私は、ここ数年の間に、引っ越したり、結婚したり、転勤したりと色々とあって、 本来ならば、そうした近況は、 友人や知人の多くにちゃんと葉書などで報告しておくべきことなのでしょうが、 私はどうしようもない筆無精なので、 友人や知人の多くにそういう近況を報告もせずに不義理を重ねてしまっております。 数年前、 一部の友人とは毎日のように 電便のやりとりをしていた私は、 もっともっと友人や知人の多くが電便を使うようになってさえくれれば、 いちいち手紙や葉書を書かなくても電便で気軽にやりとりができるようになり、 筆無精の私も不義理を重ねるようなことはなくなるのにと自分に筆無精の 言い訳をしていたのですが、その後、瞬く間に電便利用者が増え、 いざ、友人や知人の多くが電便を使うようになってすら、 私は相変わらず不義理を重ね続けているのです。 それでいながら私は、 自分の関心のある話題(言葉、性役割、疑似科学、音楽など)についての 込み入った議論なんかは、(そういう話題を共有できる内輪の)友人たちと 頻りに電便でやりとりしているのです(忙しい時でも)。 つまり私の「筆無精」というのは、 紙に手で字を書いたり、それを封筒に入れて住所を書いて切手を貼って、 郵便ポストに出しに行ったりということが億劫なだけには留まらず、 そもそも 「ごぶさたしている相手に、特に話題がなくても適当な時期に 適当な挨拶文を考えて近況などを報告して常に連絡を保っておく」 ということ自体を億劫に感じてしまう、言わば「挨拶無精」なのだと思います。 電便という(手紙や葉書よりは格段に)手軽で便利なものがあってすら この様なのですから、なんとも情けない話で、不義理を重ねてしまっている 友人や知人の皆様には申し訳ない限りです。 昔の人は(今の人も?)、 引っ越したり、転勤したり、結婚したり、子供が生まれたり、身内が死んだり した折に、あるいは季節の変わり目や年の変わり目に、よく数百枚もの 挨拶状などを出したりしていた/いるものだなあとつくづく感心します。 ところで、 就職の世話をしてくれた人に転勤したことを伝えるとか、 縁談の世話をしてくれた人に結婚したことを伝えるとか、 自分のために何かの世話をしてくれた人にその後の 顛末を報告するといったことは、 私も是非やるべきだと思うので、 そういうことに関しては私もちゃんと連絡をするように努めたいと思うものの、 一方で、 特にそういう世話を受けたとかの関係のない不特定の友人・知人に対して、 転勤したとか、結婚したとか、子供が生まれたとか、身内が死んだとか、 そんな私事をいちいち報告する必要なんて必ずしもないような気もするのです。 というか、そういう私的な日常の話題を共有しているぐらいに近しい友人・知人なら、 改めて報告するまでもなく、 そういう私的な日常の話題は普段のつきあいの中で自然に共有されているだろうから、 そんなことをわざわざ報告しなければならないような友人・知人というのは、 その意味では、所詮そういう私的な日常の話題を共有していない程度に、 近しくないということになるのだと思います。 そういう意味では、 事あるごとに律儀に数百枚もの挨拶状を出している人というのは、 言わば、そういう私的な日常の話題を共有していない程度に近しくない 数百人の友人・知人と 一定の近しさを保ち、疎遠にならないようにする上での (世間的に常識視されている)手段として、 そういう私的な日常の話題を挨拶状の「ネタに」しているということなの かも知れません。 私の場合、今のところ、こんなふうに (私的な日常を共有するぐらいに近しい友人・知人を除く) 人間関係をやや粗末にしていても、 取り敢えず、生活ができているので、こんな暢気なことが言えているのかも 知れません。 いずれ、 私的な日常の話題を共有しない程度に近しくない友人・知人たちとの 人間関係を粗末にしていたことを深く後悔する日が訪れるのかも知れません。 しかし、当面、私の挨拶無精はこのまましばらくは続きそうです。 実は最近、そんな挨拶無精の私を勇気づける (開き直らせる?)電便を何通か戴きました。 昔、それなりにつきあいがあったものの、ここ数年〜十年以上やりとりの なかった複数の友人・知人から、 たまたま電網上で私の頁を見つけて、なつかしくなったという 電便をもらったのです。 勿論、その電便をもらった後で、またやりとりが再開した友人・知人もいれば、 その一回切りの友人・知人もいるのですが、 こんなふうに、 お互いに挨拶をしないままに疎遠になってしまった友人・知人が、 電網上で相手を(検索して)見つけて連絡を取れるというのは、 挨拶無精の私にとっては、なかなか画期的なことのようにも思えてしまいます (実は、私も疎遠になってしまって連絡の取れなくなった友人の名前を ときどき思い出したように電網上で検索することがあります。 本人を特定できるような形で、電網上に本名を書き散らしている人は なかなかいませんが)。 まあ、特定の個人の連絡先(電便)を電話帳のように電網上で検索できるように なることは、挨拶無精の私みたいな人間にとっては一面では非常に便利ですが、 同時にそれはスパム その他に確実に悪用もされるだろうから、 何かうまい仕組みを考える必要はあるだろうとは思います(念のため)。 という訳で、例によって、 まるで本質的な解決でも建設的な提案でもないですが、 「後藤文彦+石巻」とか、 あるいは更に細かく 「後藤文彦+石巻小学校」とか の鍵語で検索してみた人が、 私の頁を見つけられるように、 その手の鍵語をいくつか増やしておこうかと、ふと思ったという次第です ( 山城町教会 幼児グループ とか、 ようぶこうえん とか、 護国館 石巻市 とか、 鰐陵同窓会 とか……)。
先日、ちょっとしたきっかけで facebookなるものに登録してみたのだが、 その本来の使い方とか、目的については、未だによくわかっていない。 仕組みも今ひとつわかっていないのだが、 サーバー上にあるメールログ内のメールアドレスとかを手がかりにして、 知人の可能性のある人を検索してくれたりするようだ。 で、現にしばらく交流の途絶えていた知人とかを見つけたり、見つけられたりできて いるので、それなりに強力な知人検索能力のあるシステムなんだろうなと 思う。 で、それを利用して「友達を増やしていこう!」ってな方向のノリは、 ちょっと気持ち悪いかなあと思うところもあるものの、 これは、挨拶不精の私が、こんなのできたらいいなあと思っていた ネット電話帳に近いような気もする。 私みたいに、ネット上でさんざん書き散らしている人の場合は、 同級生とかに検索で見つけてほしければ、 自分のページ内に 自分の本名とともに「石巻小学校」だの「石巻中学校」だのの鍵語を 書き込んで、その手の話題をいっぱい書き込んでおけばいいかも しれないけど (実際、それはそれでそれなりに機能しているようだが)、 ネット上に実名をさらして色々と書き散らすような嗜好を持たない人の場合、 なかなか安全にネット上で見つけてもらう方法はなかったから、 facebookは、そういう需要にそれなりに応えてくれるものには なるのかも知れない。
と思って、「基本データ」なる自己紹介欄に、 何を書こうかなあと思って眺めてみると、 自分の好きな音楽だの本だの映画だのを紹介できるようになっているようで、 これってまるで、 かつての私がサークル名簿に書き散らしていたような 恥ずかしい自己紹介のノリそのものじゃないだろうか (そっち系?に興味のある人は、こちら)。 当時の私としては、自分の読書傾向や音楽、映画の好みなどをサークル名簿に さらすことで、自分と話の合う仲間を見つけるきっかけになるかもしれない ぐらいに思っていたものだが、 まあ、せいぜい数十人規模の読者からなるサークル集団にそんなものを さらしたところで、 大して機能するものでもなかった。 facebookは、登録者母集団が巨大だから、 かつての私がサークル名簿に期待したような、 自分と趣味の話の合いそうな相手を見つけるといった 目的も、それなりに機能するのかも知れない。
なんか、なつかしいような恥ずかしいような気分だが、 私は今さらfacebookで趣味友達を広げていきたいとは、 あんまり思っていない。 私はこの「後藤文彦の頁」上で、 自分の趣味や思想について、 facebookの「基本データ」に書き込める程度の情報よりも ずっと濃厚に(ものによっては生々しく)書き散らしているので、 私の感性や考え方に共感するような人に私を見つけてほしいという意味では、 何もfacebookに頼る必要もない。 ただ、あのサークル名簿的なノリには、恥ずかしいような懐かしさを覚えるので、 そのノリで、趣味とかついつい入れてしまう誘惑に負けてしまった。
ところで、私は、自分がfacebookを利用する用途を、 ある程度は限定しておこうかなと思っている。 要は、私的なつきあいを主として、 仕事上のつきあいはあまり積極的に取り込まないでおこうかなと。 私はプロバイダーのウェブ領域上にある 「後藤文彦の頁」には、趣味的なことや、 思想的なこと、 私的なことなどを書き込んでいるが、 一方、 職場のウェブサイト上には、 仕事上で関係のある人(直接的には、私が担当している学生たちとか、 間接的には、大学関係者とか、似たようなことをやっている人たち)に 読んでほしい文書 (コンピューター関係の技術的な話とか、プレゼンの話とか)を書いている。 仕事に関係する話題に関しては、やや思想的な主張も書いていて、 そういう部分には、共通する話題について論じている 「後藤文彦の頁」内から 職場のページの方に ときどきリンクを張っているが、その逆はしていない。 私と私の仕事上でしか関係のない人 (例えば私の授業を受けている学生とか)が、 単に私の授業資料をダウンロードしようとして私のサイト内をうろうろしている うちに、いきなり濃厚な私の私的な吐露のページに迷い込んだりさせられるのは、 ちょっとあれかなあと。 つまり、 私の職務上のサービスを求めてきただけの人に対して、 私の側から私の私的な情報にアクセスすることを 不必要に誘導してはちょっと問題があるということ。 もちろん、私の職務上のサービスを受ける側の人でも、 私の私的な面についても(覗き趣味的にであれ)もっと知りたいと 思った上で、 「後藤文彦の頁」を 検索して見つけるぶんには構わないんだけど。 公開しているページな訳だし。
というような訳で、 過去の同級生や友人・知人を発掘したり・されたりする用途と、 エスペランティストたちとそれなりにゆるくつながっている用途を facebookの当面の利用目的にしておこうかなあと。 だって、 私に成績評価をされる学生とか、私と非対等な利害関係にある人と facebookの友達になるとかいうのは、 色々と問題がありそうに感じる。 とはいえ、 学生とメールとか 職場のウェブサイト上 のウィキツールなどでやりとりすることは、 特に問題があるとは感じないので程度の問題ではあるのだが、 facebookの場合、単なる職務サービス上のやりとりではなく、 お互いの私的な趣味や嗜好をさらし合いながら、 交流するという側面に違いがあるように感じる。 もちろん、facebookを研究室運営や研究室の卒業生交流に 適した形態に特化させることもできるし、 そういう用途としても重宝するシステムなのかも知れないが、 一人で複数のアカウントを別目的に運用したりすることは 認められていないようなので、 私としては、仕事関係のことは職場のウェブサイトを利用することとして、 facebookでは、私的な用途を優先させたい。 まあ、 それなりに親しくしている卒業生だったらどうかとか、 その卒業生が現役の学生たちとfacebook内で友達になってたらどうかとか、 業種の近い友達とか、 仕事関係の親しい人とか、 色々と微妙なところはある。 だから、すっきりさせるためにfacebookはやめることも念頭に置いて、 少しずつfacebookをいじりながら、もう少し様子を見たい。
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