(後藤文彦の頁) (Retpaĝo de GOTOU Humihiko) (暴走しやすいシステムと暴走しにくいシステム)

ちょっと引っ掛がんな


(aferoj ŝajne strangaj)

注意

目次
煙草はウォークマンではない0000/6/15追記
「人々はノリに従ってるだけ」が種明かしでは? (02/2/14覚え書き)
これ見よがしな結婚指輪や婚約指
続く
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al la paĝo de GOTOU Humihiko


煙草はウォークマンではない

 私は煙草の匂いを極めて不快に感じる感覚を持っていますので、 当然、私自身は自ら煙草を吸ったりはしません。 それなのに、私は日常生活の中で、ある頻度でこの不快な匂いを嗅がせられています。

 私が一旦、私の部屋を出て公共の場へ入った途端、いつ誰が何処から私に あの臭い煙を吹きかけてくるか分かりません。 これは果たして仕方のないことなのでしょうか。

 例えば、一時間ごとにある薬を飲まなければ生命を維持できない病気の人が いて、その薬を飲むと強烈な体臭を発するのだとしても、それは仕方のないこと だと思うし、如何にその人が臭くとも公共の機関を利用する権利は保障される べきだと思います。

 あるいは、将来、ある宇宙人と地球人が交易するようになったとして、 その宇宙人が例えばウジ虫を大きくしたような気持ち悪い外見をしていて、 かつ強烈な体臭を放っていた としても、それは仕方のないことだと思うし、 その宇宙人が地球上の公共の機関を利用する権利は保障されるべきだと思います。

 しかし、喫煙者の場合、煙草を吸わなければ生命を維持できない訳でもなければ、 煙草が生まれながらに固有の生体組織の一部という訳でもありません。 喫煙とは、例えば「音楽を聴く」というのと同列の嗜好の一つに過ぎません。

 言うまでもなく、個々人が公共の場で自分の嗜好を満たそうとすると、 他人の迷惑になります。 例えば、何人かが公共の場にラジカセを持ってきて、大音量で各自の好きな 音楽を流したら、当然、周囲の人の迷惑になります。

 しかし、喫煙者のやっていることは、それと全く同じことです。 何故そんなことが黙認されているのか私には不思議でなりませんし、 実に腹が立ちます。 新幹線の禁煙車でない車両に入るや、むっと、あの臭い煙が立ちこめています。 赤ちゃんや子供がいることも気にせずに、食事をしている人がいる ことも気にせずに、スパスパと悪臭を吐き散らしている人がそこここに目に付きます。

 私からすると、この光景は、 車両内のそちこちで、ラジカセから、ストラビンスキーの春の祭典や キングクリムゾンのレッドや高橋竹山の津軽じょんがらや トルコ軍楽隊のチェッチンデデンやタイガーマスクのみなしごのバラードや 伊奈かっぺいの消しゴムで書いた落書きや新潮カセット安部公房講演や エクスプレス エスペラント語別売りカセットや 八橋検校の六段や黛俊郎の涅槃交響曲やクセナキスのヘルマや リゲティーのソプラノ、メゾソプラノ、二つの混声合唱と管弦楽のための レクイエムと……などなどが「同時に」大音量で流れているというのと 本質的に何も違わないと思います。

 勿論、他人に迷惑をかけないのなら、公共の場で自分の嗜好を満たしても 構わないとは思います。 例えばその意味では、ウォークマン型の音楽再生機は実に 画期的な発明だったと私は思います。

 しかし今日の原始的な喫煙方法は、未だにラジカセの域に留まっております。 もし、喫煙者たちが、個人の部屋の中だけでなく、どうしても公共の場で煙草を 吸いたいというのなら、せめてウォークマン型の煙管を開発すべきなのです。 例えば、外界との空気を遮断したヘルメット状の物を被って、その中で煙草を ふかし、そこで発生するあの悪臭は外部へは一切 漏れてこない というような喫煙器具を是非とも開発すべきです。 そうなれば私は何も文句を言いません。電車で隣の人が喫煙ヘルメットを 被っていても、 私がウォークマンを聞いているのと同じ個人の嗜好の問題だと理解するだけです。

 ところが現実はそうはなっていません。私も何とか反撃したいと思ってしまいます。 特に仕事上の出張で会議に出席したりした時に、 密室の中で煙草を吸われると、どうして仕事中に他人の嗜好のために こちらが我慢してまで 悪臭を嗅がされなければならないのかと無性に腹が立ちます (私の職場自体は運良く禁煙ですが、 毎日の職場が禁煙でない人の苦痛や怒りは、それどころでないだろうことを 察します) 。

 こういう人たちはよく、「いやあ、煙草を吸わないと頭が働かないもので」 などと吐かしますが、 それだったら、私だってニンニクの匂いを嗅がないと頭が働かないという ことにして、会議中にニンニクを下ろし金で下ろしながら、うちわでパタパタ あおいで、ニンニクの匂いを周囲に撒き散らしながら、 すーすーと吸い込みつつ 「いやあ、ニンニクを吸わないと頭が働かないもので」 とやる権利は当然ある筈です*。

* いや、ニンニクの匂いでは私自身も不快だし、 私が煙草から受ける不快感に比べれば 周囲の人もそれほど不快ではないかも知れない。 何か、もっと私だけが心地よく感じて、周囲の人が不快だと思う匂いはないもの か。あ、そう言えば、私は学生時代の化学実験の時に爆発させて体中に被った ニトロベンゼンの匂いは、 杏仁豆腐(シンレン豆腐)を牛乳寒で模造する際に匂いをつけるアーモンド油のような匂いがして 好きだったが、二 三日間 ニトロベンゼンの匂いを放っていた私を周囲の友人たちはとても迷惑がっていたので、 これは使えるかも知れない。 ニトロベンゼンを霧吹き付きの香水の瓶 に入れてきて、会議の折りに周囲の人が煙草をふかし始めたら、私もおもむろに ニトロベンゼン瓶を取り出し首筋や脇の下辺りに、これ見よがしに (これ嗅げよがしに?)しゅーっしゅーっと吹きかけ始める……。 いやー、いつかやってみたい。


覚え書き

よく見る不愉快な光景——その一(0000/6/15)

 車を運転していると、 前を運転している車の窓から煙草を指に挟んだ手が延びていて、 しきりに灰を道路に落としている。 それだけでも十分に不愉快なのに、もっと不愉快な思いをさせられるに違いない という確信とともにハラハラしながらその実に不愉快な光景を注視し続ける。 「ああ、そろそろ、やるなー、やるなー」と思って見ていると、案の定、 その吸い殻がポトンと道路に落とされる。 実に不愉快である。 車から降りていって、 その吸い殻を拾い、窓から車内に放り入れてやりたい衝動に駆られる。 しかし、 車の窓から煙草の吸い殻を平気で道路に捨てられるような人間はろくな人間ではない から(尤も 善良な市民が拳銃で脅されて窓から煙草を捨てるように指示されたという 可能性も皆無とは言えないが)、 そんなふうに煙草を窓から車内に放り入れられたことで改心する可能性は極めて 低く、恐らく「逆ギレ」して、こちらに暴力をふるってきたりするに違いない。 たかが、そんなろくでもない人間が改心する希少な可能性のために、 後半生を有意義に過ごさなければならない自分の貴重な生命を危険に曝すつもりは さらさらないから、不愉快を押し殺して傍観するしかない。 ああ、実に不愉快である。 私は暴力は嫌いであるが、 あの車の窓から捨てられた吸い殻を車内へと放り入れることだけのために、 北斗神拳を習得したいとすら思ってしまう。

0013/12/9追記 : 私は、秋田県秋田市に移り住んで10年以上になるが、 秋田では、「車の窓からタバコのポイ捨て」をほとんど見たことがない。 秋田の喫煙率自体は、決して低くないと思う。 宮城県仙台市に住んでいた頃は、記憶の捏造もあるかもしれないが、 仙台泉線で通勤していたときなど、ほとんど毎日のようにタバコのポイ捨てを 見てたような感覚がある。 もちろん、こういうことは個人的感覚に頼らずにちゃんと統計調査すべき ことではあるが(この10年の間に、仙台でも秋田でもポイ捨てする人が 減ったのかもしれないし)、仮に私の個人的感覚も少しは 現実のポイ捨て地域差を反映したものだとして、 もしかして、タバコのポイ捨ては、地域的「ノリ」の影響が大きかったり するのではないだろうか。 周りにタバコのポイ捨てをする人が、ありふれていて、 それが中学生の痰吐き的なかっこつけの示威行動としても機能すると 一部の母集団が思い込んでいる「ノリ」がある地域では、 タバコのポイ捨てが、そういう示威行動を取りたい母集団に再生産されてしまうとか。 一方、 タバコのポイ捨てをすると「あら、おかしい人だ」と思われる「ノリ」 の方が圧倒的に支配的な地域では、 反社会的方向性でかっこつけたい母集団にとっても、 タバコのポイ捨ては、 示威行動として採用する気にならないとか。 だとすると、タバコのポイ捨ての地域差(仮にあるとして)は、 次項の「人々はノリに従ってるだけ」を 支持する傍証にならないか。

関連記事:「女だから煙草を吸ってはいけないのか

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「人々はノリに従ってるだけ」が種明かしでは? (02/2/14、覚え書き)

ノリ: ある集団の構成員(と思われたい人)が、 その集団の構成員たちの共有する価値観を 自分も共有しているのだということを誇示するために、 その集団の構成員に特有の行動様式に倣おうとすること。

と取り敢えず定義しておく。

 普段 接している範囲では十分に親切で (少なくとも職場の床や廊下にゴミを捨てたりしない程度には) 善良と思われる人が、 歩きながらタバコを吸ったり、その吸い殻を何の躊躇いもなく、 路上に捨てたりする。

オヤジの痰吐き現象。そういえば、中学の時、隠れてタバコを吸ったり する連中とかなり重なる男の生徒たちが、小便器に痰を吐くのが 流行りだしていた。

大学に入って、驚いた二つのこと。 高校までの価値観/道徳心では、「普通の人はそういうことはしない」 と考えられていたカンニングと落書きが普通の人たちの間で横行している。

南京虐殺とかの強姦・虐殺自慢。 某医学部生の輪姦(やりコン)事件におけるビデオ撮影・輪姦自慢。 避妊方法を知らない訳はない教養のある人たちのできちゃった婚。

学生時代はさんざん授業をサボって遊びまくり、 不満があると我慢せずにすぐに文句を言って悪態をついていたような連中が、 社会人になった途端に 過剰な労働に従順に従うバリバリの企業戦士になってしまう。

……続く。

05/8/18覚え書き:

電車のなかのグローバリゼーション(上)」 によると、ドイツでは、男による女への痴漢がないんだそうだ。 ということは、痴漢は、文化で抑止可能なのか (自分の欲求を満たすために他人に危害を加える者を許容しない文化であれば、 別に「ロマンティク・ラブ・イデオロギー」である必要はないだろうが)。
少年犯罪データベース」を 見ると、ここ数十年で、 少年犯罪や女の幼児に対する強姦や児童虐待や赤ちゃん殺しが実は かなり減っていることが分かる (殺人件数自体も減ってきているはずだ)。 勿論、これは治安がよくなってきたということもあるだろうけど、 殺人や強姦を社会的・文化的に許容しない程度が厳しくなってきた (そういうノリが醸成されてきた)という こともあるのではないだろうか。

関連:あおり運転

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これ見よがしな?結婚指輪とか婚約指輪

 私が指輪の嵌め方に特別な意味があることを知らされたのは、大学四年の 頃だったでしょうか。しかもその時は、不正確に理解していました。 ある友人が「右手の薬指に指輪をするのは恋人がいるという意味なのだ」 と親切にも教えてくれたので、私はてっきり、 「んだごって、左手の薬指さ指輪すんのは恋人 いねっつうごどなんだな」 と、しばらく思っておりました(まあ、それで特に不便や失敗を被ったことも ないのですが)。

 その後、もう少し「常識」のある友人に確認したところによると、 どうやら「婚約した人や結婚した人が、左手の薬指に婚約指輪や結婚指輪を 嵌める」 ということのようですね(まだ違っているだろうか?)。

 そこで私に引っ掛かるのは、この「左手の薬指に指輪があるかないか」 が、「既婚者か独身者か」または「恋仲の相手がいる人かいない人か」を 識別する一つの指標として利用されているらしいということなのです。

 確かに世界の様々な民族の風習の中には、既婚者になると髪型や服装や敬称を 変える習慣が多々あります(それも女だけに、それを強いる場合が多いのでは ないかとも思うが)。 しかし、私の価値観では、「結婚しているかどうか」とか「恋仲の相手がいるか どうか」といった極めて個人的な情報(いわゆるプライベートなこと)を 常時、不特定多数の公衆の前に晒し続けることが、どうも不自然なことに思えて なりません。 例えば、「子供を産んだら子供の数だけ指輪を嵌める」とか「定職に就いたら 指輪を嵌める」とか「成人になったら指輪を嵌める」とか更には 「異性愛の女は左手の小指に、同性愛の女は左手の薬指に、 異性愛の男は右手の小指に、同性愛の男は右手の薬指に指輪を嵌める」 といった風習があったとして、 それを見ながら、「お宅の子供さんは四人ですかあ」のような話のきっかけに 利用したり、就職斡旋に利用したり、「私はオトナなんだ」と見せびらかす?のに 利用したり、 自分の性的志向を満たす相手を捜すのに利用したりといった状況になったら、 色々と問題があると思うのです。

 つまり、こういう風習が定着すると、人を判断する際に、 「子供が?人いる人/いない人」「定職のある人/ない人」「オトナ/こども」 「異/同性愛の女/男」といったレッテルを通して見る習慣が生まれ、 また、そのレッテルに「ふさわしい」「社会的」「役割」を決めつける風潮が生まれたりして、 色々な差別にも繋がりやすいというようなことです。

 それから、もう一つ私には引っ掛かる点があります。例えば、自分の子供が可愛くてしょうがない人が、子供の写真を額に入れて常に 首からぶら下げていたとしましょう。 その人に「子供がいるかどうか」とか「その子供が可愛いかどうか」などに興味のない 周囲の人々にとって、その人と話をする際に常にその人の子供の写真を半強制的に 見せられ続けることは心地よいことではないでしょう。 特に子供が欲しくても色々な事情で子供が持てない人とかにとっては、 これ見よがしに「可愛い」子供の写真を見せつけられることは実に苦痛であるかも 知れません。 あるいはこういう例の方が分かりやすいでしょうか。 自分の愛する人と緊密に抱き合って更には口づけし合っているような写真を額縁に 入れて 常に首からぶら下げて見せびらかしてる人がいたとしましょう。一方、 恋人がいない孤独に堪え続けている人が、その苦痛を少しでも忘れていられるように なるべく恋愛に関することを意識裡に思い浮かべないように努めていたとして、 二十四時間営業の雑貨屋で即席麺と麦酒を買って、代金を払おうとして、ふと、 店員の胸の額縁の中に、 緊密に抱き合った二人の写真をこれ見よがしに見せつけられたら、 一体どんなふうに思うでしょうか。

 んー、この辺の感覚は分がる人さしか分がんねべがら、今は こいなどごでやめでおぐべが......そのうぢまだ気い向いだら 続ぎ書っか知ゃねげっと

続く。


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