(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

ストラビンスキー——最も刺激的な音楽


Pri muziko de Stravinsky
El ĉiuj muzikoj, kiujn mi ĝis nun aŭskultis ` La rito de printempo ' verkita de Stravinsky estas por mi la plej stimul-dona muziko. Kaj la muziko ege ŝanĝiĝas dependante de ĝia direktanto. Miaj ŝatataj direktadoj por la muziko estas ekz. de Michael T. THOMAS, de Charles DUTOIT, de OZAWA Seizi ktp.
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目次
春の祭典——最も刺激的な曲
効果音的要素の演奏——指揮者による違い
春の祭典——推薦版
T. トーマスの「春の祭典」新録音とピアノ四手版(1999/9/3、00/11/27追記03/4/29追記: )
続く

以下は東北大学の電子掲示板 TAINSbbms に 1994 年 11 月頃に書き込んだやつに 加筆したもの。

春の祭典——最も刺激的な曲

 ストラビンスキーの曲の一つの特色は、不協和音や変拍子を多用した効果音的要素が、近現代音楽にしては非常に馴染み易い(数回聴いただけでその曲を思い浮かべられるような)音楽を構成し得ていることにあると私は考えています。

 (例えば新ウィーン楽派のセリー音楽などは極めて組織的形式的に 構成されているにも拘らず、よっぽど馴染みにくいものです。 その点、機能調性で作曲する原博には好感を覚える 。)

 馴染み易さという意味ではやはり三大バレー(春の祭典、火の鳥、ペトルシュカ)がお勧めですが、この三曲をどの順で聴くべきかというのは難しい問題です(因みに私は中学の時に火の鳥、春の祭典、ペトルシュカの順で聴きました。その第一印象としての衝撃の強さの10段階評価は、それぞれ8,10,4ぐらいでしょうか)。

 作曲順に軽く紹介すると(作曲背景は抜きで)、

 「火の鳥」(1910)はきれいな曲で、色彩的、叙景的、視覚的、強弱の幅が広いといった形容が似合うでしょうか。他の二曲よりは割と普通の(正常な)曲と言えるかも知れません(初めて聞いた時はかなりの衝撃を受けましたが)。全曲版よりは組曲版の方が馴染み易いかと思います。 

 「ペトルシュカ」(1911)は非常に透明感のあるシャワシャワした別な意味できれいな(上品な)曲ですが、最初は多少馴染みにくいかも知れません。他の二曲ほどには刺激的な箇所はそれほど出てきません。ピアノ版や二台ピアノ版もなかなか奇麗で私には心地良い音楽です。夏の暑い日に聴くと涼しいような感じが私にはあります。

 「春の祭典」(1913)は極めて刺激的な曲で、私は未だに刺激性という意味に於いてこの曲を凌ぐ曲には出会えていません。刺激性というのも難しいもので、音量が大きければ得られる訳でもなく、ビートが利いていれば得られる訳でもなく、雑音を増やせば得られる訳でもなく、それらの要素が、旋律的要素と巧妙に調和(止揚)して初めて得られるものなのだと私は考えております。

 中学の時分の私にとって「春の祭典」は殆ど麻薬音楽であり、毎日のように聴いていたものでした。これに飽きると他に刺激的な音楽はないものかとバルトークなどを貪り聴きましたが、打楽器的性格や変拍子性においては「春の祭典」を凌ぐものもあるものの、畢竟は「調性」や「旋律性」に関して馴染めず、その後も大学に入ってから思い出したように、刺激的音楽の探索を始めキングクリムゾンのようなプログレッシブ=ロックにまで手を出しましたが、私にとっては「春の祭典」を凌ぐ刺激にはなりませんでした。

 音楽技巧的には「春の祭典」などより遥かに前衛的な曲は五万と排出されてきているのですが、それらの殆どは(正に抽象絵画を私がいいとは思えないように)馴染みにくいものばかりなのです。

 前衛芸術は馴染みにくいのが通常だとすれば、「春の祭典」は(もう既に古典かも知れませんが)大衆受けするという意味で特異な存在かも知れません(恰も筒井康隆が前衛的でありながら大衆受けするように)。

 以上の私の偏った紹介を鵜呑みにされても困るのですが、それとは別にこの手の効果音的な要素の多い曲の場合には、演奏者によってまるで違った曲になるという問題があり、その点について、ちょっと述べます。 目次へ戻る

効果音的要素の演奏——指揮者による違い

 効果音的要素の多い曲というのは指揮者の解釈によってまるで違った曲になりやすく、また、その意味で指揮者の効果音的要素の扱いに対する美的感性を知る上での恰好の指標ともなります。

 その意味で「春の祭典」という曲は、効果音的な要素に対する指揮者の解釈が如実に反映される曲だと私は考えています。

 私が思うに一般に指揮者にはいくつかの型があって、

1)曲の中の効果音的な要素が、前後の音楽の流れの中に自然に違和感なく繋がるように巧妙かつ繊細にテンポ(伊 演奏速度)を揺らしたり強弱をつけたりする指揮者もいれば、

2)効果音的要素と雖も飽くまで旋律の一つとして楽譜に忠実に解釈する主義の指揮者もいれば、

3)多少の違和感や不連続性が生じようと大胆にテンポも強弱も揺らしまくる型の指揮者もいれば、

曲によってそうした態度が全く変わる指揮者もいるのです。

 私は概して1)型の指揮者が好みであり、特に「春の祭典」のような効果音的要素の多い曲の場合には1)型の演奏でなければ受け付けないところがあります。

 そんな私が今まで聴いた限りで気に入った「春の祭典」を順にあげていくと、T.トーマス/BSO > デュトワ/OSM > 小沢征爾/パリo. > > > バーンスタイン/NYP、バーンスタイン/LSO、アバド/LSOという具合いになります。

 カラヤンとかハイティンクは2)型だと私は捉えており、「春の祭典に関しては」どうもこの方々の演奏には馴染めません。尤も数年前にテレビでやっていたハイティンクの「春の祭典」はそういう「楽譜通りに演奏することによって生ずる違和感」が殆どなくなっていましたから、ロンドンpo.と73年に録音したものでなければ、いいのかも知れません。

 さて私の言う3)型の指揮者というのはストコフスキーやマゼールのことで(ピアニストではフランソワとか)、アンセルメやストラビンスキー(自作自演)も結構これに近いような気がします。

 ある意味では1)型や2)型の当たり障りのない解釈に対して、個性のある解釈とも言えましょう。

 既に曲を知っている人が一風変わった演奏を聴きたいというのなら、3)型も勧めますが、初めて聴こうという人には1)型を私は勧めます。

 というか私は個人的に、マゼールの「春の祭典」と「惑星」と「新世界」を聴いてから、どうもマゼールが肌に合わないと思うようになってしまっただけということではありますが。

 ところが、音楽雑誌の評ではむしろマゼールの演奏が推薦版などにあげられており、私の好きなT.トーマスなどは殆ど話題には上らないのです(最近rec.music.classicalを覗くようになったら、トーマスの「春の祭典」を一番に評価している人が数人いたので安心しましたが)。

 そこで私は、自分の音楽の好みというものが、音楽批評家たちの好みとはまるで異なっているのだいうことを実感するとともに、私の場合は音楽雑誌の評をレコード購入の際の参考にしてはいけないということを痛感したのです。

 中学のときバーンスタイン/NYP(57)の「火の鳥」を聴いて、その最初の方に出てくる効果音的な部分が、まるでシンセサイザーのようだと思い衝撃を受けたものです (実際、冨田 勲の「火の鳥」よりもはるかにシンセサイザー的な効果音を連想させました)。

 最初私は「火の鳥」というのは誰が演奏しても大体そうなのたと思っていて、当時来日していた(81年頃)ベームの「火の鳥」の公演をFMで聴いたら(今もその時のテープは持っているが)、例のシンセサイザー的な部分が、なんか、非常に違和感のある、ただの旋律になってしまっているのです。

 因みに、その時ベームが指揮したベートーヴェンの方はやわらかくてよかったけれども、演奏曲目には向き不向きというものがあるのだということを思い知らされました。

 その直後、友人が「一番いい」と言うところのアバドの「火の鳥」を聴いてみました。ベームよりはずっとバーンスタインの方に近いと思いましたが、それでも私には十分に違和感がありました。

 そのちょっと後、音楽雑誌で最高の評価を受けているブレーズの「火の鳥」 も聴いてみたが、これも結構私には違和感がありました。

 確かに人は、一番最初に聴いたものを一番いいと思う傾向は確かにあるとは思いますが、数年前に聴いたデュトワの「火の鳥」は、バーンスタインとは全然違った解釈であるにも拘らず違和感を感じませんでした。

 大学の教養部に通っていた頃のこと(だったと思うが)、あるレコード屋(サンリツ)に行ったらバーンスタイン/イスラエルフィルの「火の鳥」が流れていて、それはもはやニューヨークフィルの時の「火の鳥」の面影を全く見せない違和感だらけの「火の鳥」になっていました。店員が話をしたそうにしていたので「ニューヨークフィルの時の火の鳥の方が断然よかったですねえ」と言ったら、その店員は「ぼくはベームが来日したときに振った火の鳥が一番よかったと思うなあ」と言ったので驚きました。

 つまり演奏者、指揮者の好みというのは、野卑な譬えをするなら (これが一番わかりやすいので)、 異性に対する顔の好み(目の見える異性愛者の場合) と似たようなもので、人によって評価の重点を置く場所がてんで違うのだと思うのです。

 一つの類推として、例えば異性の顔の肌のきれいさを楽団の技術的うまさ、 目鼻口の形状や配置を指揮者の解釈に譬えてみると、私の異性に対する顔の好みと指揮者の好みとは、 美的感性の次元で共通している点が認められるかも知れません*。

* 演奏者の価値は美しい演奏をすることにあるでしょうが、 人間の価値は顔の善し悪しで決まる訳ではありません。 だから、これはあまりいい譬えではないことは分かっているのですが、 発想が貧弱なもので、他にいい譬えが思い付かないので、 ご了承ください。
   例えば、

 肌にしみがないとかきめが細かいということよりも目鼻口の形状や配置の方が 圧倒的に重要だと思っているが、目が大きい方がいいとか口が大きい方がいいといった 特定の好みはなく、どんなに個性的な顔をしていても構わないが、 目鼻口の形状とか位置とかが私の美的感性の適合条件を満たすような組合せに なっているときに初めて「きれいだ」と思う訳であり、この適合条件の個人差のことを 俗に「好み」と言っているのではないでしょうか。

 楽団のうまさがよく分からない私には、CDで聴くとみんなうまく聞こえるので、楽団の技術的うまさよりも指揮者の解釈の方が重要なのであり、テンポの揺らし方や強弱のつけ方がどんなに個性的であっても構わないが、私の美的感性の適合条件を満たすように、違和感を与えない、調和した、自然な流れの中で行なわれているときに「快さ」を感じるのです。

 つまりそういう意味で、T.トーマス、デュトワ、小沢征爾とか初期(60年代以前)のバーンスタイは、私の美的感性の適合条件を実に快く満たしてくれるのです。 目次へ戻る

春の祭典——推薦版

 私の推薦版は輸入版でしか手に入らないものだったかも知れません。

 T.トーマス/BSOの「春の祭典」は「カンタータ星の王」、デュトワ/LSOの「ペトルシュカ」との組みでグラモフォンの廉価版(1500円ぐらい)の輸入版で出ていると思います。

 バーンスタイン/NYPの「火の鳥」は「ペトルシュカ」との組みでCBSの輸入版で出ていたのですが、今はSonyのThe Royal Edition辺りから別の組み合わせで出ていないものでしょうか。

 大学生協などに時々現れる980円シリーズ には、カラヤンとストラビンスキー自作自演と、アバド(が最近でてきたのでしょうか)の「春の祭典」があるかと思いますが、これらの中では前述の理由からアバドのを勧めます。

 ストラビンスキー/コロンビアso.の演奏は(録音が悪いせいもあるでしょうが)、強弱の付け方やテンポの揺らし方が極端で、急に大きな音になったり、急に加速したりで、自作自演という付加価値はあるものの、音楽的には私には今一つ馴染み難いものがあります。

 カラヤン/BPOの演奏は、確かストラビンスキー自身が「この曲は原始的野生的に演奏すべきであって、あのように洗練された演奏は私が意図したものではない」とかと非難したというような話を聞いたことがありますが、「洗練された」というよりは音符を「機械的に音に起こした」といった印象を私は受けます。

 特に効果音的な要素の強い箇所ほどカラヤンの演奏では「かっちょわるく」なってしまいます(4分の11拍子の弦打楽器の連打のところとか)し、楽想が変わる毎に音楽の流れがぶつぶつ途切れているように私には感じます。

 そういう意味では、トーマス、デュトワ、小沢といった繊細な解釈の方がよっぽど「洗練された」という形容に似つかわしいと私には思えます。

 デュトワ/モントリオールSO.の一つの特色は、非常に鋭利な(特に金管が)実に明るい音を出すことです。

 これは使用楽器のせいか録音のせいか(マイクをたくさん使って楽器に近付けると鋭利な音になるそうな)私にはよく分かりませんが(そういえばハイティンクのショスタコもかなり鋭利だが、ロンドンレコードの音質だろうか)、時に私には多少耳障りに感じることもあります。

 尤も、フランスものや近現代ものの色彩的な響きにはそれがまた絶妙な味を生むという場合もあるでしょうが(参考までに)。

 トーマスは最も繊細な感性の持ち主だと私は考えていますが、「春の祭典」に関しては、この人には珍しくかなりの「刺激性」も有しております(ひょっとするとデュトワの「春の祭典」の方がその意味で繊細な演奏になっているかも知れません)。

 小沢征爾はこの二者よりは微妙にテンポを動かしたりする傾向がありますが、十分に「音楽的適合性」の中でそれを行っていると思います。

 バーンスタインは時々かなり大胆に音楽をいじるので、しばしば音楽的適合性から外れそうになるものの、あれだけ音楽をいじりまわしていながらあれだけ音楽的適合性を満たしていれば大したものだという感があります。

             ただバーンスタインの「春の祭典」(NYP,LSOともに)で気に入らない箇所が一ヶ所あり、Evocation of the Ancestorsの「ラーララソラソラーララソラ」のせっかくの「かっちょいい」ところがゆっくりと演奏されてしまっています。

 そういう意味では4分の11拍子の弦打の連打のところをゆっくりと演奏する解釈(カラヤン、マゼール、アンセルメもだったか?、ハイティンクもか??)にも許し難いものを覚えます。

 せっかく一番のクライマックスで「ラレ#ドシソラ#ラファミレ#ッダンダンダンダンダン..(ダン×11)..ラソッファ#ミレ#」といくことを期待しているのに、カラヤンとかマゼールでは「ラレ#ドシソラ#ラファミレ#ッ、、、じゃー、、、じゃー、、、じゃー、、、じゃー、、、..(じゃー、、、×11)..ラソッファ#ミレ#」という具合なのです(、、、は無音)。

 ついでだから一度でも聞いたことのある「春の祭典」に一言づつ加えていくと....

 中学の時に友達から紹介されて初めて聴いたのはショルティー/シカゴSO.でしたが、その直後に聴いたトーマスの方が遥かに気に入ってしまって、改めてショルティのを聴くとどうも違和感を随所に感じました。演奏としては標準的な部類に入るのだと思います。シカゴ響の巧さという付加価値があるのかも知れません。

 その時期にメータ/ロサンゼルスPOのが、FMで放送され、メータのことだからさぞ刺激的な演奏だろうと期待して聴いたものの、それほどでもありませんでした。4分の11拍子直後の「ラソッファ#ミレ#」の「ミ」の音がよく聞こえないのが気に入らなかった記憶があります。「適合性」の方はそれなりに満たしていたような...

 フェドセーエフのも大分前にFMか何かで聴きましたが、かなりあらっぽくて繊細さを欠き、気に入らなかった覚えがあります(ひょっとするとこれはドラティーの方だったろうか? ドラティーのはどうですか?)。

 友人が絶賛し、音楽誌でも特選とかになっていたシャイー/クリーブランドのは、私にはそれこそ「適合性」の面でかなりの違和感が感じられました。シャイーと私の感性との不適合性は、FMでやっていたシャイーの「カンタータ星の王」を聴いてますます確信しました(トーマスの「星の王」との比較に於いて)。

 アンセルメの演奏もかなりの評価を受けていますが、私には随所で違和感が感じられます。アンセルメの演奏では寧ろ「三楽章の交響曲」とかの方を勧めます。

 去年当たりのパシフィックミュージックフェスティバルでエッシェンバッハ(アッケンバッハ?)が指導し指揮した「春の祭典」は、かなり「洗練された」方の演奏だったと思います。

 映画ファンタジアで使われている「春の祭典」はストコフスキーの指揮で、ところどころでまるで違った曲に聞こえることがあります。その意味ではマゼールよりも大胆に曲をいじっていると言えますが、そういう(別の)曲だと思ってしまえばマゼールなどよりも寧ろ自然に音楽が流れて(繋がって)いるように私には思えます(ひょっとして、音楽の自然な流れをも音楽表現の可能性の犠牲にするというのがマゼールの思想なのだとすれば、それはそれでいいのですが)。

...と取り敢えずはこの辺にしておいて。

 演奏の特徴を定量的客観的に記述するのは困難で、現に音楽評論家の評を読んでもまるで私には納得がいかないことの方が多いのです。

 私は私自身の音楽感性にとって重要な要素である「音楽的適合性」といった指標を導入したい訳ですが、これとて価値観に依存する個人に相対的な指標でしかありません。

 つまり似たような感性を持つ人にしか通じない話を、大衆の感性の共通項に訴えても十分に成立するのではないかという幻影を抱きつつ、ついつい御託を並べてしまうのです。

 結局、私自身の結論は「自分の耳しか当てにならない」ということで、系としては「もし仮に自分と極めて近い音楽感性を持つ人を見つけたとすれば、その人の意見が参考になる」という程度でしょうか。

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T. トーマスの「春の祭典」新録音とピアノ四手版

1999年春。マイケル ティルソン トーマス(以下 T. トーマス)が遂に 二度目の「春の祭典」と初の「火の鳥」(全曲版)のCD録音を サンフランシスコ響を振って BMG から出した。 これは超お薦めの演奏である。 こんなにも繊細で粋でありながら、しかも刺激的 なストラビンスキーは、そうそう聴けるものではない。 私は絶賛する。 「春の祭典」に関しては 1972 年/ボストン響版と特に解釈は変わっていないが、 録音技術の進歩のお陰で音質は格段に良くなっている。 特に金管は、かなり鋭利な音になっている。 それにしても、なんときれいで刺激的な音なのだろう。 やはり T. トーマスは私にとって「別格」の指揮者であると再認識する。 よく、デュトワはモントリオール響を世界一流の楽団に育て上げたと 言われるが、サンフランシスコ響も T. トーマスにかなり鍛えられたのでは ないだろうか。

 ところで、ここの T. トーマス狂?っぽい人の頁 を見ると、なんと T. トーマスがラルフ グリアソンとかいう人と組んで、 二台四手ピアノ版(あるいは連弾版?) の「春の祭典」をLPに録音していたらしいのである!!!  これは知らなかった。 これは是非 聴いてみたい。CD化再版されないだろうか。 「春の祭典」のピアノ連弾版は、 こういう難曲 ですら初見でスラスラと弾けてしまうような 友人(N氏)と第一部の 弦の連打のところ(「春の兆しと乙女たちの踊り」)とか、 第二部の四分の十一拍子の弦打の連打以後のところ(「いけにえの賛美」)とかを 遊びで弾いたことがあるが(勿論、私の方はちゃんと弾けていないのだが)、 すんごく面白い痛快なピアノ曲である。 爪が剥がれるほどに強い打鍵で弾けば、日頃の憂さを晴らすには恰好である。 実は、某所である先生にピアノを習っていたときに、 この曲をその先生の生徒さんたち(子供たち)のピアノの発表会で 披露させて戴いたことがあるが、 子供たちには喜んでもらえたのではないかと思う(尤も顔を顰めていた 子供もいたことはいたが……)。 因みに、この曲をその友人とその某所 (主に大学生にピアノや生け花や英会話を教えている キリスト教系の文化会館みたいなところ) で熱心に練習していたら、なんと 「あの曲を聴くと気分が悪くなる人がいる」(?!!)という理由で 「演奏禁止」?!にされてしまったほどである。 1913 年だかの「春の祭典」管弦楽版の初演(モントゥー指揮だったか?)時に、 観客がパニックになって騒ぎ出したという逸話はあることはあるが、 ロックや電子楽器に象徴される よっぽど「刺激的な」音楽の溢れている筈の現代においては 何とも名誉な?話である。

続く?

00/11/27追記:
 ピアノ二台四手による「春の祭典」には、ペキネルきょうだい*の演奏がCD で出ていて、これはこれで面白い録音だが、先日、 ファジル サイがピアノの多重録音をした(らしい?) CDを見つけて買ってきた。 これは素晴らしい演奏である。 ペキネルきょうだいの演奏は、どうもゴチャゴチャしていて、 旋律が捉えにくいようなところがあるが、 ファジル サイの演奏は、 実に分かりやすく旋律(らしく捉えられそうな音符) を浮き立たせていて、リズム的にもノリがよく、 盛り上げ方なども絶妙である。 いい買い物をした。

* 通常、「ペキネル姉妹」と呼ばれて(訳されて?)いるようだが、 私は 不要な性区別を避けれるときは避ける主義 なので、敢えて「ペキネルきょうだい」と書いた。 というかそれ以前に私は「姉妹」という言葉は活字上では見かけるが、 日常で使われるのを聞いたことがない。少なくとも 石巻語では、「キョウダイ」という言葉は、 「男のキョウダイ」にも「女のキョウダイ」にも使われる中性の日常語だが、 東京辺りでは、子供に「シマイはいる?」なんて言って通じるのだろうか??  仮に通じるのだとして更に「シマイはいるけど、キョウダイはいません」!? なんてヨーロッパ語的性区別な用法が東京山手文法では まかり通ってしまったり するのだろうか???  更に更にひょっとして「兄妹(キョウマイ、ケイマイ)」とか「姉弟(シダイ、シテイ)」 のような言葉も日常語に登場していたりするのだろうか???  そういう文字上の区別習慣のせいもあって、 文字で「兄弟」と漢字で書くと、「キョウダイ」が男だけしか指さないかのように 誤解される恐れがあるので、フェミニスト関係?の誰だったかが推奨していたように 取り敢えずひらがなで「きょうだい」と書いておく。 とは言っても「おとうと」だって昔は女に対しても使えたのにな。

追記:飲み話に関連することを書いた。
03/4/29追記: ついに、T. トーマス/ラルフ グリアソンの二台ピアノによる「春の祭典」の CD (Angel 7243 5 67691 20) を手に入れた。 上の方で、ファジル サイのピアノ多重録音の「春の祭典」がなかなか気に入ったと 書いたけど、トーマス/グリアソンの「春の祭典」はそれを 優に一回り上回って気に入った。 まず、実に丁寧に弾いていて、 (他のピアノ奏者だったら) ゴチャゴチャしそうなところも実に細部(も旋律や輪郭)が明瞭に聴き取れるように しっかりと弾いている (ファジル サイは、残響が多いせいかペダルのせいか、そういうところが ところどころくぐもってしまっている)。 で、強弱のメリハリがすごくはっきりしていて (ダイナミックレンジが広いというか)、 繊細でありながらとても刺激的で躍動的だ。 そして、何よりも、リズムの動かし方が実に趣味がいい(というかかっちょいい)。 他のピアノ奏者だったら楽想がブツブツと途切れているように感じられるだろう ところもちゃんとつながった流れの中で自然に移り変わっていく。 私は、ペトルシュカに関しては管弦楽版よりもピアノ版の方が好きなくらいだったが、 「春の祭典」に関しても、トーマス/グリアソンの演奏を聴くと、 ピアノ版もなかなか捨て難いと感じる。 ストラビンスキーの「ピアノと管弦楽のための協奏曲」のピアノ版も なかなか躍動的でいい曲だけど、こんなふうな(意味で)躍動的で刺激的な ピアノ曲って、なかなか捜せないんだなあ カプースチンとかも違うしプロコフィエフとかも違うし、ジャズピアノとかも違うし……、まだ開拓してないけど、フィトキンとかはどんなかな……)

22/1/28追記:その後、ピアノソロの編曲の楽譜がSchirmer社から出ているのを 見つけて思わず買った。 どうがんばっても私が一人で弾けるような編曲ではないので、連弾譜と見比べながら、私でも弾けそうなぐらいまで、音符を減らして編曲してみた。 それでも、ぜんぜんちゃんとは弾けてないんだけど、まあ、ハルサイの雰囲気を個人で楽しむ用というか... (YouTube





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