(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

手話の民族語と国際語、方言と標準語、手話の性区別


(nacia lingvo kaj internacia lingvo aŭ loka lingvo kaj norma lingvo en manparolo)

注意
目次
はじめに

手話の性区別

「国際」手話

続く


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al la paĝo de GOTOU Humihiko


はじめに

 私は一九九六年の二月頃に、色々と思うところがあって (例えば「英語崇拝からの脱却」の頁) 、英語以外の言葉を勉強してみようと思い立ち、エスペラントと手話とを学習し 始めました。しかしエスペラントの方が面白くなり、手話はあまり熱心には やっていないのですが、手話を学びながら、それなりに思ったことについて 書いていきたいと思います。

手話の性区別

 日本手話では、三人称的に人を表す場合、 女に対しては小指を立て、 男に対しては親指を立てて表します (他の国の手話でもこのような性区別があるのか興味あるところです)。 しかも、「先生」とかいった職業を表す時ですら、 「教える+女」か「教える+男」という ようにいちいち性別を明示します。 尤もこれはヨーロッパ 音声/文字言語や近代の日本 音声/文字言語 に見受けられる非対称な性区別(男に対しては「教師」とか「医者」といった中性の 名詞を使い、女に対しては「女教師」とか「女医」と性別を明示する) ではなく、対称な性区別ではありますが、 常に性別を明示しなければならないということ自体、 私には大いに抵抗があります ( 「言語の性区別」の頁)。

 日本手話では、 人差し指を立てても「人」を表せるから、 これを中性代名詞として親指だの小指の代りに使えないか とも思います (聞いたところによると、既に一部でそのような使い方をしている 人もいるというような話を小耳に挟んだのですが、 どうなのでしょう。もしかするとこれは、 「挨拶」の手話表現を昔は両親指どうしでやっていたのを、最近は両人差し指どうしで やるようになったとかいう類の話かも知れません。 まあ、それだけでも思わしい変化だと私は思いますが)。

 他方では、この親指と小指で簡単に男女を表せることにより、 「結婚」や「離婚」といった言葉を容易に表現できることを「利点」だと 捉える考えもあるようです(伊藤雅雄、竹村茂『世界の手話・入門編』廣済堂、二百十三頁)。しかし、私からすると、同性どうしの夫婦が法的にも社会的にも受け入れられる ような時代が訪れれば、「結婚」や「離婚」をいちいち男女の組み合わせに限定 して表現することの意義は失われていくだろうと思います。 仮に現状の異性どうしの夫婦の話に限定したところで、 例えば「結婚した人」とか「離婚した人」を表す際に、 性別を特定しない表現方法があった方がよいと私は思います。

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「国際」手話

 日本エスペラント学会の機関誌 「La Revuo Orienta」一九九六年 七月号二頁に紹介された日本聴力障害新聞の記事について。

 一九九六年七月頃。 今、手元に記事がないのですが、確か 「国際手話」と比較してエスペラントが実用的ではないといった内容だったかと思います。

 以下に述べる外国の手話についての知識は、主に『世界の手話・入門編』(伊藤政雄、竹村茂著、廣済堂、一九八八初版)に拠っています。

 ここで挙げられている「国際手話」というのは、恐らく世界ろうあ者連名が提唱している「国際」手話 ジェスチューノ(GESTUNO)のことだろうと思います。 GESTUNO とは、前掲書によると

<1950年頃、世界聾者会議の代表者たちから、国際会議での使用を目的とする 国際共通手話をつくるべきだとの声が出て、国際共通手話統合委員会を設けて、 1971年に正式決定し、「GESTUNO」の手話辞典を刊行しました。はじめは 世界聾唖連盟の役員のみが使っていましたが、最近は GESTUNO で通訳できる 手話通訳の人数が増えてきて、4年毎に開かれる世界聾唖大会などの国際舞台 でも活躍するようになりました。>

とあります。また同書では、基本的な単語に対して、各国の手話表現を 「日本の手話」「アメリカの手話」「イギリスの手話」「中国の手話」 「スペインの手話」「国際手話」と 並べた手話単語辞典も兼ねているのですが、 この「国際手話」の欄には「国際手話(仏)(独)」と併記してあるのです。 冒頭の説明には 「現在 西ドイツの聾者の手話は GESTUNO と同じものを使っています。 西ドイツの手話辞典は、90% GESTUNO と同じものです」とあります。

 つまり、GESTUNO とは、どうやらフランスやドイツ(旧東ドイツも含まれるのか?) で使われている手話と殆ど(全く?)同じもののようです。 そんなものを「国際手話」と呼べるのでしょうか。

 例えば、世界的に普及(蔓延?)してしまったということだけを根拠に、 英語を「国際語」と呼ぶことに矛盾を感じない人なら、GESTUNO のことを 「国際手話」と呼ぶことにも矛盾を感じないのかも知れませんが、 「どの民族にとっても中立であること」が国際語の最低限の要件だと考える 人(例えばエスペランチストの私とか)からすると、GESTUNO のことを「国際手話」と 呼ぶことは、英語のことを「国際語」と呼ぶのと同じような矛盾です。

 もともと、ヨーロッパにおける手話教育は最初、フランスで発達したため、ヨーロッパ各国のろうあ教育施設では、十九世紀初頭にフランス式の手話を取り入れてたものの、その後、各国が自国の手話で教育するようになったようです。 例えば、アメリカでもフランス手話を取り入れましたが、各々が独自の発展を遂げたため、現在、フランス手話(と(殆ど)同じ GESTUNO )とアメリカ手話(アメスラン)との相関性は低くなっているそうです。

 ちなみに、アメリカの旧植民地など、その文化的影響を強く受けているアジアやアフリカの国々では、このアメスランが使われており、イギリス手話もイギリスの旧植民地であったアジアやアフリカの国々で使われているようです。

 更に、日本の植民地であった台湾や韓国の手話は、現在でも日本手話と六割以上の共通性があるそうです。 つまり、手話の場合は、音声・文字言語以上に言語同化政策による同化を受けやすい のかも知れません。

 もし、世界の手話使用者の間に、GESTUNO やアメスランのような強国の手話をそのまま「国際」手話として普及させようとする潮流があるのだとすれば、私は危機感を覚えます。 音声・文字言語における現在の英語支配と同じような、 あるいは更に徹底的な言語帝国主義が、 手話言語においても着々と進行しているのでしょうか。 現状の世の中で実際に様々な言語差別を受けている ろう(あ)者たちと、言語差別をなくす方法を模索しているエスペランチストたちとは、本来、協力し合い、励まし合う関係にあると私は考えています。

 前述の日本聴力障害新聞の記事は、エスペラントに対する世間の偏見に惑わされて 書かれたものに過ぎないのかも知れません。 例えば、エスペラントはよく「世界の言葉を一つに統一するための人工語」のような紹介のされ方をすることがあります。 しかし、実際のエスペラントは、民族語の保存や言語の多様性を否定するものではなく、母語の異なる者どうしの橋渡しをする「国際補助語」として位置づけられている のです(「エスペラントへの疑問」の頁)。

 しかし、「GESTUNO によって世界の手話が一つに統合されればよい」 とする考え方もあるようで、 「世界をむすぶ国際手話 ジェスチューノ」の頁では、 前掲の『世界の手話・入門編』の著者の一人、伊藤政雄氏が 「今後ジェスチューノにより世界の手話が一つになっていくことが期待 されています」と書かれています。 尤も『世界の手話・入門編』の方では、 GESTUNO がヨーロッパ中心であることを問題視していますが)。

 ひょっとすると、日本聴力障害新聞の記事でも、 「世界の言葉を一つに統一することが『国際語』の目的だ」 捉えていたために、言語の中立性を棚に上げた単なる普及度だけに着目して、 エスペラントよりも GESTUNO の方が「実用的だ」と論じたのかも 知れません(ある統計によれば世界各地に約百万人のエスペランチストがいるそうで あるが、海外家庭滞在などの「民際交流」の次元では、 エスペラントは既に十分に実用的である。 エスペラントで書かれた電網頁もかなりの数があり、 例えば国際語教育協議会の 「エスペラント関係リンク集」の頁 あたりから探ってみれば、エスペラントが電網上でも既に十分に 機能していることが分かるであろう)。

 しかし、 「世界の言葉が一つになれば、便利だ」とか 「世界の言葉が一つになれば、言語差別は解決する」 といった考えたかは、私からすると 「人種間の混血が進んで人種が一つになれば、人種差別は解決する」 とか 「医学の進歩で障害者の障害を取り除くことができれば、 障害者の不幸はなくなる」 といった考え方と五十歩百歩だと思います。 言葉に限らず、差別や不平等の原因の一つは「多様性を許容しないこと」 だと思います。 「統一」や「同化」によって「多様性」自体を消滅させることは、 差別や不平等の本質的な解決だとは思いません (この辺の問題については「エスペラントへの疑問」の頁 「多様な民族が一つに融合することは理想だろうか」で論じた)。

 手話の場合、フランス手話(とほぼ同じである GESTUNO)が ドイツで、アメリカ手話やイギリス手話がアジア、アフリカのある国々で話されるようになり、既に「強国の手話への同化」が進行しているのかも知れません。 その「同化」を免れている国々が、今後それに便乗して自ら「同化」を受け入れたり、強国の手話を「国際」手話と認めて学習したのでは、「強国の言語が世界共通語になるのは当然」という言語帝国主義を是認してしまうことになります (現に英語という民族語が世界に蔓延してしまったことにより、現在、 英語母語者と英語非母語者の間には厳然とした不平等が存在します。 言葉のせいで不平等を被るのは肌の色や性別で不平等を被るのと同じく 立派な差別です。 「英語崇拝からの脱却」の頁)。 既に強国や旧宗主国の手話の影響を強く受けてしまっている国でも、自民族の文化 や価値観、特有の発想 を反映した、自民族特有の手話を独自に発展させて守っていってほしい と私は思います 。

 そのためには、GESTUNO のような強国の手話をそのまま「国際」手話として普及させるのではなく、エスペラントに相当するような、どの民族の手話でもない中立的な手話を作るといった方向性が模索されるべきだろうと思います。 勿論、手話の文法構成や語彙構成は音声・文字言語とは大きく異なっているので、エスペラントをそのまま手話化するというようなことは到底できないと思います。

 ただ例えば、「エスペラントがヨーロッパ語に似ているとはいっても、ヨーロッパ人にとっても学習しなければ使えない言葉である」という程度には、「GESTUNO に似ているけれども、フランス人やドイツ人も学習しなければ使えない」くらいに中立的な「国際手話」なら作れないものかとも思います (国際学院埼玉短期大学の卒論抄録の頁の 高木裕子氏の論文 「手話と諸外国」 でも、GESTUNO がヨーロッパ中心であることを問題とし、 万国共通の国際手話の必要性を示唆している)。

 何語を母語とする人からも、「覚えにくさ」ができるだけ等距離になるような人工語(人工手話)がつくられることが理想だと思います。 エスペラントは、いくつかの意味では確かにヨーロッパ語に近い (「エスペラントをより中立に」の頁) ですが、ヨーロッパ人でも学習しなければ習得することはできない程度には、その理想を実現し得ているのではないかと私は思います。 もし手話使用者の間で、このような中立な国際手話を作ろうという 運動があるとすれば、エスペランチストも暖かく応援することと思います。



 さて、前掲書 『世界の手話・入門編』(伊藤政雄・竹村茂著、廣済堂)の 一八七頁には、 「エスペラントが、結局はヨーロッパの言語を基にして成立しているのと同様に、GESTUNO もヨーロッパ中心であるという問題が残ります」 との記述があります。 前述の話とも重複しますが、これについても私の意見を書いておきます。

 エスペラントと GESTUNO とでは、その中立性において根本的な違いがあります。 エスペラントはいくつかの意味では確かにヨーロッパ語に似ていますが、ヨーロッパ人でも学習しなければ使えない言葉です。 理想論を言えば、ヨーロッパ語以外の多くの民族語の語彙や文法を反映した言葉を作るべきかも知れませんが、 現実論として、そのような言葉は作られていないし、仮に作ったとしても混沌として覚えにくく、現在のエスペラントのようには普及しないかも知れません。 つまり、理想はともかく、現実論としては、エスペラントは実現可能な中立性を満たしていると捉えることができます (この辺の問題については「エスペラントへの疑問」の頁 「エスペラントはヨーロッパ語に近いので、とても中立とは言えない」で論じた)。

 一方、GESTUNO はフランスやドイツの ろう(あ)者が、言わば手話の「母語」 (母手話?)として使っている言葉であり、中立性がないことは明らかです。 エスペラントから類推するなら、せめて「ヨーロッパの手話には似ているけれども、ヨーロッパの ろう(あ)者でも外国語手話として学習しなければ使えない」程度に中立的な人工手話なら「国際手話」と呼べると思います。

 しかし、フランスやドイツの ろう(あ)者が「母手話」としている GESTUNO を「国際手話」と呼ぶのは、英語母語者が「母語」としている「英語」を「国際語」と呼ぶのと同じ意味で矛盾しています。

続く


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