が小さかった為にたまたま善人で生涯を終えたひとの方が、かなりの試練に堪える能力を持ちながらその能力ですら抗し切れない大きな試練を与えられたが為に悪人で生涯を終えたひとよりも、天国へ行ける資格を有すだなんて。神の意図は何か。ひとそれぞれに与える能力には差を設けても、それぞれの能力に相応した試練をさえ与えれば、全てのひとが辛うじてのところで救われて天国へ行けるのに。それでは十分な自由意志が与えられていることにはならぬというのだろうか。つまり自由意志とは、神自身が予測不可能な結果が生じるように条件を設定することなのだろうか。というか、個人に与えた能力でどの程度の試練に堪えられるかを神が配慮しない主義を貫くことなのか。ひとそれぞれに任意の能力と任意の試練を与え、神はどんなに手を出したくとも傍観に撤し、その中で与えられた試練に堪えられる能力を有するような「試練と能力の組み合わせ」になっていた者のみを選択的に天国へ招待するということなのか。ということは、残りの 与えられた試練に堪えられない能力しか有しないような「試練と能力の組み合わせ」になっていた者は、前者の「選ばれた者」が現世で自由意志を享受し来世で天国の至福を享受する為の犠牲としての存在意義しか最初から与えられていないのか。それが神の意図なのだとしたら、残念なことだが、世の中の仕組みがそうなっているのだとしたら仕方ない。乙七は運良く選ばれた自分たちの犠牲の一人となる甲七の為に、現世で享受し得る最大限のしあわせをできる限り捧げよう。
甲八
まさか乙一がまぐわいさせてくれるとは思わなかった。やっぱり乙だって本心は交合したがってるんじゃないか。もっと正直になれよな。乙一とこれからも時々まぐわいできるかと思うと嬉しくなるな。でも甲八はもっと初な乙ともまぐわいしてみたいんだな。乙一みたいな如何にもやりたそうなのじゃなくてさ。まあ、そういうのも甲八は確かに好きなんだけど、たまにはもっと新鮮なのも味わってみたいからさ。そういう意味じゃ乙八なんて見るからに初そうでいいな。どうせ乙八だって乙なんだから、乙一ほどではないにしてもまぐわいしたいとは思ってる筈だしな。それに乙八だって甲八のことは満更でもないんじゃないのかな。甲八に逢い引きのお誘いを掛けられたりなんかしたら、さぞ当惑することだろうな——内心は嬉しくてはしゃいでいるくせにさ。
乙八
そろそろ予感がしてきた。こうして狂うのだろうか。そりゃ確かに世の中には乙八を遥かに凌ぐ苛酷な苦痛の中に生きることを強いられている人々がいることは知っているが、そんなことは何の慰めにもならない。相対的には遥かに「まし」なんだろうしそんなことには興味自体がないけど、現に乙八は単に孤独だというだけのことで、もはや堪え難いほどに苦痛なのだ。乙八は最初、これが万人に共通の属性なのだと思っていた。人並みに恋愛対象を獲得できているようなひとたちは、こうした苦痛の存在自体に気付きすらせずに済んでしまっているから、乙八の悩みなんて白け過ぎて取るに足りないと思うんだろうけど、連中だって乙八と似たような境遇にさえあれば、乙八と同じようにあるいはそれ以上に孤独を苦しんだに違いないと——そう乙八は思っていたのだ。ところが、最近 乙八は自分とまるで似たような あるいは更に酷い境遇にありながら、さして孤独を苦しんでいないひとの意外と多いことを知って愕然とした。
どうやらひとの苦痛を適切に評価するには、少なくとも二つないし三つの視点が必要なようだ。つまり、周囲のひとに観測可能な——例えば環境上、健康上、生活水準上とかの——「試練の厳しさ」が即 絶対的な個人の苦痛の程度を表す訳ではなく、そうした外界からの ある試練に対してそれをどの程度苦痛と感じるかという言わば「感度」が違えば、見掛け上 同程度の試練であっても実際に個人が感じている苦痛の程度は全く異なってしまうのだ。更にはその感度を通過して増幅された内界の苦痛に対しても、どの水準以上の苦痛を拒否するかを規定するところの——つまり苦痛がその水準に達した場合には思考停止とか苦痛の表出とか発狂、失神とかの自己防衛機制が作動するところの——
「遮断回路のの設定値」にも個人差があるのだ。となると世の中で 得なひとというのは、見掛け上の試練が厳しく感度が鈍く遮断回路の設定値が低いひとということになるかも知れない。見掛け上の試練は厳しいから周囲のひとからは一見して気の毒な境遇に思われるが——実は感度が鈍いから本人にはそんな試練は大して苦痛でもないんだけど——遮断回路の設定値が低いために その大したことのない苦痛でも簡単に表出して苦しそうに振る舞うから——周囲のひとはあの苛酷な試練相応に苦しんでいるのだと勘違いして同情し思いやるのだ。かたや、乙八なんかは最も損だ。見掛け上の試練は取るに足りないし感度は過敏で遮断回路の設定値は高い。恋愛対象の不在による孤独の持続なんてものは、他のもっと強く訴えてくる 見るからの不幸の前には取るに足りないことだし、その取るに足りないことが今迄の人生で体験したどんな苦痛をも凌いで遥かに苦痛であり、そんな苦痛が持続する毎日の中で、乙八は狂うことも麻痺することもできずに、見掛け上は少しも苦しんでいるようには見えないながらも、この苦痛をこのまま隅から隅まで味わえてしまうのだ。そうか。分かったよ。遮断回路の設定値が低ければとっくに発狂していただろうものを。かわいそうに。もう苦しまなくていいや。遮断回路が苦痛を解除してくれなくても、乙八が解除してやるよ。どうせ見掛け上の試練の程度だけで、自殺の動機を軽薄視しやがるんだろうけどな——しあわせな方々は。
甲九
乙というのは誠に面白い習性を持っていて、甲が動いてくるのをただひたすらに待っているのだ。そしてその動いてきた甲の中から、納得の行くものに品定めするといった具合だ。その意味では、待ちくたびれたような乙ほど簡単に甲に靡いてきてくれるし、また まぐわいさせてくれる。とにかく甲九の場合、あまり容貌が良い方ではないから、果たして人並みに乙を獲得できるかという不安があったんだけど——こうした乙の有り難い習性のお陰か——取り敢えず手当たり次第に数をこなしていけば、甲九にはつり合わないような かなり上等の乙も割と造作なく引っ掛かってくるものなのだ。乙四だって本当は甲二のことを好きだった筈なのに、駄目で元々と思いつつ甲九が動いてみたら、いとも簡単に甲九に靡いてきやがった。やっぱり乙四も相当に飢えていたのかな。しかし甲二みたいな甲もまた実に不可思議な習性を持っているものだな。外面的にも内面的にもあんなに乙を惑わすような魅力を持っていたら——甲九みたいに苦労せずとも、一言 声を掛けただけでどんな上等の乙でも二つ返事でついてきてまぐわいでも何でもやらせてくれるだろうものを——甲二の奴はまるで乙には動こうとしないんだからな。でも まあ甲二に限らず、甲九よりは「まし」な部類に属す筈の甲たちの多くが——甲零とかは別だけど——どういう訳か乙に動くのを躊躇ったりしてくれているからこそ、じらされて待ち切れなくなった上等の乙が甲九にも容易に靡いてきてくれたりする訳なんだけどな。なんだか知らないけど、世の中はなかなかうまくできているよ。
乙九
乙九は自分を客観的に見て、容貌的にも性格的にも知性的にもごく平均的な「普通」の乙の範疇には十分 入っているつもりでいたし、ごく普通に普通の乙がやるように生活してきたつもりだ。周りの乙が甲との恋愛沙汰を語り出すような年頃になってすら、乙九は特に不思議とも思わずに——つまり、自分にもいずれはそんな恋愛沙汰が訪れるに違いないと信じ切って——ごく普通に生活していた。しかし実際問題としてその手のことは全く起きなかったし、その原因もよくは分かっていない。実は人間の——乙の——付加価値というものにはある閾値が存在していて、その値以下では甲に対して何等の機能も有しなくなるのかも知れない——つまり、閾値以下の付加価値の「差」に対しては「まし」という概念すら認められず、一律に「対象外」ということになってしまうのかも知れない。十分に「平均」の中に含まれていると思っていた乙九は、際疾いところで閾値に達していなかったのだろうか。つまりこのまま同じように閾値に達し得なかった低付加価値集団の甲と、親達の面倒によって縁を取り持たれるようになるということなのだろうか。つまり乙九の恋愛は 結婚は、最初から屈辱を伴ったものでしかあり得ないのだ。乙九には恋愛を至上のものとして享受する権利が、最初から与えられていなかったのだ。下らない。そんな妥協だらけの恋愛を 生を、どうせ乙九は本能に負けて選択することになる。
甲零
甲と乙の違いというものをよく把握してしまえば、乙と深い関係になるのは比較的 簡単なことだ。大雑把に言ってしまうと、
甲にとっての乙の目的は交合欲だけど、
乙にとっての甲の目的は、よくて恋愛欲、
酷いのになるとせいぜい「おしゃれ用品」ってとこなんだ。
だから甲は、乙の恋愛欲を満たし、
あるいは乙の「おしゃれ用品」を十分に演じて
やりさえすれば、乙は比較的容易にまぐわいさせてくれるものなのだ。つまり、
愛してくれているのならまぐわいしてあげてもいいということらしい。一方、甲はまぐわいする為に愛してやっているようなものなんだけどね。こいつは滑稽な利害関係だ。甲はまぐわいという目的の為の手段として恋愛や恋人役を提供し、
乙は恋愛やおしゃれという目的の為の手段としてまぐわいを提供している。
一見これは双方に都合の良い利害関係が成立しているようにも見えるが、実はそうでもない。
甲にとっての恋愛感情は言ってみればまぐわいに対する香辛料のようなものでしかないんだけど、かたや乙は、甲と乙の恋愛の延長上にまぐわいがあるのだという幻影を信じていたりするから、どうも甲が乙を騙しているかのような構図になってしまう。
勿論、恋愛欲を備えてすらいないおしゃれ目的の乙の場合は論外だが、
純粋に恋愛欲から恋愛を至上目的としているような乙に対して、
甲零はその意味でしばしば良心の呵責を感じているのだ。甲零が乙に「好きだ」とか「愛している」と言うのは「まぐわいしたい」の婉曲表現でしかないのだけれど、乙の方は何か幼児の親への手放しの愛みたいな——例えば離れ離れになっていた親子が再開する場面で込み上げてくるもののような——甲零とかの恋愛感情とは違う、もっと深い「絆」的なものを求めているようなのだ。だけど、そのような恋愛感性を有す甲は——
確かにそういう 気持ちの悪い「甲らしくない」やつらもいるようだけれど
——そのような恋愛感性を有す乙の絶対数には遥かに及ばないだろう。だから仕方ないのだ。たとえ甲零にとってはまぐわいに至る煩わしい手続きでも、乙にとっては「相思相愛」の擬似体験なのだから、少しでも多くの乙にその深遠なる幻影を与え続けてやるのが乙への細やかな奉仕であり、それに気付いてしまった甲としての義務なのかも知れない。
乙零
乙零は生まれてこの方、ずっと自らの醜貌を憎み続けてきた。
この容貌を醜貌に決定してしまう、
大衆の美的価値観の幅の狭さを憎み続けてきた。
この醜貌が乙零の価値観や性格を反映したものだと思い込んでいる甲たちを憎み続けてきた。中にはひどい勘違いをしている甲がいるものだ。甲一なんかは、どうやら醜貌の乙は醜貌の甲を好きなものだと思い込んでいるのだ。如何にも詩作という共通の趣味にこそ惹かれたのだというように振舞い、またそう自分に思い込ませているようだけど、あんなのは偽善だ。自分と同程度の醜貌の乙になら取り合ってもらえると見積もっているだけなのだ。乙零だって醜貌の甲は厭だし、美貌の甲にはずっと憧れ続けてきた——特に甲零とかには。その甲零がよりによって誤解してしまっていて、乙零と甲一の関係が羨ましいなどと乙零に言ってきたものだから——乙零はそんな皮肉に完全に憤慨してしまって、甲一との関係を悉く否定して甲一のことを必要以上に けなしたばかりか——甲零のことを好きだと——どうせ甲零はこんな醜貌の乙は気持ち悪くて抱きつく気にもなれないだろうけど、乙零の方は甲零とまぐわいしたいとすら思っているのだと——そんな凄まじいことを——甲一なんかが聞いたら忽ちに失神しそうな端たないことを——怒り任せにすらすらと乙零は発したのだ。
大衆と共通する美的価値観を有する
普通の甲にとって、こんな醜貌の乙にまぐわいを迫られたりすることは、
さしずめ地獄絵図といったところか。
そんな地獄を甲零に見せてやっただけでも、乙零が今迄に体験してきた生き地獄には遥かに及びはしないから、こんな揚言も全然 大したことではないのだとか——平静が戻るに連れて押し寄せてくる自己嫌悪の処理に追われながら、乙零がやけくそに甲零を見詰め続けていると——甲零が発した言葉はまるで意外なものだった——乙零が甲零のことを本当に愛しているのならまぐわいでも何でも喜んでしたい——と言うのだ——あの甲零がだよ??? 一体どうなっているのだろうか。甲零にまぐわい以外の「愛」なんて概念があったのだろうか。乙零に対する同情だろうか。甲零に群がる「色魔」を相手にまぐわいすることに厭気が差したのだろうか。そんなことはどうでもいい。あの——この——甲零がまぐわいさせてくれるというのなら、どう騙されていようが乙零はそれを快諾する——勿論、乙零は甲零を愛している——と何度も繰り返し叫んだ。すると甲零は嬉しそうに乙零を抱き締めた。それだけでも十分に気が違いそうだったが、甲零とのまぐわいは——それ以上に——乙零にとって至極の快楽であった。そう、これは断言できる——甲一と詩作を論じ評し合っているときなんかよりも、甲零とまぐわいしているときの方が、遥か何百倍も何千倍も、乙零にとっては楽しく心地良い快感なのだ。
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