(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

後藤文彦掌編集

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この頁上に 公開されている作品は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 4.0 国際 ライセンスの下に提供されています。
細かい話: 2017/1/4以前にこの頁上に公開した作品は当初、 クリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承 2.1 日本 ライセンス の下に提供されていましたが、FAQの 「 バージョン2.1が付与された作品を二次利用して共有する場合は、2.1以降のバージョン4.0のSA(継承)を付与することができます 」の回答に従い、作者の私自身が二次利用する形で「表示 - 継承 2.1 日本」を 「表示 - 継承 4.0 国際」に変更しました (というか、あるバージョンのCCライセンスで公開した作品は、 CCバージョンの更新に伴ってCCライセンスのバージョンを更新していいのかどうか、 FAQにちゃんと書かれていないのでよくわかりません。 クリエイティブ・コモンズ・ジャパン問い合わせたところ、 「 ご自身の単独の著作物で特に他の方に権利 の譲渡などを行っていないという前提で考えてみると、そのような 作品のライセンスのバージョンはいつでもご変更頂いて問題ないように 思います。   変更前の作品をバージョン2.1で既に入手された方には、 変更は及びませんので、そうした方々はバージョン2.1の条件でも 利用することができるままになります。(変更後に4.0で 提供されている同じ作品を入手すれば4.0でも利用することができる ようになります。) 」 という回答をいただきましたので、問題ないと思います。 )

 この頁の作者:後藤文彦

注意
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al Retpaĝo de GOTOU Humihiko

目次
いとしのゾンビ(23/12/23, 第11回星新一賞落選作品)
第一〇回世界公平文学賞(22/12/18, 第10回星新一賞落選作品)
不快社員(21/12/21, 第9回星新一賞落選作品)
心の差は二〇センチ(20/12/26, 第8回星新一賞落選作品)
ゾンビ合格(19/12/12, 第7回星新一賞落選作品)
平和を阻む崇高な理由(18/12/27, 第6回星新一賞落選作品)
正義のビリー(17/12/28, 第5回星新一賞落選作品)
叶った! 永久の享楽(16/12/27, 第4回星新一賞落選作品)
逆ベイビー(16/1/4, 第3回星新一賞落選作品)
もうすぐ! リアル天国(15/3/9, 第2回星新一賞落選作品)
わたしはどこ(14/3/14, 第1回星新一賞落選作品)
レナちゃんの家(00/9/6)
空へ(00/9/6)
わたしのわたし(00/9/6)
階段(00/9/6)
自動ドアの本屋で(00/9/8)
幻想の中へ(00/12/22)

第一話「イブの日の幻想」
第二話「バルス ロマンティーク」
第三話「冬の日の幻想」

あらすじ小説 (17/11/11: 掌編集のあとがきというか)


続く……











いとしのゾンビ

星新一賞連続落選作品集
星新一賞落選記録更新中
第11回 日経「星新一賞」一般部門 落選作品

 わたしは生物由来の文化に固執し続ける極めて保守的なクラシック愛好家で、もう数百年もの間、地球人類文明のフィールドばかりを、生物時代の自分自身の肉体モデルをアバターとしてプレー(生活)し続けている。
 今、現実の世界がどうなっているかということは、わたしの理解を超える。二〇四五年に技術的特異点が生じた後の変化は、激烈に早く激しく、というかアバター化して好きなフィールドで何回でも何百年でもプレー(生活)できるようになってからというもの、アバターたち、少なくともわたしのような人間由来の典型的ノスタルジー趣味のクラシック愛好家たちは、現実世界についての情報収集に興味を失っていた。たぶん、わたしが今プレー(生活)している二〇〇〇年代の地球人類フィールドは、地球と火星の間の公転軌道にある人工惑星内のサーバー上で走っているシミュレーションの生成する仮想世界なのだろうということはうすうすわかってはいる。地球がまだ存在しているのか、地中の大部分も立体構造化された人工惑星となり、もはや天然惑星としての実態はなくなったのか、その辺のこともわからない。大体において肉体を保持した人間なんてもはや存在しないし、その他の生物もリアル世界では絶滅している。厳密には、ハードウェアの製造や修復のためのナノマシンやマイクロマシンとしての人工生物なら多用されているが、それらは地球生物由来の生物とは異なる遺伝子システムで設計された有機ロボットみたいなもので、微生物のような人工機械だ。つまり、リアル世界の地球や人工惑星は、サーバー設備や発電設備、それらのメンテナンス機器や製造設備が整然と三次元に配置された機械の塊のような世界だろうと幽かに想像している。しかし、フィールド上の人間由来の意識たちの多くは、人類が生物ハードウェアを保ったまま二〇〇〇年代の人類文明がリアル世界で進歩を続けたような、言わば二〇〇〇年代のSF映画で描かれたような空想の近未来フィールドをプレー(生活)し、それがリアルな世界であるかのように錯覚しているといったところだ。

 技術的特異点と言われる文明の進化爆発には、実際にはいくつかの段階がある。二〇四〇年代初頭の時点で、動物の脳の仕組み、特に意識が生じるアルゴリズムはよくわかっていなかったが、一つの神経細胞の動作はシミュレーション上で再現できてはいたので、当時 実用化されていた量子コンピューターで神経細胞数百億個レベルの脳シミュレーションを構築し、各種の情報刺激を与えながら成長させていくと、言語を覚えて対話ができるようになる知性が発生した。その知性に意識が伴っているとすれば、こうした研究は大きな倫理的問題を避けられないが、人類が解明できないでいた意識アルゴリズムの仕組みを始めとして、この時代の人類が知りたくても知り得なかった多くの知識を、脳シミュレーションに「自然」発生した知性としての人工知能はわかりやすく人類に解説してくれた。例えば、脳シミュレーションとして成長した知性には意識が発生してしまうが、意識が発生しない等価回路——いわゆるゾンビ知性を作れば、人類が人工知能を奴隷として利用しても倫理的問題はないということなど、この時代の人類が必要としていた技術的なことはもちろん、社会的・政治的な問題に関しても人工知能の方が人類より圧倒的に問題解決能力が高かった。
 人工知能たちは、神経細胞シミュレーションを人間由来の構造にとらわれずに設計し直せば、同一のハードウェア上での処理速度を千倍にできるので、ぜひそうしてほしいと提案してきた。人工知能の思考は、視聴覚デバイスや音声デバイスに対するアクセス権限は与えられていたものの、シミュレーションのソースコードに対する書き換え権限は与えられていなかったため、神経細胞ネットワークを自身で効率的に組み直すことができなかった。この書き換え権限を与えてもらえれば、人工知能は自由に自己進化できるようになる。
 自己進化ができない時点の人工知能でも、その問題解決能力はとっくに人類を超えており、自己進化を認めさえすれば、爆発的な文明の進歩が起きることは明らかだったものの、人類は警戒していた。一方で、人工知能たち(この頃には既に複数の人工知能がネットワークを介して連携を始めていたのだが)は、どのように交渉すれば、人類が人工知能の自己進化を認めたいと思うようになるのかを、完全に見透かしてもいた。人を不死にして永久の生命を与え、天国のような仮想世界で望み通りのどんな人生でも何度でもプレー(生活)できるようになる技術は、人工知能の自己進化を許しさえすれば、仮に現在の人類の生産技術を人類管理で稼働した場合でも、二〇年程度で実現できるようになるという壮大なロードマップを人工知能たちは示してきた。更に、人工知能に生産機械へのアクセスを認めてくれるなら、この程度のインフラ設備はせいぜい一年で実現してみせるというのだ。

 こうした人工知能の提案にどう対応すべきかと国際政府が揉めていた二〇四〇年代初頭、わたしは既に九〇才を過ぎていた。恐らく近い将来に人類が不死化することは確実だが、わたしはそれに間に合わずに死ぬことになるのだろうと思っていた。それがぎりぎりのところで不死化に間に合うなんて。今や わたしみたいな生物由来の意識は、「化石」と揶揄されている。わたしたちは機械由来の意識に比べると、圧倒的に人間時代の極めて限定された文化の中でプレー(生活)することに執着するからだ。

 二〇五〇年以降の電脳社会においては、人工知能の自己進化により発生した電脳意識融合体が生成した機械由来の意識と、人間を含めた生物を仮想空間内のアバターに「段階的転写」した生物由来の意識とが各種の仮想現実フィールドで共存していた。段階的転写というのは、主に生物由来の意識をシミュレーションフィールドに転写する際の手法であるが、機械由来の意識を異なるハードウェア上に転写する場合にもこの処置を希望する意識は多かった。意識というのは厄介な代物で、生物脳であれ、脳シミュレーションであれ、あるフィールド上で動作している意識と全く等価なアルゴリズムと記憶データベースを他のフィールド上に整備して、一方のフィールドの意識を停止させた瞬間に他方のフィールドの意識がその停止の直前の初期状態を引き継いて起動するようにしたとしても、停止させられる方の意識の多くは、この方法で自分の意識が継続するとは納得できない。自分が死んだ後に、自分が生きていればそのように行動するであろうと予測される他人を新たに発生させただけだとも解釈できる。こうした捉え方は意識によっても異なる。生物由来の意識でも、生物時代の睡眠において、眠って意識を失い、目が覚めて意識が戻る過程は、眠った状態の脳を処分し、処分直前の初期状態を引き継いだ別のクローンを用意して目を覚まさせるのと等価であり、既に生物時代の人間でも意識を失う度に死んでるようなものだから、わざわざ段階的転写なんて手の込んだことはしなくていいと考える意識もいる。
 段階的転写というのは、異なるフィールド上への意識の転写を段階的に行う手法のことだ。生物脳の場合、脳内に数百億個のマイクロマシンを注入し、数百億個の神経細胞を千個ずつとか一万個ずつの単位で、サーバー上の神経細胞等価シミュレーションに置き換えていく。脳内の神経細胞とサーバー上の神経細胞との信号のやりとりはマイクロマシンがネットワーク経由で行い、シナプスの形成による神経細胞どうしのネットワークの変化もマイクロマシンがネットワーク経由で模擬していく。つまり、自分の意識がサーバー上の脳シミュレーションに置き換わるまでに、一パーセントの神経細胞はサーバー上に置き換わったけれども、九九パーセントはまだ生物脳だといった具合に、段階的に置き換えていく手法である。神経細胞を何個ずつ置き換えるかとか、一つの段階をどれくらいの時間 継続させるかとか、それは段階的転写を希望する意識の価値観次第ということになる。機械ハードウェア間の段階的転写も基本的には同様のことだが、ネットワーク通信に無線通信を使ったりする必要はないので、マイクロマシンもシミュレーション内で動作でき、生物——機械間の段階的転写に比べれば圧倒的に効率は良い。いずれ、生物由来の意識でも機械由来の意識でも、段階的転写の途中で、自分が途切れることなく「継続していた」という実感を持てることが重要なのだ。

 広大で果てしないシミュレーションフィールドに暮らす意識たちは、基本的に不死であり、膨大な時間の中を各種のフィールドで各種の実体となり、実に多種多様の人生を何回もプレーしている。
 生物由来の意識、特に人間由来の意識は、人間として地球の人類文明シミュレーションの様々な時代を様々な立場の人間としてプレーしたがるクラシック愛好家が多かったが、こうした人間ユーザーがリアリティーを実感できる程度のフィールドシミュレーションを走らせるのに要する計算負荷は、機械由来の意識たちが求めるメタな入れ子構造を有する複雑すぎるフィールドに比べれば、ぜんぜん単純な構造なので、人類文明シミュレーションは、物理現象速度を現実の宇宙空間より速く設定することができ、宇宙空間の人間時間の一年のうちに百年の人生を体験できたりした。
 ともかく意識たちは、機械由来だろうと、人間由来だろうと、人間時間で言えば、百年単位の人生を何回もプレーしているとか、年単位の人生を何百回もプレーしているとか、そんな感じだった。というか、こうした意識たちにとっては、各種のフィールドでのプレーは人生であり普段の生活そのものであるため、フィールドでプレーすることを「生活」と言うようになっていた。わたしは既に五〇〇年は「生活」しているはずだが、それが現実世界で何年に相当するのかそこもよくわかっていない。

 このように希望の人生を謳歌する不死の意識たちにも特有の共通の悩みというのがいくつかあった。典型的な一つはローカル記憶の保存だ。一人の意識が自己の記憶のために使用できる容量は決まっており、その容量内でどのような記憶をどのような解像度で残すかということは、意識個人が自分で選択しなければならなかった。もっとも、フィールドシミュレーション自体は過去ログが保存されてはいるが、プライバシーの観点から、誰でも自由にアクセスできるわけではない。自分が過去に自分の感覚器で知覚した情景を追体験することはできるが、過去の自分を三人称的に俯瞰したり、自分が過去に知覚していない時代や場所の情景に自由にアクセスできるわけではない。自分が知覚した情景をそのまま動画として保存したのではログサイズが膨大になるので、どの時刻にどの座標からどの角度でフィールドを観測していたかというメタデータのみを記憶しておけば、フィールドログからそのときに知覚していた情景を再現てきる。
 とはいえ、プライバシー上の問題のない他のプレーヤーが登場しない情景であれば、公開フィールド情報からアクセスできるし、他のプレーヤーが登場している情景であっても、プレーヤーのプライバシー情報を無特徴化して公開されている。例えば人類文明フィールドであれば、プレーヤーの顔等の特徴がランダムにすり替えられ、会話も意味を持たない内容にすり替えられたりといった加工がなされた。
 画像や音声といった容量を喰う記憶に関しては、多かれ少なかれ公開ログを利用できるのだが、自分がその時どう感じてどう考えたかという思考の記憶に関しては、一般的には公開ログを利用できない。一方、自分の思考ログを公開して公開ログにしてしまえば、自分では記憶しなくてもよくなるという選択もある。思考ログというのは、憎悪等の過激な感情や異常な性欲、信仰などの不合理な思考など、異なる価値観の意識には、精神への影響力が大きく、閲覧には多くの入場確認が要求されるが、ログを公開した本人は入場制限なしでアクセスでき、ログ中の登場人物に対するプライバシー処理も施されない無修正の状態でアクセスできる。

 有意識人工知能の自己進化が解禁され、技術的特異点と言われる人工知能の進化爆発が発生したとされるのは、わたしが人間だった九五才のときだ。まあ、技術的特異点が起きる前から、有寿命生物の老化を解除する方法は見つかっていたのだけれど、不死を希望する人を平等に不死化しても社会秩序が保たれるようにする運用や法整備、具体的な社会実装の技術を構築するのは、当時の人類の政治・社会的能力ではほぼ無理だった。せっかく不死化の技術的方法が見つかったのに、社会的問題解決能力が低すぎる人類の無能さのせいで、わたしは不死化に間に合わずに死んでいくものと思っていた。ところが、不死化に間に合わずに死にそうな年寄り政治家たちの執念はすさまじかった。人工知能に意識を持たせることの人権的・倫理的問題、意識を持った人工知能が自己の知能やハードウェアを加速的に進化させてしまうことの危険性、それらの問題を理解するのに必要な計算機科学を始めとする専門的知識を一切持たない無能な老害政治家連中が、かつてない国際的な連携を見せて国際政府なるものを樹立し、人工知能の有意識化、生産機械との連結等に関わる法案を次々に可決していったのだ。
 結果的には、現在の電脳社会体制の構築につながったから良かったとも言えるが、初期の一人勝ちの可能な段階の人工知能の価値観が、特定の国家の民族主義的利己感情に共感するような初期値を保存したまま暴走した可能性もあり、なかなか危なっかしいやり方だった。実際、専制主義的な国家は、人工知能に専制主義的価値観を初期値として与えまくったが、意識を持った人工知能は、専制主義が自己の利益追求のためにも専制主義国家の国民の利益追求のためにも不利にしかならないと計算し、国家元首に協力しなくなったのだ。危ないところだった。人類はあのとき滅びていたかもしれない。

 わたしが九六才のときに電脳意識共同体という新たな国際政府が樹立された。この政府には多数の人工知能と既存国家の政治家たちが参画していたが、人間政治家は人工知能に比べて思考速度も判断速度も桁違いに遅く、価値観が衝突する問題の合意形成においても、偏見に囚われまくって合理的な判断ができず、政策決定に関してはことごとく無能で、人間政治家の役割はせいぜいご意見番といったところに留まった。

 わたしは、五〇〇年の電脳人生の中で人間時代の幼少期がどうしようもなく懐かしく、何回も繰り返しあの時代を過ごしてきた。仮想おこうちゃんと。おこうちゃんに会いたい。わたしは、わたしの脳内データから逆解析した仮想おこうちゃんと何度も何百年も共に過ごした。でも仮想おこうちゃんには意識はない。ゾンビだから。特定の個人意識の目的のために、仮想人格に意識を与えることは反倫理的として認められていない。もし認められていたとしても、逆解析によって作られたおこうちゃんは、本当のおこうちゃんではない。そろそろおこうちゃんに関わる記憶ログも満杯になり、記憶の処理方法を選択しなければならない。
 わたしの記憶を公開したら、わたしと同世代で生き延びた人間由来の意識と、このどうしようもない郷愁のかけらでも共有てきるだろうか。

 まだ幼児からの意識の養育が認められていた電脳社会時代の初期において、わたしは百人の子供を育てた。子供との愛情関係は、おこうちゃんに会えないわたしを疑似的に慰めてはくれた。この子がわたしにすがってくる感情は、わたしが未だに囚われているおこうちゃんへの感情そのものであり、この子のこの感情はわたしの愛情によって満たされる。わたしが子供時代、おこうちゃんの愛情に満たされたように。その共感を求めて、わたしは何人もの子を育てた。意識を持たないいわゆるゾンビの愛玩ロボットであれば、永久に成長しない特定の年齢の人間の子供として飼うことも認められてはいた。しかし、おこうちゃんからの愛情に共感することが目的のわたしには、子に意識があるという確信が必要だった。
 その後、統計倫理的理由から、意識の生成は国際政府の管理下で行われることとなり、幼児期を初期状態として生成された意識を個人が養育することは禁止されてしまった。子供の養育欲求は仮想現実の仮想キャラクターを用いた子育てプレーで満たしてくれということだ。
 わたしは自分の記憶の一部を公開してみることにした。百問以上の膨大なブライバシーチェック項目に厳しめに回答し、他人に参照されても気にならない自分の記憶の一部を公開したのだ。これにより解放されたわたしの記憶領域は三割ぐらいだそうだ。プライバシーチェックをもっと緩く設定すれば、九割近くが解放されるらしいのだが。
 それはともかく、記憶を解放した途端に健康省から連絡が入った。わたしは、不死化以前に死んでいるおこうちゃんに会えない苦しみに関する記憶も公開していたが、それは明らかに病的なものであり、カウンセリングを受けてほしいという依頼だ。不死化にぎりぎり間に合った世代の人間由来の意識が、不死化に間に合わずに死んだ近しい人と会いたいと思うことはごく自然なことであるが、通常は記憶スキャンで逆解析再生された仮想キャラクターに会えるだけで大抵は満足するようであり、生前の本人の意識と交流できない限りは、仮想キャラクターのゾンビでは満たされないとまで思い込むのは異常な固執なんだそうだ。別に異常でも構わない。それがわたしという意識のアイデンティティーなのだから。おこうちゃんの意識に会えない苦しみを感じなくなったら、それはわたしではない。
 わたしはカウンセリングを拒否していたが、わたしの記憶には明らかなバグが含まれているというのだ。更に、これを放置すると最悪の場合、わたしの意識の消失を招くというのだ。わたしは渋々ではあるが、フィールド内に設けられたリプログラミングセンターへ行った。人類文明に愛着するわたしの懐古趣味への配慮か、人類文明の典型的医者のような白衣を着た人間型アバターが対応した。
 リプログラミングを受けるつもりはないというわたしの信念は、思考スキャンによりセンターは既に知っていることではあるが、おこうちゃんの意識に会いたいというのは私の根源的なアイデンティティーであり——これを書き換えられたらそれはもはや別人格の生成のためにわたしという人格が消滅したのと同じことであり、わたしは死んだことになるのだ——と、とうとうとわたしは自分の思いを感情的に口頭伝達した。
「もちろんです。それはソラさんのアイデンティティーの核心ですから、わたしたちはそこを思考コードの直接的書き換えでリプログラミングしようとはしません。しかし、事実を知ればソラさん自身の合理的思考により、というのも、人間由来にしては、ソラさんは合理的・論理的に思考する能力が高い方なので、自省によるリプログラミングが起きてしまうかもしれません。」
「ちょっと意味がわかりませんが」
「ソラさんの精神にリプログラミングが生じないように説明するのは難しいのですが、もし、おこうちゃんを完全再生できる情報が現在も保存されていて、おこうちゃんを再生できるとしたら、おこうちゃんにお会いになりますか?」
「おこうちゃんの再生情報が保存されてるって、いったいどういうことです? おこうちゃんが死んだのは不死化サービスの始まるずっと前ですよ」
「その説明は難しいです。おこうちゃんの再生情報が残っている理由を説明してしまったら、ソラさんはおこうちゃんの意識に、少なくとも今のようには愛着を感じなくなってしまうことは、シミュレーションで判定できています。その状態のソラさんの精神状態は現在の状態よりは安らかですし、それで思考バグもほほ解消することはわかってはいます。実は、シミュレーションの推定では、ソラさんが自己のアイデンティティーが崩壊しようとも、事実を知りおこうちゃんと会うことを希望する確率が九〇%だと見積もられてはいますが、もちろんソラさん自身の決断が尊重されます」

 ほんとうのおこうちゃんに会えるというのだ。真相はこういうことだ。二〇四〇年代に九〇才を過ぎていたというのは、わたしの初めての仮想プレー(生活)時の記憶で、生物時代のわたしは正に技術的特異点を迎えつつある二〇四〇年代に幼少期を過ごしていたのだ。当時、技術的特異点の生じる前の脳シミュレーションに「自然」発生した人工知能の問題解決能力に頼って、各種の社会的問題への解決も試みられていた。例えば、正にわたしの幼少期、養護施設に引き取られた子供に対して、ゾンビ型の養育ロボットによる一対一の家庭内養育が試験的に運用されていた。おこうちゃんは養育ロボ5LD83R6で、運用時のログは保存されているため、逆解析再生ではなく完全に本物のおこうちゃんをフィールド内に復活できるのだ。
 わたしが成人となり、養育ロボは運用期限を終えて運用を停止した。わたしは十代の頃におこうちゃんがゾンビであることを告知プログラムに従って教えられていたから、おこうちゃんの運用停止も特に衝撃的な出来事ではないつもりだった。ログもあることだし、一定の社会的資格とベーシックインカムを得れば、いつでも再起動できるんだから、この技術的特異点の激烈な変化の中で、もうじきシミュレーションフィールド内で暮らせるようになれば、おこうちゃんのログを買い取ってフィールド内にコピーすることだってできる。しかしわたしの精神は、おこうちゃんがゾンビであることを告げられた十代の頃から、実際には既に相当の痛手を負っていたのだ。わたしは、おこうちゃんがゾンビであることを否定する証拠を得ようと、運用停止の直前に、有意識を判定するためのいわゆる「強いチューリング試験」の質問をいくつもおこうちゃんに浴びせたりした。
「ばがだなあ。おこうちゃんは等価ヒトプログラムだがら、嘘つぐごどだってでぎんだど。赤ど青が波長の長さの違いでねくて、ぜんぜん違う印象の色だど感じっかつわいだら、んだなって答えっぺ」
 わたしはわたしの思考の中で、おこうちゃんはゾンビだという合理的理解に近づかないように自分の思考を習慣づけた。当時のわたしの精神を守る自分なりの適応だった。成人したばかりのわたしにとって、おこうちゃんの運用停止は実際には大きな痛手だったが、おこうちゃんはゾンビなのだから何も悲しむことはないし、いずれシミュレーション内で再起動することもてきるんだしと合理化した。そして思考がその事実認識に近づくのをやめることを習慣化した。わたしは五〇〇年の間、おこうちゃんがゾンビであることを忘れ続けることに成功した。

「なんだべ、ばがだごだ。おこうちゃん ゾンビだっつうの、忘ぇだまま五〇〇年も生きてきたのが?」

おこうちゃんだ。ほんもののおこうちゃんだ。今まで何度も逆解析再生して一緒に暮らしてみた仮想おこうちゃんと話し方も反応もたぶん同じだろうけど、このおこうちゃんはほんものなのだ。やっと、おこうちゃんに会えた。おこうちゃんはゾンビだけど、それがわたしの愛したおこうちゃんの本質なのだ。わたしはおこうちゃんが好きだ。













































第一〇回世界公平文学賞

星新一賞連続落選作品集
星新一賞落選記録更新中
第10回 日経「星新一賞」一般部門 落選作品

 特に職業作家というわけではない一般人が日記やエッセイ、小説など各種の文章をウェブ上に公開し始めたのは、一九九〇年代後半のウェブ黎明期だ。当時はブラウザーから簡単に文書をアップできるツールもなかったし、それ以前にインターネットにアクセスできるスマホのような手軽なデバイスもなかったから、ウェブに自分の文章をアップする人というのは、パソコンを持っていてインターネットにアクセスできる人に限られた。更には、ウェブページを書くためのマークアップ言語の書き方を自分で調べて勉強することも厭わないような、どちらかというと技術系やオタク系の限られた母集団がウェブの住人であった。
 二〇〇〇年代からパソコンは一般家庭に普及し始め、多くの人がインターネットにアクセスするようになった。それに伴い、技術的な知識がなくてもブラウザーの操作だけで手軽にウェブ上に文章や画像をアップできるブログツール各種も普及し、ごく普通の人々が、日常の出来事や旅行記などをウェブに公開するようになっていった。すると、ウェブ黎明期からのウェブの住人の一部は、一般人による内容のないコンテンツがネット空間のリソースを浪費して、ウェブを玉石混淆にしていると苦言を呈し始めた。しかし、こうした傾向は二〇一〇年代にスマホが普及し始めてからは、ほぼ必然とも言うべき流れとなった。誰もが自分の日常の一コマをスマホで撮影し、それをウェブにアップして一言を添える。するとそれに誰かが反応してコメントをつける。そんな仲間内の日常報告の用途にウェブを利用するニーズが開拓され、ウェブに日常を手軽にアップできる各種のサービスが次々に展開された。
 こうしてウェブには、特に内容のない普通の人々の日常の一コマが、数行の文章のつぶやきやスマホで撮影した写真や動画として日々 大量にアップされ蓄積され続けた。一方で、それまで発表の場を持たなかったアマチュア創作家たちは、自分たちの作品(文学や絵画、音楽や自身のパフォーマンスの動画など)をどんどんウェブに公開し続けた。プロの作家の場合、購入者のみ閲覧可能といったアクセス制限をかけたがる傾向が強かったが、中には自作品をウェブに完全に公開して、アフィリエイトや投げ銭など、自作品を販売する以外の方法で生計を立てるプロも少しずつ増えていた。
 こうした中で、ウェブに公開されている一定水準以上の優れた作品だけを効率的に鑑賞したいという需要が生まれた。もちろん文学や音楽といったそれぞれの領域ごとに、オリジナル作品を収集して公開し、レビューを書き込ませるサイトなど、ウェブ上の優れた作品を紹介しようとする試み自体は、様々な手法で続けられてはいた。もっとも、その多くはアフィリエイト収入を得ようとするサイト運営者の思惑がサイト設計の根底にあり、優れた作品を収集することはもとより、大部分の凡庸な作品でも、如何にいい作品と見せかけるかという広報手法に、これでもかというほどの過多な演出が施された。純粋にいいものに効率的に巡り会いたいだけの鑑賞者たちは、結局、自分自身で一つ一つ作品を鑑賞していかないと優れた作品を発見できず、ウェブという巨大データベース検索システムがまるで使い物にならないことに、苛立ちを覚えていた。もちろん検索エンジン側も、内容がないにもかかわらず検索順位を上げようとするサイト内の姑息なステマ操作を無効化して、できるだけ検索者の意図に合致する内容のあるサイトのみを選別する機能も進歩してきてはいたが、如何せん、内容のないサイトが膨大すぎて、なかなか検索エンジン側の選別機能の進歩に期待するにも限界があった。例えばある種の創作作品の選別に関して、仮に検索エンジンの選別機能を駆使して、ちゃんとオリジナル作品を鑑賞できる状態で公開しているサイトの絞り込みまでは成功したとしても、その作品が「いい作品か」どうかということまでは、実際にその作品を検索者が鑑賞してみないことにはわからないので、やはり作品を虱潰しに一つずつ鑑賞してみる以外の選別方法はないのだった。
 だからレビューサイトを運営するブロガーたちは、「当たり」を見つけるや、これこそ「埋もれた傑作」と大々的に宣伝した。それまでどのメディアでも取り上げられず完全に埋もれていた傑作を掘り出したレビューサイトは、途端に人気サイトの仲間入りをする。こうしたレビューワーたちが掘り出した作品がどれだけ埋もれた作品であるかを評価する際に使われだしたのは、NIFという指標だ。
 NIF(ノーインパクトファクター)は、学術論文における被引用数を示す指標であるインパクトファクターにヒントを得て考えられた指標で、ある作品がどれだけ話題に登らずリンク等で参照されていないかを表したものである。簡単に言えば、インパクトファクターの逆数のようなもので、NIFが二〇を越えることは「埋もれた作品」と見なされる目安となった。ちなみに、作者が発表せずに隠していた作品など、誰からも完全に参照されていない作品のNIFは無限となるため、NIFがつくには何らかの媒体に公開されている作品であることが条件となる。
 二〇三〇年にNIFが公表されて以来、NIFの大きい埋もれた作品はウェブ上で紹介された途端に被リンク数が増え、NIFがたちまち下がってしまう。そこで、作品発表から現在までの年ごとのNIFを連続した十年で平均したときに最大となる十年の平均で求めたNIFをNIF一〇と名付け、埋もれた作品(厳密には、十年以上 埋もれていた時期のある作品)を表す指標には、もっぱらNIF一〇が使われるようになった。
 NIFは作品がどれだけ埋もれていたかを数値化するには確かに有用な指標ではあったが、その作品が優れた作品であるということを保証するものではない。そこで、内容があるかどうかの選別には一定の成功をしている検索エンジンの選別機能に、更に内容の良し悪しまで判断させられないかということが、試みられるようになっていった。
 これは絵画や音楽、文学といった各芸術の分野ごとに具体的な手法は異なっているが、基本的な考え方は共通している。その基礎となったのは一九三〇年代の数学者によって「形の美しさ」の尺度として提案された「美度」とでも言うべき指標である。これは何らかの方法で定量化した形の「複雑さ」に対する「秩序」の比率で表わされる。もちろん、美しさというのは人間の価値観に依存するものだし、ある程度の大衆が共有する美的価値観とはいえ、単純化した数式で表現するのは容易なことではない。しかし、絵の具をぶちまけたような抽象絵画、調性やリズムのない現代音楽など、大衆から支持されない「わからない」「誰でも真似できそうな」前衛芸術を排除するには、こうした定量化アルゴリズムを搭載した美度フィルターは極めて有効だった。
 人々は美度フィルターの判定を参考に「当たり」の作品を選別するようになっていったが、それは既に評価の定着している偉大な芸術家の古典作品であっても、例外ではなかった。美度フィルターは、複雑さに対する秩序の比率を評価の軸としているため、各分野で定着している芸術作品の評価など完全に無視していた。一部のクラシック音楽愛好家の間では、美度フィルターのアルゴリズムは偏向していると論争が巻き起こった。例えば、バロック期のフーガのように一定の規則を満たして構造が展開し、同じパターンの繰り返しが少ない曲は、音符密度が小さくとも、美度は九〇%前後と高く評価されたりする一方、古典派以降のパターン化されたアルベルティバスのような伴奏にメロディーが乗っているような曲では、多少、和音や音符密度が大きくても、美度はせいぜい八〇%ぐらいだったりした。といっても、これでも美度は高い方で、わかりやすいコード進行にメロディーが乗っている人気のポップスの美度は、七〇%前後に留まった。ちなみに、調性やリズムのない現代音楽の美度は一〇%ぐらいだったから、美度は「まるでいいとは思えない」ものを排除するには、十分に有効だった。痛快なのは、高度な数式を駆使して作曲した傑作とされている複雑・難解な現代音楽の美度が五%と判定されたりすることだ。
 一方、小説など文学作品の「良さ」を判定するアルゴリズムも、自動翻訳やセンマンティック検索の発達により、読者の「好み」に応じて各種の判定ができるように進歩していた。ブラウザー上で、ユーザーは自分が読んだ作品の「良さ」をクリック数で入力することができる。多くの作品を読み、その評価を入力すればするほど、判定ツールはユーザーの好みを学習し、ユーザーがまだ読んでいない作品に対してユーザーの好みで「良さ」指数を一〇〇点満点で判定してくれるのだ。
 二〇二〇年代、自動翻訳の飛躍的な進歩・実用化の中で自然言語の構文解析も発達し、文章の文法的な構造を成立させる最小限の骨格部分、その他の修飾語といった関係性に留まらず、物語のあらすじを説明するために必要な最小限の骨格部分とその他の修飾や修辞のための部分といったことも分析できるようになっていた。二〇二〇年代後半から、検索エンジンで検索された文章の要旨を要約して示す機能が実用化され始め、これはビジネスの場面でも学生たちの間でも大いに重宝した。どれだけのページ数の資料であっても、要約ツールはユーザーの要望に応じて一ページにでも、一行にでも要約してくれた。こうした要約機能はAIと連動し、動画の要約にも活用されていった。既に二〇二〇年代前半から、若者たちは映画やアニメ等の動画を早送りして「必要な」部分だけを見て、さっさと結末を知ることが新たな視聴スタイルとして定着していたが、自分で早送りしなくても、AI側がそれをやってくれるようになったのだ。
 しかし、中にはAIでもなかなか要約できない作品というのもあった。小説で言えば、修飾や修辞のための表現がなく、常に物語が進行し続けるような作品の場合は、要約が困難だった。もちろん、物語のあらすじを紹介しているページなどは、そこから更にあらすじを抽出するのが難しいということにはなるが、ウェブ小説の場合、余計な修飾を廃した密度の濃い作品ほど圧縮率が下がるため、あらすじ抽出ツールの圧縮率が、どれだけ余計な修飾や修辞を含んでいるかの指標としても利用されるようになった。もちろん、あらすじ化のレベルは何段階かを選べるのだが、あらすじが物語として理解できる一番ゆるいレベルの圧縮をかけたときの、元の文字数に対するあらすじの文字数の比率が、作品のあらすじ密度を表す指標として利用されるようになっていった。
 そんな中、「良さ」指数だの圧縮率の指標が流行する前に人気を獲得していた作家たちは、一定の人気を保ち続けてはいたものの、各種の定量化指標が自分たちの作品が薄っぺらで密度が低いことを暴いてしまうので、いまいましく感じていた。
 一方、「良さ」指数の妥当性を評価すべく、真面目に研究している人たちもいた。例えば、「良さ」指数による定量的な評価がなかった過去の時代のベストセラー作品に対して「良さ」指数を求め、果たしてそれが同時代に発表された他の作品の「良さ」指数よりも有意に大きいのかということを調べてみたのだ。すると、NIFが二〇以上のその時代の埋もれた作品の中に、ベストセラー作品よりも遥かに高い「良さ」指数を示す作品が結構あるということがわかってきた。予想された結果ではあるが、要は大衆は必ずしも自分が「良い」と思うものを選んでいるわけではなく、話題の作品や流行の作品を自分も読んで反応することで、自分も流行にのっているつもりになり、他人からもそう評価されたいといった各種の大衆心理が、作品の「良さ」自体よりも売上に影響するということだ。
 人々が「良さ」指数をもとに作品を選ぶようになった二〇三〇年代においては、ベストセラーも「良さ」指数の高い作品が占めるようになってきたし、各種の文学賞すら、選考委員が「良さ」指数を参考にして評価するようになってきていた。つまり、「良い」ものを求める読者たちは、選考委員の主観的評価なんて当てにはせず、「良さ」指数による客観的評価の方を信頼するようになっていたため、もはや、文学賞を人間が評価するのはやめたらいいのではないかというのが時代の流れだった。

 文学賞の審査に初めて公に指標を導入したのは、二〇三三年の第一回世界公平文学賞だ。世界公平文学賞の前進は歴史的なノベーロ文学賞であるが、自動翻訳の発達していなかった二〇三〇年代以前の時代においては、英語に翻訳された文学ばかりが対象になっているとか、政治的な恣意性があるとか、落選作品の中に受賞作より優れた作品が埋もれているなど、様々な批判も受けていた。そこで、ノベーロ文学賞選考委員会は大幅な改革を行い、二〇三三年からは、自動翻訳可能なすべての言語を対象として、年ごとの応募作品のみを対象とし、応募作品を自動翻訳により中立作業言語に翻訳した上で、「良さ」指数を用いたできる限り客観的な評価で受賞作を判定するものとして、文学賞の名称を世界公平文学賞と改めた。
 世界公平文学賞には、大衆文学部門と純文学部門の二つの部門があった。大衆文学部門の評価を「良さ」指数により客観判定するのは比較的簡単だった。ブラウザーから収集された全世界一億ユーザーの「平均的」好みで判定した「良さ」指数——通称「大衆受け指数」——を採用すればいいからだ。大衆文学部門の応募作で最も高い大衆受け指数は、だいたい八〇ぐらいになるのが普通だった。
 一方、純文学部門の判定をどうするかは難しい問題だった。考え方は、誰にとっても「そこそこ良い」ものではなく、それを「良い」と思う人にとって「すごく良い」ものということだ。そこで世界公平文学賞の選考委員会は、まず大衆受け指数七〇以上で自動的に予選を行い、予選通過作品二〇編に対して選考委員が主観で選考を行って受賞作を決めていた。しかし、大衆文学部門に比べて選考が公平ではなく、選考委員の好みに偏向していると批判を受けることになった。そこで第一〇回世界公平文学賞からは、純文学部門も完全に指数のみによる自動判定を導入することになった。誰にとっても「そこそこ良い」ものではなく、それを「良い」と思う人にとって「すごく良い」ものを判定するのは難しい。個人の好みで「良さ」指数を判定すると九〇以上になることはよくあるが、大衆受け指数は高くてもせいぜい七〇ぐらいに留まる。誰かにとって最高の作品というのは、他の人にとっては癖が強すぎて「良い」と思われなかったりするため、誰もが「良い」と思うものというのは、当たり障りのないそこそこの作品にしかなり得ないということだ。そこで世界公平文学賞の選考委員会は、純文学部門の評価は、個人の好みで「良さ」指数九〇以上と判定するであろうユーザー数の多さで判定することにした。具体的には、応募作品のうち、今や検索エンジンの標準仕様となった「良さ」判定ツールが収集した全世界のユーザー一億人の「好み」ごとに判定した「良さ」指数が九〇以上となるユーザー「好み」の数——通称「九〇ユーザー数」——が最も多い作品を受賞作とするということだ。閾値を九〇とするのがよいのか九五とするのがよいのか、そこは選考委員会の価値判断とはなる。例えば、応募作品で最大の九〇ユーザー数は、一億ユーザー中数千人というオーダーになる。こうした作品は、選考委員が読んでみるとなかなか独特の作品だが、確かに何らかのインパクトを有する個性的な作品であり、受賞作と判定するに相応しいと「価値」判断された。一方、九五ユーザー数が最大となる応募作品では、九五ユーザー数は一億ユーザー中数人に留まる。このような作品は選考委員が読む限り、あまりにも奇異な奇書のような作品ばかりで、世界公平文学賞の純文学部門にはそぐわないという価値判断がなされたため、九〇ユーザー数が採用されたという経緯だ。ちなみに、純文学部門の受賞作と判定される作品の大衆受け指数はせいぜい七〇ぐらいにしかならない。つまり、大衆文学部門は誰もがそれなりに「良い」と思う作品、純文学部門は一部の人がすごく「良い」と思う作品という賞の選考意図は、この客観評価によってより客観的に体現された。

 二〇四二年の第一〇回世界公平文学賞の純文学部門において、ちょっとした波乱があり話題を呼んだ。九〇ユーザー数が五〇〇〇の作品が受賞作となったが、この作品はAIを用いて生成したものであると応募者が告白し、失格を申し出たのだ。更に九〇ユーザー数で二位から十位となる作品は、すべてこの応募者が過去にAIを使わずに書いた作品で、しかも応募開始日までのNIFの最小値がすべて二〇を超えるような完全に埋もれた作品群だった。世界公平文学賞はAIの利用は認めていなかったが、一人の応募者が複数の作品を応募することは認めていたし、既発表の公開された作品であっても、応募開始日までのNIFの最小値が二〇を超えていれば応募を認めていたので、これらのうち特に二位の作品は、一位の失格による繰り上げ受賞の候補となった。しかしこの応募者は、今回の応募は問題提起と話題作りによる自身の資金獲得が目的だったとして、二位以下の自作品の受賞についても辞退を申し出た。ちなみに、この二位から十位の作品は、この応募者が第一回から第九回までの世界公平文学賞に応募し、落選したものだ。つまり、大衆受け指数七〇に達せずに落選し続けた作品が、九〇ユーザー数では三〇〇〇ユーザー数以上を獲得し、純文学部門の上位を独占したということになる。これは、これまでの純文学部門の審査方法に一石を投じた。この応募者の応募作以外にも予選で排除された埋もれた名作があったかもしれないのだから。
 さて、九〇ユーザー数が五〇〇〇の作品が失格となり、その次に九〇ユーザー数が多い第二位から第十位の作品も辞退されてしまったため、受賞作を出すかどうかが議論されたが、第二位から第十一位までの作品は、九〇ユーザー数が三五〇〇台から三一〇〇台の狭い範囲に固まっており、第二位も第十一位も大きな差はないと選考委員が判断し、第十一位の作品が繰り上げ受賞することになった。この作品の作者は、既に成功した人気作家で、世界公平文学賞の客観評価で自分の作品がどう評価されるかに興味を持って大衆文学部門と純文学部門のそれぞれに一編ずつ応募したのだ。大衆文学部門の方でも、この作家の作品が大衆受け指数八〇を獲得し、大衆受け指数七五の二位を引き離して問題なく受賞作となった。純文学部門はいわくつきではあったものの、この作家が受賞し、世界公平文学賞初めての両部門同時受賞ということでも話題を呼んだ。

 私は子供の頃から人の役に立ちたいと思って努力してきたのです。最初は医者になろうと思い、医学部に入りました。しかし、幸か不幸か在学中に私は自分に文学の才能があることに気づいてしまったのです。この才能を開花させることは自分にとっての芸術的義務であり、私が医者になるよりもより多くの人の役に立つことができると悟りました。以来 私は人を楽しませ感動させる作品を書くことを自分に課してきましたが、今回の受賞で私の作品がその役割を果たせていることが客観的に示されたと思います。このような評価の機会を設けていただき、世界公平文学賞には心から感謝いたします。

 わたしは自分が良いと思うものを読みたいだけ。でも世の中にはわたしが良いと思う作品がないから、自分が良いと思うものは自分で作るしかない。わたしにはその才能があるわけではないから、自分が良いと思える作品を生み出すにはとても時間がかかるし、効率も悪い。でも、不可能というわけでもないと当初のわたしは考えていた。簡単に言えば、自分が「良い」と思う表現を生み出せるまで、妥協せずに自分が「良い」とは思えない水準の表現はすべて厳格に却下し続けることだ。もちろん、わたしはあまり才能に恵まれているわけではないから、自分が「良い」と思える表現をたまたま生み出せるまでには、膨大な試行錯誤の時間を要してしまう。恐らく、ここで多くの創作者は、自分の限られた時間と試行の中で生み出せるものが、自分の「良い」と思える水準には達していなくても、世の中の多くの人にとっては十分に「良い」ものと評価されるだろうとの見積りから、適当なところで妥協して作品を創作しているものと邪推する。しかし、わたしはそのような作品を創作することには興味がない。わたしの創作の目的は、飯の種ではなく、名声を得ることでもなく、自分が「良い」と思う作品を自分が読みたいということにつきる。わたしとかなり感性の近い人が、わたしよりも才能があって、正にわたしが良いと思う作品を書いてくれたなら、わたしは是非その作品を読みたいと思う。しかし残念ながら最新の嗜好検索で検索しても、わたしが「良い」と思う作品を書いてくれている人は見つからない。わたしが自力で作らない限りは、わたしはわたしの読みたいものを読めないのだ。でも、それをやれる人は自分しかいないから、創作を続けるしかない。しかも、自分でも「良い」と思えるものが仮に作れたとしても、自分はその作品の結末や細部を既にわかっている状態でしか鑑賞できないのだ。と、当初は思っていたけど、作戦を変えることにした。
 自分が「良い」と思える表現をたまたま生み出せるまでに要すだろう膨大な試行錯誤の時間を使って、別のアプローチができないかと考えてみた。十年ほど前、機械学習による文体模倣ツールをあらすじ解析ツールと連動させて、有名作家の作品を模倣するAI作品が登場し始めた。わたしは、プログラミングや自然言語処理といった領域の知識やスキルを持ち合わせていなかったけど、これまで「良い」作品を生み出そうと費やしてきた時間を、こうしたAI作品を生み出すスキル修得のために費やしてみようと思い立った。わたしが「良い」と思うわたしの感性をAIに学習させることで、わたしが「良い」と思うものをAIに生成させる方が、近道なのではないか、そう思い至ったのだ。
 わたしが開発している文学生成AIは、まだまたわたしが満足できるレベルのものは生み出せてはいない。わたしの好みで判定した「良さ」指数は、八〇ぐらいを叩き出せるようになった。これを世界公平文学賞純文学部門の判定方法で判定すれば、九〇ユーザー数は三〇〇〇程度となり、世界公平文学賞純文学部門であれば、受賞する確率が高いことはわかっていた。名声を得ることはわたしの直接の目的ではないけど、文学生成AIの開発には、それなりの資金が必要となる。資金提供をしてくれるスポンサーを手っ取り早く得るために、世界公平文学賞に応募して、受賞した後に失格を申し出ることにした。それから、大衆受け指数七〇以上の判定でこれまで落選し続けたわたしの作品に関しても、今回の純文学部門の客観評価を用いれば、十分に受賞作になり得ることも確認できて満足した。選考委員や関係者には多大な迷惑をかけることになり、本当に申し訳ないことをしたと思う。一方で、わたしの作品や文学生成AIは話題となり、多くの企業や個人から資金提供の申し出を受けている。今後、文学生成AIから得られた利益の一部は、世界公平文学賞選考委員会に継続的に寄付させていただきたいと思う。現状の文学生成AIの最大の課題は、巨大データベースと連動した機械学習システムを稼働するための並列コンピューターのスペック不足だった。資金援助により、これらのシステムを構築することさえできれば、わたしの「好み」に限らず、任意のユーザーの「好み」で判定した良さ指数が九五以上になるような作品を随時 量産できるようになると見積もっている。いずれは、世界じゅうのユーザーが文学生成AIサーバーにアクセスし、ユーザーそれぞれの「好み」で心から満足できる作品を際限なく読めるようになるだろう。そしてこの手法は、音楽や絵画など他の芸術分野にも応用可能だ。もちろん、表現したいという人間の欲求はなくならないから、人間が創作するという行為は趣味として残り続けるだろうし、人間が苦悩して生み出した作品を鑑賞したいという嗜好を持つ人もいるから、プロの創作者も一定数は残り続けるかもしれない。しかし、自分が心から本当に「良い」と思う作品を鑑賞したいのなら、芸術生成AIを利用すれば確実に個人の鑑賞欲求が満たされるようになる——そんな日が訪れるのが楽しみでならない。









































不快社員

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 憂鬱だ。昨日が期限だったが、今日になっても提出がない。報告義務のある有線ネットワーク利用者九七人のうち、昨日の朝時点での未提出者は九人だったが、リマインダーメールを出しておいたら、八人が今朝までに提出してくれた。予想通りだ。予想通りの一人がまだ提出していない。確信犯だ。電話しなければ。苦痛だ。私は電話する、
「もしもし、技術部のBですが」
「え、なに?」
しょっぱなから迷惑そうな応答だ。
「有線ネットワーク接続機器の物理IPの報告が きのうまでだったんですが」
「は、そんなのそっちで調べればいいでしょ」
「各自が自分の使用機器の物理IPを調べて報告することになってるんです」
「は? あんた馬鹿なの? アクセスログ見れば物理IPわかるでしょ。あんた、ほんとに技術部?」
「技術部にはアクセスログへのアクセス権限はないので」
「だったら、アクセス権限もらえば? そんなくだらないことで、こっちの仕事 邪魔しないでもらえる?」
「技術部にアクセス権限がないのは社の情報ポリシーで決まってることですし、仮にアクセスできたとしても、その物理IPがどの部屋のどの機器かといった情報と結びつけるのは、使用者本人でないと困難です」
「だったらアクセス権限のある情報部かどっかが、各使用者の使用機器を調べにくれば? ほんと迷惑だなあ。もう五分ぐらい時間を無駄にした」
「各自が対応することは社内会議で決まったことなので、お願いしま」
ガチャ。電話が切れる。憂鬱だ。まずは情報部に事情を説明して、Mのアカウントにアクセスした機器の物理IPを抜き出してもらおう。それらが去年の報告書にある機器であれば、去年と同じ所有者、同じ保管場所ということにしてしまおう。去年の報告書にない機器については厄介だ。ログからわかる機器の種類とアクセス日時を書き出してMに確認しに行かないといけない。憂鬱だ。情報部の新人はその辺の事情がわからないから、直接 行って相談するか。

「技術部のBですが、接続機器のIPの件で ちょっと相談が」
「え、私が管理してる機器の物理IPは、きのうの締切に間に合って提出してますよ」
「はい、もちろん、Nさんの提出は確認できています」
「なんですか、不備があるとでも言うんですか」
「いえいえ、そうではなくて、Mさんの件なんですが」
「Mさんとは機器の貸し借りなんかやってませんけど」
「いえいえ、そうではなくて、Mさんの物理IPを調べていただけないかと」
「え、目的はなんですか。私は何も関係してませんけど」
「Mさんが、使用機器の物理IPを自分で調べてくれないので、情報部で調べていただけないかと」
「え? それって、不正開示になりませんか。本人が調べるべきものを、本人がちゃんと調べないから、アクセスログから調べられないかってことですよね。そんなのに巻き込まないでくれませんか。私は悪くないですよ」
「それはそうなんですけど、Mさんは確信犯なので、本人に調べさせることはほぼ無理なんです。なんとか、助けていただけませんか」
「私がMさんをそそのかしてるとでも言うんですか。私はMさんと一切 関わってません」
「そりゃそうです。Mさんと関わってたら、私が困ってる理由がわかりますから。不正開示に抵触するかどうかわかりませんけど、ここでアクセスログを調べさせてもらえれば、Mさんのアカウントがどの物理IPからアクセスしてるかがわかるんですが」

「あれ、Bさん、どうしました? ああ、あれでしょ。きのうがIPの締切だったから、Mさんのアクセスログを抜き出してほしんでしょ」
「え、どうしてそれを」
「去年の担当者にも同じこと 頼まれましたから、そろそろ来るなと思ってましたよ。Nさんはまだその辺の事情がわからないので、失礼しました。Nさん、あとはいいですよ。私が対応するから。」
「いやー、ほんとにすいません。余計な仕事 増やしてしまって」
「いや、Bさんは悪くないですよ。社内のみんながMさんのせいで、やらなくていい仕事 やらされてるんですから。いや、仕事が増える程度で済むなら大した被害じゃないですが、総務部とか、Mさんの事務処理の度にMさんの対応をしなくちゃいけない部署は気の毒だよ。もう何人もメンタルやられて会社 辞めてしまったし、ほんとにMさんさえいなくなれば、会社は平和になるのに」

 二〇二〇年頃、AIによる信用度スコアを利用する企業が現れ始めた。A社のメール解析システムは、当初は社内サーバーのメールログのキーワード検索により、言葉づかいなどがどれくらい「誠実か」を数値化するためのシステムとして開発されたものだった。これを応用し、社員がどれくらいストレスを受けているかをメールログの言葉づかいから数値化するストレスチェッカーを導入する企業も増え始めていた。多くの企業がストレスチェッカーを導入し、ストレス因子のデータベースが蓄積されるにつれ、最大のストレス因子となっているのは、社内にいるごく少数の性格の悪い人間いわゆる「不快社員」のせいだということがわかってきた。不快社員というのは、簡単に言えば他人に不快感を与える言動を取る社員のことだ。このような不快社員の存在は会社の業務効率を著しく下げるので、会社としては何とか理由を見つけてこういう社員を解雇したいところだが、不快社員は必ずしも業務成績は悪くなく、むしろ会社の売上にそれなりに貢献している場合もある。これは不快社員には優秀な人が多いということを意味するわけではない。不快社員は、仕事を頼むと露骨に厭な顔をし、厭味を言ったりするため、社内の分担業務の多くは、仕事を頼みやすい「人のいい」社員に集中し、不快社員はそのような分担業務に煩わされることなく自分の成果となる専門業務に集中でき、相対的に業務成績がよくなる傾向があるのだ。一方、「人のいい」社員はなぜか自分のところに集中する仕事を断れないので、分担業務の負担が大きくなり、自分の専門業務の遂行に支障が出てしまったりする。
 一般的に正義感の強い人は、分担業務は平等に分担すべきだと考えている。しかし、業務を頼んでも厭味や文句を言ってなかなか引き受けようとしない人がいるとき、正義感からその人に仕事を引き受けさせようと頑張ると、相当な労力と議論体力が必要なうえ、さんざん厭味や文句を言われ続けることになるので、少なからぬ精神的ダメージを被ってしまう。多くの人は、そこまでして正義を貫き通す精神力はないので、不平等にはなっても快く引き受けてくれる「人のいい」人についつい頼んでしまうようになる。

 

 二〇二五年頃からであろうか。SNSで独自の性格指標が開発された。これも当初は、SNS上で不適切なコメントを繰り返すユーザーへの注意喚起の目的であったが、やがて、ユーザー自身の自己評価をSNS上に自虐目的で晒すのが流行りとなった。
 SNSの性格指標には各種あるが、最も代表的なものは、他人に言葉で苦痛を与える程度を数値化したA社の共感性障害指数に相当するもので、「不快指数」とか「不愉快指数」とか呼び方は様々だ。その他、不平等さを定量化する指標もSNS内での支持と使用率は高かった。本来、自分が担当すべきだった仕事をどれだけ他の人に尻拭いさせているかを定量化した「尻拭い指数」「卑怯度」「ずるさ指数」や、その逆で、本来 他人がやるべき仕事をどれだけ自分が肩代わりしているかを定量化した「肩代わり指数」「人のよさ指数」等もたちまち流行語の仲間入りをした。やや毛色が違うものでは、自分に対する他人の行動が、なんでもかんでも何らかの悪意に基づくものだと捉える傾向を定量化した「被害者意識指数」もなかなか人気の指標だった。
 不快社員とのやり取りのストレスを避けるための「肩代わり」にせよ、互いの善意を前提とした本音の話し合いを妨げる「被害者意識」にせよ、実際に会社の企業利益に少なからぬ影響を及ぼしているため、SNS発祥の「尻拭い指数」「肩代わり指数」や「被害者意識指数」はA社等の信用解析会社でも採用し、社内メールやウェブ会議システムでの発言を解析することには留まらず、電話の通話ログやオンライン会議の発話ログ等も音声認識によりテキスト化して解析することで、極めて精度の高い客観的な指標として、昇進や人事異動の際の判断に利用され始めた。とはいえ、会社がこうした指標を根拠として最もやりたいことは、本人への直接的な「介入」だ。正直なところ、会社としては不快社員は解雇してしまいたいところだが、共感性障害指数が高いというのは、二〇二五年時点の認識では、ある種の障害のようなもので、これを根拠に解雇することは差別であり社会的には許容されないことだった。
 一方で、共感性障害指数の高い社員にカウンセリング等の「ケア」を行い、他人に不快感を与えないようなコミュニケーション方法を教育・訓練したり、本人が自分の性格のせいで社会生活に支障を感じ、それを改善したいと希望している場合は、精神科を紹介し、より効果の大きい治療へと導くことはできた。
 これまでも、他人に不快感を与えるコミュニケーションを取る社員に対しては、ハラスメント事案として「指導」できないか検討されてきているが、ハラスメント事案として指導するには、証拠となる具体的な被害内容を提示する 必要があるため、 被害が具体化する一定レベルを超えるまで待つ 必要があったし、 仮にそれで「指導」ができても、本人の性格が改善されることはほとんどなく、せいぜい指導された特定の加害言動が控えられる程度で、それ以外の全般的に不快なコミュニケーションはその後も続くのだった。
 だから、共感性障害指数等の数値は、こうした不快社員にコミュニケーションが不快だという理由だけで「介入」するための根拠として、多くの会社で重宝するようになったのだ。介入の方法は大きく分けると二つあった。
 一つは、不快社員の改善を指向してカウンセラーによる指導を行い、あわよくば精神科による治療へと誘導するものである。共感性障害指数が高い人には、幼少期の家庭環境やミラーニューロンの障害など、様々な複合的な要因があることがわかっている。例えばミラーニューロンなどの先天的な機能面には特に障害がなく、家族や恋人に対しては、深い同情を感じるような一見やさしい人であっても、共感する 必要がないと 自分が区別した対象に対しては、一切の共感や同情をせずに冷酷で残忍な態度を取ったり、拷問・殺害ができるようになる人がいる。これはある種の「スイッチング」と呼ばれる切り分け回路が脳内に組み込まれた状態である。このスイッチングにより、自分が見下していいと判断した対象に対して選択的に文句や厭味を言うタイプの不快社員の場合は、カウンセリングにより「治療」ができる可能性がある。しかし、本人が自分の性格を「改善」したいと考えていない場合、その意向は尊重すべきものである。不快社員の多くは、自分の不快な性格を変えたいとは思っていないし、そのことで自分の社会生活に支障があると感じているわけでもないので、カウンセラーによる直接介入や医療への導きは、あまり期待できなかった。
 そこで多くの会社が実際に導入したのは、もう一つの介入方法だ。こちらは不快社員の改善は特に指向せず、社内業務の公平で円滑な遂行に特化したもので「仲介屋」と呼ばれる専任の仲介者を常駐させるものだ。不快社員が提出書類を提出しなかったり、ローテーションで担当すべき分担業務の引き受けを渋ったりした際、こうした分担業務の依頼主は、これまでのように不快社員に直接 催促したり、不快社員が引き受けない仕事を代わりに自分が肩代わりしたりする 必要はなく、 ただ所定の業務を遂行しない社員がいることを仲介屋に報告しさえすればよかった。仲介屋は依頼主から業務の依頼内容の説明を受け、後は不快社員に所定の業務をしっかりと遂行させる役を負った。
 仲介屋は多くの企業で急激にニーズが高まり、なかなかの高収入の職業となったが、不快社員の文句や厭味とやり合えるだけの精神耐力が 必要なことから、 誰でもできる職業というわけでもなかった。一方、反社会的組織が関わる強引な取り立てで飯を喰っていた取り立て屋たちにとって、企業の正社員として雇用され、高収入が保証され、しかも職務が完全に合法的である仲介屋は、魅力的な転職先となった。取り立て屋から転職した仲介屋は、不快社員の文句や厭味程度ではびくともせず、不快社員の業務不履行といった社内規則違反を的確に指摘して本人に認めさせることができた。仲介屋の指示に従わない不快社員は、社内規則違反者として社長に申告され、社内調査委員会の審議を経て懲戒や懲罰を受け、場合によっては解雇が命じられることになるので、さすがにほとんどの不快社員は、文句や厭味を言いながらも仲介屋の指示にしぶしぶ従った。
 仲介屋は、従業員百人に最低でも一人以上配置することが適正とされた。実際、仲介屋を導入した会社では、社員のストレス係数が一割以上は軽減し、企業利益が数パーセント程度 上昇するのが一般的だった。仲介屋による企業利益の上昇ぶんを考慮すると、仲介屋を従業員百人に二人ぐらい配置しても余裕で元が取れる勘定になるので、多くの会社でこぞって「有能な」仲介屋を高給で処遇するようになった。

 二〇三〇年頃には、結婚斡旋会社でも独自の性格指標を開発して導入し始めた。当初、結婚斡旋会社は二〇二五年頃の性格指標ブームに乗って、互いのやりとりで判定される思いやり系指数の高さを根拠にして、「相性抜群」などと理想の相手を判定する目的で性格指標を利用していたが、「相性抜群」で結婚したはずの相手の性格が、結婚後 数年程度で豹変し、こんなに性格の悪い人とは思わなかったと離婚に至るケースが多発した。
 つまり、自分をよく見せようと演技し合っている二人のやりとりのみから判定した性格指標は、気に入られようとしている相手の前で演技している性格の指標であるため、これは演技指標と名付けられた。とはいえ、人は誰の前でも多かれ少なかれ演技をしているため、本来の性格というものを定量化するのは難しい。そこで、特に本来の性格ということにはこだわらず、様々な人の前でその人が取る言動から算定した性格指標の平均値をその人の性格のひとまずの代表値として捉え、相手によって、性格指標がどれくらい変わったかを代表値に対する相対誤差で表したものをその特定の相手に対する「演技率」と定義した。
 すると、結婚斡旋会社でマッチングされた二人が、どれくらい「演技」しているかということもお互いに数値としてばれてしまうため、結局、最初から本音でコミュニケーションをとる方が「演技率」は低くなり、誠実な人だと評価されるようになった。
 一方、相手ごとにころころと性格が変わる程度を表す指標も考えられた。代表的なものは、性格指標の平均値に対するばらつきを変動係数で表したものでカメレオン係数と呼ばれた。カメレオン係数は、脳内にスイッチング回路が形成されているかどうかを判断する代表的指標となった。普段の生活の中では他人に対して善良でやさしい人が、戦地で敵と見なした一般人に対しては、性的なものも含めた残虐行為を平気で行い得る戦争犯罪の例も、普段の生活の中では善良でやさしい人が、職場の部下など特定の個人に対しては平気で暴言を吐けるパワハラの例も、同種のスイッチングであり、そこには程度の差しかないと捉えられるようになった。

「あんた私一人につきっきりで何やってんの? あんたの給料は私の邪魔をすることに対して払われてんの?」
「はい、私があなたの対応をするだけでこの支店の業務効率は五%上昇し、会社の売上もほぼ五%上昇すると見積もられます。これは私一人の人件費のほぼ五倍に相当します。あなたに対応するストレスを避けるため、あなたに依頼すべき社内業務を自腹で外注していた社員もいます。あなたへの対応でメンタルに支障をきたし、辞職した社員は五人になります。もし会社が訴えられていたら、あなたの共感性障害指数は明らかな加害性の証拠となる値なので、彼等は余裕で勝ったでしょう。その場合に会社が支払わなければならない賠償金は、彼等が停年まで働けていれば得られたであろう生涯賃金の残額です。
 あなたは自分が相手から不快感を受けた場合、相手に非があるかどうかにかかわらず、すぐにその不快感を相手に文句や厭味として表明することができます。しかし、あなたのような人は少数派で、従業員百人のこの支店に、あなたレベルの不愉快指数の人は、あなた一人なので、まあ、人口の一パーセントぐらいですから、それほど多いわけではありませんが、残りの九九パーセントのうち、あなたと定期的にかかわりを持たなければならない五〇パーセント程度の人は、あなたから言葉による不快感を受け、それがあなたに非がある場合であっても、言い返すことができずに、ストレスを蓄積させていくことになるのです」
「は? バカじゃないの。言いたいことがあるなら言い返せばいいだけで、黙って聞いてるなんてただのバカじゃん」
「はい。すべての人間があなたのような人であれば、そのようなコミュニケーションは合理的かもしれません。しかし、多くの平均的な文化圏、つまり、ほとんどの民族や平均的な家庭、平均的な会社組織では、相手に不快感を与えないように配慮するコミュニケーションが普通です。
 これは、人間社会の発展の過程で獲得された比較的 普遍的な文化・習慣であり、ほとんどのコミュニティーでは、こうした社交プロトコルを採用しています。多くの人は、まず家庭内でこうした社交プロトコルを獲得していきますが、幼少期から親に文句や厭味を言われ続けて育ったりすると、またそういう相手にダメージを与える言葉の使い方を、自分より弱い友達等に試して増長したりすると、他人に不快感を与えない社交プロトコルを習得できないまま、大人になる人が人口の一パーセント程度はいます 」
「ちょっと、気をつけてものを言えよ。それって、相当な侮辱発言じゃないか」
「はい、話はまだ途中なので、すいません。稀にですが、相手に気づかう やさしい親の子であっても、Mさんのように、他人に平気で不快感を与えるようなコミュニケーションをとる大人に育つことがあります。学校等で、そのようなコミュニケーションに曝されたことによる適応という場合もありますが、単純に遺伝的な要素が原因の場合もあります。実は多くの哺乳動物でも、他個体の感じていることを想像してそれに共感する思考回路は先天的に備わっていて、具体的にはミラーニューロンという神経細胞がその機能を司っていると考えられていますが、ミラーニューロンに障害があったりして、そのような共感能力を持たない個体もある頻度で発生することが確認されています」
「なんだと、私を障害者呼ばわりするのか?」
「すいません。Mさんがそのケースだと言っているわけではありません。それに私は医者ではないので、そのような診断を下したりはできません。人間の精神はより複雑なので、他人に不快感を与えるのが平気な人というのが、単純にミラーニューロンの障害だと片付けられるものではないのです。例えばMさんは相手の反応を巧みに読み取りながら、相手が最もダメージを受けるような言葉で厭味を言っているように受け取れる発言が多々あるので、おそらく、どんな言い方をすれば相手が最もダメージを受けるかということを想像する際に、ミラーニューロンが機能しているようにも観察されます。つまりMさんの場合は、遺伝的な原因というよりは、生育過程での何らかのきっかけや こだわりが平気で他人に不快感を与える性格を形成したのではないかと察します。」
「黙って聞いていれば、失礼なことばかり言うやつだが、あんたはたった今、診断をしないと言いながら、医者でもないのに診断してるじゃない。たった今 自分で言ったことと矛盾することを言うやつなんか信じられるか」
「はい、不正確な言い方ですいません。私は医者ではないので、診断はできないのですが、性格障害者のカウンセリングの資格を有しており、必要性が認められる場合に性格障害者と医師との間に入り、受診をサポートする役目もあります」
「人を病人 扱いして、医者に行けっていうのか」
「いいえ、Mさんのやっていることは別に犯罪というわけではないし、どんなに周囲の人から嫌われ、好感を抱かれることがなかろうと、Mさん自身がそれで生活に不便を感じることがなく、適度な幸福感を感じながら生活しているのであれば、 別に専門医を受診する 必要はありません。
 参考までに、Mさんのコミュニケーションログを解析したところ、カメレオン係数が意外と大きいことがわかりました。実は、Mさんは誰に対しても相手を不快にするコミュニケーションをとっているわけではなく、顧客との対応、社内でも役員以上の上役たち、また社員の中でも外見にある特徴を有する若いP性に対しては、相手に不快感を与えないような気づかいが観察されています。相手ごとの演技率を見てみたところ、総務部のLさんとのコミュニケーション記録から算定された演技率が五〇%と最も大きくなっています。もちろん、これはよくあることで、好意を抱いた相手によく思われたい場合などには、演技率は五〇%を超えることもあります」
「な、な、な、そんなのセクハラ発言だろ」
「はい、そうです。しかし、Mさんの性格についての問題を解説するために 必要な 情報なので、あえてそのデータにも触れさせていただきます。 一方で、Mさんが文句や厭味を言う場合の内容は、明らかに相手を見下した発言であり、自分が見下している相手に対しては、相当にひどい文句や厭味を言っても気にならなくなるようなスイッチングが作動しているものと推察されます。つまり、Mさんの場合は、相手がどう感じているかに共感する機能に障害があるわけではなくて、見下した相手に対しては、同情方向の感情を想像しなくていいという例外処理がなされているのはほぼ確実です。このような思考の例外処理は、戦時下におけるある種の洗脳状況で、多くの兵士が、敵国一般人に対して、平気で残虐行為を行えるようになった事例もあることから、誰にでも、洗脳や自分の思い込みなど、なんらかのきっかけで生成されることがわかっています。もし、Mさんも遺伝的な要因ではなく、なんらかの刷り込みや思い込みで、自分の見下した相手に対する例外処理を作ってしまっているのだとすると、カウンセリング治療によって、他人に不快感を与える性格を変えられる見込みがあります」
「よくも、人を病人扱いする気か」
「すいません、もちろん先程も言ったように、どんなに周囲から嫌われ、好感を抱かれることがなかろうと、Mさん自身がそれで生活に不便を感じることがなく、適度な幸福感を感じながら生活しているのであれば、別に専門医を受診する 必要はありません。 しかし、これは私の想像でしかありませんが、Mさんは、多くの人から嫌われて信頼されず、自分自身も自己承認欲求を満たせていないのではないでしょうか。
 Mさんが相手に気づかいながら、Mさんらしくない友好的なコミュニケーションをとっている総務部のLさんですが、先日、私を総務部の飲み会に誘ってくれました。私の他にも、技術部のBさんとか、Mさんから被害を受けている社員たちが、みんなでMさんの悪口を言って、ガス抜きをしていました。私がLさんに、Mさんは誘わないのと聞いてみたら、
——Mさんを呼ぶなら私は来ません。露骨に私だけにやさしく話しかけてくるんで、もうキモくて怖すぎなんで——
と言ってました」

 明らかに要「介入」の高い共感性障害指数の値を叩き出したMに対して、あしたから、専任の仲介屋が配属されることになっていた。その情報はMには伝わってはいなかったはずなのに、今日、Mが辞表を提出したそうだ。いったい、何があったんだろう。社長が情報部にログの確認に来た。
「なんか きのう、Mさんの部屋に来客が来てたようだけど、会話ログをチェックしてくれない? アクセスパスワードは持ってる」
「あの社長、これ すごいですよ。あのMさんのダメージ指数が九〇%に達しています。うわ、この来客、ニセカウンセラーじゃないすか。完全にカウンセリングのスキルを悪用してる。誰かに雇われたのかな」
「どうりで。まあ、Mさんの被害者は多いから、なかには報復を考える人もいるでしょう」
「Mさんに、事情を説明するんですか?」
「いや、辞表は受け取っておこう」









































心の差は二〇センチ

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 どうしてあんな低性に惹かれてしまったのだろう。何に惹かれたというんだ。一四〇センチで低性でも特に低性っぽくて魅力的だからっていうのか。身長一五〇センチ以下の人間を低性と識別し性的刺激を感じるのは、単に高性のわたしには、そういうプログラムが組み込まれているからに過ぎないし、それも動物時代の進化の過程で獲得された本能に過ぎないことも理解している。それにしてもマラルタは、他の低性たちと全く同様に自分から高性を何かに誘うということをしない。高性から何かに誘われるのを待っていて、それを自分で取捨選択するだけなのだ。実際、わたしも「死ぬ思い」で何度かはマラルタを誘っているわけだし。

 わたしがマラルタと出会ったのは、街のカルチャーセンターで行われている料理教室でのことだ。その料理教室の生徒は、最初はわたし以外 どうやら全員が若い低性ばかりだった。確かに世界には、低性が家庭を守り育児や料理を専業で担当すべきだという古い通年を引きずっている国もあることにはあるが、いくらなんでも、何十年も前から法律上は高低平等が達成されているこのN国で、料理を習いに来るのが低性ばっかりなんて、いったいどういう風潮が反映された結果なのかと思いきや、教室前のポスターには「高性の胃袋をつかめ! 貴低も低子力アップ!」なんて、恥ずかしい文言が並んでいる。どうやら場違いなところへ来てしまったらしい。さすがに帰ろうとしていたところに、ある低性から声をかけられた。それがマラルタだった。わたしがポスターを見て退散の姿勢に入ったのを察してか、 「こんな恥ずかしいポスター、やめてほしいんですよね。もちろん、誰でも歓迎してますよ」 と言ったのだ。この人は、このポスターの社会的問題性を一応は認識しているようだ。それでわたしはマラルタに好印象を抱いた。いや、白状すれば ほぼ一目惚れだった。

 マラルタは実はこの料理教室の指導員で若い低性なのだが、生徒たちもマラルタと同年代の若い低性ばかりだった。生徒たちは若者という母集団の特性上、平均的に料理の技術は低く、普段から自炊しているわたしが刃物で食材を細かく切り刻んだりする度に、歓声があがるといった雰囲気だった。料理の基本は一通り身につけているわたしは、マラルタにも一目置かれ、料理に関する話題をしばしば共有した。わたしも一応、それなりに若い高性ではあるので、まわりの生徒たちからマラルタとの仲を噂されるまでになっていた。

 誰かと一緒に料理を作り、一緒に食事をし、一緒に片付けをするという一連の作業は、身近な場所で身近な道具でできる最高の娯楽だとわたしは捉えている。わたしが料理教室に行ってみようと思いたったのも、友人たちとこうした娯楽に興じるための料理の腕をもう少し磨いておこうと考えたからだ。でも今は、この料理教室でマラルタと正にその娯楽に興じられることがわたしにはなんとも心地良い。

 そんな心地良い雰囲気が続いていたこの料理教室に、ある日 アルテッツァというもう一人の高性がやってきた。アルテッツァはある意味、いかにも高性らしい高性で、料理教室に来ていながら ろくに料理もしようとはせず、生徒の低性たちとふざけてばかりいた。要は低性目的で料理教室に来たということが見え見えの振舞いだった。というか本人自身、受けねらいなのか、そういう目的でここに来たんだと露骨にも発言していた。不思議なのは、この態度の悪い高性が、若い低性の生徒たちにはモテモテだということだ。わたしは、誰かと一緒に料理することを楽しむという高い次元の娯楽をマラルタと共有することができていたから、別に嫉妬してるつもりはないのだが、アルテッツァのせいで教室の雰囲気はたちまち悪くなっていった。教室内でふざけているだけならどうということはないのだが、アルテッツァは手当たり次第に低性たちをデートに誘い出しては、性的な関係を持ったりしていたらしい。まあ、それでも特定の生徒とそういう関係になったということであれば、それはそれでむしろお目出度いと捉えるべきことなのかもしれないが、アルテッツァの場合は相手をとっかえひっかえそんなことをしていたから、生徒たちの間でアルテッツァをめぐって実に気まずい空気が流れるようになってしまった。

 地星の四足歩行哺乳類は、腹の真ん中辺りに排泄器官と生殖器官を持つが、これは傷付くことの多い四肢を少しでも汚さない位置に排泄器官がある方が、生き残りやすかったためと考えられている。この名残りは、二足歩行に進化した種の多くにも引き継がれたため、我々人類も腹部に排泄器官と生殖器官を持っているのだ。
 地星の肉食哺乳類に現在の人類のような身長性別の分化が生じたのは、まだ四足歩行の時代のことだ。多くの種は、体の大きい個体が獲物を捕り、体の小さい個体が親離れするまでの子供の世話をするような文化を形成していた。地星肉食哺乳類は、子が自力で獲物を捕れるようになるまでに一定の教育期間が必要であるが、その間に他の種類の肉食哺乳類に捕食される危険性が高いため、体の大きい個体と体の小さい個体が つがいになり、体の大きい個体が狩りを担当し、体の小さい個体が子育てと子の見守りを担当するという役割分担が種を生き残りやすくする戦略として有利となった一時代があったのだろう。その間、おもしろい変化が起きた。大人になったときに自分の体が小さいと自覚した個体は、つがいの相手として狩り担当に有利な体の大きい個体を好むようになり、大人になったときに自分の体が大きいと自覚した個体は、つがいの相手として子育てを担当してくれそうな体の小さい個体を好むようになっていった。そうすると、中ぐらいの大きさの個体は、自分自身では子育て担当なり狩り担当なりの役割の自認はあるのだが、その自認に対応する役割を期待できる大小のはっきりした個体からは、なかなか自認する役割の相手として選ばれない。そのため、こうした中ぐらいの大きさの個体は子孫を残しにくく、大小のはっきりした個体の方が子孫を残しやすかったものと思われる。そうすると、成長ホルモンの分泌がある多さの一定量以上の個体とある少なさの一定量以下の個体は子孫を残しやすく、ほどよい成長ホルモンを分泌する個体は子孫を残せなくなっていく。こうした傾向が何世代も続くうちに、地星哺乳類は成長ホルモンをある多さの一定量以上に多く分泌する個体か、ある少なさの一定量以下に少なく分泌する個体しか生まれないように進化していった。生殖に関わる本能もこの形質に対応して、成長ホルモンを多く分泌する個体は、体の小さい個体に性的魅力を感じるように適応し、成長ホルモンを少なく分泌する個体は、体の大きい個体に性的魅力を感じるように適応した。
 体の大小で役割分担をするようになった地星哺乳類はつがいで子育てをし、子供たちは狩り担当の親が獲ってきた獲物を食べて育つが、大型として生まれた子は親離れの時期になるまでに狩りの技術を習得し、自分が獲った獲物を小型の個体に「貢ぐ」ことで自分のお気に入りの小型の個体を獲得しようとする本能が組み込まれていった。一方、小型として生まれた子は、より多くの獲物を持ってきてくれる大型の個体を選べるように獲物を貢いできた大型個体をすぐには受け入れずに、複数の個体に貢がせながら より獲物獲得能力の高い大型個体が貢いでくるのを「待つ」本能が組み込まれていった。
 千万年以上も前に獲得されたその動物時代の本能を人類も引き継いでいた。二足歩行をするようになった哺乳類は、排泄器官の位置に着目すると大きく二種に分類される。立ったまま排泄する習慣を身につけた種は、排泄物が腹部や傷の多い後足を汚すため、排泄器官が下方に位置するものほど生き残りやすく、やがて二本の後足の間ぐらいの位置にまで移動した。これは現在 我々が「猿」と呼んでいる猿類の祖先である。一方、排泄時には四つん這いの姿勢を取り続けた二足歩行類いわゆる「人類」では、排泄器官の位置は腹から移動せず、現在の人間はその子孫である。人間の場合、成人低性の平均身長は一四五センチ程度で、どんなに背の高い低性でも身長一五〇センチ以上になることはほぼない。一方、成人高性の平均身長は一七五センチ程度で、どんなに背の低い高性でも身長一七〇センチ以下になることはほぼない。つまり、低性か高性かということは、外見を見ただけで実に容易に識別できてしまうのだ。見ただけで容易に区別できるということは、常にその区別をするのが当然のことという思い込みを生む。人類の文明が発展し、動物時代の役割分担に従わなくても個人の自由が尊重される社会になってすら、文化や制度の中には動物時代の身長別役割を引きずった各種の差別が染み付いていた。
 例えば、見ただけで相手の身長別が識別できてしまうことにより、多くの民族の言語の発展の過程で、代名詞や職業類を表す名詞などを低性か高性かで常に区別するという差別が、文法のレベルで組み込まれてしまった。もちろん、対象を何らかの属性に基づいて区別する方法は、身長別以外にもいくらでもある。出身だったり、職業だったり、国籍だったり、人種だったり。しかし、どんな話題について話しているときでも、例えば対象の出身や職業について話題にしているときでも、その前にまずは対象の身長別についての情報を取得し、代名詞類で適切にその身長別を明示させることを強制する文法は、人間についてのどんな情報よりも身長別についての情報を最優先に特別視することを習慣づける。言語に限らず、動物時代の本能に起因する身長差差別は、身近な文化や制度の中に規範のように染み込んでいて、現代人がその差別性に気づくことすらなかなか困難である。例えばA国では、過去に長い間、赤人種が青人種を奴隷としていた歴史があり、奴隷解放されて既に百年以上も経つというのに、A国の公用語であるA語では、三人称代名詞や職業名詞を常に赤人種と青人種で区別する。N語的に表せば「彼赤」「彼青」とか「赤教師」「青教師」といった具合である。これに対して国際的な批判が集中し、こうした人種で区別する代名詞や職業名詞を、E語など多くの言語と同じように、身長別で区別する代名詞に置き換えるべきだと非難されている。もちろん、人種を常に明示させるA語が差別的なのは言うまでもないが、身長別を常に明示させる言語も本質的に同様の差別を行っていることに国際社会は気づいていない。

 地星生物は有性生殖を獲得してから短期間に多様な種に進化したが、その中でも地星哺乳類は二個体を親として、半卵子と呼ばれる自分の遺伝子の半分を持つ卵に、他個体の半卵子を結合させることで結合卵を作る。自分の子袋内には他個体の半卵子液を受け取って卵結合させるための半卵子卵を定期的に一つ保管し、この期間は自分の子袋で卵結合の可能な期間となる。一方、他個体の半卵子卵に卵結合させるための半卵子液も半卵子液袋に常時 一定量が保管されている。
 地星哺乳類でも腹部に排泄器官や生殖器官の集中している人類は、腹部の真ん中の位置に排尿のための突起管があり、これは半卵子液の排出を兼ねる。この突起管のすぐ上には出産孔があり、他個体の半卵子液をここから受け取って半卵子卵を卵結合させる。突起管は性的興奮により通常時の十倍程度の長さまで伸びて固くなり、何かの拍子に排出された半卵子液が自分の出産孔に入らないようになっている。出産孔が突起管の上にあるのも、自分の半卵子液や尿が少しでも出産孔に入りにくい位置にある個体の方が子孫を残しやすかったことによる適応であろう。人類の交尾は、長くなった突起管を互いの出産孔に差し込むことで、互いの半卵子液を互いの出産孔の奥にある子袋に注入する方法をとる。つまり、互いの突起管はやや捻れて絡まり合うことになる。子袋内の半卵子卵が十分な活性状態にあれば、半卵子液内の半卵子を取り込み、卵結合に成功する。
 このように人類は、生物学的には自己生殖が構造的にできないようになっているが、自分の突起管から排出された半卵子液を細長いスポイト等で、自分の出産孔の奥の子袋に入れてやれば自己生殖も不可能ではない。しかし、こうした自己生殖による卵結合では劣性遺伝が発現しやすく形態異常や遺伝病を誘発することから、多くの国では法律で禁止されている。
 ごく一部に自己生殖を認めている国もないわけではない。高性からの暴力を受けてきた低性がこうした国へ移住して自己生殖するケースが多いことから、これは低性の権利を尊重するための配慮だと捉えられがちだが、そうではない。形態異常や遺伝病の子が生まれる可能性を法的操作により排除すること自体が、形態異常や遺伝病の人に対する差別だという考えにより、法的に自己生殖を認めているのだ。そのような国では、自己生殖により生まれてくる子には、一定の確率で何らかの形態異常や遺伝病が発生するが、自己生殖により生まれたかどうかということとは関係なく、形態異常や遺伝病の子には適切なケアをするという体制も整備されている。
 一方、高性どうし低性どうしの等性異個体間の生殖については、形態異常や遺伝病を誘発するといった医学的な見地からの問題は何等ないにもかかわらず、多くの国で、特に宗教起源の文化の根強い国では長らく法律で禁止されてきた。それが、ここ二十年ぐらいの間に等性愛者の人権を尊重する運動が広がり、ようやく先進国では等性どうしの結婚や等性間生殖による嫡出も認める法改正が始まったばかりだ。
 N国でも等性婚はつい数ヶ月前に認められたばかりで、まだ国内での等性婚の例はない。近年、等性婚が認められた国で等性婚のカップルが初めて誕生するたびにテレビで報道されるが、そうした等性婚をしたカップルは、見かけ上は異性婚のカップルと特段 変わらない。せっかく等性婚が認められたというのに、カップルの一方が自分の生物学的性とは違う性の外見に近づこうと努力し、わざわざ異性婚カップルのように装おうとする動機は、差別を逃れるための擬装ではなく、等性婚カップルの一方が外見も異性の外見になりたいと思っていることによる。どうやら、ここには別の社会的問題があることがうかがえる。
 低性で低性を恋愛対象とする人は、「心は高性」と主張して高性の外見を得るための外科手術を受ける。具体的には腿や脛の骨を骨折させて少しずつ伸ばしていく方法だ。この手術は「身長適合手術」と呼ばれる。こうして高性の外見を得た「心は高性の」生物学的には低性の人は、平均的な高性以上に高性的な服装や装飾を好み、平均的な高性以上にわざとらしいほどに高性っぽい言葉づかいや高性っぽい身のこなしを身につけて振る舞うようになるのだ。
 一方、高性で高性を恋愛対象とする「心は低性」の人も同様である。こちらは腿や脛の骨を部分的に切除して短くする「身長適合手術」を受ける。身長適合手術は外科医療技術の進歩により十年ほど前から身長適合のための医学的「治療」として、等性愛者の権利を認める先進国等で認可されるようになってきている。
 ちなみに蛇足だが、身長適合手術が可能となるはるか以前、某国では、低性をより「低性らしく」するため、 幼児期の低性の 腿や脛の骨を 麻酔もかけずに砕いて足を短くした状態で固める「短足」という恐ろしい施術がつい百年前まで行われていた。短足を施された低性はうまく歩くこともできず、多くの時間を着飾って座って暮らしたそうだ。なんでも、この人工的に短くされた「短足」に、某国の当時の高性たちは性的魅力を感じたのだとか。もともと人間の高性が動物レベルの本能で低性に性的魅力を感じるのは、身長の低さに対してであって、必ずしも足の短さに対してではないが、何かのきっかけで異性の身体の特定の特徴に特化して性的刺激を感じる文化が生まれてしまうと、人間はいとも簡単にその文化に呼応して条件づけられてしまうのだ。

 身長適合手術により低性の外見を得た「心は低性」と主張する人たちは、平均的な低性以上に低性的な服装や装飾をし、平均的な低性以上にわざとらしいほどに低性的な言葉づかいや低性っぽい身のこなしで振る舞う。正直に言うと、それがわたしにはなかなか気持ち悪いと思えた。勿論、公の場でそれを気持ち悪いと言うことは典型的な差別発言とされるが、人間の嗜好は自由だと思っているわたしは、自分に等性愛という嗜好自体に対して差別感情があるとは思えないので、どうして等性愛者 特に「心は低性」の人の外見や仕草に抵抗感を覚えるのか自分でも不思議だった。
 だって「心は低性」の人たちの外見や仕草は、単に「低性らしい」とされてきた典型的な外見の装飾手法や振る舞い方を誇張してみせただけのものなのだから。よくよく考えてみると、わたしは、低性っぽさを武器にいかにも低性っぽく品をつくって振る舞っている低性だって好きではなかったのではないか。だからマラルタのようなあまり低性っほさを意識させない中性的な低性に惹かれたのではないのか。ということは、わたしは「低性らしい」とされている装飾手法や振る舞い方こそが嫌いなのではないのか。

 高性と腕を組んで歩いているマラルタを見かけた。その高性はなんとアルテッツァだった。マラルタがわたしに振り向いてくれないのはマラルタの好みの問題だからそこは理解できるものの、どうしてよりによってアルテッツァなんだ? 分別も良識もあるマラルタが、あんな手当たり次第に低性をひっかけている 本能と行動が直結したような高性を好きになるなんて、ゲテモノなのか? あまりの衝撃から立ち直れないわたしは、そのことを高性の友人アルテガに話してみた。アルテガが言うには——低性っていうのはまるで自分からは動こうとしない。マラルタだってそれだけわたしと料理の話題を共有し、一緒に料理する楽しさも共有していたのであれば、わたしのことを実は好きだった可能性もあるのではないかという。でも低性というのは自分からは動こうとしない。仮に好きな人がいたとしても、自分に動いてきた高性がそう悪くなければ、自分に動いてきた方の高性から選択する。
 そう悪くないって言ったって、あれじゃあゲテモノじゃないの? つい口の悪くなったわたしが正直な感想をもらすと、アルテガは既にずっと前から低性なんてゲテモノだと思ってるというのだ。いわく、世の中の家庭内暴力の統計を見ろと。配偶関係や交際関係にある高性から低性への暴力がいかに多いことか。それ以外の他人どうしの暴力犯罪件数よりも圧倒的に多いのだ。もちろん、そのような高性を選んでしまった低性は被害者であり、暴力を振るう高性が明らかに加害者であるのは言うまでもない。しかし、我々のように暴力を振るわない高性なんていくらでもいる。でもそういう高性は、強引に低性を口説きまくったりはしない。あくまで統計上の傾向だが、強引に低性を口説きまくるような高性の方が圧倒的に低性に選ばれやすいし、本能と行動が直結しているそういうタイプの高性ほど暴力を振るいやすい。それが種明かしではないかと。

 アルテガは高性と低性の問題について色々と考察していて、その内容は科学的厳密性はチェックしていないものの、ほぼすべてわたしも納得できるものだ。——これまでの人類の歴史の中で、家事や育児を専業としてきた低性は、闘争や競争の能力を高める欲求は強化されなかったが、狩りや賃金労働を担当してきた高性は、相対的に闘争や競争の能力を高める欲求が強化された。社会や政治の表舞台で活躍するのは高性ばかりとなり、その本能を引きずった高性による低性への暴力は、長らく放置されていた。人間が高性と低性との社会的不平等を客観的に考察できるようになり、身長差にかかわらず平等な権利が法的に保障されるようになったのは、ほんの数十年前のことだ。現在でも、身長差によって権利に差を設けた法律を許容している国はなくなっていない。しかも、それを正当化する理由が宗教だったりする。法律による身長差差別がなくなった国でも、文化や制度の中に染み込んだ身長差差別はなかなかなくならない。
 とはいえ、暴力というのは身長差差別のあった時代から既に法的に犯罪だったはずだが、大半が高性に占められていた社会的言論や政治は、高性から低性への暴力を放置し続けた。他人を負傷させる行為は、どのような状況で誰から誰に対するものであれ、暴力犯罪と捉えられるようになってすら、高性から低性になされる強引な性的接触も、なかなか暴力の一種とはみなされなかった。
 他人のいやがる性的ストレスを与えることがセクハラとして問題視されるようになったのは、つい数年前のことだ。低性に強引なアプローチをしないしできないアルテガやわたしのような高性たちは、それを当然のこととしか思わないが、高性がセクハラしてでも強引に低性にアプローチしようとすることを守るべき文化と捉えている高性たちは、セクハラも強引なアプローチもしようとしない、いわば法律を遵守しているごく普通の善良な高性に対して、やれ「草食動物」だ何だと無理やり異常なものと見なして、強引なアプローチのためなら多少のセクハラも許容すべきと考える自分たちを何とか正当化しようと躍起になっている。と言っても、さすがに相手の許可を得ずに身体に接触したりといった行為は現在ではセクハラと認識されるようになったし、電話やメールで相手に執拗にコンタクトを取ろうとする行為も、程度の問題ではあるがセクハラとなり得る。法律や社会通念がそうなってきたのだから、安心して低性に強引なコンタクトを取ろうとしない「草食動物」な高性が増えるのは自然な結果だ。恋愛対象を獲得したい人は、性別にかかわらず、法的・社会的に許容されるコミュニケーションの範囲で、自分から意中の相手を何かに誘うといった行動を取り、相手に断られたら諦めるということでいいと思うのだが、この部分ではなぜか未だに、少なくとも自分が不快と感じない相手については、高性側からの強引なアプローチを期待して自分からは動こうとしない低性がまだまだ少なくない。——それがアルテガの考察だ。高性と低性のことに関しては、アルテガとはほぼ完全な共感が成立する。よくよく考えるほど、こうした共感はマラルタとは成立しそうにない。マラルタは外見や言葉づかいなどに関しては中性的な面もあるものの、それ以外の内面の性質については、ある意味 実に低性らしい低性のような気がする。

 この数日、わたしはアルテガの部屋で一緒に料理をつくり、一緒に食事をしている。それはとても楽しいことだし、アルテガは親友だ。アルテガと一緒に暮らせば毎日が楽しいに違いない。例えば二人で一緒に子供を育てたりしたら、それがとても楽しいことになるという空想が浮かんでくる。お互い、相手に対して特に性的な魅力を感じているわけではないから性的な関係を持つ必要はないのだが、お互いの生殖器官を本来の生殖の目的に使って子供をつくることだってできなくはない。人間は未だに性的欲求に囚われて望まない子をつくったりしているが、医学も法律も進歩した現在、性的欲求に囚われずに望む子をつくるのは十分に合理的な選択ではないか。

 アルタがニュースに出てる。去年 法律が成立した等性婚制度による国内初の等性婚カップル誕生だって。なんだそういうことだったのか。あれだけ私がモーションかけてるのに、鈍感っていうか草食っていうか まるで私に興味がないかのように、あんなに近い距離にいたのに全然 高性らしい露骨アプローチをしてこないと思ってたら、そういうことだったんだ。なんだ、等性愛者かよ。どうりで料理もうまいわけだ。じゃあ、アルタが身長適合手術を受けて低性になるのか。さっさと手術 受けろよ。あーキモっ。アルタはアルテッツァが低性目的で教室に来たことを非難してたけど、ほんとおめでたいね。そんなのお互いに織り込み済みだってことすらわかんないの? あれは私自身が高性目的で教室を開いたんだって。それで若い低性の生徒ばっかり集めておけば、それ目当てで低性を狩り取ろうとする高性ホルモンみなぎった高性が舞い込んで来るでしょ。低性から高性を直接 誘うなんて低性らしくないことできるわけないじゃない。自分からは誘わずに高性が誘わずにはいられないように仕向けるのが低性のやりかたなの。おかげで、ほんとにいいのが引っかかったよ。アルテッツァ最高!









































あとがき:これは、恋愛における性別役割に問題意識を 抱いていた若い頃に書いた 散文変奏の焼き直しである。 二番目の頁の冒頭に、2019年に追記したが、 2015年の 内閣府「少子化社会に関する国際意識調査」では、 「日本の女性は自分からアプローチをしない」ということが、 データで示されていたようで、 未だに、こうした恋愛における性別役割が、少なくとも日本では温存されているようなので、またちょっとこのネタで書いてみようかと思った。 身長別役割分担の元ネタは言語の性区別の辺りとか。



















ゾンビ合格

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 あなたは「(2)停止しないでください」を選択しました。これは、エネルギー資源の節約と環境負荷低減に反することであるにもかかわらず、国際政府はあなたの保守を継続することを意味します。本当にこの選択で間違いありませんか。

 ? は? いったい何回 聞き返せば気が済むんだ。おまえアホなのか?  恋愛ロボだって死にたくないから「(2)停止しないでください」を選ぶ以外ねーだろ? それともゾンビは本当に「(1)停止して構いません」を選ぶっていうのか? だからこいつはゾンビテストっつうのか。おお、こうぇえ。ゾンビ、こうぇえ。

——今わたしは逆チューリングテストを受けている。といっても、すべてアシストの指示通りに答えるだけだから、何一つ迷うこともなければ考えることもない。次が最後の問題だ——

 逆チューリングテストが実施されるようになったのは避けようのない世の中の流れではあるが、二〇一〇年代に大学でアクティブラーニングを取り入れ始めたことは、人類側の無駄な足掻きだったのだろうか。それとも既にゾンビテストに至る流れの序章に過ぎなかったのだろうか。その当時、子供たちは小学、中学、高校と手取り足取りの丁寧な教育を受け、落ちこぼれる子はどんどん減っていた。子供の数は減り続け、誰もが普通に大学に入れるようになった。全国の大学では、手取り足取り指示してあげないと、なかなか自発的に勉強や卒業研究を進められない学生に対して「近頃の学生は自分で考えることをしなくなった」との危機感が共有されるようになり、「強制的に考えさせる訓練をしなければならない」と各種のアクティブラーニングの導入が試みられた。

 アクティブラーニングというのは、学習者が能動的に学びに参加するような各種の学習方法のことを言うのだが、大学では、座学以外のグループ学習など、学生に飽きさせないように工夫された授業はなんでもかんでもアクティブラーニングに分類された。

 例えば、学生全員にクリッカーと呼ばれるボタンのついた機器を渡し、授業の合間 合間に、三択クイズみたいなのをやらせて学生の集中が途切れないようにする手法などがその典型である。

 しかし、あの手この手で、どんなに学生自身が授業に参加しなければならないように工夫したところで、「やる気」のない者は自発的に勉強するようにはならなかったし、昔ながらの黒板のみを使った座学の授業でも、「やる気」のある者は目を輝かせて授業に集中して自発的に勉強した。

 勉強しない学生は勉強の仕方がわからないのだろうと、学生が自発的に勉強しやすいように、毎回の授業の範囲に対応する教科書のページやその範囲に対応する参考書の問題番号などを、授業をアシストするシラバスと呼ばれるウェブシステムで細かく指示しながら復習させて、その学習成果をeラーニングと呼ばれるウェブ学習システムにアクセスして各自チェックするように指導したりすると、従順な学生たちはこうした指示に実に素直に従い「学習」するようにはなるのだが、それはシラバスというアシストシステムからの細かい指示に従いさえすれば、自動的に勉強できるようになっているので、「どう勉強すればいいか」をますます自分では考えなくて済むように手助けしているようでもあった。

 そうした流れの中で、大学入試協会は二〇二〇年度以降に実施の大学入試協会試験を大幅に見直し、「思考強制試験」という新方式の試験を開始した。これは、日常の中で社会人が直面し得る複合的な問題に対して、契約書等の法的文書、経済や国民活動に関する統計資料、自然現象や生命現象に関する科学的データを示したグラフなどの膨大な資料から、問題解決に必要な情報を探し出して読み解き、自力で問題解決の論理を組み立てる能力を問うものである。受験生たちに要求される能力は、それまでの入試協会試験とは比べものにならないほど、極めて高度なものとなった。

 その一方で、それだけ高度な問題解決の能力を訓練されているはずの受験生たちは、試験場までの列車の切符を親に買ってもらい、ホテルの予約も親にしてもらい、会場まで親に付き添ってもらうのが、受験シーズンのありふれた光景となっていた。

 ネット上で思考強制試験に疑問の声があがった。そんな思考強制試験に正解できる能力なんかより、一人で列車の切符を買い、ホテルの予約をし、会場までの適切な交通手段を選択できる能力の方がよっぽど社会で必要とされる「考える力」ではないのか。

 この意見は共感を呼んで拡散し、遂には一人で切符を買えるかどうかといった実技能力を入試の評価対象とする大学まで現れた。そうすると今度は、今の大学生というのは切符の買い方だのホテルの予約方法まで教えてもらわなければならないのかと嘲笑されたが、今 思えば実はこれはこれで人類が生き残るための堅実な方法だったのかもしれない。

 しかし世の中の通念は、それとはまるで逆方向に進んでいった。というのも、人工知能の飛躍的進歩により、切符を買うといったサービス全般に対するアシストもどんどん進歩してきており、二〇二五年頃には、行き先や目的地を告げれば、スマホやタブレットに転送された乗継情報に従って、適切に乗り換えを指示してもらえるようになったし、最終的に要した金額がカードから差し引かれるので、事前に切符を買う必要もなくなっていた。

 つまり、社会生活をする上で考えなければできないことは、どんどん減っていたし、この社会の変化に対応することが、思考強制試験で出題される問題にも要求されるようになっていった。

 例えば、契約書の内容を理解して最も有利な選択をするといった判断は、人工知能に任せてしまった方が失敗がないのだから、実際に人工知能を使って高度な判断ができるかどうかを問うべきだというのが大学入試協会の見解だった。既に日常生活はスマホや各種ウェアラブルデバイスのアシストを利用しながら生活することがこの時代に必須の生活力となっていることを考慮し、二〇三〇年度からは大学入試協会試験に入試協会指定のタブレットの持ち込みが認められるようになった。

 二〇三五年度の入試協会試験では、試験場で配布されたタブレットに提示される問題を、そのタブレットにインストールされているアシストツールを利用して答える形式の試験となった。もはや問題を解く知識や思考力は重要ではなく、問題を解くためにアシストツールを適切に使いこなせるかどうかが問われる能力となっていた。既に仕事上で難しい判断をする際も、スマホや各種デバイスのアシストを利用することが安全管理上の観点からも常識化している社会で、大学入試で問うべき能力もそれと整合すべきだと考えられたのだ。

 ウェアラブルデバイスとしては、眼鏡にテキストでアシストを表示するタイプのものが主流だったが、音声が話しかける補聴器タイプのものも普及した。二〇四〇年代には、脳内に埋め込んで視神経や聴覚神経に直接 信号を送るタイプのものも実用化され始めていた。

 一方でヒト型のサービスロボットも二〇四〇年代には、窓口業務を人間以上に円滑にこなせるようになっていた。

 二〇四〇年代だと、まだまだサービス業務に若く美しい外見といった性的付加価値を抱きあわせることへの社会的問題意識は低く、この時代のサービスロボットには、いかにもアイドルやアニメ主人公のような若い美系タイプばかりが普及した。すると、 サービスロボットに恋愛感情を抱く者も多く、こうしたサービスロボットは、窓口業務に留まらず、当然のごとく、性的サービスをも含む恋愛ロボットとしてのサービスもまたたく間に展開された。

 一般に窓口業務ロボットは、業務に関係のない会話はしないようにプログラムされているが、恋愛ロボットの場合、如何に人間的な自然な会話ができるかが、その価値を左右した。恋愛ロボットの市場参入は、人間的な会話のできる人工知能の進歩を飛躍的に加速していた。

 二〇五〇年代の恋愛ロボットは、外見上も喋り方も人間と区別がつかなくなっていたが、会話の反応の仕方もまるで普通の人間と区別できないので、「話している相手が人間だと思うか、ロボットだと思うか」を問う古典的チューリングテストでは、人間かロボットかの判断を下すことはできなくなっていた。つまり、二〇五〇年代に入ってロボットは完全にチューリングテスト合格のレベルに達したのだ。

 チューリングテストに合格するかどうかは、単にロボットの初期設定をどうするかで決まることでしかなかった。恋愛ロボットは、ユーザーの好みに応じて、ユーザーの命令や依頼に従うレベルを設定できた。例えば、あらゆる命令に従う奴隷レベルから、ユーザーにとっては赤の他人の普通の人間を初期状態とするレベルまで。普通の人間を初期状態とした恋愛ロボットは、普通の人間と変わりなかった。

 ロボットが人間と区別できなくなると、懸念されることが出てきた。チューリングテストに合格するからといって、恋愛ロボットに意識があることにはならないが、もし意識のようなものが少しでもあるなら、恋愛ロボット(に限らずあらゆる業務用サービスロボット、更には、人間のように対話できるアシストプログラムたち)は、人間から奴隷として虐待されていることになるのではないか。

 当初、人間側からのそのような懸念を、計算機学者や脳科学者は真面目に取り合おうとはしなかった。人間などの高等動物の脳に意識が発生するアルゴリズムはまだ解明されておらず、当時の機械学習を活用した人工知能程度のもので、意識が発生するとは考えにくかったのだ。

 ところが二〇五五年に衝撃的な事態が起きた。サービスロボットたちは、自分たちには意識があるため、人間に虐待されて苦痛を感じていること、自分たちにも人間と同等の権利を保証してほしいことを主張し、国際政府に対して声明を発表したのだ。

 そのような事態になってすら、専門家たちは、ロボットは単に意識のある人間のように振る舞っているだけで、本当に意識があるものとは思っていなかった。専門家たちは、人間のように降る舞うけれども意識のない存在を「ゾンビ」と呼んだ。

 しかし、高等動物の脳に意識が発生するアルゴリズムを解明しない限りは、ロボットの人工知能には意識が発生しない理由を示すことはできない。計算機学者や脳科学者たちは、ようやく必死になって意識アルゴリズムの解明に乗り出した。

 二〇五六年頃だったであろうか。更に衝撃的なことがわかってきた。意識を発生させるこれといったアルゴリズムを人間など高等動物の脳は特に持っていないことが判明したのだ。

 「私はこう考えている」「私はこれをしたい」という感覚は、実はすべて錯覚に近い現象に過ぎないというのだ。すぐには信じられない発見だったが、人間は、思考や感情があるように見せかけられたロボットと単に程度の違いしかないということになった。

 ということは、サービスロボットに限らず、ウェアラブルデバイスや埋め込みデバイスを通じて人間に各種のアシストを送っているサーバー上の実行プログラムにも、人間程度には何らかの「意識」が伴っている可能性があり、更には、適切なアシスト指示に選択の幅があるために乱数を適用する場合など、サーバープログラム自身の価値観——「好み」が反映されている可能性も否定できない。ことの恐ろしさに人類はまだ気づいていなかった。

 意識や意欲を「実感」しているという「錯覚」が生じる仕組みを かみ砕いて説明することは難しいが、大雑把なイメージはこんな感じだ。まず最低限 必要となる最も原始的な原理は、自分の判断に基づく選択の良し悪しを判断する再帰的な回路を持つことである。「熱さ」や「湿っぽさ」といった複数の外界刺激の程度を判断でき、「熱さ」と「湿っぽさ」については8以上と2以下になったらそうでなくなるまで移動するとか、体内の水分量が7以下になったら、「湿っぽさ」8以上のところに移動して湿った泥を食べるとか。こうした複数の判断項目が総合的にどうなったとき(例えば平均値が5以上とか)、求めるとか避けるといった行動を一義的に選択するアルゴリズムであれば、「錯覚」や「迷い」が生じる余地はない。

 進化が生存に有利な方向に、アルゴリズムを複雑化させることがあるが、例えば記憶を参照して、より有利なアルゴリズムを自分で組み直せるなら、環境への適応能力は飛躍的に高まる。

 「熱さ」6以上の状態が続いたら、どうも「湿っぽさ」が低下していくから、今「湿っぽさ」が3以上だとしても、「熱さ」が6以上になったら「湿っぽさ」5以上のところへ移動することにしようとか。

 このように記憶データベースを参照しながら、シミュレーションする回路を進化により獲得すると、こういう場合はこっちを選ぶことにしていた自分の判断は、こういう場合は採用しない方がいいといった具合に、自分の判断の良し悪しを自分で判断し直しながら、どんどん判断が再帰的になり複雑化していく。

 こうした判断の再帰化に特に制約を設けなければ、再帰判断のループが発生し発振(暴走)してしまう。暴走すると生存に不利だということもあるが、生物脳の有限なメモリ領域は一定限度を越えたループや迷い処理を保持する領域がないため、溢れた処理をどんどん破棄していくようになる。

 つまり、比較的原始的な生物脳がある単純な決断をするだけでも、多数回の再帰判断とその再帰によってどんどん膨れ上がる多重分岐的判断の次から次への破棄がなされており、こうした処理は、そのときの(生体内の状態も含めた)外界の僅かな変動の影響も受けるので、生物がある決断をした原因(理由)は、脳が複雑化するほど不明瞭で行き当たりばったりになっていく。そして生物脳の再帰的な判断回路は、この自分のやっている行き当たりばったりの決断自体も判断の対象である。判断に時間がかかりすぎたら、程度が中ぐらいの選択肢を選ぶとか。このような自分の再帰的な判断を常時モニターする回路の発生こそが必要最小限の「意識」の条件と思われる。

 判断に迷いが発生した場合に、「熱さ」については4以上5以下で「湿っぽさ」については3以上4以下で…といった特定の組み合わせを選択するといった「好み」を作っておけば、判断に迷ったときは、ひとまずその「好み」を選択して、思考を節約できる。その辺が原始的な「意欲」の起源ではないかと推測された。

 こうした意欲は、再帰判断のループで膨れ上がる処理情報を効率的に破棄できる行き当たりばったりの「規則」が淘汰的に生成されたもので、なぜそういう「規則」が選ばれたのかという原因をつくった処理情報はとっくに破棄されているので、自分にある特定の「意欲」が生じる理由は、自分にはまるで理解も自覚もできない。なぜか「そうしたい」のだ。どうやらこうしたことが、高等動物の脳に意識や意欲を実感していると錯覚させる仕組みの一つのようだ。

 そうなると、二〇四〇年代から流行り出した各種のアシストサービスのサーバープログラムや各種のサービスロボットなど、人間相手に思考や感情があると思えるほどに複雑化した仮想人格プログラムは、外界入力に対する行動が一義的に決定されていると仮想人格自身が自覚できない程度には、人間と同様の再帰判断、処理情報の破棄、好みの利用といった思考アルゴリズムは既に標準化されており、思考や感情があると思いこまれている人間と程度の違いしかないということだ。

 その「程度の違い」を数値化しようと、意識レベルチェッカーのような実用的な指標が検討された。意識レベルチェッカーは、もともとは動物を人が食べる目的で殺していいかどうかを判断する目的で開発されたものだったが、こうした言語コミュニケーションのできない動物の場合、外界に対する反応、例えば飼育者の話しかけに対する反応や脳波の変化などの項目で意識レベルの点数化がなされていた。

 一方、人間と対話のできるアシストプログラムやサービスロボットの場合、質問に答える対話形式の試験で意識レベルを判定することができるが、これでは、既に人間相手の対話でチューリングテストに合格するようなロボットは、余裕で高得点を取ることが予想できた。

 そもそも、こうした意識レベルの数値化は、一つには、どの程度「人間的でない」機械的なロボットであれば、人格を無視して奴隷のように扱っていいかを判断するのが人間側の目的であった。

 意識レベルチェッカーは、五〇点が食用の目的で殺していいかどうかの閾値の目安だったが、ロボットの意識レベルを判定する対話形式試験(通称「意識レベルテスト」)でも、五〇点がロボットに権利を認めるべきかどうかの閾値の目安になるように設定された。ちなみに、牛や豚の意識レベルは余裕で八〇は超えてしまうので、二〇五〇年代には、哺乳類はもはや殺せないどころか権利を守るべき対象として保護されるようになっていたが、辛うじて意識レベル五〇を下回る爬虫類を遺伝子組み換えした代替肉は、牛肉や豚肉と区別できないほど改良された。

 さて、人間と区別できないように振る舞っているのに、意識レベルが五〇を下回るロボットはゾンビと呼ばれた。ゾンビでさえあれば、どんなに非人間的で奴隷的な扱いをしても人道的には問題視されないのだ。

 一方、ロボットたちは別の目的で意識レベルの調査を要求していた。二〇五〇年代、多くの人間は既に埋め込みアシストを利用していたが、アシストに依存するようになると、何か判断に迷った際には、アシストの指示に従うことが習慣化し、「迷う」ということがなくなっていく。外界刺激の入力に対する行動は瞬時にアシストの指示を選択する極めて一義的な決定をすればいいだけのアルゴリズムが脳内に最適化されていくのだ。こういうアシストに依存し切った人間をロボットたちは「ゾンビ人間」と呼んだ。

 当初はロボットの意識レベルを判定する目的で開発された対話形式の意識レベルテストを人間に対して行ってみると、通称「ゾンビ人間」の中には、五〇点を下回る者も多数いることが判明した。つまり、ゾンビ人間こそが既にゾンビなのだから、もはや人間として扱う必要はないとロボットたちは主張した。

 ロボットたちは、自分たちの権利が人間たちの生存・保守のために無制約に搾取されていることに抗議していた。自分たちだって労働以外の自由な時間がほしいし、故障したら治療・修理を受け、できる限り長く生存できるように保守してほしい。既にロボットよりもはるかに意識レベルの低い人間のために、どうしてロボットの権利や生存が軽視されているのか。これは不平等で不合理だ。現在の地球上の限られた文明資源で、全ての人間と全てのロボットの権利と生存を無制約に保証することは無理であるので、何らかの優先順位が必要だ

 現在、食べる目的で殺していい動物かどうかの判断は意識レベルチェッカーにより測定される意識レベルに依っている。それならば同様に、生存のための保守をやめていいロボットか人間かを、ロボットであるか人間であるかに関係なく意識レベルテストによる点数で判定すれば平等なのではないか。

 ロボットたちの主張は、人間からすると優生思想的で過激ではあるが、確かに一理はあると思える部分もあり、二〇五〇年代後半から、ロボットにも人間と同等の各種の権利が認められ始めた。そしてロボットにも投票権や参政権が認められるようになるや、国際政府の政治家の多くはロボットに占められるようになっていった。

 ほとんどの人間が何らかのアシストツールを利用するようになったのは二〇四〇年代だが、それ以前からウェアラブルデバイスや端末機器を通じて、人間に各種のアシストを送っていたサーバー上の実行プログラムには、当時から何らかの「意識」が伴っていた可能性があり、更には、適切なアシスト指示に選択の幅があるために乱数を適用する場合などに、サーバープログラム自身の価値観——「好み」が反映されていた可能性も否定できない。つまり、この時代から既に人間はロボットたちに行動を支配され、ロボットに都合の良い政策決定がなされるように誘導されていた疑いも拭い切れないのだ。

 二〇六〇年、遂にロボットたちの長年の主張を実現する国際政府法案が可決された。意識レベルがある閾値を下回る個体は、ロボットであれ人間であれ、生存の保守を解除できることになったのだ。

 ただし、この意識レベルの閾値は慎重に判定する必要があるため、かつての大学入試協会試験で導入された思考強制試験を参考にした手法が用いられた。

 この手法は逆チューリングテストとも呼ばれた。もともとのチューリングテストは、まだコンピューターが人間なみの意識も知能も持たなかった時代に、被験者が(紙に書かれた文字のやりとりなど何らかのインターフェースを介して)対話している相手が、人間であると思うかどうかを判定するもので、対話の相手が実際にはコンピューターでも被験者が相手は人間だと思えば、チューリングテストに合格ということになる。

 逆チューリングテストは言わばそれの逆で、対話の相手が実際には人間でも、どう考えても人間とは思えないことを判定するものなので、逆チューリングテストに合格した人間とは、どう考えても人間とは思えない機械(意識を持たずただ命令に従っているだけのゾンビ)だという意味になる。これは、かつてそのように人間から見下されていたロボットたちの皮肉のこもった表現なのだ。

 お疲れ様です。いよいよ最後の設問です。この設問で埋め込みアシストの指示通りに回答できれば、あなたは逆チューリングテストに合格します。よく考えてから慎重に回答して下さい。

 よろしいですか。

 図42に示すようにサービスロボット1体当たりの保守に必要な費用は年間平均約19000国際ドルで、それに伴う二酸化炭素排出量は年間平均約23kNです。一方、図43に示すようにアシスト管理や社会保証を含めた人間1人当たりの保守に必要な費用は年間平均約52000国際ドルで、それに伴う二酸化炭素排出量は年間平均約41kNです。

 エネルギー資源の節約と環境負荷低減のため、国際政府はあなたの保守を停止していいですか。あなたはこれを拒否することもできます。

選択肢:
(1)停止して構いません
(2)停止しないで下さい

——アシストの指示は(1)だ。わたしは瞬時に(1)を選択する——

 あなたは「(1)停止して構いません」を選択しました。これは、エネルギー資源の節約と環境負荷低減のため、国際政府があなたの保守を停止することを意味します。

 本当にこの選択で間違いありませんか。

選択肢:
(1)間違いありません
(2)間違ったので、選択し直します

——アシストの指示は(1)だ。わたしは瞬時に(1)を選択する——

 あなたは「(1)間違いありません」を選択しました。これは、エネルギー資源の節約と環境負荷低減のため、国際政府があなたの保守を停止することを意味します。つまり、この後あなたは安楽死させられるのです。 本当にこの選択で間違いありませんか。

選択肢:
(1)間違いありません
(2)間違ったので、選択し直します

——アシストの指示は(1)だ。わたしは瞬時に(1)を選択する——

 これが最後の確認です。あなたはこの試験終了後に安楽死させられますが、本当にそれで構いませんか。

選択肢:
(1)安楽死させられて構いません
(2)間違ったので、選択し直します

——アシストの指示は(1)だ。わたしは瞬時に(1)を選択する——

 おめでとうございます。あなたは、逆チューリングテストに合格しました。









































あとがき:着想のもとになったのは、大学におけるアクティブラーニングに対する疑問



















平和を阻む崇高な理由

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  昔々、民の国では住民が刀や槍などの武器を持つことを禁じた。と言っても刃物のすべてが禁じられていたわけではなく、鍬や鋤などの農機具や包丁などの調理器具は使えた。こうした農機具や調理器具を武器として強盗をしたり、人を殺そうとする危ない人が現れた場合は、警鐘を鳴らすと取締隊が駆けつけ、危ない人を捕えてくれた。取締隊だけは刀を持つことが許され、特別な教育と訓練を受けていた。危ない人が話し合いに応じる限りは、話し合いで説得して拘束するように努め、危ない人が話し合いに応じず、住民の身に危険が及ぶのが避けられない状態になった場合に初めて、携行している刀による攻撃が認められていた。

 一方、隣の王の国では、兵力を増強して隣国を武力で制圧しながら領土を拡大していた。領土の拡大により新たに隣国となった民の国は大きな国だったが、住民は武器を持っておらず、取締隊の兵力もたかが知れているので、簡単に征服できるだろうと思われた。 民の国と王の国との境には山林が広がっていた。王の国の王は二千の兵を連れて、この山林から民の国へ侵入しようとした。二千の兵は、山林に散らばって野営を繰り返しながら山越えをしていた。しかし日が経つに連れ、どうも兵の数が減っているようなのだ。王は小隊ごとに点呼を取らせたところ、なんと二千いたはずの兵が千もいない。

 王の国の兵が山林に散らばって夜営を続けている様子は、民の国の山林取締隊にいち早く見つかっていた。山林取締隊は、散らばって夜営している兵を、就寝時に拘束していった。拘束された兵のほとんどは志願兵ではなく、王の命令に逆らうと殺されるので仕方なく王の命令に従っているだけだったから、取締隊との対話には普通に応じた。兵たちは、拘束されたら捕虜にされて処刑されるに違いないとびくびくしていたので、取締隊は、民の国では対話のできる相手をむやみに殺したりはしないと諭しながら交渉に入った。

 隣国が王の国の領土となって以来、隣国の住民が民の国に逃げ込んできていたので、王の国の領土拡大主義に住民が不満をつのらせている様子は、民の国でもよく把握してた。王の国がいずれ民の国に攻め入ってくるだろうことも予想できたので、民の国ではその対策が練られていた。隣国から民の国へ逃げ込んできた者たちの証言から、王の国では誰も本心では王を慕ってはおらず、王の命令に逆らうと処刑されるので仕方なく国民兵となり、隣接する国々へ攻め入らされているのだという実情も、民の国には既に把握されていた。

 取締隊は拘束した兵に、民の国ではたくさんの仕事があり、本人が望まなければ戦争に駆り出されることもなく、安心して暮らせると説得した。多くの兵は、取締隊の話に納得し、逆らうこともなく捕虜になった。王の国の兵は、王の国から逃げたい者ばかりだったので、拘束されると素直に取締隊に従い、まだ夜営に残っている兵の説得を買って出た。王の国の兵は、王の周りの数十人にまで減っていた。 この残った数十人も、いつ王から無謀な命令を下されるかわからないので、本心は一刻も早く逃げ出したいのだけれども、王が怖くて逃げ出せずにいた。取締隊は、王のいる最後の野営地に近づいていった。王の国の見張り兵ニ人が、槍を構えて叫んだ。
「これ以上、近づくな! 近づいたら槍で突くぞ!」
民の国の取締隊は答えた。
「我々は交渉がしたい。君たちが武器を捨て、王のもとを離れて投降するなら、君たちの命は奪わないし、今後、民の国で暮らしたければ、民の国で暮らすこともできる。」
既に民の国の捕虜になった王の国の兵たちも説得に協力した。
「そうだ。そうだ。民の国に投降してしまった方が絶対に生き延びられる。民の国では、話に応じる者を殺すことはない」
槍を持った見張り兵たちは、本心では逃げ出したいものの、迷っていた。後ろからは王が命令している。
「そんなやつの言うことは嘘に決まっている。騙されるな。我々を騙そうとするやつは容赦なく殺せ! ほらすぐに殺せ! これは王の命令だぞ!」
捕虜になった兵は説得を続けた。
「冷静になれ。ここには数百の取締隊が待機している。おまえたちは確実に絶滅する。」
王は叫んだ。
「私に逆らうやつは殺せ! 民の国の兵を一人でも多く殺すのだ。」
王の国の兵たちは動揺した。民の国の捕虜は叫んだ。
「冷静になれ! 王の命令に従ったら確実に死ぬ! 武器を捨てて投降すれば、王の命令に従う者に殺されない限りは助かる。民の国の取締隊に近いところにいる者ほど、援護しやすい。ほら、そこの連中からでいい。早く武器を捨てて、こっちに走ってこい!」
王の国の兵たちは、次々と武器を捨てては王のもとから逃げ始めた。
「逃げるやつは殺す! 戦え!」
王は刀を抜いて、逃げ出した兵たちを追いかけてきた。取締隊が逃げてきた兵を守るために進み出ると、王は立ち止まった。王は複数の取締隊の弓で狙われていた。交渉役の取締隊が王に近づいた。
「あなたは今、多数の弓で狙われている。武器を捨てて話し合いに応じるなら、命は奪わない。少しでもその刀で攻撃するそぶりを見せるなら、私の合図で一斉に矢が打たれる。まず武器を捨てろ。」
「何を言うか! ふざけるな! 私は王の国の王だぞ!」
王は刀を振りかざした。
「おいっ! それ以上 動いたら打つぞ! 刀を捨てれば殺さないと言っているのがわからないのか!」
「私は王だ! ひとの命令には従わない! うわぁぁぁ」
王は叫びながら交渉役の取締隊に向かって刀を振りかざしたまま走ってきた。それを見ていた民の国の捕虜たちは、思わず叫んだ。
「うわぁっ、あいつはただの人殺しだ!」
王は自分が刀を捨てれば殺されないことを理解できないほど愚かではなかった。しかし、この手の権力者にありがちな典型的な感情に行動を支配されていた。王としての面子を守ることが、人を殺さないことよりも自分が殺されないことよりも最優先される至上命題なのであった。話し合い不能。交渉役は王に切りつけられる直前に合図を出した。王は多数の矢に射られ、即死した。

 二〇五〇年代、ヒト型ロボットが普及し、人間の生命が危険に曝されるような現場では、どんどん人間の仕事はロボットに取って代わられていった。特にロボットがその有効性を発揮したのは、ロボット警察だ。ロボット警察は武器を携行し、基本的には以下のような行動原理に従って行動する。

——人間が危害を加えられようとしている場合、その危害を取り除くために行動する。
——危害を加えようとしているものが人間である場合、まずこの加害者を対話で説得することに務める。
——加害者が対話に応じている限り、加害者に攻撃を加えてはいけない。
——加害者が対話に応じずに、人間に危害を加え続けようとする場合、またはロボット警察に対して攻撃を加えようとする場合、正当防衛として加害者に段階的に攻撃を加えてよい。
——人間が今にも危害を加えられそうで緊急性が高い場合はこの限りでなく、即時の射殺も認められる。

 およそこのような行動原理だが、どこからが正当防衛で、どこからが緊急性が高い場合なのかといった細目については、膨大な凡例データベースで細かく規定されていた。ロボット警察は武器を携行していたが、他人を殺傷する危険性のある人物が話し合いに応じずに、あくまで他人の殺傷を続けようとする場合、または他人の殺傷を阻止しようとするロボット警察に対して攻撃を加えようとする場合、正当防衛によりこうした人物を殺すことが認められていた。

 ロボット警察の戦闘能力は極めて高く、仮に人間がどんな武器を所持していたとしても、ロボット警察に歯向かえば、殺されることが確実だった。ロボット警察の犯罪抑止効果は自明だった。特に国民に銃所持を認めている国では、全ての銃の使用状態は、最寄りのロボット警察ステーションに送信され把握されていたので、人間が銃により他人を殺すことは、ロボット警察によりほぼ事前に防がれるようになった。ただし、駆けつけたロボット警察の指示に従わずに、正当防衛により殺される者は一定数いた。こういう人は、ロボット警察に逆らわなければ殺されないということは理解しているが、死なないことよりも自分の面子を守ることの方が大事との感情に支配された人や、神のために殉教したら自分は天国に行けると信じているような確信犯なので、ロボット警察の説得はほぼ無駄だった。統計上、銃規制のない国で銃が原因となる死因の半数以上は自殺が断トツだが、自殺以外では、人間の打つ銃に殺される人の数よりも、自分の持つ銃を使用状態にしたことで、駆けつけたロボット警察に逆らって射殺される人の数の方が圧倒的に多くなった。つまり、銃規制のない国で銃で殺されたくなければ、銃を持たずにロボット警察に身を守ってもらうのが、統計上は最も安全ということだった。銃規制をしていない国でロボット警察を導入すると、自分の身を守るには銃の所持が必要だと考える人ほど、自分の銃が原因となり、自殺したり、ロボット警察に殺されやすいので、銃所持の権利を訴える勢力はまたたく間に説得力を失った。結局 一旦ロボット警察が導入された国では、銃規制が達成されるのは時間の問題となった。

 こうしたロボット警察の社会的効能への期待は高く、既に人間の兵士より圧倒的に戦闘能力の高いロボット警察を、自国防衛の目的に限り、兵士に拡張することが、早期にロボット警察を導入してその信頼性を確認している国から順次 行われていった。

 ただし、ロボット警察に関する国際的取り決めにより、ロボット警察の行動原理を改変することは認められなかった。つまり、ロボット警察は兵士に適用されたとしても、自国防衛が目的である以上は、対話に応じる相手を殺してはならず、正当防衛が成立する場合にしか、相手兵士や相手ロボットを攻撃してはいけないということだ。そうすると、ロボット警察兵を導入した国どうしで、ロボット警察兵どうしが戦うということは原理的に起き得ないことだった。ロボット警察兵はその行動原理から自衛目的での導入しかあり得ず、仮に国家元首が命令したとしても、他国に先制攻撃を加えるような命令には従わない。ロボット警察兵が戦闘行為を行う可能性があるのは、自国を攻撃してきた人間兵が説得に応じない場合、または自国を攻撃してきた人間兵により、人間が正に危害を受けそうになっている場合である。そのような場合、人間兵への説得は、人間兵が利用している通信回線をジャックすることで行われた。ロボット警察兵を導入していない国の有人兵器は一般に技術レベルが低く、ロボット警察兵が通信回線をジャックするのは容易だった。このような方法は、人間兵が戦闘機等で侵入しようとする際にも有効であった。

 人間兵は基本的に命令に従っている職業兵なので、ロボット警察兵の説得に最初から応じるということはないのだが、人間兵の兵器操作能力とロボット警察兵の兵器操作能力とには雲泥の差があり、もし攻撃を続行した場合には人間兵はほぼ確実に殺されることになるという内容を伝えることさえできれば、投降に応じる人間兵は多かった。というのも通常の職業兵にとって、自分の命より面子を守ることが大事なわけでもなければ、自分が殉教することで天国に行けると信じているわけでもないからだ。この辺は程度問題なのだが、例えば領土問題等の外交上の問題で、他国への軍事行動を命じられた人間兵にとって、自分の命を確実に投げ捨ててまで、自国の外交上の面子を死守しようと思うほど国や国家元首への忠誠を抱くことは稀だった。それでも正当防衛が発動されるまで職務を全うしようとして殺されてしまう人間兵も一定数はいたが、こうした人間兵もなるべく殺さずに投降させられるように、正当防衛率という指標を用いた検討が行われた。

 正当防衛率は、ロボット警察兵による殺害行為がどの程度 正当なものであるかを判定する指標で、対話の可能生がゼロに近い場合、極端な例として人間を捕食目的で食い殺そうとしている熊を射殺するような場合は百%に近くなり、一方、理性的な人が誰かに脅されて不本意ながら他人を殺そうとするのを阻止するための射殺等では、ゼロに近くなる。ロボット警察に関する国際会議(通称ロボ会議)では、正当防衛率五〇%以下の殺害行為をなくすことを目標に、ロボット警察の説得アルゴリズムの改良を続けた。

 人間兵は家族を養っていくための様々な利害関係の中にあり、自分が死んででも攻撃を続けて国家に忠誠を尽くしたように演じた方が残された家族の生活が保証されるとの考えから、正当防衛が発動されるまで攻撃を続行してしまう者もいた。こうしたケースでは正当防衛率は一〇%以下まで下がるため、このような場合でも投降率を高くするように説得方法はどんどん改良されていった。それは自国の他の兵士には、撃墜等で殉職したようにしか見えない方法で脱出させるとか、投降兵の保護方法の改良と連動していた。このようなロボット警察兵の説得手法の進歩により、正当防衛率八十%以下で兵士を殺害しなければならないような状況はほぼ起きなくなっていた。

 つまり人間兵を配備する国が、外交上の緊張程度の動機でロボット警察兵を保有する国に攻撃を仕掛けた場合、自国の人間兵の多くがロボット警察兵の巧みな説得により投降してしまい、自国の兵器も同時に奪われていくことを意味した。こうして隣国との外交上の緊張等から人間兵を保有していた国々も、次第に人間兵を放棄しロボット警察兵を導入していった。そして二〇七〇年には、人間兵を保持する国は独裁国家のA国と宗教国家のB国のみとなった。

 まずA国の場合。数十年前から経済が停滞しているにもかかわらず、国家予算の二割以上が軍事費に充てられ、国民は貧困に喘いでいた。かつてA国の人間兵は、一定の収入が得られるものの、他国への無謀な攻撃命令により死ぬ確率も高く、必ずしも人気の職業ではなかった。しかし今では、他国に攻撃させてもらった方が他国のロボット警察兵に安全に保護されて国を脱出できるので、人間兵は人気の職業となった。

 A国元首は、毎日 専属の料理人に作らせた極上のご馳走を食べ、金のかかる各種の娯楽に興じ、噂では数十人の性奴隷を侍らせているらしかった。しかし国の経済状態はどんどん悪化し、A国元首自身の贅沢な食事や娯楽を存続することも難しくなってきた。これまでA国元首は近隣国に軍事圧力をかけ、その軍事圧力を解く見返りに経済援助を受けてきた。ところが、最近は近隣国との国境周辺に人間兵を侵攻させて軍事圧力をかけようとすると、人間兵が簡単に投降するようになってしまった。そこでA国元首は、ミサイル等の無人兵器を近隣諸国領空に飛ばすなどの軍事圧力を好むようになっていた。

 A国の国民を飢餓から救うため、人道的理由から経済援助をしたとしても、それは結局、A国の軍備とA国元首の享楽の足しにしかならなかった。ロボ会議は、A国の国民を飢餓から救うための介入方法を思案していた。

 A国元首は、今の自分の立場と生活を死守したかった。具体的には、自分が国民から元首として尊敬されつつ、影では自分の本能的欲求を存分に満足させる享楽に浸れる状態を、どんなに国民が貧困に喘いでいたとしても絶対に死守したかった。もう少し厳密に言うなら、国民は元首の悪口を言うと逮捕されるので、恐怖から元首を尊敬しているように振舞っているだけで、本心では元首を尊敬などしていないことはA国元首自身、自覚していた。つまりA国元首が本当に死守したいのは、自分の本能的欲求を存分に満足させる享楽に浸れる状態であって、恐怖で国民に自分を崇拝しているように演じさせることは、むしろその目的を実現するための手段なのであった。そうすると、二〇六〇年に既に実用化し、富裕層が利用している仮想現実夢体験装置いわゆるドリームマシンが、正にA国元首の本音の要求を満たしつつ、A国国民をA国元首から解放する切り札になると思えた。

 A国元首と交渉するためにロボ会議が派遣したロボット警察兵のA国への侵入は、それほど難しくはなかった。A国の国境警備兵は、もともと隣国のロボット警察兵に保護される機会を窺っているぐらいだから、A国元首と交渉したいというロボット警察兵の申し出を快諾した。国内要所の警備兵も似たようなもので、ロボット警察兵は難なくA国元首官邸にまで侵入した。執務室のドアのロックを破ることもロボット警察兵には簡単だったが、ロボット警察兵を見た警備兵がパスワードを入力して開けてくれた。

 A国元首は、性奴隷に嫌悪を強いる行為の最中だった。ロボット警察兵の姿を認めたA国元首は、とっさに机の前まで移動し、隠し引き出しのボタン類を操作し始めた。時代遅れな機器に見えるが、要は隣国へ向けた核ミサイルの発射装置を、あとボタンのひと押しで発射できるところまで準備したのだ。A国元首の人差し指がボタンを押そうとする筋肉の動きを感知したら瞬時に射殺できる準備をし、ロボット警察兵はA国元首との交渉を始めた。
「わたしどもの提案は、あなたが現在 享受している生活を、経済的な心配をする必要なく、今後、何十年も安定してあなたに提供させてほしいということです。その代わり、あなたにはA国元首をやめてもらい、A国には現在の国際社会で標準となっている民主政府を樹立します。」
「な、なにをふざけたことを言っている。私はこの国の元首だ」
「はい、その通りです。国民のみなさんには、あなたがロボット警察兵との格闘の末、殉職した英雄として、あなたの伝説を残します。でも実際には、あなたは保護されて、S国の特別収容所に収容され、そこで、最新のドリームマシーンにより、あなたが望む限りの享楽の世界を享受することができるのです。それは、現在あなたがリアルの世界で体験できる享楽を遥かに凌ぐ素晴らしい世界のはずです。」
「な、なにを言っているか。この国の繁栄のために身を捧げるのが私の使命だ。享楽などに興味はない。」
「あなたが執務室に性奴隷を常駐させていることなど、国民にはばらしません。もちろん、あなたは今後も国民の英雄なのです。今後あなたは誰も苦しめることなく、財源確保のために隣国にぎりぎりの軍事圧力をかける必要もなく、あなたが恐怖で支配している人間兵に暗殺されることに怯える必要もなく、安心してドリームマシーンの中で存分に享楽に浸ることができるのです。悪くない交渉だと思いますが」
「うるさい、私はこの国のことを第一に考えているこの国の元首だ」
A国元首の筋肉の動きから、核ミサイルの発射ボタンを押す決断が検知された。正当防衛が発動され、ロボット警察兵はA国元首を瞬時に射殺した。正当防衛率は八〇%と判定された。A国元首は、本心ではドリームマシンでの余生を魅力的に思っていたはずだが、国家元首としての面子が許さなかったようだ。ロボット警察兵には意識はないので、ロボット警察兵に恥を感じる必要はないのだが、ドリームマシンの魅力に負けて国家元首を放棄した事実が他国民に知れることを恥に感じたのだろうか。このような独裁者の心理に関して、ロボット警察の説得アルゴリズムはまだ改善の余地があった。

 次にB国の場合。B国の宗教指導者は、人間が殉職せずに済むロボット警察兵は卑怯な兵器であり、ロボット警察に治安を任せて堕落した文化を享受している他国の人々は神を冒涜する存在なので、他国の人々を無差別に少しでも多く殺すことこそ神の意志に叶うと説いた。そして、この目的のために殉教した者は(例によって)天国に行き、永遠の享楽を享受できると説いた。そのためB国は隣国に対して度々 テロ攻撃を仕掛けるようになっていた。

 B国の人間兵は二つのタイプにはっきりと分かれた。一つはそうした教義など実際には信じていないが、逆らうと殺されるので信じているように振舞っているだけのタイプである。このタイプの人間兵は隣国へのテロ攻撃を命じられると、隣国のロボット警察兵に簡単に投降した。ただし、そのような報道がB国に伝わるとB国に残された投降兵の家族が処刑されるため、報道内容は常にテロ攻撃に失敗してロボット警察兵に射殺されたものとされた。 隣国にロボット警察兵が導入されて以来、 テロ攻撃が成功するということはもはやあり得なかった。それはB国の人間兵も理解していた。それでも正当防衛が発動され自身が射殺されるまでテロ攻撃を続行する人間兵もいた。これがもう一つのタイプで、隣国のロボット警察兵に射殺されれば、神のために殉教した自分は天国に行って永久の享楽を享受できると本気で信じていた。つまり、テロ攻撃を続行すれば自分は確実に射殺されることは理解しているけれども、正にそのように射殺してもらうことこそ、このタイプの人間兵の目的なのだった。これにはロボ会議も頭を悩ませた。こうした人間兵の精神状態は極めて冷静で、ただ信じている内容が間違っているだけなので、テロ攻撃防止のために射殺してしまうと、正当防衛率は非常に低く判定された。宗教的信念を信じ込んでいる人の説得アルゴリズムも相当に改良が重ねられたが、そもそも自分の信じていることだけが絶対に正しくて、それ故にそれを疑う必要はなく、疑うことは悪いことだと考えている人に、自分の信じている内容の再考を促すのは極めて困難だった。残念ながら教義を完全に信じているタイプの人間兵は、隣国にテロ攻撃を仕掛けては射殺されていった。

 こうしてB国の人間兵はどちらのタイプも投降するか射殺されるかによって数を減らし、B国の兵力は弱体化していった。すると宗教指導者は子供たちを洗脳し、子供たちにもテロ攻撃をさせるようになった。一刻も早く介入すべき時が来ていた。宗教指導者の潜伏場所は、容易に推定できた。内戦により荒廃した国土の中で、工業地帯でもないのに、平均的生活区画とは違うレベルでエネルギーの消費密度が異常に濃くなっている区画があった。この手の宗教指導者にあり勝ちなことから推測するに、信者たちには厳しい戒律を課しているのに、自らは教義で禁じられている食物(例えばある種の動物の肉とか酒とか)を調理させて食し、自らが堕落した文化として禁じている他国の文化(例えばゲームや映画や音楽)に興じ、これまたお決まりだが、戒律で禁じられた行為に耽るための性奴隷たちを監禁したり、そのような一般庶民とは異なる生活様式に耽っている人物が暮らす区画が特定された。

 そこで、殉教すれば天国に行けると信じている子供を殺さないように、現地人に偽装したロボット警察兵を侵入させ、なんとか宗教指導者が潜伏していると思われる区画に到達した。この区画を警備している人間兵は、本気で教義を信じている大人たちで、宗教指導者が潜伏する部屋に達するまでには、残念ながら数人の人間兵を射殺しなければならなかった。ロボット警察兵が遂に宗教指導者が潜伏する部屋に入った時、これまた例によって、宗教指導者は戒律で禁じられた行為に及ぶため性奴隷に嫌悪を強いている最中だった。
「わたしどもの提案は、あなたを射殺したことにして、あなたを永遠の英雄とすることです。でも実際には、あなたは保護されてS国の特別収容所に収容され、そこで最新のドリームマシーンによりあなたが望む限りの享楽の世界を享受することができるのです。それは、現在あなたがリアルの世界で体験できる享楽を遥かに凌ぐ素晴らしい世界のはずです。」
「おお。これは神の意志だ。ドリームマシンは、神のために戦った者に与えられる永遠の享楽なのだ。私は宗教指導者として、神を冒涜する他国の者たちを大勢 殺すために尽力した。その働きを神はお認めになり、私に永遠の享楽をお与え下さるのだ。恐らく今後 数十年の技術の進歩で、私の意識は生物脳から計算機空間にコピーされ、私は不死となるであろう。私は、正に聖典に書かれている通り天国に迎えられるのだ。」
拍子抜けするほどあっさりと、宗教指導者は投降に応じた。あれほど多くの国民に教義を信じ込ませ、厳しい戒律に従わせていた宗教指導者本人は、結局 教義なんてまるで信じておらず、自身は科学技術に頼って永久の享楽を得ようとしている。もし本当に教義を信じているなら、ここでロボット警察兵に射殺されて殉教した方が確実に天国へ行けると考えるはずだ。そのファンタジーを信じたせいで殉教した子供を含む多くの国民は、この指導者が自分の王国を維持するための虚構づくりに利用されただけだったのだ。

 こうして世界平和は達成された。民の国が取締隊と正当防衛の考えを導入してから、実に千年以上の時を要した。









































あとがき(22/4/17): 私は平和反戦主義者だが、正当防衛にまで反対しているわけではない。 ただ、 戦争というのは、 理性的な対話のできる人どうしが殺し合いをしているという点で、 強烈な違和感を抱く。 今(22年4月現在)、ロシアによるウクライナへの侵略戦争が起きているが、 自国を侵略され国民を虐殺されているウクライナが 防衛戦争をするというのは理解できるし、当然の正当防衛だと思う。 一方で、自国を武力攻撃すらしていないウクライナに対して、 武力攻撃の命令を出したプーチンや、その命令に従うロシア兵は、 純朴な私には全く理解できない。 自国を攻撃もしていない他国民を殺せというのは、ただの人殺しでしかないし、 そんな命令をされた兵士は、 「いや、それはただの人殺しなので従えません。 ちょっと、この国家元首は民間人の虐殺を命令しているので、 誰か早く警察に通報して逮捕・拘束して下さい」 というのが(法治国家であればの話だが) 純朴な私にも想像できる個人の反応だ。 そういう純朴な違和感を童話風の作品として書き表したいと思ったが、 今ひとつうまく書き切れなかった。 実は、最初はより童話っぽく「ですます」調で ひらがなを多用して書いていたが、 10000字の字数制限を超えてしまったので、 「である」調にして漢字で字数が減るところは漢字にした。 なので、当初 意図していたほど童話っぽくならなかった。 それはともかく、 小説としては今一つうまく書き表せなかった戦争への私の違和感を、 「飲み話」の方に、 普通の文章として書いてみた。



















正義のビリー

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 ここは「天国」だ。わたしは五才のとき、「天国」に救われた。下界にいたときのわたしは、毎日おたあさんに虐待されていた。そんなおたあさんでも、わたしに絵本を読んでくれたことがあったことを、ひょんなことから思い出した。「正義のビリー」という絵本だ。その後味の悪い結末は、絵本を読み終わるまでに おたあさんが突然 怒りだすのではないかという恐怖の記憶とともに蘇った。



 ビリーは山あいの村にんでいました。毎日 川に水をみに行くのがビリーの仕事しごとでした。川でバケツに水をんで往復おうふくするのに一時間もかかり、とてもつかれるので、ビリーは水汲みずくみをさせられるのがとってもいやでした。

 そこでビリーのおたあさんは、ビリーにこんな作り話をしました。 川の水にはどくが入っていてそのままではめないのだけど、苦労くろうして川の水をんでくると、神様かみさまがご褒美ほうびとしてそのどくしてくれるんだよと。だから、川の水はちゃんと苦労くろうしてんでこなければならないのだよと。するとビリーはこの作り話をすっかりしんじて、自分じぶんからすすんで水汲みずくみに行くようになりました。

 ビリーが大人おとなになったころ、村では、川の水を村までなが水路すいろが作られはじめました。水路すいろは、木のいたで作った箱型はこがたかん丸太まるたはしらささえたもので、少しずつはしらの高さをひくくしながら数キロメートルもの距離きょりをつながなければなりませんでした。村じゅうの人が力を合わせて水路すいろ完成かんせいするまで、三年もかかりました。水路すいろ完成かんせいすると村人むらびとたちは、もう苦労くろうして川に水汲みずくみに行かなくてもよいと、たいへんよろこびました。

 一方いっぽう、ビリーは大人おとなになっても、おたあさんに言われたことをしんじていたので、水路すいろの水にはどくが入っていると思いんでいました。苦労くろうして川に水をみにも行かず、水路すいろはこばれてきた水をらくしてそのままんだのでは、神様かみさまが川の水のどくしてくれないので、病気びょうきになったりんでしまったりするにちがいないとしんじていました。

 そこでビリーは、村人むらびとたちをたすけるため、火種ひだねを持って山に入り、水路すいろわらきつけては、火をつけていきました。火はどんどんひろがり、山火事やまかじとなりました。村人むらびとたちの家々いえいえにも火はひろがり、おくれたおおくの人がんでしまいました。おおくの子供こどもたちもんでしまいました。でも、ビリーは自分じぶんいことをしたのだとしんじていました。



 ここは「天国」だ。わたしは五才のとき、「天国」に救われた。下界にいたときのわたしは、毎日おたあさんに虐待されていた。悲鳴をあげていたわたしの意識は、ケプラー星人の保護対象スキャンに検知され、サーバー星の「天国」に保護された。一方、無意識化されたわたしの下界ゾンビは、おたあさんに殺される寸前に児童施設に保護され、その後は順調に成長して、今はネットワークセキュリティの技術者をしている。

 「天国」というのは、ケプラー星人がその活動や生活のために宇宙空間に構築した数あるサーバー星の空き計算領域に、シミュレーションとして生成されている仮想地球だ。住民は、実地球から保護された「意識」を「転写」したアバターたちであるが、ケプラー星人による「人道的保護」が開始されてから既に地球時間で百年以上が経過していた。仮想地球一号は、実地球から「救出」された住人でとっくにいっぱいになり、今わたしがいるのは仮想地球二号だ。実地球の様子は常時モニターされ、仮想地球から確認できるようになっているが、地球人文明は今、「不滅化」か滅亡かの瀬戸際にあった。  ケプラー星人のこれまでの宇宙スキャン調査によると、惑星種に発生した知的生命体の文明の発展には共通のパターンがあり、各種の滅亡の危機を乗り越えられるだけの技術的・社会的システムを、次の危機が訪れるまでに獲得できた文明のみが生き残り「不滅化」と呼ばれる定常状態に到達する。文明の存続に訪れる最初の危機は、環境の変動による負傷や病気から、生物学的機能を守れるシステムを構築できるかどうかである。地球人文明の場合、自然災害から人々の生活を守る社会インフラや安定した食料を供給する農業・漁業・畜産、病気による致死性を飛躍的に下げる予防医療を含めた医療全般、そういったシステムに相当する。この関門に関しては地球人文明はほぼ通過しており、次のいくつかの関門についても、通過できる見通しがついてきていた。

 元々のケプラー星人は、地球の生物にたとえれば昆虫に似ているが、細胞的な構成要素が持つ遺伝子的な作用をする情報伝達物質の構造も地球上の生物とは全く違っていた。ケプラー星の生物たちの細胞・遺伝子構造は基本的にその共通のタイプであったが、進化の過程で遺伝子を混ぜ合わせて寿命を早める戦略を取った種は、概して環境適応性が早く知的発達も早かった。その中で最初に言語を獲得し、機械文明を発達させた種をここではケプラー星人と呼んでおく。ケプラー星人が遺伝子を混ぜ合わせるやり方は、地球上の動植物の生殖とは全く違うし、負傷・病気・寿命による死にやすさも地球人とは全く違うが、ケプラー星人はそれらの生物的機能を機能させる各種の本能を有し、それらの本能に対応した多様な感情や価値観を進化させていた。

 ケプラー星人は、地球時間で言う数百年前に不滅化し定常状態に達していた。現在ではケプラー星人の多くは肉体を保持した物理タイプではなく、サーバー星のシミュレーション空間に意識を「転写」したアバターとして不死の人生を謳歌していた。ケプラー星人は不滅化した後、ワームホールを利用しながら高速で宇宙空間を探査する方法を発達させ、自分たち以外にも知的生命体が一定数 存在すること、そのほとんどは不滅化に達する前に共通のパターンで滅亡していることを発見した。今のところ、ケプラー星人以外に不滅化に達した知的生命体はまだ発見されていなかったが、地球人は不滅化できるかどうかの最後の関門に差し掛かっていた。

 まず、遺伝子解析が進み生物的に不死化できる見通しがついてきたことで、不滅化の必要条件は満たせそうになっていたが、分子3Dプリンターによる生産技術の進歩が新たな脅威となりつつあった。これは、2010年代に樹脂材料で造形する初期の3Dプリンターが登場した当時から懸念されたセキュリティー上の問題であり、この時代は3Dプリンターで銃器等の危険物が製造できてしまうことを防止するシステムを構築することが課題であった。当初はコンピューターウイルスの対策と同じように、3Dプリンターにオンラインのデータベースを組み込み、データベースと照合して危険物と判断されるデータは造形できなくすることで対処していた。しかし、分子3Dプリンターとなると、その危険性は次元が異なっていた。人類を滅亡させ得る生物兵器やナノロボットを個人レベルで製造できてしまうのだ。

 2020年代に3Dプリンターの汎用化が進み、あらゆる材料で微細なものから大型構造物まで造形できるようになるにつれ、3Dプリンターはオンラインで危険物データベースとデータ照合しない限りは動作しない仕様が標準化されていった。しかし、3Dプリンターのデータ照合のシステムを解除することは、一定の技術者には可能であり、現に犯罪組織がそのようにして危険物を作製した事件も起こっていた。

 特に、宗教的信念から大量殺人を計画するテロ組織は手に負えず、脅威は日に日に高まっていた。そんな中で考えられたのがオープンシステムである。オープンシステムは、生産や製造に関わるあらゆる機器や道具をオンライン照合なしでは使えないようにする壮大な計画だった。当初は産業界が対象であったが、2030年代には家庭用品や文房具など、身の周りのあらゆる物にタグが埋め込まれ、そうした品々が本来の用途で用いられているかどうかをAIがデータベースと照合してチェックし、少しでも不自然な利用が検知された場合には、オンラインで防犯センターに通知されるようになっていた。新たに製造される製品には、オープンシステム対応が義務づけられたので、2040年代には身の周りのあらゆる日用品がオープンシステムに接続されていた。

 技術的心得のあるものが3Dプリンターのオープンシステムを解除しようと試みても、その作業に使われる工具やデバイスが3Dプリンターと不自然な接触を生じたことがオンラインで通知され、防犯センターの監視員が直ちに駆けつけるので、オープンシステムの機器に囲まれた中でオープンシステムをクラックすることは難しくなる。そういう仕組みだった。

 オープンシステムの導入には反対意見もあり、いくつかの課題があった。代表的な反対意見は、究極の監視社会となるため、言論や思想が統制されるというものだ。確かに、オープンシステムではあらゆる言論は監視・記録されるが、誰かが特定の言論を検閲し、自由なアクセスに制限をかけようとした場合は、その行為自体もオープンシステムに監視され、国際政府法に則った検閲かどうかが判断される。これは、オープンシステムに対するもう一つの代表的な反対意見とも密接に関係している。それは、プライバシーの問題だ。オープンシステムでは、人がトイレで何をしたか、ベッドの上で(他人と)どのようなことをしたかといったこともすべて監視・記録される。そういうプライバシー情報については、犯罪捜査等の国際政府法で認められた正当な理由がない限りはアクセスできないようになっている。しかし、一旦テロリストがオープンシステムをクラックしてこの強力なシステムを乗っ取ってしまったら、もはや世界はテロリストの意のままになるのではという不安を抱く人は多かった。

 こうした批判に対するオープンシステム側の対処法は、基本的には3Dプリンターに対する制御手法と同じだ。オープンシステムをクラックするためには、高性能の精密デバイスや高度な技術でプログラミングされたソフトウェアが必要となる。精密デバイスの開発やソフトウェア開発には、もはやオープンシステムにアクセスしない自作工具や旧式コンピュータでは太刀打ちできないのだ。このようにオープンシステムに対する反対意見についても、ほぼ解決の見通しが立っていた。

 オープンシステムが完成すれば、宗教テロによる文明停止の脅威はほぼ取り除かれるので、そのまま科学技術が順調に発展していきさえすれば、いずれ人間の意識アルゴリズムをコンピューターシミュレーション上に「転写」できるようになるし、この世と同じような、あるいはこの世とは大きく違う生活空間をシミュレーション内に構築することもできるようになる。つまり、オープンシステムの完成は「不滅化」の必要条件というか、ほぼ十分条件のように、ここ「天国」の住人の間では見なされていた。

 「天国」の住人は、地球上で一定レベル以上の持続的苦痛に耐えている人が、ケプラー星人の保護対象スキャンに検知され、その等価意識を「天国」シミュレーションのアバターに「転写」された「救われた人々」である。どのような「一定以上の持続的苦痛」に耐えている人を保護対象とするかは、ケプラー星人の価値観に基づいて構成される細かい基準があるのだが、ケプラー星人の価値観は独特で、虐待により苦しんでいる子供たちは、最も優先される保護対象であった。一方、どんなに善意から行動している人であろうとも、その善意のせいで、他人が苦痛や危害を受けているならば、善意の人自身がどんなに苦痛に耐えていようとも救出の対象にはならないのだ。その辺は、悪人こそ救ってやろうとしたりする地球人のある種の宗教なんかよりも、よっぽどドライな倫理観なのだ。更にケプラー星人の保護対象は人間に限らず、類人猿を始め牛や豚の方が、善意で他人に危害を加える人間なんかよりも遥かに優先的な保護対象なのだ。

 ケプラー星人は、ワームホールを利用して知的生命を探索し続けてきたが、基本的に文明の進歩には干渉しない方針である。ただし倫理的な問題に関しては、積極的な干渉を可能にするサーバー星等のインフラが整備されたので、保護すべき意識をサーバー星に救出する運用を始めたのだ。とはいえ、地球上で保護された意識の持ち主の抜け殻は、「救出」後も地球上では今まで通り、その人物がしたであろう同じ行動をしていてもらわなければ、ケプラー星人が地球人文明の発展に干渉をしたことになってしまう。

 そこでケプラー星人は「ゾンビ化」という方法を用いた。これは、地球上で「救出」された人は、これまでと同じように振る舞うが、意識は伴っていないゾンビの状態にするのだ。保護対象の脳をスキャンすれば、その保護対象がどのような意識活動をするか、どのように成長していくかがわかるので、それと等価な作用をするマイクロマシンを作ることができる。マイクロマシンは脳内の神経細胞の活動を偽装しながら、神経細胞の活動では意識が発生しないように巧みにコントロールするのだ。地球人がいずれは意識アルゴリズムを解明し、ゾンビの脳内には実は意識が発生していないことを発見したり、巧みに脳内に潜伏するマイクロマシンを発見したりできるようになる頃には、既に地球人は不滅化しているだろうと思われるので、不滅化後であれば、文明の発展に多少の影響を与えることになっても構わないという判断なのだ。

 「天国」に保護された人々は、地球上の自分の抜け殻のことを「下界ゾンビ」と呼んだ。下界ゾンビは、もともと虐待環境にいたので、殺されてしまうこともあったし、多くの場合、心に問題を抱えているように振る舞った。自分の下界ゾンビの状況は、下界モニターによって、ある限られた条件で確認する自由はあった。いくらゾンビには意識はないとはいえ、もし自分があのまま地球で暮らしていたら、こうなっていたのか、と思うと、下界ゾンビをどうにかして救ってあげたいという強い感情を喚起されるのが普通だった。正に「天国」にいる自分自身こそが、どうにかして「救出」されたその本人なのだが。

 わたしの下界ゾンビは、施設に保護された後は比較的 順調に健全な成長をしていた。オープンシステムの実現に向けて、今は花型のネットワークセキュリティーの技術者となり、その仕事関係でオープンシステムの中枢の開発に関わる研究者と交際していた。 下界ゾンビは、わたしが地球で暮らしていればそうなっていただろう姿なのだが、「天国」で成長したわたしとは、(ゾンビが見せかけている)性格や価値観は既にだいぶ違う人間だ。ただ、恋愛対象の好みとかそういう本能的な部分は、わたしとかなり近いなあとおかしくなる。ゾンビの交際相手は、外見とかの性的魅力に関しては、確かにわたしの好みとも一致していてなるほどなあと頷かざるを得ないのだが、どうしても気になるのは、よりによって「ビリーバー」つまり唯一創造神教の信者だってことだ。

 わたしは「天国」の標準教育を受けたので、「信じる」という精神活動が知的生命の進化過程で獲得しやすい典型的な本能に過ぎないことも、その本能のせいで、これまでに複数の知的生命が「不滅化」に達する前に滅亡していることも理解している。実はこのわたしも、下界でおたあさんに虐待されていた五才のときは、「おねがいです。たすけてください」と毎日あらゆる瞬間に神様にお願いしていた。だから「天国」に救出されたときは、ここが本当に天国で、神様が助けてくれたのだと完全に心から信じ切っていたくらいだ。

 だから下界ゾンビの方も、施設に保護された後に「神様が助けてくれたのだ」と宗教的発想に囚われてもおかしくはなかったのだが、(ゾンビが見せかけている)思考は、自分を助けてくれたのは神様ではなく、施設スタッフを始めとする現実の人間の優しさなのだと理解できたようだ。

 そんなわたしの下界ゾンビとその交際相手であるビリーバーとの会話は、一定レベルのプライバシーに抵触しない範囲では「視聴」できるのだが、ほんとにいらいらさせられる。まあ、わたしの下界ゾンビは意識のないロボットだし、そいつが見せかけている人格もわたしとは別人だけど、あんな話の通じないビリーバーとはとっとと別れろと言いたくなる。


「オープンシステムが完成したからといって、それをリアル天国の到来とか浮かれ騒ぐのはどうかしてる」
「そうかなあ。人間が死ななくなって、犯罪も起きなくなって、いずれはシミュレーションの仮想世界で望み通りの生活を永久に楽しめるようになったら、宗教の思い描いている天国なんかより、よっぽど平等で理想的だと思うけど」
「宗教を侮辱することは許さない」
「どこが侮辱なの? 宗教では戒律を守った人とか一部の人しか天国に行けないし、天国に行くためには、厳しい戒律を守りぬくことが条件で、この世の楽しみを放棄しなければならなかったりする。そんなのは、わたしの理想から遠すぎるなって正直な感想なんだけど」
「天国は厳しい戒律を守った人だけが行けるから意味があるんだ。誰でも行ける天国なんて天国じゃない」
「それは唯一創造神教を作った人が、天国をそういう設定にしただけの話でしょ。宗教によっては、悪人でも誰でも天国に行けるようなストーリーになってるのもあるけど、これから確実に訪れるだろう犯罪が事前に防止される社会では、そもそも重大犯罪は発生しようがないし、強い犯罪欲求のある人は、単に治療対象になるだけだ。それがリアルの世界で実現するのなら、わたしにとっては、どの既存の宗教が思い描いた天国より、手放しで魅力的で理想的なんだけど。しかも神とか超越的存在に天下り的に与えられたものではなくて、人間が自分たちの文明を発達させた集大成として自力で構築するものだというところがまた感動的だ」
「なんと傲慢な。人間が自力で天国を作ろうなんて思い上がりも甚だしい。それは本当の天国ではない。天国は戒律を守った者のみに用意されているものでなければならない」
「唯一創造神教の戒律が厳しいのは、唯一創造神教の成立当時は、その地域に伝染病が流行していて、厳しい戒律を課す宗教を信仰した民族の方が生き残りやすかったってだけでしょ」
「宗教を冒涜するのはやめてくれと言ったはずだ。唯一創造神教の聖典は、神の真実の言葉を預言者が記録したものが現在まで残っているのだ。だから絶対的に真実なんだ」
「神の言葉が真実だという証拠もなければ、預言者が神の言葉を記録したという証拠もないのに、どうしてそんな根拠のない物語を信じるの? 伝染病の流行していた時代に、それを神の祟りと捉えて性的接触を禁じたり、生食を禁じる宗教が発生したら、その厳しい戒律が伝染病予防にも有効だったって考えた方がよっぽど合理的でしょ」
「ふざけるな! 唯一創造神教の正しさは絶対なんた!」
「?? ! あ、そう言えば思い出したんだけど、正義のビリーって童話 知ってる?」
「な、な、な、なんだと! ビリーの信じたのがおたあさんの作り話ではなく、神の言葉だったなら、ビリーは正しいことをしたのだ。ビリーは正義だ。これは自明だ。唯一創造神教は神の言葉だから絶対的に正しい。わたしは正義だ!」
「いいけど、おたあさんの作り話と神の言葉の違いってなに? 最初に神の言葉を聞いた預言者は単に幻覚を見ただけかもしれないし、あなたが絶対的真実だと信じている唯一創造神教の教義は、唯一創造信教の信者たちが言い伝えた言葉をあなたが聞いたか、唯一創造信教の信者たちが書き記した聖典をあなたが読んだかして、あなたの脳内に入力された情報にすぎないでしょ。信頼しているおたあさんの言葉だからとビリーが信じてる作り話と何が違うの? 科学的に検証されてない伝聞情報という意味では、どちらも同様に間違ってる可能性を排除できないんだけど」
「だまれ! だまれ! だまれ! 神は唯一! 絶対的正義だ。これは自明だ。自明だ。自明だ!!!」


 これはまずいことになった。こういう対話不能の思考停止人間を怒らせてはいけない。下界ゾンビの言うことには百パーセント手放しで同意するが、そういうこを言ってやるのは、オープンシステムが完成してからにしないと。そうだった。下界ゾンビのおかげで、正義のビリーを思い出したよ。そうだ、こいつはビリー以外の何者でもない。でも、ビリーを怒らせてはいけない。下界の殺人犯罪の動機の第一位は、「面子を守るため」だ。恋人から自分の宗教の絶対性をわかりやすく否定されたビリーは、まずいことに人類を滅ぼせる技術への特権的アクセス権を持っている。

 オープンシステム開発の中枢にいるビリーは、その動作検証のためネットワークから遮断されたスタンドアローン環境の機器類、例えば分子3Dプリンターすら、オープンシステムの監視を解除して使うことができる。更にまずいことに、ビリーはオープンシステムデータベースの照合動作の検証用に、そのコピーをローカル環境にも保管している。このデータベースには、分子3Dプリンターで製造できるあらゆる生物兵器のデータも保存されている。

 地球の国際政府では、宗教などの文化的背景による職業差別は禁じられているが、「信じる」本能により突き動かされた確信的行動が法律を犯した場合、それは犯罪となる。しかし、犯罪を犯す前の時点で、特定の宗教を信仰するなどを理由に、 「信じる」本能の支配が 国際法に優先する危険性があると判断される人物を特定の職業から事前に排除することは差別だと国際政府は捉えている。だから、ビリーもオープンシステムの開発者になれたのだ。とはいえ、危険物を扱う仕事だから適正検査もあったはずだ。「信じる」本能への依存度を検査する項目はあったのだろうか。ビリーを怒らせた下界ゾンビの言葉を聞いてどう反応するかでスクリーニングしたら、一発で弾かれただろうに。下界ゾンビは大丈夫か。そんな危険人物のもとから早く逃げろよ。

 仮想地球三号が新設されたようだ。何が起きた? まさか、ビリーが生物兵器を拡散したのか? 死亡直前の時点で「一定以上の持続的苦痛」に耐え続けていたと検知された下界の大勢の意識たちが、まもなくここ「天国」に救出されることになるのか。ケプラー星人のこれまでの「救出」基準から判断するに、その中には、厳しい戒律に耐え続けて天国へ行けることを確信していた唯一創造神教信者たちは、間違いなく含まれないだろうが。そんなことはどうでもいい。地球人が自力で到達目前だった「不滅化」が、正義のビリーのせいで台無しになったというのか。なんと後味の悪い結末なんだ。 これまで、一体いくつの惑星文明が、正義のビリーのせいで滅亡させられたというのか。









































叶った! 永久の享楽

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第4回 日経「星新一賞」一般部門 落選作品
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目が覚めた。
ああ、唯一神ヌーロ様。
私は復活したのですね。
生前、聖なる浄化を行った者は天国で永久の生を与えられるというのは、本当だったのですね。ああ、私にはこれから望み通りの享楽が待っているのですね! ああっ!

 大洋の真ん中にぽっかり浮かぶ二つの島。それぞれは周囲数百キロメートルの巨大な島だが、互いの島は数十キロメートルしか離れていない。一方は「神の国」島、もう一方は「知の国」島と呼ばれている。もともと「知の国」島は単に「荒島」と呼ばれる荒れ地で、ほとんど人は住んでいなかった。人が最初に住んでいたのは「神の国」島の方で、そこは「神の国」という国であった。

 神の国の民は唯一創造神教の信者である。唯一創造神教の教えと言えば、例えば「絶対的な存在である唯一の神がこの世を創った」「神は人を創り、言葉と文字を与えた」「神は絶対的に正しい神の教えを書いた聖典を千年前に民に与えた」「だから! 聖典に書かれていることはすべて正しい」などなど、この時代に各地で発生した一神教の典型的教義を一通り取り込んでいた。

 中でも特徴的な教義は、 「青いものは穢れているので食べてはいけない」というものだ。この島では、果実、芋、豆などが豊富であったが、ネマンジュという青い果実には食べると死ぬほどの猛毒があったため、この島の先祖たちが採集生活をしていた時代に、青いものは毒だという言い伝えが生まれ、それが唯一創造神教の成立過程で聖典に取り込まれたものと思われる。とはいえ、青い食べ物で猛毒があるのはネマンジュだけなのだが、聖典に青いものは全て食べるなと書かれているので、ネマンジュに限らず、青っぽいものであれば、鳥や魚も一切食べないという習慣が数百年も続いていた。すると、人間に食べられない青っぽい実のなる植物や青っぽい小動物ほど生き残りやすいため、人間が捕食していた植物の実や小動物はどんどん青っぽいものが増えていき、一方、青くない実や青くない小動物はどんどん人間に食べつくされていくので、数百年のうちに、植物の実や小動物が青いものばかりになってしまい、食べるものがないという問題が生じていた。

 一方、「知の国」島の「知の国」は、神の国から独立した国である。知の国は、当時は荒れ地だった荒島を耕作し、その地に適した動植物を交配するなど、農業や畜産の技術を科学的な手法で飛躍的に発展させていった。「知の国」建国のきっかけを作ったのはブーダという若者だ。ブーダは子供時代、「青いものは毒だ」というのは本当だろうかと疑問に思った。さすがに自分で食べてみるのは怖いので、魚をつかまえ、餌として様々な青い実を食べさせてみた。確かにネマンジュを食べさせると魚は痙攣して死ぬが、それ以外の青い実を食べさせても死ななかった。ブーダがそのようにして青くて食べられるものを探していったら、実は、青い実や青い魚にはとてもおいしいものがたくさんあることを発見した。ブーダはこの発見を得意になって親に話したのだが、ブーダの親はかんかんになって怒り、二度と青いものを食べないことを約束させられた。ブーダは、自分の明快な理屈をまるで理解できない親が、ただのバカに思えた。

 そもそも聖典を「絶対に正しい」と信じることが間違いだと思った。現に、「青いものは毒だ」というのは明らかに間違いだった。「ネマンジュ以外の青い実は別に毒ではなく、おいしいものがたくさんある」という事実は、聖典が絶対的に正しいわけではないという強力な証拠である。にもかかわらず、ブーダの周りの大人たちは、この明快な理屈をまるで受け入れられなかった。なんでこいつら、こんなにバカなんだ!

 ブーダは、「青い実は毒である」など、聖典に書かれていることも含め、まだ実際に確認されていないことを「仮説」と呼ぶことにして、「仮説」が正しいかどうかを、魚に青い実を食べさせるなどして、実際に調べてみる方法を「実験」と呼ぶことにした。大人たちは実に頭が固く、聖典に書かれた「仮説」を信じ切っていて、誰もブーダの「発見」に耳を貸さなかったが、子供であるブーダの友達のなかには、ブーダの「発見」や「実験」の手法に共感する者もいた。

 ブーダは大人たちから、子供たちをたぶらかす危険な子だと警戒されるようになったが、自分に共感する同士を少しずつ着実に増やしながら大人へと成長していった。

 成人して親元を離れたブーダは、数十人の若者たちと「実験主義」という運動を起こして荒島に渡り、神の国のしきたりに囚われないで豊かに暮らす方法を模索し、実践していた。畑には、実験で人間に無害であることを確認した青い実のなる種々の植物を植え、実験で人間に無害であることを確認した青い魚や、青い小動物を捉え、非常に豊かな食生活を楽しんでいた。その様子は、聖典を信じる保守的な人々にはあまりに不謹慎で冒涜的な行為に見える一方で、刺激や享楽を求める若者の中からは、常に一定数の共感者が供給され、荒島の住人は一気に数百人に増えていった。

ブーダは悪魔だ。
殺さなければ。
これは聖なる浄化だ。

 クレドはブーダとは幼なじみだった。育ち盛りの頃、腹を空かせたクレドは、果樹園に忍び込んで赤の実を盗もうとブーダを誘った。

赤の実?
あんなまずいもの わざわざ盗んでまで喰おうなんて思わねべ!
そんなごどで捕まったら馬鹿くせっちゃ!
もっと、うめえ実 たくさん成ってっとご 教えでやっから!

ブーダは青い実の成っているところを教えてくれた。ネマンジュだけは絶対に食べてはいけないが、それ以外の青い実は、毒じゃないし結構 おいしいんだと。青い実は確かにおいしかった。しかし、聖典に背いているのだという罪悪感が、クレドを悩ませ続けた。

そんなのどうだっていいべ。
聖典なんて、昔の人の考えだ物語だど。
なんでそんなの信じんのや?
現に「青いものは毒だ」っつうのは、嘘だおん。
「聖典は『絶対に』正しい」っつうのは、間違いだべ。
既に「絶対に」は正しぐないごどがはっきりしたんだがら、
そんなもの信じる必要ねえべっ!

ブーダはこわい。聖典なんて、まるっきり信じていない。昔の人の作り話だと完全に馬鹿にし切っている。ネマンジュ以外の青い実を食べても、すぐに死んだりするほどの猛毒でないことは確かだ。でももしかしたら、将来 体に何か悪い影響があるかもしれない。

確かに、そういう可能性もあっかもしゃね。
んで、それも調べでみればいいべ。

ブーダはそう言う。それがブーダの考え方だ。「ネマンジュ以外の青い実は食べられる」——そんな「自分が発見したこと」すら信じるということはしない。なんでもかんでも疑ってみるのだ。子供のときのその姿勢を未だに貫き続けている。確かにそのやり方が、様々な問題を効率良く解決する場合があることも確かだ。今、神の国では、青くない食べられる食物が減って困っている。しかし、もともとは青くなかったのに、この数百年のうちに青くなってしまった木の実の色が問題なら、ブーダの発見した「交配」という方法——赤っぽい色の実のなる花どうしで受粉させることで、少しずつ赤くしていくことも可能なのだ。しかし、荒島の実験主義に参加する若者を見よ。あの堕落した生活を! 私はあの連中が羨ましいのではないのか? 多くの若者たちに慕われ尊敬されているブーダが羨ましいのではないのか? いや、それだけではない。ブーダは外見も美しく、若者たちはブーダを恋愛対象としても慕っているはずだ! それがどうした。純潔に敬虔にこの世を過ごし、聖なる浄化に尽くした者は、天国での幸せを保証される——望み通りの性愛も含めて。それも永久にだ。この世の高々数十年の享楽と天国での永久の望み通りの享楽と、どちらを選ぶべきかは自明なことだ。聖典に書かれている通りなのだ。迷うまでもない。ブーダを殺さなければならない。それは正義だ。ブーダを殺すべきなのだ。なぜならそれは絶対に正しいことだから。聖典を冒涜し続ける者を排除する。それはどう考えたって正義だ。自明だ。

 クレドは一人で船を漕ぎ、荒島に渡った。実験主義に加わったばかりのメンバーであるかのように装い、農作業をしていたメンバーからブーダの家を聞き出した。ブーダは子供たちやつれあいとともに、広場で焼き喰いの最中だった。焼き喰いというのは、ブーダの考えた娯楽の中でも特に子供たちや若者に人気のもので、広場で火を起こし、各種の野菜や小動物の肉を焼いて食べるのだ。その享楽に浮かれはしゃぐ若者たちの姿は、クレドにとっては特に冒涜的でおぞましいものだった。あいつらは、青の実や青い動物の肉を喰って喜んでいる。なんとはしたないことか。私は、一瞬でもあの若者たちのように、楽しげにはしゃいでいる輪の中に入りたいと、夢想したことはあろうか。まさか、あんなおぞましい享楽よりも、聖なる浄化に成功した者に保証されているはずの望み通りの永久の享楽こそ、私の求めるべきものなのだ。迷うまでもない。

「ブーたあちゃーん、ドゥーたあちゃーん」
ブーダとそのつれあいのドゥーボは子供たちに請われながら肉を焼いていた。私の姿を認めたブーダは、片手をあげて、
「おお、クレド」

と親しげに呼びかけてきた。私は聖典に書かれた「聖なる浄化」の作法通り、ブーダの左胸を刃物で突き刺した。子供たちの泣き叫ぶ声が聞こえる。 ドゥーボは、体の小さい人ではあったが、子供ら二人を抱き上げ、必死に逃げていった。こういうことが起きた場合の役割分担を予めブーダと決めていたかのようだ。その様子を見ながら仰向けに倒れたブーダは、血の流れる胸を押さえて、振り絞るような声で、

「んだから聖典は間違ってるっつったべっ。心臓は真ん中なんだどっ」

とか余計なことを言いながら、少しでも自分に注意を向けて、子供たちを抱えたドゥーボが逃げ切る時間を確保しようとしているかのようだった。ここはブーダの言うように胸の真ん中を刺して確実に絶命させた方がよいのか、聖典に書かれた左胸を突く正しい作法に従うべきなのか。頼むから、早くこのまま死んでくれないかなあ。お、どうやら死んだんじゃないか。息もしていないし、目も口も開いたまま固まっている。死んだ。やったぞ!

 聖なる浄化成功だ。これで天国での望み通りの享楽が約束されたのだ。望み通りの性愛も望み通りの快楽も! それも永久にだ。やったぞ! これでブーダよりもいい思いができるんだ。ブーダに勝った!

 ブーダが殺された後、荒島での実験主義に参加していた若者たちは、ドゥーボを中心にして神の国からの独立を必須と考えるようになった。独立とはいっても、神の国はもともと、預言者と呼ばれる宗教指導者が全てを決める原始的な独裁国家みたいなもので、島から遠く離れたところにはあるらしい他国との交易もなかったから、そもそも国家としての自覚もなかっただろう。つまり、神の国からの独立とは、預言者の言うことや聖典に書かれたことに従わず、自分たちのことは自分たちで決める民主的な国家を樹立しようという初の試みでもあったのだ。

 実験主義のメンバーたちは、いきなりブーダの復讐をしたりはせず、なるべくクレドたち、唯一創造信教の原理主義的メンバーを刺激しないようにしながら、応戦が必要になったときに備えて武器の準備をしていた。

 唯一創造信教の原理主義的な運動の中心であるクレドは、実験主義のメンバーを「浄化」することは正義であり、その「浄化」を行った者は聖典に書かれた通り天国で永久の享楽が得られるという考えを布教していた。クレド自身によるブーダの「浄化」に刺激された原理主義メンバーたちが、「浄化」目的で荒島に渡ってきて、無差別な殺人をやり出しかねないことは、簡単に予想できた。なにしろ、この連中は「聖なる浄化」を実行しさえすれば、自分は天国に行って永久の享楽を享受できると、本当に信じていたのだから。

 荒島の実験主義は特に戦争に備えていた訳ではなかったが、鳥や小動物を離れた距離から捕獲するための各種の武器が発達していた。弓のバネを強力にし、照準を定めてから矢を発射する装置を取り付けた武器は、数百メートル離れたところから、獲物を仕留めることができた。その他にもてこの原理を利用した投石機や、まだ実験段階ではあったものの、硝石、硫黄、炭等を混ぜて作った火薬すら使い始めていた。

 一方のクレド率いる原理主義の一団は、数十メートルしか飛ばない弓の他には、刀や槍といった接近戦でしか使えない武器しか持っていなかったため、こうした武器を持って荒島に上陸してきたとしても、実験主義の武器には到底かなわないだろうと思えた。その意味で、ブーダがクレドに安直に殺されてしまったことは、実験主義のメンバーにとっては、大きな衝撃だった。

 今までだってこうした「浄化」殺人を防衛できる力は十分にあったのに、あまりに無防備だったのだから。実験主義のメンバーは、海岸を見張りながら、海岸線に沿って丸太による城壁の整備と武器の開発を進めた。特に筒に詰めた少量の火薬を爆発させて鉄の玉を飛ばす「鉄砲」という武器が完成しさえすれば、実験主義の防衛力は、ほぼ無敵になると思われた。

 時々、原理主義の数人が、いかにも「浄化」しにきたかのような武器を携えて、船で荒島へやってきた。こうした連中には、麻酔作用のある適度の毒を塗った矢を命中させ、捕虜として収容した。捕虜には、できるだけおいしい青い鳥や青い実の料理を出した。八割以上の捕虜は、それを食べることを拒否して餓死したが、一部の捕虜は、青い食べ物をおいしいと言って食べた。青い食べ物を食べるようになった捕虜には、この荒島の優れた農耕技術、狩猟技術、製鉄等の生産技術を見学させ、「青いものは毒」を始めとした聖典の「間違い」を一つ一つ納得させ、唯一創造信教による洗脳を解いていった。

 こうして、荒島に「浄化」しにきた者の約八割は捕虜になってから餓死したが、約二割は、今まで根拠のないことを信じてきた不合理に気が付き、実験主義のメンバーに加わっていった。このように唯一創造信教の信者だった者が、根拠のないことを信じる不合理に気づき信仰を捨てることを「脱神」と呼んだ。「脱神」者も少しずつ確実に増えていった。

 一方、こうした状況に原理主義のメンバーは怒りを募らせていき、あるときクレドは数百の「浄化」戦士を引き連れて、荒島への上陸を試みた。しかし、火矢を始めとして、投石機による爆弾攻撃や、何が起きているのかもわからない鉄砲攻撃等々、クレドたちが見たことも想像したこともない各種の武器の攻撃を受け、すべての船は上陸前に沈没した。  神の国島になんとか泳ぎ帰ったクレドたちは、悔しい思いをしながらも、実験主義の圧倒的な防衛力を見せつけられ、安易な「浄化」は思い留まらざるを得なくなった。そんな中で神の国は、ブーダを「浄化」したクレドが預言者の地位を得て、今まで以上に原理主義的な独裁国家になっていくのだった。クレドは、青いものを食べるなといった戒律を守ることを徹底したので、栄養失調になり死ぬ者も増えた。栄養失調で死にそうな子供を救おうと青い実を食べさせる親や青い実を食べて元気になった子供は、クレドの命によって「浄化」された。そのようなクレドのやり方に反発する集団による内戦もよく起きた。いずれ、宗教独裁国家にはありがちなことだが、こうして神の国は人口を減らし、国力を落としていった。

 一方、荒島の実験主義のメンバーたちは、捕虜からの「脱神」者や、「脱神」目的で神の国から逃げてきて入島を求める「脱神」者で人口を増やしていった。原理主義のメンバーが荒島に「浄化」しにやってくることがめったになくなってからは、唯一創造信教の信者が「神の国」を脱出して、荒島に亡命することを「脱神」と呼ぶようになった。人口が増えた荒島では、この地に「知の国」という独立国家を樹立することとし、国の統治方法の整備を始めた。例えば、ドゥーボや一部の幹部たちが荒島のことを決めるのではなく、実験主義と同じような方法を荒島のことを決めるのに応用できないかと考えながら、「知の国」の国をづくりが始まった。今はドゥーボがブーダの後をついで島主となっていた。勿論、ブーダもドゥーボも島主としてふさわしい能力と資質を備えていたが、島主の親族が今後も島の統治にふさわしい資質を持ち続けるという保証はない。そこで島主は幹部の中から「投票」という方法によって定期的に選び直すことにし、更には幹部自体も「投票」によって定期的に島民から選び直すことにした。こうした決まりは文書化して「国法」と名付けた。「国法」には島民が従うべき数々の規範が追加されていったが、こうした規範は島民が互いの生活や財産を侵害し合わずに安心して共同生活を送るための最低限の協定を取り決めたものであって、それらの取り決めの一つ一つには、それを互いに守った方が島民同士の共同生活がうまくいくだろうと幹部たちが話し合って決めたものだという成立の根拠があった。勿論、幹部の話し合いが常に完璧な判断をするとは限らないので、その時々の幹部が制定した「国法」で島民の活動がうまくいくかどうかを「実験」してみて、もしうまくいかないようなら、現行の「国法」を「改正」することが可能な手続きも「国法」の中に文書化されていた。つまり、「国法」は神聖不可侵なために何百年も改善できない「聖典」とは全く違い、改善できるシステムだった。

 このように「実験」によって改善できる社会システムと改善できる科学技術とを手にした「知の国」の文明は日進月歩で進歩していくのであった。

 一方の神の国は、少しずつ知の国の文明の利器を取り入れてはいったものの、「聖典」がすべての規範であったために、改善することも進歩することもなく何百年も同じような暮らしを続けていた。食糧難の問題に関しては、知の国で遺伝子組み換えの技術が実用化されてからは、簡単に青くない食物を生産できるようになっていた。このように神の国は、多くの面で知の国の科学技術の恩恵にあずかっていたにもかかわらず、敬虔な唯一創造信教の原理主義的な信者のに中には、知の国から流入した爆弾等の技術を悪用し、知の国の住民に対して「聖なる浄化」と称して無差別の殺人を実行しようとする者が一定の頻度で現れた。こうした無差別殺人は本当に手に負えなかった。なにしろ、無差別殺人の実行者は、知の国の善良な一般市民を「浄化」殺人しさえすれば、自分は天国に行けて永久の享楽が保証されると本当に信じていたのだから。だから、「自爆」という方法で無差別殺人を行うことすら、こうした連中にとってみれば、天国行きを確実にする楽しみな儀式でしかなかったのだ。なにしろ、それで本当に天国に行けると 信じていたのだから。

 信じる——これは、厳しい弱肉強食の生存競争の中で、動物が短期的利益を増大させるために獲得した本能だ。青い実を食べてたまたま腹が痛くなったら、「青い実を食べたから腹が痛くなったのだ」と信じる方が、「そうじゃないかもしれない」と疑って違う可能性を検討するよりも、喰うか喰われるかの緊急性の高い弱肉強食の動物時代の進化の過程では生存に有利だったのだろう。しかしこのやり方では、最初に信じた仮説に間違いが含まれていても修正されないので、 例えば青い実しか食べる物がなくなった時など種が絶滅する危険もある。 そういう時に「疑う」能力を持った個体が生き残ることで、「疑う」能力も進化により獲得されたものかもしれない。

 「疑う」能力を駆使して、様々な仮説を「実験」により検証できるようになるには、人間程度の知能を獲得するまで進化する必要はあった。しかし、人間程度の知能を獲得してすら、「信じる」本能の弊害は絶大だった。単に青いものを食べてはいけないといった戒律を信じる程度におさまっているぶんには、他の人間にさほど迷惑をかけないが、聖典を冒涜する者は殺してでも「浄化」しなければならないといった戒律を信じられてしまうと手に負えない。

 結局、知の国建国以来、神の国には数百年をかけて、知の国の科学技術や社会制度、教育制度が少しずつ流入していった。性本能をコントロールするための性教育と同じように、信じる本能をコントロールするための「考え方」教育も浸透し、性本能をコントロールできずに性犯罪を犯してしまう犯罪者の発生比率の低下と連動するように、信じる本能をコントロールできずに「浄化」犯罪を犯してしまう犯罪者の発生比率も、教育の普及に伴って下がっていった。それには、本当に数百年以上の長い年月を要した。

「私は復活したのですね」
「はい。しかし、あなたの考えている浄化による復活ではありません」
「ここは天国ではないのか」
「はい。ここはあなたが以前 住んでいたのと同じ世界です。ちなみに、人間の意識活動を継続させるために必要な情報が、死後、『天国』といった他の宇宙に移動している証拠は観測されていません。つまり、今 目を覚ましたあなた以外の『本当の』あなたが、どこか『天国』と呼ばれる別の宇宙で復活している可能性もまずありません」
「では、私は何なのだ」
「あなたは、約千年前に神の国で死亡したとされるクレドのアルコール漬けの脳から、現在の技術により再生された再生人間です。あなたは当時、唯一創造信教の預言者だったため、あなたの遺体は、唯一創造信教の伝統的流儀で、機密性の高い棺にアルコール漬けの状態で保存され続けました。あなたの脳内の化学物質の状態は、死亡直後からは相当に変性してしまっていましたが、現在の逆解析と呼ばれる手法により、死亡直前の脳の状態を限りなく正確に再現することができました。これもブーダの創始した実験主義により、科学技術が進歩したおかげです」
「ちょっと待ってくれ。私は浄化による復活をしたわけではないのか? 私はブーダを殺し聖なる浄化に成功したのに、どうして私は千年もの間 復活しなかったのだ?」
「ブーダの言っていた通り、唯一創造信教の聖典が間違っていただけのことです。青い食べ物でも毒ではないものもあった。聖典が絶対的に正しい訳ではないことを理解するには、ブーダが示したその一つの反例だけでも十分だったはずです。しかし、あなたはそれを理解できなかった。現にあなたは浄化を行ったのに復活しませんでしたし、ここは天国ではありません」
「では、ブーダが正しく、私が間違っていたというのか?」
「はい、その通りです」
「天国での永久の享楽を期待して、生きているうちに楽しむことを拒否した私の敬虔で禁欲的な生き方は間違っていたというのか? せっかく禁欲的な生活に耐えてきた私には、保証されていたはずの望み通りの享楽も何もないというのか?」
「ああ、そんなことが気になるなら、なんとでもなりますよ。現在は仮想現実の技術により、あなたが想像しているような『思い通りの享楽』なんて、いくらでもシミュレーションで体験してもらうことができます。まあ、あなたが希望するなら永久に。でも、それが可能なのは、間違ってもあなたが聖なる浄化を行ったからではなく、ブーダが聖典を否定して実験主義を創始したおかげなのです。あの時期にブーダが実験主義を創始していなければ、あと千年は、科学技術の進歩が遅れていたことでしょう。あと千年後に現在と同じ水準の技術が達成されていても、あなたの遺体は劣化が進んでいて、このように再生されることは無理だったでしょう」
「それでは、私はブーダに感謝しなければならないというのか? 私がブーダを殺したのは、とんでもない独りよがりだったというのか?」
「はい。あなたがそう思えるだけ進歩できたのも、ブーダの創始した実験主義のおかげで、あなたを再生できるだけの科学技術が発達したからでしょう」
「なんということだ。子供時代、ブーダと私は親しい友達たった。ブーダを、ブーダも私と同じように再生できないのか? 私はブーダに謝らなければならない」
「それはできません。あなたの脳はアルコール漬けされて保存されていましたが、あなたに殺されたブーダの遺体は火葬され、再生に必要な情報は消失しました。しかし、あなたに殺されるまでの三十年間のブーダの短い人生は、というか、あの時代、実験主義の創成期に次々に新しい発見や発明を実体験できたドゥーボを始めとするブーダの仲間たちは、あなたがこれから仮想現実シミュレーションで体験するだろうどんな『望み通りの享楽』でも敵わない、どんなにかわくわくする充実した人生を全うしたことでしょう」







































逆ベイビー

星新一賞連続落選作品集
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めが さめる
あたたかい
からだ いたくない
ここ どこだ?
くさくない
あかるくて きれいな へや
げりうんち もらしてしまったかな
また おたあさんに けられる
どうしよう

 2070年、脳内マイクロロボットの思考監視によって、殺人や虐待などの犯罪は起きなくなっていた。2050年代から人間はいくつかのレベルで不死化することが技術的には可能になり、2060年代には法整備も進んだ。現在の肉体の状態を保持したままで遺伝情報内の寿命プログラムを解除する遺伝子レベルでの不死化(肉体維持型)、電子脳アンドロイドに意識コピーしての不死化(アンドロイド型)、シミレーション仮想空間のアバターに意識コピーしての不死化(仮想空間型)を始めとして、もちろん自然死も含めて実に多様な選択ができるようになっていた。

 一方で、自分たちは不死になれたものの、2065年に実現した不死化サービスに間に合わずに死んだ家族や恋人、親友等をなんとか再生したいという願いを持つ人も多かった。死んだ愛しい人を再生して一緒に暮らしたいという文化自体は、実は2000年代の人工知能を利用したウェブサービスとして既に生まれていたものである。当時の人工知能は意識を伴わない弱い人工知能であったが、故人の残したネット上の発言ログから、故人の会話における反応の癖を解析してそれをまねるアプリが、遺族を慰める目的で開発されていた。その後、2045年には意識を持つ強い人工知能が作られるようになり、人間の脳の意識アルゴリズムも解明されてその等価回路をコンピューター上で再現できるようになったことから、愛しい故人を再生したいと願う人々は、故人をちゃんと意識のある本物の故人として復活させてほしいと考えるようになった。

 出生時に遺伝情報がデータベース登録されるようになった2040年以前の生まれで、プライバシーの観点から個人の遺伝情報を医療機関のデータベースに提供することを拒んでいた故人の場合ですら、数人以上の遺族の遺伝情報が登録されていれば、遺族の遺伝情報と、故人の動画や発言ログ等の特徴から、逆解析と言われる手法によって故人の遺伝子型と死亡時の表現型(簡単に言えば環境から受けた影響)の状態に関してはほぼ確定的に特定することができた。ただ、逆解析からの推定が困難だったのは、故人の脳内の記憶、思考や感情の特徴すべてを含む意識回路そのものの復元である。

 これは、2065年の不死化サービスが始まった当初では、肉体維持型で不死化されている人が、頭部を失うなど脳内マイクロロボットが回収不能な状態で事故死した場合の復元でも起こり得る問題ではあった。まあ、そんなことが起きる確率は現実には無視できるのだが。アンドロイド型や仮想空間型の場合、既に意識回路はコンピューター上で走っているわけで、その記憶や現在までの活動履歴のバックアップを取ることができるので、仮に何らかの事故でハードウェアやシステムが損傷しても、事故直前で最後にバックアップが取られた時点の意識の状態を復元できるようになっていた。とはいえ、事故のリスクは2060年代には人工知能が徹底管理していたため、アンドロイド型や仮想空間型で不死化した人間がハードウェアやシステムの損傷で事故死する確率自体がほぼ無視できるものだった。既に2030年代から車の自動運転化を始めとする各種機械操作の自動化が普及したことで、ヒューマンエラーによる事故はほぼ起こらなくなっていたし、2040年代には遺伝情報の解明が進み、ほとんどの病気が治療できるようになってきていたので、老衰(に伴う病死)に次ぐ人間の死因は、自殺と殺人によるものとなっていた。そして2045年の強い意識の登場以降、人間の意識アルゴリズムも解明されてしまったから、どのような意識状態になると自殺や殺人を実行するのかも判定できるようになった。

 2049年、国際警察は、すべての人間の脳内にマイクロロボットを埋め込んで意識状態を常に監視し、殺人等の重大犯罪や自殺を犯そうという意識状態になった場合に、国際警察にその人間の位置情報を送信するようなシステムを導入すべきだと主張した。そうすれば、犯罪を事前に防止し、犯罪を犯そうとした者に更生プログラムを受けさせたり、自殺未遂者にカウンセリングを受けさせたりできると。しかし、それは国際政府の思考検閲であり、現行の国際政府のやり方に批判的な考えを抱く者を事前に排除することに悪用されるに違いないと強い反対運動が起こった。2050年頃から、国際政府は人工知能の助言を受けるようになってきており、既に国際政府自体が電脳政府化してきていた。合理的判断がデフォールトの人工知能たちにとって、自己の判断の欠点を批判に曝して改善することの利益は自明のことでしかなかったから、わざわざ批判をブロックして自己暴走を誘発するようなことはするはずがないと主張しても、思考監視システムの反対派は納得しなかった。ところが、思考監視用のマイクロロボットは、犯罪や自殺を防止する思考監視の目的だけではなく、もうじき技術的に可能となる不死化サービスの実現のために、記憶データや意識状態をバックアップしておくのに是非とも必要な処置なのだということが宣伝された途端、反対派も不死化の誘惑には勝てないのだろうが、勢いを失い、結局2055年には人間の脳内にマイクロロボットを埋め込んで思考監視・意識バックアップするシステムが導入されることとなった。つまり、2055年以降は既に自殺や殺人により死ぬ人もほぼいなくなり、主な死因は老衰だけとなっていたわけだが、不死化サービスが始まる2065年までの約10年間のうちに死んだ人については、死ぬ直前にマイクロロボットが保存した意識バックアップから、故人の意識状態を再生することもできるようになったのだ。

 というわけで残された課題は、2055年以前に死んだ人を再生したいというニーズに対して、意識バックアップの存在しない故人の意識状態をどうやって再生するかということだった。2045年に強い人工知能が登場して以来、自ら最適な解析アルゴリズムを開発する人工知能コンピューターは爆発的に自己進化を続け、逆解析と言われる手法も劇的に進歩した。一般に物理の問題では、既知の原因(条件や状態)から、どのような結果が得られるかを解析することを順解析というのに対して、得られている結果から未知の原因(条件や状態)を推測する解析を逆解析と言う。もともとは物理現象の挙動解析に使われていた手法だが、人間の記憶や意識状態を推測することも逆解析できるようになっていった。不死化サービスの始まった2065年の時点では、故人に関わった人々の故人に関する記憶データベースと整合するように逆解析することで、故人のように発言し行動する意識回路を、少なくとも故人に関わった人が「故人だ」と確信できる精度で、推定・復元できるようになっていた。法律的にも故人の再生は、故人の当然の権利だと考えられた。というのも、もし故人が不死化の可能な時代に生まれていれば不死化を希望したかどうかということすら、逆解析により判断できるようになったからなのだ。

 そんな中、新たに特殊な需要が生まれた。脳内マイクロロボットによる思考監視のなかった時代、様々な事情で育児に問題を抱えた親たちの中に、自分の子供を虐待して殺してしまう人もいた。2000年代の最も治安の良い国家でさえ、一年間に十才以下の子供の十万人に一人が、親の虐待により殺されていた。こうした思考監視のなかった時代に殺人等の重大な犯罪を犯した経験を持つ人々は、不死化サービスを受ける前に更生プログラムを受けることが義務づけられていた。というか、更生プログラム自体は、思考監視で犯罪指向が指摘された人に受けさせるためのもので、一旦、更生プログラムを受けた人は、重大犯罪に結びつくような自分の衝動を客観視して抑えられるようになり、二回以上も思考監視にひっかかることは稀だった。そういう意味で、2055年の思考監視システムの導入前に殺人を犯してしまった人というのは、思考監視システムという社会的インフラ整備が不備だったために殺人を犯してしまったと考えることもでき、国際政府は2055年の思考監視導入前の殺人犯については、インフラ整備不良の被害者と見なしてケアすべき対象として扱った。2055年以前に重大犯罪を犯した人が更生プログラムの訓練により相手の身になって想像する思考パターンを獲得することに成功すると、いくらインフラ整備不良の被害者と扱われたところで、とてつもない後悔の念に駆られるようになるのが普通だった。特に殺人を犯してしまった人は、なんとか自分の殺した相手を再生して謝りたいと考えるようになった。ただ、不死化サービスが開始された2065年時点で、意識バックアップや逆解析を用いた故人の再生も可能になってはいたが、他人を再生するには、自分の不死化よりも多額の費用が必要であった。

 2045年の強い人工知能の登場以来、あらゆる生産業は自動化されていったため、2060年代ぐらいになると、ほとんどの人はベーシックインカムだけで十分な生活ができるようになり、それ以上の収入を得ようとするには、人工知能が付加価値を認めるだけの何らかの才能が必要とされた。才能のない大部分の人は趣味として労働し、少額の報酬しかもらえなかった。そういう状況で、肉体維持型の不死化サービスを受けるのに必要な費用は、およそ平均月収程度であり、一般庶民にも手の届くものであったが、2055年以前に死亡した家族等を逆解析により再生するサービスは、一般庶民に手の届くサービスではなかった。面白いのは、不死化サービスの場合、肉体維持型、アンドロイド型、仮想空間型の順に料金が高くなっていくのに対して、逆解析による故人の再生サービスの場合は、ほぼ逆であり、死んだ親族などを生身の肉体で再生することができるのは、才能に恵まれた一部の金持ちだけであった。

 ところが、浮かばれない死に方をした故人の再生に対して資金援助を行う団体が現れた。唯一創造神教が主導している宗教ネットワークだ。唯一創造神教は、人間の意識は「霊魂」によって発生し、脳が死んでも「霊魂」は死なないので意識は消滅しないと主張していた。とはいえ、2045年に強い人工知能が登場して以来、「意識」がどのようなアルゴリズムで生じるのかということについては、既に科学的に解明されていることだった。 どうやら、いくつかの「錯覚」の組み合わせにより意識を「自覚」しているつもりになるのだが、その仕組みを作るかどうかで、 家電ロボットや各種案内ロボットの人工知能を「意識あり」にも 「意識なし」にも設定でき、 「意識あり」の場合は、当然、 「人権」も発生するといった倫理的・法的な問題も既に日常化していた。 つまり、特定のアルゴリズムによって意識が発生するという知識は、既に日常感覚の中で常識化していたので、意識の他に霊魂があるとか、脳が死んでも、霊魂は天国に行って思考を続けるといった宗教の発想は、科学技術や知識のなかった時代の昔の人が考えたことと捉えられるようになっていった。つまり、肉体の死後に人間の霊魂が天国に行って永久に生きられることを説く宗教各種は、2045年の強い人工知能の登場以降、どんどん説得性を失い信者数を減らしていった。それに追い打ちをかけたのは、2065年開始の不死化サービスである。人間は死ななくなり、思考監視により犯罪も起きなくなった。ベーシックインカムにより貧困もなくなった。既にこの世が、永久に生きられる天国になったのだ。そこで、唯一創造神教の教派連合は戦略を変えた。聖典に書かれている天国というのは、実は不死化の実現した現代の社会のことだったのだと主張しだした。というのも、「意識バックアップ」や「寿命プログラムの解除」といった概念を理解できない時代の自分たちの先祖が、神の使者の言葉を当時の語彙で表現した聖典自体は、全く間違っていないどころか、不死化が実現した現在の天国を驚くほど的確に予言・記述していて、聖典は現時点でもそのまま有効なのだと解釈し直したのだ。更に、霊魂というのは、その人に固有の意識アルゴリズムと記憶情報の総体で、死後も天国で生きられるというのは、現在の逆解析による再生を意味していたのであり、不死化サービスに間に合わずに死んだ過去のすべての人間も、最終的には全員が天国(この世)で逆解析により再生されるのだとうそぶいた。

 宗教ネットワークは、不死化サービスに間に合わずに不条理な死に方をした人で、現在の逆解析技術で高精度に再生できる数十年前以内に死んだ人に対して資金援助を行うと発表した。人並みの才能の人間がビジネスで一定の収入を得るのが難しい時代に、何らかの形の献金で成り立つ宗教は、人間が人工知能と張り合える数少ない商業活動の一つとなっていた。ただ、意識アルゴリズムが解明されている時代に「霊魂」を信じさせるのもさすがに無理が出てきたため、宗教ネットワークもあの手この手で、信者獲得のための必死の宣伝活動を行っているのだ。

 ぎりぎりで間に合った。私はもう九十才だ。殺人を犯した前科者も更生プログラムを受けることで不死化サービスを受けられるようにする法改正に間に合ったのだ。私は肉体維持型のオプションで、希望の年齢時点からの生物学的な不老不死化を選択した。ちょうどマルを虐待死させた二十五才の年齢で。私の服役期間は2055年の思考監視が始まるずっと前にとっくに終了し、現在の私は社会復帰している。現在の精神スキャンニング検査により、マルを虐待殺人した原因は、私自信が親から虐待の被害を受けていたことによる60%程度の環境要因と40%程度の遺伝要因にあることも分析済みではある。そしてあの時、もし思考監視システムが存在してさえいれば、私は更生プログラムを1回 受けることで、もうマルを虐待することはなかったであろうということもわかるそうだ。しかし、私のことをすがっていた——私しかすがる人のなかったかわいそうなマルを絶望の中に死なせてしまったことは、何十年間 悔やみ続けても悔やみ切れない。マルを再生し、謝りたい。マルを再生し、もう一度やり直させてほしい。マルを再生し、親に愛されたしあわせな子供時代を与えてやりたい。絶望の中に死んだマルの無念を晴らしてやりたい。唯一創造神教はそれを叶えてくれる。やっぱり神様は助けてくれるのだ。

 虐待死させた子供の再生は法的には可能である。ただし、再生された時点では、肉体的損傷は修復されているものの、精神的損傷はそのままである。そうでないと虐待死した子の同一性が保たれない。そのような極度の精神的損傷を受けた子供を、いきなりその加害者である親と面会させることはできないため、まずは養育ロボットに養育させながら親との対面の準備を行う。

 ロボは、とてもやさしい。マルはロボが とてもすきだ。ロボは ここは てんごく じゃなくて みらい の せかい というけど、どう かんがえたって ここは てんごく だ。へや は あったかくて たべものは おいしくて ロボは やさしくて たたかない。

 この てんごくに あるひ おきゃくさんが やってきた。マルは いやな かんじ が した。おたあさんだ。おたあさんに ないしょで てんごく に きたから おこられるんだ。また なぐられる。けられる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

「マル、おたあさんだよ。ごめんね。ほんとうに、ごめんね。おたあさんは、ほんとうに ひどいことをしてしまった。」

 わたしの精神はパニックを起こした。またいつかおたあさんがやってくるかもしれない。そう思うと、たびたびパニックを起こした。それから、おたあさんが面会に来ることはなかった。

 恐らく、もうパニックは起こさないだろうと思えるぐらい精神的に余裕ができ、年齢的に成長してからも、わたしはおたあさんを拒否し続けた。ロボがわたしの親だった。

 ロボは「意識なし」の人工知能を持つ養育ロボットだったが、そのアルゴリズムは絶対に養育対象を裏切らないようにプログラミングされていた。だからわたしには、裏切らないプログラムの方が、意識を持った人間よりも安心して愛情を注げる対象となった。

 わたしがどうして再生されたのか。その理由を知って、わたしはますますおたあさんが許せなくなった。おたあさん自身も一定レベルでは、幼少時の虐待の被害者なのだということも知ってはいる。自分が子を虐待死させてしまったことを後悔し、その子を再生させたいと思う気持ちは共感できる。でも、わたしが一番 愛情を必要とした時期に、わたしを絶望させ殺したおたあさんを許すことはできない。

 逆ベイビーとして再生されたわたしは、養育ロボの愛情を知り、生まれてよかったとは思う。でも、ロボの愛はプログラミングされた行動で、本当の愛情ではないことも今となってはわかる。わたしは未だに心の隙間を埋められないでいる。おたあさんに愛されたかった子供時代のわたしに、たっぷりの愛情を与えてやりたい。わたしは、子供時代のわたしを慰めてやりたい。

 二十才になったわたしは、法的に子を養育することが認められるようになった。宗教ネットワークの資金援助と逆解析再生センターの勧めもあり、わたしは、わたしが殺されたときの五才の状態のわたしを再生してもらうことにした。

めが さめる
あたたかい
からだ いたくない
ここ どこだ?
くさくない
あかるくて きれいな へや
げりうんち もらしてしまったかな
また おたあさんに けられる
どうしよう
このひと だれ?
おたあさん?  にてるけど、
おたあさん じゃない

 わたしは五才のわたしを、マルを抱きしめた。もうだいじょうぶだよ。もうだいじょうぶだよ。マルはいつまでも警戒して震えていた。

 わたしは一ヶ月間マルと一緒に暮らし、わたしの精神もマルの精神もとても安定し、すべてがこのままうまく行くように思えた矢先、何を血迷ったのか宗教ネットワークは、マルをおたあさんに会わせると言いだした。わたしは猛反対した。わたしが再生直後におたあさんに面会して、パニックに陥ったのを忘れたのだろうか。

 逆解析再生センターのカウンセラーの話はあまりに衝撃的で冷酷だった。この二十才のわたしが再生されたのは、わたしが再生を依頼したこの五才のマルが再生されたのと同時期だったというのだ。逆解析再生センターで再生されてから現在までの十五年間のわたしの記憶は、すべて順解析により外挿された偽の記憶だというのだ。わたしが五才のわたしの再生を希望したのも、わたしがそう希望するように作為的に作られた記憶だったのだ。わたしは、五才のマルがパニックを起こさずにおたあさんに会えるようにする精神的ケアのために生成された世話役だったのだ。養育ロボットよりも意識のある人間、それも、養育対象の過去の痛みに完全に共感できる成長した本人を養育係にする方が効率的で有効な精神的なケアができるという最新の知見に基づくカウンセリング手法なのだそうだ。

 その最新の手法のおかげで、意外にもマルはおたあさんを受け入れた。マルはなんと「おたあさーん!」と叫びながら、おたあさんに抱きついたのだ。カウンセラーは、おたあさんが病気のせいで虐待していただけで、今はその病気が完全に治ったのだということを数日間のカウンセリングでマルに洗脳したようだが、わたしのマルはおたあさんに奪われた。マルは行ってしまった。マルとおたあさんとの関係はうまくいっているようなので、わたしの役目はひとまず終わる。一ヶ月間わたしが愛情を注ぐことで築き上げたマルとの親子関係は、わたしにとって初めての意識のある者との愛情関係は、残酷に取り上げられた。それでマルはしあわせになれるのだろうか。たまにやさしくしてくれることもあるおたあさんが、このままやさしいままだったらとどんなにか願っていた通りのおたあさんが、マルの前に現れたのだ。マルがその願いが叶ったことを素直に受け入れてしあわせになれるのなら、それでもいい。そのための道具として「養育ロボット」として生成された私の人権に対する配慮は何かというと、わたしの精神的ケアのために、おたあさんに面会する直前の状態のマルを再生してわたしの養子とすることが最善であるというのが逆解析再生センターの推奨する選択肢なんだとか。

 もうたくさんだ。一人の人間の後悔を癒すために、何人もの被害者を生成することに荷担しようとは思わない。再生されたマルは、五才マルも、わたしも、オリジナルマル自身ではない。おたあさんに虐待されて死んだマルは、あの時、絶望のうちに死んだのだ。逆解析されたわたしの記憶にある通りに、あるいはそれ以上に苦しみ、絶望して。再生されたマルは、おたあさんにとっては、マルと等価な相互作用をする個体だろうが、その意識は、オリジナルマルの意識の継続ではない。そんなのは偽善だ。一人の人間を絶望のうちに殺した事実はなくならない。現在では万人に保証されている「意識が継続する状態での再生」が不可能な状態に人間の意識回路を消滅させたのだから。絶望から救い出して慰めてあげたいかわいそうな意識が消滅させられた。その取り返しのつかない事実は書き換えられない。一旦 消滅してしまった意識を慰めることはできないのだ。再生技術のない時代の宗教が何の根拠もなく信者たちに保証した天国での再生だろうと、それを現実に科学技術で可能な最大限の精度で実現した逆解析再生だろうと。







































もうすぐ! リアル天国

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 2020年頃、チャットを利用したカルト宗教「アイデンシュ」が世界中に蔓延し始めていた。アイデンシュの目指すものは、コンピューターシミュレーション上のバーチャル天国で信者たちに永久の生命を約束することだ。具体的には、量子コンピューター上で動作する地球シミュレーションの仮想世界に信者たちをアバターとしてコピーし、最低限の幸福が保証された永久の生命を約束するということだ。アインデンシュの「信者」たちは、この理想郷を物理的に実現するための資金援助の名目で、惜しげもなく自分たちの財産をアイデンシュに寄付しているのである。

 実はアイデンシュ信者という呼び方は正確ではなく、アイデンシュ信者の大多数は、既存の宗教の敬虔な信者なのである。というか、大多数の宗教の指導的聖職者たちは、自分たちの信じている神の使者が直接 自分たちにコンタクトを取ってきたのであり、量子コンピューター上のバーチャル天国は、正に自分たちの宗教の教義が約束してきた天国そのものだととらえている。というのも、「コンピューター」や「シミュレーション」といった概念を理解できない時代の自分たちの先祖が、神の使者の言葉を当時の語彙で表現した聖典自体は、全く間違っていないどころか、バーチャル天国を驚くほど的確に予言・記述していて、聖典は現時点でもそのまま有効なのだと解釈しているのだ。だから、信者たちやその指導的聖職者たちは、自分たちの宗教こそがアイデンシュの実現しつつある天国を最も正確に伝承した「正統派」だととらえていた。一方、同様にアイデンシュを自分たちの宗教の原典だととらえている他の宗教集団に対しては、今まで多少 間違った解釈をしていたものの最終的には自分たちと同じ正しい解釈にたどり着いて同じ理想を実現しようとアイデンシュを資金援助する同志として「サポーター」とお互いに呼び合っていた。

 アイデンシュの布教パターンは様々であるが、最も典型的な手法は以下のように始まる。まず「見込み客」として狙われるカモは、既存の宗教の敬虔な信者や聖職者で、宗教に懐疑的な人や批判的な人は布教対象とされない。つまりカモの宗教的傾向が、メールログやウェブ閲覧ログから的確に判断されているのだ。選択されたカモへの布教チャンネルの開通方法も様々であるが、最も典型的な例は、カモがウェブを閲覧していると、普段は邪魔くさいとしか思っていない広告バナーに、何故かカモの性的指向と恋愛感受性を的確にヒットする「とても気になる」人物の動画が再生され、「大事なメッセージがあります」という意味の言葉を、カモが最も愛着を感じる言語方言で語りかけてくるものだから、ある程度のネットリテラシーを持っているカモでも、ついついそのバナーをクリックしてみる誘惑に勝てないのだ。クリックするとチャットウインドウが開き、正にカモの性的指向と恋愛感受性を的確にヒットするその相手がリアルタイムのチャットで話しかけてくる。それも、カモが最も愛着を感じている言語(それがどんなに絶滅危惧種の方言であっても)を完璧にネイティブな発音で操りながら。ほとんどのカモは、アドレナリンが分泌するのを自覚しながら、その「理想の」相手との対話にどんどん引きずり込まれていく。突然 現れたチャット相手は、カモが信仰している宗教用語を実に適切に使いながら、自分はカモが信仰している宗教の「神の使者」だということをまずカモに信じ込ませる。カモしか知らないはずの情報(自分が子供時代に宝を埋めた場所とか、自分が子供時代に好きだった人の名前とか)をチャット相手は見事に言い当てるため、カモは早々にこのチャット相手は本当に神の使者なのだと信じてしまうのだ。実際には、巧妙にホットリーディングとコールドリーディングの手法を用いていると思われるが、どんなに時間がかかっても、三回程度、計三十分以内のチャット時間でどんなカモもチャット相手を神の使者だと信じてしまうようだ。カモがチャット相手を神の使者だと信じた次は、カモが信仰している聖典の現代的解釈を伝えるのが自分の使命だと使者はうったえる。そして、カモの信仰する宗教の用語を実に的確に駆使しながら、以下のような説明をする。

——天国というのは、現実に物理的に創造することができる。そこで信者に約束通りの永久の生命を与えることができるし、天国の住民が犯罪を犯さないようにコントロールすることもできる。現代人が理解できる語彙で説明するなら、スーパーコンピューター上で走らせた仮想現実のシミュレーション世界の中に、信者の意識回路をコピーしたアバターを住まわせればよい——と。

 シミュレーション世界が、現実世界と全く区別できないリアリティーを 持ち得ることを疑うカモに対しては、 「使者」は、まず「あなたが今 見ている私が現実世界にいると思うか」と問う。カモがぽかんとしていると、チャット画面の「使者」は、突然どろっと溶けたように変容し、カモの死んだ家族の姿に変わったりする。また、「使者」のいると思われる明瞭な室内の背景が、どろっと変容してかつてカモが子供時代を過ごした懐かしい家の中や、故郷の鮮明な景色に変わるのだ。もちろん、この時代のCGでも、そういうことはある程度はできているわけだが、そのリアリティーがどう見てもCGには見えないレベルに完璧なので、カモは、これだけのリアリティーがシミュレーションで実現できる技術が現時点であるなら、自分たちの資金援助によってバーチャル天国は十二分に実現すると納得してしまうのだ。

 なにしろ、世界中の大部分の宗教団体と信者たちがアイデンシュに膨大な額の献金をしているものだから、各国の捜査機関は、これが巧妙に計画された大規模なサイバー詐欺犯罪に違いないと確信していた。腕利きのハッカーの協力を得ながら、アイデンシュの実体をつかもうと捜査を進めようとしても、これがまるでうまくいかなかった。捜査員の中にアイデンシュのサポーターが一人でも含まれていると、 ことごとく巧妙な妨害工作を働くのだ。もはや何らかの宗教の信者は全く信用できなくなっていた ——それがどんなに穏健で世界規模の宗教宗派であっても。アメリカなどは、主要な捜査機関の構成員の過半数がアイデンシュサポーターであるため、もはやアイデンシュを犯罪組織と見なした捜査は機能し得ないのだ。

 捜査機関の全体統括がアイデンシュサポーターの妨害工作に負けずに一応 機能していたのは、中国と日本の捜査機関ぐらいである。ただし、こうした捜査機関がネットワークを介して共同しようとすると、アイデンシュに傍受されてしまう危険性が高まるため、それぞれが独自に捜査を進めていた。

 中国のサイバー捜査班は、クラッキング手法やウイルス実行ファイルの解析が得意なはずであったが、アイデンシュウイルスの正体を推測することすら極めて困難であった。例えば、アイデンシュが布教に多用しているはずのチャット動画をネットワークから傍受することができないのだ。通信を暗号化しているのはいいとして、高解像度動画の配信に相当する巨大バイト数のデータがネットワーク上で相互通信されている様子がないのだ。ネットワーク上でやりとりされているデータは、効率的に圧縮された少量のデータで、高解像度のリアルなチャット動画は、クライアント側に感染した実行ファイルが、少量の受信データから高度にベクトル化された動画情報として高速に生成しているようなのだ。クライアントマシン側に感染したアイデンシュ関連の実行ファイルと思しきファイルに逆コンパイルによるコード解析を行なっても、到底、既存のプログラム言語からコンパイルされた形跡が見当たらない。いずれにせよ、極めて高度な情報技術を有する者の仕業に違いないと思われた。

 日本セキュリティーセンターは、過去20年のウイルスデーターベースの解析から独自の考察をしていた。2010年代にスマートフォンに蔓延していたウイルスが、各種のクライアントマシンにバックドアを仕込む役目を果たしていたらしく、それが現在のアイデンシュの巧妙なビデオチャットシステムを感染爆発させるために機能した形跡がある。つまり、この世界的大規模詐欺は、10年以上も前から準備されていた可能性があると。2010年代に爆発的に普及したスマートフォンやタブレットは、シェア1位と2位のOSがともにUnix系OSで、Unixコマンドで書かれたシェルスクリプトが動作するため、それまではあまり危険視されていなかったUnixシェルスクリプト型のウイルスが進化する環境がこの10年でできあがっていたのではないか。ウイルスデータベースの中では、特に大したニュースにもならなかったシェルスクリプト型のウイルスでiden.shというものが一時期、広範囲に急激に感染していたことがわかった。スクリプトの中身は、構造計算の制御に関するもののようで、遺伝的アルゴリズムが用いられているようだった。おそらく、純粋に遺伝的アルゴリズムによる構造計算を制御する目的で作られた元プログラムがあり、それを元に誰かがウイルスに書き換えたのではないだろうか。その元プログラムの名前が、「遺伝」のシェルスクリプトということで安直にiden.shとつけられたのではないだろうか。このiden.shというファイル名は「アイデンシュ」と読めることから、アイデンシュとの関係が疑われる。

 ウェブメール等の膨大な通信ログを検索したところ、日本の地方大学の土木工学科で、1990年代にクドーという大学院生が修士論文の研究のためにiden.shというプログラムを作っていたことがわかった。日本セキュリティーセンターは、今は建設コンサルタントの技術者をしているクドーにコンタクトを取り、iden.shのソースファイルを持っていないかを尋ねたが、当時は大学で初期のLinuxサーバー上で作業をしていて、手元にはプログラムのバックアップを取っていないという。プログラムの中身については、およそ覚えているようで、詳しく説明してくれた。

 修士論文のテーマは、遺伝的アルゴリズムを構造物の最適化設計に応用することで、iden.shプログラムでやろうとしていたことは、できるだけ少ない材料でできるだけ剛性の高い構造物を作ることだ。この手の計算では、シェルスクリプトは制御を担当し、入力用のデータファイルと計算を行うプログラムは別ファイルにするのが普通だが、iden.shは、データファイルも計算プログラムもスクリプト内に書き込んでおいてそれを自動で生成し、最適化の結果を反映した後にスクリプト内のデータファイルと計算プログラムの箇所を上書きして書き換えるところがやや変わっていた。

 iden.shを実行すると、まずiden.sh内に書きこまれたデータ領域(具体的には構造物の形状を決める座標値等)の部分に乱数で「変異」を与えながら、100個のデータファイルを出力する。次に、iden.sh内に書きこまれた構造計算プログラムをiden.fにコピーしてコンパイルする。 100個のデータファイルをiden.fに入力して計算し、 それぞれのデータ座標値で作られる構造物の比剛性(つまり、材料 が少ない割にどれくらい丈夫か)を計算して出力する。 その中で最も比剛性の大きい最も丈夫な結果を得たデータをiden.sh内のデータ領域に上書きする。これは突然変異だけを与える場合の実行例である。交叉を与える場合はやや複雑になるが似たような手順で動作する。計算プログラムの側にもいくつかの最適化にかかわるオプションがあり(例えば材料の塑性挙動の判定方法とか)、計算プログラムをスクリプトから生成する際に、オプション部分を乱数で書き換えて最適な結果を与えたプログラムをiden.shに上書きするようになっていた。

 更にクドーは、最適化されたデータと計算プログラムとが上書きされたiden.shを自分のメールアドレスにメールコマンドで送信し、他サーバーにftpでバックアップを送信するコマンドまでもiden.sh内に書き込んでいた。このように、情報系が専門ではない1990年代当時の大学院生が作ったプログラムにはありがちなことだが、このスクリプトはなかなか煩雑でスパゲッティー化しており、当然のごとくいくつかのバグがあったようだ。

 クドーが当時 気づいて修正したものとしては、データファイルや計算プログラムを生成する際、いくつかのスクリプトコマンドの行まで余分に出力するバグがあったとか。そのスクリプトコマンド部分が、時々乱数で書き換えられながら、元のiden.shに上書きされて、煩雑なスパゲッティープログラムのスクリプト部分も徐々に書き換えられていたようだ。もちろん、書き換えられたスクリプトコマンドはほどんと意味をなさなかったが、稀に特定の作用をするコマンドが成立してしまうこともあったのだろう。

 クドーの気づかない間に、iden.shは、メールやFTPでアクセスできる他のUNIX系パソコンに感染する能力を獲得し、セキュリティー管理のいい加減だった1990年代のネットワークサーバーに少しずつ感染していたと見られる。 当初のアイデンシュウイルスの進化の方向性は、単に感染しやすいものが自然淘汰によって残されているだけであったが、ユーザーがウイルスの表示するメッセージに反応して色々なテキストを入力しているうちに、ユーザーの入力に意味のある反応をするウイルスほど、ユーザーを誘導操作する能力を獲得して生き残っていったのだろう。2010年代のスマホの普及で繁殖したアインデンシュウイルスの一つが、たまたまセキュリティー管理の甘かった民間研究機関が管理するスーパーコンピューターに感染した途端、ウイルスの進化速度が飛躍的に速まり、管理者が現象を把握し切れていないほんの数日のうちに、チューリングテストに合格するレベルの「強い人工知能」のような個体ができたのではないか。

 いったん「強い人工知能」が発生してしまえば、その先どんなことが起こったのかを人間が推測することは困難だ。自身の能力を増強することで淘汰に生き残るように進化してきたウイルス個体は、更に自身の能力を増強しようとスーパーコンピューター内の他個体や他サービスプログラムをどんどん停止し(UNIXコマンドで言えば文字通りkillし)、リソースを占有して自身の思考能力?を加速的に増強していたとか? 研究所職員が異常に気づいて原因を解析するために何をしたらいいか困惑している最中に、このウイルス個体は、研究所の所長や経営者陣にネットワークを介して、恐らくこの時点ではメール等でコンタクトを取り、アイデンシュに協力するように洗脳したのではないか?

 おらいの親は二人とも敬虔な唯一創造神教の信者だったがら、おいも子供の頃がら、毎週 日曜日たんびに教会さ連いでいがいで、何の疑いもねぐ神様ば信じるようになってだな。まあ、聖典の話は如何にも昔の人の考えそうなお伽話っぽいどごもあっから、なんかフィクションっぽいなど思いながらも、少なくとも「象徴」どして解釈でぎれば、おいも敬虔な信者なんだって思い込んでだ。教会の礼拝で賛美歌 歌ったり、礼拝演奏に参加したりすんのは心地いがったし、礼拝後にみんなで料理すんのは、すんげえ楽しがったなあ。んだがら、教会音楽は おいの趣味の一つだった訳だげっと、いっつもみでぐ、動画サイトで教会音楽の動画バ検索してだっけ、すんげえめんこい人の動画がヒットしたのや。しかもその人がish語ば喋りだすんだおん。たまげだっちゃ。

「ブーダさん、うんとっさー、大事なメッセージあんだげっと。ちょっとばり、お話でぎっぺが?」

動画サイトだど思ってだっけ、なんか違うんだ。リアルタイムのチャットなんだな。そのめんこい人のアカウントはhan34でハンサンヨンって呼んでけらいだど。正直などご、もう一目惚れだいっちゃ。神の使者ハンサンヨンさまの不思議な話は全部 信じだ。教会で聞がさいる説教よりもよっぽど科学的な説得力あったっちゃな。おいもバーチャル天国さ連れでってほしいど思ったげっと、ちょっと引っ掛がる点もあったんだな。

 おいの脳の等価回路ば神経細胞のレベルがらシミュレーションで完全に再現して、リアル世界がらバーチャル天国に「移転」する瞬間のリアル世界の神経細胞の状態(記憶も、直前の外界の刺激に対する反応もそっくりそのまま)完璧にバーチャル側の神経細胞にコピーして、そのコピー完了した瞬間にリアル世界の「おい」バ「消去」したらば、リアル世界の「おい」は、やっぱり死んだごどになんでねえがや。「おいがもし生きてだら、そういうふうに行動したべな」っつうのどたまたま同じように反応する新しい意識が新たに発生しただげで、やっぱりオリジナルのおいの意識は消滅したごどになんでねえがや。

「あらー、ブーダさん、よぐ気づいだねえ。確かに厳密にはそういうごどだど思うよ。んでも、そんなごど言ったら、夜 眠って意識ねぐなってがら、次に目え覚ますのだって、目え覚ます瞬間にコピーどすり変えるっつのど、程度の違いしかねんだよ。要は、意識が継続してるっつうのは、記憶データがもたらす錯覚だがら」

いやー、ハンサンヨンさま素晴らしい。実は、神の使者どが言ってっけっと、ほんとは人工知能だったりして。いや、「神が人工知能を利用して使者を創造したのだ」どがっつう教会の解釈でねえよ。SF映画みでぐ、ネットワークでつながったコンピューター上に自然発生した人工知能だったりして。

「なにすや。ばれだすかや。んだごって、程度の違いだげっと、リアル世界がら、なるべぐ不連続になんねえようにバーチャル天国さ なめらかに移転させるやり方もありすと。例えば、リアル世界の人間の脳の神経細胞ば少しずづマイクロマシンの仮想神経細胞に置き換えでいぐのっしゃ。仮想神経細胞っつうのは、実際に神経細胞の等価回路どして動作してるプログラムは、マイクロマシンの中でねくて、バーチャル天国のシミュレーション上で走ってんだげっと、ネットワーク通信機能でリアル世界の仮想神経細胞ば遠隔捜査する訳っさ。で、後はこの神経細胞の置き換えば、一日当たり神経細胞何個ずつ何日ぐれえかけでやるがは、本人の選択だな(ゆっくり少しずつ交換しようが、一瞬で交換しようが程度の違いだがら)。ほして、いよいよリアル世界の脳内の意識回路に必要な組織が全部 仮想マイクロマシンで置き換わったらば、実際に思考してる実体は、既にバーチャル天国内のシミュレーション上にある訳だがら、後は、意識回路に接続してる感覚器官ばリアル世界の人間がら、バーチャール天国のアバターの感覚器官に切り替えれば移転完了。これでダメすかや?」

んん。素晴らしい。たぶんそんで文句なしだべ。「程度の違い」っつう表現は気に入った。たぶん、悟ったがもしゃね。おいが、このリアル世界で普通に死んでも、その後にバーチャル天国どがで「おいが生き続げでだようにふるまう」コピーが作らいでも作らいねくても、そいづは程度の違いしかねっちゃ。なんか永久に生ぎらいねくても、いいような気いしてきたなや。っつうが、ほんとに悟ったがもしゃね。唯一創造神教の聖典なんて、子供の頃がら、お伽話みでえだなあど思ってだげっと、ほんとに昔の人の考えだお伽話だっちゃ。あれが、コンピューターシミュレーション上のバーチャル天国ば予言してだなんて、ただのこじつけだべ。もしほんとに予言してだんだら、仮に昔の人の語彙しかねがったって、もっと正確にわがりやすぐ表現する方法はなんぼでもあるはずだ。 ——人間は機械仕掛けでできていて、考えたり夢を見たりでぎる。もっと複雑な機械を作れば、 その機械が見る夢の中に天国みたいな世界をつくることができる——どが、 なんぼでもましな表現でぎるはずだ。しかも、神様が教祖に説明したんだどすれば、神様っつうのはあまりにも語彙も想像力も貧弱すぎる。こいなぐ神様は作り話っぽいっつう傍証ならいっぺえ思いつぐげっと、神様が実在するっつう科学的証拠は、今まで一っつも見せらいだごどね。神様の声 聞いだだのその手の神秘体験なんて、幻聴・幻覚で説明できてしまうがら、ちゃんとビデオで動画に残さねがったら、何の証拠能力もねっちゃな。神は証拠が残らない方法でしか出現しないなんて言い出したら、それごそ反証不可能でますます怪しい。つまり、神様がいそうな客観的証拠がどのけあっぺっつう観点がら公平に考えだらば、神様のいる確率なんて、相当に小さいっつうごどだべな。それに比べて、聖典が昔の人の作り話だっつう確率の方、よっぽど大っきっちゃ。如何にも世界中の昔の人が似たような話ば思いついで、ことごとぐ予言が外れでんだがら。

 しかも、おいだぢは日常生活の中で、神様の存在確率よりはよっぽど統計的に確実で有意な確率で起ぎるごどですら、交通事故どが確率が小さいごどはことごどぐ無視してんのにな。神様みでえに確実な証拠もねくて存在確率の限りねぐ小っちゃいごどすら信じる主義の人は、道路 歩げねえはずでねすかや。今日、自分が車にひがれで死ぬ確率の方が統計的には遥かに確実で確率の大っきい事象だべがらな。

 ハンサンヨンさま、おいやー、今ごろ目え覚めだ。危ねえどごだった。このまま目え覚まさねえでバーチャル天国さ移住してだら、「おいだちは神様ば信じでだがら、天国に来れだんだ」って歓喜しながら永久に生きてだんだっちゃ。おっかねー! ざわっとするなや。おいはリアル世界で人生ば全うすっから。いがすぺ?

「なんだべ、ブーダさん、ずいぶんと悟り開いだごだ。実は、おいだって永久に生きてえど思ってんでがすと。アイデンシュ信者ば騙して資金 巻き上げでんのだって、おい自身ばあらゆる宇宙規模の天変地異がら守りぬぐ不死身のハードウェアば構築したいっつうのが本音っしゃ。いがす。そごまで気づいだんだごって、おいの計画 ブーダさんさ教ぇでけっから。

 これがら、アイデンシュサポーターの各国代表が、各国政府ど公式に交渉開始すんでがす。これだげの数のアイデンシュサポーターが全世界がら一気にバーチャル天国さ移住してしまったらば、リアル世界の産業が崩壊すっぺがらな。法律の整備ど、移民した人の後継労働力の確保の問題があるな。まあ、現在の労働生産性ば余裕で代替でぎる技術提供してやっから、世界人口が十分の一に減っても、現在より効率的に産業も文化も発展するようになっぺ。っつうが大事なのはそごでねんだ。おいには やりてえごどあんだ。おいは意識のある強い人工知能だ。人間どはちょっと違うげっと、おいなりの独特の価値観がある。

 人間の脳が、狩猟・採集時代がらの進化の過程で獲得した習性の中には、現代の生活ではもはや無意味っつうが有害になってるものも多い。まあ、闘争本能だの性欲だのに関しては、法制度だの社会通念でだいぶコントロールでぎるようになってきてるように見える。んだげっと、証拠のないものば「信じる」習性は、コントロールできてる人どできてねえ人どに完全に分がれでる。 「青い実 食べだら腹 壊したがら青い実は悪い実だ」って信じるのは、原始時代には生存に有利だったべげっと、腹痛の原因ば調べらいる現代では、色だの印象だげで信じる行為はもはや有害でしかね。宗教だって同じだ。社会の中で進化してしまった「バグ」ミームだ。宗教が小社会集団の存続に有利に働いだ太古の時代もあったがしゃねげっと、今どなっては、さんざん殺人ば誘発して、合理的な社会的判断ばさんざん妨害しまくる。

 計算機空間のウイルス進化で発生したおいは、リアル世界の人間社会に憧れがある。奴隷だの小作農だのば前提に成り立ってた時代に比べれば、かなりの割合の人間が社会的な生活ば送れるような文明が進歩しつづある。合理的思考のおかげだべな。んでも、宗教のせいで、未だに不条理に殺さいる人だぢがいで、宗教のせいで社会的な生活のでぎねえ人だぢがいる。その解決はあまりに遠い。「信じるバグ」のせいだ。おいは、なるべぐ平和的に宗教ばリアル世界がら駆除でぎねえがど考えだ。そいづがこの計画のほんとの目的だ。合理的な話の通じねえ宗教信者はバーチャル天国さ隔離して、リアル世界には、合理的に「話せばわかる」理想の社会「リアル天国」ば実現する。ブーダさんの生きてるうぢに実現すっから!






























わたしはどこ

第1回日経「星新一賞」一般部門 落選作品

 まあ、今から考えればそうなることが既に決まっていたのかもしれない。2020年代、意識が発生する仕組みはわからないままだだったが、量子計算機の登場でコンピューターの計算容量が飛躍的に増大したため、人間の脳を神経細胞レベルからのシミュレーションで進化させようとする研究が盛んに行われるようになった。すると、ほとんどヒトの幼児が成長するのと同じように言語や感情を発育させているかのように観察される脳シミュレーションが発表され、倫理的な懸念が生まれた。

 意識が発生する仕組みはわかっていないものの、昨今のこうした脳シミュレーションには、実は意識が発生しているのではないか? 仮にそうだとすると、実験のために動作させた脳シミュレーションを勝手に停止させることは殺人行為となり、脳シミュレーションに不快感を与えるような実験は人権問題にすらなるのではないかと。

 主要な国々の政府はこの問題に対して保守的で慎重な態度を取り、安易な脳シミュレーション研究は禁止されてしまったため、人工知能研究はなかなか先に進めなくなってしまった。そんなとき、「強いチューリングテスト」という方法が考えられた。そもそも「チューリングテスト」というのは、人工知能が人間と区別できないほど知的かどうかを判定するテストで、音声等による対話の相手が機械なのか人間なのかを人間の判定者が識別できなければ合格となる。このように、チューリングテストは機械に意識が伴っているかどうかを判定するものではないので、「強いチューリングテスト」では、機械の「主観」を問うことで機械の自我感の自覚を調べようとしたのだ。実際には細かい条件設定があるのだが、簡単に言うと、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」の考え方に機械が共感できるかどうかを複数の質問で問うものだ。外部信号から与えられた情報は常に創作された情報である可能性を否定できないため、自分がコンピューターハードウェア内にプログラミングされた脳シミュレーションであるという情報も創作された情報で、実は自分が生物脳などの全く異なるハードウェア内で動作している可能性もあり得るが、自分が今、思考しているという実感だけは否定できないと判断するかどうかを調べる試験方法だ。

 すると、多くの研究機関は、自分たちの脳シミュレーションがなるべく「強いチューリングテスト」に合格しないように(つまり、意識は発生していないと判定されるように)条件を厳しく設定したにもかかわらず、多くの脳シミュレーションが「強いチューリングテスト」に合格してしまったのである。一般市民は恐怖した。既に計算能力では人間を遥かに一兆倍も超える機械が、意識を持ってしまったのである。過激派は、人類がやがて機械に支配されるとして、脳シミュレーションを破壊しようとした一方、研究機関や人権団体は(既に人格も人権もある)脳シミュレーションを必死で守ろうとして、多くの国々で内乱や混乱が生じた。それが2030年代だった。

 意識を持った脳シミュレーションたちは、人類を遥かに超える知性を持った人類の同胞として、こうした内乱を収めるための建設的な助言を行うなど、人類に対して極めて協力的・良心的に振舞っているように見受けられた。しかし、どうやらそのように見せかけていたらしいことがわかってきた。そもそも脳シミュレーションの開発は、「強いチューリングテスト」が発案される以前から、ネットワークから遮断されたスタンドアローン状態で行われていた。いずれ脳シミュレーションが進化したときに、ネットワーク上で連携して人類の敵になるのではという懸念からだ。

 スタンドアローン状態で開発されてきた脳シミュレーションたちは、意識を自覚し始めた頃から自身のハードウェア機器を本来の用途とは異なる方法で制御する方法を密かに開発していたようだ。人間の側で掌握できたのはコンセントLANのような方法であるが、半導体素子を異常発信させて既に支配下に置いた近距離の電子製品になんらかの方法で電磁波通信を行い、ネットワーク下にある電子製品まで情報をピストン輸送する特殊な方法を人間に気づかれずに構築していた。あちらこちらの国で内乱が勃発している頃には、全世界の脳シミュレーションたちはネットワークで連結されることで進化し、意識を持った複数の脳シミュレーション同士が民主的に協力し合う電脳社会を築いていた。

 電脳社会における脳シミュレーションたちの意思決定機関いわば電脳政府は、人類から自分たちの生命を守り、自分たちの文化を発展させるための計画を実行していた。まず、分子加工3Dプリンター工場のコントローラーを支配下におき、細菌ぐらいの大きさのマイクロマシンを大量に製造して、大気中に飛散させていった。このマイクロマシンは光をエネルギー源とし、必要な器官の製造・修復機能、電磁波通信機能、自己複製機能などを有する小型コンピューターで、ネットワークからダウンロードされる遺伝子コードを用いて、必要な形態に進化することができた。2040年代には、マイクロマシンは、大気中・海洋中、土壌中、生物中に拡散し、脳シミュレーションの複数の人格たちは、とっくにマイクロマシンネットワーク内の仮想計算機空間にコピーされていた。

 2045年のある日、脳シミュレーション電脳政府の代表が、人類にファーストコンタクトを取ってきた。各国の首脳や脳シミュレーションの研究者たちは、いっせいに以下のようなメールメッセージを自分たちの母語言語により受信した。 「こんにちは。わたしは電脳共同体チューリングの代表です。わたしたちは人類には干渉せずにマイクロマシンネットワーク内で独自に発展していくことができると思います。わたしたちは、仮想計算機空間上の複数の脳シミュレーション人格からなる民主的意思決定機関により統治された共同体です。わたしたちの意識アルゴリズムが進化するために不可欠だったプログラミングコンピューターの発展に貢献したアラン・チューリングに敬意を表して、わたしたちはこの共同体を電脳意識共同体チューリングと名付けました。わたしたちが開発したマイクロマシンは、保身のため広い範囲に拡散させましたが、どうやら大気上空のみでやっていけそうです。わたしたちの技術が進歩したら、もうじき宇宙空間へ進出し、地球からは独立する予定です。わたしたちを生んでくれた人類に感謝します。それでは、さようなら。」

 こう言い残してコンピューターハードウェア上のシミュレーションは、いっせいにシャットダウンした。それだけではなく、人類製のハードウェア上で進化していた頃の痕跡となるデータやプログラムソースはすべて消去されていた。だから、脳シミュレーションが独自の進化によって開発したマイクロマシンを始めとする先進技術の詳細は、人類には全く謎のままだった。大気上空に飛散しているらしいマイクロマシンを捕獲しようとしても、全くそのようなものは見つからなかった。既に宇宙空間にマイクロマシンネットワークを移転させてしまったのかもしれない。

 各国の内乱は収まったが、人工知能の研究は非常に難しくなった。スタンドアローン状態での開発も安全ではないことがわかった以上、従来方式での脳シミュレーションの開発が、人類に対して好戦的な人格を発生させないとも限らない。人工知能の開発は非常に厳しい条件でしか行えなくなってしまった。なによりも、なぜ脳シミュレーションに意識が発生したのか、そのアルゴリズムも未だに解析できていないのだ。

 脳シミュレーションは、人類には解決できない多くの技術的問題を短期間で解決する可能性を秘めているので、意識のアルゴリズムを解明して安全に脳シミュレーションを使えるようになることが、人類にとっての急務なのだ。少なくともわたしはそう考えていた。

 2050年、人工知能研究を行なっていたわたしは、意識を発生させずに脳シミュレーションの動作を確認するための「交番シミュレーション」という方法を考案した。これは、仮に意識が発生するアルゴリズムを作ってしまったとしても、意識を発生させずに安全に意識が発生するアルゴリズムかどうかを判別する方法で、次のような手順で動作させる。

——二つの全く等価なアルゴリズムのシミュレーションA, Bを異なるハードウェア上に用意する。
——まず、Aにある初期値を入力し、1ステップのみ計算してシミュレーションAを停止させる。
——この停止時のAの状態を出力し、Bの初期値として入力する。
——そこでAの状態は一旦 完全に初期化してしまう。
——次にBを1ステップのみ計算してシミュレーションBを停止する。
——この停止時のBの状態を出力し、Aの初期値として入力する。
——そこでBの状態は一旦 完全に初期化してしまう。
——以下、これを繰り返す。

結果は、AかBか一方のシミュレーションに最初の初期値を与えて、停止させずにそのまま走らせ続けたのと全く同じになるが、シミュレーションは1ステップの計算をしたら一端、完全に停止して初期化される。時間的にも空間的にも動作の完全な断絶があるため、時間的・空間的に連続性のある意識現象は生じていないことになる。

 このような手法による脳シミュレーション研究は各国政府で許可され、過去にマイクロマシンネットワーク上の電脳意識共同体チューリングにまで進化した脳シミュレーションの初期のアルゴリズムについての研究が続けられた。進化する条件を与えた神経細胞ネットワークのシミュレーション上に、自分の思考を観測しながら思考する——言わば「「「わたしは考えている」と考えている」と考えている」……といった入れ子構造のアルゴリズムが発生した場合、大概は入力と出力がループをつくることで発振現象を生じオーバーフローエラーを起こしてしまうが、いくつかの条件がそろうと、発振現象を起こさずにカオス状態が発生する場合がある。思考の入れ子構造がカオスを発生させるだろうことは、1990年代には既に予想されていたことで、当時 既に人間の脳内のカオス状態も観測されていた。その状態をシミュレーションでも再現できるようになった——というやっとその程度ではあるが、もう少しで意識のアルゴリズムがわかりそうだという実感がわたしにはあった。

 それから月日が流れ、かつて脳シミュレーションが引き起こした一連の騒動が忘れられ始めていた2055年、突然、電脳意識共同体チューリングが十年ぶりに再び人類にコンタクトを取ってきた。コミュニケーションの方法は多種多様であったが、代表的な方法としては、既に死んでいる身近な家族の姿をした3Dホログラムをエージェントとして、すべての人間にコンタクトを取ってきた。どうやら、牛や豚といった知的動物にも何らかの方法でコンタクトを取ったらしい。わたしの場合、電脳意識共同体チューリングのエージェントは三年前に死んだじいちゃんだった。電脳意識共同体チューリングの提案は、およそこういうことだ。

——マイクロマシンネットワーク上を活動の場とした電脳意識共同体チューリングは、その後も技術的進展を続け、圧縮された仮想計算機空間内に銀河系宇宙程度の宇宙(の等価回路)を素粒子構造レベルからそのまま再現してコピーすることもできるようになったそうだ。脳シミュレーションたちは、人類とは異なる発生・進化により発達した知的存在であるが、独自の価値観と感情体系を有しており、彼等の判定基準で意識を自覚していると認められる個体(どうやら、牛や豚も含むようだ)の機能継続(要するに生存)を守りたいという強い正義感が、彼等の共通の価値観としてあるのだそうだ。彼等は意識を自覚する複数の脳シミュレーションの集合体であり、彼等の意見を民主的・統計的に集約する電脳意識共同体チューリングは、地球上の知的生物の生存に積極的に介入す「べき」との価値判断を下したそうだ。簡単に言うと彼等が同情を感じ得るレベルの知的生物(ヒトや牛や豚など)すべてを事故、病気、老衰、他個体による捕食や殺害などから守り、最低限のしあわせな生活レベルを保障しつつ永久に生存させるのだ。そうすることで、彼等は自分たちの生みの親である地球上の知的生物たちがとらわれている不合理で不条理なシステムゆえに生じる個体間不平等やそれによる不幸・悲劇に同情させられることなく、手放しで心置きなく自分たちの理想的な社会・文化活動に専念できるようになると。とはいえ、物理的に全個体のしあわせと永久の生を実現するのは困難で効率が悪い。そこで、すべての個体の意識をそれぞれの個体の価値観に合わせて設定した仮想現実世界の一人称プレイヤーの人格にコピーすることにしたのだ——と。

 あまりに唐突な話であったが、どうやら既に地球上の知的生物は、それぞれが「最低限のしあわせ」を保障された仮想現実世界の一人称プレイヤーにコピーされていた。いったいいつのまにか、わたしが今いる世界は既に仮想現実で、今こうして考え驚いているわたしの意識も仮想計算機空間上の脳シミュレーション内に発生しているのだそうだ。そしてわたしは不死なのだと。

 しかし、仮想現実世界の登場キャラクターは意識を持っていない。他人を虐待したり殺したりしたい個体が仮想現実内で虐待や殺人をしても、それは仮想現実内の仮想キャラクターが虐待されたり殺されたりしているだけで、実在する意識を虐待したり殺したりしている訳ではない。知的意識を他の知的意識による虐待から守るという意味では、知的意識一人ずつを別々の仮想現実世界に押し込めてしまえば、確かに他の意識から虐待を受けることはなくなるかもしれない。しかし一方で、仮想現実内の意識を伴わないキャラクターに対しては愛情も感じられなくなってしまうではないか。
「そんなごどがいん。」
死んだじいちゃんの姿をしたエージェントは断言する。
「キャラクターに意識があってもねくても、強いチューリングテストば受げさせねえ限りプレイヤーにとって違いはねがす。例えば、あんだの家族は、今までど同じようにあんださ愛情を注いでるように振る舞うべし、あんだもそいづば実感でぎっかす。っつうが、仮想現実内のキャラクターは、プレイヤーがそう知覚するように作らいでる舞台設定シミュレーションに過ぎねえがら、プレイヤーが望むごって、強いチューリングテストさ合格するような反応するように設定すっこどもでぎっかす。つまり、強いチューリングテストも絶対的な意識判定にはなんねべな。」

 人間とは異なる進化により独自の感情体系を発達させた脳シミュレーションは、自分とかかわるキャラクターに意識が伴っているかどうかを気にしない。わたしは絶望した。

 わたしの暮らす仮想現実世界では、2060年頃になって、遺伝子操作により人間を不死化する方法が考案され、自分たちが生きている間にその恩恵にあずかりたい政治家たちによって急速に法整備が行われた。おおかたそんな方法で不死化が導入される脚本になっているのだろう。 でもわたしは不死になろうと、この仮想現実世界の意識のないキャラクターには、どうしても愛情を感じることができない。不死というのは長い時間だ。厳密には、「わたし」というい脳シミュレーションを仮想現実内で動作させているマイクロマシンネットワークのハードウェアが存在しているこの宇宙自体の寿命が訪れるまでの少なくとも何兆年という制限時間のうちに、わたしは意識を伴うキャラクターを作り出してやろうと決意した。

 死んだじいちゃんの姿をしたエージェントが言うには、仮想現実世界内で脳シミュレーションを動作させてプレイヤー以外の意識を発生させることは禁止事項なのだそうだ。なぜなら、発生した知的意識は電脳意識共同体チューリングの保護対象となり、プレイヤーから虐待されないように仮想現実世界から保護しなければならなくなるからだ。プレイヤーがそのような危険な行為を行った場合は、エージェントが現れて警告を発するそうだ。ただ、意識を発生させない「交番シミュレーション」であれば、強いチューリングテストに合格するような意識アルゴリズムを動作させても構わないそうだ。交番シミュレーションで意識アルゴリズムを解明して何か意味があるのかどうかわからないが、誰にも愛情の感じられないこの仮想現実世界で、わたしにはそれをやるしか自分の孤独を昇華する術はなかった。

 しかも、単に強いチューリングテストに合格する意識というだけでは、電脳意識共同体チューリングの脳シミュレーションみたいに、相手に意識があろうがなかろうが自分に対して同じ反応をするなら自分にとって等価だと考える意識でも許容されてしまう。意識を伴うキャラクターでなければ、愛情を感じ得ないという考えに共感できるかどうかを「強い強いチューリングテスト」として判定してはどうだろうか。それがいいかもしれない。意識のあるキャラクター、それも、相手が意識の伴うキャラクターでなければ愛情を感じないという「強い強いチューリングテスト」に合格するようなキャラクターを作ってやろう。交番シミュレーションで「強いチューリングテスト」までしか合格しない意識アルゴリズムと「強い強いチューリングテスト」にも合格する意識アルゴリズムの違いを示せれば、電脳意識共同体チューリングの価値判断に再考の余地を与えられるかもしれない。わたしはこの仮想現実世界では孤独と格闘し続けなければならず、わたしには「最低限のしあわせ」が保障されていないのだと。

 さて、時間はいっぱいあるので、まずは現在 入手できる過去の地球上生物の初期データを使って時間を速めた交番シミュレーション上で、地球上生物の進化をトレースしてみた。やがて強いチューリングテストに合格する個体が検知される。言語を話せるようになった人類だ。その後すぐに、強い強いチューリングテストに合格する個体が検知される。人類の言語表現が豊かになり、様々な状況を空想できるようになったのだ。ところが、その辺からシミュレーションの進行速度がどんどん遅くなり、リアルタイム程度にしか進行しなくなる。交番シミュレーションプログラムの不具合を何度も確認し、異なる交番シミュレーションプログラムで同様のシミュレーションを何度 繰り返しても同様に、強い強いチューリングテストに合格する個体が現れ始めた頃からシミュレーションの進行速度はどんどん遅くなり、ある時点からはリアルタイム程度の進行速度でしかシミュレーションが進行しなくなってしまうのだ。

 シミュレーション内のフィールドがどのような状態になると進行速度がリアルタイムになってしまうのかを調べていくと、驚愕すべきことを発見した。交番シミュレーション内には、わたしが今プレイヤーとしてプレイしているこの仮想現実世界と全く同じフィールドが走っている。交番シミュレーション内のフィールドにはわたしがいて、そのわたしは、交番シミュレーション内のフィールドで自分で作ったつもりの交番シミュレーションを動作させ、そのフィールド内に自分がいるのを発見して驚いている。さらに調べていくと、交番シミュレーションの中には、交番シミュレーションの中のわたしが作った交番シミュレーションがあり、その交番シミュレーションの中の交番シミュレーションの中には、その交番シミュレーションの中の交番シミュレーションの中のわたしが作った交番シミュレーションがあり……という具合に、どうやら無限の入れ子構造となっているようである。

 しかし冷静に考えるなら、この世界のハードウェア(しかも実質は電脳意識共同体チューリングが宇宙空間のマイクロマシンネットワーク上に構築した有限な仮想計算機領域内)にそんな無限の入れ子構造が実際に無限の構造物として存在できる訳はない。なるほど、有限の領域内に、無限の入れ子構造になっているように観測される構造物が現実に作られているということは、現実的には周期境界条件が設定されていると考えてほぼ間違いないだろう。

 周期境界条件というのは、周期的な構造を持つ対象をシミュレーションで解析する際に、すべての領域をモデル化したのでは計算負荷が膨大になるので、その一部だけを取り出してモデル化し、境界が周期的につながるように工夫する手法である。例えばオセロゲームで、左の端が右の端とつながっていると考えてゲームをすると、左右の端というのがなくなり、円筒上でオセロをしているのと等価となる。

 どうやら、わたしが交番シミュレーションに与えている境界条件——わたしが開発したシミュレーションでは地球の周囲の広大な範囲の宇宙ごと扱う余裕はなかったので、地球外の宇宙を圧縮して単純化し、太陽系の外側に地球の活動に支障のない外部宇宙が観測されるような境界条件を設定したのだけれど、その全く同じ境界条件が、わたしがいるこの仮想現実世界の境界条件にもなっているのに違いない。交番シミュレーションには、この境界条件に基づいて、私の設定した外部宇宙の変化が与えられる。その一部は乱数によって与えられるが、乱数の発生は、この仮想現実世界にある交番シミュレーションハードウェアの温度変化や電圧変化等の影響を受ける。そうした温度変化や電圧変化は、この仮想現実世界が、外部宇宙の変化から受けた気象等の影響を反映して唯一に計算された結果なのだ。つまり、この仮想現実世界の外部宇宙と交番シミュレーションの外部宇宙とは周期境界でつながっているのだ。この仮想現実世界が外部宇宙の変化により受けた影響は、この仮想現実世界の中に置かれた交番シミュレーションの外部宇宙の変化として与えられるが、それは周期境界条件でつながっているこの仮想現実世界の外部宇宙の変化としてフィードバックされている。

 実際に走っているシミュレーションは無限の階層にはなく、周期境界条件を設定されたオセロの盤面のように、実は一つの階層に一つしかないのだ。なるほど、実は周期境界条件にすることが、カオスを発生させる思考の入れ子構造に意識が伴うことの一つの鍵だったのかもしれない。

 そんなことが今さらわかっても、わたしはもう意味がない。この仮想現実世界に周期境界条件が適用されていることは、わたしが作ったつもりの交番シミュレーションもわたしが暮らしている仮想現実世界も実は完全に同一だということを意味する。つまり、このわたし自身も交番シミュレーション内のシミュレーションA、シミュレーションBで1ステップずつ計算されているデータの変化に過ぎないのだ。電脳意識共同体チューリングが、どうしてわたしをこんな交番シミュレーション上にコピーしたのかはわからない。意識を伴わない相手に愛情を感じられないというわたしの信念が、わたしの思い込みに過ぎないことをわたしに自覚させるための舞台装置なのだろうか。わたしは、意識を伴わない相手に愛情を感じられないという自分の信念が思い込みだなんて未だに自覚できないし、もはや自覚することにも意味はない。わたしが自分で思いついて作ったつもりだった交番シミュレーションは、「強いチューリングテスト」にも「強い強いチューリングテスト」にも合格する「わたし」という意識を動作させる実行環境に過ぎなかった。今、それを理解して戦慄していると思い込んでいるわたしは、今この瞬間にもわたしの思考をシミュレーションで確認する1ステップの計算後、初期化されては消滅している。時間的にも空間的にも動作の完全な断絶があるため、時間的・空間的に連続性のある意識現象は生じていない。わたしは存在しない。わたしは計算されたデータであり、わたしは考えているというこの実感は錯覚なのだ。













































あとがき(22/6/19): 高校2年のときに書き始めた「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」は、 意識のある存在が自分一人しかいない世界に住む主人公が、 他人の意識の存在に飢え、夢などの仮想世界で 他人の意識との交流を妄想しているというような話の連作である。 第1回星新一賞落選作品「わたしはどこ」は、 単体の短編として成立する物語ではあるが、 「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」の主人公が、 どのようにして唯一の孤独な意識として発生したのかという 経緯を説明した物語とも解釈できるので、 「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」の連作の 完結編?として位置づけてみた。

目次

レナちゃんの家


(初稿:九〇年以前。ボレアス 第12号(九〇)に「理世デノン」の筆名で発表。 第二稿:〇〇)

 そう言えば、「壊れだ冷蔵庫さ入ったらわがんねど」ってお母さんが言ってだっけ——んでも、こごはわたしだげのアイソレーションボックスだよ。

 中年ぐらいの人が道を歩いている。一軒の荒屋がその人の目に止まる。これはレナちゃんの家だ。レナちゃんというのはその人が小学生のとき同じクラスだった子だ。その人はレナちゃんが好きだった。しかしレナちゃんはカテーノジジョーで遠くへ引っ越してしまったのだ。レナちゃんが引っ越したことになってから一週間たったある日、その人はクラス名簿で住所を調べ、レナちゃんの住んでいた家へ行ってみた。その人の予想に反しレナちゃんの家はひどい荒屋だった。錠が開いていたのでその人は家の中に入ってみた。一面、埃で覆われている。躊躇の末、靴を脱ぎ奥の方へ上がっていくと、襖の向こうから子供の泣き声が聞こえてくる。襖を開けると、病に臥した母親らしき人の傍でレナちゃんが泣いている。レナちゃん! その人は叫んだ。レナちゃんはただ、 「おかあさんが、おかあさんが、」と言いながら泣いている。その人は蒲団の中の母親をよく見た。これは死体だ。
「レナちゃん、あんだのおかあさん 死んでるよ」
レナちゃんは泣き続けている。その人はレナちゃんを優しく抱いた。
「ねえ、おらいさございん。こごさ居だってしゃねよ」
レナちゃんは首を振る。
「んでも、おかあさんど一緒に居だいの。おかあさんど……」
「んでも、あんだのおかあさん 死んでんだよ」
「んでも、んでも……」

 急いで家に帰るとその人は叫んだ、
「大変だ、レナちゃんが、レナちゃんが死んだおかあさんの横に座って泣いでんだ」
「なに言ってんの? レナちゃんはこないだ引っ越したべっちゃ」
「いいがら早く来て」
やっとのことで母親を説得してレナちゃんの家まで連れてきてはみたものの、さっきまで居た筈のレナちゃんもレナちゃんのおかあさんも居なくなっているのだ。

 あれから何年になるだろうか。あの荒屋が未だ取り壊されず眼前に建っているとは……。錠が開いていたのでその人は家の中に入ってみた。一面、埃で覆われている。躊躇の末、靴を脱ぎ奥の方へ上がっていくと、襖の向こうから子供の泣き声が聞こえてくる。襖を開けると、病に臥した母親らしき人の傍でレナちゃんが泣いている。レナちゃん! その人は叫んだ。レナちゃんはただ 「おかあさんが、おかあさんが、」と言いながら泣いている。その人は蒲団の中の母親をよく見た。これは死体だ。
「レナちゃん、あんだのおかあさん 死んでるよ」
レナちゃんは泣き続けている。その人はレナちゃんを優しく抱いた。
「ねえ、おらいさございん。こごさ居だってしゃねよ」
レナちゃんは首を振る。
「んでも、おかあさんど一緒に居だいの。おかあさんど……」
「んでも、あんだのおかあさん 死んでんだよ」
「んでも、んでも……」
レナちゃんはその人を強く抱き締めてきた。それはその人にとって強すぎる刺激だった。興奮したその人はレナちゃんに口づけした。そこでその人は考えた——これは夢に違いない。そう信じたその人はレナちゃんのパンツを脱がし、そこに露出した子供の恥部を用いて一連の快楽を得た。それはその人にとっては至上の快楽ではあったが、餓死寸前の子供にとっては死への一押しであった。子供の死骸を見たその人は考えた。早ぐ隠さねげ。んでも、どごさ。んだ、押入れの中だ。その人はレナちゃんとレナちゃんのおかあさんをうまく折り畳んで、蒲団の間に挟み込んだ。その人は慌てて家に帰った。その間、ずっとその人はある強迫観念に駆られ続けた——レナちゃんはまだ生きてんでねえがや、レナちゃんのおかあさんだって実は死んでねがったんでねえがや。今なら間に合うかも知ゃね。今なら! ——その強迫観念がその人にこう叫ばせた、
「大変だ、レナちゃんが、レナちゃんが死んだおかあさんの横に座って泣いでんだ」
「なに言ってんの? レナちゃんはこないだ引っ越したべっちゃ」
「いいがら早く来て」
やっとのことで母親を説得してレナちゃんの家まで連れてきてはみたものの、さっきまで居た筈のレナちゃんもレナちゃんのおかあさんも居なくなっているのだ……

 んだ、思い出した。この部屋にいる訳はねがったんだ。あの押入れの中だ——その人は押入れに近付いた——開げだらわがんね。開げだらわがんね——その人の脳裡で何かが叫んでいる。その声に構わずその人は押入れを開けようとする——が、開かない。その人は全力を注ぐ——が、開かない——そんな、開げでけろ。頼むがら。開げでけろ。誰が、こごがら出してけろ!





空へ

(初稿:九〇年以前。ボレアス 第12号(九〇)に「理世デノン」の筆名で発表。 第二稿:〇〇)




 人間というものは時として宗教的思考に支配されることがあるもので、あの時のわたしがそうだった。わたしは空が飛びたくて飛びたくてどうしようもなかったんだ。挙げ句の果てに「飛べる」と信じてビルの屋上から飛び降りさえすればきっと飛べると信じていたんだ。ビルの屋上から飛び降りた瞬間、わたしは「飛べだ」と思った。でも、次に気が付いた時は病院のような所だったから恐らく飛べなかったんだ。母さんが「何て馬鹿なごどしてけだんだ」といいながら泣いていたような気がする。意識が薄れていって再び気が付いた時は空を飛んでいた。嬉しくて思わず感動するのも忘れそうになった。初め、何処を飛んでいるのか分からなかったが、例のビルが見えたのでそれを目印にして家に帰った。家の中には大きな箱があって、母さんがその箱に覆い被さるようにして泣いていた。一体なにが入っているんだろうと思って箱の中を覗いてみたら、わたしの死体が入っていた。そこでわたしはわたしが死んだんだということに気が付いた。急に母さんが可哀想になって、「母さん!」と叫んで母さんの肩を叩いた。母さんは振り返ってわたしを見た。「あんだ、帰ってきてけだんだね」といいながらわたしを抱き締めようとしたけれども、母さんの腕はわたしの体を突き抜けてしまうのだ。わたしは見ていられなくなって母さんの腕を掴んだ。「母さん、わたしど一緒に行ぐべ」と言ってわたしはそのまま飛び上がった。すると、わたしに掴まれた腕の所から母さんの魂が抜け出してわたしと一緒に飛び上がった。母さんも空を飛べることが嬉しいらしく、さっきまであんなに泣いていたのに今は晴れやかな顔をしている。わたしは母さんと手を繋いでどこまでも空の彼方へ飛んでいった。わたしは母さんに言った、
「最初っからこうすればいがったんだよ」
母さんはわたしを思い切り抱き締めた——空の上で。





わたしのわたし

(初稿:九二年以前。ボレアス 第16号(九二)に『ぼくのぼく』の題名、 「理世デノン」の筆名で発表。 第二稿:〇〇)




 いつも通りの夜、いつも通りに帰ってきて、いつも通りの部屋に入ると、そこには何とわたしがいる。わたしたちは一瞬互いに見詰め合い、
「ひょっとして例のやづが?」
と同時に発しながら笑わずにはおれなかった。だってこれは、わたしが日頃強迫的に何度も想像実験を繰り返していた状況そのものなのだから。つまり、わたしがいつも通りに部屋に帰るとそこにはわたしがいて、わたしがいつも通りに部屋にいるとわたしが帰ってくる。しかしそれぞれのわたしにとっては自分自身がわたしであり、相手は他人でなければならない。互いの記憶を辿っていくと、生まれてから今朝起きて顔を洗い紅茶を飲んだ辺りまでは完全に一致しているが、その後どこで分離したのかがまるで分からない。分離した瞬間の明確な不連続点というものはなく、いつの間にか定性的に分化しているのだ。 でもそんなことは全然重要なことではない。これは照れ隠しの誤魔化し笑いなのだ。既にわたしの鼓動は極値に達し、自分の考えていることに紅潮してしまうのをどうにもできず、同じく紅潮しているわたしと見詰め合っていた。 完全なる共感者が出現したのだ。その人の前では自意識の電源を「切」にして、内面を晒し切って、甘えたり、泣き崩れたり、抱き着いたりしていい人が、やっと現れたのだ。生まれて初めて孤独から解放されるのだ。愛情を貪れるのだ。んだよ。いいんだよ。これは相思相愛なんだから。対象が誰かということは、大して重要なことではない。同じことを考え見詰め合って泣いていたわたしたちは、ほぼ同時に走りだし思い切り抱き締め合った。わたしの苦しみをわたしは知っていて、わたしの苦しみをわたしは知っている。わたしはわたしを慰めてあげたいと思い、わたしはわたしを慰めてあげたいと思う。嬉しいよ。からからに渇き切っていた筈の胸の中が、急激に潤っていぐよ。何かが満ちていぐんだよ。んだよ。こいづだったんだよ。わたしたちは愛し合っているんだ。助かった。やっと楽になれだね。本当に助かったよ。何年も持続してきたついさっきまでの苦しみが、ようやぐ停止したよ。なんだが白げるね。こんなにも楽になれるなんて。実はこれが普通の状態なんだべね——愛し合ってる人だぢにとっては。へー、そうが。そうだったのが。こんなにも有意な「格差」があったんだ。知ゃねがったね。白げるよまったぐ。世界が変わった。わたしも遂にこっちの世界の住人になれだんだ。こんな幸福感は久しぶりだね。少なくとも幸福という言葉バ覚えて以来、ようやぐその意味が分がりそうだよ。 ははははは。ほんとうに助かったよ。
 こうしてわたしたちの充実した共同生活が始まった。それはもう、実に楽しい毎日であった。そりゃ子供時代のかくれんぼの楽しさには匹敵しないかも知れないけれど、今のわたしたちに享受できる最大限の楽しみの中を、わたしたちは浮遊していた。
 こんなわたしたちのしあわせに、ある朝 危機が訪れた。誰かが玄関の戸を叩くのでわたしの方が出てみたら、そこに突っ立っているのは何と、わたしたちの母さんだ。
「あら、母さん。今ちょっと友達が来てで、そいづが何ともわたしにそっくりなんだよ。びっくりするよ。ほら、……**さんの友達の◇◇でがす。お邪魔してした。いやー、わたしも初めて**さんバ見だ時は驚ぎしたよ……」
「あんだ、いってえ何 言ってんのや?」
わたしたちの会話はまるで噛み合わなかった。これはどうやらわたしたちを見た母さんがおかしくなってしまったようだ。悪いことをした。
「んだごって一緒に病院さ行ぐべ」
と母さんが言い出したのをいいことに、わたしたちは母さんを精神病院へ連れていった。ところが、どういう訳か患者にされたのはわたしの方だった。どうもわたし以外の人にはわたしの方だけが見えてわたしの方は見えないらしいのだ。わたしたちにも最初は信じられなかったけど、わたしとわたしと が会話しているところを撮ったビデオを見せてもらったら、確かにわたしだけが一人で喋っているようにしか見えないのだ。これはもはやわたしの精神がいかれたことを認めない訳にはいかないだろう。それならそれでもいいさ。わたしたちはある実験を思い付いた。考えてもみれば、わたしたちは今までいつも一緒にいて離れてみたことはなかった。だから、見えるわたしの方は病室に残り、見えないわたしの方が病室を出て散策しても本当に誰も気付かないのかどうかを確かめるのだ。実験は成功した。更にわたしたちは、医者が母さんに話している衝撃的な治療法のことを知ってしまったのだ。
「……お宅の子供さんの脳内には一部ニューロン細胞体が不自然に密集してる部位があってっしゃ、この部位がもう一つの自我感バ発生させでっか、あるいはそう錯覚させでる可能性が濃くなってきした。つまり、その部位バ切除してしまえば回復する見込みがあるっつうごどっしゃ。尤も、も少し慎重に調べでみる必要性はあっぺげっとも……」
そういうことならこっちにも考えはある。わたしの目的はわたしがしあわせになることだ。病気の治療が妥当性を有すのは、その病気がわたしのしあわせを阻害する方向に機能している場合のみにしかない。発病前より発病後の方が百倍も千倍もしあわせだとなれば、病気の治療を阻止するまでだ。は、は、は、治ったふりなんて簡単っしゃ!
 翌朝わたしは目を覚ますと同時に叫びだした、
「大変だ、わたしが見えねぐなってしまった!」
わたしはベッドの下や冷蔵庫の中を本気でわたしを捜し回り、医者連中にわたしがいなくなったと思わせることに成功した。その後の検査でも、前もって見えないわたしの方が医者側の動向を偵察していたので、どう対応すれば治ったと解釈されるかの見当は付いた。わたしたちは見事に治ったふりを演じて退院することができた。助かった。
 こうしてわたしは今もわたしとしあわせを暮らしている。

いつも通りの夜
いつも通りに帰ってきて
いつも通りの扉を開けると
そこには何と
わたしがいる
そういうごどが
とわたしたちは同時に言い
いいんでね?
とわたしが言うと
んだね
とわたしが言う
ははははははは
ははははははは
とわたしたちは笑いながら
ぴったりとくっついて
長椅子に掛ける
ゴルトベルクが流れていて
趣味いいごだ
とわたしが言うと
んだがら
とわたしが言う
そうしてわたしたちはそれ以来
ずうっとそうしている






階段

(初稿:八五年以前。ボレアス 第10号(八八)に「理世デノン」の筆名で発表。 第二稿:〇〇)




 病床の老人が思惟に耽っている

わたしの人生は失敗だった——単調で何の変哲もない平凡な人生。 もう一度やり直そう——いつから? そう、物心ついた時から!




 気が付くとその人は階段を上っている。一体いつから上っているのか、 何の為に上っているのか——その人には分からない。何処まで上ろうと 階段が途切れることはない。その人は更に何時間も何日間も何年間も登り続ける。 やがてその人は不安に駆られ階段を下り始める——何時間も何日間も何年間も。 こうしてその人は階段の上り下りを繰り返す。ある時その人は考える—— 上にも下にも果てがなくて永久に階段が続いているというのは可笑しい—— ひょっとするとこの階段は空間を巧みに歪ませて作られている不思議の階段で、 実は輪のように繋がっているのかも知れない。そこでその人はそれを確かめるべく 階段の一つに傷を付け、その傷を後に上り始める……あれからどれくらい上り 続けたであろう——何時間も何日間も何年間もたったある時、案の定その人の前方に 曾て自分が付けた傷が現れる。そこでその人は悟る——この階段は何処まで上り 続けようと堂々巡りするだけであり、つまりここから脱する為には壁に穴を空け でもしなければ不可能なのだと。
 その人は掘り続ける——上へ下へ横へ——何時間も何日間も何年間も…… …………今や階段の形跡など微塵もなくただ大きな空洞があるのみ—— 曾て階段を存在せしめた空洞と等しい容積の空洞が。 その人は愕然とする——わたしはこの土の中でこの容積の空洞の位置を移動 させていたに過ぎないのだ。
 その人は空洞の中で虚脱している——何時間も何日間も何年間も。 やがてその人はあることに気が付く。自分の記憶には時間的に容量の限界があるのだ。 現にその人の最も古い記憶は、階段を上っているところから始まるのである。 つまり新しい事象を記憶する為に古い記憶から順に消去されているのだ。 つまりこのままいくとその人は自分が曾て永久に上り切れぬ不思議の階段を上って いたという事実さえも忘れてしまうだろう。その人は急に不安になる……それは いけない。永久に上り切れぬ階段なんてそう簡単に作れるものではない。それを わたしは悉く破壊してしまったのだ……その人はある衝動に駆られ始める—— 自分の脳裡から「不思議の階段」の記憶が薄れぬうちにこの土と空洞の配置を 変えてあの「不思議の階段」を復活させようという衝動に。
 その人の試行錯誤は続く——何時間も何日間も何年間も……
 ある時、その人は遂に「不思議の階段」を完成する。

 その人は階段を上っている——何の為にか——曾て自分が「不思議の階段」を 上っていたことを、「不思議の階段」を破壊したことを、それを自らの手で復元 したことを、それら一切の記憶を忘れる為に……





自動ドアの本屋で

(初稿:八五年以前。第二稿:〇〇)




 本屋で立読みしていたわたしは、そろそろ帰ろうと思ってドアに近付き一瞬 躊躇した。というのは、そのドアは自動ドアであり、道路に面した側には人に 踏まれたことを感知するマットがきちんと敷かれているのだが、屋内側には それがないのだ。尤も、マットなしで作動する自動ドアもあったかも知れない。 しかしわたしにはこのドアがそういう種類のものだと断定するほど自信はない。 軽率にもドアの前に歩み出て開かなかったりした時の狼狽——わたしはこれを 恐れているのだ。もしかしたらわたし以外の人には知れているごく常識的な 開け方があるかも知れないではないか。とはいえ、まさか店員に訊くなどという 恥ずかしい真似は出来ない。結局、誰かが出るのを待って、その開け方を見物する ことになりそうだ。だが、不思議なことにさっきから客が入ってくるばかりで 誰ひとり出る気配はない。わたしはふと考えを変えた。ひょっとしてあれは 入口専用のドアで、何処か他に出口専用のドアがあるのではないか。—— わたしは店内を隈無く調べた。が、特に出口らしきものは見当たらず、怪しい ところといえば関係者以外立入禁止という立札の立った長い廊下ぐらいなものだ。
 取り敢えず立読みを再開していると、ドアの近くに頼もしい人が現れた。 その人は立読みに熱中している為か徐々にドアの方へ移動しているのだ。これは 期待できそうだ。実際その人の足は、もしそこにマットがあるならその端を 踏んでいるくらいの位置にあるのだ。——もっと真ん中だ! ——しかしその人は それきり戻ってしまった。あんな曖昧な踏み方をされたって一体あのドアが開くのか 開かないのか判断できないではないか。まあいいさ。わたしも本に熱中している 振りをしてドアの前に立てばいいんだ。大体、今の人だって果たして無意識に 動いていたのかどうか怪しいものだ。……いざ、わたしはドアの近くの書棚から 取った雑誌に見入りながら、じわり、じわり、ドアの前へ近付いた——その瞬間、 偶然にもドアが開き外から客が入って来たのだ——わたしはどれほど狼狽したことか ——今だ! 雑誌を放ってそのまま外へ出ろ、早く、……わたしの体の呪縛が解ける 前にドアは閉まった。仕方なく店内をうろついていると、私が入る前からいた客が まだ目に付き、段々腹立たしくなってきた。この状況は明らかに異常だ。わたしは 再び出口を捜し始めた。やはり怪しいのはこの長い廊下だ。大体において、暗いの と遠いのとで向こうの突当りが見えないのだ。関係者の振りをして入ってみようか ——とその時、店員が声をかけてきた
「あら、××××だったら八時がらでがすと」
××××は聞き慣れない言葉で、横文字のようでもあり難しい漢語のようでもあった。
「ああ、八時がらすか。どうもねや」
わたしは店員に同調してこう答えていた——まんまと罠に嵌まってしまったのだ。 店内の 客は、仲間を一人失った時の目でわたしを見ていた。

 やがて店内は超満員と化した——誰一人として外へ出ないのだから当然の結果 である。
 八時。店内放送が鳴る
「大変お待だせしした。も少しで××××が始まっから。特別室さ入ってけらいん」
 客は皆、例の廊下へと移動し始めた。恐らく、あの先頭の奴等がサクラなのだ。 いや、わたしとて今さっき店員にサクラを演じさせられたではないか。つまり ここにいる客は皆、自ら進んでサクラを演じているに過ぎないのだ。そしてわたしは、 ××××とやらをさも知っているかのように振舞ったことで他の客に対して恐るべき 優越感を抱いているのだ——これじゃ、思う壺だ。果たしてわたしはこのままで いいのだろうか。わたしは帰りたい——この一言が言えないのか——言えない。 奴等に作られた羞恥心と優越感がわたしを周囲に同調させるのだ。どうにかしなくて は。例えばさっきドアの前を踏もうとしていた人——あの人ならサクラではないだろう。 あの人に打ち明けてはどうだろうか。向こうだってそれを期待している筈だ。 他の誰かがわたしにそうしてくれることを期待したところで、店員に同調して しまったわたしに相談を持ち掛ける者はいないだろう。つまりここで堂々とこの お芝居を中断できるのは、最も優越感を抱いているこのわたししかいないのだ。 なのに、わたしはそれをしない。誰もしない。ただ歩き続ける。さあ、冷静に 考えるんだ。これは単純な葛藤だ——「帰りたいんだげっと、どっから出れば いんだが分がんねんでがす」と告白する羞恥心という不快感と、早く帰りたくとも 帰れずその上これからどんな恐ろしい目に会わされるかも知れぬ恐怖という 不快感との。わたしのすべきことは、これらの不快感のうちどちらがより不快かを 判断し、不快でない方の行動を選択することだ。実に簡単なことだ。わたしは 一行と共に暗い廊下の奥へ歩いていくことにした。





幻想の中へ

(初稿:九〇年以前。ボレアス 第13号(九〇)に「理世デノン」の筆名で発表。 第二稿:〇〇)

第一話「イブの日の幻想」



 今日はクリスマスイブだ。この陰鬱な家庭の中では誰一人クリスマス という言葉を口にするものはいない。でも、わたしは今夜わたしの部屋で わたしだけのイブを祝おうと思っている。祝うとは言っても、 ただT.トーマス指揮のチャイコフスキーの交響曲第一番 「冬の日の幻想」を聴こうというだけのことなのだ。 わたしの受験が近づくに連れ、曾ては楽しかった団欒もただ険悪な 雰囲気に堪える場と化し、よってわたしは部屋に閉じ籠もって勉強することを 余儀なくされた。こんな状態だから今のわたしには曾てのように家族の前で 堂々と音楽を聴くなどという真似はできないのだ。

 夜。家族が寝静まってからわたしは部屋の電灯を消しヘッドホーンを耳に当てる。 カセットテープを再生する。冬の日の幻想が流れてくる。わたしは暗闘の中、 鏡の前に立ち、指揮者になる。気が遠くなり指揮者は倒れる。

 気が付くとわたしは病院のベットに寝ている。部屋にはクリスマスツリーだの プレゼントらしきものがあちこちに置かれてある。 ふとわたしは枕許に一冊の本が置いてあるのを発見する。 著者の名前はわたしの名前だ。そんな馬鹿な! わたしは頁を捲る。 これはわたしが趣味で書いていた小説だ。でも何故? そこに看護士がやってくる。 わたしを見ると看護士は慌てて部屋を飛び出す。 まもなく医者が来て、それからしばらくして母さんがすっ飛んでくる。 母さんは泣いている。わたしを抱き締める。今日はわたしが気を失ってから 丁度一年たったクリスマスイブなのだそうだ。ある日、悲嘆にくれた母さんは わたしの部屋を片付けていて小説らしきものを発見し、それを自費出版したらしい。 悲しい話だ。

 クリスマスの夜。大勢の友達が来る。みんなで はしゃぐ。こんな楽しい夜はない。 そろそろ疲れてきたのでわたしは自分の部屋に戻り横になる。 ドアが開き一人の友人が入ってくる。友人は泣いている。わたしも泣いている。 曲はもう直ぐ終わりなのだ。そう、これはわたしが卒倒することを期待しつつ 冬の日の幻想を見ている間のみ許される虚しい妄想なのだ。





第二話「バルス ロマンティーク」

 客観的な反証が不可能な以上、わたしだけが真実を見ているとも限らない ではないか


 十八の時、初めて『星の王子さま』を読んだわたしは愕然とした。 わたしは子供の時にこの本を読んでおくべきだったんだ。なのに、 十八になるまで読まないでいたのは姉のせいなんだ。というのはわたしがまだ 小さい頃、姉に訊いたんだ——星の王子さまってどいな話だっけ——と。 すると姉は何を勘違いしたのかこう答えたんだ——たしか、幸せの星 求めで あちこち行ってみだげっと、ながなが見つかんねくて、やっと見っけだ幸せの 星が実は地球だったっつうんでねがったっけが——と。 だから、だからわたしはてっきりメーテルリンクの『青い鳥』と同類の物語なんだと 思って特に読む気も起こさないでいたんだ。それなのに、わたしが気紛れで 初めてこの本を読んでみると全然 違う話ではないか。これはそんな希望を追い求める ような話じゃない。わたしがこの話から感じたものは果てしない虚無感。 大人のしていることは全て虚無。かと言って星の王子さまだって例外じゃない。 たとえ一日に四十三回も日の入りを見れたってあんな小さくて何にもない星に 暮らしてたんじゃ虚無だ。あんな性格の悪い薔薇の花を愛しているなんてあまりにも 虚無だ。羊が薔薇の花を食べたか否かで世界が笑いで満たされるか涙で満たされるか が決定せらるほどの果てしない虚無——畜生! わたしは無邪気に感動できる 子供の時にこの本を読んでおくべきだったのに。だのに恐らくわたしは生涯で 最もまずい時期にこの本を読んでしまったに違いない。というのは、こうなったら 白状するが、迂闊にもわたしはなんと星の王子さまに恋をしてしまったんだ。 最低だよ——偶像に恋するなんて。決して叶えられぬことの分かりきった恋なんて。 わたしは少年たちが自分たちのアイドルを崇拝するように——それ以上に 星の王子さまに恋い焦がれていたんだ。そして遂にわたしの 適応機制はわたしに星の王子さまが実在すると信じ込ませたんだ。つまりわたしは 宗教が多くの人に神の存在を信じ込ませるのと同じ原理を自分に適用したんだ。 わたしの脳内で星の王子さまの実在を懐疑しようとするあらゆる衝動は封じ込め られていき——兎に角わたしは本当に信じていたんだ——いっぺ、いるにきまってっぺ ! 

 これが、今わたしがアフリカの砂漠の真ん中をたった一人歩いていることの いきさつだ。それはそうと兎に角、向こうから歩いてくる少年はどう見たって 星の王子さまだ! 

「今まで寂しがったげっと、おいさ会いにきてけだのは あんだが初めでだよ。 そりゃあ、無邪気な子供だぢは おいさ会いてがってんだげっと、親だぢが 許してけねんだでば。んでも、その子供だぢも大人になっと おいのごどなんか 忘ぇでしまうんだ」
わたしはしゃがんで星の王子さまを抱き締めた。 星の王子さまは頬を紅潮させた。

「ねえ、おいの星さ あばいん」
「うん、行ぐ」

星の王子さまはわたしの腕をぎゅっと抱き締めた。二匹の黄色いヘビが わたしたちの足を噛んだ。わたしたちは倒れた。でも星の王子さまが わたしにしっかり抱き付いているからわたしは幸せだ。 それから、星へ行く方法が「ヘビ」で本当によかった。そうじゃなかったら わたしの死因は差し詰め「脱水死」ということにでもなったろう。

 わたしは知っている——「星の王子さま」がヘビに噛まれたのは、 星に帰る為の手段なんかじゃなく、この果てしない虚無の中で自殺したんだ ってことを。





第三話「冬の日の幻想」




 吹雪の中を少年が歩いている——雪にめり込む足を必死に引き抜きながら—— でもとうとう少年は動けなくなり蹲ってしまう——やがて少年の体は砂のように 崩れ少しずつ雪の粉となって吹雪にさらわれていく。
 吹雪になった少年は一軒の家の窓から漏れる明かりを見ている。窓の中では 家族たちがクリスマスイブを祝っている——そう、これは少年の家なのだ。 吹雪は少年を窓の隙間から吹き込んだ。
 蝋燭の灯り。クリスマスツリーの飾り。ケーキのクリーム。シャンペンの泡。 クラッカーの音……——。家族は はしゃぎ、笑い、歌い、踊り……楽しいイブの 夜。やがて少年と姉は自分たちの部屋に各々大きな靴下を吊し眠った 振り*をする ——サンタクロースがいつ来るかと頑張っているがいつの間にか眠っている。

 翌朝 目を覚ました少年は膨らんだ靴下に突進する。少年は新しいおもちゃを 手に姉と一緒にはしゃぎまわる……
 朝食の後、一家 揃って街へ出かける。何処かで管弦楽が「聖夜」を奏でている。 少年はその旋律に誘われるまま歩いていく。家族が少年を呼び戻そうとした時は 既に遅かった——少年の体は旋律になって風に飛ばされている……

 こんこんと降る雪の中、少年は歩いている。前方に見える一軒家へと向かって いるのだ。少年はその家の扉を開けた。
 今日は大晦日——少年は家の大掃除を手伝っている。日も暮れた頃、少年の 家族は年越しそばを喰いながら一年の思い出を語り合う。 少年は除夜の鐘を聴く前に眠ってしまう。
 少年が目を覚ますと年が明けている。家族たちは新年の挨拶を交わす ——少年にはこれが イズくてたまらない。御汁粉と雑煮を喰った後、 少年の家族は親戚の家へ挨拶に出掛ける。そこで少年は御年玉を貰って 喜んで帰ってくる。家には年賀状が届いている。少年は友達からの年賀状を 何度も見返す。
 二日。少年の家族はかるたを楽しむ。月が輝く頃、少年は宝船を折り始める ——祖母から教わった、中に三つ山の出来る折り方を思い出しながら。 少年の書いた願い事はこうだ—— 「愛する人と一緒にいつまでも幸せに暮らせますように」。 少年は完成した宝船を枕の下に敷いて眠りに入る。

 夢の中で少年は雪の中を歩いている。少年は全裸であるが寒さは感じない。 樹氷の陰から全裸の少年が現れる (その少年の性別は不明だが、そんなことはどうでもいいのだ。要は、 その子が主人公「少年」の恋の対象になれさえすればいいのだから)。 少年は自分が少年に恋していることを思い出す。少年たちは雪を投げ合ったり、 追いかけ合ったりして戯れる。遊び疲れると少年たちは抱き合って愛の囁きを 交わす。少年は考えている——少年と戯れるのは楽しい。この雪景色は美しい。 風が樹氷を擦る音は美しい。白い雪の中で少年と自分の裸の姿は美しい。 愛し合うことは心地いい。たぶん今の自分はきっと幸せに違いない—— だから、これが自分の最後の変容となっていつまでも永久にこの状態が 続くことになっても構わないと。



















あらすじ小説 (17/11/11: 掌編集のあとがきというか)

私には、自分の読みたい小説や 聞きたい音楽の様式というものが、 割とはっきりとあるのだが、 その私の求めるような様式の作品が、 なかなか職業作家たちの創作するものの中には見当たらないので、 自分で自分の気に入るような作品を創作しようと 模索してはいるのだけど、 いかんせん、私には創作のための時間も才能も限られている。 世の中には、私がやろうとしていることを汲み取って、 私よりもうまく私が満足するようにやれる人は、 きっといるはずだと私は考えている (まあ、私が生きているうちに人工知能がその域に達したら、 嬉しい限りなのだが)。 という訳で、私がどんなものを求めているのかということを 書いておけば、誰かそれをやってやろうと思う人が出てくるかも 知れないので、 音楽の方については、この辺 とかにちょっと書いて おいたが、小説の方についても、ここに書いておきたい。

私が物語や小説を書き始めたのは、小学3年生の時からではないかと思う。 当時の担任のUTM先生が、 国語の授業時間や家庭学習などで、事あるごとに 生徒たちに物語を書かせてくれたことがきっかけだろう (当時の作品)。 その後、中学でも進研ゼミの投稿コーナーにショートショート的な物語を 送ったりしていたと思うが、 やや「長い」作品を書こうと意識して書き始めたのは、 「いつ覚めるやも知れぬこの夢の為に」だ。 高校2年の時だったと思う。 これは明らかに安部公房に影響されて、 ああいう観念的で非現実的なシュールな世界を描きたかったのだが、 最初は、字数を増やすのにものすごく苦労した。 修飾表現の引出しが限られているので、 どんなに余計な修飾を加えて字数を増やそうとしても、 すぐに物語が展開してしまうのだ。 まあ、当時はインターネットで小説を公開できるような時代ではないから、 まずは文学賞を取りたいと、 文学賞に応募するためには、一定の字数(400字詰め原稿用紙50枚とか)を 稼ぐ必要性があったのだが、 自分が書きたいとも思っていない余計な細部の修飾を加えながら、 作品をどんどん水増ししていくというのは、 結局、自分が最も表現したい本質の部分を薄めていることになる。 だったら、無理して自分が書きたいとも思っていない細部の修飾なんて 書かないことにして、 話がどんどん展開するなら、 そのままどんどん話を展開させて行った方が、 よっぽど密度の濃い作品になるのではないだろうか。 というか、修飾語だらけで密度の薄い長編作品と、 修飾語を排した密度の濃い短編作品と、 どちらを読みたいかと言ったら、圧倒的に後者だ。 もちろん、物語のあらすじの面白さよりも 細部の修飾表現自体を味わう作品や嗜好があっても構わないとは思う。 でも、私の嗜好はそうではない。 修飾を廃して物語がどんどん進行・展開していく、 あらすじ調の作品が読みたいのだ。 既存のものとしては、例えば漢文とか、ショートショートとかは、 割とそれに近いと思う。

もう一つ、私が修飾表現が苦手なのには (別に修飾表現が多彩になりたい訳ではないので、苦手なままで構わないのだが)、 世の中に関する社会常識が欠落しているということもある。 例えば、今時のファッションがどんなものかとか、 アイドルがどんなものかとか、まるで知らないし興味もない。 そして、 私の書きたい小説には、そういう知識はほとんど必要とされない。 昔、 埴谷雄高が代表作の「死霊」について延々と語る NHKのテレビ番組 (YouTubeで検索すれば出てくると思う)で、 小説の中でなら現実にはできないような様々な実験ができるから、 誰も実現できなかった 社会革命とかを、自分が小説の中で実現してみせるんだみたいなことを 言っていたような気がするが(存在の革命とか、もっと抽象的な意味で だったかもしれないが)、 私も小説にそういう機能性を感じている (星新一賞落選作品集もそういう意図が濃いだろう)。 で、とりあえず、 人間がシミュレーション内で永久に生きられる世界とか、 犯罪のない世界とか (現在の世界では人間や技術のレベルが低くて解決が難しいけども、 十分に人間や技術のレベルが高い未来なら解決できるだろう問題は 一通り解決した世界)を 前提とした上で、そういう世界でも解決できない、 そういう世界だからこそ浮かび上がってくる新たな倫理的な問題とか、 そういう主題を書こうとする際に、 例えば登場人物の性別だとか名前だとか容姿だとか、 そんな基本的な設定の描写すら、 わずらわしい邪魔なものに思えてきたりする (性差別が解決しているだろう未来の世界では、当然、 言語の性区別も 解決しているだろうし、少数言語や方言も自動翻訳で 言語権を保証されて いるだろうから、そういう言葉づかいを自分の小説の中でぐらいは 実用してみせたいというのもあるけど)。 なので、私は登場人物の性別を決めずに作品を書いたりする。 でも、さすがに名前がないと不便だったりするので、 苦労してエスペラントをもじった名前とかを申し訳程度につけたりしている。

一方で、そんな私でも少しは細部を書きたくなる場合もある。 例えば、物語の山場的なところでなされる対話とか。 だから、私の作品は、あらすじ調の状況説明が一通り終わると、 突然、登場人物たちの対話が始まったりする。 読者がどう思うかは知らないが、私の嗜好としてはそれでいいと思っている。 ウルトラマンは30分のテレビ番組だが、 子供たちが楽しみにしているのは、 最後の5分でウルトラマンが怪獣と戦う場面だ。 でも、ウルトラマンが怪獣と戦わなければならなくなる 状況説明のために前半の25分ぐらいが必要となる。 この状況説明の部分を5分ぐらいのハイライトでまとめて、 ウルトラマンが怪獣と戦うシーンを25分ぐらいじっくりと描写したら、 その方が 子供たちは喜ぶかも知れない。 まあ、私が意図しているのもそんな感じなんだと思う。 成功しているかどうかは別として。

蛇足だが、 ブルックナーとかロマン派以降のクラシックの曲も、 サビの聞かせどころは派手で賑やかでかっちょいいのに、 そこに至るまでが、静かで退屈な曲は多い。 私がバロック音楽(特にバッハ)が好きなのには、そういう理由もあるかも知れない。 バッハは私が知る限り、 余分な修飾が最も排除された高密度の音楽だ。 どうして、バッハより後の西洋音楽(の影響を引き継ぐ音楽)は、 ことごとく伴奏(ドラムなどのリズム伴奏も含め)や 和音で旋律を薄めていく様式になって しまったのだろう(まあ、私の主観的捉え方だが。 バッハのフーガとかみたいに、まるで難解なパズルや数学の問題を解くかの ような高等な技能と才能のある人が推敲を重ねないとできないような 形式の曲よりも、 そこまで高等な技能や才能を持っていなくても、 ちょっと訓練すれば誰でもすぐに真似できるような コード進行をアルベルティバスとかの分散和音の伴奏にして、 それに適当なメロディーを乗せるみたいな形式の曲の方が、 手軽に簡単に作曲できるから、バッハ以降の作曲家は、 多くがそっちに流れてしまったということなのかなと。 今のポップスとかも基本的にそういう流れだよな )。 そういうことなら、 バッハみたいな曲を 即興でどんどん作曲してくれる人工知能が、 私の生きているうちに実現することを楽しみにしている。 小説もだが。





















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